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フォークナーの『墓場への侵入者』(Intruder in the Dust)なる作品を読みましたので、心覚えを。 これはチャールズという白人少年の成長譚として書かれたのだと思いますが、この少年、4年前の12歳くらいの時、猟に出かける途中で丸木橋から川に落ちるというへまをやらかすんですな。で、その時に彼を助け、家に連れ帰って服を乾かし、食事まで与えたのが黒人のルーカスという男。 無様なことに、白人が黒人に助けられる形になったチャールズは、初老のルーカスに助けてもらった代金を払おうとするのですが、誇り高いルーカスはそれを拒むんですな。だからチャールズは、黒人に助けられたという屈辱からいつまでも解放されないわけ。 で、そのことをずっと思い悩んでいたチャールズのもとにニュースが飛び込んでくる。なんとあのルーカスが、よりによって白人の男、それも南部白人の典型のようなガウリー家の末子ヴィンソンを後ろから射殺して逮捕されたというのですな。で、南部の白人たちは生意気な黒人であるルーカスを火あぶりのリンチにかけようと手ぐすねをひいていると。 チャールズは、これで遂に自分もルーカスの重荷から解放されると思い、暴徒に紛れてルーカスを見に行く。するとルーカスは目敏くチャールズの姿をみつけ、「お前の叔父さんのスティーヴンスさんに弁護を依頼したい」と頼むんです。 かくしてチャールズの叔父にしてチャールズの精神的師匠でもあるギャビン・スティーヴンスがルーカスの弁護を引き受けることになるのですが、ギャビンもまたルーカスの無罪を信じておらず、リンチはさせるつもりはないけれども、せいぜい別の町での裁判で無期懲役に持ち込めれば、という程度の思惑で動いている。 そこでルーカスは、ギャビンも頼りにならずとみて、チャールズに「自分が射殺したと言われているヴィンソン・ガウリーの墓を暴いて、遺体の銃創を見れば、それが自分の所持しているピストルによるものではないことが判る」として、自分のために墓を暴くことを依頼するわけ。 つまり、ルーカスのリンチによってルーカスから解放されるかと思いきや、そのルーカスから、被害者の墓を暴くという危険な作業を依頼されてしまうんですな。 さてさて、チャールズ少年は、ルーカスの依頼を実行し、ルーカスの無実を証明できるのか? またルーカスが犯人でないとしたら、ヴィンソン・ガウリーを殺したのは一体誰なのか? というようなお話。 なんかこう書いてくると、あれですな、スティーヴン・キング原作、スティーブン・スピルバーグ監督による少年成長譚映画! みたいに見えてきますな・・・。 ま、多分、フォークナー的にも、そんな感じで書いたんじゃないかと思います。フォークナーは映画の脚本をこの時期(1940年代)かなり沢山書いてますし、実際、この小説は映画化もされている。 だけど、書いているうちに、話の筋からして南部の白人と黒人の関係のことを書かざるを得ず、それで途中から変に力が入っちゃったんじゃないかな。それで、途中、ギャビン・スティーヴンスによる大仰な人種問題に関するスピーチ(例えば、「北部の人間には、南部の白人・黒人の問題は解決できない。南部の黒人を自由な人間にできるのは、南部の白人だけに任された特権だ」とか、「南部の人種問題を今日明日に解決するなんて無理。百年千年かかるかも。だけど黒人にはそれに耐えるだけの力がある。っていうか耐えることこそ黒人の人種的アイデンティティ」みたいなスピーチ)が登場したりして、それがまたスティーブンスのというよりもフォークナーの本心なんだろうと思われて、フォークナーが批判されるということにもなったりして、この小説が、内容は置き去りにされたまま、アイディアの部分で批判されることにもなってしまった。 ま、それはそういうことになってしまったので、その点について私が改めてどうこう言うのは控えましょう。 で、それは放っておいて、単純に小説として読んだ場合、どうかと言いますと、個人的に、個々の場面は面白いなと思うわけ。 例えば、チャールズがルーカスに助けられ、その恩義が負担となってチャールズを悩ませるシーンとか、不遜なまでに誇り高いルーカスの言動の数々とか、そういう個々の場面にはすごくリアリティがある。 だけど、肝心のサスペンスの部分、つまり、真犯人が誰だったとか、その真犯人はなぜそう言う行動をとったのか、またルーカスはどうして誤解されるような行動をとったのか、という辺りの筋書きに穴があり過ぎて、全然リアリティがない。 思うに、フォークナーという作家の限界がそこにあるのではないかと。点(=個々の場面)は上手く書けるけれども、線(=リアリティのある筋書き)が書けない。 で、線が書けないという欠点を補うために、持って回ったようなグダグダとした長口舌を振るって筋書きを補ったり、あるいはさらにリアリティの無い筋書きを付け加えたりするのだけれども、それが退屈で、しかも余計な批判を呼び込んだりする。だけどフォークナーの信者たちには、この長口舌が(「心理の流れ」「文体の実験」とか言っちゃって)深淵なものと映るので、「そこがいいんじゃない!!」ということになる。 で、このグダグダの長口舌はアメーバのように広がるので、線どころか面になっちゃうんだなあ。それでフォークナーは、一応、面の作家ということになってしまう。で、ヨクナパトーファという土地(=面)を描き切りました、すごいです的な、高評価が登場すると。 だけど、私に言わせれば、フォークナーって、筋書き下手だよね、場面を描くのは上手いのに、惜しいよね、で済む話なのであって。 だから、私が思うに、フォークナーは短編作家であるべきですよ。その方がぼろが出ない。フォークナーは、ヘミングウェイと同等に短編作家だ。 あの有名なフォークナーの短編、「あの夕日」は、少女時代のキャディーのパンツが木登りか何かしたために泥で汚れていた、その汚れたパンツがきっかけとなって構想されたそうですが、一つの物体(汚れたパンツ)から着想された一つのシーン(つまり「点])を描くのは見事だものね。だけど、その一つのシーンを小説の長さまで引き延ばすとなると、ちょっとあちこち破綻が生じてしまう。だから、「あの夕日」のロングバージョンたる『響きと怒り』は、筋書きに無理が一杯あるんじゃないかい? ま、そんなこんなを、この小説を契機として、考えたのでありました。賛同してくれる人は・・・居ないだろうなあ。 っていうか、こんなことを言ったら、フォークナーを神とあがめるファンの人たちの反感を買って、ルーカス同様、リンチだよ!
October 31, 2015
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今朝の新聞の「サンヤツ」に、『ポジティブ哲学!』という本の広告が載っていて、それによると、この本の著者がなんかのテレビに出演して多少なりとも話題になっているのだとか。 で、この本の言う「ポジティブ哲学」とは何かと言えば、ヒルティ、アラン、ラッセルの幸福論のことで、本書はこれら三人の哲学者の思想を解説しているらしい。 ふーむ。なるほどね。 自己啓発本ってのは、それ自体がポジティブ哲学であって、これが世におびただしく流通しているということは、それだけ人々がポジティブなことを求めている証拠。となれば、自己啓発本とはちょいと異なるとはいえ、幸福論哲学を展開している哲学者を紹介すれば、やっぱりそれも売れるだろうという計算ですな。 目の付け所がいい! 哲学ったって、ヒルティやらアランのそれは、小難しいものじゃないもんね。どっちかと言えば、哲学というよりは、ことわざみたいなもの。人間の経験から発した、いつの時代でも普遍的に当て嵌まるような日常の真理だから。先人の知恵的な。 身近な同僚に西洋哲学の先生がいて、新書のような書き下ろしの本が書きたいとか言っていたので、この本みたいなのを書けばいいんじゃないの、って教えてやろうっと。 ところで、ヒルティと言えば思い出すのは私の母方の祖母のこと。教会にこそ行かなかったけれども、心の底ではクリスチャン的なところがあった祖母はヒルティが好きでね。『眠られぬ夜のために』は祖母の愛読書だった。 無論、子供だった私に、祖母がヒルティを語るということはありませんでしたが、自分の祖母がヒルティが好きだった、ということは、私にとっては大いに教育効果がありました。いわば祖母は私に背中で教育したわけですな。 祖母の孫である私が今、まさにポジティブ思想についてあれこれ考えているというのも、導かれるものがあったのかも知れません。
October 30, 2015
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最近マックの評判が悪いようなので、世間の逆を行く私としては、つい応援したくなって2回ほど続けて食べちゃった。 今日食べたのは「昼マック」に代わる新機軸としての「200円マック」、それの「バベポ」すなわちバーベQポーク。 うーん。普通かな。不味くはないけど、普通。それより、その前に食べた焙煎ゴマなんちゃらのエビバーガーの方が美味しかったかも。 まあ、マックも今は辛抱の時。頑張ってください。 そして今日は八光流の稽古の日。若干体調不良ではあったものの、そういう時こそ体を動かした方がいいかなと思い、敢えての参加。今は来月末に昇段試験を控えている仲間が何人かいるので、皆さん、稽古にも熱が入ります。 八光流のいいところは、上下関係にうるさくないところで、段の点で上位の人でも、ある技に関して下位の人の方が上手いと思えば、その人から学ぶのが当たり前という気風がある。黒帯白帯関係なく、互いにコツを教え合えるのがいいんですな。 ということで、今日は「二段・松葉捕で、相手の腕を極めてからの落とし方(落とす方向)」と「二段・胸押捕で、相手が力ずくでがっちり胸ぐらを掴んできた時の対処法」で、新たな発見がありました。このところずっと、稽古の後は、家に帰ってからノートをつけているので、今日はその辺の新しい知見を書き込むことが出来て大満足。 さてさて、今週は久々に特に予定のない週末。ここでしっかり体調を戻して、3週間後に迫った学会発表の準備に取り掛かりますかな。
October 29, 2015
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なんか、風邪気味。このところの気温の乱高下で学生なんかでもゴホンゴホンやっているのが居るなあ、と思っていたら、うつされたみたい・・・。 しかし! 自己啓発の思想から言うと、そもそも病気なんてものは実在しないってことになっていますからね。病は気から。風邪だと思うから風邪の症状が出るので、そんなの気の迷い、幻だと思えばいいと。 まぼろし~!! さ、治った。よしOK! 今日も元気だ。 風邪薬飲んで寝よう・・・。
October 28, 2015
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先週末、F1・アメリカグランプリが開催され、これに勝利したメルセデス・チームのルイス・ハミルトン選手が3戦を残して年間チャンピオンを決めました。これで2年連続3度目の年間チャンピオンとなり、ハミルトン選手も過去の偉大なF1ドライバーたちと肩を並べるところまで行った感があります。 し・か・し。 私はあんまり好きじゃないんだなー、ハミルトン選手。 アメリカグランプリ決勝レースのスタート直後の第1コーナーで、ポールポジションからスタートした同僚のニコ・ロスベルグ選手をコースから押し出すようにして強引に抜き去り、レースを有利に進めたそのやり口。もちろん、この程度の強引さは、歴代チャンピオンたちもやってきたことで、それだけなら必ずしも悪くはないのかもしれません。むしろ、毎回、こんな形で同僚に先行を許してしまうニコ・ロスベルグ選手の押しの弱さの方に問題があると言えるかも知れない。 しかし、私がここで問いたいのは、レース後のハミルトン選手の立ち居振る舞いです。年間チャンピオンを確定し、表彰台に立つ前の控室で、このレースで惜しくも2位となり、かつ、年間チャンピオンの夢も断たれて意気消沈する同僚のニコ・ロスベルグ選手に対し、ハミルトン選手が「2位」の人がかぶる帽子をほいっと放り投げるようにして渡したんですな。 で、思わずカッとしたロスベルグ選手が、その帽子をハミルトン選手に向って投げ返したわけ。その様子を偶然テレビカメラが捉えていたのですが。 しかし、これは如何に何でも、ハミルトン選手が悪いんじゃないの? レースで負けた不甲斐なさ、チャンピオンになれなかった悔しさに耐え、その気持を押し殺して、表彰台ではライバルのハミルトン選手を称えるために心の準備をしていたであろう同僚に対し、「お前には2位の帽子がお似合いだ」と言わんばかりの行動を取ったわけですから。 いやあ。あの場面は、負けた同僚に対する気遣いが欲しいところだと思うんですよね・・・。ニコ・ロスベルグ選手は「good loser」たろうとして懸命の努力をしていたのだから。 思うに、「good loser」になるのも難しいけれど、「good winner」になることの方がもっと難しいのかもね。 とにかく、少なくとも今回の一件を見る限り、私にはハミルトン選手が「good winner」だとは思えません。 今年はもうチャンピオンが確定してしまいましたけれども、来年はぜひニコ・ロスベルグ選手にも頑張ってもらって、ハミルトン選手に対して「good winner」の手本を示してもらいたいものでございます。
October 27, 2015
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最近、変なんです。占いが。 我が家でとっている新聞には生まれ月毎の占いが載っておりまして、これがまた結構よく当たるんです。例えば、今日は友達とバーベQだ! とか思っていると、その占いに「友だちと楽しい一日を過せそう」などと書いてある。クルマで事故った日に「注意力散漫になりがち。怪我に注意」などと書いてあってぞっとしたことも。 ただ、ちょっと面白かったのは、「疲れがたまる一日。サウナは吉」などと、それこそ週一ペースくらいでサウナを勧めてくること。普通の人って、そんなに頻繁にサウナに入るんだっけ? ま、とにかくこの占いはよく当たりました。 ところが。 半年くらい前からか、占いの担当者が変わったらしいんですな。で、この新しい易者さんの占いがちょっと変なんですわ。 何が変って、「それは占いなのか?」と思わせるようなことを言ってくる。 例えば今日の私の一日の占いは、「あなたのいつも変わらぬ誠実さが評判になっている」ですと。 何コレ? そう言われて嬉しいけれど、これは占いなのか? むしろ「噂」じゃないのか? そしてまた今日の家内の一日の占いになるともっとすごくて、「無礼講にも限度がある」ですと。 ええっ?! どういうこと? 占いが、占いの分際を越えて、謎かけみたいになっております。 その他、「ラッキーアイテムはキリン」とか書かれていたこともあり、キリンって言われてもなあ・・・と途方に暮れたことも。 もう、それが一日の指針となるよりも、むしろモヤモヤした気分になってくるというね。 というわけで、このところ、毎日新聞を開けるために、今日はどんなことを言ってくるだろうと、占いとはまた別な興味を抱かされている私なのであります。
October 26, 2015
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アメリカのテレビドラマ『ハンニバル』を、このところ二日に一話くらいのペースで見ているのですが、面白いというのか、怖いというのか、グロいというのか、です。 ハンニバルとは、もちろん、ハンニバル・レクター博士のこと。『羊たちの沈黙』でこの世に登場して以来、多くの人を魅了し続ける天才・・・天才なんだ? とにかく天才的な脳医学・精神医学者にして画家でもあり、音楽の享受者であり、そして美食家。ただ、その美食の対象が人間だというね。 そのハンニバル博士のある時期のエピソード、というのが本ドラマなのですが、ボルティモアで精神科の開業医をしていたハンニバルに、FBIから捜査協力の依頼がありまして。で、その捜査にかかわっていたのが、ウィルという若い犯罪学の教官だった。ウィルは、犯行現場を見ただけで犯人のプロファイルや、犯人の犯行手順まで見通してしまうという特殊な才能があった。ただ、その才能と引き換えに、ウィルは精神的に非常に不安定なところがある。 で、ウィルの特殊な才能に興味を惹かれたハンニバルは、彼の精神的サポート役として捜査にも係わるようになる。 ただ、その係わり方は、あくまで彼流だけれども・・・。 という話。面白そうでしょ? 面白いんです。 だ・け・ど。 毎回毎回、猟奇殺人エピソード満載ですし、ハンニバルがやたらに人を食べちゃいますので(あ、もちろん、完璧なレシピで、ですけど)、気の弱い人には、とても正視できません。ので、万人向けのドラマではないかな。 ただね、ハンニバル役を演じているのが、北欧演劇界の至宝、マッツ・ミケルセンなのよ。これが、アンソニー・ホプキンスのハンニバル像とはまた異なる、これはこれでアリだなと思えるような美しいハンニバル像なわけ。 というわけで、毎回少しずつ精神的に病んでいくウィルを見つめる美しき食人鬼ハンニバルの一挙手一投足から目が離せない私なのであります。
October 25, 2015
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本ブログ、今日現在で99万1千アクセスを越え、いよいよ大台が見えて参りました。 ブログというものがまだ目新しかった時代に始めたこのブログですが、その後時代は移り変わり、今やフェイスブックとかツイッターとかインスタとか、よりお手軽な方へ人は流れて行ってしまった。 それでも、やはりある程度まとまった分量の文章を書き続けるには、それら新しいメディアよりも古いブログだろうと、この形態にしがみついている私。こうなってくると、意地でございます。 で、その意地を貫き通した結果の100万アクセス。それなりに頑張ったんじゃないでしょうか。 100万アクセス達成のアカツキには、楽天から何かプレゼントがもらえるとか、そういうのはないの? ないか。 逆に、100万番目のキリ番踏んだ人に、こちらから何かプレゼントがしたいけれど、今や誰が踏んだか分からないので、何ともしようがないなあ。 ま、とにかく、100万アクセスへのカウントダウン、楽しみでございます。 さてさて、今日の私ですが、今日は久々にのんびりと、一日本を読んで過ごしておりました。読んでいたのはフォークナーの(またフォークナー?)『駒さばき』(Knight's Gambit)という小説。 でね、これが割と面白いのよ。 それは面白いはずで、何と言ってもこれは探偵小説ですから。そう、かのフォークナーも、金儲けのために探偵小説を書いていたんですねえ。 で、探偵小説であるだけに、フォークナー特有の、あの持って回った文体とか、心理の流れとか、そういう面倒臭い部分がほとんど影を潜めているので、読み易い。っていうか、キミだってやれば出来るじゃないか、って感じです。 もちろん、フォークナー好きの連中からすれば、こういうのは評価しないんだろうな。単なる手慰みとしてしか見てなさそう。 でも、私のようなとうしろうからすれば、こっちの方がよっぽど面白いけどね。 というわけで、背伸びせずとも読めるフォークナーの『駒さばき』、結構楽しみつつ読んでいる私なのであります。
October 24, 2015
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さてさて、今年もそろそろ卒論指導が忙しくなって参りました。 しかし、今年はそれに加えて、修士論文の指導が2件あり、両方合わせると結構キツイ。ということで、例年とは異なり、学生や院生から提出された卒論・修論の草稿を、それこそ何のためらいもなく撥ね返すように添削しております。 論文の添削、私は非常に嫌いで、しかし非常に上手い。 非常に嫌い、というのは、他人の文章に手を入れる時、すごく厭な衝撃を感じるから。人の皮膚を乗っ取って、その人になりきるような、妙な違和感がある。それはすごく気味の悪いことでありまして。 だから、毎年この時期にゼミ生らから草稿が提出され始めても、手を付けるまでにすごく時間がかかる訳。「さて、仕方がない、そろそろ添削作業に入るか・・・」と思いながらも、「ま、いいか。ちょっとこの本を読んでからにしよう」などと言い訳をし、やがて、「今日はもう遅いから、明日やろう」などと言って延ばし延ばしにするのが常なんですな。 だけど、今年はほんとに切羽詰まっているので、心を鬼にして提出された草稿を、その日のうちに添削し始めたりしているんです。 で、実際に添削を始めたら、それこそ抜刀斎のごとく、しゃしゃしゃしゃーーっとぶった斬って、あれよあれよという間に、醜いアヒルを麗しい白鳥にまで仕上げます。その切れ味たるや、我ながら舌を巻くほど。今日は院生の修論の序文を一気に直しましたが、その直しの達人技たるや、人に見せたいくらい。見せられないけど。 これから、「人斬り」ならぬ「文斬り抜刀斎」を名乗ろうかな。「直さずの誓い」を破って、直しちゃいました~、みたいな。 さて。 明日は明日で、ゼミ生の論文を直さなくては。仕方ない、逆刃刀でも砥いでおきますかな。
October 23, 2015
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これはなかなか面白いね・・・。女の一生
October 22, 2015
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深夜テレビ族の私にとって危険なのは、深夜においしそうな料理を扱ったテレビを見てしまうこと。 一番危険なのは、『孤独のグルメ』で、「井之頭五郎」こと松重さんが美味しそうな料理をいかにもおいしそうに、そして相当な量を、しかも上品に、平らげるのを見ていると、もう「食べたい~!」ってなってしまう。 だけど、危険はどこに潜んでいるか分からないもので。 先ほど『怒り新党』を見ていたら、今日の「新三大○○」は「純喫茶(のトースト)」という特集で、お洒落なカフェとか、スタバ的チェーン店とはまるで異なる、いかにも昭和っぽい佇まいの渋い喫茶店で供されるトーストが紹介されまして。それがどれもめちゃくちゃおいしそうなんですわ。 一つ目はバターたっぷりの小倉トースト。あんこを挟んだトーストなんですけど、両面に3度くらいバターを塗りたくり、噛めばジュワッとバターが染み出てきそうな奴。 二つ目は、フレンチトーストなんですけど、これもバターたっぷりで、しかもレモンの輪切りを載せているところが特徴。程よい酸味がいいアクセントになっているのだとか。 三つ目は、10センチ四方はあるかと思うような塊トーストに、たっぷりのバターを塗りたくり、そこへじっくり煮込んだポークカレーをかけるという、カレー・トースト。これまた旨そうなのよ。 ああ、もう駄目だ。お腹すいてきた! ダイエット中で、夕食も控え目にしている人間にとって、深夜の料理テレビは、厳しいわ・・・。それでも見ちゃうけど・・・。
October 21, 2015
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誰だったかが三浦哲郎の書いた『師・井伏鱒二の思い出』という本は面白いよ、と言っていたのを記憶していたので、つい買って読んでしまいました。師弟本というのは、私には非常に興味深いテーマであるもので。 で、この本は早稲田の学生で作家志望だった三浦哲郎氏が、同人誌に『遺書について』という短編を書いたら、それが井伏の目に止まり、井伏の弟子で早稲田の先生だった小沼丹に伴われて井伏宅に遊びにいくところから始まります。で、それ以来、井伏氏に可愛がられ、二十年に亘る師弟関係があったと。 といっても、井伏は無理やり三浦さんを自分の世界に引きこむのではなく、つかず離れず、仲のいい親戚の叔父さんみたいな感じで三浦さんを見守り、彼がいい作品を書けば自分のことのように喜び、生活苦に追われていると、そういう中でも少しずつ書き進めなさいとアドバイスし、三浦氏から遊びに行けば、自分の仕事をおいても適当に話し相手になり、時には三浦さんを道案内に、三浦氏の故郷である東北に遊び・・・といった感じの付き合いを続けたらしいんですな。 例えば三浦さんが『忍ぶ川』で芥川賞をとった時、たまたま旅先にあった井伏氏は、テレビで三浦さんの受賞を知る。その時の様子がとてもよくて、井伏氏に同行していた人(丸山という人)によれば、 後日、丸山さんは、その晩の先生の御様子をこんなふうに話してくれた。 「あなたの受賞は、テレビのニュースで知ったんです。あなたの顔がテレビに出ると、先生はなにもいわずに、いきなり僕の肩をぽーんと叩きました。そんなことをしない方だとばかり思ってたもんですから、びっくりしました。」(59頁) とのこと。これを読むだけでも、井伏さんという人は、いい人だなあ、という気がしてきます。 それにしてもこの本を読んでいると、井伏鱒二という人がとても魅力的な人に見えてくる。ほんとに、人間的で魅力のある人だったみたいですね。 昔、中学生か高校生くらいの時、『黒い雨』を読まされたのと、多分、『山椒魚』『川釣り』は読んでいると思いますが、あんまり強い印象がない。それで、それ以降、井伏さんの本を読んだことがないのですけど、思うに、それは私の方が子供過ぎて、井伏さんの良さが分らなかったか、あるいは、今挙げた作品じゃない作品の方を先に読めば良かったのではないかと。『山椒魚』なんて生意気盛りの高校生に読ませたら、「ああ、カフカあたりの二番煎じ?」的な浅はかな理解で済ませちゃいそうですもんね。 だから、中学校・高校あたりの国語の先生は、井伏の作品を生徒に読ませちゃダメなんじゃないか? 「こういうのは、もっと大人になってから」とか言って、むしろ読ませない方が、かえっていい教育になるのではないかと。 とにかく、この本を通じて、井伏鱒二という人の人柄に興味が出ました。今、井伏さんの作品を読んだら、その面白さが少しは分かるかもしれません。なんか、読んでみようかな。【楽天ブックスならいつでも送料無料】師・井伏鱒二の思い出 [ 三浦哲郎 ]価格:1,512円(税込、送料込)
October 20, 2015
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今日のゼミはゲストつき、OBのM君を交えてのものとなりましたが、話の途中、ゼミ生から「釈迦楽先生はどんなタイプの顔の女性が好きなんですか?」と尋ねられ、「そりゃ、奥さんのような顔の女性が好きに決まっているじゃないか!」と即答したのですが、逆に「お前さんはどういう顔の男が好きなんだ?」と尋ねると、向こうは向こうで「俳優の西島秀俊のような」と即答。 ふーむ、人気あるねえ、西島秀俊。 で、その西島さん主演のドラマ、『ダブルフェイス』をやっていたので、つい見てしまいました。これ、香港映画の『インファナル・アフェア』の改変日本版なんですな。 だけど。 私、数ある職業の中で、自分として一番やりたくないのが潜入捜査なのよ。だから、潜入捜査映画って、ドキドキしすぎて見ていられないの。ホラー映画とか全然平気なのに、潜入捜査ものは見られない。 だから、今日も、目の前にかざした指の間から見てました。 しかし、西島ファンというよりは、むしろ中車ファンの私としては、ヤ○ザに潜入している警察官の西島さんより、警察に潜入しているヤ○ザ役の中車さんから目が離せないというね。 このドラマ、来週で完結するようですが、来週は今週以上に中車さんの「顔芸」が見られそうで、とっても楽しみ。 あーー、でも自分、潜入捜査無理だわ。 ま、別に今から自分が潜入捜査する立場になるわけがないけどね!
October 19, 2015
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このところやたらに「申請書」ばっかり書いているので、あまり本も読めなかったのですが、しばらく前から読んでいたフォークナーの『サートリス』をようやく読了。 『サートリス』というのは、フォークナーの「ヨクナパトーファ・サーガ」のスタート地点に位置する物語で、時代的には第一次世界大戦の後、ということですから、それが1929年に発表されたとなると、大体10年位前の話、という前提なのかな? だから、そんなに大昔の話、というわけではないのだけれど、主人公・・・の一人であるベイヤード・サートリス(若い方)を視点にすると、その曾祖父とか大伯父とかの話が随所に出てくるので、やはり印象としては一族の歴史を扱う大河ドラマという感じがする。その点で、最近立て続けに読んだ『蚊』とか『パイロン』とか『サンクチュアリ』とか『野生の棕櫚』などの現代物とはちょっと違うかな。 ちなみにフォークナーの作品の中で、ペーパーバック化されたものって、そのほとんどが現代物なんですけど、そう言う意味では、この作品はペーパーバック化された数少ない歴史物と言えそうです。 じゃ、なんでこの作品はペーパーバック化されたんだろう? 『パイロン』は、二人の夫を持つ女の話だからペーパーバック化されました。『サンクチュアリ』はレイプ物だからペーパーバック化されました。『野生の棕櫚』は中絶物だからペーパーバック化されました。『蚊』はボヘミアンの生活を描いている(実際にはそうでもないけれど、ペーパーバックの惹句にはそう書いてある)からペーパーバック化されました。つまり、ペーパーバック化されるには、どこかエロティックな内容が含まれていることが必要なわけ。 だけど、『サートリス』のどこがエロティクなんだろう? 強いて言えば、脇筋で、ホレス・ベンボウが人妻のベル・ミッチェルと恋に落ち、不倫の後、略奪婚するから、かな。 多分そう。 だけど、この割と長い小説の中で、不倫の具体的なシーンが描かれるのはほんの2ページくらいなもの。それで、この本をエロティックなものとしてペーパーバック化しちゃうって、すごいね。それを期待して買った人は、騙されたようなものだ。 だけど、それがペーパーバック・ビジネスというものなのよ。 それが分かったから、この本を読んだ甲斐がありました。 でも、じゃあ、『サートリス』はそれ以外に面白いところがなかったかというと、うーん、微妙。面白くもないけど、面白くないわけでもない、というところかな。 戦争から帰ってきたものの、双子の片割れのジョンは戦死して、何だか自分だけ死に損なったように思い、故郷へ帰ってからも死に場所を探しているようなベイヤードの悩みの部分は、さほど面白くないんだけど、ミス・ジェニーが語る南北戦争時代の話とか、老ベイヤードの黒人召使に対する態度とか、そう言う部分は面白い。 要するに、フォークナーって、昔の話をさせると面白いんだよね。だから、昔話をまじえて今の話をせざるを得ない「ヨクナパトーファ・サーガ」ってのは、フォークナーの天分に合っているんだなと。 ま、そんなことを思った次第。
October 18, 2015
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亀田興毅選手引退ですか。 彼がデビューした頃は、「父親の独自の指導の下、頑張るボクシング三兄弟」的な、一種の美談としてもてはやされていたものの、その後、次第に評価は下降していき、最近ではもうすっかり悪役になり下がってしまった。それでも、その世評に対抗するように悪役に徹した彼が、ついに引退と。 私も彼のボクシング・・・というか、試合以前の態度とか、そういう部分にはもちろん好感が持てなかったにしろ、彼自身はきっと頭のいい人なんだろうとは思っていただけに、引退と言われると、ちょっと感慨がありますね。 最初の売りだし方というか、その辺からしてあのキャラクターで出てきたので、途中でキャラを変えるわけにもいかず、最後まであんな感じでしたけれども、本人としてどうだったのか。もっと良いマネージャーとかがついていたら、もうちょい愛されるボクサーにだってなれたかも知れないのに。 まあ、今後、どういう道を歩むつもりなのか知りませんが、本来の頭の良さを活かした方向で、頑張ってもらいたいものでございます。
October 17, 2015
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キアヌ・リーヴス主演の映画『ジョン・ウィック』を公開初日の今日、観てしまいました。公開初日に映画を観るなんて、今まで生きてきて初めて。だけど、映画館、ガラガラだったなあ・・・。『マトリックス』のスタッフがキアヌと久々に組んだ、ということで、それなりに話題なのではないかと思うのですけど。 以下ネタバレって言うか、まあバレるほどのネタもないのですけど、病死した妻から、自分の代わりに可愛がって、と子犬ちゃんを贈られたジョン・ウィックが、この子犬との生活によって奥さんの死から立ち直ろうとした刹那、とある行きがかりでロシア系ギャングのドラ息子一味にこのワンちゃんが殺されてしまったと。で、このジョン・ウィック、実は引退していた伝説の殺し屋さんだったからさあ大変。子犬殺されて頭に血が上ったジョンは、子犬を殺した若造だけでなく、最終的にはギャング全部殺すという。そういう話。 奥さんの復讐・・・じゃなくて、子犬の復讐ですからね。ギャング全員虐殺するほどの復讐の理由としては、映画史に残るほどの軽さ・・・いや、もちろん一匹の子犬の命は地球より重い、ということでしょうけれども。 だけど、うーん、まあ、それほどの映画でもないかな。点数つけるなら・・・31点くらい? 『マトリックス』とは比べ物にならない出来でございます。 大体、ジョン・ウィックは一度、相手のギャングに捕まってますからね。ギャングのボスだって、ジョンのことを殺そうと思えばいつでも殺せたのに、トドメは刺さないで、たった二人くらいの部下に「見張っておけ」的なことを言ってその場を去ってしまうので、もちろん主人公は見張りの二人を簡単にやっつけて脱出してしまう。 どうして、ギャングのボスって、最後の詰めがいつも甘いのかなあ?! ギャング映画観てれば、そんなことすれば後で後悔することになるってことが判るだろうに。学習しないよね! でも噂によると、もう『ジョン・ウィック2』が計画されているそうで。 うーーーん、どうなんだろうか・・・。 ジョン・ウィックが犬好きだということがハッキリしたんだから、『2』ではもっとハート・ウォーミングな、殺し屋とワンちゃんの珍道中的な、そういうのにした方がいいんじゃないかしら。『マトリックス』のスタッフじゃなくて、ディズニーのスタッフと組むとか。
October 16, 2015
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今週、私は火・水・木と出張3連チャンで、県内の小学校を回っていたのですけれども、今日行った小学校で面白い坊やに出会いまして。 その男の子は、多分、授業とか、しっかり聞いていられないタイプの子なのですが、校長先生のことが大好きなんですな。それで休憩時間(名古屋で言う「放課」)に、すぐに校長室に遊びに来ちゃう。 それで校長先生と私が並んで廊下を歩いていたら、早速校長先生を見つけて飛び付いてきた。その校長先生も優しい先生で、ニコニコしながら、その坊やの好きにさせているわけ。 で、校長先生が私のことを指して「このお客様は大学の先生なんだよ。挨拶しなさい」とおっしゃった。するとその坊や、満面の笑みで私の手を引っ張り出すと、子供らしい柔らかい手で握手してしてくれた。 そしてそこから校長先生と私の両方と手をつなぎながら歩き、階段のところでは最後の二段をエイッと飛び降りたりして楽しそうにしている。 もちろん彼はいつものように、校長先生の部屋に遊びに行く気満々。それで校長先生が「今日はお客様がいるから駄目だよ」と言い聞かせようとするのですが、そんなこと構うことなく、どんどん先に立って校長室に入ってしまう。そして、「校長先生、また金魚にエサやろう!」と。どうも、彼は毎日、校長先生が校長室にある水槽の金魚にエサをやるのを見るのが大好きなんですな。 で、校長先生も困ったなあと言いながら、さほど困った様子も見せず、「じゃあ、エサをやったら教室に戻るんだよ」といいながら、エサをパラパラと水槽にいれると、その坊や、金魚がパクパク食べるのを熱心に楽しそうに見ている。 結局、今日はそこまでで、他の先生に連れられてどこかへ行ってしまいましたが、私は彼に手を握られた時の暖かくて優しくて柔らかい感触がいつまでも自分の手の内に残りましてね。何だかその後の一日中、楽しい気分が続いておったのでございます。 あの坊やは、ある意味問題を抱えた子であることは明らかで、これから大きくなっていく過程で彼自身も、またご家族を始めとした周囲の人たちも、何らかの苦労をせざるをえないでありましょう。 だけど、あのまったく人を恐れず人見知りせず、誰に対しても100%の信頼をぶつけてくる無邪気さは、何か非常に尊いもののように感じられ、私のような多少ひねくれたところのある人間の心をも簡単にとろけさせてしまう。どんな鬼将軍も、無力の赤ん坊をほいっと渡されたら、あやす以外のことができなくなると言う意味で、赤ん坊こそ最強の人間だ、と言われますが、あの坊やも同じ意味において、ある種の力を持っているのかも知れません。 今日私は天使に会ったのかも知れませんな。
October 15, 2015
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用事があって、小学校5年生の道徳の授業を参観したのですが、その道徳の教科書に載っている話がひどくてね。 ある少年が自転車に乗っていて、自動車事故に遭いそうになる。実際には転んで膝を擦りむいただけで済んだのですが、そのことが家でバレて、母親にひどく叱られたと。で、母親は叱りながら、泣いていたと。 で、少年は、たいした事故でもないのに、叱り過ぎだよと不満に思うのだけど、後で父親がやってきて、「お母さんはお前が生まれる前に流産したことがあって、そのため一層、お前が生れたことが嬉しかったのだ。それでお前が事故に遭ったと聞いて、心配のあまり叱ったのだろう」と諭す。それで、少年が母親に謝りに行くと、少年が赤ん坊だった頃のアルバムを母親が見ていた。その写真の中で、赤ん坊だった少年は、母親に抱かれていた。 ってな話で、これを題材に、「命の大切さ」を学びましょうと。 何コレ? リアリティがないよね、この話! こんな母親、いる? たとえ自分の息子がこういうことをやらかしたとしても、普通の母親なら、「何やってんの、あんた! いつも自動車に気をつけろって言っているでしょ! 大怪我でもしたらどうすんの!」で終りだよね。こんなことで毎回涙を浮べたり、その子が赤ん坊の頃の写真見たりするわけないって。11歳の男の子の母親でこの程度のことでいちいちアルバム出してたりしたら、それこそ毎日、アルバム見なきゃいかんじゃん。 嘘くさい話だよね! こんな嘘くさい話を題材に道徳なんか垂れてたら、まともな子供なら、大人のインチキさをすぐにかぎつけるでしょうよ。 私は今でも思い出すのだけど、ちょうど11才くらいの時、死ぬのが怖くて仕方がなかった。自分が死ぬことと、親が死ぬこと。それを考えるだけで、毎夜、脂汗を流したもんです。昼間はそうでもないのですけどね。夜、そのことを考えると、ぐっしょり汗をかいた。 だから、このくらいの歳の子に、「命の大切さ」を教える必要なんてないと思うわけよ。そんなこと、教えられなくったって、脂汗を流すほど痛烈に知っているんだから。むしろ「みんな死ぬんだし、死ぬのはそんなに怖いことじゃないよ。特に歳をとればとるほど、あの世への親近感が増すものだから、今からそんなに心配しなくてもいいよ」って言って、慰めて欲しい位なものだ。 だけど、これがまた面白いことに、ある一定の時期が過ぎると、また死ぬことが怖くなくなる・・・っていうか、死ぬことがそれほど意識に上らなくなって、毎夜脂汗を流すことはなくなる。 私が思うに、これが自然の摂理なんじゃないかなあ。子供から大人になる途中で、一度、死への恐怖を味わう。これがきっと、「物心つく」ってことなんじゃないの? だけど、そこから先ずっとそんな風だと大変だから、一度物心ついた後は、また死への恐怖が薄らいで、普通に生活できるようになる。 私の場合はそうだったんだけど、もしこれが普遍的な人間の成長プロセスなのだとしたら、それこそ素晴らしいメカニズムじゃないの。私はむしろ、そこに感動する。 だから、最初に述べたような安っぽいお涙頂戴の、いかにも大人の都合で考え出した子供だましの小話なんか使って、「命って大切ですよね」的な道徳の授業なんかやってほしくないんだよね! それでももし道徳の時間に「命の大切さ」を教えろというのなら、もっとリアルな教材がいくらでもあるじゃないの、残念なことに。つい先日だって、トルコのテロで100人近い人が亡くなりましたが、それを報じるニュースの映像の中で、「なんで俺の息子が・・・」って泣いていた親父さんが映ってた。あの親父さんの泣き顔でも見せた方が、よっぽどリアルに、「命の大切さ」を伝えられるんじゃないの? 少なくとも、息子を突然亡くした親父さんの涙に、嘘はないからね。
October 14, 2015
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懸案だった科研費申請書類、今日、ようやく書き上げて提出しました~。書類書きがめっぽう下手な私としては、こういう申請書類書くのも面倒で面倒で、延ばし延ばしにしていたけれど、ようやく。 だけど、これもね、書き上げるまでが大変でさ。 自分じゃ完璧と思って、ボタンを押すのだけど、どういうわけかエラー表示が出るわけ。 あれ? おかしいな? 何でエラーなんだろう? で、何度も何度も見直すのですが、どこにもそれらしい書き間違いがない。これのどこがエラーなんだ、エイッ、エイッ! (ボタンを押す) これでもか! エイッ! でも、なんどやってもエラー表示。 おっかしいな・・・何が悪いのかな・・・ で、よーーーく見たら、申請する金額のところで、単位が「千円」なのを見逃していたというね。 どっひゃーーーーー! 個人で30億円の補助金を申請していたよ~! ま、見逃していた私も悪いけどさ。どうしてこの手の書類って、単位が「千円」なの? せめて「万円」にしない? 「300万円」ならすぐパッとわかるけど、「3000千円」がいくらなのか、わかりゃしないじゃないの? とにかく、30億円の申請をしないで良かった! そんなことしたら、審査員は書類の内容見る前に、私の書類を瞬殺だよ!!
October 13, 2015
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ゆっくり起きて、何の気なしにWOWOWを観ていたら、『ガタカ』をやっていたので、途中から見ることに。 このSF映画、私は以前にDVDで観ているのですが、見始めても全然内容を想い出せず、ほとんど初見の感じ。次どうなるの~って、ハラハラ、ドキドキの連続。これほど記憶から抜け落ちてるなんてこと、ある? むしろそれの方がSFだわ。誰かに記憶を乗っ取られてないかしら。 だけど、とりあえず最後まで見て、すごく感動。いい映画だねえ。 ネタバレですけど、かいつまんで言うと、『ガタカ』が描く未来社会においては、すべてが遺伝子レベルで管理されているわけ。で、遺伝子的に優れているものだけがある特定の職業につけ、そうでなければ望み通りの人生は生きられない。たとえば、「遺伝子的にこの人は将来、病気になる可能性がある」という蓋然性のハンデがあるだけで、もう、エリートにはなれない。そんな社会。 だけど、遺伝子的に劣っていると判断されても、エリート宇宙飛行士になりたいと切望する男がいた。イーサン・ホーク演じるヴィンセントという男。彼は、遺伝子的に完全ではなく、事実、極度の近視であったりするのですが、自分の夢を達成するために、努力に努力を重ね、根性に根性を重ねている。そして、遺伝子検査に関しては、ジュード・ロウ演じるジェロームから血液や尿や体毛を借りる形ですり抜けている。ジェロームは、遺伝子的には優等人種なのですが、事故で半身不随となり、自分のDNAを他人に提供することをビジネスにしているんですな。 で、ヴィンセントはそんな風に苦労しながら、自分の夢に向かうのですけれども、まったく無関係な殺人事件が起こったことで、警察の捜査が入り、そのあおりで彼がジェロームのDNAを借り、偽りの人生を生きていることがバレそうになってしまう。 果たしてヴィンセントは、この操作をかいくぐって自分の夢を達成できるのか?! ってな話。 だけど、この映画のいいところは、そういうサスペンスの部分・・・じゃない。そうじゃなくて、自分自身の「生まれ」という、自分には責任の負いようがない、しかし、必然的に負わざるを得ないものがハンデとなるという状況の中で、それを撥ね退けるために必要以上の努力をしなければならないということ、そしてそのために自分を偽らなくてはならない立場に追い込まれるということ、そういうことが持つ哀しみにあるんですな。ヴィンセントとして精一杯の生き方が、イコール犯罪だという、その不条理が、何とも哀しいわけ。 まあ、ちょっと違うかも知れないけれど、ヴィンセントの哀しみって、例えば『太陽がいっぱい』のリプリー(アラン・ドロン)の哀しみに近いかも。その意味で。 で、さらに『ガタカ』の場合は、ヴィンセントにDNA情報を提供するジェロームの側の哀しみってのもあって、これがまたなんとも切ない。DNA売買を通じて共犯関係になった二人は、ある種の友情を抱くのですが、同じDNAを持つ男が二人この世に存在するわけにはいかないので、ジェロームはある決断をする。この二人の関係というのは、これまたフランス映画を例に出すならば、『さらば友よ』におけるアラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンの間の奇妙な友情に近いかもね。 なんだかアラン・ドロンの例ばかり出すようですけど、『ガタカ』って、ちょっとある時代のフランス映画的な雰囲気がありますなあ。未来社会の話なのに、白黒のフランス映画みたいな趣があるというか。この映画でヒロインを演じるユマ・サーマンも、アメリカ的というよりは、ちょっとヨーロッパ映画的な顔立ちだしね。映画に登場する、未来社会のクルマが、未来的なデザインの真逆、まるで60年代のフランス映画に出てきそうなクラシックなデザインというところもまた、監督が意図的にそうしているのだということは明らかなわけですが。 とにかく、SF映画なのに、物悲しく切ないという『ガタカ』、教授の熱烈おすすめ!です。【楽天ブックスならいつでも送料無料】【BD2枚3000円2倍】ガタカ【Blu-rayDisc Video】 [ イー...価格:1,500円(税込、送料込) ところで、この映画にはアメリカの作家ゴア・ヴィダルが俳優として出演しているのですけれども、ゴア・ヴィダル、日本のアメリカ文学研究者の間で、ほとんど無視されていると言っても過言ではないのではないかと。最近、ゴア・ヴィダルについて研究してます、なんて話、あんまり聞かないものなあ。 だけど、本当はこういう人こそ、研究しないといけないのではないかなあ。ウィキペディア御覧なさいよ、すごくカラフルな履歴じゃないの。研究しがいがありそうな。 ポー研究する、メルヴィル研究する、フォークナー研究する、マーク・トウェイン研究する、トニ・モリスン研究する、トマス・ピンチョンやドン・デリロ研究する。いいよ、別に。だけど、他にも重要な現代作家がいるんだから、それはそれで誰かがやらないといけないのではないの? 日本でゴア・ヴィダル研究する人、日本でE・L・ドクトロウ研究する人、日本でジョン・チーヴァー研究する人、日本でジェームズ・サーバー研究する人、誰もいない、というのは、どうなの? アメリカ文学会の会員、1400人もいるのに、どうしてもっと研究対象が多彩にならないんだろう。どうしてみんな、おんなじ作家ばかり研究するんだろう。少なくとも、ジェンダー系の研究者だったら、ゴア・ヴィダルから言えること、沢山あるだろうに。 今、ゴア・ヴィダルを研究し始めたら、多分、研究を始めたその日に、「日本におけるゴア・ヴィダル研究の第一人者」になれる。どうして、そういうことを狙わないんだろう。常にそういうことを狙ってきた私からすると、解せないですなあ。
October 12, 2015
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週末、京都大学を会場にしてアメリカ文学会の全国大会が開かれ、私も前日の代議員会から参加して参りました。 で、代議員会というのは、各支部から選りすぐりの先生方が代表として出ていらしての会議なので、メンバーは豪華。ですから、代議員会の後の懇親会がまた情報交換の場としてすごく楽しいわけ。 で、そのメンバーの中に、数年前にサントリー学芸賞を取った研究者(まあ、私の後輩にあたるのですが)が居たので、「あのさあ、サントリー学芸賞とると、人生変わる?」って聞いて見た。 サントリー学芸賞というのは、日本の人文学関係では多分もっとも華やかな賞、しかも賞金が大きいので有名な賞ですが、あれは事前に何の予告もないんですってね。他の賞だと、事前に「最終候補に残ってます」的な予告があるものですけど、サントリー学芸賞はそういうのがない。だから、ある日いきなりケータイに電話がかかってきて受賞が知らされると。私の後輩も相当びっくりしたそうですが。 で、この賞を取るとどうなるか。 どうなると思います? とたんに10社くらいの出版社から声がかかるそうです。で、そのうち6社くらいは、「うちで、新書書き下ろしませんか?」という形で誘ってくるのだとか。最初から新書狙いなわけですよ。 だから、その波に乗ってじゃんじゃん新書を書き下ろしていくと、一気にメジャーになれると。 ふーん、そうなのか! ただ、あいにくちょうど賞をとったころ、彼のところでは赤ん坊が生まれたりして、小さい子ふたり抱えて大わらわ。とても新書を書き下ろす暇がなく、そのチャンスを棒に振った挙句、賞金はおむつ代に消えたのだとか。まあ、それは彼の謙遜だと思いますけどね。 だけど、やっぱりサントリー学芸賞って、大きな賞なんだってことがよく分かりますよね。 その他、色々な先生とお話して、例えば今私がやっている自己啓発本の研究についても、『アイヴァンホー』で名高いウォルター・スコットという作家は、自己啓発本著者という認識でその作品が読まれていた、なんて意外なことを教わったりして、とても有意義な時間が持てたのでありました。 で、一夜明けて土曜日。本来はここからが学会のスタートであります。 因みに学会は土曜の午後スタート。一方私は代議員会のアレで京都には前日入りしておりますので、土曜の午前中が空いている。ということで、今、京都市美術館で開催されている「マグリット展」を見に行くことに。なにせこの展覧会、会期が12日までなので、ギリギリ間に合ったというところ。 そしたら、これが良かったのよ。マグリットの初期の作品から晩年の作品まで、有名なのが揃っていて。見応えがありましたねえ。 で、マグリット展を堪能した後、京大北門にある進々堂で名物の「カレー&パンセット」などを食しながら、古本屋めぐり。 事前に『京の古本屋』という本で勉強してから、それに従って古本屋めぐりをしたのですが、この本の地図に示されたところに行っても当該の古本屋が無かったりして(潰れたのか?)、結構な確率で空振りし、無駄足を踏んだりして疲れ切ったという。なにせ京都というところは、中心部から外れるととたんに足の便が悪くなるので、ひたすら歩くわけですが、荷物もあるし、まあ、疲れた疲れた。 あんまり疲れたので、どこか座る場所はないかと考え、そうだ、学会に行けばいいんだ、と気づいて、学会の研究発表をやっている教室に腰を下ろし、一休み。おかげで今回は、私にしてはめずらしくがっつり研究発表を聴いてしまったという。中で一つ、19世紀末の黒人作家による探偵小説の発表が私には面白かったかな。黒人のメイドが実は探偵だった、という小説があって(「家政婦は見た」的な?!)、当時、白人からしてみたら黒人のメイドなんて、存在していても存在していないがごとき存在、つまり invisible な存在だったので、黒人メイドが近くにいるのに悪巧みの相談とかしてしまい、それで悪事が全部探偵にバレるという、すごい内容なのだとか。 また探偵小説というと、探偵が変装してどこかに忍び込む、などという場面が必ず出てくるものですが、白人探偵が黒人に扮する、というような形で、カラーラインを越えて出入りする、というような話も多く、それは、それとはまったく別のシチュエーションのカラーライン小説、たとえば、見かけ白人に見えるけど実は黒人の物語、とか、ほとんど白人に見える夫と結婚したら、生まれた子供が隔世遺伝でもろ黒人の肌色で、色々トラブルが生じる、的なカラーライン小説の流行と合わせて見ると面白いのではないか、というような発表だったのですけど、なるほど、その辺に面白いことが色々ありそうです。 そんなこんなで、ただ「歩き疲れたから」という理由で研究発表を沢山堪能してしまった後は、これまた楽しい友人との夕食。せっかく京都に来ているわけだから、ということで、今回は「めなみ」というおばんざいの店にしけこみ、きさくな京料理をつつきながら旧交を温めた次第。特に湯葉春巻きとぐじの塩焼き、そしてシメの栗ごはん(with 味噌汁&漬物)が美味しかったなあ。話の方も、あけっぴろげで突っ込んだ話が出来て良かった。 ということで、今回の学会、すごく疲れたのですが、収穫の多いものとなったのでした。
October 11, 2015
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最近の我が家は緑茶ブームなんです。 と言いますのも、先日、静岡県出身の先輩同僚、「アニキ」ことK教授と話をしていて、話題が緑茶のことに及びまして。 K先生の奥さまもお茶どころ静岡のご出身ということで、K先生宅では三度の食事の時に緑茶を飲まないことがないと。むしろ、緑茶がなければ、食事ができない、という感覚だというのですな。 我が家では、食事の時にそこまでお茶に執着がない。もちろん、食後に何か飲むことはありますが、それはコーヒー(インスタントを含め)のことが多いかな。 でも、そう言う話をしていたら、話に加わって来た他の若手の先生も、「私も食事の時は必ず緑茶を飲みますよ」と言うのでちょっとびっくり。え、そうなの? そういうもの? 日本人って、そういうものだっけ? で、さらに、食事の時に飲むのは緑茶に限られるの? ほうじ茶はダメ? と尋ねると、K先生曰く、自分の家ではほうじ茶をほとんど飲まないと。っていうか、ほうじ茶とか番茶なるものの存在を知ったのは、よほど大人になってからだと。大人になって、初めてほうじ茶を出された時、「あーー、それで『茶色』っていう言葉があるんだ!」と感動したのだとか。それまで、お茶の色はグリーンなのに、何で褐色のことを茶色というのか、分からなかったのだそうで。 まじすか?! とまあ、そんな話をしてから、我が家でももう少し緑茶を飲まないといけないのではないかということになり、最近、夕食の時には緑茶を飲むことにしております。 でも、飲み終わった後の茶葉の処理が面倒なので、ほれ、あの、煎茶の茶葉を粉状に挽いた奴、インスタントコーヒーみたいに、お湯に溶かす奴、あれを飲んでいるのですが。 で、そのことをK教授に報告すると、「粉のお茶か・・・。まあ、生水を飲むよりはいいだろう」ですって。静岡県人にとって、やはり粉茶は邪道だったようで。 でも、緑茶はビタミン豊富、カテキンもとれて、健康にはいいのでしょうから、習慣としてはいいのかな? とりあえず、しばらく「食事の時は緑茶」習慣を続けてみたい私なのでありましたとさ。
October 8, 2015
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連日、日本人がノーベル賞を受賞したという吉報が届いております。大したもんだねえ、日本人も捨てたもんじゃないねえ。 物理学賞の梶田さんは、小柴さんと同じく、「謎の物質」であった「ニュートリノ」の尻尾を捕まえることに成功したことが評価されての今回の受賞ということですが、ニュートリノというのは小さすぎてなんでもすり抜けてしまうので、今までなかなか存在を掴み切れなかったものの、実際には無数のニュートリノが今この瞬間もなお、宇宙空間を突進していると。 こういう話を、自己啓発本の研究をしている今、耳にすると、感慨深いものがありますなあ。というのは、引き寄せ系自己啓発の元となるニューソート、さらにその元になるスウェデンボルグは、18世紀の時点ですでにこの宇宙は「始原の太陽」から発せられる無限のエネルギーの流入によって成立していると明言しておりますからね。当時の時点ではそれを立証はできないかもしれないけれど、後世になればそれも立証できるようになるだろうと。 というわけで、ニューソート系の信者によれば、「ニュートリノ? だよね? 知ってる知ってる、300年前から知っている~」ということになる。 ようやく人文学系の知識に科学系が追い付いてきたかと。 大分遅かったけどね! それは冗談として、これはマジな話としてこういう良いニュースを聞く度に思うのですけれども、小柴さんにしても梶田さんにしても、あるいはこれまでノーベル賞を受賞してきた日本の科学者にしても、大学がのんびりしていた時代に育ち、大学がのんびりしていた時代に所属して研究したり教鞭を執ったりしていた人たち、ですよね? じゃあさあ、大学がのーんびりしていて、なんも問題なかったんじゃん。っていうか、それだからこそのこの結果なんじゃないの? 今はもう、大学なんてところはせちがらくて、あれやっちゃいかん、これやっちゃいかん、この書類出せ、あの書類出せ、計画建てろ、計画が思惑通りに進行しているかどうか評価しろ、そして報告しろ、金は出さないから自分たちで捻出しろ、授業は半期15回やった上で16回目に試験しろ、学生の相談乗れ、学生に成績を手渡ししろ、学生の親と面談しろ、校費で買った本がちゃんと研究室にあるかどうか、2千冊なら2千冊、3千冊なら3千冊、全部確認して報告しろ、FDやれ、科研費もらいたかったら、科研費不正受給防止のためのビデオ2時間見てから試験受けろ、あれやれ、これやれ・・・・ってもう、大変なことになっていまして、これらすべてのために研究時間なんかまるでとれないんだから。 で、これらすべて、「大学がちゃんとしているってことを世間の人に認められるためには必要なこと」とされているんですけど、それをやると大学がちゃんとできなくなるというのがどうして分からないのかね、文科省。 こんな風に日本の大学が文科省に振り回されて、このシステムの中で研究せざるを得なくなっている中、果たして20年後、30年後に、日本人のノーベル賞受賞者がパタッといなくなりました、ってなことになっちゃうんじゃないの? どうなの? こんなくだらないことを大学の先生にやらせないで、20年前みたいに、のーんびりしたところに戻せばいいのに。 新しい文科大臣は元プロレスラーですけれども、今のこのくだらないシステムに、バックドロップくらわしてくれないかなあ。頼みますよ、ほんと。将来にわたって、日本人がノーベル賞録り続けるためにも。
October 7, 2015
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大学院の授業、今日は初日だったので、やるべきことが早目に終ってしまい、後は3人の受講生のうち、来年修論を書く2人にそれぞれ修論への意気込みというか、どんなことを書くつもりか、訊ねてみました。 で、それぞれディラン・トマスとジェイムズ・ボールドウィンについて書くとのことだったのですが、要するに作品を読み、それについての批評を読み、その上で自分の考えを整えて、何か言ってみるつもりであるということらしい。 うーん。つまり、正攻法ということですな。 だけど、最近、正攻法で文学論をやってない私からすると、「そういう風にやる」と言われると、一抹の不安が。 つまり、そのやり方だと、論文ではなく感想文になるのではないか、と。昔、自分自身がそう言う風にやっていて、結果として感想文を書いてきた私としては、そのやり方で感想文以外のものになる筋道が分らなくなっちゃった。 文学論って、結局、どうやるんだっけ? もちろん、本当のところは、その感想文が一番大事で、人間ってのは、感想文の形でしか対象を理解できないと思います。つまり、自分にとってその作品、その作家は何なんだ、ということですな。たとえそれが間違っていようが、そう言う風に理解している以上、その対象となる作品は、そう言う形で当人にとって血肉となっているとしか言えない。だから、その感想文が一番大事。 だけど、それはパーソナルなもので、論文ではないのではないかと。 何か、こう、証拠に基づいたもの、そういうものに立脚してないとなあ。他人に提示できる証拠、というか。 例えば私が指導している院生は、ジェイン・オースティンの日本での受容、ということをやっているわけですが、彼女によれば、オースティンの全6作品はすべて邦訳があるとはいえ、その邦訳の数と刷数からいって、『高慢と偏見』だけが突出している。そのことは数字で出るわけ。 だから、この数字を基にして、「日本では『高慢と偏見』が圧倒的に人気だ」ということが言えるわけ。これはもう、動かしようがない事実。 これは一つの例ですが、そういう事実を積み上げて行って、何か言えることがあるとすれば、それは論文になっていると思う訳です。だから、私は私の指導院生にはそういう書き方をさせているわけですが。 とはいえ、じゃあ、そういうの以外、文学論ってのは存在しないのか、と問われると、私もいささか心もとない。 文学論って、どういうことを指すんだっけなあ・・・。 今週末の京都の学会で、日本中の研究者が文学論を披露するわけですけれども、どういうのが文学論だったか、思い出せたらいいなと思います。
October 6, 2015
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昨夜、何の気なしにテレビをつけていて、たまたまラグビー・ワールドカップの日本対サモア戦をやっていたので、チラ見していたのですが、見ているうちについ引きこまれてしまって、最終的にはワーワーキャーキャーの大応援になってしまったという。 ラグビーなんて、ルールもよく分かっていなくて、ボールを前に投げちゃダメ、くらいしか知らないのですけど、見ていると、あの大男たちがかくもと思われるほど上手にボールを繋ぎつつ、走る時はめちゃくちゃ速い! それで、こちらが押し込んでいると思っていると、何かの拍子にボールが相手側に渡り、そこからあれよあれよという間に逆に攻め込まれてしまう。その攻防の展開の早さ。ハラハラし通しです。 なるほど、根強いラグビー・ファンが居るのも分かるなあ! 見ていて面白いもんなあ。 もちろん、それで日本が負けるならつまらないんですけど、勝つからさらに面白いよね。 サモアなんて、体格もでかいし、なんか強そうなんだけど、それを体格で劣る日本チームが、チームとしての総合力で圧倒するっていうね。そこがまた痛快だしねえ・・・。 サッカーもワールドカップの時だけはファンになる私ですが、今回のラグビーの試合を見て、ラグビーに対する観念を大分変えました。12日のアメリカ戦も見ちゃおうかな! それにしても、怪我をしそうな球技だよね! アメフトはまだ防具があるけど、ラグビーは生身に近いもんなあ。日本代表選手の皆さん、怪我しないよう、また素晴らしい試合を見せて下さいな。
October 4, 2015
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先週の土日は公務で出勤していたので、今日は久しぶりの休日。 だけど、結局、書類書きで一日終わったので、実質、残業だよね・・・。トホホ。 因みに今日、書いていたのは科研費の書類。要するに勤務先の大学からではなく、文科省から研究費を分捕ってくるための審査書類よ。 まあ、世間の皆さんはよく分からないと思いますが、日本って国は教育に一切金を出したくないと思っているしけた国でやんして、国立大学の教授に与える一年間の研究費をガンガン削っているんです。 で、噂によれば、来年度、うちの大学の教授に与えられる研究費は20万円程度になるらしい。 2、20万? なにそれ? お年玉? たった20万円で何を研究すりゃいいってのよ?! で、大学から研究費がもらえないなら、他所から取ってくるしかない。というわけで、科研費を取るしかない、ということになるわけ。で、私もせっせこ申請書類を書いていたわけ。 これがいわゆる、競争的資金、ということなんですな。研究したい奴は、競争して科研費を取れと。 だから、日本中の大学の先生方が、必死で書類を書く。あんまり書類ばかり書かされるので、研究する時間はどんどん少なくなると。 つまり、科研費というのは、研究ではなく、書類を書くことに対して与えられるお金なわけ。だけど、それだけじゃない。取ったら取ったで、このお金をどう使う予定か、実際にどう使ったか、使った結果どうなったか、ということについて書類を書かなくてはならない。 だから、もう大学の先生は研究するヒマなんかないのよ。書類を書く時間しかない。これが「競争的資金」の実態。 バカだね、文科省。結局、お金はいい研究している奴じゃなくて、書類書くのが上手い奴のところに行くことになるってのに。 でも、とにかく、20万円じゃどうしようもないので、書くしかない。 ということで、今日も一日潰れた。明日も一日、書類書きで潰れるでしょう。 いやはや・・・。
October 3, 2015
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新学期も始まり、衣替えの季節にもなり、今年も残すところ3カ月になりましたなあ。 で、今日、同僚との雑談の中で、紅白歌合戦の話になりまして。 果たして、今年は何が歌われるのかと。 昨年はまだ「アナ雪」がありましたが、今年はその手のヒットソングもないのではないかと。 うーん、そう言えばそうですね・・・。何かありましたっけ? 「あったかいんだから」? あれ、今年でしたっけ? そんなもんか・・・。 昭和の歌謡曲の時代は、大人も子供も、誰でも覚えてしまっているヒット曲ってのが山ほどあって、それを歌合戦形式で大晦日に聞くと、「ああ、今年も色々あったなあ・・・」という感慨がありましたけど、そういう「歌は世につれ、世は歌につれ」的なものが無くなりましたね。 ま、どっちにしろもう紅白なんて、何十年も見たことないですけれども。 しかし・・・それにしても、「今年の歌」っぽいものが殆んど思いつかないとなると、ちょっとこう、いよいよ寂しい感じがしてきますね。
October 2, 2015
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前に私が始末書を書いた、という話を書きましたが、あの後日談が出てきまして。 大学の出版会から本を出した時、製作費よりも安い値段で定価をつけたところ、大学の事務からクレームがついて、印刷を担当してくれた会社に迷惑がかかりそうになったことがあったわけ。 で、そうなると担当してくれた印刷会社のMさんという人に迷惑がかかると思ったもので、とにかく私が始末書を書いて、悪いのはぜーーんぶ私なので、Mさんは一つも悪くない。それどころかMさんはうちの大学の卒業生で、いつも誠実に真面目に仕事をしてくれる。そのMさんに迷惑が掛かっては申し訳ないので、Mさんの会社にクレームつけるのはやめてくれと、圧倒的な謝り方で謝ったんですわ。 で、それはそれで片が付いたのですけれども、これがね、案外いい方に話が回ったらしいんです。 私が始末書の中で、Mさんはうちの卒業生で、当該の印刷会社ですごく頑張っている、いつもいい仕事をしてくれる、ということを書いて、その始末書が大学の事務のあちこちに回ったおかげで、Mさんを応援してやろうという機運が盛り上がったらしく、うちの大学の仕事がMさんを通じてMさんの会社に依頼されるようになったんですな。 それでMさんから私にお礼のメールが来たと。 いやあ、そうでしたか。そいつは良かった! 前にこの話を書いた時も、始末書は男の花道、泣く子も黙るような始末書を書いてやるぜ、と啖呵を切りましたけれども、実際、そうなったでしょ。 だから、相手に有無も言わせず圧倒的に謝るってのが、いいんだよね。謝り方って、重要よ。謝り方ひとつで、その後が良くなったり悪くなったりしますからね。 ま、とにかく今回はめでたしめでたし。Mさんのために少しだけでも役に立って、私も光栄でございます。
October 1, 2015
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