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これまで経験したことのない厳しい急坂を休み休み登り、這うようにして山頂に到着・・・。上の画像は、鹿嵐山の雄岳山頂より、左上に映る「八面山」から周防灘方面を撮影したものである。手前の峻厳な山々や露出した奇岩巨石群は、新日本三景の一つ「耶馬溪(やばけい)」の景観だ。上の画像は、「稲積山」や「和尚山」を含む山並みから、国東半島方面を映したものである。天気は午後から多少曇り始めたのだが、山頂からの展望はとても美しい景観であった。そして、山頂にある一等三角点の石標と、山名が書かれた看板を映した画像が上である。その後、双耳峰のもう一方の頂となる雌岳にも登拝し、充実感のなか急峻な山道を下山した。最後の画像は、麓の駐車場にあった「鹿嵐山」の解説が書かれた石碑を映したものだ。この文面を読んでいると、「法蓮和尚」の伝承を今も守る地元有志の熱い想いが伝わってくるのであった。
2016年11月27日

2016年11月23日(勤労感謝の日)、満を持して豊前の「鹿嵐山」(宇佐市院内)に登拝する。奇岩巨岩の絶景で有名な山とされており、「万里の長城」とも称される細長い岩稜の尾根道を、恐る恐る歩きながら映したものが、上から三枚の画像である。実は当日の朝、同山に向かう道中で本格的な雨模様となり、もう少しで登山を諦めるところだったが、不思議にも山麓の駐車場に着く頃には止んでいた。そして岩稜の尾根道に差し掛かる頃には、有り難いことに雨上がりの陽光が差し込んできて、画像のように奇岩巨石に薄霞がかかり、幽玄なる仙郷の素晴らしい景色を満喫することができた。画像に映る奇岩巨石のなかでも、上の画像では左側手前にある、そそり立つ巨大な岩柱に強く惹かれた。さて日本版「万里の長城」を越えて、いよいよ双耳峰「鹿嵐山」は雄岳(下の画像)への登拝である。
2016年11月27日

本日掲載した三枚の画像は、2016年10月10日、かねてよりの念願であった豊後富士「由布岳」に登拝した際に、その山上から「鹿嵐山」及びその方面を撮影したものである。さて、前回の日記でも取り上げた「法蓮和尚」について知ったのは、中津市の八面山に登る際に「和与石」という巨石に遭遇し、その近くに立てかけてあった解説版を読んだ時が初めてであり、また「法蓮和尚」の存在を再認識したのは「和尚山」に登る際に、その山名の由来を確認した時であった。そこで前回の日記でも書いた、宇佐神宮の創建や東大寺の大仏造立に貢献された「法蓮和尚」の功績に関してだが、それがこれまで日本の歴史をそれなりに学んできたつもりだった私の記憶に無かったのは、ただ単なる勉強不足というよりも、いわゆる西暦645年の「大化の改新」による蘇我氏の衰退に伴い、その「対抗勢力」による意図的かつ執拗な「封印」があったと考える方が妥当であろう。ここで改めて、その「法蓮和尚」の実績に関して分かりやすく記された内容を、次に紹介するサイトから以下に引用しておきたい。☆宇佐氏考・・・http://ek1010.sakura.ne.jp/1234-7-32.html「続日本紀」で宇佐氏に関係して、最初に出てくる人物に僧「法蓮」がいる。宇佐氏の氏寺「虚空蔵寺」の開祖、また宇佐八幡宮 神宮寺の初代別当とされた人物。宇佐君の姓を賜ったとされているのだが、なぜか宇佐系図には載っていない。そして、宇佐公武雄の別名説もあるが、武雄の孫という説もある。生没年不詳であるが、実在の人物と考えられている。その生涯は謎の部分も多いが、豊国地域に古くからあった渡来系の山岳修験仏教・道教を若い時に身につけ、太宰府などの支援もあって大和飛鳥で遣唐僧「道昭」から法相宗を修学し官僧となっている。豊国に帰国後、宇佐地方の仏教普及のリーダーとして活躍、多くの寺院を開いたとされている。この人物が辛島氏・大神氏・宇佐氏の一種のまとめ役的存在となり、八幡宮の誕生の時から既に仏教的因子をその宮の中に導入していた。720年の隼人反乱に縁をもつ殺生を禁じる目的で行われる放生会は、本来は仏教儀式であるが八幡宮の重要な儀式となった。神宮寺・比売神宮寺などにも法蓮が大きく影響を与え、宇佐地方を弥勒信仰の一大拠点としたとされる。これが後年、最澄・空海の興味を非常にひいたのである。仏教立国を目指した聖武天皇は、この八幡宮に異常なまでの関心を示した。東大寺建立・大仏造立に関係して八幡宮の神託が果たした役割は大きい。これにより全国に展開することになった国分寺の総て、に守護神として八幡宮を分祀することになるのである。また平安時代に入り「八幡大菩薩」という神と仏の合体した神名が朝廷より贈られた。空海もまた八幡神を崇敬し、守護神として自分の関係する寺院に次々祀った。(※以上、引用分・加筆校正あり)そしてこの度、初めて「鹿嵐山」を登拝するにあたり、この御山を終の棲家とした「法蓮和尚」に関して、ネット検索等で調べ走り書きしたメモを、以下に記しておきたい。・英彦山は、豊前・豊後・筑前の国境の山で、原始時代から崇拝されており、後に修験道の信仰の霊山となる。日本における山岳宗教「修験道」の系譜は、英彦山に始まる。・法蓮は英彦山で修行を行い、宇佐や国東の山々で修行を行っている。豊国・八幡神の社会では、古くは弥勒信仰が濃厚であったとみえる。・英彦山では、山そのものを弥勒の住まう「兜率天(とそつてん)」とされ、英彦山の窟(岩穴)で修行した法蓮を「弥勒の化身」としている。(「宇佐託宣集」に記載)・法蓮の「嫡子」たる空海は、高野山を弥勒が兜率天へ上生するための聖地とした。しかし後には高野山そのものが兜率天に擬せられ、空海も弥勒の化身とされていく。これは英彦山が兜率天とされ、法蓮が弥勒の化身とされたのと同じ。・こうしてみると空海の密教とは、自力の虚空蔵信仰と他力の弥勒信仰から成るものだったことが分かる。・法蓮は香春山で修行したというが、山中には「医術」で例えば「龍骨」という薬となる石灰岩があった。文武天皇に名医として報奨された法蓮には、道教の練丹術つながる石薬術があった。これが豊前の「巫医」や「法医」たちの秘密の一つだろう。・法蓮は宇佐の地で鎮護国家、新たな神仏習合の八幡神に関わり、その象徴が巨大な大仏として具現化した。・鹿嵐山は、宇佐神宮の設立に深く関わった法蓮が修行し入寂した御山と伝わる。上の画像は、同じく「由布岳」の山頂から「鹿嵐山」を含む大展望を映したものだ。向かって左側より、英彦山・犬ヶ岳・求菩堤山と連なるように見え、そして鹿嵐山・八面山・稲積山・和尚山・御許山と見渡すことができる。つまりこの展望は、「英彦山」を中心に「法蓮和尚」が修行した山々を一望できる視野ということになろう。上の記事に修験道では「英彦山」を弥勒の住まう「兜率天」に見立てたとあるが、実際に由布岳山頂より上の画像に映る山々を展望した記憶を辿りつつ思い出したのは・・・「兜率天」の本質を天体の「ぎょしゃ座(馭者座)」と視る捉え方がある・・・ということであった。◎参考文献・・・書名『 かいま見た闇の世界 』 榊 晶一郎 著作・大洋出版社(2006)初版つまり、その捉え方を参考にすると、「兜率天」に住まう「弥勒」とは、「ぎょしゃ座」の一等星「カペラ」となる。ここで、冬空に輝く天空の星々を、「弥勒が乗る見えない船」が寄港する数々の島だとして、さらに想像の翼を羽ばたかせてみよう。ではまず「弥勒の上生」とは、地上で修業中の「弥勒」が菩薩の段階から船に乗り、まず南南東の水平線より昇る天体「シリウス」という島に寄港、そしてオリオン座や牡牛座の星々(島々)を経由して「兜率天」たる「ぎょしゃ座」の星域(海域)に至り、いよいよ天頂近くに燦然と輝く「カペラ」に到着、「弥勒」は菩薩界での36段階の修行を経て、いよいよ悟りの境地に達し「弥勒如来」となる・・・。そして「弥勒の下生」とは、「ぎょしゃ座(兜率天)」の一等星「カペラ(如来の御座所)」において、「釈迦如来」と同じく悟りの境地にある「弥勒如来」が船に乗り、上生とは逆ルートとなる牡牛座やオリオン座の星々(島々)を経由し、下界に向かう最後の寄港地となる「シリウス」という島を経て地上に降り、衆生済度の法を説く・・・。上記の内容に興味を持たれた方は、もう少し踏み込んだ解釈を自分なりに試みることで、もしかすると更なる深遠さに触れることになるかもしれない。「冬の星座」の中で、天頂に一番近く輝いている「ぎょしゃ座」の一等星「カペラ」、そして同じく「冬の星座」の中で、地上に一番近い星とみなされてきた「おおいぬ座」の一等星「シリウス」があった。その「冬の星座」が広がる範囲において、いわば両端に輝く高低二つの一等星をめぐり、おそらくは世界各地で様々な星座(神話)物語が編まれてきたことであろう。そういえば、聖武天皇が東大寺の大仏を建立するに当たり、「冬の星座」を往時の日本地図に投影し、「カペラ」の投影地となる「宇佐神宮」を筆頭として、全国の天神地祇を率い大仏造立を実現させたことが知られるが、その一大国家プロジェクトとなった構想の背景には「法蓮和尚」の多大なる貢献があったと思われる。☆関連記事・・・「春の旅」の締め括り(上)☆関連記事・・・「春の旅」の締め括り(中)☆関連記事・・・「春の旅」の締め括り(下)時代は今、これまでの宗教時代のように、いわば「如来」の域に達した救世主(カリスマ)タイプの人間が凡夫である衆生を説法して導くというより、一般大衆(国民)の一人ひとりが真実に目覚めつつある人々と交流し、情報交換を楽しみながら自ずと覚醒していく季節だと思われる。その一人ひとりが「如来(覚醒)」の境地に至る《手懸り》となるのが、おそらく「天体」と「自分」との、本来の密接な関係を取り戻すことにあるのではあるまいか・・・。「大宇宙」たる天空の星々(月・日・地球も含む)と「小宇宙」たる自分一人の心身が、常に一体(ひとつ)となって響き合い律動しているという感覚を取り戻せる時期ではないか・・・。今の私は「時代の要請」を、そのように感じている。
2016年11月26日

2016年10月9日の夕刻、安心院の高台にある展望所より「鹿嵐山(かならせやま)」を撮影した画像が上だ。鹿嵐山は雄岳(標高 758m)と雌岳(標高 730m)からなる双耳峰で、宇佐市院内と中津市耶馬溪町との境にある。この双耳峰を展望所より確認した時、前回の日記に掲載した画像の、心に焼きついていた美しい風情が思い出され、下の画像にある展望図から山の名称が「鹿嵐山」だと、そこで初めて確認できたのであった。そして画像のように、その双耳峰の鞍部に光が当たるという、奇しき風情を映すことができたのである。実はその「鹿嵐山」という山名を知る少し前に、冒頭画像の陽光が照らす鹿嵐山の鞍部には、宇佐神宮の神宮寺「弥勒寺」の初代別当を務めた「法蓮(ほうれん)」の仮の庵があり、また法蓮和尚は同山で修行し入寂されたとの伝承を知ることに・・・。・・・などと、想いを巡らせつつ前回日記の画像や本日の冒頭画像を見ていると・・・《 かの宇佐神宮の創建や東大寺の大仏造立に尽力し貢献された「法蓮和尚」は、ここを終の棲家にされたのです 》・・・と、まるで太陽が教えてくれたかのような不思議な感覚になるのであった。その法蓮和尚に想いを馳せると自ずと思い出されるのが、その法蓮が修行した御山という謂れで命名されたと伝わる「和尚山(かしょうざん/標高 327m )」である。そこで下の画像は、かつて和尚山に登った時に、山上から遠方に見える由布岳(右側)と鶴見岳(左側)の、その思わず心を奪われてしまう素敵な景色を撮影したものだ。興味深いことに、この和尚山と上の画像の展望所、そして由布岳と鶴見岳の鞍部は、ほぼ三点一直線の関係にあり、和尚山から見たその軸線の方位は、真南から東に約20°の「シリウス方位」となっている。先学の諸研究によれば、蘇我氏の活躍した時代に興隆した「弥勒信仰」は、冬至の頃に天体のシリウスが昇る方位を特別に神聖視していたとされ、例えば奈良では斑鳩の法隆寺と飛鳥の橘寺を結ぶ「太子道(たいしみち)」は現在も町道70号線として活用されており、上記の「シリウス方位」を示しているとのことである。 おそらく豊前地域における弥勒信仰の一大拠点であった宇佐神宮境内の「弥勒寺(本尊 弥勒如来)」(725年建立)の初代別当「法蓮和尚」は、年毎の冬至の夜には和尚山の山上にて、真南より20°東の方位となる由布岳と鶴見岳の鞍部から昇るシリウスを、弟子たちと真正面から拝していたことであろう。・・・この素晴らしいロケーションを背景に昇ってくる夜の太陽たる「シリウス」は、さぞかし光り輝いて神々しく見えたに違いあるまい・・・
2016年11月25日

それは、今から3年以上前の2013年4月1日、夕刻の出来事であった。大分県の安心院(あじむ)を周遊して、最後に訪れたのが当地に鎮座する妻垣(つまがき)神社。参拝の後、背後の神体山(妻垣山)の中腹にある奥宮巨石(ご神体の磐座)を拝し、その山頂(標高241m)に登ったことがあった。そして、停めていた神社横にある広い敷地の駐車場に戻った時に見た光景が、冒頭の画像である。撮影時には、まさか沈みゆく太陽が、画像中央の双耳峰(1つの山の頂上部に2つのピークを持つ山)に関わるとは思わなかった。けれども・・・もしかすると・・・とも思いつつ高台の駐車場から車で降りてきて、ちょうど麓にある神社の鳥居前を通りかかった時に、その双耳峰の真ん中に太陽が降りていく荘厳な景色に遭遇!!!すぐさま車から降りてカメラのシャッターを切り、その感動の瞬間を映した画像が上だ。それはまるで、社殿の中央に据えられた「御鏡」の、その原型を彷彿とさせる風情である。しかし当時はまだ、この双耳峰の山名を知らず、また知りたいという意欲もなかった・・・。そして時は経て、いよいよこの山名を「鹿嵐山(かならせやま)」と知ることになったのは、奇しくも先月の「由布岳」に登る前日となる、10月9日の夕刻であった。
2016年11月24日

今回の尾鈴山登山について当初は、体力的なこともあったため、登った道をそのまま下山することも考えていた。しかし登頂後も体調が良好なので、少し足を伸ばして左廻りの周遊コースを歩くことにした。そこで思い出したのが、コース上の地図に「巨石群」と書かれていたこと。それからは期待を胸に、野を越え山を越えて小1時間、いよいよ噂の巨石群が前方に現れてきた景色を映した画像が冒頭である。上の画像は、「メインとなる磐座群」の前方下部にあって、言わばメインを護る「前方守護施設」のような磐座を映したものである。その下方の石組みは懐も深く形成されており、なかなかの貫禄を示していた。そして上記の、私なりに感じる「メインとなる磐座群」を下方から映した画像が上である。この山稜のピークに存在する磐座は、画像のように三体から成り、その素晴らしい「こしらえ」は、今まで見てきた磐座の中でも群を抜いていた。その三体の磐座が醸し出す景観に圧倒され、しばらく息を飲んで見つめていたのだが、フト時計を見やると【12:00】ジャスト! すると何故か・・・この度の「尾鈴山」への登山は、この「巨石群」に出会うことが目的だった・・・と閃くのであった。その「メインとなる磐座群」の三体の巨石の内、向かって左側にある先端が鋭く尖った存在感あふれる磐座を映した画像が上である。この磐座の根は意外と深そうで、地上に現れた倍ぐらいの岩肌が反対側に露出しており、その美しくも異様な形態は人為的に整形したと観るほうが、むしろ自然だと言えよう。その巨石群のメインと思われた三体の磐座を越えて、すぐ降りたところにあった巨大磐座が上の画像である。扁平の六面体形状になるよう意図的に加工されたであろう巨石が、ある方向を示すかのように突き出た特異な配置となっている。私なりの感覚からすると、先に紹介した磐座が「前方守護施設」だとすれば、この巨大磐座はメインを護る「後方守護施設」だと言えよう。この「巨石群」を経てからは、緩やかな上下の起伏に富んだ尾根道を歩き、長崎尾(標高1374m)のピークを越えての分岐からは、下山ルートをひたすら降りていくことに・・・。その下山の過程において、フト山道の左側が開けたと思って目をやると、そこに三角形状の磐座があったので、そのピラミッドのような岩石を映した画像が下である。この威容な磐座は、そこから急斜面となる北面の崖っ淵に、遠方からも確認できる目印のように置かれていた。これを観た私なりの推測は、古代人がその岩石に意図的に加工を施したであろう傾斜の雰囲気から、当時の北極星を観測する装置だと読み取れた。この磐座の撮影を最後にカメラは電池切れとなり、下山道の最終地点で魅せられた、これぞ!「ザ・紅葉」の素敵な景観が撮れなかったのは残念だが、約8時間となった山歩きは、実に清々しい経験であった。
2016年11月20日

前回の日記では、結果的に九州の「中央構造線」に纏わる東西帯域を取り上げることになった。そして、この九州の東西帯域を二分すると思われる南北軸を、これまで自分なりに数本見出してきた経緯があるのだが、その主軸となる南北軸こそ、これまでの日記で何度か取り上げてきた「山口と九州を貫く南北軸」だと認識している。☆関連記事・・・由布岳(豊後富士)を展望しつつ・・・その「冬の南北軸」とも称してきた「山口と九州を貫く南北軸」に沿うように存在する目星の山として、昨年の10月12日には「祖母山(標高 1,757m)」に、そして今年の10月10日には「由布岳(標高1,583m)」に登ってきた。その南北軸に沿う上記の二つの山以外に、実は私の中で残されたもう一つの山があって、それは宮崎県都農町と木城町にまたがる「尾鈴山(標高1405m)」であった。そして、いよいよ今月の11月13日に、日向は「尾鈴山」の登山日が訪れた。そこで冒頭の画像は、甘茶谷登山口の近くにある「甘茶滝」を映したものだ。深いエメラルドグリーンの滝壺に癒されて、当日は午前7時過ぎに登山開始となった。山頂に向かう山道は、なかなかの急坂ではあったが、ゆっくりと休み休み登れたので、昨夜の高速を使った300km越えの走行距離となった運転の疲れも、それほど気にならなかった。上の画像は、山道の三合目辺りにあった磐座を映したもので、その見事にカッティングされた鋭角の方向は真東を示していた。その前方(東方)の下方にも、加工された形跡のある大岩が並んでいたので、しばらくその周囲を散策でき楽しかった。そして五合目付近で出会った、伸び伸びと成長する樹木に抱きついて、しばらくの休憩。相性も良く大いに癒され、エネルギーを存分にチャージして次なる一歩を踏み出せた。そして山頂に近い九合目の展望所より、東方の山々と日向灘の方面を映したものが上である。上空には雲が降りてきて全体的に薄霞と、展望は今ひとつだったのだが、周囲の素晴らしい秋景色を堪能しつつ早めの昼食タイム。時計を見ると午前10時を回っており、ということは普通の足で90分のところを、倍の三時間かけて登ってきたことになるが、「ひもろぎ(聖なる樹木)」と「いわさか(聖なる岩石)」と戯れる時間が取れたので、私としては大満足であった。そして、ようやく山頂に到着。上の画像は一等三角点の石標とともに、掲げられた山頂表記の看板を撮影したものである。かなり広い山頂部には周囲の展望がなかったが、のんびり・ゆったりと過ごせる感じが良かった。そこで尾鈴山の山頂に立ち、思わず私は北方に向かって・・・高千穂・祖母山・竹田・由布岳・宇佐・山口・萩・・・と、想いを馳せるのであった。そして南方に向かっても同様に・・・。そうか・・・山口と九州を貫く「冬の南北軸」と、九州の「中央構造線」に纏わる東西帯域が交差する範囲の、その中央部に「祖母山」、北部に「由布岳」、南部に「尾鈴山」と、それら三山が等間隔でほぼ南北に並ぶ配置になっている・・・。・・・それで九州における東西南北のクロスに纏わる三山に登ることになったのか・・・などと、自分なりに妙に合点がいくのであった。さて下の画像は、山頂近くにあった古代人による天体観測用の人為的構成が濃厚な磐座を撮影したものだ。中央部に確認できる縦の透かしなど、実に精細なこしらえに感動したが、その後の山中でさらに凄い磐座群との出会いが待っていようとは、この時点では認識していなかった。・・・つづく・・・
2016年11月20日

そして[島原]とくれば、雲仙観光の中心となる「地獄めぐり」へ・・・。そこで冒頭の画像は、見晴らしのよい高台より、雲仙地獄を展望したものである。先月は[別府]でも「地獄めぐり」を体験しているので、前回の日記で紹介した九州を南北に二分するかのように東西に走る千々石断層の[別府~島原]線に、自ずと意識が向かうのであった。上の画像は、30あまりある雲仙地獄のなかでも、最も活発な噴気活動をしている「大叫喚地獄」を撮影したものだ。硫黄の香りが立ち込めるなか、ゴーという吹き出し音とともに、勢いよく大量の噴煙を上げる風情は力強く、その生ける大地の息吹に触発されて、もりもりと元気が湧いてくるのだった。その日の最後に訪れたのは、島原半島は西南の海岸近くにある「小浜温泉」であった。小浜温泉の歴史は、「肥前風土記」(713年)に記されているほど古く、その源泉は105度と日本最高温(放熱量日本一)を誇るとのことである。この温泉に入るのは二度目となるのだが、今回は味わいのある古寂びた共同浴場で湯浴み三昧、ほどよい塩湯の加減に心身ともに癒された。じっくりと古代より湧き出る温泉を堪能した後は、近くの海岸で夕日を眺める機会があり、その際に日没後の茜色に染まる印象的な夕空を映した画像が下である。そういえば、かつて小浜温泉を訪れたのは、四国最南端の「足摺岬」を東端として、九州に向かって東西の軸線を引いた場合に、その主要地点を東から列記していくと・・・足摺岬・高千穂宮・小浜・伊王島・福江島(五島列島)・・・とあったことから、一度は訪ねておきたいという思いからであった。☆関連記事・・・九州中部地域の歴史探訪(5)ところで後日、最近の日記で紹介してきた「大入島~三池港の東西軸」と「足摺岬~福江島の東西軸」の、その二本の九州を横断する東西軸を地図上に引いて俯瞰したとき、その二本の東西軸に囲まれた中に「阿蘇五岳」とその外輪山を含む地域一帯が含まれることが確認でき、感慨深く思ったことがあった。それと同時に、千々石断層の[別府~島原]線も深く関係するであろう九州域の「中央構造線」が、上記の二本の東西線が形成する帯域とも重なり観えてきて・・・どうやら近年は、この九州における「中央構造線」の東西帯域を、潜在意識に導かれるように歩いてきたのでは・・・という想いが、今更のように浮かぶのであった。
2016年11月19日

大分県佐伯市の「大入島」を東端とする東西軸の、その西に相当する福岡県大牟田市の「三池港」を散策した後に、フェリーで島原半島に渡ることにした。冒頭の画像は、乗船したフェリーから島原半島方面を撮影したものだ。その薄らと霞む雲仙 普賢岳(画像の中央部)のシルエットが実に幽玄である。島原半島の北方から高原を南北に縦断する道を走っていると、突然視界が開けて普賢岳が展望できる素敵な場所に遭遇した。そこで近くの駐車場に停車して映した画像が上である。近年に噴火した平成新山(画像の向かって左側)の、そのゴツゴツとして突出した岩塊は、遠目から見ても迫力があったことを憶えている。そして下の画像は、上記の展望駐車場に掲げてあった看板を映したものだ。その地図に「千々石(ちぢわ)断層」と記されているのだが、たまたま停車した場所がその断層上にあることを知ったのだった。最近の研究によると島原半島は、この千々石断層によって次第に南北に分かれつつあるとのことで、実はこの大地を動かす力は九州全域に及んでおり、長い年月のうちには《別府~島原》の線で切られ、「南側の九州」と「北側の九州」に二分されてしまうという予測もあるそうだ。この言わば断層の東西軸(別府ー島原)も、九州を横断する大切な東西軸の一つとして挙げられよう。
2016年11月18日

11月8日、博多駅前に空いた北の「大穴」から、中央の位置付けとなる「天御中主神社」を見出すこととなり、前回の日記ではその経緯と私的解釈を記した。そして先週の土曜日(12日)は、さらに「その次」と見定めた場所を訪ねてみることに・・・。実は、その場所を訪ねる最初の動機があった。それは、先月の10月30日に行った「大入島(おおにゅうじま)」は 日向泊の「神の井」を東の起点とする北緯約33度の東西軸を西に伸ばすと、福岡県最南端の大牟田市にある「三池港」に突き当たると知ったことにある。それで、いづれは何かの機会に、その地を訪問しようと考えていた。その後、前回の日記で書いたように「北」と「中央」の関係が浮かび上がり、その南北となる二ヶ所を結んでさらに南方に軸線を伸ばすと上記の「三池港」と交差することに驚き、何はともあれ早々に行くべきだと判断し現地へ足を運んだ次第である。ところで、大牟田市の「三池港」といえば、2015年に「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」として世界文化遺産に登録された構成資産の一つで、三池炭鉱躍進の一翼を担った港湾である。そこで冒頭の画像は、「三池港」にある日本では唯一となるパナマ運河と同様の閘門式ドックを正面に撮影したものである。ちなみに、遠浅で干満の差が大きい(最大6m)有明海で、この渠内(ドック)の水位を一定に保つための閘門式水門は現在も稼動し、その様子を見学することができる。当日は他に、明治41年に三井財閥の迎賓館として建てられた洋館「旧三井港倶楽部」や、石炭を中心としたエネルギー資源に関する「石炭産業科学館」を訪ね、かつて日本最大の石炭鉱業地帯として名を馳せた三池炭鉱の栄枯盛衰を垣間見た思いである。北の「大穴」から中央の「起点」を経て、福岡県最南端の「三池港」へ・・・。前回の日記で簡単に解説したように、五行説において北は「水」にして中央は「土」となる。そして、その中央を孕む南北軸の「南」は「火」であり、そのまさしく「火」を燃やすための石炭をこの地で採掘し世界に輸出する日本屈指の港湾が「三池港」であった。加えて、上記の大入島の「日向泊」を東端とする東西線の西端が「三池港」だとすれば、その西の五行は「金」となり、この金とは「石」との解釈もできるので、化石燃料たる石炭の宝庫が(三池港を含む)三池炭鉱の一帯だったことにも興味をそそられる。・・・ということは、その南北軸と東西軸の交差する「三池港」の存在する位置とは、北の「大穴」と南北軸を形成する「南」の「火」の要素と、東の「日向泊」と東西軸を形成する「西」の「金(石)」の要素が、まさに合体したかのような「石炭(燃ゆる石)」が当時の先端技術を用いて大規模に産出され、日本の近代化を支えてきた「三池炭鉱(三井三池炭鉱)」のあった地域一帯となるわけで、実に興味深い。以上のことを含めて、また更に深く魅かれていく世界があった。それは上記の南北軸の南とした「三池港」を経て、その南方に軸線を引いていくと、かつて訪れたことのある巨石群に到達することである。その巨石群とは、「矢岳巨石群」(熊本県上天草市)のことで、現地では磐座が配置された各所に、天文・地文に詳しい研究者の解説が記された案内板が立ててあり、ある磐座について書かれた内容に、その磐座が設置された当時の北極星(※りゅう座のα星)に関する記述があったことを思い出した。◎関連記事・・・「矢岳巨石群」を訪ねて・・・もしかすると、上記の南北軸の中央にして「測量の起点」とした「天御中主神社」の鎮座する位置は、おそらく縄文系海人族が北極星(※りゅう座のα星)を含む天体観測の施設として設置したであろう「矢岳巨石群」が、九州の西方を南北に貫く軸線の「最南端」として連綿と特別視されてきた歴史があり、その南北の軸線上にある現在の鎮座地として弥生時代以降に定められたのかもしれない・・・などと、とめどなく想像(妄想)の翼が羽ばたくのであった。(※紀元前2800年頃には、りゅう座のα星「トゥバーン」が北極星の位置にあった。)ところで本日の午前5時に、JR博多駅前の大陥没事故で通行止めになっていた道路の通行が再開し、これで市中心部で破壊された都市機能は、8日早朝の事故発生から1週間で回復したことになる。今朝たまたまテレビを付けた時に、通行再開のライブ中継を見る機会があり、その報道を視聴しつつ「石炭産業科学館」で専門ガイドから受けた熱い解説を思い出し、その適材適所の人材配置と技術力結集の背景には、往時の三池炭鉱において採鉱の先端機器が随時導入されて培われた総合力があったと如実に感じられ、感動を新たにしたところである。すると「スーパームーン」の十六夜に、聴こえてきた歌があった・・・。スチャラカチャンチャカ♫ スカラカチャン♪月が出た出た 月が出た(ヨイヨイ) 三池炭坑の 上に出た あまり煙突が 高いので さぞやお月さん けむたかろ(サノヨイヨイ) ※『炭坑節』・・・福岡県に伝わる日本の民謡
2016年11月15日

2016年11月8日-博多駅前 2丁目交差点付近の道路が大規模陥没し「大穴」が空いた。このニュースは、すぐに全国ネットで報道され、多くの国民が驚いたことであろう・・・。繰り返し報道される関連ニュースを視聴するうちに、心に浮かんできた神社があった。それは「アメノミナカヌシ」という社名の福岡県那珂川町に鎮座する「天御中主神社」である。本日の冒頭の画像は、当社の鳥居の前から、その全体像を撮影したものだ。地元の歴史研究家によると当社の鎮座地は、かつては那珂川地域はもとより博多湾岸を含む広域の中心に位置付けられていた模様で、この社地を中心にして四方八方に主要な神社が配置されていたことが注目されていた。現地を訪れた私的感覚としては、おそらくこの社地は、上記のかなり大きな地域を統括するための、本来は「測量の起点」として、弥生時代~古墳時代の頃に定められたと思われる。◎関連記事・・・「大根地山」に向かって・・・そして、その社名が浮かんできた時に・・・これは、もしや・・・ということで、すぐさま九州の地図を開き、その「大穴」と「当社」を直線で結んでみた。すると、どうだろう・・・それは予想通りに「南北軸」を示しており、「天御中主神社」が「中央」、そして「博多駅前の大穴」が「北」を意味することが、私なりに判然としたのであった。さらに「陰陽五行説」を参考にすると、方位の「北」に深く連関する要素として「水」と「冬」があるのだが、今回の空いた大穴の原因として「地下水脈」が挙げられることから五行の「木・火・土・金・水」のなかの「水」、そしてこの大穴は「立冬 (11月7日)」の翌日に空いたので季節は「春・夏・土用・秋・冬」のなかの「冬」となる。さらに付け加えると、「北」を示す数は「一」なのだが、この大穴が空いた「年月日」のそれぞれ数を全部加えて単数化すると「一」となり、また「月日」の数を加えて単数化しても同じく「一」となる。以上のように、「北」に関連する「水・冬・一」という三つの要素が揃ったことから、この「天御中主神社(中央)」と「博多駅前の大穴(北)」を結ぶ南北関係は、私の中では確実なものとなったのである。さてそこで、この「中央」と「北」の関係が、「北」の博多駅前に空いた「大穴」と、どのように関係しているかということになるが、これを五行における基本的な二つの相互関係、つまり相性が良いとされる「 相生(そうじょう)」と、相性が悪いとされる「相剋(そうこく)」から判断してみよう。専門家ではないので表層的な見立てとなるが、そこには「土 剋 水(ど こく すい)」という、中央の「土」と北の「水」が相剋する相性の悪い関係、つまり・・・「土」が「水」に打ち勝つ関係にあるさま・・・が読み取れる。そこに上記の地域一帯を関連付けるとすれば、「土」の気場たる「中央」の有利な立場となる神社の主祭神「アメノミナカヌシ」により、不利な立場となる「水」の気場たる「北」が打ち負かされ、その強い影響が博多駅前に及んだために、結果的に中央から見て北方の大地に「大穴」が空くという破壊的現象が起きたと解釈できよう。ここで重要な視点は、上記の天御中主神社の主祭神「アメノミナカヌシ」を、いかに解釈するかということになる。これまでの私もそうだったが、既存の捉え方では「アメノミナカヌシ」を目星となる星に付けられた神名とした場合に、それを「北極星」と捉えることが主流となる。しかし「天武天皇」の時代に、「北辰(北極星)」を中心として祀る思想信仰(道教思想)が大陸から輸入される以前に、この「アメノミナカヌシ」を馭者(ぎょしゃ)座の一等星「カペラ」とする解釈が、古代の北部九州域に伝承として残っていることもあり・・・この度の博多駅前に「大穴」が空いて以降は、なぜか今の私の感覚として「アメノミナカヌシ」とは、もはや《北天》に輝く星々の中心を担う「北極星」ではなく、《全天》に輝く星々の中心たる一等星「カペラ」こそ、本来の「太極」を担う星として相応しいと感じ始めている。実はこのカペラを含む「馭者座」は、隠されてきた九州王朝「ウガヤフキアエズ朝」を象徴する星座だとする研究があり、私もその説を追認すべく「馭者座」のカペラを含む天上の五つの星々が、地上の九州に投影されたとされる五つの地点を巡り歩いてきた経緯がある。以上の観点から、今回の博多駅前に空いた「大穴」とは、本来の《全天》に輝く星々の中心を司る「カペラ(アメノミナカヌシ)」として、九州王朝の復活を含め「もとどおり」になった型示しとして具現化した事象(博多駅前に「大穴」が空いた現実)だったのであろうと、そのように感じ始めた今日この頃である。そしてその後、この「中央」と「北」を結ぶ軸線が、これまで九州域で引いてきた他の軸線とも関連があるのではないかと模索していると、やはりというか・・・上記の「中央」の、さらに「その次」が観えてきたのは不思議であった。それは前回の記事等で取り上げた軸線も絡んでくるのだが、近々さらに「その次」として見い出せた『特定地域』を訪ねてみる予定だ。・・・なんだか「大いなるもの」に動かされている気配・・・。
2016年11月11日

前回の日記では、[立花山⇔英彦山⇔由布岳⇔佐伯湾の大入島]を結ぶ「冬至の日の出と夏至の日の入を示す軸線」を示したが、その後さらにその軸線を地図上で、福岡市の「立花山」から夏至の日の入の方向(西北西)に延長すると、福岡市最西端の玄界灘に浮かぶ「小呂島」に当ることが分かった。そこで昨日の記事の「番外編」ということで、今年の4月に「小呂島(おろのしま)」に渡った時の感想や画像を紹介しつつ、上記の「大入島」と「小呂島」を結ぶ『軸線』について記しておきたいと思う。まず冒頭の画像は、博多湾岸域において「東」を示す主要な起点となる「立花山」を、ほぼ真西にある「志賀島」の展望台より撮影したもので、画像中央の二並びの山の高い方が立花山の最高峰(標高367m)である。まず小呂島の港に到着すると、入港したばかりの漁船から採れたての魚が船上から降ろされ、すぐ近くの市場に並べられていく現場に遭遇した。どうやら大漁の様子で、誇らしげに魚を扱う漁師の威勢の良い姿や、それを受けて市場で手際よく働くお母さん方の歓声が眩しかったのを憶えている。おそらく初めて直に見聞した港の賑わいを後にして、目的だった島の山頂部へ鎮座する「嶽の宮神社」へ向かうことに・・・。恐れを抱くほどの鬱蒼とした森を抜けて、長く続く石段をひたすら登るのだが、その道中で映した画像が上である。そして上の画像は、ようやく見えてきた神社の拝殿を映したものである。社殿の鎮座地は九合目あたりだったであろうか・・・さらに山頂を目指すも道が分からず、展望もほとんど無かったのだが、その生き生きとした原生林の躍動感に包まれて、まるで野生を取り戻したかのように元気ハツラツとなるのだった。上の画像は、小呂島に自生する「ビロウ」の葉を撮影したもので、同島は日本における「ビロウ」の自生地北限とされている。この「ビロウ」は熱帯性のヤシ科の植物で、日本名では「檳榔(あじまさ)」のことで、その葉は呪具として古くは最も神聖視されたものであり、扇や扇子の形状の原型とする研究もあるそうだ。小呂島の小さな港湾の見える高台から、海の向こうに微かに見える九州方面を展望したものが上の画像である。そして今、この画像を前にしていると、ここ小呂島から立花山、そして英彦山や由布岳を含む幾多の主要地点を経由して大入島へと、一直線に連なる見えない軸線が俯瞰して観えてきて、その天体運行を地上に投影する古代人の規模の大きな視野と実行力に対して、感動を通り越して驚嘆の思いが湧いてくるのであった。実はこれまでも何度か、北部九州の沿岸各地から、この小呂島の島影を確認したことがあった。なかでも印象に残る場面は、「筑前二見ヶ浦の夫婦岩」(糸島市志摩桜井・・・下の画像)から海を眺めている時だった。そのとき遠方に、ハッキリと小呂島を視認できたのである。そういえば、前回記事では「大入島」の近くにある「豊後二見ヶ浦の夫婦岩」を紹介したが、そもそも夫婦岩の役割とは、例えば「筑前の夫婦岩」は「夏至の日の入」を観測する目印だと伝わるように、年間の太陽運行における節目の観測装置という側面がある。以上のことを考え合わせていくと、太陽運行の節目となる軸線の一つである[ 玄界灘の《小呂島》⇒立花山⇔英彦山⇔由布岳⇔佐伯湾の《大入島》]を結ぶ「夏至の日の入と冬至の日の出を示す軸線」の両端にある島の、それぞれの近郊の湾岸域に「二見ヶ浦の夫婦岩」が存在する背景に、古代人の深遠なる意図を感じたところである。☆関連記事・・シリウス信仰の痕跡
2016年11月02日
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