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菊地信義「装幀の余白から」(白水社) 表紙だけでは、意味不明ですので、背表紙もスキャンしてみました。 装幀家の菊地信義を撮った「つつんでひらいて」というドキュメンタリーを見て「装幀の余白から」(白水社)というエッセイ集を読みました。 スキャーナーで撮ってみると真っ白く見えますが、ほんの少しグリーンのニュアンスがあるクリーム色の本です。内容は新聞や雑誌に載せた短いコラムやエッセイですね。 本に使う紙の「風合い」だとか、朝一番に飲む「コヒーの味」だとか、実際に物を作る人にしか口にできない話が、飾らない文章なのですが、どこかに「つよさ」を感じさせるところが独特の味となっているエッセイが集められています。 とはいうものの、「さあ、紹介しよう」とかまえてみると、ちょっと困ってしまうタイプの「本」です。装幀の写真をご覧になってもわかると思うのですが、限りなく特徴を消し去った、だからこそ、実に個性的な「本」の姿なのです。 書きあぐねているさなかに、作家の古井由吉の訃報がネットに出ました。「つつんでひらいて」という映画では、古井由吉自身も出演し、「自己模倣に陥らない」と装幀家の仕事をたたえていたことが印象に残りましたが、映画では、彼の「雨の裾」という短編集の装幀のプロセスが丁寧にたどられていて、それこそ、目を瞠る思いをしたことを思い出しました。 亡くなった古井由吉が生涯をかけて書き続けてきた作品の、「本」としての「身づくろい」を一手に引き受けてきた装幀家が、その作家の死に際して何を感じ、何を考えているのか、生半可な想像はできません。ただ、傷ましく思うだけです。 偶然ですが、このエッセイ集の中に、一つだけ「斯斯然然」、「かくかくしかじか」と読むのだと思いますが、その題で、古井由吉を話題にした軽妙な文章があります。 本来ならば、装幀家である菊池信義が古井由吉という作家を「物を作って生きる奥義を授かった」人であることを語っているエピソードを引用すればいいのかもしれません。しかし、それでは、古井の作品のファンであった素顔が伝わらないでしょう。こんなふうに古井由吉の作品を読んでいた一人の「読者」が彼の「本」を作っていたことを、全文引用して伝えたいと思います。 美術大学の学生に、装幀した本で、一番思いの深い一冊は、と問われ、古井由吉さんの「山躁賦」と口にし、理由を聞かれて往生した。 思いのたけは装幀にこめてあると、煙にまいてもよかったのだ。 かれこれ三十年になる。古井さんの、旅を主題とした連作小説の、編集者の一人として、取材旅行に同行する機会を得た。掲載誌に挿絵がわりの写真を撮る仕事でもあった。 原稿をいただき、真先に読み、ソエル写真を選んで、版元に渡さねばならぬのだが、読者として読みふけってしまい、仕事にならぬ。朝から晩まで、歩き回り、同じものを眺め。飲食を共にした旅だから、作品へ取り上げられた物事に共感し、得心もいく。 対象を見極め、内から如実に掴み取った言葉で紡がれた思いや考え、現実感がある。想念が、作者自身を刺激し、あらぬ物事が想起され、古典の文言が蘇る。そんなすべてが夢や幻覚へ崩れる文のありようは壮観としかいいようがない。 「山躁賦」の文の教えは、物事の実相を見るということだ。物事は、美しくもなければ、醜くもない。実もなければ、虚もない。美醜や虚実を分つことで、世間があり、「私」ってやつも生じる。そういった世間や「私」からはぐれだし、物事と直面する。実相を見るとは、物事を、のっぺらぼうにみることだ。 物を作ることは、それに目鼻を描くことではない。発見することだ。文芸書の装丁を生業として、数年が過ぎた頃だった。編集者から、依頼される作品を装幀するだけでなく、作者が作品を孕む時空を共にすべく、望んだ仕事。思い掛けず、物を作って生きる奥義を授かった。後日、件の学生が、古書店で「山躁賦」を求めたが、他の小説を読むようには読めない。実相を見るといったことも書かれていない。いったい、どう読んだらいいかと、真顔で聞かれた。 具象画と抽象画があるように、小説にもある。斯斯の次第で、こんな思いや考えをいだいた。古典の文言が蘇り、幻覚が生じた理由が然然とあれば具象。読める、となる。 「山躁賦」には、そんな斯斯然然がない。 まず作者が何を言いたいのか、と考えることをやめる。 次に文章を、書かれているものや事の違いで、文の塊をほぐす。次に、塊ごとに印象を言葉にしてみる。面白い、恐ろしい。不思議、意味不明、といったあんばい。 そうして、なぜ、そう感じるのか、他人事のように己に問うてみる。引かれてある古典の文言も手掛かりになる。実際の旅であれば、おのずと解放されてある人の五感。作品を読む旅でも欠かせない。書かれてある風景から音を聞く。音の手触りを感じとる。見るものを聞く。聞こえるものに触る。そうやって紡ぎだす答えが、読者ひとりひとりの「山躁賦」だ。「山躁賦」という作品を読むことは作者が旅したように、作品を旅することだ、その旅が、読者にもたらすのは「考える」楽しさ。物事に対して、生じる印象、なぜ、そう考えるのか、自問してみる、それが考えることのとば口だ。人は、自分で考え行動しているようでいて、案外、世間の考えを選んで生きている。 件の真顔も、この春は卒業と聞いた。さてどんな旅になることやら。(「装幀の予覚から」所収「斯斯然然」) いかがでしょうか。「山躁賦」という作品は、初期から中期へと、微妙な作風の変化が表れてきたころの作品集です。それにしても、菊池信義という装幀家に巡り合えた、古井由吉という小説家は、ある意味幸せな人だったのかもしれませんね。追記2020・02・28 古井由吉の、最後の作品集「この道」(講談社)が目の前にあります。最後に収められた「行く方知れず」という作品の末尾あたりです。 皿鉢も ほのかに闇の 宵涼み 芭蕉 芭蕉の句が引用されて、最後の文章はこんなふうに記されています。気がついてみれば、寝床の中で笑っていた。声までは立てていなかったが、物に狂へるか、と我ながら呆れた。皿鉢ばかりが白く光るのも、暑さに茹る生身が、じつはいきながらになかば亡き者になっているしるしかと思うとよけいにおかしい。 こんな笑いよりもしかし、老木が風も吹かぬのに折れて倒れる、その声こそようやく、生涯の哄笑か、未だ時ならず、時ならず、と控えて笑いをおさめた。 今、思えば、死が身近にあったことを思わせる壮烈な文章ですね。もちろん、装幀は菊地信義です。 それから映画「つつんでひらいて」の感想はここをクリックしてみてください。ボタン押してね!ボタン押してね!この道 [ 古井 由吉 ]
2020.02.29
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団地の2月(その2)「梅は咲いたか(^^♪」 徘徊日記 2020年2月21日 団地あたり 紅梅ですね。今年も咲きました。ちょっとズームしてみますね。今日は良い天気で、青空に映えますね。 紅梅が咲けば、白梅も咲いていますね。今日は、ホントいいお天気ですね。 こっちも、一寸、ズームしてみますね。 なんかとまってますね。ウグイス色の羽根で、くりくり目。「オッ?ウグイスか?」 ちがいますね。メジロ君ですね。ウグイスよりも小ぶりで、群れてやってきています。ぼくは、元田舎者なのでまちがえません。 チッ、チッチッ、チッというふうに聞こえたようですね。鶯と なりには見せて め次郎かな 正岡子規蜜を吸ふ 眼白天地を 逆しまに 八島あきの 梅の花の蜜でも飲んでいるのでしょうか。写真がへたくそなので撮れませんでしたが、数羽のメジロが向けていますが、この木だけですね。 ウグイスもやってくることがあるのですが、もう少し後のような気がしますね。(2020・02・21)ボタン押してね!
2020.02.28
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「団地の2月」(その1) 徘徊日記 2020年2月 団地あたり 相変わらず活動力ゼロの日が続いています。なんと一ケ月、歩くことを忘れた徘徊老人ですが、玄関先に咲いていた椿の花も、もう終わろうとしています。山茶花と違って、椿の花は首から落ちる風情が、何ともいえませんね。 その向こうでは水仙が次々と花をつけています。 こんな花もありました。なんていう名前なんでしょうね。 もうちょっと向こうにはこの花が咲いていました。 これは「マーガレット」ですよね。不思議な花ですね。なんか、一年中咲いている気がします。 おっと、まだサザンカが残っていました。まだ、花芽をたくさんつけていますが、この花がなくなると、そろそろ梅の季節ということでしょうね。 二月のはじめころの「三分」徘徊でした。これでは痩せることはできませんね。ボタン押してね!
2020.02.27
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大沢真幸「不可能性の時代」(岩波新書)・「虚構の時代の果て」(ちくま新書) 註:この記事は2008年に高校生にむけて書いたものです。 京都大学の社会学教授大沢真幸(おおさわまさち)の新しい新書が出ました。「不可能性の時代」(岩波新書)です。 1995年3月、オーム真理教という仏教系の新興宗教の信者たちがサリンという有毒ガスを発生させる化学物質を使用して東京の地下鉄で無差別テロ事件を起こしたことは、さすがに高校生諸君でも知っているでしょうね。 オーム真理教はそれ以外にも、いくつかの殺人事件を起こしていたことが発覚し、阪神大震災直後の不安な社会を、まさに震撼させた事件でした。 この事件を狂気の集団の起こした猟奇的事件というふうにスキャンダラスに取り上げた出版物が山のように垂れ流されました。しかし、宗教的原理主義の問題として真摯に取り扱ったり、この国の戦後社会の変遷の中に位置づけた論考というのは、ぼくが知る限り、案外、少なかったのが印象に残っています。ものを書く人々や、出版社は事件そのものに触れることをタブーとして避けているんじゃないかという、社会全体に対する「疑い」のようなものを感じた記憶があります。 そんな中で、当時、千葉大学文学部の助教授だった大沢真幸が「虚構の時代の果て」(ちくま新書)という新書で真正面から、果敢に論じているのを読んで胸がすく感じがしたものです。 事件から1年後に出版されたこの本は1945年の敗戦から1995年の50年間を二つに分け、「理想の時代」・「虚構の時代」と彼が名付けた「二つの社会」として取り扱っています。 戦後25年間は、新しい理想の社会の建設がこの国の、所謂、コンセプトでした。「戦後民主主義」「経済成長」という理想を人々が信じた時代だったというわけです。その社会のゴールは1970年に催されたエキスポ70’と連合赤軍事件だというのが著者の意見です。 それに対して、70年以降は「バーチャルリアリティ」ということばが象徴する社会。たとえば、東京ディズニーランドという虚構の世界で、ありえないミッキーとの出会いに夢中になる人々がこの社会を象徴しています。そこには、常識的には空想の産物としか考えられない「世界最終戦争-ハルマゲドン」を現実化しようとしたオーム真理教のような集団が登場してきます。しかし、それは、ある意味で必然的だというのがこの本の文脈だといっていいと思います。 ここで、「ある意味」というあいまいな言い回しをしましたが、そのあたりのは読んでいただかないとしようがないと思いますが、「戦後社会論」としては屈指の好著だとぼくは思いました。 さて、それからほぼ15年の歳月がたち、新たに「不可能性の時代」(岩波新書)が今年、4月の新刊として世に問われています。 時代区分は前著を引き継いでいて1995年以降の社会は「不可能性の時代」と名づけられています。大沢はこの著書の中で現代社会を「激しく暴力的で地獄のような現実」への欲望と、「危険性や暴力性を極力排除したコーティングされた虚構のようなもの」への希求という二つの矛盾するベクトルに引き裂かれていると分析しています。 たとえば、コンピューターゲームの中で展開する血まみれの暴力の世界と、テレビコマーシャルで繰り返される無臭で清潔な現代的生活というキャンペーンを考えてみるとよくわかるかもしれませんね。そして、この二つの世界を同居させている私たちの「リアリティ―生きている実感」を支えている、「Xでありたい」という願望の「X」に代入されるべきものが「不可能性」とでも呼ぶほかないというのが本書の骨子です。 この「X」とは、たとえば高校生が「数学が得意であったら。」とか、「誰も傷つけずにいられたら。」とか、反実仮想的に現実に対置させて、現実を評価したり、自らを励ましたりするような、モラルとか、理想とかいった事柄だと考えられるでしょう。 ちょっと考えればわかることですが、空想や意識の領域で矛盾した事柄を同時に体現することは、さほど珍しい事ではありませんね。しかし、矛盾した空想を同時に現実化する欲望に取り付かれてしまうとどうなるのでしょうか。 本書によれば1990年以降、精神医学では「解離」と呼ぶと思いますが、一般に「多重人格」と呼ばれている病が世界的に流行しているそうです。確固とした「アイデンティティ―・私とは誰か」をシンプルに維持することが困難な社会にあって、場合に合わせて自己を変えてゆくことで生き延びているということなのでしょうか? ともあれ刺激的な一冊であることはまちがいないと思います。(S)追記2020・02・25 大沢真幸は、その後京都大学の先生をやめて、所謂、著述業に専念するようになりました。「不可能性の時代」が出版されたのは2008年の4月ですが、そのころ「虚構の時代の果て」はチクマ学芸文庫で再刊されています。 この後、彼は「世界史の哲学」シリーズとか「 自由論」をめぐる大著を次々と発表しながら「THINKING『O』」(左右社)という雑誌を出したり、もう、ついて行くのが大変なお仕事ぶりです。ちなみに、この雑誌の創刊号には中村哲との対談が掲載されています。 ぼくにとっては、少しづつ「案内」したいと思っている人の一人ですが、なかなか大変です。ボタン押してね!ボタン押してね!THINKING O(011) やっぱりふしぎなキリスト教 [ 大澤真幸 ]
2020.02.26
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「団地の1月」 徘徊日記 2020年1月 団地あたり ゴジラ老人シマクマ君ですが、徘徊人となって三年目に突入しました。昨年は自覚しませんでしたが、老人は寒さに弱いことを痛感しております。 玄関から出かけていくにも気力がいるのは誠に情けないことです。 赤い実がなってます。「南天」ですね。玄関を出たところにあります。少し裏に回ってみます。 「サザンカ」がまだ咲き残っていました。向うの方に赤い花をつけている木もありますが、ちょっとバス停あたりまで歩いてみましょう。 なんの木だと思いますか?バス停脇、秋には大きな実をつけていた「かりん」ですね。何だか、ただの雑木にしか見えませんね。 こんな感じでした。葉っぱもみんな散ってしまうと、まだ若い木だと分かりますね。もうすぐ新しく芽吹いてくるんでしょうが、まだ少し寒そうですね。 バス停から東を見ると冬の並木水道でした。冬枯れのプラタナスですね。電柱と電線のない写真を撮ろうと構えたのですが、なかなか難しいもんですね。 この徘徊は一月の終わりころの話です。今年は暖かい冬だそうですが、このあと、シマクマ君は自宅に帰ってこたつでゴロ寝したことでした。やれやれ・・・・。追記2022・02・27 昔の記事の修繕をしていてつくづく思いますが、同じようなことを毎年考えていますね。2年前ですから、コロナ騒ぎがまだリアルじゃないころですね。 もちろん、そのあとに戦争が始まるなんて想像もできていません。できれば、同じようなことを毎年感じて、平平凡凡がいいのですが、それでも事件は起こりますね。まあ、それが人間の世界なのでしょうが、現実に起こることが、なんでそうなるのか、ますますわからなくなるのを実感しながら、せっかく年を取ったのに、ちっともわかるようにならない自分にも呆れています。 自分の将来もよく分かりませんが、生まれたばかりの小さな子供たちにどんな世界が待っているのか、なんだか暗い気持ちになるこのごろですね。 追記を書いている今は、この記事の時期より、ひと月ほどたった時期ですが、まだまだ寒いです。皆様ご自愛ください。 ボタン押してね!
2020.02.25
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藤原正彦「国家の品格」(新潮新書) まず最初にお断りしておきますが、ぼくは原則としてこのブログで案内する本について悪口は書かないことにしています。つまらないと思っている本を紹介しても、しようがないですからね。 この記事はその原則を破った例外記事です。今から15年ほど前にとても流行った本ですが、当時の高校生に「読めばいいけれど、流行りに騙されたらあきまへんで。」という気楽な気分で書いた記事をそのまま載せています。 15年たった今、世相はこの著者が乱暴に吐き散らしていた御託を「筋の通った意見」であるかのように祭り上げてしまいました。 事実に対して、ひたすら情緒的で、品格があるとはとても言えない文章を記したに過ぎない一冊の本が200万部を超える読者を獲得し、「品格」とかいう流行語まで作り出した本です。 ぼくには読み直したりする気は毛頭ありませんが、「呪い」にまみれた「御託」が市民権を得るに至る「歴史」に関心をお持ちの方にお勧めします。 なお記事は2006年、ブームが始まったころの「今」を想定してお読みください。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 街の本屋さんに立ち寄ると同じ本が山積みされています。流行り始めると、拍車をかけて積み上げられて行きますね。最近山になっているのが「国家の品格」(新潮新書)という本です。 書名が書名ですから、どこぞの引退政治家の演説かと思って覗いてみると、さにあらずでした。お茶の水女子大学の数学の先生、藤原正彦さんの著書でした。 実はこの先生、数学の偉い学者さんであるらしいのですが、「若き数学者のアメリカ」(新潮文庫)というエッセイ集で評判をとって以来、なかなかの人気エッセイストなんです。著作の数は数え上げるときりがない(ホントはもちろんきりはあるけど)の人なのです。 今の高校生の皆さんはご存じないと思いますが、この方のお父さんは「山岳小説」というそれまで井上靖の「氷壁」(新潮文庫)くらいしかなかった山登りをテーマにした小説ジャンルを人気ジャンルにした作家として有名な新田次郎という人です。 加藤文太郎という登山家の生涯を描いた「孤高の人」(新潮文庫)以来、それこそ数々の名作を残しています。ぼく自身のことを言えば、高校時代すかっりはまって、立て続けに読んだ記憶があります。 山登りの小説なんて山の好きな人が読めばイイと思うかもしれませんが、この人の筆力にかかれば、作品の迫力と臨場感にすっかりはまり込んでしまい、自分が山に登って苦労して、息苦しいほどの錯覚に陥ること請け合いの作品群なのです。皆さんでもご存知かもしれない映画「八甲田山」の原作もこの人でした。 お母さんはお母さんで戦後文学の代表作のひとつ「流れる星は生きている」(中公文庫)で、敗戦後、満州からの引き上げの様子を描いた藤原ていという人です。。名作中の名作です。 というわけで、藤原正彦は文章家一家でそだった数学者というわけです。 「ふーん、そうなのか?」 そんなふうに、ちょっと驚く人もいるかもしれませんね。でも、父親の新田次郎ももともとは気象庁の技官で自然科学的素養を基礎に小説を書いた人なんです。ですから、小説家一家に数学者が生まれたことも、数学者がエッセイを書いたことも、まあ、不思議と思う必要はないかもしれません。 さて「国家の品格」の内容ですね。御覧のとおり「すべての日本人に誇りと自信を与える」と腰巻に書いてあるのですが、これが少々困ったことに、一冊の本の論旨に論理がない、実に、何が書いてあるか分からない本なのですね。 「若き数学者のアメリカ」の頃から、文章はかなり乱暴でした。まぁそれが面白さだった面もある人なのですが、今回はちょっと頭が痛い。イヤ、全くわからないわけではないのですよ。 イギリスから帰国後、私の中で論理の地位が大きく低下し、情緒とか形がますます大きくなりました。ココでいう情緒とは、喜怒哀楽のようなものではなく、懐かしさとかものの哀れといった、教育によって培われるものです。形とは、武士道精神から来る行動基準です。ともに日本人を特徴づけるもので、国柄ともいうべきものでした。 これが出発点にある主張です。例えばこの文章のにでてくる「情緒」という概念の説明ひとつにしてもかなり個人的な思い込みの定義ですよね。 で、その「情緒」を前提に、現代の社会を憂いた言葉がほぼ二百頁にわたって綴られているのがこの本なのです。 「アメリカの真似をして理屈が通っているからという正当性だけで、グローバリズムと強いもん勝ちのお金儲けに走るのは国を滅ぼす。」 おそらくそういうことが言いたいのだという雰囲気はあるのですが、読めども読めども、結局、なにが言いたいのか、ぼくにはわかりませんでした。 なんていうか、「みどりの黒髪は日本人で、茶髪はダメだ。日本人の品格がない。」みたいな個人的な思い入れを絶対化し、たとえ、その主張が多くの人の支持をうけるであろうからといって、本にして売るようなことは恥だとするような感覚こそが武士道精神ではあるまいかと思うのですが、そこのところの自分の振る舞いは見えない程度の「品格」らしいのです。 「こんな腰巻をつけて売らんかなと、品格も恥も忘れる本屋も本屋だ!」 と、まぁぼくは日本人であるコトに自信を取り戻すどころか、すっかり嫌気がさしてしまったという結末でした。 数学者の文章がこんなふうにお馬鹿なものばかりではないことは言い添える必要がありそうですね。「ひとりで渡ればあぶなくない」(ちくま文庫)、「エエカゲンが面白い」(ちくま文庫)の森毅なんていう数学の先生は、実にエエカゲンそうにものを言っているのですが、きちんと世界を踏まえてかかれています。内容は、ユーモアたっぷりなうえに、シンプルで明快です。 藤原正彦さんが大好きな岡潔だって、「春宵十話」(毎日新聞社)なんかで、保守的な主張はしていますが、こんなぶざまな文章は書いていません。数学に情緒の必要を説いたのは岡潔なのですが、なるほどとわかることを天才的なひらめきの文章で書いていたと思いますよ。どうせ情緒にかぶれるなら、なかなか手に入りにくい本だけれど、ぼくとしては、そっちがオススメですね。やれやれ・・・。(S)2006・05・26追記2020・02・25 ぼくは藤原正彦のようなタイプの学者が嫌いなわけではありません。ただ、彼のようなタイプの人が「国家」や「社会」に物申したときに、ある種のプロパガンダとして存在してしまうことが往々にして起こるのですが、それは商品としての本の存在が、「トンデモ」な内容を「流行」によって拡散するという現象の結果だと思います。 この著者の「国家」や「日本語」に関する著作が本屋の棚にあふれた時期(今でもか?)がありますが、とても読む気は起こりませんね。ただ、いるんですよね、「この人に文部大臣になってもらいたかった」などと叫ぶ輩が。ぼくはそっちの人の方こそ信用しませんね。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.02.24
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《2004書物の旅 その15》前田英樹「倫理という力」(講談社現代新書) 久しぶりにこれだという本に出会いました。とりあえず、次の引用群を読んでみてください。 考えることが得意でないふうに見える人々がいる。たとえばほとんど口をきかず、毎日ニコニコと店でトンカツばかりあげているような親父は、そう見えるかもしれない。 しかし、このオヤジのトンカツが飛びきり美味いとしたら、この人ほどものを考えている人間は少ないかもしれない。とりあえずは、そう仮定しておく必要がある。 トンカツ屋のおやじは、豚肉の性質について、油の温度やパン粉のつき具合についてずいぶん考えているにちがいない。いや、この人のトンカツが、こうまで美味いからには、その考えは常人の及ばない驚くべき地点に達している可能性が大いにある。 このことを怖れよ。この怖れこそ、大事なものである。こうした怖れを知らぬものの考え出すことが、やがて人間を滅ぼすだろう、そのことは今、いよいよはっきりしてきているのではないか。 ここに中学生の男の子がいるとしよう。この子は、学校の勉強意外、学ぶということを一切したことがない。したがって、トンカツ屋のおやじを怖れるだけの知恵がない。だから、怖れ気もなくこう尋ねる。おじさん、なぜ人を殺してはいけないの?おやじは、まずこんな質問には耳を貸さないだろう。邪魔だから、あっちに行ってろと言うだけだろう。 怖れのないところに、学ぶという行為は成り立たない。遊びながら楽しく学ぶやり方は、元来幼稚園の発明だが、今の日本の学校では、それが大学まで普及してしまった。 遊ぶことと学ぶことが、どう違うのかわからない。子ども達は何も怖くないから、勝手に教室を歩き回るようになる。怖れることが出来るには、自分より桁外れに大きなものを察知する知恵がいる。ところが、この桁外れに大きなものは、桁が外れているが故に、寝そべっている人間の目には見えにくい。トンカツ屋の見習い坊主になってパン粉をつけてみるしかない。それは、始めはちっとも面白い仕事ではないだろう。怖れる知恵がまだ育っていないものに、心底面白い仕事などあるわけがない。だが、知恵は育つのだ。豚肉やパン粉があり、怖いおやじがいるかぎりは。 すべて、前田英樹「倫理という力」(講談社現代新書)からの引用です。引用は本書の書き出しなのですが、読者の皆さんはこの文章が一体何を主張しているのかよくわからないだろうと思います。 しかし、ここで語られていることは、誰しもが生きていることによって出会う倫理的問題の本質に触れているのではないでしょうか。 それは、端的に言ってしまえば「怖れを知る」ということですね。人は何をどう怖れるべきであるのか、具体的にお知りになりたい方は本書をお読みいただくしかないのですが、すでに、上記の引用の中に語られているとも言えるのではないでしょうか。もう少し引用してみますね。 年端もゆかない娘が、小遣いほしさに売春する。親は当然驚愕、激怒して、何とかやめさせようとする。すると、自分も楽しみ、相手も喜ぶ、それでお金になるのだから、こんないいことづくめはないじゃないか。なぜやめさせるのと。 こう言われて絶句するのは、あながち今の日本の親たちだけではない。経験や習慣からでてくるお説教は、みな一様に絶句する。道徳の成立は、ただ娘が反論するか、しないかにかかっている。 余計なお世話ですが、ぼくなりの注釈を加えるとすれば、娘の反論の幼いが、実に、今風な功利的な問いに答えることのできる考えこそが道徳であり、倫理であるということですね。 人間が生きていくときの本質的問題、「なぜ人は殺してはいけないか?」「売春はなぜいけないか?」といった疑問に対する答えは、経験的、常識的見地からは成立しないと著者は考えているのです。 カントが親なら、もちろんすかさず言うだろう。売春は、自分をひたすら単なる「手段」にし、相手もそうすることである。これは、互いから「理性的存在者」としての自由を奪い、互いを「物件」として利用しあうやり方ではないか。場合によっては、それは詐欺よりも、盗みよりも、殺人よりも悪いやり方になる。 君は君自身の「人格」となり、「目的」となる義務を負っている、なぜそれを果たさないのか。また、君の「人格」がそうであるためには、他人の「人格」もまたそうでなくてはならない。他人は「手段」としてだけでなく「目的」としても扱われなくてはならない。その義務が、君には断固として絶対にあるのだ。 文中のカントとは、もちろん、十八世紀ドイツの哲学者イマヌエル・カントです。ここでは哲学用語が使われているので難しそうに見えるのですが、要するに、自らの「人格」を「目的」にし、「理性的存在者」として生きる人間としての「義務」をはたそうとしているのが上記のトンカツ屋のおやじだと考えればいいわけです。 しかし難しいことが一つあります。バカな娘に対して、カントのように本気でいうためには、当然パワーがいるわけです。トンカツ屋のおやじのように生きるためにも、やはりパワーがいりますね。 そのパワーは、いったい、どこから生まれてくるのかという問題です。 それは「怖れる」ことからうまれるのだということではないでしょうか。そこでも、やはり難問にぶつかりますね。ぼくたちは何を「怖れる」べきなのか。桁外れに大きなものとは何か。トンカツ屋のおやじは、何を怖れているのか。 こんなふうに、ちょっと、哲学風に考え始めると気づきますね。大事なことは、この、堂々巡りに見える「難問」を手に入れたことですね。そこにこの本の肝があるんじゃないかって。そう納得したわけです。どうぞ、お読みください。(S)追記2020・02・23《2004書物の旅》(その14):「ヨーロッパ思想史入門」・(その13):「馬の世界史」・(その12):「勝負と芸」・(その11):「思いちがい辞典」・(その10):「森のゲリラ・宮沢賢治」はそれぞれクリックしてみてください。ボタン押してね!ボタン押してね!愛読の方法 (ちくま新書) [ 前田 英樹 ]
2020.02.23
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《2004書物の旅 その14》 岩田靖夫「ヨーロッパ思想史入門」(岩波ジュニア新書)「西洋史を勉強するのならギリシア哲学とキリスト教思想の二つをまず読みなさい。その二つがわからなければ、ヨーロッパの「歴史」はおもしろくならないよ。」 もう三十年以上も前、進学するときに高校の先生からもらったアドバイスの言葉です。結局、まじめに勉強しなかったった結果、何故か国語の授業をしているのですが、最近、「あのころこんな本と出合っていたら・・・」と思うような入門書を読みました。 岩田靖夫「ヨーロッパ思想史入門」(岩波ジュニア新書)という本です。もちろんここの図書館にもありますよ。 第一部「ギリシアの思想」、第二部「ヘブライの信仰」、第三部「ヨーロッパ哲学の歩み」とヨーロッパ思想がギリシアの神話から哲学とキリスト教の基礎の上に成り立っていることを踏まえた三部構成になっています。しかし単なる概説ではありません。 たとえば第二章「ヘブライの信仰」において、ヨーロッパ思想のもっとも大切な概念のひとつ「自由」について、キリスト教の信仰の中から説き起こす展開におもわず眼をみはる気分をぼくは味わいました。その部分を少し紹介してみます。 「私は、私の話を聞いているおまえたちに言う。おまえたちの敵を愛しなさい。おまえたちを憎む者たちに善いことをしなさい。おまえたちを呪う者たちを祝福しなさい。おまえたちを侮辱する者たちのために祈りなさい。お前の頬を打つ者には別の頬をも向けなさい。」 これは、イエスの教えとしてあまりにも有名な「敵を愛せ」のくだりである。イエスは明確に復讐を禁止している。たとえ殺されるようなことになってもである。 しかし、これはただの無抵抗主義ではない。無抵抗主義という言葉のうちには、嫌だけれども我慢するというニュアンスがある。イエスの言っていることは、そうではなくて「私たちを攻撃するものたちに善いことをせよ」ということなのである。 「愛せよ」には「アガペーagapate」という言葉が使われているが、この言葉は、相手の善悪にかかわらず、相手に善行を贈り続ける神的な愛について用いられる言葉である。ところで、このことは、じつは、善行の本質から言われていることなのである。 ここまで読んで、キリスト教の「善行」と「自由」にどんな関係があるんだろうといぶかる人もいるかもしれませんね。あせらず次の引用を読んでみてください。 「おまえたちを愛する者たちを愛したとしても、おまえたちにどんな善意(charis)があるのか。なぜなら、罪人でさえ自分たちを愛してくれる者たちを愛するからである。たとえ、おまえたちに善いことをしてくれる者たちに善いことをしたとしても、おまえたちにどんな善意があるのか。罪人もまた同じことをしている。取り返すことを期待して貸したとしても、おまえたちにどんな善意があるのか。罪人もまた同じものを取り返すために、罪人に貸している。だが、おまえたちはおまえたちの敵を愛しなさい。何もお返しを期待しないで、善いことをなし、貸しなさい。」 この引用部分で著者が「善意」と訳したcharisの意味について「新訳共同聖書」は「恵み」と訳しているそうです。しかし、岩田靖夫は「善意」と訳すべきだと主張しています。「恵み」と訳すと神から差し向けられた好意という意味になってしまうのですが、ここでは互いに対等な関係をあらわす言葉である善意と訳すべきだとというのです。 なぜ「善意」と訳した方がよいのか。それは、ここにキリスト教における「自由」の問題が浮上してくるからだというのが著者の意見です。 ほんとうに、もし神が存在するとしたら、神はなんと忘恩者に親切なことか。実際、この世界には、神は存在しないと考えている人びとは山のようにいるし、戦争をおこしたり、大虐殺を犯したり、他者を奴隷化して搾取したりする人々で満ちあふれているというのに、神はまるでどこにも存在しないかのようにすっかり姿を隠し、復讐もせず、「善人にも悪人にも、太陽を昇らせ、雨を降らせて」善意を贈りつづけているのである。 神は、なぜヒトラーに復讐しなかったのか。なぜ、神の名を用いて驚くべき人殺しをした人々にさえ復讐しなかったのか、それは神が極限の無力だからである。 ではなぜ、極限の無力なのか。それは、自由なものを殺すことはできても、同化したり支配したりすることは、誰にもできないからである。自由なものには呼びかけることができるだけだからである。 そういう意味で、善行は常に一方的でなければならないのである。他者に向かうこの善行が応答を呼び起こすか否かは、他者の自由にかかっている。応答は他者の自由の深淵から湧き上ってくるもので、私たちが外側から強制できることではない。 おわかりいただけたでしょうか。生きている人間の根源的なありさまとは、こんなふうに「自由」であるということなのです。ヨーッロッパの思想はこの自由との格闘の道を歩んできたという訳です。 別の案内で紹介した前田英樹「倫理の力」(講談社現代新書)が主張していた、ぼくたちが知るべき「恐れ」の対象がここにあるようにぼくには思えるのですが、どうでしょうか。 たとえ受験用に勉強するにしても、「倫理」や「世界史」の授業が本格的に始まる前に是非お読みただきたい一冊だと思います。(S)追記2020・02・22《2004書物の旅》(その1)・(その13)・(その15「倫理という力」)はここをクリックしてみてください。ボタン押してね!ボタン押してね!増補 ソクラテス【電子書籍】[ 岩田靖夫 ]
2020.02.22
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柴崎友香「ショートカット」(河出文庫) 「今、この時」が「今、この時」に書かれている小説、そういうことがありうるのだろうか。やっぱりそれはあり得ないというものなのだが、そうはいっても、そう書こうとしている作品が面白い。 それが、たとえばこの作品だと思うの。だから「これ、いいよ。」 そんなふうに紹介したい。ところがこれがムズカシイ。ぼくが好きな小説はすこし変なのかもしれない。そんなふうに思うことがある。柴崎友香「ショートカット」(河出文庫)もそんな一冊。《今日の仕事が終ったらすぐに、由史くんに電話しようと思っていた。由史くんは仕事中かもしれないけれど、それでもどうしても話したかった。おなじ場所にいるだけでなにも言わなくてもわかることが、電話の向こうとこっちで別々の景色を見ながらいくらしゃべってもきっと伝わらないって、決定的にわかり始めていた。だけど、そのことを、電話をかけて、確かめたかった。電話の向こうの由史くんに伝えたかった。》『やさしさ』《「なんで、今日、こんなとこまで来たんやろ」和佳ちゃんは声を落とさないで言ったけれど、なかちゃんは聞こえないのか聞こえていないふりをしているのか、その言葉には反応しなかった。角度の高い太陽のせいで小さくなっている影を引き連れて、相変わらず周りの建物や空を見回しながら歩いていた。足元を見ると、自分の影もとても短かった。「なんかさ、後から考えたら筋が通ってないのに、その場ではわかったような気になって返事してしまうことって和佳ちゃんもある?そんな感じ?」「うーん」》『パーティー』《「なんか、意外。和佳ちゃんはそういうとこはさらっとした感じかと思ってた。」「なんで?どこが?だって、わたし、好きな人とめっちゃ遠くの知らへん場所で暮らすって決めてるねんもん。好きな人についていって見知らぬ遠くの街で暮らすっていうのこそ、女の子の醍醐味やん」わたしより三つ年上の和佳ちゃんは、中学生の女の子みたいに、その夢になんの疑いも持っていない眼で語った。「そうかな?大変そうやん。知らへんとこなんかいったら」「大変やけど、愛があれば苦労もできる。それが愛」「遠くって、どのぐらい遠く?」 船が出る、一応港と呼べる場所なのに、どこを見渡しても行き止まりに見えた。近くの工場から、鉄を削る音やとても重くて固いものがぶつかり合うような音が重なって響いてくる。空は、だんだんと雲のほうが多くなっていた。 「とりあえず、日本やったらあかん。希望は太平洋を越えたくって、近くても東南アジア」「じゃあ、外国の人と結婚すんの?」》『パーティー』 この本のなかには『ショートカット』、『やさしさ』、『パーティー』、『ポラロイド』という四つの短編小説が入っている。それぞれ別の話なのだけれど、一つめの引用で「由史くん」に電話しようとしている女性と二つめと三つめの引用で「和佳ちゃん」と話している人は、登場人物としての名前は違うようなんだけど、どうも同一人物ではないかという感じの小説群。 就職して東京に行ってしまった彼を思う『ショートカット』、その彼と別れそうになっている『やさしさ』、彼と別れた『パーティー』、新しい彼と出会う『ポラロイド』という連作。 気いったところを探して引用しはじめてみたけれど、ドンドン書き写してしまいそうになってしまう。この案内をここまで読んできた人は「どこがおもしろいねン?」きっとそう思っているだろうと思う。 こんな言い方をするともっと意味不明になってしまいそうだが、今、ここにたしかにあって、みんなには見えない本当のことにとらわれてしまうとか、仲の良い友達と一緒にいるのに、自分が一人ぼっちだと感じるような経験をしたことはないだろうか。一緒にいる人は、きっと変な気がする。この小説はそんな気分をとてもうまく書いている。この人の小説を読んでいると、そんな気分の中に主人公と一緒にワープしていくスリリングなリアリティがとても心地よい。 例えば一つめの引用で「由史くん」に電話をかけたいと切実に思っている彼女はこの時、友達と電車の先頭車両に乗っていて考えている。《一人しかいないのに進行方向を指差して確認している運転手にも、それ(前方の風景)は同じように見えているはずで、不安にならないのか不思議に思った。進む先が見えていないのに、どうしてちゃんと進めるんやろうって。目の前の線路が見えているだけで、ただ昨日も乗っていたからだいたいのことがわかるだけやのに。》 ただ、電車が、今、走っている事を不安に思う。《発車のベルが世界を分ける。ドアが閉まって、わたし達は空気と一緒に運ばれる。移動していることを感じないまま》 この瞬間に世界から引きちぎられるように遠ざかっている自分を見つけてしまう。電話をかけて確かめられることは、引きちぎられて、今、ここにいることではないのだろうか。 今ここにいるということがなにげないことなのに、哀しい。うーん、これではやっぱり解説になっていないか? ともあれ、彼女の小説で文庫になっているのは「きょうのできごと」、「次の町まで、きみはどんな歌をうたうの」、「青春感傷ツアー」。みんな河出文庫で読める。ぼくはみんないいと思う。2007/06/09ボタン押してね!ボタン押してね!公園へ行かないか? 火曜日に [ 柴崎 友香 ]多分、これが最新。
2020.02.21
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リドリー・スコット「テルマ&ルイーズ」パルシネマしんこうえん 遠くに赤ハゲの山があって、青空に雲が浮いています。タイトルとかが映し出されますが、背景はストップしているようにみえます。 画面が切り替わって、朝のコーヒー・ショップなのでしょうか、ウエートレスの女性たちが忙しく働いていて、一息ついた女性がどこかに電話します。電話に出た女性が「テルマ」と呼びかけられていて、かけ直すと返事をして電話を切ります。テルマは台所から隣の部屋に向かって急ぐように怒鳴り、出てきた男にコーヒーを差しだします。不機嫌な顔でコーヒーを断った男は「朝から怒鳴るな。」とテルマに文句を言います。 映画が始まりました。今日は金曜日です。見ているのはリドリー・スコットの「テルマ&ルイーズ」です。 独り者のウエートレスがルイーズ。テルマと呼ばれた女性が専業主婦です。二人はこの週末、釣りができる山小屋でバカンスの計画を立てているようです。テルマは夫のことをあれこれ気には掛けているようですが、結局、放ったらかしにして、ルイーズの乗ってきた青い車に、乱雑に荷物を積み込んで出発します。車の車種は、ぼくでも知っています。フォード・サンダーバード、バカでかいオープン・カーです。でも、この車じゃないと駄目だったんですよね、この映画は。 二人の「女」の旅が始まりました。ロード・ムービーですね。ぼくのなかでロード・ムービーというと「イージー・ライダー」とか「真夜中のカウ・ボーイ」、「スケアクロウ」なんかが思い浮かんでしまうのですが、男同士でしたよね。「俺たちに明日はない」や「明日に向かって撃て」だって、ある種、ロード・ムービーだったと思いますが、それぞれ男と女、男二人と女、でした。女性の二人連れは初めてです。まあ、それにしても、思い浮かべる映画が、みんな70年代の映画ですね。 さて、映画ですが、ここから二泊三日(この辺りは、あやふやです)の行程で、二人の女性は一級殺人、強盗、警官に対する暴行、監禁、器物破損、公務執行妨害、スピード違反と、まあ、あれこれ、もう捕まるしかないという身の上に変貌します。 最初のタイトルの山の見える平原をサンダー・バードが走っています。二人の顔がクローズ・アップされて、その美しさが記憶に刻み込まれます。このシーンを見ただけでも、ぼくは満足です。FBIから地元の警察まで総動員の「男たち」に追い詰められていく二人は見ているのが痛々しいほどなのですが、あくまでも爽快で美しいその横顔と、あっと驚く痛快でドキドキの展開から目を離すことができません。 いよいよ、ラストです。予想通り、二人の「女」が乗ったサンダー・バードは、その名にふさわしく、グランド・キャニオンの絶壁からフル・アクセルで空に飛び出しました。 ストップ・モーションで「旅」は終わりました。 見終わって、それにしても何故か「なつかしい」味わいを噛みしめながら、劇場の入り口に立っていらっしゃた支配人のおニーさんに尋ねました。「これって、古い?」「はい、80年代の終わりの、リドリー・スコットですね。」 湊川公園から山手幹線、上沢通にそった歩道を西に歩きながら得心したことが二つありました。 映画の中で、強盗のやり方と生涯最高のセックスを、おバカのテルマに教えて、その代金のように6000ドルの有り金をネコババした、ムショ帰りの男J.D.はブラッド・ピットだったのですが、道理で若いはずでした。見ながら、ひょっとしてとは思っていたのですが、納得です。若き日のブラピ、なかなか見ものですよ。 それに加えてルイーズ役の女優さんスーザン・サランドンに、どこかで見たことがある感じがしていたのですが「ロッキー・ホラー・ショウ」か「イーストウィックの魔女たち」ですね、きっと。 納得の二つ目は、何ともいえないほどキッパリと「破滅」という「自由」に向かってアクセルを踏んだ女性の描き方です。これは、今の映画の描き方ではないと感じて観ていたのですが、やはり80年代の描き方でした。それも「エイリアン」のリドリー・スコットだというのですから、なるほど、「こう描くだろうな」という感じです。 映画が撮られてから30年以上の年月が経っていたのです。こうして歩いている山手幹線沿いから、少し北側に、当時通っていた職場が、今もあります。1995年の震災で町も職場の建物も姿を変えました。それでも、懐かしさは変わりません。 それにしても、空高く飛び出したテルマとルイーズは、あれからどこかに着地したのでしょうか?監督・製作 リドリー・スコット製作 ミミ・ポーク脚本 カーリー・クーリ撮影 エイドリアン・ビドル音楽 ハンス・ジマー主題歌 グレン・フライ「Part Of Me, Part Of You」キャスト スーザン・サランドン(ルイーズ) ジーナ・デイヴィス(テルマ) ハーヴェイ・カイテル(ハル:刑事) マイケル・マドセン(ジミー:ルイーズの恋人) クリストファー・マクドナルド(ダリル:テルマの夫) ブラッド・ピット(J.D.:ヒッチハイカー・強盗)1991年128分アメリカ 原題「Thelma & Louise」2020・02・17パルシネマno23追記2020・02・19「エイリアン」について、フェミニズム映画として解説しているのは内田樹の「映画の構造分析」(文春文庫)です。1980年代のアメリカ映画の分析として、とても面白いのですが、ぼくはこの映画を見て詩人石垣りんの「崖」という詩を思い浮かべました。 何だか見当違いなことを言っているようですが、テルマとルイーズを追いかけて、追い詰めていたのは、すべて「男」でした。「理解者」である刑事もいるにはいたのですが、断固としてアクセルを踏み込むルイーズを追い立てたものは、何だったんでしょう。 この詩を読んでいただければ、ぼくが言いたいことも、わかっていただけるかもしれませんね。 崖 石垣りん戦争の終り、サイパン島の崖の上から次々に身を投げた女たち。美徳やら義理やら体裁やら何やら。火だの男だのに追いつめられて。とばなければならないからとびこんだ。ゆき場のないゆき場所。(崖はいつも女をまっさかさまにする)それがねえまだ一人も海にとどかないのだ。十五年もたつというのにどうしたんだろう。あの、女。 二人は今頃、どのあたりを飛んでいるのでしょうね。 ところで、チッチキ夫人はこの映画を見に行くのでしょうか?観に行くことを勧めていますが、70年ころのロード・ムービーの結末の辛さに出会うのではないかと疑っている彼女は、逡巡しているようです。ぼくは、彼女の感想を楽しみにしていますが・・・。ボタン押してね!映画の構造分析 ハリウッド映画で学べる現代思想 (文春文庫) [ 内田樹 ]
2020.02.20
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ダニー・ボイル「イエスタデイ」パルシネマしんこうえん 2019年の夏ごろ、OS系で公開されていた映画です。すぐに夜の番組になってしまったので、やめた記憶がありましたが、パルシネマが素早く二本立てにしてくれて、さすがと大喜びしていると、愉快な仲間のピーチ姫が言いました。「エド・シーランって知ってる?」「そんな名前、シラン。」「あんまりおもんないね、アンタのそれ。」「なんやねん、知らんもんは知らん。」「あの映画なあ、彼がでてくるというのが見ものやねんで。」 という訳で、そのシラン名前が、何者なのかという課題を抱えてのパルシネマでした。見たのはダニー・ボイル監督の「イエスタデイ」でした。 映画館とかの、こういう人を集める商売の方は、今は大変でしょうね。予想通り、かなりスキスキのパルシネマでした。 なんと、あの、「ビートルズ」が消えてしまった世界で、唯一その曲を知る存在となった1人の、多分、インド系のさえないシンガー・ソングライターと、「ああこの子どこかで見たことがある!」 といきなり思った。気真面目そうな、女子マネージャーの、まあ、荒唐無稽な恋のお話でした。 主人公はヒメーシュ・パテルという、イギリスでは人気の俳優らしくて、お相手の女性は「マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー 」にも出ていたリリー・ジェームズですね。この女性はとても役にあっていて、感じが良いと思いました。その上、劇中に登場する一流ミュージシャン、エド・シーランを本物のエド・シーランが演じていて、実際に歌います。その上、何故か、死んだはずのジョン・レノンが、そっくりさんで登場したりもします。「イギリスの人とかにはウケルんやろうな(笑)」 そんな、一寸冷めた気分で見ていました。ビートルズの曲は「イエスタデイ」から始まって、まあ、いろいろ出てきますが、ぼくには、なんだか、素人カラオケのようで、乗り切れませんでした。 でもね、見終わった感想は悪くないんです。理由は二つあるんですが、一つはエド・シーランという初めてのミュージシャンのアカペラを聴いたことです。いっぱい歌が出てきましたが、だからこそ、このシーンは圧倒的でした。 二つ目は、いろいろあった最後のシーンでビートルズのある曲を子供たちが声を合わせて、大声で歌っているのを聞いたことです。結局、ここで涙がこぼれ落ちてしまいました。というわけで帰宅するとこの会話です。「どうやったん?」「うん、まあまあやな。あんな、最後に子どもらが出て来てある歌を大声で歌うねん。そこでノックアウトや。」「何をうたったん?」「そうやなあ、案外、誰でも知ってるけど、ベスト10とかには入らんかな?」「フール・オン・ザ・ヒル」「アホか、わかるかって言いたいのんか?」 ユー・チューブで聞かせると、大声で歌いだしたチッチキ夫人でした。(答えはこの記事の追記で)監督 ダニー・ボイル製作 ティム・ビーバン エリック・フェルナー マシュー・ジェームズ・ウィルキンソン バーナード・ベリュー リチャード・カーティス ダニー・ボイル 製作総指揮 ニック・エンジェル リー・ブレイジャー ライザ・チェイシン 原案 ジャック・バース リチャード・カーティス 脚本 リチャード・カーティス 撮影 クリストファー・ロス 美術 パトリック・ロルフ 衣装 ライザ・ブレイシー 編集 ジョン・ハリス 音楽 ダニエル・ペンバートン キャスト ヒメーシュ・パテル (ジャック・マリク:主人公・さえないシンガー) リリー・ジェームズ (エリー・アップルトン:ジャックのマネージャー) ジョエル・フライ (ロッキー:ジャックの友人) エド・シーラン(本人:一流ミュージシャン) ケイト・マッキノン (デブラ・ハマー・やりてのマネージャー) ロバート・カーライル (何故か:ジョン・レノン))2019年117分イギリス 原題「Yesterday」2020・02・17パルシネマno22追記2020・02・19 映画「イエスタデイ」で子どもたちが、みんなで歌っていたのはこの曲です。一番だけですが歌詞も載せますね。メロディはどなたもご存知でしょう。「OB LA DI OB LA DA」Desmond has a barrow inthe market place Molly is the singer in a bandDesmond saysto Molly girl I like your faceAnd Molly says this as she takes him by the hand OB LA DI OB LA DA Life goes on bra La La How the life goes on OB LA DI OB LA DA Life goes on bra La La How the life goes on この歌声がエンディングで響いて納得!というわけです。ジャックは学校の先生に逆戻り、エリーとの間に二人のおチビちゃんもいます。いい話じゃないですか。 ぼくが40年以上も前に、最初に買ったビートルズのアルバムが「ホワイトアルバム」なんですが、それに入っていますね。「オブラディ・オブラダ」ってホントは意味のない「呪文」というか、「ひとり言」言葉ですよね、「アブラ・カダブラ」みたいな、そこがまたいいんですよね。ボタン押してね!
2020.02.19
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カレン・シャフナザーロフ 「アンナ・カレーニナ ヴロンスキーの物語」 シネリーブル神戸「戦争と平和」に挫折した僕のトルストイ体験は「アンナ・カレーニナ」で終わっています。何に感動したのか忘れてしまったのですが、「アンナ・カレーニナ」が映画になったと知ったら、思わず「観なくっちゃ」と思うところがアホですね。とにかく映画館の椅子に座っていました。 日露戦争の戦場の場面が繰り広げられています。場所は、いわゆる満州か、きっと、内モンゴルのあたりですね、ここは。木の生えていない丘とも草原ともつかない風景には見おぼえがあるような気がします。「おおーっ、アンナ・カレーニナには子供がおったんや。それが、ここに登場するとは思わなかったなあ。」 アンナの息子と、アンナの不倫相手が、この戦場で再会する。まあ、再会と言えるかどうか難しいのですが、しかし、まあ、という感じで映画は始まりました。 アンナの死から30年以上もの歳月がたっているのですが、あの時、幼い少年だったはずのセルゲイ・カレーニンが軍医として従軍し、日本軍の砲弾で怪我をした大佐を治療する。その患者こそが、なんと、憎むべき母の恋の相手、アレクセイ・ヴロンスキー伯爵であったというわけ。 「ああ、そういうことか、それなら新しい映画になるわな。」 母の死と、家族の崩壊の元凶である伯爵は、その死の真実を語り始める。果たして、その真相やいかに? 青年将校であったヴロンスキー伯爵と深みに落ちてゆくアンナ・カレーニナの日々。宮廷競馬、舞踏会、桟敷席から見下ろされるオペラ座の客。宮廷社会から見捨てられてゆくアンナ。ロマノフ朝の貴族社会の残光が華麗に映し出されています。 情事の後、アンナがなんという服なのかわからないのですが、当時の貴族の女性が着る、あの服を着るシーンが印象的でしたね。 「そうか、そういうふうに重ね着してゆくのか。ふーん。胴を締めるのは、そりゃあ、自分ではできんな。召使がおる世界じゃないと無理やなこれは。納得!」 納得するところを間違えているのかもしれませんが、逆に、納得がいかないなあ、そう感じたのはアンナの死に至る心情についてでした。 映画を観ていて「狂う」ことのドラマ上の解釈が、いかにも現代的であるようにぼくには思われました。病理的というか、精神医学の対象としてのというか。それは違うんじゃないか、そう思って座っていました。 もっとも、見ているときは、昔、読んだ小説中で、アンナが果たして自殺したのだったかどうかがあやふやだったのですから偉そうなことは言えませんね。 記憶では、女主人公は「汽車」と言う新しい文明の利器に乗って出発する「新しい女」だったというものなのというものなですから、まあいい加減な話なのです。 映画は語り終えた伯爵が、燃え盛る戦火の中で中国人の少女を探しながら終わるのですが、実は、この少女が何を表しているのか、結局わかりませんでしたね。 劇場を出たら、もう暗くて、信号機の赤やミドリのライトが印象的に輝いていて、大丸の東側のホテルのウィンドウがオレンジがかっていて美しかった。映画も、そんな印象でした。 監督: カレン・シャフナザーロフ 原作: レフ・トルストイ ビケーンチイ・ベレサーエフ 脚本: カレン・シャフナザーロフ キャスト エリザベータ・ボヤルスカヤ:アンナ・カレーニナ マクシム・マトベーエフ:アレクセイ・ヴロンスキー伯爵 ビタリー・キシュチェンコ:アレクセイ・カレーニン伯爵 キリール・グレベンシチコフ:セルゲイ・カレーニン マカール・ミハルキン:セルゲイ・カレーニン 原題 Anna Karenina. Istoriya Vronskogo 製作年 2017年 製作国 ロシア 2018・11・12・シネリーブル神戸no43追記2020・02・18 一昨年、見た映画です。以前書いてほってました。設定の仕方が面白かった印象があります。ボタン押してね!アンナ・カレーニナ(1) (光文社古典新訳文庫) [ レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ ]アンナ・カレーニナ 2/トルストイ/望月哲男アンナ・カレーニナ(3) (光文社古典新訳文庫) [ レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ ]
2020.02.18
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多和田葉子「百年の散歩」(新潮文庫) 多和田葉子は1984年、大学を終えてすぐドイツに渡り、ハンブルグという町に20数年暮らしたそうです。そのあとやって来たのがベルリンであるらしいですね。この「百年の散歩」という作品は「わたし」がベルリンの街を散歩する小説です。エッセイの味わいもあるのですが、やはり、小説だと思います。十の通りや広場をめぐりますから、ある種、短編連作と言えないこともありません。 ベルリンには「人名」がついた通りや広場がたくさんあるようですが、中でも、かなりな有名人の通りを散歩しています。「Berlinはフランス人がつくった町だ、と昨日の夕方「楽しー」の運転手に言われた。そのことがきょうのわたしの聴覚世界に影響を与え続けていTaxiをわたしは「楽し―」と呼んでいて、これは日本語でもドイツ語でも英語でもみんな「タクシー」という苺、イチゴ、一語、に縮んでしまっているモノリンガリズムを崩すために自分で勝手に造った単語である。 ユグノー派の人々がフランスから逃れてこの土地にやって来た時には、まだBerlinという都市があったわけではなく、いくつかの村が集まっていただけだった、と楽しーの運転手は語り始めた。まるで最近の出来事を語るような口調だけれども、実際はもう三百年も前の話だ。(「カント通り」) やたらと繰り返されるダジャレ。次から次へと「連想ゲーム」なのか、「ことば遊び」なのか。慣れない読者にはかなり辛いかもしれません。ここにはタクシー運転手との会話を引用しましたが、なんということはない風景と、湧き上がる言葉遊びを「散歩」と称して綴っているのか?そんな疑いが浮かんでくるのですが、連想は言葉を数珠のようにつなぎながら、時間を遡って、いつのまにかBerlinの歴史を語りはじめたりしているわけです。「百年の散歩」の「百年」が、きっとミソなわけでしょうね。 しょうてんがい、という言葉の響き、てんがい、天蓋、てんがいこどく。しょうてんがいこどく。商店街とは、人がパンを買ったり、トマトを買ったり、鉛筆を買ったり、靴下を買ったりできる区域のことだというならば、ここは商店街ではない。 店の名前をいちいち読まなくても色彩と活字の選び方だけで値段の安さを売り物にしていることが分かるチェーン店がずらりと看板を並べているけれども、いくら店の数が多くても、日々の暮らしに必要なものはそろわない。 ロゴの雰囲気だけで、ああ、あの会社、とわかってしまうのに、自分とは縁のない会社ばかりだ。通りの名前の書かれた古びた標識だけが昔の友達のように懐かしい。(「カール・マルクス通り」) カール・マルクスは、もはや、思い出の中の懐かしい「プレート」にすぎないのでしょうか。どうも、そうではないようですね。「ことば遊び」は、意識の深みへ降りていくウオーミングアップなのかもしれません。やがて、眼前の町の上にカール・マルクスが200年前に見た町が重ねられているのではないでしょうか。 「商品」はあるが「生産」者のいない商店。反政府運動の弾圧で亡命したウイグル人が羊肉の串焼きを売る街角。移民たちが故郷の路地をたたんでトランクに入れて持ってきた横道。それが、今目の前にある町の風景なのです。 「生産」はどこに行ってしまったのでしょう。人間は「疎外」から「自由」になったのでしょうか。 でも、まだまだ、読むには眠い「散歩」です。 たっぷり水分を含んだ葉が熱帯雨林に棲むカエルの背中のようにてらてら緑色に光り、観察者の喉を潤すが、花そのものは鼻糞のように小さいのもいる。のもいる。もいる。いる。る。植物は「いる」ではなく「ある」か。生きているのに。(「マルティン・ルター通り」) 最近、花屋が増えているような気がする。どんな言葉を口にしても相手にわるくとられてしまう袋小路に迷い込んだら、無言で大きな花束を差しだせばいい。そう考える人が増えている。(「マルティン・ルター通り」) 時間が経つと不思議な融合作用が起こる。丁度ベルリンの壁が崩れて二十年が過ぎたころから、町の西側にかつての東側の雰囲気が漂い始めてた。(「マルティン・ルター通り」) アパートの入り口の真ん前にはめ込まれているのですでに無数の靴に踏まれ、字がかすれている。それでもまだ読めないことはない。マンフレッド・ライス、1926年生まれ。殺されたのは1942年、アウシュビッツ。視線をあげると記憶を掻き消すような金剛色の外壁が私の前に聳えていた。扉が急に開いて、厚着の老人がへんなりしたナイロンの買い物袋を提げて外に出てきた。私の方を見ないで、そのまま右に歩き出した。 この交差点でルター通りは終わりだと思う。(「マルティン・ルター通り」) 歩きながら、何層にも重なっている「わたし」の記憶と、「Berlin」がそれぞれの「通り」の底に重ねている歴史が微妙に和音を奏で始めてきましたね。 これで、三つの通りを歩いたわけですが、ようやく、読み手は、次の通りではどんな音が聞こえてくるのか期待を感じ始めます。苦手な人は、とっくの昔に投げ出していらっしゃるに違いありません。 このあたり、ようやく「通り」と「わたし」の輪郭を、少しリアルにイメージしながら「多和田葉子」を楽しみはじめることができますね。眠気もどこかへ去って行きます。 さて、次はベルリン映画祭の、あの「金熊」を彫った彫刻家「レネー・シンテニス広場」です。 初めて多和田葉子をお読みになる方は、ここまでは頑張ってみてください。それでだめなら、仕方がないですね。 ぼくは「コルヴィッツ通り」の「子供たちと母」、「母の太い腕」あたりの描写にあらわれたイメージの奔流には、正直な多和田葉子の姿を見た気がしました。傑作とまではいいませんが、彼女の新境地かもしれませんね。ボタン押してね!ボタン押してね!犬婿入り (講談社文庫) [ 多和田葉子 ]
2020.02.17
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宮崎駿インタビュー「風の帰る場所」(文春ジブリ文庫)「ロッキン・オン」社の渋谷陽一がネット上で、自社の雑誌に掲載した「中村哲」のインタビューを公開しているのをのぞきながら思い出した本です。 渋谷陽一が編集長をしていた(多分)「CUT」とか「SIGHT」という雑誌に、その時、その時、掲載された、「宮崎駿」のインタビューを、雑誌掲載時には、やむなくカットした部分もあったらしいのですが、完全ノーカットで収録した「風の帰る場所」と題されたジブリ文庫です。 2013年に出版された本ですから、もう、かなり旬を過ぎているかもしれません。2013年といえば、「風立ちぬ」を作った宮崎駿が長編アニメーションからの、何度目かの引退を宣言した年ですが、宮崎駿に今でも興味をお持ちの方にはお薦めです。 この文庫には、5回のインタビューが入っています。宮崎駿の作品のアーカイブにそっていえば、『風の谷のナウシカ(1984)』・『天空の城ラピュタ(1986)』・『となりのトトロ1988』・『魔女の宅急便1989』後のインタビューが「風が吹き始めた場所」(1990年11月)です。ジブリ・スタジオの設立から、宮崎アニメの特質まで、かなり基本的なポイントがつかれています。 『紅の豚1992』の公開直後がのインタビューが「豚が人間に戻るまで」(1992年7月)です。 このアニメは珍しく「大人向け」なんですよね。もともとは日航の機内サービス用の短編の計画だった辺りから、大人向けの「宮崎」の本音が面白いインタビューですね。『もののけ姫1997』の公開後が「タタラ場で生きることを決意したとき」(1997年7月)ですが、この辺りから、いろんな意味で「超」がつき始める、ジブリなのですが、宮崎本人の苦悩も深い、そんな感じですね。 「ナウシカと千尋をつなぐもの」(2001年7月)・「風の谷から油屋まで」(2001年11月)の二つのインタビューは、それぞれ『千と千尋の神隠し2001』の公開のあとですが、特に、後者は出発からの回想風に構成されています。 渋谷陽一は本書の「はじめに」で「なんでこんなに喧嘩腰なのか、自分でも呆れる」と書いていますが、インタビュアーとしての遠慮会釈なしの構えが、宮崎駿を刺激しているのでしょうか、率直で正直に自分をさらけ出している感じがして、「破格」に面白いインタビューになっていると思いました。 当時、一番旬の時代の、世界の宮崎駿に、媚びることも怖ることもない渋谷陽一もかっこいいですね。 あれこれ引用し始めるときりがないので、とりあえず、宮崎アニメの肝ともいえる「風」について一つ引用しますね。あのー、ただ自然という現象を描く時に、例えば空気というものも、それから植物も光も全部、静止状態にあるんじゃなくて、刻々と変わりながら動態で存在してるものなんですよね。 ええ それを見ている人間も歩いている自分も、その感受性も刻々と変化するでしょう。いつもなら「いいなあ」と思える気色が、今日は条件が全部揃っているのに全然目に入ってこないとかね。それから、何でもない下らない状況なのに、やたら気色がよく見えるとかね(笑)(笑) それは、みなさん経験していることだと思いますよ。そうすると、こう「いい景色ですね」って言うときに、ただ一枚絵を書いただけで済むっていうものではないはずだっていう、そういう強迫観念はありますね。 ふーん「魔女の宅急便」の冒頭に風が吹いているなんていうのは、あったかいポカポカした風景で「わあ、ステキね」っていうんじゃなくて、騒がしくて、それでちょっと冷たい風が、僕は吹いててほしいっていうふうに思ったんです。ええ、ええ、それが、「行こう!」っていうふうに決める時の、そういう彼女にとってふさわしい風景じゃないかと思ったもんですからね。だから、湖も立ち騒いでてほしいとかね。あんまり立ち騒がなかったですけど(笑)ははははは。(風の吹き始めた場所) なぜ、ここを引用しているのか、わかっていただけたでしょうか。「映画の時間の中で、『風』がとまるのはおかしい。」強迫観念として、そう考える宮崎にぼくは感動しました。背景は「書き割り」として止まっているものだと思い込んできた、ぼくは、初めて動く「風」を彼のアニメで見た時に「ヘンだ」と思いましたから。映像がすごかったんですね。 次は「ナウシカ」の結末についてです。「ナウシカ」にはコミック版がありますが、結末はちがいます。渋谷陽一が、そのあたりを聞いています。渋谷 アニメーション版「ナウシカ」のラストなんですけれども、あれは非常に宗教的な終わり方をしていて、それに対して、以前、反省があると宮崎さんはおっしゃってたんですね。僕はすごくよかったと思うんですけどね。宮崎 いや、あれは宗教的に終わらざるを得ないんです。今やってもやっぱりね、そういうところに持っていくだろうと思うんですよ。だから、それに対しての自分の備えがあまりにも浅かったっていうことですよね。(中略) ただ僕は、あのとき映画の大ラストのところで絵コンテは進まなくなっちゃたんですよ。なぜ進まないかっていったらね、王蟲を一匹も殺したくないんですよね。「もう殺したくない!人間は殺しても王蟲は殺したくない」っていう気持ちが強くて(笑)。それで最後、パクさんが、「殺しャアいいんだ!」って怒鳴ってね。「じゃあ殺す!」って、それであっという間に絵コンテができたんですよね。とにかく自分は偉大な生き物だと思ってるんですよね。だから、「殺したくない。そんな映画の手管のために殺したくない」って(笑)。逆上状態って言うんでしょうけど、そういうふうなことを自分が生きている上で、一番大事な問題だと思い込んじゃうんですよね。だけど、映画って逆上状態になって作るものですからね。だからもう初めから。ああ云うふうに終わるのは予感としてあったんですけれども、最後の最後は迷いました。(「風の谷から油屋まで」) 「ナウシカ」は、結局、一番好きな作品なのですが、なんか、すごいことを言ってると思いませんか。実は、もっといろいろ言ってるんですが、その結末についてのこの葛藤は初耳でした。ちょっとうなりました。 これ以外にも、「紅の豚」について語っている「豚が人間に戻るまで」のなかにも、大人向けアニメの「豚」ファンには、なかなか必読の発言がありますよ。ほかのインタビューにも、随所に宮崎駿の自意識のありようや率直な自己暴露が、笑える発言が山盛りなのですが、そのあたりは本書でどうぞ。 実は2013年には、このシリーズの後編「続 風の帰る場所」が出ています。それについてはまたいずれということですね。 ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.02.16
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《2004年書物の旅(その13)》本村凌二「馬の世界史」(講談社現代新書) 読んでみると、新しい知識がふえて、なんか楽しくなる。頭が良くなったようの気がする。そんな本がある。ところがP.A.M.ディラック「一般相対性理論GENERAI THEORY OF RELATIVITY」(ちくま学芸文庫)なんて本はそんなふうに思えない典型。現代文の教科書に出てくる物理学用語が気にかかったから、手を出したのだけれど最初の10ページで、自分が実にアホだということに気づいただけで投げ出してしまった。 だって1ページめから(dx( 1))(2)-(dx( 0))(2)-(dx( 2))(2)-(dx( 3))(2)というふうな方程式がやたらでて来るんだもん。 まぁ、世界の最先端で、なに?最先端ではなくて、たんなる常識?うーん、そうかもしれない。ともかく、物理学で見れば世界はこうなっているということは結局、僕には一生わからないだろうということがわかって、まあ、なさけない気がした。もう授業でシッタカするのはやめようとつくづく思った。誰か解説してくれ!トホホホ。 それに引き換え、最近読んだ本村凌二「馬の世界史」(講談社現代新書)なんて本は実にわかりやすくて、おもしろい。著者は西洋古代史を専門にしている東大の先生であるらしい。東大だろうが、古代史だろうが日本語で書いてあるならこっちのものだ。 高校生が興味を持つのはどうかとおもうけれども20世紀の競馬の歴史に燦然とその名を残している「ネアルコ」というサラブレッドがいるのだそうだ。現在のサラブレッドはそのほとんどが、このイタリア産の名馬の血を引いているらしいのだが、本書は著者がその牧場を訪ねる話ではじまる。 というわけでぼくはこの本を競馬の歴史エッセイだとおもいこんで読み始めた。豈ハカランヤ、人類と馬の関係を世界地図片手に語っている壮大な世界史であった。 馬の家畜化の理由とその効用に始まって、世界史を動かした大事件の数々が馬と切り離しては考えられない所以が、実に興味ぶかくつづられている。戦車の歴史。騎馬遊牧民。アレキサンダー大王やチンギス・ハンの世界制服。例えばギリシア神話のポセイドンを解説したくだりはこうなっている。ギリシア神話の中にポセイドンなる神がいることはどなたもご存知だろう。この神は「海の神」として知られるが、もっと古い時代には「馬の神」であったという。神話の中に奥深く残る伝承を読み解くと、「馬の神」ポセイドンの姿がとらえられるのである。その痕跡をとどめた逸話や図像も少なからず残存する。なぜ「馬の神」が「海の神」に変身したのか。そこには地中海世界の社会と文化を理解する重要な鍵が隠されている。 ギリシア神話の担い手であった人々は、もともと海をよく知らなかったのではないだろうか。彼等の原住地といわれる地域には、広大な海はない。しかし、そこに住み馬を飼いならしていた人々が、その神をポセイドンとして奉っていたとしても、けっして不思議ではない。やがて、西へ南へと移動した人々の中に、バルカン半島の南部に定住した集団がいた。彼らは。後にギリシア人と呼ばれることになる。この地に定住したギリシア人は、そこで広大な海を見て、やがてそこに浮かぶ船を工夫した。草原を疾駆する馬の姿は海原を帆走する舟の姿と重なっている。このため、古代の詩人たちは、船を「海の馬」とよび、馬を船にもたとえた。これらギリシア人にとって、海の恩恵は、馬の恩恵としてもその眼に焼きつくことになる。そこで、ポセイドンは「海の神」に変身し、ギリシア人が奉り祈願する所となったのである。 古代史の専門家である著者の面目躍如。こんなふうにナルホドそうなのかと、思わず膝をうつという解説が、あちこちにあるのが本書の特徴だが、馬という動物を主人公に据えて歴史を見るとユーラシアの中央部から世界史がはじまり、広がっていくということが実感される。 ぼくらの習った世界史がヨーロッパ中心であったり、中国中心であったり、文明の偏りのままに偏っていたことをおもうと、実に斬新だ。 そういえば日本中世史の研究者で、今は亡き網野善彦が「馬・船・常民」や「東と西の語る日本の歴史」(両方とも講談社学術文庫)で東国と西国というこの国の文化圏の由来を興味ぶかく捉えていたのも、馬がキー・アニマルだった。 古典の教科書の今昔物語集「馬盗人」には東国を本拠地にする清和源氏と馬の関係がリアルでしょ。網野善彦の本はそのあたりの解説になっているんです。 ああ、それから「世界史の誕生」(ちくま文庫)や「モンゴル帝国の興亡」(ちくま新書)でユーラシアの真ん中に世界史の始まりがあると説いている東洋史の岡田英弘というおもしろい人もいるなあ。 日本史とか世界史とかにとらわれず、歴史を書いている本と出合うと頭が良くなった気がするというお話でした。読めば、あなたも頭が良くなる気がするかも?(S)追記2020・02・15 受験制度の「改革(?)」がらみの お粗末を文部省だかが露呈させていますが、「歴史」が高校生の頭から消え始めて20年以上たちました。「アレクサンダー大王」も「チンギス・ハン」も、もちろん「ポセイドン」も知らない高校生が当たり前になっていますが、現在30代の社会人の皆さんの大多数が、そういう人たちで構成されているのではないでしょうか。 「事実」を修正して、「自らに都合よく語ること」を恥としない人たちが跋扈し、他国の人々を罵って自らを省みない風潮が世を覆っているようですが、ひょっとしてこういう社会を作るために、「教育改革(?)」とかは繰り返されてきたのではと思うと、ちょっとがっくりしてしまいます。 「歴史」であれ、「科学」であれ、「本当のこと」を知ることを楽しむ生活をしたいものです。 ああ、そうです。「馬の世界史」は現在では「中公文庫」で読めるようです。本村凌二の素人向けの本は、他にもたくさんあります。 それから、《2004年書物の旅》(その1)・(その2)・(その11)・(その12)・(その14)はここをクリックしてみてください。ボタン押してね!ボタン押してね!馬の世界史 (中公文庫) [ 本村凌二 ]
2020.02.15
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週刊読書案内 川上弘美「神様」・「神様2011」(講談社) 高橋源一郎の「非常時のことば」(朝日文庫)という評論を読んで感想を書きました。その本の二つ目の評論というか、「非常時のことば」が第一章だとすると、第二章は「ことばを探して」というタイトルの評論なのですが、その章で川上弘美の「神様」と「神様2011」という作品が丁寧に読み返されています。 「神様」という作品は1996年に芥川賞をとった「蛇を踏む」より、二年早く書かれた、彼女のデビュー作ともいうべき作品ですが、お読みになったことがある方はご存知のように、「くま」がアパートの三つ隣に引っ越してきて、まあ、いろいろ丁寧な挨拶があって、ある日、誘われて河原までお弁当を持って散歩に出かけてお昼寝をして帰ってくるというお話しです。 2011年に東北の震災がありましたが、川上弘美はその年に、この作品を書き直して「神様2011」として、同じ講談社から再刊しています。この本には「神様」と「神様2011」が両方とも入っていてお買い得ですが、ともに、とても短い作品です。 この、一冊の小さな本で読み比べることのできる、二つの「神様」という小説は、ぼくのような、粗雑な読者には「地震があった後の世界」と、「地震のことなど夢にも想像しなかった世界」という二つの世界が描かれていることくらいまでは理解できるのですが、その二つの世界に、同じように登場する、この「くま」って、いったい何なんだという訳のわからなさを増幅させただけで終ってしまいかねない作品でした。 その「神様」を高橋源一郎は見事に読み解いていました。 久しぶりに出現した「神様」は、黙って、自分を必要としなくなった国を歩き、おそらく、数少ない信仰の持ち主である「わたし」を抱擁するのである。そういえば、ドストエフスキーの大審問官に対しても、最後に、場違いのように出現したキリストは、その唇に口づけをして、何処ともなく去ってゆくのだった。 「神様」の世界は。守がない世界を生きているぼくたちの悲しみを、そっと静かに、救い上げたような小説だった。(1994年版「神様」評) だが、「あのこと」が起こった。 「くま」とは神なき時代に出現した神なのですね。ここで「大審問官」の例を引っ張り出してくる、その読みの卓抜さに、まず、うなりましたが、「あのこと」が起こった結果「神様2011」として、川上弘美によって書き直された本文について高橋源一郎の結論は以下のようなものでした。「親しい人と別れる時の故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」 わたしは承知した。(くまはあまり風呂に入らないはずだから、たぶん体表の放射線量はいくらか高いだろう。けれど、この地域に住みつづけることを選んだのだから、そんなことを気にするつもりなど最初からない) くまは一歩前に出ると、両腕を大きく広げ、その腕をわたしの肩にまわし、頬をわたしの頬にこすりつけた。くまの匂いがする。反対の頬も同じようにこすりつけると、もう一度腕に力を入れてわたしの肩を抱いた。思ったよりもくまの体は冷たかった。(「神様2011」) ここで「わたし」は、「この地域に住みつづけることを選んだ」と「神様」の前で告白している。この部分こそ、「神様2011」の白眉の個所ではないだろうか。なぜ、「あのこと」が起きたのか。それは、人々が、「神様」を信じなくなったからだ 一つの世界だけを見ていながら、同時に、その世界に重なるように、震えて、かすかに存在している、もう一つの世界。そんな、においや気配しか存在しないような世界を感じとること。それこそが、なにかを「読む」ことなのだ。 二つの作品をお読みになったことがあれば、これで十分納得していただけるのではないでしょうか。 少しだけ補足すれば、高橋の引用は「神様2011」のお別れの抱擁のシーンですが、1994版「神様」ではこうなっています。 「抱擁を交わしていただけますか」くまは言った。「親しい人と別れる時の故郷の習慣なのです。もしお嫌ならもちろんいいのですが」わたしは承知した。くまは一歩前に出ると、両腕を大きく広げ、その腕をわたしの肩にまわし、頬をわたしの頬にこすりつけた。くまの匂いがする。反対の頬も同じようにこすりつけると、もう一度腕に力を入れてわたしの肩を抱いた。思ったよりもくまの体は冷たかった。(1994年版川上弘美「神様」) 上記の引用の太字の部分が2011年版で加えられた記述ですね。高橋はその追記部分を問題にしています。それにしても、高橋源一郎の「読み」の定義は、素晴らしいですね。詳しくは川上弘美「神様2011」(講談社)・高橋源一郎「非常時のことば」(朝日文庫)をお読みください。追記2010・02・14 高橋源一郎「非常時のことば」の感想はここをクリックしてみてください。ボタン押してね!ボタン押してね!カラマーゾフの兄弟(1) (光文社古典新訳文庫) [ フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフス ]
2020.02.14
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藤森照信「人類と建築の歴史」(ちくまプリマー新書) 筑摩書房が今年(2005年)のはじめから出し始めた「ちくまプリマー新書」というシリーズがある。中学生に狙いをつけている感じだが、小学校の高学年ぐらいから読むことが出来る。特徴は「漢字」にルビを振っているところにある。 じゃあ、高校生にはやさしすぎるかというと、とんでもない。むしろ大人が読めといいたくなる内容なのだ。藤森照信「人類と建築の歴史」(ちくまプリマー新書)を読んで特にそう思った。 人類がマンモスを食っていた時代から説き起こし、現代建築まで射程が届いている書き方は流石、建築探偵と言いたくなるが、ポイントは人類が初めて建物を作り始めた時代を建築史のプロの目で見ているところだ。 マンモス狩りから麦や米の文化に移り変わっていく人類史の中で生まれてきた「建築」。狩猟から農耕への移行の必然性を経済史的な観点から捉えながら、文明の変化を残された道具である石器の形状と作り方の変化、つまり打製石器と磨製石器の材質と用途の違いから説明する所が最初の読みどころ。 地母神信仰から太陽神信仰が生まれてくる原始宗教の変化から巨大巨石遺跡、たとえば世界各地にある不思議なストーンサークルの謎に迫る所が次のポイント。技術と道具と材料のないところに建造物はありえないが、目的のない建物を人間が作るはずがない。HOWとWHY、この二つの要素をきちんと書いている所がこの先生のバランス感覚というか、学問のセンスのよさ。読者がガキだからといって、手抜きしない。まあ、僕も東大教授に向かってよく言う。もちろん本人の前ではよーいわん。 この後、話題は日本の建築物に移り、伊勢神宮、出雲大社、春日大社の三つの神社建築の特徴の説明。コレが実に面白い。 世界史の中にこの列島の文化の特徴を置いて考える。日本は特別なんて言わない。そこがさわやか。 時代的に近世以降が駆け足になってしまったきらいがあるのが残念といえば残念。この本を読みながら真木悠介という社会学者が北アメリカのネイティブ・インディアンの文化について書いている「気流のなる音」(ちくま学芸文庫)という本を思い出した。知っている人には、ちょっと不思議な連想に思えるかもしれない。 藤森は建築という文化現象を、人間が何故建築物を作るのか、という根源的なレベルに目をすえて分析している。一方、真木は魔術のような原始的文化現象に現代社会学の目を向けている。たとえば巨石を運んでくる原始の人々の姿を、建築学と社会学の二人の学者が興味津々、遠くの丘の上から眺めている。そんなイメージ。原始的な営みに対して両者ともチャンと驚いている。 最初に真木悠介のこの本を読んだ時には心底感動した。やたら回りに紹介した事を覚えているが、読み直して何にそんなに感動したのかと思わないでもないが、やっぱり近代社会の教育制度の中でしつけられた自分の世界の狭さという事に驚いたのだと思う。 最近は高校の教科書に載せられていたりするが、「さわり」だけだから授業の中では却って扱いにくい。一冊全部読まないと面白さは分からない。 かつては普通の「ちくま文庫」だったのに、「学芸」文庫に格上げ(?)されて、値段も高くなった。要するにあんまり読まれていないということなんだろう。元々は社会学に分類される内容だが、大学にでも行って学問でもしようという人なら誰でも、その始まりの時期に読む価値がある本だと思う。 著者は真木悠介というのが筆名で見田宗介という名前の東大名誉教授。単行本の頃は新進気鋭と呼ばれていたような気がするが、いつの間にか名誉教授。みんな年をとるのですね。 話を元に戻すと、藤森照信には「天下無双の建築学入門」という「ちくま新書」がある。一般向けに建築学というガクモンを紹介した本。「人類と建築の歴史」の親本のような内容だが僕には子供向けの方が面白かった。 この人はひところ「路上観察学」という冗談のような学問を提唱して、小説家で評論家の赤瀬川原平なんていう人たちと一緒に「トマソン」物件の探索なんかに熱中した人で、なかなか学者の枠に入りきらない人だと思う。でも子供向けの方がのびのびしていて面白いところがこの人の人柄なんじゃないかと思うわけで、ぜひ一度お読み頂きたい今日この頃です。(S)初出2005・9・5改稿2020・02・11追記2020・02・12 これまた、古い「読書案内」のリニューアル版なのですが、何が懐かしいといって、「ちくまプリマー新書」というシリーズが創刊されたのがこの年だったことですね。亡くなった橋本治が、このシリーズの創刊にかかわったことをどこかに書いていましたが、最初の一冊は彼の「ちゃんと話すための敬語の本」という本で、後の四冊は「先生はえらい」(内田樹)・「死んだらどうなるの?」(玄侑宗久)・「熱烈応援!スポーツ天国」(最相葉月)・「事物はじまりの物語」(吉村昭)というライン・アップでした。仕事柄もあって割合読み続けていましたが、退職して手に取らなくなりました。 筑摩書房には「ちくまプリマー・ブックス」という150冊くらいのシリーズ、その前には、1970年から始まった「ちくま少年図書館」という100冊のシリーズがありました。 「少年図書館」は湯川秀樹(物理学者)・臼井吉見(作家)・松田道雄(小児科医)が監修者でしたが、松田道雄の「恋愛なんかやめておけ」という伝説の(勝手にそう思っているだけかも?)名著が第1巻でした。もう、「出会えない本たち」なのかもしれませんね。ボタン押してね!ボタン押してね!【中古】恋愛なんかやめておけ(ちくま少年図書館1 心の相談室)/松田道雄 著/筑摩書房
2020.02.13
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野田サトル「ゴールデン・カムイ(4)」(集英社) さて、第4巻です。表紙の人物は「大日本帝国陸軍・第七師団」所属する情報将校、鶴見篤四郎(つるみ とくしろう)陸軍中尉です。 容貌魁偉というのはこういうのでしょうかね。仮面のような額当てをしていますが、日露戦争の戦場で頭を吹き飛ばされても生き残った男で、今でも目の周囲の皮膚は剥がれていますし、吹き飛ばされた頭蓋骨にホーロー製のカバーを当てているのですが、時々脳漿のがにじみ出てくるという、恐るべき状態なのです。とはいいながら、その活躍ぶりは、なかなか、どうして、半病人などではありません。 土方歳三の刀のことを言いましたので、彼が手にしている拳銃についてちょっと。この銃はボーチャード・ピストルというそうです。ドイツで開発された、最初の軍用自動ピストルです。戦争映画などでナチスの将校が手にしている軍用拳銃ルガーP08というピストルの原型だそうです。 さて、この男が、アイヌの埋蔵金を狙う「三つ巴」の一角を担う、いわば、副主人公なのです。そして、彼の周りには狙撃の名手・尾形上等兵、マタギの末裔・谷垣一等兵、死神鶴見中尉の右腕・月島軍曹といった、後々、大活躍の人物が勢揃いしているのですが、それぞれの人物がクローズアップされる「巻」が待っています。紹介はその「巻」で、ということで。いやー先は長いんですよ、話の展開も一筋縄ではいかないようですし。 というわけで、「きょうの料理・アイヌ編 第4巻」ですね。 「鹿肉の鍋」です。「ユㇰオハウ」というそうです。プクサキナ(ニリンソウ)とプクサ(行者ニンニク)が入っているそうですが、なんと、アシリパちゃんが「味噌」をねだるようになっています。 「鮭のルイペ」。生肉や魚を立木にぶら下げて凍らせたものを「ルイペ」というそうで、とけた食べ物という意味だそうです。「鮭」は「カムイチェプ」というそうです。 さて、今回のカンドーは「大鷲」です。「カパチㇼカムイ」と呼ぶのだそうです。 見開き2ページを使った姿です。翼を広げると2メートルを超えるそうです。羽が矢羽根に使われます。モチロン肉は煮て食べます(笑)。 脚を齧っています。残念ながら「鍋」のシーンはありません。この後、おバカの白石くんは鷲の羽根を売りに行って、事件に巻き込まれます。 そのあたりは読んでいただくとして、次号では「クジラ」と、北海道といえば「ニシン」が出てきそうです。お楽しみに。追記2020・02・11「ゴールデンカムイ」(一巻)・(二巻)・(三巻)・(五巻)の感想はこちらをクリックしてみてください。先は長いですね。にほんブログ村にほんブログ村ゴールデンカムイ 杉元が持っている 食べていい オソマ (味噌) 140g(株)北都 企画販売 ダイアモンドヘッド
2020.02.12
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岡田暁生 「西洋音楽史」(中公新書) 15年ほど前の「読書案内」の記事です。相手は高校生でしたが、今となっては話題が少々古いですね。2005年出版の本なので、《2004年書物の旅》に入れるのにも、少々抵抗がありました。というわけで、そのまま載せます。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ だいたい休みの日に何をしているのかと聞かれて返答に困る。何にもしていない。趣味と呼べるようなことは何もない。たいていゴロゴロして本を読んでいるが、本を読むことを趣味だと思ったことはない。ある種の中毒のようなものだろう。 ほかに何をしているかというとヘッド・ホンで音楽を聴いている。ジャンルは問わない。タダ、最近のポピュラー音楽はあまり聴かない。うるさいと感じてしまうからだ。 年のせいか、単なる好みかわからないが「あゆ」にも「モー・ムス」にもついていけない。紅白とかミュージックナンチャラとかもダメ。もっとも、「モンゴル何とか」とか「ガガガ」とかはついていけるから、年ではなくて好みだろう。 今はEL&P=エマーソン、レイク&パーマーの「展覧会の絵」を聞きながらワープロを打っている。原曲はロシアの十九世紀の作曲家ムソルグスキーのピアノ組曲。チヤイコフスキーと同じ時代のクラシックの名曲だが、この演奏はイギリスのロック・バンドによるもので、結構有名な作品。 クラシックとかロックとか、ジャズとか歌謡曲とかジャンルを分けてそれぞれ別の音楽のことのようにいうが、ぼくには何が違っているのか、本当はよくわからない。結局同じなんじゃないかと思うこともある。別に音楽を訊きながら昼寝するたびに悩んでいるわけじゃないが、「それって、よく分からないよな。」的にずっと気になっていたことだ。 ためしに岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)を読んでみると、これが意外に面白かった。 西洋芸術音楽は1000年以上の歴史を持つが、私たちが普段慣れ親しんでいるクラシックは、十八世紀(バロック後期)から二〇世紀初頭までのたかだか二〇〇年の音楽にすぎない。 西洋音楽の歴史を川の流れに喩えるなら、クラシック音楽はせいぜいその河口付近にすぎない。確かにクラシックの二〇〇年は、西洋音楽史という川が最も美しく壮大な風景を繰り広げてくれた時代、川幅がもっとも大きくなり、最も威容に満ちた時代ではある。だがこの川はいったいどこからやってきたのか。そしてどこへ流れていくのか。―中略― しかし今日、西洋音楽はもはや川ではない。私たちが今いるのは「現代」という混沌とした海だ。そこでは、全く異なる地域的・社会的・歴史的な出自を持つ世界中のありとあらゆる音楽が、互いに混ざり合ってさまざまな海流をなし、これらの海流はめまぐるしくその方向と力学関係を変化させつつ、今に至っている。この『世界音楽』という海に大量の水を供給してきたのが、西洋音楽という大河であることはまちがいないにしろ、川としての西洋音楽の輪郭は、かつてのような明瞭な形ではもはや見定め難くなっている…。 こういうまえがきで始まるのだが、たとえば、誰でも知っているモーツアルトが登場するのは230ページ余りある本書の100ページを越えてからだ。そこまではどっちかというとヨーロッパ史における音楽の役割の講義という意味で面白いのがこの本の特徴だ。 音楽は社会と切り離せないんだそうだ。たとえば十六世紀の画家ティツィアーノの「田園の演奏」なんていう絵は全裸の女性が笛を吹いているピクニックの様子を描いているんだけど、それってどんな理由からなのかとか。それは、バロックと呼ばれる新しい音楽の誕生と関係があるらしいんだよね。 宗教改革がヨーロッパに広がり、グレゴリオ聖歌のようなカトリック教会の音楽に対してプロテスタント教会の音楽、誰もが口ずさめるコラールという音楽形式が生まれてきて、民衆に受け入れられていった結果なんだそうだ。 やがて、そこからバッハが生まれてくるという。世界史の先生でこんな講義をする人はきっといない。 ところでぼくが感じていた疑問にはどう答えているのかというと、答の一つは引用したまえがきにもあるとおり現代は『世界音楽』の時代に入っているということで、いろんな川の流れの混沌とした化合物になっているって言うことだ。 そして、もう一つの答として、著者は現代音楽の保守性について言及したあとで、こういっている。 ポピュラー音楽の多くもまた、見かけほど現代的ではないと私には思える。アドルノはポピュラー音楽を皮肉を込めて『常緑樹(エヴァーグリーン)』と呼んだが(常に新しく見えるが、常に同じものだという意味だろう)、実際それは今なお『ドミソ』といった伝統的和声で伴奏され、ドレミの音階で作られた旋律を、心を込めてエスプレシーヴォ(表情豊かに)で歌い、人々の感動を消費し尽くそうとしている。ポピュラー音楽こそ『感動させる音楽』としてロマン派の二十世紀における忠実な継承者である。 くわえて、現代を「神なき時代の宗教的カタルシスの代用品としての音楽の洪水」の時代だと喝破することで本書を終えている。 ぼくなりにまとめれば、ジャンルにはそれぞれの水脈があるわけだから、確かに違う音楽だといえる。しかし、たとえば流行するポピュラー音楽が共通の感受性、「感動したい」「癒されたい」に支えられ、形式的に新しさなんて何もないのに大衆的な消費の対象となってロマン派を継いでいるように、十九世紀にはじまった商品としての音楽はショパンであろうが流行歌であろうが、訳のわからない現代音楽であろうが共通の社会現象、感動を追い求める同じ形式のヴァリエーションとして見ることができるということだ。 みんなが聴いている音楽って、好みは違うかもしれないけど、案外似たものかもしれないということだね。なんだか話が難しそうになってしまったが、素人にも分かる西洋音楽史で、お薦めだと思いましたよ。 何せクラシック音楽史だから今度テレビ化される二ノ宮知子『のだめカンタービレ』(講談社コミックス)で予習してから読むといいかもしれない。あの漫画はCDブックも 出ているそうだからね。(S)2006・10・03 追記2020・02・11 最近ではすっかりユーチューブとかのお世話になることが多い。サンデー毎日な日々なわけで、何となく同じ曲をBGMで聞くことが多い。この本を読んで、著者が気に入っていろいろ読んだ、案内したい本も多い、でも、読みなおす気力にかけていて…。困ったもんだ。ボタン押してね!ボタン押してね!【中古】 音楽の聴き方 聴く型と趣味を語る言葉 中公新書/岡田暁生【著】
2020.02.11
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長田悠幸・町田一八「シオリエクスペリエンス 14」(BG COMICS) 「ゆかいな仲間」のヤサイクン、2020年の1月のマンガ便に「シオリエクスペリエンス(14巻)」(BGコミックス)が入っていました。2019年の年末に出たばかりの最新号ですね。 13巻で「Bridge To Legend」、通称BTLコンテストの一次予選を勝ち抜いた「SHIORI EXPERIENCEシ・オリエクスペリエンス」なのですが、今回は、振出しに戻った感じですね。でも、見開きのページがかっこいいんです。 言わずと知れた「アビー・ロード」のジャケットの、あのアビー・ロードですね。 さて、マンガですが、ダサい高校教員、本田紫織さん、27歳が率いる「シオリエクスペリエンス」ですが、BTL一次予選も、読者としては予定通り、勝ち抜いて、二次予選はどうなるのかしらというところなのですが、今回は一次予選突破の御褒美で、、格上バンド「タピオカズ」のツアーに前座として参戦して、大きなステージで、一からの苦労の始まりです。 本田詩織さんが27歳という設定なのは、27歳で早世した伝説のギタリストにちなんで、今年中に「伝説」にならなければ・・・というわけなのですが、ジミー・ヘンドリックスのジャック・インという「裏技」で着々と「ビッグ」に成長しています。 14巻も長田悠幸さんお得意の「絵だけ」ページで、なかなか、盛り上がっています、が、今回は海の向こうのアメリカのお話しがポイントのようですね。 で、アメリカなんです。向うでもBTL一次予選は始まっています。そこには「ニルヴァーナ」のカート・コバーン、そして、あのジャニス・リン・ジョプリンという伝説の二人がジャック・インするバンド「The27Club」が登場して余裕で勝ち抜いているらしいんですね。 二人が登場しているページがこれです。 まあ、マンガ家さんとしては、そろそろ「ゴール」の段取りを見せてくれているようなんですが、14巻の最終ページも意味深です。 これって、上で出てきた「アビー・ロード」の横断歩道ですよね。次回はイギリス予選の話なんでしょうか?そういえば「ローリング・ストーンズ」のブライアン・ジョーンズと「ドアーズ」のジム・モリソンという伝説の人が、まだ残ってますよね。 さて、どうなるのでしょうね。楽しみっちゃア、楽しみですよね。追記2020・02・09「シオリエクスペリエンス」(1巻~)・(13巻)・(15巻)の感想はここをクリックしてみてください。にほんブログ村にほんブログ村SHIORI EXPERIENCE ジミなわたしとヘンなおじさん 10
2020.02.10
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山口昌伴「水の道具誌」(岩波新書) 勤めていたころの教科書に山崎正和「水の東西」という短いエッセイがありました。今でもあるのでしょうか。 ともかく、「鹿おどし」といういかにも、「侘び」だ、「さび」だと座禅でもくんでいそうな人が感心しそうな装置と、「噴水」というブルボンだのハプスブルグだのいうお菓子屋みたいな名前のフランスやウイーンの王朝文化の象徴みたいな装置を比較して、それぞれの文明を論じたエッセイで、東洋の島国に暮らす人々が流れる水を音で感じて、なおかつ「時間」が絡んでくる、その心のオクにひそむ「???」というふうに展開する文章でした。ぼくは、あんまり好きじゃないんですね、こういうの、今でも。 それを教室で読むのですが、しかし、困ったことがありました。噴水はともかく鹿おどしなんて、生徒さんはもちろんですが、ぼく自身が実際に見たことがあるような、ないような、あやふやな記憶しかありません。あるとしたら京都かどこかのお寺の庭だと思うのですが、それがどこだったか、確かな記憶は、もちろんありません。 ぼくは山の中の村で育ったのですが、近所に「鹿おどし」なんてものがあった記憶は全くありません。だいたい、あの程度の音で野生のシカが逃げるとも思えません。 冬場にでてくるイノシシや鹿の脅しは、実際にバーンと大きな爆発音がする仕掛けだった記憶はありますが、そんなものを取り付けるのはかなり変わった人だったという気がします。今ではサルはもちろんのことクマまで里に降りてきますが、やられ放題です。 話を戻しますが、まあ、こんなふうに、自分でもあやふやな事物についての題材で授業をするような場合、ぼくのようなズボラな人間でも一応商売なのですから、とりあえずネタの仕込みということをするわけです。 で、どこかのお寺に出かけていくような能動的行動力とは、ご存知のとおり(ご存じないか?)無縁なわけですから、当然、手近な方法に頼ることになります。今なら取あえず「ウキペディア」ということでしょか、そういえばユーチューブも重宝かもしれませんね。ぼくの場合は図書館か書店の棚でした。 そうすると、「あった、あった。」となるわけです。この教材の場合は山口昌伴「水の道具誌」(岩波新書)ですね。 目次をひらいてを見ると、「如露」、「鹿おどし」、「水琴窟」、「金魚鉢」、「蓑」、「和傘」、「手拭」、「雑巾」、「砥石」、「束子」、「浮子」、「爪革」、「川戸」、「龍口」、「金盥」、「龍吐水」、「馬尻」。 高校生諸君には読み仮名テストになりそうなラインアップですが、水とかかわる日常生活のさまざまな道具の名前がずらりと並んでいます。読み方もわからないのですから、いったいどんな道具なのか見当がつかないものもあるかもしれません。それは、まぁ本書を読んでいただかないとしようがないですネ。 さっそく「鹿おどし」のページを読んでみます。第1章「水を楽しむ」の中の数ページ。道具の研究者が、現物をじっと観察し、調べ上げた薀蓄が語られています。 鹿おどしをじっと見つめてみる。水がだんだん削ぎ口まで溜まってくる。重心が前に移ってくる。だんだんだんダン!全体が身じろぎしたかに見えて次の瞬間、削ぎ口がサッと下がって水がザッと出てサッとはね上がる勢い余って尻が据え石を叩いてコーン、その瞬間は目にも留まらぬすばやさ、風流とは違うなにかが働いているとしか思えない。 どうです、書き方がいいでしょう。日用品の研究なんて、地道以外のなにものでもない仕事だと思うのですが、この書き方をみて、このおじさん、タダモノじゃないねと思うのはボクだけでしょうか。 なんというか、研究が楽しくて仕方がないという臨場感が伝わってくるでしょう。こういう調子で「馬尻(バケツ)」だとか「束子(たわし)」などという、なにげなさすぎて、まぁ、どうでもいいような道具について、材料、製作法、用途から歴史的変遷まできちんと説明されています。この口調にハマレバ、この上なく面白いのです。 ところで、「鹿おどし」についての薀蓄はどうかというと、こんな感じです。 誰も居ない田や畑の作物を鳥獣の食害から守るには、人がいると見せる案山子のように視覚的な威しもあったが、音を鳴らして威す方が効果的で、雀おどし、鳴子などがあって鹿おどしもその工夫の一つだった。鹿も猿も居ない茶庭に仕掛けるのは、人の心の安逸に流れるのを威す、禅門修業の精神覚醒の装置だった。 鹿おどし、僧都ともいい添水とも書いた。昔、巧妙な智恵や、高度な技術をお坊様の功に帰すことが多かった。弘法大師がその代表格だったが、鹿おどしは玄賓僧都。僧都は僧正に次ぐくらいの身分で、玄賓僧都はまず案山子の発明者とされ、やがて雀おどし、鳴子も玄賓の発明とされて僧都と呼ばれ、鹿おどしもやっぱり玄賓僧都ご発明に帰した。 ぼくにはどこかの禅寺で「カアーツ!」と両手で捧げ持っていて振り下ろす、あれは何というのでしょう。「杓」でいいのでしょうか。ともかくあれを振り下ろしている住職さんの代わりに、「カアーン」と音をさせる道具が「鹿おどし」だったという理由で「僧都」といいますというほうが面白いのですが、そうではないようですね。道具にはそれぞれ縁起というものがあるのです。ナルホド。 日用品の研究といえば、柳宗悦で有名な「民芸運動」という1930年代に始まった、民衆の道具の技芸の素晴らしさ讃えた文化発掘運動があります。当てずっぽうですが、山口昌伴はきっとその流れの人だと思います。自分の足と目で確かめて、今は使われなくなった道具にたいして、実にやさしい。読んでいて気持ちが和む、そんな本でしたね。 この本もそうですが、日用品を話題にしている本というのは、エッセイとか評論もそうですが、小説や古典の授業でも役に立ちます。「ああ、あれか。」という「安心の素」ですね。 古典とかいいながら、なんなんですが、どっちかというと、現代社会論というほうがピッタリの本ですが、デザイン評論家の柏木博さんとか、おススメです。たとえば「日用品の文化誌」(岩波新書)の中では、住宅そのものから、ゼムクリップまでシャープに論じていてうれしくなります。 まあ、出会った本が面白かったりすると、授業のネタ仕込みは迷路へ迷い込んでしまいますから、その辺は要注意というわけですね。(S)ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.02.09
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E・サイード「戦争とプロパガンダ」(みすず書房) 「今」になって振り返れば、この「読書案内」を配布した人たちがぼく自身にとって最後に出会った高校生だったことに気付くのですが、内容は単なるアジテーションに過ぎないかもしれませんね。しかし、生身の高校生に語り掛ける事が出来たあの頃は、そうすることが楽しかったのかもしれません。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 2014年1月。この案内を読んでくれるであろう高校1年生と出会って9か月がたちました。じつはぼくはここ数年間授業で出会う諸君に「読書案内」と名付けて、ぼく自身が読んでこれはいいなと思った本を紹介するプリントを配布してきました。ところが、根気が続かなくなってしまいました。理由はいろいろあるでしょうが、誰かが読んでくれているという楽しさを失ってしまったことが一番大きな理由だったような気がしています。。 高校にやって来る人は毎年新しくなります。相手をする教員は新しくなりません。新しくならない教員の悲しい宿命はマンネリズムから自由になれないことりません。です。自由になるためにぼくが知っている方法の一つが本を読むという事ですが、「読書案内」もぼくの中でマンネリ化してしまっていたのかもしれませんね。 幸いぼくはここ二年間、図書館で貸し出し、蔵書整理、PCデータベース化に取り組む仕事をさせてもらっています。あらゆる棚や、並んでいる本が古くてホコリまみれなのが哀しいのですが、公立高校としてはかなりな蔵書を相手にする仕事は教員生活最後の仕事としては悪くないと思っています。 なにせ、ぼくは、本が好きです! そのうえ、自分自身をリフレッシュする本は必ずしも新しい本とは限りません。古い本だって、いちど読んだ記憶のある本だって、「なるほど」とか、「そうだったのか」といった新しい発見を連れてきてくれることはよくあることです。要するに、宝の山を相手に日がな一日ごそごそ片付け仕事をしているというわけです。何はともあれ、つまらぬ感傷に浸っていないで、元気を出して、もう一回やってみよう。それが今の気持ちです。 新しい読者諸君に「読書案内」について一言。ぼくは授業で出会う生徒諸君にこの案内を配布しています。できることなら、ゴミにしないで読んでほしいのですが、まあ、もしもこんなものはゴミだと思っても、教室ではなく、家に持って帰って捨ててほしいのです。名前は週刊と威張っていますが、そんなに迷惑はかけないと思います。そろそろ終わりが近づいているのですが、なんとか通算150号にたどり着きたいというのが目下のところの目標です。どうか、いやがらずにおつきあい願います。 さて、再出発はE・W・サイード「戦争とプロパガンダ」(みすず書房)から始めましょう。エドワード・ワディエ・サイードとは誰か。知っている人はいるのでしょうか。残念ながら、ぼくが今、授業で出会っている、2014年の高校一年生の中で、この名を知っている人は、おそらく、一人もいないだろうと思っています。 エルサレムで生まれたキリスト教徒のパレスチナ系アメリカ人。ハーバード大学、プリンストン大学で学び、あのオバマ大統領が卒業したコロンビア大学で教えた文学研究者であり、「オリエンタリズム」(平凡社ライブラリー)という西洋主体の歴史観を痛烈に批判した刺激的な仕事で有名な文学批評家。それに、ピアニスト、バレンボイムの友達です。 こう書けば、温厚な学究を思い浮かべるかもしれませんが、実は、2001・9・11以降、アフガン空爆、イラク進攻とつづいたJ・ブッシュ大統領による「テロ撲滅戦争」を最も痛烈に批判した行動する知識人なのです。 本書は9・11以降、「十字軍」を名乗り、「テロ撲滅」と叫び、自らの戦争を合理化していったアメリカ大統領をはじめ、あたかも正義の戦争がありえるかのように、こっそりとどこかで合意したらしいメジャーなメディア=アメリカをはじめ多く国のテレビ、新聞などのマスコミの宣伝=プロパガンダを痛烈に批判し続けた発言の記録です。 読書案内しているぼくは、実は、高校一年生諸君がこの本を読んでもよくわからないだろうという事を知っています。ぼく自身だってよくわかっているわけではありません。 しかし、それでも案内しようと思うのは、世界のあらゆるところで起きている様々な悲惨や不誠実を「彼らの世界のことだ!」 として高みの見物で済ますのではなく、「我々自身の世界で起きている!」 という視点で見ようとする意識のない学問は結局ニセモノじゃないかと考えていることと、「彼らの世界のこと」すら知らない諸君の世界は、単なる自己満足を充足させるだけの、狭く貧しい世界であるかもしれないと考えるからです。 諸君がいつでもポケットに忍ばせている携帯電話や、そこから繋がるネットの世界はあらゆる情報を提示しているように錯覚させていますが、自己満足と他者喪失の集団が「イイネ・イイネ」と連呼している不気味な誉め合いと人気投票の結果に満足を求める危険な全体主義の世界にすぎないかもしれないのです。読んでわからなくても、わかるために新たに読むことを始めること促す「誠実さ」と出会うことから読書は始まるのではないでしょうか。一冊もなかったサイードを図書館に並べようと思っています。で、まあ、乞う、ご一読というわけです。(S)追記2020・02・08〇文中の写真はサイードとバレンボイム。(ウキペディアに掲載されていたコピーです)〇サイードの書籍を揃えて配架していたのを見た親しい同僚が、「誰か読みますかねえ?」と笑ったのが懐かしいですが、あれから5年以上たちますが、うっすらと埃を被ったサイードや丸山眞男は、今でも静かに座っているのでしょうね。追記2025・06・14 今、パレスチナでは、何の罪もない子供や市民がイスラエルの空爆のせいで、何万人も亡くなって、いや、殺されています。サイードが生きていたら、なんというだろう。そんな思いもあって、もう一度、少しずつでいいから、パレスチナの事を訴えかけられたいいなとブログを整理しています。 ボタン押してね!ボタン押してね!【中古】 知識人とは何か 平凡社ライブラリー236/エドワード・W.サイード(著者),大橋洋一(訳者)
2020.02.08
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ナディーン・ラバキ―「存在のない子供たち」パルシネマ 2019年の秋にシネリーブルで公開されていた映画でした。予告編も繰り返し見ました。「見よう」という決心の踏ん切りがつきませんでした。2020年になって、パルシネマが「風をつかまえた少年」との二本立てで公開しました。二本ともが、封切りで躊躇した映画でした。「そりゃあ、見とかんとあかんわよ。私は見ないけど。予告編で無理。」「そうですね、じゃあ、見てきて喋らしてもらおか。」「ハイハイ。聞いたげるよ。」 というわけで、月曜日のパルシネマでした。二本目の「風をつかまえた少年」から着席しました。「あの、子役の子、すごい目えしとったねえ。どうやって見つけたんやろ。」「ほんまやなあ。人買いって、まだあるんやねえ。」 今見た映画に浸ってはるおばちゃんたちが元気にしゃべっていらっしゃいましたが、意に介さず。とりあえずコーヒーを一杯飲んで、来る途中で見つけた100円のカレーパンで腹ごしらえです。一本観終わって、外に出て一服。さあいよいよ「存在のない子供たち」です。 男の子が医者の診察を受けています。医者が驚いた様子で叫びます。「乳歯がない。」 裁判のシーンが映し出され少年が両親を訴えています。「ぼくをこの世に産み落とした罪で。」 次のシーンでカメラは空から街を映します。スラム街です。屋根が飛ばないようにタイヤが置かれているようで、それが上から見下ろした街の不思議な模様に見えます。動くものがが映し出されて、子供が銃撃戦ごっこをしているようです。ひとりの少年が木で作った自動小銃のおもちゃをもって路地を走っています。この映画の主人公、ゼイン君でした。裁判所で両親を訴えていた少年です。映画が始まりました。 彼は初潮の出血を経験したばかりの11歳の妹を、無理やり妻として娶り、妊娠させて「殺した」家主の男を刺した罪で少年刑務所に服役中です。 映画は路地を走っていた少年が裁判所で両親を訴えるまでの数か月の生活を映し出した作品でした。 ゼイン君は、初潮と同時に娘を売り払って口減らしをした両親と争い、家を飛び出しバスに乗ります。観覧車がまわる遊園地のある大きな町で身分証を持たない、エチオピアからの不法移民の黒人女性ラウルとその子供ヨナス君と出合います。ゼイン君が歩き始めたばかりのヨナス君の世話をして、母親のラウルが働きに行く、極貧ながら、ちょっと平和な生活が始まったと思ったのもつかの間でした。 不法就労でラウルが捕まってしまいます。何日も行方が分からないラウルを待ちながら、二人の生活は極まっていきます。「ここ」に居続けることに絶望したゼイン君は金を稼いで「ここ」から出て行こうと決心します。 カツアゲしたスケート・ボードに大鍋を乗せ、ヨナス君を座らせてロープで引っ張る「子連れ少年」の出来上がりです。回りに吊るしている小鍋はもちろん売り物です。 映画は全体的な構成の意図をはっきり感じさせる以外はドキュメンタリータッチで撮られています。二人の姿を追いかけて、後ろから青空を背景に映し出したところからゼイン君がヨナス君を捨てようとするシーンまで、「哀切」極まりない少年とやっと歩き始めた小さな子供の交歓は、演技のかけらも感じさせないドキュメンタリー、現実そのもの、生きている人間をそのまま映し出している素晴らしいシーンの連続です。 しかし、やがて、大家によって住まいから締め出され、隠していた脱出資金までも失ったゼイン君は万策尽きてしまいます。ついに彼はヨナス君を「人買い」に差し出し、「ここ」から出ていく金を手にします。これで出国に必要なのは「身分証明書」だけです。 しかし、「身分証明書」を求めて、久しぶりに帰宅したゼイン君が知るのは「出生証明書」さえない自分の境遇と妹の死でした。目の前の包丁を握り締め、階段を駆け下りていく少年を止める事が出来る「人」はいるのでしょうか? 映画の中でゼイン君は一度だけ笑います。モチロン、カメラマンに指示された作り笑いですが、その笑顔と引き換えに彼は「存在」の証明書を手に入れるはずです。 この映画の原題は「Capharnaum」、「混沌」とか「修羅場」という意味だそうです。邦題は「存在のない子供たち」でした。中々、センスがいい邦題だとも言えるかもしれません。見ている人は、ぼくも含めて最後のシーンに「オチ」を感じて納得するように題されているからです。でも、それは少し違うのではないでしょうか。 監督はキャスティングから、映画と同じ境遇の人たちから選んだそうです。映画に登場する人たちは、主人公も、ヨナス君も、ラウルさんも、ゼイン君の家族たちも、皆さん「存在のない」人たちばかりでした。 ひょっとしたら、彼らは実生活でもそうなのかもしれません。映像も徹底的なドキュメンタリー・タッチを貫いています。子役たちは表情の演技なんかしていたのでしょうか。「人買い」がどこかの金持ちのために横行している現実で子供たちは生きているのではないでしょうか。 「存在証明書」を手に入れる少年の笑顔に、ホッとして涙をこらえる事が出来ませんでした。しかし、本当に忘れてはいけないことはゼイン君もヨナス君も確かに「存在」しているということだったのです。「どうやった?」「うん、ヤッパリ、いつか見た方がええと思う。あんな、周りの人、子役がすごいとか感心してはってん。おカーちゃんのおっぱい探す子が、演技なんかするかいな。あれ見たら、アンタ確実に怒り狂って泣き出すと思うわ。「家族を想うとき」どころちやうで。」「やろ。そやから見いひんねんて。」監督・脚本・出演:ナディーン・ラバキ―Nadine Labaki製作 ミヒェル・メルクト ハーレド・ムザンナル 脚本 ナディーン・ラバキー ジハード・ホジェイリ ミシェル・ケサルワニ ジョルジュ・ハッバス ハーレド・ムザンナル撮影 クリストファー・アウン 編集 コンスタンティン・ボック 音楽 ハーレド・ムザンナルキャスト ゼイン・アル・ラフィーア(ゼイン:存在のない子供その1) ラヒル ヨルダノス・シフェラウ(ラヒル:存在のない大人その1) ボルワティフ・トレジャー・バンコレ(ヨナス:存在のない子供その2・ラヒルの子供) カウサル・アル・ハッダード(スアード:存在のない大人その2・ゼインの母) ファーディー・カーメル・ユーセフ(セリーム:存在のない大人その3・ゼインの父) シドラ・イザーム(サハル:存在のない子供その3・ゼインの妹) アラーア・シュシュニーヤ(アスプロ:存在を作る男) ナディーン・ラバキー(ナディーン:弁護士)2018年125分レバノン原題「Capharnaum」アラビア語でナフーム村。フランス語では新約聖書のエピソードから転じて、混沌・修羅場の意味合いで使われる。2020・02・03パルシネマ新公園ボタン押してね!
2020.02.07
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小梅けいと「戦争は女の顔をしていない」(KADOKAWA) 2020年のお正月がすんで、節分が終わった次の日、立春ですかね。ヤサイクンがいつものようにマンガ便を運んできました。「あれ、これって評判やん。」「やろ。」「エー、ドウナンこれ、マンガにするの?なんか違うんちゃうの?」「でも、みんなマンガでしか読めへんで。一人でも読む人増えたらええんちゃうの。まじめなマンガやろ。」「真面目やで。」「あんたでもこんなん読むの?」「原作も読んだことあるで。もう、だいぶん前やろ。」「エー?ヤサイクン、ノーベル賞とか読むの?」「エッ?どういう意味?」 まあ、親子の会話としても、老人と若者の会話としても、親であり、年長の側の、えらい失礼な言い草がありますが、ビルドゥングス・ロマン大好きな、永遠の少年ヤサイクンが、評判の社会派マンガ、「戦争は女の顔をしていない」(KADOKAWA)を運んできました。 原作はスヴェトラーナ・アレクシエーヴィチという「チェルノブイリの祈り」(岩波現代文庫)で世界中から注目され、2015年、ノーベル文学賞を受賞した、ベラルーシという国の女性のジャーナリストです。 「チェルノブイリの祈り」という作品も、聞き書きのスタイルで、放射能に汚染されていく社会で生きている人たちの姿を、一人一人浮き彫りにする作品でしたが、「戦争は女の顔をしていない」(岩波現代文庫)は、彼女のデビュー作です。 「大祖国戦争」、ソビエト連邦では第二次世界大戦のヨーロッパ東部戦線での戦いをこう呼んだそうですが、プロレタリア独裁国家の存亡をかけて、文字通り国家総動員の戦いで、何十万人もの女性が兵士になって従軍した戦争だったそうです。 しかし、命永らえて帰国、帰郷した女性兵士たちは、女性であるからこその戦場体験の悲惨も戦後の生活の苦闘も、30年間、誰にも語ることができませんでした。 原著者のアレクシエーヴィチは、動乱のソビエト社会を生き抜いてきた何百人もの元女性兵士をインタビューし「戦争は女の顔をしていない」(初訳三浦みどり 群像社)として1985年に出版しました。日本に紹介されたのは2008年、三浦みどりという方との翻訳ですが、翻訳者の彼女はすでに亡くなっているようです。 さて、漫画版「戦争は女の顔をしていない」ですね。原作に忠実なマンガ化のようですが、第1巻は七章からできています。で、そこに登場するのは洗濯兵、軍医、狙撃兵、衛生指導員、高射砲兵、斥候兵、一等飛行兵、鉄道機関士、射撃兵というふうに、歩兵以外の戦闘要員、輜重、衛生などの、あらゆる実戦部隊を経験した人たちです。 歩兵師団長を助けようとした狙撃兵マーシェンカ・アルヒモアが、砲撃で両足を失うシーンです。「私を撃ち殺してくれ。」 それが彼女の叫びでした。 戦後三十年、足を失った障害者として療養所を転々とし、母に会うことを怖れて隠れて暮らしていた娘と母の再会のシーンです。「今はもう会うのが怖くないわ。もう歳とってしまったから。」 出征前に母が期待した「女」の人生を失った、マーシェンカの30年ぶりの帰郷でした。「読んだん?」「ああ、原作の力かなあ、でも、漫画家さんも、よう頑張ってはるんちゃうかなあ。やっぱ、原作さがさななあ。買ったはずやねんけど。」 「絵」も「物語」の運びも、けっして上手とは言えないマンガですが、第2巻以降もきっと読むと思いますよ。追記2022・08・16 「戦争と女の顔」というロシア映画を最近見ました。このマンガの原作の映画化でした。感想を書きあぐねていて、このマンガの案内を書いたことを思い出して、ちょっと修繕しました。 スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチが「戦争」と「女の顔」を対比させて題名にしたことの深さというか、大切さというかをうつうつと考えています。 どこの社会にも共通しているのかもしれませんが、兵士というのは死んでしまえば「神格化」して持ち上げますね。靖国がどうたら、お国のためがどうたら、行ったこともない戦場を、晴舞台でもあったかのように持ち上げる人もいます。 しかし、捕虜になったり大けがをしたりした結果の復員は、家族や肉親はともかく、社会的には歓迎されたということをあまり聞きません。まして女性は、という問題を原作は鋭く提起していて、映画は底をクローズアップしていました。 戦場での男性兵士の性欲の解消を、慰安と呼んで誤魔化したり正当化したりしている世相がありますが、いい加減にしていただきたいですね。戦争だからという状況が、そういう性的虐待を肯定する条件にはならないと思うんですがねえ。まあ、そんな感じで、とても映画の感想実はいけませんね(笑) ボタン押してね!ボタン押してね!【中古】チェルノブイリの祈り 未来の物語 /岩波書店/スヴェトラ-ナ・アレクシエ-ヴィチ (文庫)戦争は女の顔をしていない (岩波現代文庫) [ スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ ]
2020.02.06
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キウェテル・イジョフォー「風をつかまえた少年」パルシネマ 全く知りませんでしたが、有名な原作を俳優さんが作った映画なんですよね。お父さん役のキウェテル・イジョフォーが監督です。風車を作る少年もいいですね。中でもお母さんの姿と言葉に「いいなあ。」と思いました。 お話しは、結果的にはハッピーエンディングでしたが、決して「楽しい」映画ではありませんでした。 アフリカをはじめ、世界中にある貧困の姿をぼくたちはどれほど知っているのだろうと考えながら、この映画の少年と全く同じ時期から、場所は違いますが、アフガニスタンで井戸を掘り続けた末に、銃弾に倒れた医者中村哲のことを思い出しました。 インチキな政治や因習的な宗教、飢餓の村に必然のように起こる盗みや逃散、食料を求めるパニック、豪雨と干ばつの自然をきちんと描きながら、未来へ向かう「希望」を描こうとしている監督の真摯な態度を感じました。 アフリカの自然のありさまの遠くから映像として見ていても苛酷でやるせないシーンと、前を向こうとする少年と母親の美しい表情が印象的な映画でした。監督 キウェテル・イジョフォー Chiwetel Ejiofor製作 アンドレア・カルダーウッド ゲイル・イーガン 原作 ウィリアム・カムクワンバ ブライアン・ミーラー 脚本 キウェテル・イジョフォー 撮影 ディック・ポープ 美術 トゥレ・ペヤク 衣装 ビア・サルガド 編集 バレリオ・ボネッリ 音楽 アントニオ・ピント キャスト マックスウェル・シンバ(ウィリアム・カムクワンバ・少年) キウェテル・イジョフォー (トライウェル・カムクワンバ・少年の父) アイサ・マイガ (アグネス・カムクワンバ・少年の母) リリー・バンダ(アニー・カムクワンバ・少年の姉) 2018年113分イギリス・マラウイ合作 原題「The Boy Who Harnessed the Wind」 2020・02・03パルシネマno20ボタン押してね!
2020.02.05
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橋本治「草薙の剣」(新潮社) 2019年という年は、橋本治といい、加藤典洋といい、今の時代をまともに見据えていた大切な人を立て続けに失った年でした。少しづつでも遺品整理のように「案内」したい二人の文章はたくさんあります。 たとえば橋本治の小説群です。その出発からたどるなら「桃尻娘」(ポプラ文庫)、最後からさかのぼるなら「草薙の剣」(新潮社)ということになるのでしょう。 「草薙の剣」(新潮社)という橋本治が最後に残していった作品について、内田樹が「昭和供養」というエッセイで論じているのを追悼特集「橋本治」(文藝別冊)で読みました。 内田樹は橋本治のこんな文章を引いています。 時代というものを作る膨大な数の「普通の人」は、みんな「事件の外にいる人」でたとえ戦争の中にいても、身内が戦死したり空襲で家を焼かれたり死んだりした「被害者」でなければ、「自分たちは戦争のの中にいた当事者だ」という意識は生まれにくいでしょう。だから日本人は、戦争が終わっても、戦争を進めた政治家や軍人を声高に非難しなかったのでしょう。ただ空襲のあとの廃墟に立って、流れる雲を眺めている―それが日本人の「現実」との関わり方なんでしょう。(橋本治「人のいる日本」を描きたかった「波」2018年4月号) この文章を読んで、橋本治の小説の登場人物たちが、「桃尻娘」の榊原玲奈ちゃんや醒井涼子さん、木川田源ちゃんから始まって、「草薙の剣」の6人の男性に至るまで、ここで橋本治がいう「普通の人」達であったことに思い当たります。 「草薙の剣」という作品で名前を与えられている登場人物は昭生(あきお)、豊生(とよお)、常生(つねお)、夢生(ゆめお)、凪生(なぎお)、凡生(なみお)の6人です。「桃尻娘」ではみんな高校生でしたが、この人物たちの年齢について、橋本治自身がこういっています。 二〇一四年に三十一歳になる酒鬼薔薇世代を軸にして、その年に六十一、五十一、四十一、二十一歳になる五人の人間を設定して、私の持っている一年刻みの年表に嵌め込んで、人間の造形をしました。「事件の外の人間」なので、それは当然「機械的に選ばれた任意の五人」でしかないわけですが、彼等の両親、あるいは祖父母がいつ生まれたのかという条件を同じ年表に嵌め込むと、日本人五人の興味深いプロトタイプが出来上がってしまいました。 そういう準備を終えて二〇一五年に書き始めようとしたら、中学生になったばかりの男の子が冬の河原で仲間に殺されるという事件が起こったので、一年明けて十二歳になる人間も必要だなというので、登場人物は六人になり、その時点でまだポケモンGOは存在していませんでした。(橋本治「人のいる日本」を描きたかった「波」2018年4月号) こうやって書き写しながら、作品を読んでいた時の動揺の理由を再確認しています。高度経済成長の昭和から平成にかけて、就職し結婚して、子どもを育て、定年を迎えたぼくは「昭生」そのものであり、二つの大震災を経験して大人になった「夢生」と「凪生」は私の子供たちそのものだったのです。 そして、読んでいた時と同じ疑問に突き当たります。ぼく自身や、ぼくの家族のような何の変哲もない「普通」の男たちを並べて見せたこの小説が何故面白いのだろう。ぼくをつかんで離さないどんな工夫がこの作品にはあるのだろう。そんな疑問ですね。 誰もが口にしそうな答えの一つは「時代」を書いているからだというものです。たしかに、時代という背景が浮かび上がってくる所に橋本治の作品の面白さの一つはあります。 しかし、何となく腑に落ちなかったのです。以前の「リヤ家の人々」にも共通する印象が説明できていないという感じでしょうか。ある種の「哀切」感に引っ張られるように読んでしまうのは何故なのでしょう? 過ぎ去った「時代」への懐かしさをくすぐるような、ちょっと楽しい「幸せ」な感じとは違います。終わってしまったどうしようもなさがもたらす「空虚」が、また別の顔をして、どうしようもなさだけが、同じように積み重なっていくのを見ている哀しさとでもいうべきでしょうか。 で、「昭和供養」に戻ります。さすがは内田樹ですね。スッパリと言い切っています。 橋本さんは自分のことを「普通の人」だと思っていた。普通の人の言葉づかいで「事件の外」の人生を描くことに徹底的にこだわった。けれども、それだと作品は恐ろしく退屈で無内容なものになりかねない。橋本さんが作家的天才性を発揮したのはこの点だったと思う。橋本さんはこの放っておくと一頁も読めば先を読む気を失うほどに「退屈で無内容な普通の人の独白」に読みだしたらやめられない独特のグルーヴ感を賦与したのである。(「昭和供養」文藝別冊「橋本治」) 普通の人はただ大勢に無抵抗に流されるしかない。ただし、橋本さんはこの「流される速度」に少しだけ手を加えた。加速したのである。数行のうちに一年がたち、頁をめくると十年がたっている。(「昭和供養」文藝別冊「橋本治」) 「普通の人」の人生を領する散文的で非絵画的な出来事を高速度で展開することによって、橋本さんは「普通の人の人生」を絢爛たるページェントに仕立てて見せた。空語と定型句を素材にしてカラフルな物語の伽藍を構築して見せた。(「昭和供養」文藝別冊「橋本治」) 「流される速度」があっという間に加速され、「空語と定型句」で「無内容な」ことばをはき続けている「普通の人」の姿が鏡に映っています。ぼくが感じた「哀しさ」の理由は、多分ここにあるのでしょうね。 橋本治の恐ろしさはそれを描いて、その当人に面白く読ませるところなのでしょう。本人がどう思っていたかは、あるいは定義としてはともかく、「普通の人」のなせることではありません。スゴイんです、やっぱり。 定年をむかえて5年たった「普通の人」は、丘の上から青い海を望み、冬の雲を見あげながら、時折飛んでくる飛行機を心待ちにして一服するのです。もちろん時間は後ろのほうから流れてきます。追記2022・02・02 1月29日の「モモンガ―忌」から、橋本治について案内した投稿を整理し直して再投稿しています。世間には、彼の作品を全作読み通そうとなさっている方とかもいらっしゃることがわかったりして、ちょっと嬉しくなりました。 難しいことはともかく、若いころに「ああ、面白い」と思った詩人や作家、哲学者で、亡くなるまで面白かったという、いや、ついていけないほどあれこれ仕事をされて、でも、何とかついていこう、読み続けて最期を見届けてやろうと思わせつづけてくれた人が、ぼくには何人かいらっしゃいます。 吉本隆明、鶴見俊輔、石牟礼道子、先年亡くなった古井由吉や加藤典洋、その作品と出会って夢中になっている最中に世を去った中上健次や石原吉郎、といった人たちで、たいてい年上です。ご存命の方の名前はあげません。 橋本治はぼくにとってはそういう人の一人だったのですが、もう少し生きていて、驚かせてほしかったということをつくづくと思います。彼も年上の人でしたが、リアルな同時代の人でもあったわけで、彼の仕事に対する驚きは叱咤激励のようなところがあって、他の団塊世代の人に対してとは少し違っていたからです。 だからどうだといわれそうですが、まあ、そういうふうに読んだ人というのは彼ひとりかもしれません。そこが彼のすごさだとぼくは思っています。ボタン押してね!ボタン押してね!橋本治 橋本治とは何だったのか? (文藝別冊) [ 橋本 治 ]
2020.02.04
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テリー・ギリアム「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」シネリーブル神戸 セルバンテスの「ドン・キホーテ」がネタ、というか原作の映画なのだから、ただでは済まないにちがいない。なにしろテリー・ギリアム監督、構想30年の映画化なのだということだし。 そういう期待でやって来たシネ・リーブルでした。「風車に向かって突進する」おなじみのシーンで映画が始まりました。 映画の映画、物語の物語、おそらく、そうなるしかないだろうと予測した展開なのですが、そこから、映画の映画の映画を、メタ・メタ・フィクションとしてどう展開していくのだろうと、映像にくぎ付けではあったのですが、「スター・ウォーズ」と昨年の「ブラック・クランスマン」で顔を知っていたアダム・ドライバーがCM映画の監督からサンチョ・パンサになったあたりでは、「なんぼなんでも、それは!?」と、ちょっと引いてしまいました。 やがて、村の娘で且つロシアの富豪の情婦とのラブストーリー。さあ、これで、いよいよまとめに入るのかと油断したのですが、さすがにそうは問屋は降ろさないわけで、とどのつまり、原作「ドン・キホーテ」のように、我に返った靴屋のおやじは昇天し、振り出しに戻ったと思わせて、最後のドタバタシーン。 なかな可愛らしいサンチョとドン・キホーテの旅が再び始まって幕ということでした。「なるほど、そう来ますか。」 何しろ、ネタが「ドン・キホーテ」なので、なんとなく予想していた幕切れだったのですがアダム・ドライバー君で「ラ・マンチャの男」は、ますます似合わないなあと思っってしまいました。 納得がいったような、いかなかったような。お色気のお笑いとスペインの風景で十分元は取ったようなものだったのですが、この手のメタ、メタ映画というのはどこかで気持ちが引いてしまうと、バカバカしいだけというか、手の内が見えてしまうという感じがするものだと思うのですが、そういう感じが残りました。 あの「モンティ・パイソン」の監督も79歳になって、30年がかりの企画をついに映画にして見せたわけです。その執念というか、「ドン・キホーテ」という原作の力には拍手ですね。随所に懐かしい型の「笑い」と「お色気」、「瞑想」を誘うような美しい風景が散りばめられていて、どこか懐かしい映画でした。でも、この「なつかしさ」は少し残念でした。 「Lost in La Mancha」というドキュメンタリーがあるそうですが、見てみたいですね。オーソン・ウェルズも映画化を企画したらしいのですが、それもうまくいかなかったそうです。この、スペインの「国民文学(?)」は映画との相性が悪いのでしょうか? 監督 テリー・ギリアム Terry Gilliam 製作 マリエラ・ベスイェフシ ヘラルド・エレーロ エイミー・ギリアム グレゴワール・メラン セバスチャン・デロワ 製作総指揮 アレッサンドラ・ロ・サビオ ジョルジャ・ロ・サビオ ジェレミー・トーマス ピーター・ワトソン ハビエル・ロペス・ブランコ フ ランソワ・トゥウェード 脚本 テリー・ギリアム トニー・グリゾーニ 撮影 ニコラ・ペコリーニ 美術 ベンジャミン・フェルナンデス 衣装 レナ・モッスム 編集 レスリー・ウォーカー テレサ・フォント 音楽 ロケ・バニョスキャスト アダム・ドライバー(トビー:CM映画監督) ジョナサン・プライス(ハビエル:ドン・キホーテ:靴屋) ジョアナ・リベイロ(アンジェリカ村の娘)2018年133分スペイン・ベルギー・フランス・イギリス・ポルトガル合作原題「The Man Who Killed Don Quixote」2020・01・31シネリーブル神戸no42追記2020・02・02セルバンテスの小説の「ドン・キホーテ」(岩波文庫)をこの映画を見た機会に見直しました。その感想はこちら。アダム・ドライバーの出ている映画「ブラック・クランズマン」の感想はこちらから。にほんブログ村【中古】 モンティ・パイソン・アンド・ホーリーグレイル デラックス・コレクターズ・エディション /グレアム・チャップマン,ジョン・クリーズ,テリー・ギリアム(監督)
2020.02.03
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セルバンテス「ドン・キホーテ(全6巻)」牛島信明訳(岩波文庫) 「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」という映画の感想を書いていて、こっちが長くなったので別のタイトルになりました。 セルバンテスの「ドン・キホーテ」が出版されたのは1605年なんだそうですね。それは徳川幕府の始まりとか、イギリスのエリザベス一世とかいう時代でそのす。だから、このお話は1700年代の中ごろに生まれた「忠臣蔵」より古いんです。 なんでこんなことをいっているかというと、たとえば竹田出雲の浄瑠璃「仮名手本忠臣蔵」が始まりだと思いますが、その「忠臣蔵」であれば、戦後だけでも映画化された回数は数えきれないですよね。最近も、見ていませんが「決算忠臣蔵」というタイトルの映画もありました。 一方、エリザベス朝といえばシェークスピアですが、ナショナルシアターライブを続けて見ていると、イギリスの現代の演劇シーンのメインにはシェイクスピア劇がデンとすわっているんだなと感じます。 じゃあ、「ドン・キホーテ」はどうなんだろうっていうのが気になるわけです。 日本語への翻訳はたくさんあります。新訳も出続けています。児童文学の全集には、多分、必ず(?)ライン・アップされています。 で、愛馬がロシナンテで、相方がサンチョ・パンサで、ドルシネア姫がヒロインだとか、風車とたたかうとか、誰でも知って(そうでもないか?)いそうですが、最後まで読んだ人はなかなか居そうにありませんね。理由は簡単です。長くて、退屈なんです。 今、「ドン・キホーテ」を読むなら、牛島信明訳の岩波文庫版が、一番お手軽だと思いますが、全6巻のお話ですね。 上に載せたのが、牛島訳岩波文庫の第1巻の表紙ですが、下に載せるのが第1巻から第6巻の表紙の挿絵ですが、本文の中でつけらているキャプションもつけてみますね。前編第1巻「ねえ、遍歴の騎士の旦那様、どうかわすれねえでくだせえよ・・・」(これは有名なシーンですね。サンチョが、ちょっとアブナイじーさんの家来になるんですが、一緒におバカをやるのは取引の結果なんですね。で、こういう出で立ちになるわけです。) 前編第2巻「一頭の騾馬が死んで横たわっているのを見つけた」 (絵がシュールなのですよね。)前編第3巻「ふつふつと煮えたぎる瀝青の大湖が現出したかとおもうと・・・・」 後編第1巻「もうこのときにはドン・キホーテもサンチョのかたわらでひざまづき・・・・」(ゴヤを思い出しますね。)後編第2巻「奥から巨大な烏や深山鳥が、群れをなしてどっと飛び出してきたので・・・」 これって、後編第1巻の場面なんですがなぜか第2巻の表紙に使われています。後編第3巻(申しわけないのですが、後編第3巻が見つからないので、写真だけね。キャプションは見つかり次第ということで、略します) 挿絵は楽しいんです。でも、どなたか最後まで読んでカンドーしたって方はいらっしゃいますか?きっと投げ出した人の方が多いでしょうね。もしも、読み終えた方がいらっしゃるとすれば、読み終えたということに感動なさると思うのですが(ぼくはそうでした。まあ、そうはいっても、最後の遺言は、いろんな意味で感動的なんですが。) にもかかわらず、「ドン・キホーテ」が新たに訳され出版されつづけています。ロマンス語系の文学研究者の方たちの心を揺さぶり続けているのは何故でしょう。 全くの私見ですが、理由の一つは、この小説が、「小説の小説」、メタ小説の始まりだからでしょうね。ドン・キホーテは誰かの書いた「騎士物語」を生きながら、そのうち、別の誰かの書いた「偽のドン・キホーテ」と闘うという、実に、夢だか現実だかわからない人物なのです。 数年前に、「一緒に読めば読めるでしょう。」と、知り合いを誘って読み始めました(もちろん日本語訳ですよ)が、前篇を超える頃から非難の声が上がり始め、脱落者が相次ぐという結果になりました。というわけで、無理には薦めませんが、読んでみると案外かもしれませんよ。 今回、ぼくは、日本語訳はともかく、ヨーロッパでの「ドン・キホーテ」に興味があったのですがよくわかりませんでしたね。例えば映画にしても、芝居にしても、日本の「忠臣蔵」のようなところがあるのかどうかも。ただ、多分、誰でもが知っている「物語」であることは、間違いなさそうですね。 というわけで、「テリー・ギリアムのドン・キホーテ」の感想に進みたいと思います。(タイトルをクリックしてみてください。)ボタン押してね!にほんブログ村ドン・キホーテ新版 (岩波少年文庫) [ ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ ]
2020.02.02
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2020年2月1日「ああ、鳥谷!引退か!?」 2020年のプロ野球のキャンプ・シーズンが始まりました。なんといってもこの日が開幕(!?)ですよね。でもね、どこのチームのグラウンドにもあの人がいませんね。どういう経緯かはよく知りませんが・・・・・。 掛布の引退とか、バースの帰国とか、言い始めると、本当は、トレードの話なんかしだすと、もっともっとあるんですよ寂しい思い出が、このチームには。 まあ、腹を立てるのはやめて「タイガースやもんなあ」と、ちょっとムシャクシャしながら次のシーズンが始まるんです、いつも。50年もファンやってると、「いつも」って思うんです。 今では、もう、古い話というか、記録ですけれど、2018年のシーズンに京セラドームで観戦したときに打席の鳥谷を撮ったのが、ぼくのなかでは、写真で撮れている最後の雄姿ですね。セカンドゴロだったんですけどね。その時のブログの記事が残っていたのでここに載せます。 二年越し、ついにホームで観戦、初勝利! シマクマ君が甲子園とかに出かけて行くと負ける!雨が降る!ろくなことがありません。「ああ、今日はどーなるんや?」 昨日の奇跡が、吉と出るのか凶とでるのか。 1回から5回まで、これでもか、これでもかと、ただ、ただ、もうやられてしまうだろう、ひどいことになるだろうと、うなだれるか、ため息をつくか、「今日もひっくり返して、目にもの見せたるんじゃ」と力のない負け惜しみをいう準備をしていた人は、ぼく以外にもたくさんいたに違いありません。 な、なんと、そこに、ハズレのロザリオ、アホボンの中谷のありえへんコンビの連続長打です。一気に盛り上がるボルテージ。 「ええなあ、ええなあ、勝ってる試合はええなあ。外野フェンスに当たるボールがドッチボールみたいに大きいに見えるなあ。」 みんな、へったクソのヤクルト打線のおかげかもしれんけどね、ええねんええねん、勝ったらええねん。「おー、これやこれや、これをまっとたんやど!鳥谷!ここでもう一発、いてもたれ!!」 というシーンだったわけで、で、結果は3-1の大勝利(笑)でした。 「やっぱり、野球は勝たなあきまヘンなあ。」 まあ、鳥谷はセカンドゴロやったけど。負けとったら、こんなんいわれへしな。(2018/08/06) というわけで、まあ、このシーズンで金本監督はやめちゃうし、いい思い出とも言えないんですが、キャンプに「あの選手」がいないことがさみしかった、2020年2月1日の、今日の記念にというわけで、ひとりごとです。追記2021・11・17 なんだか、気味の悪い夢を見た目覚めの悪い朝みたいに、シーズンが終わりました。スアレス君も梅野君もいない2022年の2月1日を想像すると絶句しますが、中谷君や俊介君のように、高山君も江越君も消えるのでしょうか?まあ、プロなので、その時に出来なければ、失格なのはわかりますが、なんとなくご都合主義を感じさせる采配には、何だか疲れましたね。 「ホント、何がしたいチームなのでしょうね。」ボタン押してね!
2020.02.01
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2018年 阪神対ロッテ 三回戦 甲子園野球場 雨天中止 トラキチの「まことちゃん」から電話がかかってきた。「今日、甲子園に行くぞ。あんたもいくやろ。」 「はい、はい。」 「雨天変更の試合やからな。エエ席あんねん。ネット裏や。」「えーっ?そうなん。今日は試合すんの。何時にどこ行ったらええん。」 「球場の前の高速道路の下に5時半や。ええやろ。」 「雨降っとったらどうするの。」 「高速道路の下やから濡れへんやろ。」 「ああ、なるほどな。」 ・・・・・・・・・・・・・・ 「先発は小野か。今年も勝ち運ナイなあ。」 「福留の名前ないで。」 「あいつも、もう年やからな。休ませたらんと持たんのちゃうか。」 「おにぎり喰うか?」 「ありがとう。すませてきた。ばんめし。」ホントはここに写真があるはず。「雨天中止」と大きく掲示されていた。 「あっ、あたらしいに電光掲示ついたで、メンバー表の横や。本日雨天のため中止やて。」 「わしな、今年、甲子園4連勝やねんで、あんたのツキ変えたろ思てさそったったんやけど。あんた負けっぱなしやろ、甲子園。負けへんかったけど中止かいな。しゃあないな。ホナ、いのか。」 「ボクが来てるから、試合やったら負けるってか。ほんで中止かいな。待ってえな、まだ、最初のビール済んでへんがな。」※グランドには選手も審判も出てこないという超豪華なヒマつぶし観戦?をした甲子園名物「銀傘」の下だった。銀傘の屋上は、太陽光発電パネルって知らんかったわ。すごいんやなあ。2018/06/12追記2020・02・01 以前のブログが閉鎖されて、写真がなくなってしまいました。こちらに移しましたが、中途半端で申し訳ありません。 2020年シーズンも今日からキャンプ・インですね。キャンプ・インの当日に「雨天中止」の記事載せてどうするねん!と自分でも思いますが、僕のなかでは「鳥谷」君の去就が聞こえてこないのが、ちょっと引っかかっているのですね。 何はともあれ、さて、今年はどうなることやら…?ボタン押してね!20%OFF 阪神タイガース 2020年 カレンダー CL-591
2020.02.01
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