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「大歳山遺跡」徘徊日記 2020年4月28日 舞子坂あたり お天気に誘われて、ちょっと徘徊。団地から、大通りを避けて南に歩くと第二神明道路にぶつかります。神戸から姫路に向かう自動車道路ですが、その地下道を南に抜けるのが最近のコースです。 いつもは原付シマクマ号で通ります。今日は歩きです。このトンネルを出ると清水ヶ丘という、坂の底のような谷間の住宅街なのに「丘」とついている町に出ます。東西に歩いても南北に歩いても坂道です。 この小さな坂の突き当りに見える山のふもとを西、つまり、写真の右に向かって歩くと下り坂で、舞子坂という通りに出ます。 舞子坂の3丁目くらいです。正面、南に明石大橋が大きく見えていますが、普段は気付きません。橋は風景に溶け込んでいて写真に撮ってみた時に、ああ、ここからはこう見えるんだと驚きます。ここから橋の起点のJR舞子駅までは1キロくらいです。 この地点で西に道を渡れば「大歳山遺跡」公園です。 見えてきました(さっきからずっと見えていますが)、このマンションが目印です。この建物の左の奥が公園です。この建物は、我が家の「愉快な仲間」たちには懐かしいかもしれません。オジーちゃんが住んでいたことがあります。 着きました。今回は写真をくどくど撮って、大変な道のりのようですが、歩き始めて30分くらいです。階段を上がれば一面芝生、200メートル四方くらいの緑地です。緑地全体が前方後円墳の上に載っているようです。 看板があります。すぐ西側を山田川が流れていますが、その川の河口のそばの丘だったようです。 明石原人の棲家だったそうです。今は海まで1キロくらいありますが、すぐそこまで海だったんでしょうね。この角度から撮ると橋がすぐそこです。 竪穴住居の向こうに明石大橋が見えますか。目をあげるとこんな感じです。 海の向こうは淡路島です。舞子の街並みが一望ですが、そんなに大きな町ではありません。でも、明石原人の昔からというのはよくわかりませんが、弥生時代には確実に人が集まって暮らしていた町なんですよね。まあ、2000年の昔からと考えるとこの風景も感慨深いですね。 公園の南のヘリまで行って橋を撮ってみます。あれこれ撮りましたがこれで見ると橋の大きさがわかります。 橋の上の、小さな小箱に見えるのがトラックですから、やはり巨大なものですね。振り向いて公園を見ると、よちよち歩きのおチビさんとお母さんがニ三人、シャボン玉を飛ばししています。我が家の「ゆかいな仲間たち」もあんな風に遊んだ場所です。 ベンチに座っている男性が一人、女性の二人連れくらいです。ここなら、誰とも「濃厚接触」する恐れはありません。 おや、後円墳の上、すこし小高くなっている芝生に男性が一人座っています。膝の上に何かいますよ。 「フッ、フクロウ!?」 どうやらフクロウの日向ぼっこのようですね。驚きました。不思議な光景です。これがあるから「徘徊」は続けられるんですよね。 さて、もう少し南に歩くことにしましょう。ボタン押してね!
2020.04.30
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「てっせん」は「鉄線」と書く。知ってました? ベランダだより 2020年4月28日「春ですね!満開」(その8) 「てっせん」の花って漢字で書くと「鉄線」とか「鉄仙」とかなのだそうです。ちょっと驚きました。カタカナだと「クレマチス」なんだそうです。呼び名はいろいろあるようです。わが家のベランダでは一鉢だけですが満開です。 数日前から咲き始めました。 ニ三日前はこんな感じでした。最初に咲いた大きな花の隣に蕾が、二つ三つありました。ちょっと角度を変えてみますね。 こちらの方が蕾がよくわかりますね。これが二日後かな?今日は下の写真のようになりました。 花の数が増えたように思えますが、最初の花はもう萎れています。うれしいので、もう一枚、これも角度を変えて撮ってみますね。 おわかりでしょうか、二日前の花は萎れかけて、二つのつぼみが大輪に花になっています。何だか、この変化はすごいですね。どうも、そういう花であるらしいですね。きのふ見て 早や鉄線の 花あらず 三橋鷹女つつましき 夏のはじめや 鉄線花 森澄雄クレマチス どの家も 母の 双手浮く 伊丹公子 そろそろ四月も終わりですね。「卯月」は旧暦なら夏です。だから、もう、とっくに夏なんですね。新コロちゃん騒ぎで、部屋の中に閉じこもっていることが多いのですが、このところの天気と相まって、窓からの冷気がいつまでも春先の感じなのですね。 今日、思い切って徘徊に出てみると、家の中より外の方が、ずっと暖かいのです。シロツメ草は満開ですし、タンポポは風に揺れています。昼前から午後過ぎの日射しは暑いほどで、上着を脱いで歩きました。「ちょっと、テッセンが咲いたわよ。」 我が家での「鉄線」の開花は、数日前の朝、チッチキ夫人の一声で知りましたが、伊丹さんの句を読んでいて、そういえば、子どもの頃「母」の自慢の鉢だったことを思い出しました。 2020・04・28ボタン押してね!母の日ギフト クレマチス テッセン 鉢花【カーネーションより人気の鉢植え】【送料無料】
2020.04.29
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「舞子墓苑」 徘徊日記 2020年4月18日 舞子坂あたり 舞子墓苑の北側のふもとが清水ヶ丘という住宅地です。山陽バスの車庫とかもあります。自宅からは南に見える阪神高速の海側にあたります。歩いて10分程です。清水ヶ丘の坂を東に登ると墓苑の入り口があって、大きな木が生えていました。 清水ヶ丘のマンション群の南側にある山沿いの道を歩いてここに着きました。新緑の楠です。木立の奥を右側に登れば「舞子墓苑」の丘に出るはずですが、「墓苑」の入り口だと思った道は行き止まりでした。しようがないので、マンションと宅地の間のカギのかかっている路地を無断で通行して、バス道に戻りました。叱られそうなので写真は撮りません。 もう少し東に登って墓地に入りました。ようやく丘の上に出る道を見つけました。新緑です。もちろん誰もいません。 しばらく歩くと山桜です。杉とか椚とかの、新緑の中にポツンポツンと桜の木があって、八分咲きくらいです。 「敷島の大和心を人とはば…」なんていう和歌がありましたが、今はお昼過ぎだし、あんまり好きでないので、省略しますが、杉木立の中の山桜は、なかなかいいものです。 大した坂道ではないのですが、息が切れて、お茶を一口飲んで、写真をパチリ、パチリ。 丘の上に出てきました。明石の大橋が向こうに見えます。手前は石塔ですが、写真に撮るのもどうかと思って、橋がもう少し見えるところまで歩きます。 おや、躑躅が満開です。 花が密集して咲いていて、中々ですが、株が少し小さいですね。 これは近くにあった別の株です。花の色が少し違います。 墓苑を東西に横切っている車道の並木です。車道は東に行くと星ヶ丘、星陵台。西に行くと舞子坂かな。でも、ほとんど通行はありません。並木は貝塚伊吹ですが、風が強いい丘の上なので北向きにひしゃげています。海からの風ですね。写真ではよくわかりませんが、面白いので撮りました。 ホラ、ようやく全景が見えました。明石大橋ですね。海も見えます。林の向こう、橋のたもとに見えるのはJRの舞子駅あたりの高層マンションですね。近そうですが、2キロくらいあります。 手前の白いのは、墓苑の桜です。染井吉野だと思います。 ここまで、約40分。汗ばんでいい気分です。なにしろ人がいません。もう少し夕方になると散歩の人が出てきそうですが、この時間、午後3時くらいは爽快です。 みなさん、密集を避けた散歩はお墓がいいかもしれませんね。うーん、ヤッパリ変か?ボタン押してね!
2020.04.28
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吉本隆明「佃渡しで」(「吉本隆明代表詩選」(思潮社)」 「佃大橋から勝鬨橋を臨む」 「佃大橋」 東京の月島に住む友人が歩いて「佃大橋」を渡っています。ぼくには「佃大橋」とか「月島」とかの地理がよくわかっているわけではありません。フェイスブックに投稿された、晩春の隅田川の風景や、人も車もほとんどいない大橋の写真を見ていると東京で暮らす知人たちのことが思い浮かんできます。みんな、無事で元気にしているのでしょうか。 今日は2020年4月26日です。こんな感慨を持つ日がやってくることは、さすがに、予想できませんでした。 「佃大橋」という地名を見て、詩人の吉本隆明の死と彼が1960年代に書いた詩を思い出しました。 佃渡しで 吉本隆明佃渡しで娘がいつた〈水がきれいね 夏に行つた海岸のように〉そんなことはない みてみな繋がれた河蒸気のとものところに芥がたまつて揺れてるのがみえるだろうずつと昔からそうだつた〈これからは娘に聴えぬ胸のなかでいう〉水はくろくてあまり流れない 氷雨の空の下でおおきな下水道のようにくねつているのは老齢期の河のしるしだこの河の入りくんだ掘割のあいだにひとつの街がありそこで住んでいた蟹はまだ生きていてそれをとりに行つたそして沼泥に足をふみこんで泳いだ佃渡しで娘がいつた〈あの鳥はなに?〉〈かもめだよ〉〈ちがうあの黒い方の鳥よ〉あれは鳶だろうむかしもそれはいた流れてくる鼠の死骸や魚の綿腹(わた)をついばむためにかもめの仲間で舞つていた〈これからさきは娘にきこえぬ胸のなかでいう〉水に囲まれた生活というのはいつでもちよつとした砦のような感じで夢のなかで掘割はいつもあらわれる橋という橋は何のためにあつたか?少年が欄干に手をかけ身をのりだして悲しみがあれば流すためにあつた〈あれが住吉神社だ佃祭りをやるところだあれが小学校 ちいさいだろう〉これからさきは娘に云えぬ昔の街はちいさくみえる掌のひらの感情と頭脳と生命の線のあいだの窪みにはいつてしまうようにすべての距離がちいさくみえるすべての思想とおなじようにあの昔遠かつた距離がちぢまつてみえるわたしが生きてきた道を娘の手をとり いま氷雨にぬれながらいつさんに通りすぎる 友人が渡っている佃大橋が竣工したのが1964年8月だったそうです。「東京オリンピック」の年の夏ですね。 詩の題名になっている「佃の渡し」は佃大橋の竣工とともに廃止されたそうです。詩のなかに「河蒸気」の姿が描かれているところ見れば、渡し船がまだ運行していた世界が描写されているようですが、詩人の目の前には1961年に着工され、工事中の大きな橋が見えているようです。 一人の少年の思い出の世界は、今、大きく変貌しようとしているようです。この詩において、それは、「すべての距離がちいさく見え」始めた詩人自身の変貌であり、少年たちが「悲しみ」を流すためにあった「橋」の働きが失われていく社会の変化でもあったのではないでしょうか。 そこから60年の歳月がたち、詩人がなくなっ2012年からでも、10年近くの時が流れました。 身を乗り出して「永代橋」の写真を撮って送ってくれている友人は、橋のたもとに、今でも60年前の「佃の渡し」の痕跡 を見つけることができるのでしょうか。追記2020・04・27 早速、友人から「船着き場だった場所」にモニュメントとがあるという返事が来ました。山の中の田舎で育ったぼくには、吉本隆明のこの詩の「水辺」の光景は魅力に満ちていました。 彼には「佃んベえ」という、「ベーゴマ」についてのエッセイもありますが、「ベーゴマ」遊びを知らない田舎者には、異国の郷愁の味わいの文章でした。追記2024・05・30 お腹にアナを三つ空けて、何も判らないうちにはれ上がった虫垂を、おへそのアナから取り出すという手術が終わった夜、そうはいってもこわばったお腹を抱えて、眠れるわけでもないし、手近にあったスマホをいじりながら昔の投稿記事を読んでいて、偶然見つけた吉本隆明の詩に思いがけなく夢中になるという、ここの所忘れていた体験をしました。 十代の終わりから繰り返し繰り返し読んだ詩人ですか、どうも、もう一度読み直す時期がやって来たようです。 読み直した詩を、少しづつ「読書案内」していこうかなと思いました。お楽しみに(笑)。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.04.27
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「朝霧堂本舗」 徘徊日記 2020年4月25日 明石銀座あたり 明石の「魚の棚」を東に出ると「明石銀座通り」というアーケードの商店街ですが、それを南に少し歩くと「朝霧堂本舗」というお餅屋さんがあります。店構えは「お菓子屋」さんですが、季節の「餅菓子」が我が家のお気に入りです。 今は「イチゴ大福」が終わりかけで、「柏餅」が始まったところですね。お店の前の平台に、「二つ入り」とか「三つ入り」とかプラスチックのパックに入れて、何の飾り気もなく並べられている風情がぼくは好きです。 今日は「イチゴ大福」三つ入り、「柏餅」三つ入り、両方とも出来たてでした。 これが「イチゴ大福」です。お餅に苺が入っているんですこのイチゴ大福は。そこがチッチキ夫人の心と味覚を奪ってしまいました。 なぜ三つ入りを買うのかというとね、一つ食べると、次!なんだそうです。半分に切ったのは写真のためなのですが、この半分と一つは、当然、彼女の胃袋に収まったというわけです。 これが「柏餅」です。こっちも、しっかりお餅です。小ぶりですが食べでがあります。あと口がさっぱりしているのは、餡の甘さとお餅のバランスのよさでしょうか。ぼくは草餅が好きなので、この草餅はぼくが食べました。 忘れていました。「朝霧堂」といえば、我が家ではまず「蒸しパン」なのでした。冬の間は黒砂糖で味付けされているようで、茶色いパンなのですが、夏にさしかかると白い蒸しパンになります。今日は今年になって、初めて、白い蒸しパンでした。 これが、「蒸しパン」です。上に載っているのは餡に焚いた小豆ですね。この写真では、パンも小豆も見た目は小さいですが、これでショートケーキの大きさです。 朝霧堂では、このパンが人気です。明石には図書館に行くのが定期的な用事ですが、出かけるのが4時過ぎになるのです。すると売り切れてますね。 図書館が閉まってしまったので、朝霧堂に行くのが用事になってしまいました。で、お店に着くのがお昼過ぎです。すると、出来たてに出会えるというわけです。 明石には「魚の棚」という、もう一つの目的もあるのですが、「魚の棚」では「男」のぼくは、並んでいる魚を見ていて、何を買っていいのかわからなくなって、ウロウロ、オロオロして、お店の人にまで迷惑をかけてしまうんですね。 「こんなにアジを買っても困るんじゃないか?」とか。 「ああ、あの鯛の子食べたい。」とか。 「エエーこの魚どうやって食べるの。」とか。 まあ、そうは言いながら、チッチキ夫人に褒められたい一心で、イヤイヤ、ホントは買い物がうれしくて、ウロウロしているんですがね。 もっとも、今日は「朝霧堂」で大漁で、お魚はなしでした。 ボタン押してね!
2020.04.26
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ちばてつや「ひねもすのたり日記(3)」(小学館) さて、「ひねもすのたり日記」第3巻ですね。後期高齢者の日常を生きるちばてつや先生、マンガ大学の学長さんまで務めるご活躍で、とても「ひねもすのたり」どころではなさそうですが、ここで語られる交友や日常の失敗談は、彼の人柄を感じさせて笑えますね。 もう一つのメイン、思い出の記の読みどころは、マンガ家「ちばてつや」誕生秘話でした。 時は昭和三十年代の初めころですね。「貸本屋」ってご存知でしょうか?薄暗い棚にずらりとマンガの単行本が並んでいて、ビニール・カバーがついていました。一冊十円だったと思いますが、子どもの小遣いの額で数日間(?)借りて返すわけです。 ぼくが育ったのは、村によろず屋が一軒しかない田舎でしたが、最寄りの国鉄の駅の近所に一軒だけ貸本屋さんがありました。全国で3万件の貸本屋があったそうです。グリコの十粒入りのキャラメルが十円の時代です。 ぼくは週刊の少年マンガ誌、「少年マガジン」と「少年サンデー」が創刊された後の中学生でしたから、この「貸本」文化の恩恵には直接には与かってはいません。しかし、貸本マンガブームがマンガ家を育てました。 赤塚不二夫、さいとう・たかを、白土三平、永島慎二、ぼくが二十代にかぶれたマンガ家たちですが、皆さん貸本マンガを描くことでマンガ家になったようです。ちばてつやはその最後列の一人だったようですね。 マンガが好きな高校生、「千葉徹彌」くんが貸本マンガの出版社「日昭館」の国松社長に出会い、マンガのイロハを教えられ「マンガ」を描きはじめます。 初めて原稿料をもらった作品が、貸本マンガ「復讐のせむし男」というマンガだそうです。高校生マンガ家の誕生ですね。やがて、倒産の憂き目にあう、恩人国松社長とその奥さんの最後のアドヴァイスが筆名でした。 国松社長は本名の千葉徹彌を眺めながらこういいます。「固たっくるしくて、むずかしい・・・いっそひらがなにしたらどうだ?」 少年マガジンでマンガを読み始めた世代にとっては「ちかいの魔球」、「紫電改のタカ」、そして「あしたのジョー」のマンガ家、全部ひらがなの「ちばてつや」誕生! です。 二つ目の読みどころはこのページあたりですね。「ちかいの魔球」の誕生秘話です。 まだ高校生だった「千葉徹彌」くんはマンガ家ちばてつやにはなったものの、最初のスランプに直面します。「ちばてつや」を生み出してくれた出版社「日昭館」の倒産、苦手な「少女マンガ」家としての苦悩の日々が詳しく語られています。救ったのは「少年マンガ」を描く場を与えた「少年マガジン」でした。 若い人はご存じないでしょうが、「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉があった時代です。プロ野球の巨人軍をネタにすれば、必ず売れるという営業方針でやってきたのが「野球マンガ」の執筆依頼でした。苦しみ続けた少女マンガから逃げ出せるという喜びで、一も二もなく引き受けたちばてつやですが、なんと彼は野球を知らない、キャッチボールすらしたことのない青年だったのです。 現在65歳のマンガ老人シマクマ君が、人生の最初に熱中した野球マンガ「ちかいの魔球」の作者はピッチャーズ・マウンドのプレート板の存在すら知らなかったという事実の告白には、もう、笑うしかありませんね。 このマンガの思い出は「消える魔球」ですが、ここから「巨人の星」に至る、野球マンガの魔球伝説が始まったわけですから、歴史に残る名作といっていいかもしれませんが、描いている人は「ドシロウト」だったということこそ歴史に残りそうですね。 おそらく、次号は講談社専属マンガ家「ちばてつや」の話が読めるに違いありませんね。追記2024・08・20「ひねもすのたり日記」1巻・2巻・4巻・第5巻・第6巻の感想はここからどうぞ。 ボタン押してね!ボタン押してね!ひねもすのたり日記(3)【電子書籍】[ ちばてつや ]
2020.04.25
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ジョン・ネイスン「ニッポン放浪記」(岩波書店) 大江健三郎と柄谷行人の「大江健三郎柄谷行人全対話 」(講談社)という対談集を読んでいて、この方のお名前が気になりました。ジョン・ネイスンです。対談の中では大江の「個人的な体験」の英訳者として名前が出てきたのですが、後半ではなんとなくお茶を濁している様子で、具体的には話されていませんでした。 大江健三郎という作家が、批評家や文学者たちに対して「絶交」を宣言するというような、独特の対応をすることがうわさされる時期があったことが思い浮かび、二人の口の濁し方に興味を惹かれました。というわけで、図書館で借りだして読み始めました。ジョン・ネイスン「ニッポン放浪記」(岩波書店)です。 ニュー・ヨークから10歳で引っ越したアリゾナの田舎町の少年時代の生い立ちに始まり、ハーバード大学でのエドウィン・ライシャワーとの出会い。1960年代初頭の日本留学。日本人女性との恋と結婚と破局。「午後の曳航」を翻訳し、作家本人からも高い評価を得ながら、結局、関係を絶つことになった三島由紀夫。「個人的な体験」を翻訳して、おそらく大江文学の英語圏での最初の紹介者になり、その後ノーベル賞受賞後には「新しい人よ目覚めよ」を翻訳し、友人としてもかなり深い関係がありながら、後に絶交された大江健三郎。ほかにも阿部公房、北杜夫との出会いや交友のエピソード。勝新太郎を撮ったキュメンタリー映画製作の思い出。最後は漱石の「明暗」の翻訳と水村美苗との出会い。戦後文学の現場に飛び込んできた、1940年生まれの若きアメリカ人が「ニッポン」と「映画」に憑りつかれた波乱万丈な60年のエピソードを書き記した回想録でした。「日本通」の学者、翻訳家としては1910年生まれのライシャワーや、1920年生まれのドナルド・キーンの次世代を担うはずの人だったと思います。実際、プリンストンやカリフォルニア大学で日本文学を講じてもいたようなのですが、しかし、映画と事業にのめり込んだ後半生の姿は、いわば、しっちゃかめっちゃかな「破滅型」という趣で、読むには面白いのですが、御本人は大変だったでしょうね!というのが一番、率直な感想でした。。現在80歳、日本文学への、今一度の愛を語って回想を終えています。 ここまでがこの本の総論です。少し付け加えますが、最初に興味を持っていた大江健三郎との関係については、案の定、「新しい人よ目覚めよ」を翻訳後、絶交され、その理由の不可解さにネイスン自身は苦しんでいるという記述がありました。納得です。 ところで、それとは別に、この本をぼくが「案内」しようと思った理由が、読みながら生まれていました。それは、アメリカ人で初の東大生になったジョン・ネイスンが、東大の国文学の大学院で一人の友人と出会うエピソードでした。 ひとりだけ友人ができた。彼自身もはみ出し者だった。やがて私の人生で重要な意味をもつようになる男、野口武彦だ。国文学科の博士課程に入学を認められた数少ない学生の一人で、早稲田の学部生だった時に学生運動のリーダーとして機動隊とやりあったことがある。野口についてはそれくらいしか知らなかったが、実際に会ってみると、政治運動の声高な活動家だったとは想像できない。柔和でしなやかでクールで、どこか両性具有的な格好良さを身にまとっていた。 ジョン・ネイスンと野口武彦氏との交友のさわり部分です。ぼくは本書を読みながら、ネイスンの記述がこの部分にさしかかった時に、思わず「あっ!」 と声をあげてしまったのです。 何をそんなに驚いているのかと尋ねられそうですね。 この出会いの十年の後に野口武彦氏は神戸大学の教員を務めながら、ジョン・ネイスンの「Mishima: A Biography」を、友情の証であるかのように『三島由紀夫―ある評伝』(新潮社)として翻訳・上辞することが本書には記されています。 ぼくは、その本の翻訳、出版、そして絶版騒ぎのころには「柔和でしなやかでクールで、どこか両性具有的な格好良い」人物。 と評されている先生の教室に、生意気に煙草なんぞを咥えながら、空っぽの頭を恥ずかしがりもせず座ってボンヤリしていたバカ学生だっただけにとどまらず、その後の数十年間、何の取柄もないバカ弟子としお付き合いが続いているという、まあ、ボクにとっては生涯の師であるわけで、驚かないではいられないエピソードだったのでした(笑)。 若き日の野口武彦氏の、いや、ぼくにとっては野口先生のポートレイト、一瞬の肖像を鮮やかに描いたジョン・ネイスンの一連の記述は、60年代の文学的な青春の記録として、どなたがお読みになっても文字通り爽やかですが、個人的には何とも云い難い思いに駆られる文章でした。こんな、読書体験というものは、そうあることではないのです。追記2020・04・24大江健三郎・柄谷行人「全対話」(講談社)の感想はこちらをクリックしてください。ボタン押してね!ボタン押してね!【中古】 三島由紀夫 ある評伝 新版 / ジョン ネイスン, 野口 武彦 / 新潮社 [単行本]【メール便送料無料】
2020.04.24
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ジル・バシュレ「わたしのネコがちいさかったころ」(平凡社) 市民図書館の新入荷の棚で見つけました。ネコの話だと思いました。まったく人をくった「ネコ」のお話しでした。 ジル・バシュレというフランスの絵本作家の方のお家には、イタズラばかりして手に負えない「ネコ」がいます。ちょっと大きくて、ネコ君のただのいたずらがただでは済まない生活になってしまっています。実は、ちょっとではなくてあまりに大きいことにバシュレさんようやく気付いて困惑している毎日のようです。 表紙は、ジル・バシュレさんが、新しく生まれた「ネコ」と出合いに行ったお家の暖炉の前の風景です。バシュレさんは、ここで生まれたばかりの「ネコ」をもらって連れて帰ったのですが、大きくなっちゃったんですよね。でも、大きくなっちゃうんですよね、きっと。 裏表紙に写っているのが、バシュレさんが用意したおもちゃや道具に困惑している「ネコ」の様子です。 これ以上あれこれ言ってもしようがないので、ジル・バシュレさんの気持ちを一言書き添えます。もちろん、この言葉はシマクマ君がバシュレさんの気持ちを忖度して、想像を記すものです。「わたしのネコ」は途方もなく大きくなりましが、やはり「ネコ」は「ネコ」であって、わたしにはいなくてはならない大切な生き物なのです。 というわけで、「ネコ」がお好きな方には、必読(?)の絵本でした。ちなみに、この絵本はシリーズ化されているようで、結構人気があるらしいですね。ぼくは好きですが。追記2020・04・20 この絵本の翻訳をしている「いせひでこ」さんの絵本「ルリュールおじさん」の感想はここをクリックしてください。追記2022・05・23まあ、ネコに限らないのでしょうが、大きくなってしまうわけで、画家の横尾忠則さんは死んじゃったのに大きいままの愛猫について、追悼本、いや、追悼画集まで出していらっしゃいます。「タマ、帰っておいで」(講談社)を最近読みましたが、感想も書きました。よろしければそちらもどうぞ。ボタン押してね!ボタン押してね!世界一ばかなネコの初恋 [ ジル・バシュレ ]
2020.04.23
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石牟礼道子追悼文集「残夢童女」(平凡社) 石牟礼道子が亡くなって二年たちました。平凡社から追悼文集が「残夢童女」と題されて、2019年の夏に出版されました。 それぞれ「傍にて」、「渚の人の面影」、「石牟礼道子論」と題され三章の構成で、石牟礼道子のすぐ傍らで生活していた人から、思想的な論者まで、三十数人の追悼文が載せられています。 どなたの文章がどうのというよう主旨の本ではないことは重々承知のうえでいうのですが、御子息の石牟礼道生氏と詩人の伊藤比呂美さんの文章が心に残りました。 母に連れられて水俣の町を歩いて家に帰ろうとしていた。小学校に上がる前の冬だった。途中の道端で商店街の飾りであったクリスマスツリーから役目を終えて落ちていた飾りのベルを拾った。銀紙で被われて上手に出来ていた。幼いころ、工作が好きだった私は大事に両手で隠すように拾い上げた。ところがその光景を見ていた母がいきなり血相を変えて声を上げた。「すぐに手を離しなさい。捨てなさい」と叱った。もうじき警察署があると脅した。 おもちゃも三輪車も欲しかったが祖父亀太郎が作ってくれた竹馬で我慢していた頃だった。買ってやれないが拾ったものを欲しがるなどとは卑しい精神であると教えたかったのか不憫と思ったのかは今となっては判らない。幼い頃、普段は溺愛されていたのでこのように凄まじく怒られたこのことだけは今でも鮮明に覚えている。意にそぐわぬことには激しい反応を示す母だった。その時の母の迫力に圧倒されて銀色のベルを足もとの側道に丁寧に置いた。(石牟礼道生「多くの皆様に助太刀されて母は生きてまいりました」) 石牟礼道子などという、「とんでもない」女性の息子として育った石牟礼道生氏とぼく自身の生育には何の共通点もありません。しかし、母親がほぼ同世代、おそらく、石牟礼道生氏も昭和三十年代に幼少期を過ごしたぼくと同世代の方だと思います。 ぼくは、この文章に同じ時代に子どもだった実感をそこはかとなく感じさせる「におい」のようなものを感じたのです。母からの初めての叱責について、よく似た記憶が、ぼくにもあります。 母と子という関係において、子は母のことを一つ一つのエピソードの経験で、だんだん理解していったりするのではないと思います。事あるたびに、最初の記憶と照らし合わせながら、何となくな納得、「アッ、おカーちゃんや。」という思いを「母」に重ね合わせていくことを繰り返すのではないでしょうか。 少なくとも、母親が忙しくて貧しかった、あの時代に育った子供たちはそうだったように思います。 世間や社会に対して凄まじい怒りをあらわにする母の姿に、幼い日の「銀色のベル」の記憶を重ねて「納得」しようとした息子がいたことを、そして、その母の死に際して、もう一度、その「思い」を繰り返している息子の姿にうたれました。 石牟礼道子の「文学性」や「思想」というようなこととは関係のない、子から見た「母」のほんとうの姿が、息子である道生氏の記憶のその場所に在るのではないでしょうか。 もう一つ、思わず膝を打つような思いをしたのが、詩人の伊藤比呂美さんの文章でした。 わたしは石牟礼さんの文学に対して、尊敬も思慕も大いに持っているのだが、だからこそ石牟礼文学について語り合う石牟礼大学というものを熊本の仲間とともにやったりしているわけだが、それは既に読んで好きなものを思慕しているだけで、なんだかいつも、なんだか少し、反発する気持ちも持っていることが、いつも少しばかり後ろめたかった。 わたしは東京の裏通りの生まれ育ちで、そこの人々がどんなに他人に酷薄か見てきた。自分の親もふくめて、そうだった。石牟礼さんの文学に出でてくる、弱い者を大切にする善良なコミュニティや、互いに手を合わせ合うような人の情は、居心地が悪かった。石牟礼さんその人だって、そういうコミュニティから蹴りだされた人なんじゃないか。そう口の中でもごもご思っていた。(伊藤比呂美「詩的代理母のような人」) 石牟礼道子の作品との出会い方や作品の価値というのが人それぞれに違うのは当然です。世の中に絶対化できる作家や作品があるわけではありません。 ぼく自身は、石牟礼道子の作品と二十代に出会って以来、手放しては読み、手放しては読みということを繰り返してきました。なぜ、読みつづけられなかったのか。読みながら感じる微妙な居心地の悪さはの正体は何なのか。全集が出たのを見ながら、思わず遠慮してしまう気分になったのは何故なのか。その答えが伊藤さんのこの文章にある、そう思って、なんだかホッとしました。 伊藤さんの石牟礼道子への思いが、ぼくなどとは比較にならない、生半可なものではないことは、これに続く文章をお読みいただければすぐにわかっていただけると思います。 でもこの頃、一つ、また一つ、読み始め、読み通して発見する。そして感動する。 その鏡を何枚もたてた真ん中で、時間軸と空間軸がずれているような、その石牟礼さんらしさを味わう。そういう作品が少しずつ増えてきた(伊藤比呂美「詩的代理母のような人」)。 伊藤比呂美さんは、ぼくより一つお若い詩人なのですが、彼女の文章を読みながら、65歳を越えた今から、もう一度、石牟礼道子の作品を手に取り直し、今度は投げ出さずに読み始め、読み続けることへのる励ましの声が聞こえてくるように、ぼくには思えたのでした。 この本に載せられている追悼文は、心もこもったものばかりです。石牟礼道子が残した作品を、もう一度読み直し、あるいは、初めて読み始める、たくさんの道筋が示されていると思います。一度手に取られてはいかがでしょうか。ボタン押してね!ボタン押してね!椿の海の記 (河出文庫) [ 石牟礼道子 ]
2020.04.22
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「春ですね!」2020年 徘徊 4月4日 四国路 土曜日の朝、ゆかいな仲間のチビラ1号コユキ姫から電話です。「あのさ、ジージとバーバ今日ヒマ?」「うん、毎日ヒマ。」「そしたらさ、今から一緒に出かけるから、お昼食べるなって。」「えー?どこか行くの?」「松山。サカナクンのとこ。行かん?」「行く、行く。」 一時間後にやって来たヤサイクン号に乗ると、チビラ君たちは全員、バーバ手作りのマスク装着で、ニコニコしています。 長い春休み、毎日、学童保育と保育園通いのチビラ君たちは、久しぶりのお出かけで上機嫌です。 垂水ジャンクションから一気に阿波池田ドライブイン到着です。 写真はチビラ2号ホタル姫が撮った吉野川。カメラの扱いは、ジージよりも一年生のホタル姫の方が上手です。 一休みしてヤサイクン号は自動車道路を降りて、右手の山の上に向かいます。「ここから、どこいくの?」「昼めしや、ここな、讃岐の金毘羅山の奥の院とかいうねんて。うどん屋さんがあるねん。」「そうか、この辺りが讃岐の満濃池とかの裏山になるんか。ロープウェイが動いとるな。」「アッ!ロープウェイとかある。のりたい!」「のりたい!」「のりたい!」「あかん、あかん。そんなもん乗っとったらサカナクンのとこにつかへんやろ。ここはうどんだけや!」 やって来たのは、箸蔵山ロープウェイ乗り場の前の「さぬきや」さんでした。「見晴らしのええとこやな。」「あの川なんていう川?」「さっきもあったやろ、吉野川いうねん。」「カメラ貸して。」「うん、好きに撮っていいで。」「線路あるやん。どこいく線路?」「土讃線や。高松から高知行くねん。」「高知って?」「去年やったっけ、ジージも一緒に行ったやん。カツオのたたき食べたとこ。」「高知ってどっち?」「あっちやと思うけど。この線路の左の方。で、あの川渡って、あの川の向こうの山の向こうやな。」「アッ、これ撮ろう。撮って、撮って。」「ハイハイ、パチリ」 ゆかいな仲間チビラ1号、2号、3号ブログ初登場ですね。遅いお昼でしたがここから、まもなく道は徳島道から松山道になって、石鎚ハイウェイオアシスに到着です。 どこに行っても桜が満開です。 さて、いよいよというか、ようやく松山市到着です。ヤサイクン号は、何処に行っても、まずこういうところにやって来ます。 農家直売センターですね。JA愛媛・太陽(おひさま)市です。要するに市場調査のようですが、チッチキ夫人はニコニコお買い物です。筍やえんどう豆を買っていました。 松山の夕焼けです。時刻は午後6時を回っていました。 目的地到着です。サカナクンのお店、松山市二番町「肴薫」です。 暖簾が出ています。お客さんが来てくれているようですね。新コロちゃん騒動で、どこの町の居酒屋さんも大変だと思います。 ヤサイクンはおにーちゃんのサカナクンと以前から約束していたようです。まあ、陣中見舞いというわけですが、チビラ君たちの笑顔だけがお土産でした。不要不急の世相に逆らうようですが、遠くに離れて暮らす「ゆかいな仲間」が顏を見て励まし合うことは蔑ろにはできないんじゃないでしょうか。 ジージとバーバは笑顔のカヨちゃん女将の顔を見てホッとした旅でした。ボタン押してね!
2020.04.21
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「桜! 満開です!(その6)」 徘徊日記 2020年4月16日(木) 団地あたり 雨上がりの朝、自室から身を乗り出してパチリ。愛車のスーパ・カブ号も写っていますが、いよいよ、2020年、団地の桜自慢も最終回ですね。 住んでいる棟の北側にある数本の八重桜が満開です。向うに見えるのは新学期とはいえ、人影のない小学校です。 ちょっと、スリッパをはいて出てきました。もう一本の八重桜の木です。後ろに写っているのは隣の棟です。 まあ、こういうふうに撮ってみたくなるものですね。へたくそですけど(笑) 何だか釣り合いのとれていない写真ですね。まあ、仕方がありません。 それにしても、よく見れば立派な花ですね。雨にぬれると哀しいのですが、乾くと紙細工のようです。 葉っぱは桜餅を包むのによさそうですね。 デジタルカメラの使い方がよくわからないので、光の加減で写真の印象が変わりますね。時刻と明るさが少し違うのです。 前の道まで出て、反対の方向で撮ってみました。いろいろ、まあ、努力はしているのですが、成果がないというわけです。 いよいよ団地のサクラもこれでおしまいです。生垣の新芽の赤と新緑の緑、サクラのピンク色のコントラストが美しいですね。 桜自慢をしようとして、団地の中をウロウロしましたが、なにせ写真の腕が花についていかないものですから、と言い訳したくなる「満開!」シリーズでした。 それにしても桜のシーズンというのはあっという間ですね。今年は臨時の仕事も完全にストップして、時間だけは余裕たっぷりだったはずなのですが、部屋から見える風景は花から若葉へと変わりました。 新緑は、ますます写真にするのが難しいのですが、季節は歩きだすには絶好のようです。町に出るわけにもいきません。ご近所徘徊の日々が始まりそうです。「満開!シリーズ」(その1)・(その2)・(その3)・(その4)・(その5)・(花に嵐)はそれぞれクリックしてみてください。追記2023・05・03 毎年、毎年、下手な写真で日記を書いています。こうして投稿するのも5年を越えました。自分では、ネット上をあれこれ探すのが苦手なくせに、自分の投稿は覗いてくださる方がいらっしゃるのを励みにしています。なんか、勝手ですね。 今年の(2023年)のサクラの記事は、写真ばっかりたまっていて、さっさと記事にできていません。年なのでしょうか(笑)。なにはともあれ、また覗いてくださいね(笑)。ボタン押してね!
2020.04.20
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ちばてつや「ひねもすのたり日記(2)」(小学館) ちばてつや「ひねもすのたり日記」第2巻です。 もちろんヤサイクンのマンガ便にはいっていました。 下のページの写真をご覧になれば、お気付きだと思いますが、全ページ、オールカラー印刷で、ショートコミックと題されています。色は少し黄ばんだイメージの紙が使用されていますが、紙の質は上等です。要するに「黄ばんだ」イメージの装幀なんでしょうね。 まあ、大家の「思い出」の記ですから買って保存しておきたいというファンもでてくるでしょう。そういうことも考えられているようです。「あんな、全部カラーやろ、そやからやねんな、ちょっと高いねん。」「ホンマや、一冊1150円か。新刊でこうたんか。でも、読みやすいやん。」「うん、まあええねんけどな。」 マンガ便を届けてくれるヤサイクンは、少々不満そうです。 さて、第2巻です。この巻のよみどころは、まずは「ちばあきお」の思い出でしょう。男ばかりの四人兄弟の、長男がちばてつや、三男がちばあきおだそうです。 野球少年マンガの傑作、「キャプテン」・「プレイボール」の人気マンガ家ちばあきおの自殺が報じられたのは今から35年前でした。 当時、勤めていた高校で野球部の顧問をしていましたが、生徒たちの部室にはこの二つのマンガ揃っていました。ぼくが顧問をしていたのは、とりわけ足が速かったり肩が強かったりするわけではない普通の高校生の集まるチームでしたが、誰もが「谷口くん」や「五十嵐くん」にあこがれていたように思います。 ヤクルト・スワローズでサードを守った、ブンブン丸、池山選手がいた市立尼崎高校や、のちにメジャーに行った長谷川滋投手の東洋大姫路高校とも、練習試合をしたことがありますが、今ではいい思い出ですね。彼らも読んでいたに違いありません。その時代だったでしょうか、イチロー選手が寮に全巻揃えていたというのは、かなり有名な話です。 話を戻します。その作者ちばきおがマンガ家になるきっかけが兄の手伝いだったというエピソードを描いているのがこれです。 この章の中でちばてつやは弟の死因については触れていません。ただ、最後のページで一言こんな言葉を記しています。「あの時、ひき止めなかったことに少々、悔いが残ります。」 胸に迫る言葉でした。マンガの世界に連れて行ったのは兄ですが、ちばあきおのマンガ家としての、あるいは人間としての苦しみは、ちばあきお自身のものだったのですよね。それは、多分、自らも同じように苦しんだちばてつや自身にはよくわかっていたに違いなのでしょうね。 もう一つの読みどころは、ちばてつや自身のマンガとの出会いです。 4人の男の子が、結果的に全員マンガ業界で働くようになってしまったきっかけのシーンがこれです。てつやが道端で拾ったマンガ本の虜になるのですね。これが始まりなんです。 ところが千葉兄弟の母親は「子どもがマンガを読むとね・・・バカになるのよ‼」と叫んで、ここで拾ってきたマンガ本を燃やしてしまう人だったのです。何だか、そういう懐かしいシーンがこの後のページにあります。 なにが懐かしいといって、思い出の中のことですが、このマンガ悪玉論が他人ごとではなかったことです。 ぼく自身はマンガ家になったりする能力はありませんでしたが、マンガは好きでした。少年マガジン、少年サンデーが創刊された時代です。もちろん買ってもらうことはできませんでした。こっそり買ってきたり、友達から借りてきたマンガを縁の下か、納屋に隠れて読んだものでした。そういう考え方が主流だった時代だったのですね。昭和の三十年代、高度成長の前夜でした。 色々懐かしく思い出しますが、この第2巻の終わりでは、いよいよプロのマンガ家ちばてつやが生まれようとしています。 第3巻が楽しみですね。追記2024・08・19 第1巻・第3巻・第4巻・第5巻・第6巻の感想はこちらをクリックしてくださいネ。ボタン押してね!ボタン押してね!プレイボール 1【電子書籍】[ ちばあきお ]
2020.04.19
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「花に嵐!雨後の筍!」 徘徊日記 2020年4月14日(火)団地あたり 花に嵐は世の常ですが、満開の桜直撃の春の雨でした。ひろげ干す 傘にも落花 乾きゐし 杉田久女吹き降りの 雨もろともの 落花かな 草間時彦 小さな竹林が写っています。その向こうは東の駐車場の桜並木です。桜が散れば季節は竹の子です。今年は、もう何度か口にしていますが、ここにも竹の子です。筍や 藪をはなれて ニ三間 正岡子規孝行は 筍よりも 桜かな 正岡子規 一句目は、実にそのとおりなのですが、二句目の意味はよくわかりません。 おや、ここにも サクラ舞い散り、雨後の筍です。藪から、二三間離れた桜の木の下に顔を出しています。筍の 眠り覚めざる まま掘られ 鷹羽狩行筍は 尖に精気を 凝らしたり 山口誓子時かけて 初筍の ひとり酒 石田波郷竹の子とサクラといえば、季節としてはサクラ鯛ですね、思い浮かぶのは。竹の子はわかめと若竹煮でしょうか、木の芽あえもいいですね。石田波郷さんは木の芽あえで一杯でしょうかね。ぼくは竹の子ご飯が好きですが。 そういえば、昨日、ちょっと、明石の「魚の棚」を覗きましたが、鯛のアラが三匹分で三百円でした。御造り用の切り身も買いましたが、今日はサクラ鯛の兜の「あら炊き」です。実は、それをつまみながらこの記事を書いています。 話がそれていますね。東の駐車場の桜にも雨でした。雨の桜も悪くはないのですが、何だかもったいないなあという気がしますね。 東の歩道橋から桜並木を撮りました。今年の駐車場の桜もこれで見納めですね。この写真の右奥が、先ほどの竹林です。 いろいろあって面白い団地だと思いませんか。30年以上、住み着いていますが悪くない棲み処ですよ。追記2023・05・04 今年は筍が不作なのでしょうか。昨日、今日とめぐみの里とかで探すのですがありません。まあ、午後になってからなので、ということもあるかもしれませんが、淡竹とかになる前に、もう一度、孟宗竹のタケノコが食べたいんですが(笑)ボタン押してね!
2020.04.18
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いせひでこ「ルリュールおじさん」(理論社) いせひでこさんという絵本作家、いや、絵描きさんとお呼びする方がいいかもしれませんね。その方の「ルリュールおじさん」(理論社)という絵本を図書館で見つけました。 ジル・バシュレというフランスの人が書いた「わたしのネコが小さかったころ」(平凡社)という、全く、人をくった、愉快な絵本の訳者の名前として知ったのですが、御本人の絵本もなかなかなものでした。 絵本の舞台はパリです。表紙はアカシアの木陰を走る少女ですね。登場人物は、大好きな植物図鑑が壊れてしまった少女ソフィーとその本を直してくれるルリュールおじさんの二人です。 お読みになればすぐにわかりますが、ルリュールというのは人の名前ではなくて、仕事の名前でした。オジサンのお父さんもルリュールという仕事の職人さんだったそうです。 印刷した紙の冊子を革装の表紙をつけて製本したり、読み込んで傷んだ本を修復修理したりするお仕事ですね。 日本語には訳すことができない仕事です。製本屋さんという訳だと少し違う気がします。多分、聖書に始まるヨーロッパの本の文化を支えてきた伝統的な仕事でしょうね。 その製本の仕事をそばで見ているソフィーと、機械を操作しているおじさんの姿のページです。もうオジーさんですね。 オジサンは、自分のお父さんの仕事を見て、この仕事の職人になりたいと思ったそうです。そのころの思い出のシーン。 セピア色の思い出が、オジサンの心の中にあります。お父さんの手元を覗き込んでいた少年も、今では背筋も曲がり、頭も白くなった老人です。 次の絵は、ようやく修理がすんで、新しい本になった図鑑を覗き込んだり、抱きしめたりしているソフィーの姿です。 床に置いた図鑑に覆いかぶさっている様子を描いている絵が、ぼくは好きです。 この本の中には壊れた本がどういうふうに修復されていくのか、順番に描かれています。ノリが乾く時間、おじさんとソフィーがパリの街を散歩したりもします。 なんと言うんでしょうね、上品な絵のタッチとお話しのテンポがゆったりしていて、とても贅沢な印象の絵本です。大げさなドラマは何もありません。でも、本の好きな人にはうれしい絵本だと思います。 ぼくは、ルリュールおじさんの仕事がどんな子供を育ててきたのか、フランスや、ヨーロッパの、今も息づく歴史と文化の厚みにあこがれを感じました。 そんなフランスでも、新しいルリュールおじさんはもう生まれないのかもしれませんね。 日本人は「書物」を文化として受け取る知性を、近代150年かかっても育てることができませんでした。今、書店の棚に並ぶ本の内容の品のなさ、浅薄さ、毎週廃品回収に捨てられている本の山を見てそう思います。 すぐに答えを教えてくれて、すぐに役に立つ本は、やがて捨てられます。本を捨てる社会は「歴史」も「文化」も育てる事が出来ないような気がします。 100年以上も前に漱石が小説「三四郎」の登場人物、広田先生に言わせたことば、「滅びるね」が、もう一度リアルに響き始めているのではないでしょうか。 伊勢秀子さんはノンフィクション・ライターの柳田邦男さんの配偶者だそうです。この絵本は2007年の講談社出版文化賞だったようです。 公立の図書館ならどこにでもある絵本でしょうね。でも、今はどこも閉まっていますね。またいつか、どこかで読んでみてください。追記2022・05・21 神戸に「子どもの本の森」という図書館(?)がオープンしています。本を陳列して、本を読むイベントをする施設らしいのですが、貸し出しはないということです。大きな書店で、椅子とかベンチに座って棚の本を読めるというところもあります。「ブック・カフェ」とかいうコンセプトの喫茶店もあるようです。喫茶店の書棚に、読んだことのない本がならんでいて、毎日通って読むのでしょうか。 何故そうなのか、自分でもわかりませんが、図書館とか教室とかでは読むことに集中できないシマクマ君には、「貸し出しのない図書館」、「新刊の試し読み」、「大きな書棚の喫茶店」、みんな無縁ですが、ついていけない、そういう時代というのが始まっている印象です。「本」なんてものは、親兄弟の目を盗んで、友だちとかを出し抜くために、こっそり読むものだと思うのですが、どうも、そういう時代は終わってしまったようです。棚に飾ってある本が好きな人は増えても、読んでいる人があんまり増えていないようですし、読んだ本は断捨離という不思議な時代ですね。 やっぱり、ついて行けそうもないですね(笑)。ボタン押してね!ボタン押してね!『2点で送料無料』『箱あり』マスク 使い捨てマスク 三層構造 花粉対策 風邪感染防止対策 大人用 家庭用 男女兼用 ウイルス対策 50枚 大きめサイズ 箱包装 プリーツマスク 不織布 花粉 ワイヤー入り 立体プリーツ ウィルス飛沫 インフルエンザ対策 ウイルス対策 162582
2020.04.18
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「桜! 満開です!(その5)」 徘徊日記2020年4月5日(日) 団地あたり 住んでいるのは東と西に大きく二列に十数棟が並んでいる中央に、集会所と事務所がある管理棟がある団地です。管理棟沿いに遊歩道があって、それが、この季節には自慢の桜並木になります。 サクラ天井の歩道が続いています。例年だと、近所の団地にお住まいの方もお花見気分でやってこられますが、今年は満開のここ数日も静かです。 ここから百メートルも続かないのですが、桜のトンネルが始まります。植えられて40年くらいの樹齢でしょうか。サクラの木の寿命というのがどれくらいなのかはよく知りませんが、寂しいことですが、枯れ枝が目立つようになってきました。そうはいっても花の季節にはこの様子です。 こんな和歌を思い出しますね。願はくは 花の下にて 春死なむ そのきさらぎの 望月のころ 西行 あまりにも有名な和歌ですが、「きさらぎ」は旧暦の2月ですから、今なら3月の末くらいでしょうか。ちなみに、如月の望月15日は釈迦入滅の日だそうですね。 咲けば散るのが花の宿命でしょうね。惜しむこころに翻弄されるのが人というものなのでしょうね。目の前のこの花も、もう散り始めています。 西行にはこんな和歌もあります。散る花を 惜しむ心や とどまりて また来ん春の たねになるべき 春風の 花を散らすと 見る夢は 覚めても胸の さわぐなりけり 西行 勝手なイメージですが、サクラの花がよく似合う歌人の一人が与謝野晶子でしょうか。祇園の夜桜の歌でそう思い込んでいるだけかもしれませんが、彼女にはこんな花の和歌もありますよ。根をはなち 針にさしても 咲くものは 春のさくらと 若きこころとわが庭の 彼岸桜は 巡礼の むすめの如し 風吹けば泣く 与謝野晶子 やはりというか、さすがというか、与謝野晶子らしいですね。「彼岸桜」は早咲きの桜です。「暑さ寒さも彼岸まで」なのですが、この桜が花つける頃は、風がまだ少し寒いというところが上手ですね。さくら花 おそしと待ちし 世の人を 驚かすまで 咲きし今日かな 立ちまよふ ちりをしづめて 桜花 雨の後こそ 色まさりけれ 樋口一葉 樋口一葉は与謝野晶子の5歳年上に過ぎないのですが、文学的には一世代上です。与謝野晶子は一葉の小説の若い読者でした。一葉は明治29年、24歳の若さで夭折しますが、晶子が「明星」に短歌を発表するのは明治33年です。 二人の和歌の雰囲気が違うのは、必ずしも、個性の違いだけではなさそうですね。 二人の女流歌人の名前が出てくれば、同じ時代の人で、もう一人、忘れられないのが正岡子規ですね。いたつきに 三年こもりて 死にもせず 又命ありて 見る桜かな日のもとに 櫻さきけり 今ぞしる わたくしならぬ 神の心を 正岡子規 「いたつき」というのは病床に伏せることです。慶応3年、1867年に生まれた子規は、親友夏目漱石とは同い年です。長く脊椎カリエスを患い、寝たきりの生活の果て、明治35年、1902年に34歳の若さで世を去ります。 病床の桜というべきでしょうか。二人の女流とはちがう迫力に満ちた和歌ですね。 さて、もう少し新しい女流歌人二人です。桜ばな いのち一ぱいに 咲くからに 生命をかけて わが眺めたり 岡本かの子さくら花 幾春かけて 老いゆかん 身に水流の 音ひびくなり 馬場あき子 岡本かの子は岡本太郎の母ですね。馬場あき子さんは今も健在の現代歌人です。 ここからは俳句でもいかがでしょう。お二人とも江戸時代の方です。散る桜 何が不足で 散り急ぐ 一茶散る桜 残る桜も 散る桜 良寛 一茶は北信濃の人ですが、江戸暮らしもしています。「春風や 牛に引かれて 善光寺」は善光寺さんにお参りするとだれもが覚えるのですが、彼の句ですね。正岡子規が、彼の本領は「ユーモア」だとほめた人です。もっとも「花の影寝まじ未来が恐ろしき」というような句もあって、ただの笑いとは少し違いますね。 一方、良寛は越後の人。辞世の句が「うらをみせ おもてを見せて ちるもみじ」だそうで、サクラも紅葉もうまいものです。ゆさゆさと 大枝ゆるる 桜かな 村上鬼城目ひらきて 桜吹雪の 中にをり 森澄雄 村上鬼城は明治から昭和の初めに生きた「ホトトギス」の俳人です。森澄雄は丸谷才一が評価した俳人で、もともとは高校の教員だった人です。ぼくは丸谷才一の本で知りました。10年ほど前に亡くなりましたが、独特の味のある俳句です。さまざまの ことおもひだす 桜かな 芭蕉 向こうに座っていいらっしゃるお二人も、こういう感じでしょうか。見上げているのは今年の桜なのですが。追記2020・04・17「2020桜満開です!」(その1)・(その2)・(その3)・(その4)はそれぞれクリックしてみてください。ボタン押してね!街並み巡りランキング
2020.04.17
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トッド・フィリップス「ジョーカー」OSシネマズ神戸ハーバーランド 映画com 封切られたのが、昨年の秋でした。「バット・マン」という映画の副主人公「ジョーカー」を主人公にした映画という触れ込みでしたが、まず「バットマン」をよく知りませんでした。何本もある「バット・マン」映画のうち一本か二本、多分テレビで見た記憶はありますが興味を持ったわけではありませんでした。ちらっと眼にしたジャック・ニコルソンの顔だけが印象に残っていました。 彼、ジャック・ニコルソンは、ぼくは、45年前に神戸に来て初めて見た映画「チャイナタウン」以来、ぼくにとっては「追っかけ」の対象になった数少ない俳優の一人でしたが、「ジョーカー」役のひきつった顔はなかなかのものだと思った記憶はありました。 で、今回の「ジョーカー」です。OS系の映画館が一週間限定、所謂リバイバルというか、昔でいえば二番館上映でした。 こんなことをいうのは変かもしれませんが、当日、映画が始まって、ピエロの扮装をしている主人公役のホアキン・フェニクスを一目見たあたりから、元ネタともいうべき「バット・マン」を忘れてしまっていました。 映画は主人公アーサー・フレックの成育歴を暗示し、身体的、精神的成長過程の謎を解くことで、「ジョーカー」へと変貌する「悪」の真相 を描こうとしているようです。 ぼくは映画の半分を過ぎた辺りで、この主人公がコミックの「バット・マン」の悪役であり、過去複数の役者が演じてきて、スクリーン上に何度も登場した「ジョーカー」に対する監督トッド・フィリップス版解釈が繰り広げられていることにようやく思い至りました。 蓮見重彦的に言うなら「凡庸」 ですね(笑)。目の前に繰り広げられる「異常事態」に対して、人というものは「解釈」を与えたいものです。で、その時に、出来事の因果を持ち出して安心するというのは文学の研究でもよくつかわれる手法ですが、それは、やはり、「ありきたり」 というものではないでしょうか。 そう思って、ふと、映画から心が離れるのを感じた、中盤を過ぎた、このあたりからがこの映画の圧巻でした。 売れないコメディアン、アーサー・フレックは母を殺し、友人を殺し、あこがれのコメディアンを殺しますが、それはもう「成育歴」とかでは説明できません。真正の「悪」 ジョーカーへと、何かが解き放たれた行動が一気に展開します。 石段の上で踊るジョーカーが映し出されたあたりから、予感がし始めましたが、ありきたりの善悪の範疇を超えた、解釈不能な「悪」をスクリーン上に生み出したのはホアキン・フェニクスの演技だと思いました。演出は成育歴とその因果にこだわり続けていたようですが、ホアキン・フェニクスは身体的な桎梏から自らを解き放つダンスの喜びのような「悪」を、その全身と独特の表情で演じていました。 最後のシーンで、悩める死刑囚アーサー・フレックに出会った善良なカウンセラーは不幸でした。湧きあがる「悪」の喜び の前で、医学や法律の制度に守られた「善」など物の数ではなかったでしょう。 真っ赤な血の足跡を残しながら、コミックの世界へ回帰するかのように去ってゆく「ジョーカー」を見ながら、思わず拍手!という気分でした。 いくら騒いでも、ほとんど、誰にも迷惑をかけない寂しい会場だったのですが、静かに席を立ちましたよ。もちろん、心は「悪」にそまっていましたがね(笑)。監督トッド・フィリップス製作トッド・フィリップス ブラッドリー・クーパー エマ・ティリンジャー・コスコフ脚本 トッド・フィリップス スコット・シルバー撮影 ローレンス・シャー美術 マーク・フリードバーグ衣装 マーク・ブリッジス編集 ジェフ・グロス音楽 ヒドゥル・グドナドッティル音楽監修 ランドール・ポスター ジョージ・ドレイコリアスキャストホアキン・フェニックス (アーサー・フレック/ジョーカー)ロバート・デ・ニーロ(マレー・フランクリン:コメディアン)ザジー・ビーツ (ソフィー・デュモンド:近所の女性)フランセス・コンロイ (ペニー・フレック:母)ビル・キャンプ (ギャリティ刑事)シェー・ウィガム (バーク刑事)ブレット・カレン (トーマス・ウェイン:父)ダンテ・ペレイラ=オルソン(ブルース・ウェイン:義理の弟 後のバット・マン2019年122分R15+アメリカ原題「Joker」2020・04・00・OSシネマズno7ボタン押してね!
2020.04.17
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「桜! 満開です!(その4)」 徘徊日記 2020年4月5日(日) 団地あたり 東の駐車場の棟の前にある、この団地自慢の枝垂れ桜です。ほかにも何本かありますが、ボクがおもうに、随一です。 ちょっと角度を変えます。 もう一枚。 全景です。肉眼だと、そのあたりに薄桃色の雲が浮かんでいる風情です。(その2)で紹介した西の駐車場のはずれの枝垂れ桜とは、樹齢も違いますが、木の大きさが違うので迫力があります。素晴らしいですね。 この木の左隣りにソメイヨシノの若木があります。その花が、淡いピンクで、木の若さを誇るように咲いています。これまた、可憐というか、なんともいえない雰囲気を漂わせています。「ボク、さくら!」 いや、やっぱりワタシですかね、そういう声が聞こえてきそうな、爽やかな様子です。もう一枚どうぞ。 こっちは、さしづめ「うちら、サクラやし!」 という風情だと思いませんか。上手な紙細工のようなというと、本末転倒ですが、見惚れてしまいますね。 もう一枚、青空と花の枝のコントラストをどうぞ。これはお隣の木です。この木も若い木ですね。 こちらは八重桜ですね。少し遅れていますが八重桜もそろそろ満開です。ちょっとズーム・アップしてみますね。 八重桜は見かけがすぐにぐずぐずの感じになりますが、咲き始めて一度も雨にぬれていないので、ふんわかしたまま開いて、寄り集まっていますね。蕾もそろって開花の準備をしているようです。もう少しすると、一枝一枝が花のかたまりのようになるのでしょうね。「うちら、八重どすえ、あんじょう咲きましてん。」 そいう感じになるんですかねえ。こわ! それではここから団地中央にある桜並木に行ってみます。「桜! 満開です!(その5)」をお楽しみに。ボタン押してね!
2020.04.16
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ちばてつや「ひねもすのたり日記(1)」(小学館) ヤサイクンの四月のマンガ便に入っていたマンガを見て驚きました。あのちばてつやの新刊マンガです。 現在75歳から65歳くらいの年齢の人で、この名前に反応しない人はよほど漫画とか読まなかった人なんじゃあないかと思います。名作「あしたのジョー」が週刊少年マガジンに連載されたのが1967年の暮れから1973年でした。現在65歳のぼくの場合は13歳から19歳でした。 何年前のことでしょう。確か、講談社だったでしょうか、文庫版で「ちばてつや全集」が出た時に集めたことがありますが、狙いは「ちかいの魔球」とか「紫電改のタカ」でした。それらのマンガが、ぼくと少年漫画との最初の出会いの作品だからです。 大学生の時は「あしたのジョー」がブームでした。ジョーがコーナーで白くなって連載が終わった後、映画になったり葬式をやったり、北朝鮮に行ったり大変でしたが、ぼくの中では終わっていました。 ところが、その後、国鉄のドリーム号という東京行の深夜バスのポスターになったことがあって、それを「盗み」に行ったことがあります。行ってみると、バスの発着所の、そこに在るべきポスターはもうなかったのですが、そごうデパートの前の東西の大通りで「暴走族」と呼ばれていたオートバイのオニーさん軍団がお巡りさんと戦っているのを歩道橋の上で見物して帰ったことを覚えています。そういう時代でした。 話が横にそれていますが、その頃からぼくはちばてつやの読者ではなくなりました。でも、今でもマンガを読むと、目のクリンとした「子供顔」の絵が好きなのは、子どものころからの刷り込みでしょうか。影響はそうやって残るのでしょうね、きっと。 そのちばてつやが、まだマンガを書いていました。「ひねもすのたり日記」(小学館)です。週刊ビッグ・コミックに連載している、マンガエッセイなんだそうです。一話4ページ、80歳の日常生活の近況報告と生まれてからこの方までの、自叙伝、まあ、そういうとたいそうですが、エピソードをたどった回顧録風エッセイというところでしょうか。 80歳を過ぎて連載マンガに、もう一度挑戦する決心を描いたシーンがこれです。この連載を始めた当時、90歳を過ぎて書き続けていた水木しげるの話題も出てきますが、2015年亡くなりました。ちばてつやが、再び書き始めるのは、そのあとからです。若い女性の編集者というところで目を輝かす、ちょっとおバカな本人が描かれていますが、書き残したいことを見つけたに違いありません。 1才から満州の奉天で暮らしから自叙伝は書きだされています。異国で暮らした少年時代、6才で敗戦、一年間にわたる家族ぐるみの逃亡生活、7歳でようやく帰国、父親の故郷にたどり着いた「千葉徹彌」少年の脳裏に刻み込まれた、最初の、平和の思い出は、おバーちゃんが切ってくれた真っ赤な「スイカ」でした。 「老大家」が八十年にわたる生涯を振り返り、ほのぼのとした思いでエッセイ・マンガを描いている。そう考えるのが普通なのでしょうね。 でも、今でいえば保育園の年長さんだった年の少年が、ホッとして「スイカ」にかぶりつくシーンは、誰にでも書けるわけではないでしょう。この「スイカ」をこそ、ちばてつやは書き残したかったのではないでしょうか。 今回もハマってしまいました。子供の頃、この人でマンガを知った人にはお薦めです。是非どうぞ。「ひねもすのたり日記」(第2巻)・(第3巻)・(第4巻)・(第5巻)・(第6巻)の感想はここをクリックしてください。追記2022・01・31 ネット上のニュースでちばてつやさんの心臓の手術が成功したことがながれていました。マンガでしか知らない人ですが、「ああ、良かった!」と素直に感じました。できれば、描き続けていただきたいですが、そんなことより何より、お元気で長生きしていただきたいですね。戦争を知っていて、戦後を知っている大切な方だと思います。 ボタン押してね!ボタン押してね!☆☆ 漫画全巻セット あしたのジョー[文庫版] <1〜12巻完結> ちばてつや楽天で購入
2020.04.16
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「非常事態の元町1丁目あたり」徘徊日記 2020年4月8日 元町あたり南京町から北に上がれば元町1丁目です。順番にバナーの大きな写真を撮ろうと思っていましたが、この辺りでは忘れています。この辺りでは一番街というようで、バナーの色は白です。 写っている「ステップ」という靴屋さんを見ていて、20年近くも前に来たことを思い出しました。当時、中学生なったばかりの「カガククン」がバスケットボールを始めて、二人でバスケットシューズを買いに来ました。子供の買い物に付き合ったのは親になって初めての体験でした。 誰に教えられたのか、ジャパン何とかというシリーズのオーソドックスなシューズが欲しかったようです。ぼくは、結構いい値段だったことより、中一の息子の足のサイズが想像をはるかに超えて大きかったことに驚きました。彼は6年間そのシリーズのシューズを履き続けたようです。ああ、もちろん何足も履き潰してですよ。2丁目のバナーは撮りわすれて、3丁目です。3丁目と4丁目の境の交差点を海の方から見るとこうなっています。北に上がればJRや阪神電車の元町駅なのです。 ちょうどパトロールカーが写っていますが、人通りはそんなにありません。4丁目迄帰ってきました。女神の像があるのはここです。 これから、もう一本映画を見ますが、その前に、ちょっと一服しに行きます。映画館の西側の交差点を南に折れるとこんな風景が見えます。 正面に見えるのは、もちろん、ポート・タワーですね。信号があって、人か待っている通りが栄町通です。 ぼくは手前に写っている毎日新聞のビルの一階においてある灰皿を利用しています。もちろん許可などいただいてはいません。 そういえば新コロちゃん騒ぎが始まって、徘徊老人が最初に気付いた街の異変は、三ノ宮の喫煙コーナーと垂水駅前広場のベンチの撤去でした。市役所の、その迅速さに驚きましたが、「いやなかんじ」が残りました。 騒ぎが始まってニケ月が立ちますが、この「いやなかんじ」は、ぼくの中でわだかまっていて、「エライ」らしい人たちは、この町の「ヨワイ」人たちのことをどう考えているのだろうという不信を育てています。 コロナウィルスの蔓延という、降って湧いた「時疫」が、この「いやなかんじ」の正体を暴いてくれるのではないかという期待が、一服しながらの徘徊老人の妄想でした。 「さあ、もう一本!」 これから、本日、二本目の映画「うたのはじまり」に挑戦です。ではでは。「非常事態宣言の元町」(その1)・(その2)はここからどうぞ。ボタン押してね!
2020.04.15
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ガス・バン・サント「ドント・ウォーリー」シネ・リーブル神戸 映画com 依存症と身体障碍者のアメリカを描いた映画だと思いました。三十年間留守にしていた映画館に戻ってきて一年ほどたちましたが、アルコールや薬物の依存症に対する社会の対応、とくにアメリカやヨーロッパの集団カウンセリングのシーンが映画によく出てくることに驚いています。 この三十年で、たとえば「PTSD」などという省略言葉がすっかり普通の言葉になりました。うつ病や自閉症にかかわる様々な「disordersディス・オーダー」、ぼくはこの言葉に「障害」という訳語を当てる日本語に引っかかるものを感じる人間ですが、それはともかく、例えば教育の現場ではLDとかADHDなどという用語が、常識用語のように使われるようになりました。 ぼくも含めて、誰もが本当はよく知らないし理解もしていないのに、「disorders」が一人で歩いているイメージを持っていました。本人の納得ではない、教員の安心が優先されている苛立ちを感じ続けてきました。そのまま退職しましたが、該当項目の一覧表によって診断するという「合理性」はもちろんアメリカ由来でしょう。「アメリカではどうなっているのか?」 診断一覧表と該当者との間にある「ズレ」、そこをホアキン・フェニクスという俳優は見事に演じていました。 主人公ジョン・キャラハンを演じるホアキン・フェニクスは、ぼくには初めて出会う役者でした。映画はダメな奴がイケテル奴へと成長するビルドゥングスの物語なのですが、そういう映画にありがちな、予定調和的な「ありがち感」をどう越えるかというのが見どころだったと思いましたが、この俳優はなかなかやってくれますた。 表情と身体動作のチグハグさとでもいえばいいのでしょうか、ある種のアンバランスを本能的に演じているように見えました。そして、そこに微妙な苛立ちと哀しさが浮き上がってくる印象なのです。 気遣われ、「普通」から隔離され続ける「disorders」という存在の悲しみといえばいいのでしょうか。最後のフルスピードで走る電動車椅子のシーンは、もう、圧巻でしたね。まさにアメリカ映画の明るさが輝いていました。 すでに、いろいろ評価されている人のようですが、ぼくにとっては新しい出会いでした。ちょっと期待しますね。監督 ガス・バン・サント 製作 シャルル=マリー・アントニオーズ モーラ・ベルケダール スティーブ・ゴリン ニコラ・レルミット製作総指揮 ブレット・J・クランフォード脚本 ガス・バン・サント撮影 クリストファー・ブロベルト美術 ヤフミン・アッサ衣装 ダニー・グリッカー編集 ガス・バン・サント デビッド・マークス音楽 ダニー・エルフマンキャスト ホアキン・フェニックス(ジョン・キャラハン ) ジョナ・ヒル(ドニー) ルーニー・マーラ(アヌー ) ジャック・ブラック(デクスター ) マーク・ウェバー ウド・キア キャリー・ブラウンスタイン ベス・ディットー キム・ゴードン原題「Don't Worry, He Won't Get Far on Foot」 2018年 アメリカ 113分 2019・05・22シネ・リーブル神戸no51ボタン押してね!
2020.04.15
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「非常事態宣言の日 大丸閉店」徘徊日記 2020年4月8日 元町あたり 元町映画館でお昼過ぎから一本観て、2本目の上映まで1時間余り休憩時間がありました。ちょっと一服には時間が余ります。大丸前の交差点までやって来ました。神戸といえばの、あの「大丸百貨店」のシャッターが下りていました。 スクランブル交差点も、信号待ちをしている人がいません。午後の日ざしの陰になっていますが、空は抜けるように青いんです。 向うに朝日会館も見えます。中にある、シネ・リーブル神戸は今日から臨時閉館しています。ぼくは昨日、「シェークスピアの庭」を見ました。映画には堪能しましたが、次、一体、何時来れるのか、やはり寂しい映画鑑賞でした。 手前に見えるのが三宮神社です。文字通り、雲一つない快晴ですが、この写真は、いつか新コロちゃん騒ぎの記念写真になるのでしょうか。 大丸前で引き返して南京町を歩きました。閑散とした様子は、日ごろが日ごろだけに写真を撮るのが悪いような気持ちになりました。 いつもの南京町を御存知の方には、信じられない光景ですが、客が一人もいません。町の中央部の四阿(あずまや)です。灯はついていますが、座っているのは地元の方のようです。 この様子が、三月の末から続いています。もう十日もすれば灯も消されるでしょう。行政は金は貸すそうですが、一人の客もいない町全体が借金を抱えて滅びるのを、犬でも抱いてテレビで見るのでしょうか? 南京町は国内外の観光客に支えられている町ですから如実に表れていますが、商店街の店舗も従業員の人件費が要るお店はどんどん閉めています。どのお店も存亡の危機に直面しているに違いありません。 今日、ぼくがやって来た映画館だって大変です。さっき見たアニエス・ヴァルダの映画は、客が二人でしたよ。(次の映画もやはり二人でした。)それでも閉館しない理由は「儲け」ではないでしょう。採算なんてここ半月とれているはずがありませんからね。 行政が、伝染病という特殊事情をいいことに、ぼくはファシズムだと思っていますが、政策責任放棄を「自粛」という美名でごまかしている現状に対する抵抗でしょうね。 「国家」や「国」を持ち出す言辞は嫌いですが、「民・百姓」を見殺しにする権力は滅びますよ。「百姓」は農民という意味ではありません。この国は、早晩滅ぶのかもしれませんね。 何だか暗くなってしまいましたが、我々下々は、何はともあれ生き延びましょう。インチキな政治家たちへの天罰は、そのうち、きっと下りますよ。 何だか長くなってしまいました。元町徘徊は(その3)の続きます。(その1)「元町商店街」・(その3)「1丁目あたり」はここをクリックしてください。ボタン押してね!
2020.04.14
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「非常事態宣言の日」 徘徊日記 2020年4月8日 元町商店街あたり 「自粛」という「責任転嫁」が天下に宣言された日、ぼくは「元町商店街」を徘徊していました。 三丁目と四丁目の交差点を見下ろす女神は今日も静かに祈っているようでした。JRの神戸駅を降りると構内のショッピングモールのドアが閉まっていました。 パン屋さんとコヒー・ショップは開いているようですが、旅行社のドアはこの通りしまっていました。 駅から東に向かって歩き始めるとD51が緊急出動に備えて柵の向こうに座っています。ところで、この機関車は石炭を焚くと動くんでしょうか? 元町商店街の西の入り口を望む公園には兵庫県の里程標があります。御影まで何キロとか、詳しく観れば面白そうですが、まあ、今日も素通りです。 商店街のアーケードが始まるところが六丁目です。帆船の骨組みの模型があるところです。ぼくは、結構気に入っています。 「何丁目」バナーのデザインは同じですが、バナーの色や吊るしている柱の形、照明がそれぞれ違うようです。 ここから五丁目です。この照明が気に入っています。人通りはゼロではありません。でも閉めている商店が増えました。 もちろんここは閉めています。中には古書や神戸の本の販売スペースもあるのですが。こういう公営のスペースはサッサと閉まりました。しようがありませんね。 こっちは開いています。「神戸古書倶楽部」ですね。この左手のビルの地下にあります。こちらは一年中「濃厚接触」の恐れのない店ですが、「突発性無駄遣症」を起こす危険のあるお店です。入店後の突発性ですから防ぎようがありません。何?入らなければいい? まあ、そうですが、それにしてもこの20年、この町から、そういう「危険」なお店が減りました。 三宮のセンター街から、あの有名な「後藤書店」が消えて久しいのですが、元町商店街からも古書店は消つつあります。ふと、横を見ると詩人の多田智満子さんが立っているのを見かけるというような、感動的な奇跡にはもう遭遇することはないのでしょうね。 ソロソロ4丁目です。 4丁目のシンボルはここ、元町映画館ですね。ぼくの今日の徘徊の目的地もここです。 「不要不急」だと言われればその通りですが、どうしても見逃したくない映画が二本ありました。 一つがこれです。「うたのはじまり」。耳が聞こえない写真家が、幼いわが子を抱いて風呂に入りながら、生まれて初めて「だいじょうぶ」のうたをうたいはじめます。 もう一つは上の写真の、ドアのところにあるポスターの映画です。フランスの女性監督アニエス・ヴァルダの本邦初公開(?)「ダゲール街の人々」ですね。 それでは映画を見てきます。三丁目から向こうは一本目と二本目の間の休憩時間までお待ちください。じゃあね。 続きは(その2)「大丸閉店」・(その3)「1丁目あたり」をクリックしてください。追記2023・03・20何の気なしに2020年のあの日の記事を久しぶりに見たのですが、なんかちょっと感動しました(笑)。ああ、あの日、そんな映画を観に出かけていたんだ。 大丸の前に人がいなかったことはよく覚えていましたが、見た映画は忘れていました。今日も大丸の前の交差点を通りましたが、大変な人出でしたよ。このまま、収まってしまえばいいのですが、果たして思惑通りに進むでしょうか。ボタン押してね!
2020.04.13
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「奥須磨公園 春ですね!」2020年 4月9日 多井畑あたり 奥須磨公園です。多井畑の厄神さんの裏手、北側にある大きな公園ですが、ちょっと立ち寄りました。ここは花の名所なんでしょうね。たくさんの桜が植わっています。 木曜日の午後でした。ちらほら犬と歩いている人と出会いましたが、人とはほとんど会いません。花は満開です。 駐車場の裏の桜です。駐車場に数台止まっていました。ここでも人影は見あたりません。人はいなくても花は咲きます。世の中は 地獄の上の 花見哉 一茶年寄の 一つ年とる 花見して 平畑静塔 桜の花と欅(けやき)の大木。空無限 咲き満つる花 見上ぐれば 小林草山花を見て 花の生み継ぐ 風を見て 高澤良一 初めて来た公園ですが、池があちらこちらにあるようですね。全体がどうなっているのかよくわかってはいません。花人と なる一本の 花の下 中川須美子昼下り 自転車で来て さくら狩 高澤良一 「花人」と自称するのは気が引けますが、ぼくは原付できました。高倉台からの帰り道です。同居人が来たがっていた公園なのですが、歩いてくるには少々不便ですね。もっとも、新コロちゃん騒ぎでヒマになりそうということもあります。一度、一緒にやって来たいのですが、はてな?何処からバスが出ていることやら?追記2022・04・15 この時から、ついに、一度も行っていません。で、今年も花の季節は終わってしまいました。コロナ騒ぎで閉じこもっていたせいもあるのでしょうか、原付でピューという行動力をちょっと失なっていて、世界が狭くなっています。 温かくなってきましたし、安全運転に気を付けて、もう少し遠くまで出かけたいと思っています。ボタン押してね!
2020.04.13
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「女の園 花ざかりの庭」徘徊2020年 4月9日 高倉台あたり 久しぶりにやって来ました「女の園」です。校門あたりの桜は満開です。見上げると躑躅も咲いています。 玄関に向かう石段の躑躅の花が満開です。 この学校にお邪魔するようになって、三度目の春です。さみしいことですが今年の春は人影がありません。この学校も学生さんの登校が禁止されています。校門では守衛さんがやって来た人をチェックしています。 庭の噴水の周りにはチューリップが咲いています。 学生さんが誰もいない校庭のチューリップは、何だか手持無沙汰な感じがしますね。花には何の罪もないのですが。 「赤いスイートピー」も咲いていました。 この庭の自慢はきっとこの枝垂桜でしょうね。ちょうど満開です。 ちょっと近づいてみますね。花が零れ落ちているようにみえます。 もう一枚。角度を変えてみますね。色の具合が何とも言えませんね。 この「女の園」は須磨の山中にあります。こうやって花を見あげて佇んでいるとウグイスの声が聞こえてきました。「ホケ・ホケ・ケキョ・ケキョ!」 今年初めて聞く声でした。5月になると「テッペンカケタカ」の声も聞こえるのですが、さて、どうなることでしょうね。 この日は「テレビ授業」の講習会でした。集まったのは広い部屋でしたが、思わずマスクをしてしまいました。ハヤリ言葉になっているの「サンミツ」と「テレワーク」を同時体験ですね。 が、まあ、ぼくには「テレワーク」なんて、とても無理な感じですね。 ションボリ! この日は愛車のスーパーカブ号だったので、帰り道に「奥須磨公園」に立ち寄りました。「徘徊 奥須磨公園」に続きます。ここをクリックしてください。追記2022・04・15 昨日、同じ所に行ってきましたが、サクラは終わっていました。芝桜がうつくしかったのですが写真を撮り忘れました。学生さんたちは、今年は全講座が対面ということもあって2年前のようなことはありませんでした。チューリップの庭で記念写真とか撮っているグループもあって、学校も、ちょっと生き返った気がしました。このまま、新しい感染が広がらないことを祈るような気持ちの一日でした。ボタン押してね!
2020.04.12
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「桜! 満開です!(その3)」徘徊日記 2020年4月5日 団地あたり 西の駐車場の205棟の南の桜です。その桜の下から南を望めば西の駐車場の桜並木が一望できます。 桜の下の歩道を歩いて、北向きに振り返ればこんな様子です。 団地の反対側には東の駐車場があります。こちらの桜並木も満開でした。 少し時間が立って、午後の日ざしで色が濃くなっていますね。 ところで、この団地の自慢の桜並木は、団地の中央にあります。うちのベランダから正面の上の方に見えていたところですね。 ところでこの並木を見ている隣には竹藪があります。今年の初物を見つけました。 はい、竹の子です。サクラが終われば竹の子の季節ですね。八百屋さんにはもう出回り始めています。こちらは口に入るのが楽しみです。 「桜! 満開です!(その4)」に続きます。追記2022・05・10 今年は、この竹藪の奥に枝垂れ桜を見つけました。 ウロウロしていると見つけるんですね(笑)。まあ、狭い団地の中ですから。ボタン押してね!
2020.04.12
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レイモンド・ブリッグス「風が吹くとき」あすなろ書房「エセルとアーネスト」というアニメーション映画に感動して、知ってはいたのですが読んではいなかったレイモンド・ブリッグスの絵本を順番に読んでいます。今日は「風が吹くとき」です。こういう時に図書館は便利ですね。 彼の絵本は「絵」の雰囲気とか、マンガ的なコマ割りで描かれいる小さなシーンの連続の面白さが独特だと思うのですが、ボクのような老眼鏡の人には少々つらいかもしれませんね。 仕事を定年で退職したジムと妻のヒルダという老夫婦のお話しで、彼らは数十年間真面目に過ごしてきた日々の生活を今日も暮らしています。「ただいま」「おかえりなさい」「町はいかがでした?」「まあまあだな。この年になりゃ、毎日がまあまあだよ。」「退職したあとはそんなもんですよ」 こんな調子で、物語は始まります。妻ヒルダのこの一言のあと、無言で窓から外を眺めながらたたずむ夫ジムの姿が描かれています。 小さなコマの中の小さな絵です。で、ぼくはハマりました。当然ですよね、このシーンは、ぼく自身の毎日の生活そのものだからです。このシーンには「普通」に暮らしてきた男の万感がこもっていると読むのは思い入れしすぎでしょうか。 「核戦争」が勃発した今日も、二人はいつものように暮らし続けています。そして・・・。という設定で評判にになった絵本なのですが、読みどころは「普通の人々」の描き方だとぼくは思いました。 例えば妻の名前ヒルダは、読んでいてもなかなか出てきません。彼女は夫に「ジム」と呼びかけますが、ジムは「あなた」と呼ぶんです、英語ならYOUなんでしょうね、妻のことを。そのあたりのうまさは絶品ですね。 物語の展開と結末はお読みいただくほかはないのですが、最後のページはこうなっています。これだけご覧になってもネタバレにはならないでしょう。 「その夜」、二人はなかよく寝床にもぐりこみます。そして、たどたどしくお祈りします。イギリスのワーキング・クラスの老夫婦のリアリティですね。ユーモアに哀しさが込められた台詞のやり取りです。「お祈りしましょうか」「お祈り?」「ええ」「だれに祈るんだ?」「そりゃあ・・・神様よ」「そうか・・・まあ・・・それが正しいことだと思うんならな…」「べつに害はないでしょう」「よし、じゃあ始めるぞ…」「拝啓 いやちがった」「はじめはどうだっけ?」「ああ…神様」「いにしえにわれらを助けたまいし」「そうそう!つづけて」「全能にして慈悲深い父にして…えーと」「そうよ」「万人に愛されたもう…」「われらは・・・えーっと」「主のみもとに集い」「われは災いをおそれじ、なんじの笞(しもと)、なんじの杖。われをなぐさむえーっとわれを緑の野に伏せさせ給え」「これ以上思い出せないな」「よかったわよ。緑の野にっていうとこ、すてきだったわ」 「エセルとアーネスト」でレイモンド・ブリッグスが描いていたのは、彼の両親の「何でもない人生」だったのですが、ここにも「何でもない」一組の夫婦の人生が描かれていて、今日はいつもにもまして、まじめに神への祈りを唱えています。 明日、朝が来るのかどうか、しかし、この夜も「普通」の生活は続きます。 ここがこの絵本の、「エセルとアーネスト」に共通する「凄さ」だと思います。この「凄さ」を描くのは至難の業ではないでしょうか。自分たちの生活の外から吹いてくる「風」に滅ぼされる「普通の生活」が、かなり悲惨な様子で描かれています。しかし、この絵本には「風」に立ち向かう、穏やかで、揺るがない闘志が漲っているのです。 この絵本はブラック・コメディでも絶望の書でもありません。人間が人間として生きていくための真っ当な「生活」の美しさを希望の書として描いているとぼくは思いました。 今まさに、私たちの「普通」の生活に対して「風」が吹き荒れ始めています。「風」はウィルスの姿をしているようですが、「人間の生活」に吹き付ける「風」を起しているのは「人間」自身なのではないでしょうか。ブリッグスはこの絵本で「核戦争」という「風」を吹かせているのですが、「人間」自身の仕業に対する厳しい目によって描かれています。今のような世相の中であろうがなかろうが、大人たちにこそ、読まれるべき絵本だと思いました。追記2020・04・10 「エセルとアーネスト」の感想はこちらから。追記2022・05・17 2年前にこの絵本を読んだ時には「新型インフルエンザ」の蔓延が、普通の生活をしている人々にふきるける「風」だと案内しました。世間知らずということだったのかもしれませんが、今や、絵本が描いている「核戦争」の「風」が、現実味を帯びて吹き始めているようです。 「戦争をしない」ことを憲法に謳っていることは、戦争を仕掛けられないということではないというのが「核武装」を煽り始めた人々の言い草のようですが、「核兵器」を持つ事で何をしようというのか、ぼくにはよくわかりません。「戦争をしない」ことを武器にした外交関係を探る以外に、「戦争をしない」人の普通の暮らしは成り立たないのではないでしょうか。 追記2024・08・04アニメの「風が吹くとき」を見ました。1986年に作られたアニメの日本語版でした。絵本よりもきついです。感想をブログに載せました。上の題名をクリックしてくださいね。追記 ところで、このブログをご覧いただいた皆様で楽天IDをお持ちの方は、まあ、なくても大丈夫かもですが、ページの一番下の、多分、楽天のイイネボタンを押してみてくださいね。ポイントがたまるんだそうです(笑)ボタン押してね!ボタン押してね!【国内盤DVD】【ネコポス送料無料】エセルとアーネスト ふたりの物語【D2020/5/8発売】
2020.04.11
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「春ですね。満開です!(その7)あの白木蓮」徘徊日記 2020年4月9日 スミレにとりあってから、ベランダに戻ってちょいと桜並木の遠景に見惚れていて、おや?あそこにも赤い箒桃か、ン?白い花は? という訳でサンダルをはき直して愛用カメラを持ってイソイソと、もう一度お出かけ。先日ご紹介した白木蓮が満開でした。はくれむの 翳をかさねて 日に対ふ 臼田亜郎もくれんの 花のひかりの 咲きあふれ 長谷川素逝 まだ若い木なのですが、だからこそでしょうか、見事に咲き誇っています。 木蓮の陰には連翹が一群れ咲き残っていました。赤やピンク色、白い花の中に黄色の花はまた違った印象ですね。住み始めた頃はこのあたり一帯、連翹の垣根のようだったのですが、雪柳にとってかわられて、めっきり少なくなりました。連翹が 溢れ桜が 溢れけり 相生垣瓜人連翹の 黄のうとましき 昼下り 鷹羽狩行いたちはぜ 日輪天に 鋼鉄なす 飯田蛇笏 飯田蛇笏の句の「いたちはぜ」は漢字では「鼬黄櫨」と書くそうですが、連翹の古名だそうです。 写真の連翹の少し上手には箒桃です。 箒桃とはよく名付けたものですね。こちらはピンクです。 こちらが赤。 いろいろ。 お口直しに、その向こうの桜です。 今日も良いお天気です。「春ですね!満開です」は(その8)に続きます。次はどんな花でしょうね。(その6)はこちらからどうぞ。追記2023・03・20 今年も、もうすぐ咲き始めますね。街角のモクレンはもう満開を越えていますが、団地のモクレンはまだ蕾のようです。ボタン押してね!
2020.04.10
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「あのチューリップですよ!」 ベランダだより 2020年4月9日 「春ですね。満開です!(その6)蓮の花ではありません。残りの球根から芽は出したものの、左右の茎が邪魔で、ちょっと背伸びしそこねた、あのチューリップですよ。「ちょっと、おやゆび姫が出てくるんとちゃうの?」 60歳を過ぎても可愛いいつもりの人は言うことが違いますね(笑)。これだけ見ると可憐なのですが、両隣は例の赤い花です。 この紅い花二つが散りかけて、この間に球根がもう一つ埋まっていたのが伸びてきました。葉っぱだけだと思っていたら、チンチクリンの茎のまま大きな花をつけて、それが白いチューリップだったのです。もちろん、残念ながら、花の中からおやゆび姫は出てきませんでした。 ベランダの格子から裏庭の芝生を覗き込んで見るとまたもや紫色の小さな花が見えます。今度は群れて咲いています。スミレですね。ちょっと下に降りて近くで撮ってみますね。菫ほどな 小さき人に 生れたし 夏目漱石頼朝の 墓はと問へば すみれ哉 正岡子規 漱石の句はあまりに有名ですね。親友子規に寄り添っていただきましょう。 おっと、こっちにはミツバチもいますよ。枯草の 中にゆかしき 菫かな 正岡子規家うりて 残りし物や すみれ草 許六虹の根の ありしところか 菫濃し 齋藤愼爾故里の 小庭の菫 子に見せむ 杉田久女 庭の向こうの方に白い花が見えます。あれは、ああ、あの花です。では(その7)につづくということで。(その1)・(その2)・(その3)・(その4)・(その5)はこちらをクリック。追記2023・03・12あと、ひと月でですね。日に日に春になっている今日この頃です。古い記事の修繕をしました。ボタン押してね!
2020.04.10
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「桜! 満開です!(その2)」徘徊 2020年 4月5日 団地あたり 先日も紹介した西の駐車場の柵の向こうにある枝垂桜です。 枝垂れ桜というのは不思議ですね。自分でこういう姿勢というか、枝の垂れ方をするというか、木の基本姿勢というかがきまっているんですね。何か必然性があるのでしょうかね。その隣の桜は少し色が違います。山桜なんですかね。葉も少し広がっていますね。 少しズーム・アップしてみますね。 西の駐車場の入り口あたりの桜も満開です。 写真の奥が自宅です。ここ数日、このトンネルをくぐって自宅に帰ります。文字通り「桜の花の満開の下」です。 この棟の北側にもう一本ある、少し若い桜も満開です。 おや、メジロがきてますね。全身を撮るのは難しいですね。お尻だけ写っています。 ここまで、自宅から約30メートル。こういうの「徘徊」とは言えませんね。ただ「立ち尽くし」ているだけですね。まあ、もう少し並木沿いに歩いてみます。 「桜! 満開です!(その3)」に続きます。「桜! 満開です!(その1)」はここをクリックしてください。ボタン押してね!
2020.04.09
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《2004年 書物の旅 その21》 渡辺実「大鏡の人々」(中公新書) 受験参考書ではありませんが、平安時代とはどんな時代だったかという事を「大鏡」を解読しながら平安朝古文の素人にも面白く、ホント、実に面白く解説してみせた本が渡辺実「大鏡の人びと」(中公新書)です。 最近はやりの書名をもじっていうなら《大鏡を読む》とでもいうべき本ですね。内容を一言でいうなら「大鏡」に代表される平安朝の男性原理の解説ということになるでしょう。 宮廷女房文学が主流の平安朝文学史にあって、ほとんど、たった一つ男性原理で書かれている作品「大鏡」を取り上げて、「男性原理」を読み取るという視点から論じたところが著者のセンスの冴えたところです。 当然のことながら、百八十歳を越える大宅世継や夏山繁樹などという人を食ったキャラクターや名前の人物を語り手として配置した、この歴史物語が一筋縄で解読されるはずはありません。「伊勢物語」の「みやび」から「源氏物語」の「もののあわれ」に昇華されて行くかに見える、「かそけき」平安朝美意識を陰謀・大胆・憎悪・奇行・高笑いの連打によってあざ笑うかのよう描いているのが「大鏡」というわけです。 たとえば高校の教科書に出てくる「枕草子」-古今の草子を-の一節に村上帝と宣耀殿の女御との美しいエピソードがありますね。まあ、よく読むと案外露骨なお話しなのだけど、「大鏡」にかかれば、好色な帝王と帝王をめぐって渦巻く嫉妬や露骨な権力争いの合間の「みやび」にすぎない話に様変わりすることを「大鏡の人びと」の著者は鮮やかに解説してくれています。 視点を変えれば出来事の意味が変化する面白さですね。枕草子や伊勢物語の作者たちが描きたがる「みやびな世界」を相対化する大鏡のリアリズムと言えばいいのでしょうか。そこに時代の実相を読み込んでゆく渡辺実の筆致は実に痛快、かつ、爽快です。 とまあえらそうに書いているのですが、実はこの先生、「国語構文論」・「平安朝文章史」なる論文で知られる、かなり上等の国語学者なのです。それらの本は、せいぜいページを繰ったことを自慢にする、ぼくごときにはとても「案内」できません。 この本も1987年に出版された古典的名著ですが、今や絶版でしょうね。購入して手にするのが難しいかもしれませんが、図書館の中公新書の棚にはあるでしょう。高校生が読んで損はないと思います。 ちなみに、渡辺さんには「さすが!日本語」(ちくま新書)という副用語を話題にした、一般向けのエッセイもあります。もう八十歳を越えていらっしゃると思うのですが、センスのよさがこちらの本でも古びていない所がさすがです。こっちの本は流行りすたりの激しい今日この頃といえども、さすがに本屋さんの棚にまだあると思いますよ。追記2020・04・09 渡辺さんは2019年の暮れに、亡くなっていらっしゃるようです。岩波書店から出ている「日本語概説」が机の横の本立てにあります。大学生のための教科書ですが、実際には教員をしていたぼく自身にとって、ずーっと教科書だった本です。 20代から、心を引き付けられた人たちが、次々と他界されるのを知るのは、やはり寂しいものです。ボタン押してね!ボタン押してね!日本語概説 (岩波テキストブックス) [ 渡辺実(日本語学) ]
2020.04.09
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「 桜! 満開です!(その1)」徘徊 2020年 4月5日 団地あたり 2020年4月5日、日曜日の朝。いつも机に向かっている部屋のカーテンを開けるとこんな感じでした。サクラの花が満開ですね。花の向こうに見えているのは「ゆかいな仲間」達が通った小学校です。 今日は子供の声が聞こえていますね。なんでしょう?ちょっと覗いてみますね。 ああ、サッカー少年団の引退式です。集まっているのは引退する6年生とご父兄、5年生、コーチの皆さんだけのようです。 例年はもっとおチビさんからみんな集まって、父兄やコーチの方も交えた試合があったり、豚汁とかでワイワイやってると思うのですが、「自粛」なんでしょうね。 子供のスピーチの声が聞こえてきます。1年生、2年生の頃から毎週、休日の朝早くからやってきて、ボールを蹴った思い出を語っています。もう二十年も昔のことですが、こんなぼくでも、練習試合の付き添い・引率に行ったことを思い出します。聞いていて何だか涙が出そうです。 ついでに棲んでいる棟の周りを撮りました。遠くにいる「ゆかいな仲間」たちには故郷の春の便りになればいいですね。 ちょっと住んでる棟を見あげて撮りました。青空に映えていいですねえ。 ちょっと、花の下にもぐりこんで、パチリ! もう一寸ズーム・アップして、パチリ! 北側の小学校の方を向いて、パチリ! 自宅の棟の前には数本の桜があります。まだ蕾の木もあって、これから散っては咲くという時期になります。 西の駐車場の方に向かってパチリ! みんな自宅の前の桜です。考えてみれば、どこかに花見に行く必要はありませんね。団地の中に桜並木がたくさんありますが、お隣のおばちゃんは集会所の近所の桜並木でお弁当を食べるといってました。 それでは団地の「満開」の偵察がてら、お手軽徘徊してきますね。報告は「桜!満開です!(その2)」はここをクリックしてください。追記2022・04・29連休に突入だそうです。今年の桜も思い出になってしまいましたが、撮って回った写真はまだアップすることが出来ていません。2年前の投稿を眺めていると、なんだかおんなじ風景の繰り返しのようで、どこかあわったことろがないかと見比べてしまいます。 気づくのは、1年1年、サクラも老いるということだったりして、ちょっともの思いです。2022年の桜は、季節外れの「サクラだより」で、また覗いてください。ボタン押してね!
2020.04.08
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デイミアン・チャゼル「ラ・ラ・ランド」OSシネマズ・ミント 2017年のアカデミー賞、もちろん、アメリカの、14部門にノミネートされて、監督賞、主演女優賞、撮影賞、作曲賞、歌曲賞、美術賞とまあ、総なめにした映画のリバイバルをOSシネマズ・ミントがやっていました。 まあ、行きますね、やっぱり。ミュージカルとか、結構好きですし。で、やって来ましたが、予約せずにやってきた結果、ここはチケット購入が全部機械なんですね。オロオロしていると、チケット・ブースの女性がすぐに駆け付けてくれて、実に親切なフォロー、事なきを得ました。それにしても、この映画館は、やっぱり苦手ですね。 早すぎたので、階下に降りて少し時間をつぶして会場に入ると、すでに暗くなっていて、何と本編が始まっているではありませんか。高速道路の渋滞の現場で、みんなが歌って、踊り始めています。いいですねえ。壮観です。 という訳で、タイトルが出て、少し落ち着いたので周りを見廻しましたが誰もいる気配がありません。なんか、変です。 映画の印象は悪くありません。でも、ぼくは多分この主演の男性ライアン・ゴズリング があまり好きではないようです。単なる好みなのでしょうが、結局、最後までノリ切れませんでした。この顔ですね。 「映画」の「映画」というか、どこかで見たようなシーンが山盛りです。全部解説できればカッコイイのでしょうが、もちろん、ぼくにそんな能力はありません。要するに「なんとなく」です。 ラストシーンもひねっているのでしょうが、シャラクサイ解説に思えて、これものり切れませんでした。の 終わってみるとオープニングのシーンを超える場面が、音楽としてもダンスとしてもなかった印象でした。もちろん好みの問題なのでしょうが、ちょっとため息が出ました。 劇場が明るくなって驚きました。300人は入るだろうというホールだったのですが、はるか彼方に一人だけ相客が座っていらっしゃいました。 今年の最小観客鑑賞、ぼくのですよ、でした。 それにしてもアカデミー賞総なめの映画という期待は、ちょっと裏切られてしまいました。 ミントのショッピング街を覗き見しながらエスカレーターで2階まで下りました。濃厚接触の可能性は限りなくゼロに近い様子でした。外に出て、南に歩道橋を渡って、センター街を避けて南に歩いて、大丸の南の道を西に歩きました。 気になったので、三丁目の交差点で北に上がって元町映画館に立ちよると知り合いのモギリのオネーちゃんがいて、感想を聞いてくれました。「OSも客、おらんかった。二人鑑賞は初めてやで。『ラ・ラ・ランド』やから人おるんかなって思ってたけど。」「テレビとかで、何回もやってますからね。もう、みんな見てるんですよ。」「そうなんか、知らんのはぼくだけか?でも、最初のシーンはええね。まあ、あれだけで、見た、見た、いいたなるな。」「それはいえますね。」「最後のシーンとかめんどくさかった。」「イヤ、逆に、あれじゃないともう!やなって思いましたけど。」「ああ、そういうもんか。ほんなら、明日また寄るわな。」「はい、お待ちしてます!」監督 デイミアン・チャゼル 製作 フレッド・バーガー ジョーダン・ホロウィッツ ゲイリー・ギルバート マーク・プラット 製作総指揮 モリー・スミス トレント・ラッキンビル サッド・ラッキンビル 脚本 デイミアン・チャゼル 撮影 リヌス・サンドグレン 美術 デビッド・ワスコ 衣装 メアリー・ゾフレス 編集 トム・クロス 音楽 ジャスティン・ハーウィッツ 作詞 ベンジ・パセック ジャスティン・ポール 音楽プロデューサー マリウス・デ・ブリーズ 音楽監修 スティーブン・ギシュツキ 振付 マンディ・ムーア キャストライアン・ゴズリング (セバスチャン)エマ・ストーン (ミア)2016年128分アメリカ原題「La La Land」2020年4月6日OSシネマズ・no6ボタン押してね!楽譜 ピアノソロ 中級 あの曲が弾きたい!人気映画テーマベスト30〜ラ・ラ・ランド〜 / ヤマハミュージックメディア
2020.04.08
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「これは椿ですよ!春ですね。満開です!」徘徊2020年4月4日 団地あたり あのー、これは椿です(と思う)。山茶花ではありません(と思う)。100パーセントの自信はありませんが、やはり椿です(笑)。 いよいよ最後かなと思っているのですが、まだ花芽が残っています。頭上では例の花が満開に迫らんとしているのですが、しぶとく美しく咲いています。 上品なピンクの八重です。 ちょっと、向こうの棟の花壇にある花ですが、近所の椿も見逃せません。 春の日ざしを浴びて、なかなかな風情です。 花の向こうに見えているのは小学校です。ゆかいな仲間たちが通った学校ですが、春休みということもありますが、静かです。 いつもの土曜日はサッカークラブや少年野球の練習でにぎわっています。さみしいことですが、まあ、しょうがないですね。「春ですね。満開です!」(その1)・(その2)・(その3)・(その4)はここをクリックしてください。ボタン押してね!
2020.04.07
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「春ですね。満開です!これはカリンです!」徘徊2020年 4月4日 団地あたり 「ねえ、バス停のとこのカリン、花が咲いてるの知ってる?いい色なのよ。赤っていうんでも、ピンクっていうんでもないの。」「うん、知ってる。写真も撮った。」「あら、素早いのね。」「へへへ。」 カリンは「花梨」と書く場合もありますが、マメ科の花の「花梨」とは違って、バラ科の落葉高木だそうです。木瓜の仲間とされていた時もあって、木瓜と書いて「かりん」と読んでいたこともあったそうですが、今の分類では違うらしいですね。花は少し似ています。という訳で。カタカナで表記しています。大寺の しかも禅寺 花かりん 森澄雄かりんの花 数へたくなる やさしさに 相馬遷子達治の忌 過ぎてかりんの 花あまた 古川照子 達治の忌というのは、詩人の三好達治の命日ですね。1964年の4月5日です。教科書のこんな詩でご存じの名前だろうと思います。 雪太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪ふりつむ。 この詩ですね。ちょっと季節が違います。でも、まあ、三好達治といえばこの詩でしょうか。なんか、なにはともあれ、すごいと思います(笑)。 甃のうへあはれ花びらながれ をみなごに花びらながれ をみなごしめやかに語らひあゆみ うららかの跫音空にながれ をりふしに瞳をあげて 翳りなきみ寺の春をすぎゆくなり み寺の甍みどりにうるほひ 廂々に 風鐸のすがたしづかなれば ひとりなる わが身の影をあゆまする甃のうへ こっちの詩は、この季節ですね。これも高校の教科書に出ていたはずです。どれくらい覚えていらっしゃるか、漢字の読みがなはつけませんね。 この「満開」報告も、そろそろ桜でしょうか。「春ですね。満開です」(その1:木蓮)・(その2:花桃)・(その3:木瓜)はそれぞれクリックしてみてくださいね。追記2022・05・10 どういうわけだったのか、自分でわかりませんが、今年はカリンの花を撮り忘れました。場うどうり沿いの、一番目立つところにあるのですが、どうしたのでしょうね。満開を過ぎたころに気づいて撮ったのが下の写真です。 花は毎年、毎年、律儀に咲いているのですが、その年その年の人間側の都合があるようです(笑)。ボタン押してね!
2020.04.07
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「春ですね。満開です!(その3)これは木瓜の花」 徘徊日記 2020年4月4日 団地あたり 木瓜(ぼけ)です。その愚には 及ぶべからず 木瓜の花 夏目漱石 だまされて をればたのしき 木瓜の花 加藤秋邨 こんな色もあります。ちょっと上品です。吾妹子が 門忘れめや 木瓜の花 正岡子規 浮雲の 影あまた過ぎ 木瓜ひらく 水原秋櫻子 こっちは真紅です。写真はピンボケです(笑)。木瓜の花 紅し物慾 断ちがたし 日野草城雲助の 裸で寝たる 緋木瓜かな 泉鏡花 白い花は雪柳です。 草むらの中に、こんなボケの花もありましたよ。ぼくはこれが一番好きですね。追記2020・04・06「春ですね。満開です」(その1)・(その2)はここをクリックしてください。追記2022・04・14 残念なことに、藪の中にあったこのボケの木が今年はなくなっていました。この花が咲くということに気づかず切ってしまったようです。近くの沈丁花も同じ運命です。仕事するひとに悪気はないのでしょうが、ウロウロしているヒマ人にはさみしいことです。ボタン押してね!
2020.04.06
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原泰久「キングダム 57巻」集英社 おなじみヤサイクンの4月のマンガ便です。お待ちかね「キングダム57巻」が届きました。2020年3月24日発売の最新刊ですね。秦対趙の、最終決戦、「朱海平原の戦い」15日目、いよいよ結末の日だと思うのですが、55巻から始まって、これで3巻目、決着はつくのでしょうか。 表紙の二人は「飛信隊」を率いる「信」と、その盟友、妖術まがいの剣の使い手、「羌瘣(きょうかい)」ですね。そうです、「朱海平原の戦い」最終日の戦いは一進一退、刻々と形勢を変化させながら、随所に見どころを生み出してゆく57巻ですが、最後は「羌瘣(きょうかい)」と「信」それぞれの必死の戦いがメインです。読みどころの一つ目は、形勢不利の中、最後に残った騎馬隊に秦軍の総大将王騎将軍の首を直接狙わせるという大胆不敵な突貫攻撃を命じた李牧の作戦で趙軍が盛り返すまでの展開です。 原泰久の絵は、誰が誰なのかよくわからなところが面倒ですが、戦場全体の展開の、俯瞰的な描写の面白さが際立っています。 二つ目は「飛信隊」の参謀河了貂(かりょうてん)の存在の重要性に気付いた趙軍の武将金毛と河了貂の戦いのシーン、これです。 勇将金毛の襲撃に河了貂は絶体絶命、さて、それを一撃で救うのは誰なのか。大きな流れに、小さなドラマをかみ合わせていくことで、物語にナイーヴな印象を施しているところが、実に面白い。まあ、ありがちな方法ですが。 三つ目は、突如現れた趙軍の怪物「龐煖(ほうけん)」と飛信隊の妖術剣士、「羌瘣」の一騎打ちです。果たして、美少女剣士は怪物相手のどんな戦いを演じたのでしょうか。 しかし、実際、羌瘣は大丈夫だったのか、ファンとしては気になるところですが、「信」に火をつけたことは間違いありません。 そして四つ目には「飛信隊」を率いる「信」が、いよいよ武神「龐煖(ほうけん)」と激突です。 緒戦では怪物「龐煖(ほうけん)」に叩きのめされる「信」ですが、死んでも、死んでも生き返る「飛信隊」です。さあ、勝負の行くへはと固唾をのんだところで、58巻をお楽しみにという結末でした。ヤレヤレ。 まあ、それにして次号では決着がつくのではないでしょうか。テレビアニメも始まるそうですが、ぼくは見ませんね。こんな、派手で分かりにくいシーンに音が入って、動き出したりしたら、ちょっとシラケるじゃないですか、ねえ。追記2020・04・05「キングダム」(55巻)・(56巻)の感想は、ここをクリックしてみてください。 ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.04.06
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「春ですね。満開です!(その2)これは桃の花」 徘徊日記 2020年4月4日 団地あたり 棟の玄関で出会ったお隣さん。「あの、ピンクの花はなんですかねえ。」「ああ、アレは花桃じゃろね。」「なんや、桃なんや。」そこに通りかかったのが、向こうの階段の一階のオジサン。「ああ、アレか、アレは桃やね。実もなるよ。もちょっと小さな木やったころ袋被せてみたこともあるよ。まあ、結局はカラスの餌やけんどね。」「実がなるんや!」「実いうたら、その向こうはザクロやし、こっちは琵琶やな。あれ、ホラ、あっちの入り口の木はイチジクや。実はみんなカラスかヒヨドリの餌やな。」桃咲くや 父と娘いつも 幼なかり 石原八束妹に 口で負かされ 桃の花 大原教恵人麻呂の 石見を見たし 桃の花 森 澄雄「その桃の木の上は箒桃!いろいろ色があって、よかろ。」 これが箒桃の赤い花ですね。 こんな感じで、この辺りに集まって植わっています。 こっちが白い箒桃。あとピンク色もありますが、写真を撮り忘れました。とったらまた貼ります。追記2022・04・14 桃も箒桃も今年も元気に咲きました。今年の姿、もうすぐ投稿する予定です。ボタン押してね!
2020.04.05
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ウォン・カーウァイ「欲望の翼」元町映画館 「映画ウォッチ」というサイトにネタバレあらすじが紹介されています。 元町映画館が2020・3月の終わりから一週間限定でやっているウォン・カーウェイ監督プチ特集の二本目「欲望の翼」を目指して、不要・不急・外出自粛もなんのその、やって来たのは元町四丁目です。 商店街は思いのほか人通りがあって、うれしいような不安なような。まあ、幽霊街よりはこれの方がいいですね。 もっとも、座ってみると、映画館は少々寂しい限りでしたが、なにはともあれ始まりました。 やはり、暗いカウンター式の売店に男が現れて、コーラを買うシーンから始まりました。「やはり」と感じたのは一昨日見た「恋する惑星」の後味のせいです。 カウンター越しに男と女がいきなり意味ありげなことばを交わします。「一分間の友達」とか、「君がぼくと夢で逢う」とか、面白いのですが、さほど現実的とは思えない、こういうセリフも「恋する惑星」の後味と重なります。 ここから二人の、いや男の義母を入れると三人、実母を数えると四人の女と、三人の男の話でした。ストーリーを引っ張る、まあ、主役の男ヨディ(レスリー・チャン)の「母恋」という設定がイマイチなのです。ヨディが最初に出会った売店の女スー(マギー・チャン)とも、二人目の女ミミ(カリーナ・ラウ)ともうまくいかない、その上、義母と諍いし、フィリピンで実母を探すというお話を支えているのが「母恋」ということになるのですが、その引っ張り方は、ぼくにはあまり面白いとは思えませんでした。「一度しか地上に降りない『鳥』」という、おそらく詩の文句がエディによって繰り返し口にされるのですが、「マザコン野郎」のそういうセリには、一体どういう意味があるのか、後になって考えると、ちょっとついていけないものを感じてしまうわけです。 なぜ、後になってかというと、実は、この映画でのヨディの破滅への経緯は、最初のシーンで、売店のカウンターに突っ伏して寝たスーという女性の夢の中のシーンだと思い込んで見ていたからです。 その見方だからといって「マザコン問題」は解消されませんし、時折挿入される、ちょっとぼんやりした「フィリピンの密林」らしい俯瞰のシーンの意味がわからないのですが、それは、まあ、夢だからと納得しながら、死んだはずのヨディが最後のシーンで出て来て、よし!と思ったのです。 が、最後のシーンをぼんやり見ていると、そこに登場しているのは、これまで一度も出てこなかった別の人物(トニーレオン)だと気づいて、ワッチャー!で映画は終わりました。 さすがのぼくでも、こういう見損じは、なかなかないのですが、じゃあ、この映画は何だったんだといわれると、やっぱり夢の中の出来事じゃないかといいそうなのです。今回は、眠くはならなかったのですが、映像のムードが、どこか現実離れしている「夢遊」の印象で、仕事もしない青年の「マザコン」の末路の破滅だといわれると、「いや、やっぱりレスリー・チャンという俳優が最後に演じて、雲散霧消してしまった『夢』そのものでしょ。」といいたくなるのですが、ヤッパリ見損じ三振でしょうね。 でも、この監督の映画がどこかでかかれば、ヤッパリ見に行きますよ。一本ぐらい「よし、わかった!」がないとシャクですからね。 監督 ウォン・カーウァイ 製作 ローバー・タン 製作総指揮 アラン・タン 脚本 ウォン・カーウァイ 撮影 クリストファー・ドイル 美術 ウィリアム・チャン 編集 パトリック・タムキャスト レスリー・チャン (ヨディ) マギー・チャン(スー) カリーナ・ラウ (ミミ) トニー・レオン (???) アンディ・ラウ (タイド) ジャッキー・チュン(サブ)1990年 95分 香港 原題「阿飛正傳 Days of Being Wild」2020・04・02元町映画館no40追記2022・09・23 最近、この映画を見ました。二度目です。シネ・リーブル神戸がウォン・カーウァイ監督の特集と一緒に、プラス1で上映していました。2年前に見たときの、この感想には「母恋」とかにこだわって書いていますが、今回は、なんか、そういうことは全く意識できませんでした。 感想はべつに書いておこうと思いますが、問題は、2年前に、こうして見ていることを全く忘れていたことですね。映画のせいなのか、自分のせいなのか、それが、問題ですね。 ここの2年前の感想を読んでいて面白いのは、今回の印象とほとんど重ならないことです。母親とのやり取りも、さほどの違和感はなかったですし、「1分間」という最初の決め台詞も、そんなに印象に残らなかった。映画全体が主人公の「夢」だとは、もちろん、全く思わなかったし、書いた当人なのですが、どうも、映画の後味が、全く違うようです。で、本人は、今回初めて見ていると思い込んでたんですから、それも不思議。どうなっているのでしょうね。ボタン押してね!
2020.04.05
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「春ですね。満開です!(その1)白木蓮」徘徊日記 2020年 4月4日 団地あたり はくれんや 含羞の白 おづおづと 鷲谷七菜子 住んでいる棟の東の端に一本ある「白木蓮」ですね。先週はこんな様子だったのですよ。木蓮と 判りしほどに 莟みたり 高浜年尾 それがこうなりました。 なんというべきか。周囲には満開の桜ですが、堂々とというか、ゆったりというか、貴族のおばさんというか、令嬢っていう感じはちょっと、どうですかね?木蓮よ 「その白い魔女を 風葬に」 久保純夫鈍き木に 木蓮の花 大なる 正岡子規 さて、向こうに咲いているのは何でしょう。 満開徘徊続きます。追記2022・04・13 当たり前といえば、まあ、当たり前なのですが今年と去年と、同じ木でも10日ほどの幅で、遅かったり早かったり、日記代わりの徘徊記録が教えてくれます。今年、2022年の白蓮の記録はまだアップできていませんが、写真は撮っています。散ってしまった団地の桜の記録もまだです。日記代わりのはずが、思い出記録になりつつあって、ちょっと焦っています(笑)。ボタン押してね!
2020.04.04
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テンギズ・アブラゼ「希望の樹」元町映画館 映画com グルジアの名匠、テンギズ・アブラゼ。「祈り」三部作の第二作。「希望の樹」を見ました。「懺悔」、「祈り」、「希望の樹」の順番で見たのですが、「懺悔」で、なるほど、そういう戯画化と風刺を狙った映画監督かと少し高を括りました。 ところが「祈り」で打ちのめされてしまいました。抽象度が高くて付いていけていない、わからん、そんな感じでした。 でも、「希望の樹」で少し希望を取り戻しました。ちょっと、わかったような気がするとでもいえばいいのでしょうか。もっとも、これらのシリーズが「三部作」と銘打たれている理由は、イマイチわかっていません。 「祈り」は、いわば抽象、光と闇を交差させた詩的なイメージの連鎖のような映像が心に残る作品でしたし、「懺悔」は、寓話性が如実に表現されている映画で、映画の中で展開される「物語」が現実社会の「戯画」として描かれている印象を強く持ちました。ただ、その中で愚かしい独裁者のシンボルと、抵抗する人間のシンボルである墓を暴く女性に対して、教会への道を探す老婆の存在が何を意味していると受け取っていいのか、腑に落ちたとはとても言えません。 社会と人間に対する映像作者の眼差しが、ある種の共感を持ちながらも、滑稽さや痛快さとともに、「人間」という存在の哀しさ、愚かしさを、批評的に見据えているという印象が記憶に刻まれる体験でした。 さて「希望の樹」です。 真っ赤な芥子の花が一面に咲き乱れる草原に少年と横たわった馬がいます。老人が現れて少年に馬を殺すこと命じます。それが始まりのシーンでした。 村の長である同じ老人が、掟を破った女性を、泥でぬかるんだ暗い道を引きずりまわし、死を宣告する。それが最後のシーンでした。 新しい社会を主張するアナーキスト、「希望の樹」を探す夢想家とその娘、美しい少女と貧しい少年の恋。それが、美しい芥子の花が咲き乱れるこの村で抹殺され、滅びてゆくものです。 明らかな風刺、サタイアとして描かれている世界なのですが、ぼくには笑えませんでした。それは、おそらく、この惨たらしくも「美しい」世界が、決して過去や他国の比喩ではない緊張感で襲い掛かって来たからだと思います。 先に見た「懺悔」で、失われた「教会」への道をとぼとぼ歩いて去ってゆく老婆に対する共感と、この映画で、一応、主人公のように扱われている若い二人の「恋」を断罪する、村の長である老人への、ある種、絶望的な反感がぼくのなかでぶつかり合いました。 二人は同じものの裏表であることは明らかなのですが、ぼく自身の中で、この反感と共感の共存している理由を解かない限り、少女の処刑を指揮する「村の長」を断罪することができないことを厳しく問いかけた映画でした。 それにしても、考えてもわかりそうもないのですが、考え続けざるを得ない、大きな問を突き付けた三部作だったと思いました。 監督 テンギズ・アブラゼ 原作 ギオルギ・レオニゼ 脚本 レヴァズ・イナニシュヴィリ テンギズ・アブラゼ 撮影 ロメル・アフヴレディアニ 音楽監修 ビジナ・クヴェルナゼ ヤコブ・ボボヒビ キャスト リカ・カヴジャラゼ(聖少女マリタ) ソソ・シャチヴリアニ(牧童ゲディア) ザザ・コレリシュヴィリ(金持ちの息子シュテ) コテ・ダウシュビリ(長老ツィツィコレ) ソフィコ・チアウレリ(放浪の日傘の女プパラ) カヒ・カフサビ(革命の予言者イオラム) オタル・メグヴィネトゥフツェシ(希望の樹を探す夢想家) テミナ・トゥアエヴァ(胸の大きな娘ナルギザ) 1976年 ジョージア カラー 107分 2019・11・08・元町映画館no39ボタン押してね!
2020.04.04
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バカ猫百態 2020年 (その1)「きみ、なにやってんの?」ジジ「き、きみ!なにやってんの?」キキ「トンネルやん。おもろいで。」ジジ「ああ、そう。」キキ「ほら。いっしょにあそばへん?」ジジ「あそばへん!今、『ネコ俳』考えてんねん。」 2020・4月・1日。 四月バカ トンネルごっこも マスクして ジジトンネルを 抜ければそこは ディストピア キキぼくたちも マスクがほしい ニャーニャーワン! ジジ・キキ・カル合作 トンネルの向こうにキキちゃんは一体何を見たのでしょうか。にほんブログ村
2020.04.03
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ウォン・カーウァイ「恋する惑星」元町映画館 映画com 本日二本目は元町映画館が特集しているウォン・カーウァイという監督の香港映画の一本で「恋する惑星」です。香港映画初体験ですね。先週やる気なしの一週間だったので、今週は気合入りまくりの一週間のつもりで、シネ・リーブルから元町映画館へと転戦して来ました。「なんの新コロちゃん騒ぎ!」 という気合です。 ウォン・カーウァイという人はもちろん知りません。1990年代というのは、ぼくが映画館から最も遠ざかっていた十年です。意地になっていましたが、なぜ意地になっていたのかはわかりません。で、映画が始まりました。 不思議な感覚の映像象です。身体反応なのでしょうか、モーレツに眠い。この眠さはビー・ガンの「ロングデイズ・ジャーニー」の眠さとよく似ています。映像がスクリーンの上を滑っている感じです。カン違いかもしれませんが、色の感じもよく似ていると思いました。 見終わるまで、最初の金髪の女性と後半のフェイという女性が同じなのかちがうのか、何かフェイクのようなオチでつながるのか気になり続けていましたが、何の関係もなかったようで、アレレっていう感じで映画は終わりました。要するにお話が二つあったのですが、何が繋がっているのかよくわかりませんでした。 映画com テイクアウトのお店が仕掛けの起点なのはわかりますが、まあ、シンプルな設定であるなあ、と思いました。なんか、カメラが「軽い」感じなんですよね。 で、はまりました。なにが、どう魅力なのかよくわかりません。とてもシンプルにバカバカしいのですが、映画でしかできないような「感じ」が溢れています。ぼくには異様に眠気を催させる映像もあるのですが、あれも魅力の一つですね。 今週中に、もう一本の「欲望の翼」を見ようと決めて帰ってきました。二本見れば、気に入った理由が何かが、少しはわかるでしょう。そんな感じでした。監督 ウォン・カーウァイ 脚本 ウォン・カーウァイ 製作総指揮 チャン・イーチェン 製作 ジェフ・ラウ 撮影 クリストファー・ドイル アンドリュー・ラウ 美術 ウィリアム・チャン 音楽 フランキー・チャン ロエル・A・ガルシア 編集 ウィリアム・チャン カイ・キットウァイ クォン・チーリョン 字幕 岡田壯平 字幕監修 横井淳子 キャストトニー・レオン(警官633号)ブリジット・リン( 金髪の鬘の女)フェイ・ウォン(フェイ) 金城武(警官223号(モウ)) チャウ・カーリン(スチュワーデス)1994年・100分・香港原題「Chungking Express 重慶森林」2020・03・31元町映画館no38ボタン押してね!
2020.04.03
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「花には雨の水曜日」徘徊日記 2020年4月1日 団地あたり 一寸、郵便を出しにポストまで。老いそめて 花見る心 ひろやかに 飯田蛇笏近隣の 花見て家事に いそしめる 杉田久女 家の前の桜が満開で、いや八分咲きですが、あいにくの雨です。掃除の方が雨の歩道もきれいに掃いてくださっているので、こんな感じ。もっとも、まだあまり散っていないこともあります。カメラを少し右にふってみます。 我が家の「ゆかいな仲間」達には懐かしいでしょう。もう一つ懐かしい写真はこれです。カメラを左にふりました。 3月になってから、生徒の声がしない小学校です。校庭の桜が、順番に咲いています。グランドには、先日ニガリが撒かれていましたが、教員の皆さんも、新学期の準備の日々とはいうものの落ち着かないでしょうね。 ポストからの帰り道、西の駐車場沿いの桜並木です。五分から七分の咲き加減ですが、木によっては満開ですね。雨の花見の ついでに 焼場の灯も覗いて 伊丹三樹彦袴着て 傘さゝせたる 花見かな 尾崎紅葉 紅葉の句はともかくも、伊丹三樹彦の句は、ぼくには意味不明の句ですね。面白いから載せました。でも、これって俳句かな? こうして見上げると、雨の日の桜はまた風情が違いますね。もう一枚写して家に帰りました。 部屋にはいると雨脚が強くなりました。もう、今日は出かける気力はありませんね。花の雨 やがて雨音 たてにけり 成瀬櫻桃子 雨の水曜日で、折角のエイプリル・フール、嘘をつく相手にも出会わず、一日家で引きこもりでした。ボタン押してね!
2020.04.02
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豊島圭介「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」シネリーブル神戸 3月28日の土曜日、我が家のチッチキ夫人が朝起きたらいないのです。「ねえ、三島由紀夫のドキュメンタリー行かん?」「エエー、一緒に見るの?なんか、いややなあ。」「なんでよー?それ、どういう意味?」「イヤ、意味とかないけど、三島やろ?まあ、一人で行っといで。」 前夜、こういう会話があってという訳で、いつもはノンビリの土曜の朝、映画館へ直行したようです。なんか、気合が入ってましたね。 夕方帰宅して開口一番。「なんか、めっちゃ腹立たしい映画やったわ。男ばっかりで何やってんのっていう感じ。まあ、ええとこもあったけど。ああそうや、橋本治の三島なんちゃらどこ?」「橋本治の棚は向こうの部屋。とってくる。これやろ。読むの?(ああ、一緒に行かんでよかった。」 ぼくの最後の一言は、もちろん口には出さなかったのですが、そういはいってもという訳で、本日は一人で三島由紀夫の顔を拝みにやって来たシネリーブルでした。 驚きました、このところのシネ・リーブルでは考えられない客の入りです。もっとも、老人会状態は一緒でした。 映画が始まりました。豊島圭介監督の「三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実」です。 まず、一番の驚きは映像がカラーで、音声も実に鮮明なことでした。三島由紀夫の「声」のみならず、若き日の芥正彦を始めとする学生の声もよく聞こえます。 論戦の中で、紅潮する三島由紀夫の顔が映し出されてゆく様子や、照れたような笑顔の三島由紀夫が生身のままであることに、強く揺さぶられるような、それは、全く予想していませんでしたが、やはり感動でしょうね、そういう感じを強く感じました。 もう一つの驚きは、場の和やかさです。実は三島由紀夫と東大全共闘のこの討論会は、1969年に「三島由紀夫VS東大全共闘」という書名で新潮社から出版されています。そこには、この映画ではかなり省略されている討論がすべて載っているわけですが、今から40年前にそれを読んだぼくには、このムードで両者の討論が行われていたということはわかりませんでした。もっと空疎で殺伐としたものをイメージしていました。 ぼくがチッチキ夫人との同伴映画鑑賞に及び腰になった理由もそこにありました。読めばわかるのですが、「言葉」の上では、過剰に道化ている三島も、粋がっている学生も、今から見れば「暗い」に違いないと思っていたのです。 三島由紀夫は対等な討論の相手として学生に向き合っていて、ことばや表情から、ある種「楽しんでいる」ことが伝わってきたことは、驚きでした。三島がおどけて言うセリフに、学生たちは真っ当な笑いで応じています。これなら、一緒に見ても大丈夫だったと思いました。 ただ、ドキュメンタリー全体でいえば、納得できたわけではありません。50年の時間が経過した出来事の映像なのですから、解説的、説明的になるのは仕方のないことなのでしょう。実際にどれほどの映像があるのかは知りませんが、もしもフィルムがあるのなら討論全体を見たかったという気がしました。 ぼくはコメントしていた内田樹の少し後の世代だからでしょうか、特に橋爪大三郎の、彼自身の今のとらえ方には納得しましたが、若い小熊英二と平野啓一郎の分かり方には、少し違和感を感じました。 帰宅すると、今日はチッチキ夫人が、めづらしく、すでに帰っていました。「何見てたん?三島?」「うん。元町映画館で、もう一本、香港映画。シネ・リーブルの方は三島の笑顔が、なんか、よかった。」「ええ、二本見てきたん?そうやろ。あれは見てよかったやんな。」「女の人、一番始めに、前に座ってるの映ってたで。」「うん、それには気づいてた。でも、なんか、男、男してたやん。」「まあ、そういう時代やったんちゃうか。ぼく、三島が死んだん高一やもん。まあ、ぼくらの大学生の時もあんな感じやったかもな。」「私は小学生やった。ほんでも、ようタバコ吸うとったね。」「小学生でか?」「アホ、映画でや。」 そのあとはナレーターの東出なんちゃらの声がアカンとか、瀬戸内寂聴スゴイとか、平和なシマクマ君家でした。監督 豊島圭介 撮影 月永雄太 録音 小川武 編集 村上雅樹 音楽 遠藤浩二 音楽プロデューサー 溝口大悟 ナレーション 東出昌大 助監督 副島正寛 キャスト三島由紀夫 芥正彦 木村修 橋爪大三郎 篠原裕 宮澤章友 原昭弘 椎根和 清水寛 小川邦雄 平野啓一郎 内田樹 小熊英二 瀬戸内寂聴2020年 108分 日本 2020・03・31シネリーブル神戸no50追記2020・04・01 驚いたことに「三島由紀夫VS東大全共闘」(新潮社)は角川文庫になっていました。我が家では行方不明ですが、古本には8000円の値段がついていました。橋本治の「三島由紀夫とはなにものだったのか」 (新潮文庫) も文庫になっていました。三島由紀夫論といえば野口武彦「三島由紀夫の世界」(講談社)も名著だと思うんですが、古本で探すしかなさそうですね。追記2023・03・22 旧い記事を修繕していて、久しぶりに三島由紀夫のポスターを見ました。懐かしさというのでしょうか、不思議な感慨がわきました。偶然ですが、「三島由紀夫の世界」(講談社)の著者、野口先生とお出会いする機会がありました。お若かりし日には大江健三郎、三島由紀夫を論じられた先生も、今では俳諧の世界に遊んでいらっしゃるようです。お元気でした。それにしても時がたちましたね。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.04.02
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「新コロちゃんの町!(その2)」 徘徊日記 2020年3月31日 元町あたり 今日の目的地はシネ・リーブル神戸です。最寄り駅は三宮か元町ですが、シマクマ君はJR神戸が最寄です。今日は栄町通を歩きます。人通りが少ないのは、コロナと関係なく、いつものことです。まあ、それが好きなのですが。 わかりにくいですが、一番向うに幽かに見えるビルがシネ・リーブルが入っている、昔の朝日会館ビルです。今はどう呼ぶのか知りません。 ネッ、人いないでしょ。これお昼前ぐらいなんですよ。 ここから、途中で「元町映画館」を覗いて、カウンターに顔見知りの人がいるとちょっと邪魔して、南京町の裏の路地を抜けて大丸前というのがコースです。 おっと、南京町にも人がいません。ご覧の通り西門からの写真ですが、これはヤバイですね。向うに朝日会館が見えます。この門を入って、まっすぐ行けば早いようなもんですが、此処だけはいつも人が多いので右側に迂回します。でも、今日は人がいませんね。 大丸の前のスクランブルの交差点を通過して、朝日会館ですがその前にちょっと一服。なんですかこれは? 理由にコロナ云々が書かれていますが、ショック! コロナにかかるとタバコを喫っている人は「致死率」が高いと言いふらされ始めていますが、それはコロナに限ったことではないでしょう。何だかこういうことだけ、熱心で、素早い行政に「感心」しながら一服しました。もちろん吸殻を捨てたりはしませんよ。 映画館でみたのはこれ。三島由紀夫の笑顔、笑顔を堪能しましたが、案外お客さんがいらっしゃったののが、ちょっと嬉しかったですね。 で、いつもは喫煙コーナーで一服するのですが、今日はそのまま元町商店街を通って元町映画館へ直行です。本日二本目はこれです。 我ながら、何の脈絡もない二本立てですが、これはよかったですね。見終わって、神戸駅からJRに乗って帰って来たのが垂水駅です。さあ、一服して帰ろうと駅前広場に出ました。な、ない! いつも、ここまで帰ってくると、ちょっと座ってお茶を飲むベンチが、跡形もなく、じゃなくて「跡形」だけ残してないのです。いつもはベンチ座ってるはずの老人が、柱にもたれて座っています。 これも新コロちゃんの影響でしょうか。理由は予想がつきますが、こういうやり方は、なんか違うと思います、税金で作ったベンチじゃないんでしょうか。これはひどい仕打ちですね。(`Д´)ノプンプン!ヽ(`Д´)ノプンプン! 喫煙場所といい、ベンチといい、やっぱり神戸市は信用できません!まあ、一度も信用したことはないですが。何だか最後になって、疲れがドッと出た一日でした。追記2020・04・01徘徊「新コロちゃんの町(その1)」・映画「三島由紀夫VS東大全共闘」の感想はこちらからどうぞ。追記2023・03・21 垂水の駅前が再開発だそうです。西口広場には、まあ、訳の分からない噴水とかありましたから、多分それも邪魔なのでしょうね。ちょっと座るスペースを取り払った神戸市がどんな駅前に作り直すのか興味を持ってみていますが、期待はしていません。ボタン押してね!
2020.04.01
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「新コロちゃんの町!(その1)」 徘徊日記 2020年3月31日 海神社あたり 信心のかけらもないゴジラ老人シマクマ君、一体、どこの神社に参詣しているのかと訝しむ方もいっらしゃると思いますが、JR垂水駅のプラットホームからすぐ南に見える海神社の桜がよかったんです。 アップするとこんな感じ。 全景はこんな感じ。 インスタントのデジタルカメラを持って、プラットホームをうろうろする徘徊老人は危険ですね。十分自覚しています。 JR垂水駅はシマクマ君の徘徊の始発駅です。サクラの花にそれほど思い入れがあるわけではありませんが、日射しもよくていい気持ちですね。思わず写真を撮りたくなります。 電車も来ました。ちょっと三宮に出かけます。続きは「新コロちゃんの町!(その2)」でどうぞ。ボタン押してね!
2020.04.01
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ブレイディみかこ「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(新潮社) 「ハヤリ本」は読まない主義なのですが、ブレイディ・みかこさんの「そろそろ左派は経済を語ろう」を読んで、この本を図書館で予約しました。予約した時に待機の順番が100番を越えていました。昨年2019年の秋のことだったのですが、順番が回って来たのは2020年の3月の中旬でした。読み始めたら、すぐに読めました。読み終えた時刻は午前三時過ぎでした。なるほど、流行るわけだと、納得しました。 試しに「ブクログ」という読書サイトを覗いてみて驚きました。なんと、登録している人が4000人を超えていて、500人近い人がレビューを書いているのです。 何がそんなに評判なのだろうと、レビューを読みました。まじめに書かれたレビューがたくさんありました。ぼくがここで書き足さなければならないことはもう無いようです。どうぞ、そちらをお読みください。(「ブレディみかこ」をクリックしていただけば読めます。ついでですが、ぼくの書棚は「simakumakunの本棚」をクリックしていただければいいかと。) とはいいながら、一つ書き加えたいことがあります。このエッセイの中で、著者は息子の学校の、多分、英語で書けば「teacher」のことを「教員」と書いていて、「husband」のことを「配偶者」と書いています。たったそれだけのことなのですが、そこにこの著者の見識が光っていると思いました。 女性の配偶者のことを「嫁」と呼んではばからないタレントがテレビ画面で「フェミニスト」ぶったり、自ら「教師」と名乗る教員が、教室で「平等」を口にするというのが、この国の現実なのですが、誰も疑いません。むしろ、世間の風潮として、そういう言葉遣いが若い人たちの間にも広がっています。 「日本語」が通じない国で暮らす著者が、日本の出版社である新潮社のPR雑誌「波」に書いた、おそらく「日本語」の原稿に、「配偶者」・「教員」と書くには、やはり勇気がいったと思います。その勇気が彼女のイギリスの暮らしを支え、「配偶者」や「息子」からの信頼を勝ち得ているように感じました。 本当は、もう一つ書きたいことがあります。というのは、このエッセイを読む一週間ほど前に「レ・ミゼラブル」というフランス映画を見たのですが、感想がうまく書けなくて困っていました。ところがこの本を読んでいて、ヨーロッパの先進国の「貧困」について教えられ、著者が鋭く指摘する「共感・シンパシー」と「理解・エンパシー」の違いの大切さについて気付かされて、自分が感じていたことがわかった気がしたのですが、それは「レ・ミゼラブル」の感想で書こうと思います。できれば、また、そちらをお読みいただければと思います。(題名をクリックしてみてください) 最後にもう一言付け加えれば、根性のまっすぐしている人の文章は「さわやか」だということでした。久しぶりに爽快な読書体験を味わえる読書でした。 是非お読みください。納得がいく本だと思いますよ。追記2020・09・29 いつの間にか我が家の本棚に並んでいる本になりました。チッチキ夫人が買い込んできたようです。すると、思いがけない展開が始まりました。活字の本なんて、あまり手にしそうもないゆかいな仲間の一人が持って帰ってしまったのです。 何はともあれ、読む人が増えるのがうれしい本ですから、久しぶりに、なんだか痛快な気分になりました。追記2021・07・22 久しぶりに行った新刊書店の平台に文庫化されたこの本が並んでいました。読み方は色々ですが、ブレイディ・みかこさんの考え方が、この国にも広がることを祈るような気持ちになりました。 ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.04.01
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