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「100days100bookcovers no36」(36日目) 水原紫苑「桜は本当に美しいのか」(平凡社新書)あだなりと名にこそたてれ桜花年にまれなる人も待ちけり 謡曲の「井筒」で紀有常女が謡う(これでいいのかな?)和歌はこんな短歌でしたね。「古今和歌集」巻1、春の部に 「さくらの花のさかりに、ひさしくとはざりける人のきたりける時によみける」と詞書があって「読み人知らず」として載っていて、これに対する返歌が下の和歌です。けふ来ずはあすは雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや 面白いことに、こっちには在原業平という読み手の名前が出てきます。「伊勢物語」の十七段に、二つの和歌の「詞書」も、まんま出ていますから、そっちが先でしょうか。 謡曲の「井筒」というのは世阿弥の作ですね。そもそも、「伊勢物語」ネタで、二十三段「筒井筒」に登場した少女が思い出に浸るとでもいう「物語」だったと思いますが、世阿弥の天才は、待ち続ける、こういうお面をつけた女性が「井筒」を覗くところにあると思うのですね。 「井筒」というのは井戸のことですが、その井戸をのぞきこむと、まあ、そこに何が映るかというところに「ドラマ」があるわけです。 なんていうふうに書くと、シマクマ君は「お能」について知っているに違いないと「生徒さん」達は騙され続けた30数年だったわけ(笑)ですが、実は、ぼくは「お能」なんて100%知りません。どこかの神社の能舞台で現代演劇をやっているのを見たことはありますが、「お能」体験は皆無です。 というわけで、DEGUTIさんの紹介を読んで、ただ、ひたすら「どうしようかな?」 だったのです。 白洲正子は食わず嫌いやし、松岡心平はちゃんと読んでないし、そういえば観世寿夫に「世阿弥がどうたら」というのがあったけど、ああ、多田富雄の「免疫の意味論」はどこにあったっけ。まあ、「お能」がらみのなけなしの知識の周辺を、そういう調子でウロウロしていたんです。 でも、まあ、偶然というのはあるものなのですね。最初に書いた「あだなり」 の和歌が、コロナ騒ぎのステイホームで読んでいた一冊にジャストミートしていたのです。「井筒」と聞いて、そこだけ、なんか知ってるぞと思いだしたのがこの本です。 水原紫苑「桜は本当に美しいのか」(平凡社新書)うすべにの けだものなりし いにしへの さくらおもへば なみだしながる なんていう現代短歌の歌人で、三島由紀夫に見出されたということが妙に有名な春日井健という歌人のお弟子さんです。 登場以来、若い若いと思っていたら、今や還暦だそうで、新古典派の、何といっても名前がいい、水原紫苑の「桜論」です。 「古今和歌集」から現代の「歌謡曲」まで、「桜」の毀誉褒貶を、まさに縦横無尽に論じている評論ですが、メインは「梅」から「桜」へと移り変わる「平安王朝400年」の時代と歌人の「詩意識」の変遷を100首以上の和歌に注釈を施しながら、紀貫之の「古今和歌集」から、「新古今和歌集」の西行、定家へと辿る前半150ページでした。 後半は、能から、江戸文芸を経て、近代文学の「桜」を話題にしています。たとえば、本居宣長にこんな和歌がありますね。しき嶋のやまとこころを人とはは、朝日ににほふ山さくら花 彼女に言わせればこうなります。「ここには『枕の山』のような無邪気さが無い。これ見よがしな、いやなうたである。」 と、まあ、きっぱりと切って捨て、こう言い加えます。「まして、宣長のあずかり知らぬこととはいえ、太平洋戦争末期の1944年10月、最初の特攻隊が、この歌から「敷島隊」、「朝日隊」、「山桜隊」と命名されことを思うと、やり場のない憤怒を一体どうしたらいいのだろう。」 ぼくは、彼女の歌には当然漂っているわけですが、このナイーブな言い切りの、気っぷのよさのようなものが好きなのですが、現代口語短歌に対する評価も、シャープだと思います。さくらさくらさくら咲き始め咲き終わりなにもなかったような公園 俵万智 例えば俵万智のこの歌についても、こんなふうにいっています。「文体こそ口語だが、内容は王朝和歌そのままで、桜の加齢と空虚を簡潔に言い当てている。」「俵万智については、只者ではない実力はわかったが、基本的に健康な世界観が、死や破滅が大好きだった私とはあわなかった。」「キバ」「キバ」とふたり八重歯をむき出せば花降りかかる髪に背中に 穂村弘 人気の現代歌人、穂村弘のこの歌に対してはこうです。「もうすぐ私たちは死んでしまうのに、こんな子供みたいなことを言ってどうするのだろう、と思った。」 ね、この視点です、ぼくが好きなのは。もっとも、この疑問に穂村弘はこう答えたそうです。「僕たちは死なないかもしれないじゃないか。」 まあ、この返事をする穂村弘も好きなのですよね。というわけで、今回も「ネタ本」系なのですが、最近の読書報告ということでバトンを引き継ぎます。YMAMOTOさんよろしくね。(Simakuma・2020・08・17)追記2024・02・02 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.11.30
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内山節「戦争という仕事 内山節著作集14」(農文協) フェイス・ブックというSNS上で知り合った方が、「二十四節季の暦」の記事を投稿されていて、ぼく自身も、自宅の「某所」に下がっているカレンダーが、その暦だということもあり、うれしくなったのですが、ちょうど読んでいた内山節という哲学者の「戦争という仕事」というエッセイ集に「断片化」という題で二十四節季をめぐる話がジャストミートしました。 とりあえず、その記事を引用してみます。要点を整理すればいいようなものですが、内山節という人の書き方も知っていただきたいので、全文書き写します。「断片化」 いつの頃からか私のなかには、普通のカレンダーの暦と二十四節季の暦とが、二重に存在するようになった。それは、上野村で農業をすようになってからのことで、農事暦や村の暮らしの暦としては、二十四節季のほうが的を射ている。 たとえば二十四節季では、今年(2005年)は三月五日が「啓蟄(けいちつ)」。虫が冬眠からさめる日である。上野村では、ちょうど咲きはじめたフキノトウの花に蜂がやってくる頃で、私も近づいてきた春を感じながら、そろそろ春の農作業のことを考えはじめる。そして三月二十日は春分。私が土を耕しはじめる季節の到来である。今年は十月八日が寒露、二十三日が霜降である。この頃私は、秋野菜のの成長を見守りながら冬の備えを積み重ねる。こんなふうに、村で自然とともに暮らしていると、二十四節季のほうがなじむ。 ところがその私も、東京にいるときは、カレンダーの暦で暮らしている。仕事のスケジュールなどが、普通のカレンダーの暦でつくられているのだから、それに合わせる他ない。 このふたつの暦は、私にとってはずいぶん質が違っている。二十四節季から私が感じ取るものは、自然であり、季節、村での仕事や暮らし方、村の様子である。それは、あらかじめつくられている暦なのに、私の一年がつくりだした暦のような気さえする。それに対してカレンダーの暦はまるで私の上に君臨しているような感じで、たえず私を圧迫しつづける。 二十四節季には、暦とともに、つまり時間とともに生きているという充足感があるのに、カレンダーの暦にむかうと、消えていく時間、過ぎ去っていく時間ばかりが感じられて、時間自体のなかに充足感がなくなる。 労働は時間とともに展開する肉体的、精神的な活動である。たとえば、私たちは一日の八時間を労働として活動するように、労働には必ず時間が伴われている。ところがその時間の質はひとつではなく、労働とともに時間をつくりながら生きているという充足感に満ちた時間も、消えていく時間の速さに追い立てられるばかりの時間も現れてくる。 もちろんどんな暮らし方をしていても、人間が時間に追われることはあったに違いない。私の村の暮らしでも、近づいてくる夕暮れに追われながら、その日の畑仕事に精を出すことはしばしばである。だがそれでも、東京の時間=現代の時間とは何かが違う。村では、自分がつくりだした時間のなかに、忙しく作業をこなさなければいけないときが現れてくるのであって、人間の外に君臨する時間に支配され、管理されるわけではないのだから。 このようなことの背景には、結ばれていく時間と断片化していく時間との違いがあるような気がする。村の時間は、結ばれていく時間である。仕事の時間と暮らしの時間が結ばれ、それは自然の時間や村の一年の時間とも結ばれる。啓蟄になると、虫がでてきて、畑のときが近づき、人間たちの春の暮らしがが始まり、村は次第に春祭りへとむかっていくようである。この結ばれていく時間のなかに、みずからがつくりだしている「生」がある。 ところが、カレンダーや時計に管理された現代の時間には、このような結びつきが感じられない。仕事は仕事の時間に管理され、それだけで自己完結してしまう。つまり断片化しているのである。暮らしの時間はさらに断片化し、それぞれの個の時間として自己完結する傾向をみせている。自然の時間や地域の時間との結びつきも切断されていく。そして、断片化したそれぞれの時間を、カレンダーや時計の時間が管理する。 創造的とは、総合的ということとどこかで関係しているのだと思う。村では創造的な農業をやろうと思えば、自然のことも、村や暮らしのことも知らなければできないように、どんな仕事でもそれがさまざまな領域と結びついているとき、仕事の創造性も生まれる。 私たちは、結ばれていく時間を失ったとき、創造性も失ったのだと思う。断片化された時間から生まれてくるものは、時間の管理であり、それと同時に私たちは、時間をつくりながら生きているという充足感も喪失した。 そして、だから私たちの前には、豊かなのに豊かではないという現実がある。 (「戦争という仕事 著作集⒁」P274~P276) 内山節という哲学者は、新コロちゃん騒ぎでウロウロ徘徊することがはばかられるようになって、読み始めた人です。ちょこちょこと読んで、名前は知っていた人ではあるのですが、農文協という所から全部で15巻の著作集が出ていたので、読みでがあるかなという気がして、とりあえず、第14巻の「戦争という仕事」を借りてきました。 2004年から2005年にかけて、「信濃毎日新聞」に連載された「哲学の構想力―仕事をめぐって」という連載に、「戦争の世紀」、「世界の変わり目を感じる」という2本の原稿が追加されて、まとめられている1冊でした。 題名が気に入って、借りたのですが、「哲学の構想力」だったら後回しになっていたと思います。読み始めてみると、内容はかたい書名とは裏腹で、日々の暮らしのなかに話題を見つけたエッセイ集でした。 内山節は、著作集にまとめられた思索の過程を貫いて、「労働」、「仕事」、「働くこと」を考え続けている哲学者だと思います。 このエッセイでは人間に共通の営みである「働く」ということを考えはじめれば、「時間」ということを考えることは避けてはいられないし、そこで感じている「時間」のなかに、その時々の人間の生きている姿が映し出されているということが語られていると思いますが、ぼく自身、コンクリートの箱に住み、その、冷たい壁に、なぜ、二十四節季の暦をかけて、毎日読み返すのか、なぜ、SNSに投稿される「小雪」とかの記事に心惹かれるのか、少しわかったような気がしました。 読み終えて、ヤッパリ本を手に入れたくなったのですが、叱られそうなので躊躇していますが、どうなることやらという感じです。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.11.29
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北村薫「詩歌の待ち伏せ 下」(文藝春秋社) ミステリー作家、北村薫の「詩歌の待ち伏せ」(文藝春秋社)ですが、「上巻」を以前、案内しましたが、今回は「下巻」の案内です。 本書は文春文庫版で「詩歌の待ち伏せ(1・2・3)」となって、出ていましたが、最近、「詩歌の待ち伏せ(全1巻)」(ちくま文庫)といういで立ちで、「筑摩書房」が復刊しているようです。この文庫版は、「続」も収めているようで、お得ですね。 ぼくが手にしているのは、単行本の上・下巻ですので、それぞれの文庫版との所収内容の異同はよくわかりませんが、単行本の下巻の内容は、「オール読物」(文藝春秋社)という月刊誌の2001年9月号から、2003年の1月号に掲載された記事がまとめられているようです。 まず、いきなり読者の心をつかむのが、土井晩翠の長編詩「星落秋風五丈原」(「星落つ秋風五丈原」と読みますが、)の一節に対して、北村薫が、みずからの子供の頃の記憶をめぐって、繰り広げる「ことば」探偵ぶりです。 この詩の題名を見て「三国志」、諸葛孔明の最後だとピンとくる人は、よほど「三国志」のお好きな方でしょうね。ぼくよりお若い方で、ピンとくる人がいるとは、ちょっと想像できません。 とてつもなく長い詩なのですが、今回の話題のためには、第1章の第1連があれば十分ですのでここに載せてみます。星落秋風五丈原 土井晩翠祁山悲秋の風更けて陣雲暗し五丈原零露の文は繁くして草枯れ馬は肥ゆれども蜀軍の旗光無く鼓角の音も今しづか丞相病篤かりき 島崎藤村の「初恋」という詩がありますが、「まだあげ初めし前髪の」の、あの詩と同時代の作品ですが、まあ、対照的ですね。 で、この土井晩翠の詩を北村薫は小学生の頃に暗唱して覚えていて、その暗唱を思い出す機会があって、ふと、疑問に思う事柄に出会うのです。 ところで、この記事をお読みの皆さん、北村薫さんは、この第1連の詩句を正確に暗唱すればするほど、はてな?と思う1行があることに気付くのですが、それは何行目だったでしょう? 高校生や大学生の皆さんであれば「零露の文」とか、「鼓角の音」あたりに引っかかってしまうでしょうね。 たしかに、普通では出会わない漢語表現ですが、辞書を引けばわかります。前者は草露の様子で、「文」は文章の意味ではなけて、模様「あや」を意味しています。後者は軍を鼓舞する笛太鼓をあらわす言い回しです。「角」は角笛でしょうね。 問題の個所は、第1行「祁山悲秋の風更けて」なのです。この1行目の終わりの語句が「風吹きて」か、「夜更けて」の、誤植ではないかと考え始めたところから、「風更けて」という、言い回しの正否に対して北村探偵が活躍し始めます。 「『風更けて』か?そういえば、変だなあ。」 そう思わなくても文章は面白いのですが、そこは、やはり、なるほど変だと思った方が、ノリはいいわけです。かくいう、ぼくは、なんか、どこかにあったような、という、いつものボンヤリなのですが、もちろん、北村探偵の方は、きっちり仕事をなさっています。 ミステリーのネタバレは、御法度です。そうはいっても、これでは案内にならないので証拠品だけですが、ここに掲示します。さ筵や待つ夜の秋の風更けて月を片敷く宇治の端姫 新古今のあの歌人だったのですね、犯人は。 「風更けて」や「月を片敷く」というような表現は、当時、「達磨歌」と非難された新しい発想だったそうですが、やがて新風として「影ふけて」とか「音ふけて」という使い方に広がったということも捜査報告書に書かれているのですが、北村探偵は、そこからもう一歩踏み込み、鎌倉後期の歌人にまで捜査の手を広げたうえで、明治の詩人、土井晩翠の「言語感覚」に戻って筆を擱きます。 北村少年の「暗唱まちがい」という疑いは見事にはらされたわけです。 そのうえ、ボンクラな読者は、平安朝末期の「詩意識」の変化の現場を、実例付きで勉強できたという決着で、お見事としか言いようがありません。 付けたしのようになりますが、本書について、もう一つ、これは是非という文章があります。最終章に記された、病床の歌人中城ふみ子と編集者中井英夫との間で交わされた「最後」の手紙に関するエピソードです。衆視のなかはばかりもなく嗚咽して君の妻が不幸を見せびらかせり冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己の無惨を見むか 中条ふみ子の、この二つの短歌を上げた後、乳癌末期で死の床にある歌人と、東京の編集者との間で交わされた「愛の手紙」の謎についてです。 まあ、ここから先は、立ち読みででも結構です。本書を手に取っていただくほかはありませんね。 ところで、この「詩歌の待ち伏せ」(上・下巻)の装幀ですが、上巻が「青葉・若葉」、下巻が「紅葉・落葉」とシャレていて、本書中のイラストも面白いのですが、大久保明子さんのデザインで、イラストは群馬直美さんという方だそうです。こういう本は、手に取るだけでも楽しいですね。追記2020・11・29「詩歌の待ち伏せ(上)」の案内は書名をクリックしてください。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.11.28
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オム・ユナ「マルモイ」元町映画館 2020年の秋、だから今年の秋ですが、辞書を作る映画を2本みました。1本目は「博士と狂人」というイギリス映画で、オクスフォード英語辞典Oxford English Dictionary、通称OEDの誕生秘話とでもいう映画でした。 登場人物や、映画としての物語についてはここでは触れませんが、辞書を作っている人の「ことば」の集め方が、「失楽園」とか「聖書」とか、書物での使用法の引用をメインにしていたことが印象的な映画でした。 2本目がこの映画「マルモイ」でした。 チラシの副題には「ことばあつめ」と記されています。「マル」は朝鮮語で「言葉」、「モイ」は「集める」という意味だそうです。「言葉+集める」で、朝鮮語では「辞書」という意味になるそうですが、この映画は、文字通り半島全土で使用されている日常語を「集める」様子を描いた映画でした。 文盲で「置き引き」や「すり」を働いて二人の子どもを育てている、刑務所帰りのキム・パンスという男と、留学帰りで、朝鮮語学会を率いるエリート、リュ・ジョサンという、インテリ青年の出会いから映画は始まりました。 キム・パンスを演じる、ユ・ヘジンという役者さんが我が家では人気で、実は、この日も同伴鑑賞でしたが、期待にたがわぬ大活躍でした。 辞書を作ろうかという真面目な人たちや、なぜか、京城中学というエリート学校に通う中学生の息子や、小学校に上がる前のかわいくて利発な娘にかこまれて、「フーテンのトラ」の、渥美清もかくやという大活躍でした。 脚本の力でもあるのでしょうが、本来、抵抗映画として重くなるほかはない映画全体を、彼の存在が明るく、勢いづける原動力となっていて、大したものだと思いました。 映画を見終わって、チッチキ夫人が、ぼそりといいました。「映画の中のいろんなことが、ああなったのって、日本人がやった事でしょ。映画の中で、頑張っている人に、そうだ、そうだと思いながら、なんだか悲しくなってきたわよ。」「うん、あの、オニーさんの方が留学から帰国したソウルの駅前で、子どもたちが言うたやろ、日本語で。ぼく、朝鮮語できません、って。それから、小学校に上がる娘が言ううやん。キム・スンヒのままがいい、って。」「あの子ら、今、80越えてはんねんな。うちのオカーチャンとかと一緒くらいやろ。台湾でもそうやろ。」 そのまま話がとぎれて、帰宅しましたが、気にかかったことがありました。唐突ですが、朝鮮語で「国語」といういい方はあるのだろうかということです。 日本の学校では、今でも、日本語のことを「国語」と言います。でも、この言葉を、直訳で英訳すれば「National language」であって、「Japanese」ではありません。 韓国語では「ウリマル」といういい方があるそうです。「ウリ」は「私たちの」、「マル」は「言葉」で「私たちの言葉」という意味になるそうですが、「ハングル」を指すそうです。日本語の「国語」とは少し違いますね。 で、数年前に読んだ本を思い出しました。「国語という思想」(岩波書店)という、イ・ヨンスクという、一橋大学の学者さんがお書きになった本です。 その本で彼女は、日本語を「国語」と固有名詞化した、近代日本のイデオロギー、政治的意図について詳細に論じていて、スリリングな本ですが、この映画を見て、イ・ヨンスクさんが、なぜ「国語」を研究対象にしたのか、彼女が言う「近代日本のイデオロギー」の正体とは何だったのかが腑に落ちた気がしました。 「国語」と「帝国臣民」を押し付け、「言葉」と「名前」を奪った統治政策の「悪質さ」は、まだ十分に検証されてはいないのではないでしょうか。ヨーロッパの帝国主義諸国も同じことをしたいう人もありますが、果たしてそうでしょうか。「同じこと」とは、実は言えないのではないでしょうか。 ぼくは「国語辞典」を愛用していますが、なぜ、この「国語」という言い方に疑問を持たなかったのでのでしょう。そんなことを考え始める映画でした。監督 オム・ユナ製作 パク・ウンギョン脚本 オム・ユナ撮影 チェ・ヨンファン編集 キム・サンボムキャストユ・ヘジン(キム・パンス)チョ・ヒョンド(キム・ドクジン:中学生の息子)パク・イェナ(キム・スンヒ:幼い娘)ユン・ゲサン(リュ・ジョンファン)キム・ホンパ(チョ・ガプイン先生)ウ・ヒョン(イム・ドンイク)キム・テフン(パク・フン)キム・ソニョン(ユ・ジャヨン)ミン・ジヌン(ミン・ウチョル)2019年・135分・韓国原題:「Malmoe」 The Secret Mission2020・11・13元町映画館no62にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.27
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ナショナル・シアター・ライヴ 2020 ノエル・カワード「プレゼント・ラフター」神戸アート・ヴィレッジ 久しぶりのナショナル・シアター・ライヴでした。ノエル・カワードという人の「プレゼント・ラフター」というお芝居でした。 「さあ、ここで笑って!」 とでもいう意味なのでしょうか。正真正銘の「喜劇」でしたね。 登場人物相互の愛憎関係といい、女優になりがっている女性の登場といい、脚本家志望の「狂気」の青年といい、まごう方なきの喜劇で、英語がわからないぼくでも笑えるつくりでした。 なのですが、最後の最後には、ちょっと物悲しいというか、ギャリー・エッセンダインという、真ん中に立ち続ける、最悪な男のありさまが他人ごとじゃないと、65歳を過ぎた老人に思わせるのですから大したものでした。 つくづく、英語ができたら、もっと面白いだろうなあ、と思うのはいつものことですが、俳優たちの「存在感」を揺らぎがない「空気」で見せつづける舞台は、やはりレベルが高いのでしょうね。 映画.com 写真はギャリーと離婚(?)しているにもかかわらず、「仕事のためよ」 とかなんとかいいながら、ちっとも出て行こうとしない別れた妻リズとの、にらみ合いですが、お芝居全部が、このにらみ合いの中で展開していたようです。これはこれで、かなり笑えるシーンなのですが、ホント、夫婦って何なんでしょうね。演出 マシュー・ウォーカス作 ノエル・カワードキャストアンドリュー・スコットインディラ・バルマエンゾ・シレンティキティ・アーチャーソフィー・トンプソン2019年・180分・イギリス原題:National Theatre Live「Present Laughter」2020・11・16神戸アート・ヴィレッジ追記2020・11・26 これで、神戸アートビレッジでのナショナルシアター2020のプログラムは終了なのですが、「真夏の夜の夢」を見損ねたが、返す返すも残念でした。プログラムの日程を度忘れしていて、一週間も気付かなかったことにショックを受けています。 物忘れがひどくなっていて、ちょっとヤバいんじゃないか、不安になっています。追記2023・04・26 神戸アートヴィレッジ・センターが 、ナショナルシアター・ライブに限らず、所謂、映画上映をやらなくなって2年たちました。月に何度か通っていたこともあって映画の上映を支えていた方と顔見知りになり、少しお話もするようになっていたのですが、最後の会話は転勤、配置換えのお話でした。お元気でいらっしゃるのでしょうか。 センターの活動方針の変更は採算が理由だったのでしょうが、採算を理由にすると文化は滅びますね。 ときどき、前を通ることがありますが、センターの中に人影を見かけることはありません。儲からないところは潰せばいいという印象を市民に与える文化行政の街に住んでいることをさみしく思う市民のいることを忘れないでいただきたいですね。にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.26
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川上泰徳「シャティーラの記憶」(岩波書店) 市民図書館の棚で偶然手にして、2020年の夏の間、繰り返し借り出した本です。「シャティーラ?なんか聞いたことがあるなあ。」 きっかけは、ふと、興味を持ったに過ぎない本でしたが、読み始めると一人、一人のインタビューに引き込まれながら、徐々にレバノンのベイルート近郊にあるシャティーラ・キャンプを焦点の真ん中にして、ゴラン高原、ヨルダン川、アッカ、テルアビブ、ガザ、といった地名が、パレスチナ難民キャンプ、中東戦争、サブラ・シャティーラの虐殺、オスロ合意、といった歴史的事件を想起させながら浮かんできます。 そして、レバノン、シリア、ヨルダン、イスラエルというふうにパレスチナ地方の地図が少しずつ輪郭を得て拡がっていく気もするのですが、やはり、あのあたりというボンヤリとしたイメージが綺麗に拭われるわけではありませんでした。 著者の川上泰徳は、このインタビューをまとめた本が出来上がる経緯をこんなふうに記しています。 パレスチナの難民キャンプ「シャティーラ」はレバノンの首都ベイルートの繁華街ハラム通りから南東4キロ、タクシーを拾って渋滞が無ければ15分とかからない。 わたしは2015年から18年までの4年間に毎年1カ月から2カ月、延べ6カ月間、ベイルートに滞在し、シャティーラ・キャンプに足を運んだ。 1948年の第1次中東戦争で、イスラエルが独立し、70万から80万のアラブ人(パレスチナ人)が故郷を追われ、難民化した。パレスチナ人はそれを「ナクバ〈大厄災〉」と呼ぶ。 2018年で70年を迎えたパレスチナ人の苦難の経験に触れるために、第1世代から現在の若者である第3世代、第4世代まで約150人にインタビューを重ねた。 取材と言っても、一人でシャティ―ラ・キャンプに行き、日本人のジャーナリストだと名乗って「パレスチナのことを調べています。あなたの話を聞かせてください」と頼んで、インタビューを行うだけである。すべてのインタビューは私がアラビア語で行った。 誰であれ、話しをしてくれる人間を探してインタビューを続けた。当然ながら話を聞いて見ないと、相手がどのような体験をしたかは分からない。インタビューでは事件やテーマごとに証言者を探すのではなく、一人一人について子供の時から現在までの経験をたどる方法をとった。人によっては5回、6回と話を聞いた。 長年、朝日新聞で、パレスチナを担当してきた1956年生まれの記者である川上さんが、新聞社を離れ、一人のジャーナリストとして最初に選んだ仕事がこのインタビューだそうです。 ぼくはが最初に感じたのは、自分とほぼ同じ時代に学生であり、社会人として「日本」という国で生きてきた彼が、何故、「シャティーラ」にやって来たのか、「シャティーラ」とは、いったいどういう場所なのかという二つの疑問でした。 上に載せた、年表や地図を繰り返し見返しながら読み進めるうちに、二つの疑問が、少しずつ解けていくように感じました。 あなたはいまのシャティーラを見ている。もし、あなたが50年代のシャティーラに来ていたら、テントと小屋を見たでしょう。60年代に来たら石を積んだ壁のある家がありました。70年代には平屋の家が建ち、道路が通って、光がさし、風が吹き抜けていました。80年代に来たら、一面の破壊の跡です。90年代には家が建って、道路が狭くなっていくのを見たでしょう。そして、2000年代になれば、道路はなくなり、風は通らず、太陽も、空も見えない。人々の生活はますます困難となり、窒息寸前となっているのです。 NGO「子どもと青少年センター」の代表であるマフムード・アッバスという人の言葉です。 1949年にパレスチナ難民キャンプとして設立されたシャティーラの風景の移り変わりが語られています。 その後、84年にシャティーラの虐殺ビデオを見た。その中に映っていた父親が私の母親や弟妹の写真を持っているのを見た。私は6日間の休暇をとってシャティーラに戻った。その時父から虐殺の話を聞いた。虐殺で母や弟妹が殺されたことを初めて知った。 88年にキャンプ戦争が終わった後、アラファト派と反アラファト派の戦闘が始まったが、私は参加しなかった。 私は23歳になっていた。10代のころは人と話すこともできない子供で、撃てと言われれば撃ち、殺せと言われれば殺した。 しかし、年を経て、命令に従うだけではいけないことを学んだ。戦うことにどんな意味があり、どんな利益があるのかを考えるようになった。パレスチナ人同士闘ってもパレスチナの解放にはつながらないと思って、私は闘うことをやめた。 1966年にシャティーラで生まれ、11歳で銃の打ち方を習い、戦闘に参加し、今、一人ぼっちで暮らしているアクラム・フセインという人の言葉です。家族や、自らの人生について語っているインタビューの一部です。 シャティーラの生活は大変です。電気もないし、水もない。水道から出るミスは塩水ですよ。電気不足はレバノン全体ですが、政府の電気は4時間の通電の後、4時間または6時間の停電を繰り返します。停電の時は民間の電気業者から電気を買っています。 私の家の契約は2・5アンペアで、使えるのは電灯と冷蔵庫だけです。夕方のテレビのニュースを見るためには、冷蔵庫の電源を切らねばなりません。それでも電気代は月50ドルになります。 飲料水は水を売りに来る業者から定期的に買っています。その水代が月に20ドルです。 月給800ドルの溶接工ムハンマドという人の妻サマルさんが口にした、今のシャティーラの暮らしです。 新聞記者としてニュースを伝えることを仕事にして生きてきた川上泰徳さんは、新聞に載る記事を、遠い他国のニュースとして読み流し、悪意も善意も感じない「無関心」な、ぼくのような人間たちに、そこで生きている「人間」の素顔を伝えることで、「同情」ではなく、「共感」が生まれることを願って、この仕事を始めたのではないでしょうか。 フト手に取るという、小さな関心から、読者になったぼくは、こんな本が存在することを紹介することから、ぼくの中に生まれた「共感の芽」を育てていきたいと思いました。一度、手に取っていただければ、うれしく思います。追記2025・06・15 ロケット弾だかが飛び交い始めた2025年の6月です。イスラムの人たちはナクバを叫び、イスラエルはガザでジェノサイドを続けています。でも、そこには普通に暮らしながら殺されたり、住むところを奪われたりしている人間がいるんですね。戦争では解決しません。「殺すな!」と、年甲斐もなく叫び声を上げたい気持ちです。追記 2025・10・20 川上泰徳が2024年、パレスチナを取材したドキュメンタリィー「壁の外側と内側」を見ました。皆さん、ぜひご覧ください。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.11.25
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ロイ・アンダーソン「ホモ・サピエンスの涙」シネリーブル神戸 映画を見終えるまで、ロイ・アンダーソンという監督について何も知りませんでした。予告編を見て、チラシにある、シャガールの「街の上」という絵を模したかに見えるシーンに興味を惹かれました。 そもそも、「街の上」という絵は、ぼくでも知っている有名な絵ですが、この絵のイメージで、作家の村田喜代子が小説「屋根屋」を書いていたのを思い出しました。 その小説では、空中で抱き合う男女という、イメージを、どんなふうに段取りするのかというのが、まあ、作家の腕の見せ所だったように思いますが、さて、この映画はこのシーンをどんなふうに使うのかと、興味惹かれたわけです。 なんと、映画が始まると同時に、このシーンが始まりました。もちろん意味不明で、そのあとタイトルが出て、男と女が街を見下ろすの高台のベンチで、向こうを向いて座っている、チラシの下にあるシーンから、もう一度始まります。 曇った空と、街の向こうの山のない風景が延々と映し出されます。途中、男が女にないか言いましたが、忘れてしまいました。 ぼくは、その時、「ひょっとしたら、このまま眠り込んで、目覚めた時に映画は終わっているんじゃないか、何度見直しても必ず眠り込む、そういう仕掛けなのではないか。」などということをぼんやり考えていたのでした。 で、眠り込んでしまったのかって? 不思議なことに寝ることはありませんでした。一つ一つのシーンは、それぞれ1回のカットで写されているようです。数えていませんからわかりませんが、30シーンぐらいあったと思います。1カットが終わると暗転して、さっきのシーンとは何の脈絡もない次のシーンが始まります。 何に引き込まれたのかはわかりませんが、必要最小限のナレーションが、映像の連鎖のコンテクストにたどり着きたいぼくにとっては、唯一の助けなのですが、とうとう、映画の「ストーリー」を理解することはできませんでした。 「街の上」のシーンは、映画の中ごろに、もう一度出てきます。二人の下に広がる「街」は、どうも廃墟のようです。 「絶望したヒットラー」や、「シベリアの地平線まで列をなして歩く敗残兵の行進」という、意味の分かる「歴史的」なシーンもあります。 「神を信じられなくなった牧師」は、複数回登場します。牧師は精神科医の診察を受けますが、解決はしなかったようです。 数え上げていけば、面白いシーンは、いくらでもあります。どのシーンも面白かったと言ってもいいかもしれません。もっとも、なにが面白かったのかって聞かれると困ります。 で、何だったんだろう。「悲しく」も、「おかしく」も、「腹立たしく」もない。それが、帰り道の感想でした。 とはいうものの、ぼくは、この監督の作品が映画館でかかれば、きっと見に行くと思います。この監督が映像を羅列することで暗示しているかに見える、世界の切り取り方について、今回、何となく感じた、正体不明の「共感」を確かめたいと思うからです。 なんか、感想になっていませんが、正直に書くとこうなってしまいました。あしからず。監督 ロイ・アンダーソン製作 ベルニラ・サンドストロム ヨハン・カールソン製作総指揮 サーラ・ナーゲル イザベル・ビガンド脚本 ロイ・アンダーソン撮影 ゲルゲイ・パロス美術 アンデシュ・ヘルストルム フリーダ・E・エルムストルム ニックラス・ニルソン衣装 ユリア・デグストロム イーザベル・シューストランド サンドラ・パルメント アマンダ・リブランド編集 ヨハン・カールソン カッレ・ボーマン ロイ・アンダーソンナレーター イエッシカ・ロウトハンデルキャストマッティン・サーネル(牧師)タティアーナ・デローナイ(空飛ぶカップル)アンデシュ・ヘルストルム(空飛ぶカップル)ヤーン・エイェ・ファルリング(階段の男)ベングト・バルギウス(精神科医)トーレ・フリーゲル(歯科医)2019年・76分・スウェーデン・ドイツ・ノルウェー合作原題「About Endlessness」・「OM DET OANDLIGA」2020・11・24・シネリーブルno75にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.24
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トム・ムーア ロス・スチュアート「ウルフウォーカー 2」(映画館のピーチ姫) 「ウルフウォーカー」を先日観ました。「ブレンダンとケルズの秘密」を、その昔見逃して、「やってるよ!」と以前の店長さんに勧められたのでね。 見終わって1時間くらいでつらつら書いたのがあったので送ります。 絵本みたいな背景に、直線と曲線で描き分けられる世界。やっぱり魅力的なので過去作もちゃんと観ようと思います。 登場人物たちになんでその名前をつけたのだろうかと考えてしまう癖がありまして、今回もたがわず、そうなりました。 特に今回はケルトだ!なんか聞いたことのある名前がいっぱい出てきた!となったので余計に気になってしまいました。 イングランドから来た少女ロビンは緑の人ロビンフッド、その相棒のハヤブサには魔術師マーリン、森で出会った「ウルフウォーカー」の少女メーヴは妖精の女王の名前。ではロビンの父グッドフェローズは? ググリました。ありがてえなワールドワイドな知識にすぐアクセスできる現代社会。 民間伝承としてロビン・グッドフェローという妖精がいるんだそうです。人間と妖精の子としていたずら好きで人に親しみを持つ存在なんだそうです(諸説あり)。 そうか、少女ロビンも妖精だったのか。相棒マーリンだって人と夢魔の子だ。 彼女がRobin Goodfelloweであることから、父親はGoodfelloweと護国卿から呼びかけられるわけですが、この呼び名がなんとも皮肉だなと思うのです。 彼のキャラクターは単純に「いいやつ」というより、「属するもの」として「善き人」という感が強いのです。従順であるものとして運命づけられ、護国卿の仕打ちが「怖いから」従わざるを得ないのだという苦しみを抱える人ね。「怖いのだ。お前が牢に入れられてしまうこと、お前と離れ離れになることが」「今だって檻の中にいるじゃない」 少女二人の冒険譚だと思って見ていたけれど、実は違うんじゃないか。だって彼女たちはまだ「人の世界」に属しきってはいないのだ。あちらとこちらを作ってはいないのだ。 この映画の中で、ある種本当に冒険し、何かを見つけたのは父親だったんじゃないか。そんなふうに思うのはわたしが歳を取ったからでしょうか。 ところでもう一人、呼び名のある人が出てきます。イングランドの護国卿 ’Lord Protect'です。彼は神’Lord’の御心を主張してアイルランドの開拓(侵攻)を進めようとしていました。彼自身がLordを名乗りながらです。 そして、ファンタジーの生きている世界アイルランドで、イングランドのLordは墜落するのです。なんともまあ過激な話じゃないでしょうか。 時代設定としてまんま、護国卿クロムウェルなのだと、これも後から知りました。好奇心は人を賢くするね! じゃあ、またね。好きなことは、よく勉強するピーチ姫でした。追記2020・11・23 「ゆかいな仲間」の一人、ピーチ姫は映画がお好きなのですが、ときどき、感想を送ってきたりします。せっかくなので、「映画館のピーチ姫」というカテゴリーで紹介してしまうことにしました。 今回はシマクマ君とチッチキ夫人が同伴鑑賞したアニメーション映画「ウルフウォーカー」を彼女も見たようで、いろいろ調べて教えてくれました。なかなか興味深い視点だと思うのですが、いかがでしょう。にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.23
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フランシス・アナン「プリズン・エスケープ」神戸アートヴィレッジ 神戸のミニ・シアター、具体的にはパルシネマ、シネマ神戸、元町映画館、そして、アート・ヴィレッジ・センターの4館は、互いに予告編を流し合うという、粋なことをしています。 この映画の予告編は、元町映画館で見て、上映を待っていたのですが、1週間、カレンダーを違えていて、最終日に何とか見ることができました。最近、いろんなカン違いが頻発していて、何となく不安なのですが、まあ、クヨクヨしたって仕方がありません。 何を期待して、待っていたのか?もちろんサスペンスです。主役であるティム・ジェンキンを演じるのが、あの、ダニエル・ラドクリフだというのが、この映画の売り文句の一つですが、「ハリー・ポッター」のシリーズを、ただの1本も、きちんと見たこともないぼくには、チラシの写真をみても、さほどの興味が湧くわけでありませんでした。 ぼくが、「オッ!?」 と思ったのは、「木製の鍵」で「10の鉄扉」のところでした。で、どうだったかって?ぼくには十分楽しめました。 「木製の鍵」の制作過程が、まず、この映画の「見どころ」だったと思いましたが、ダニエル・ラドクリフが神経の細い、手先の器用でプラモデル作りが好きそうな、まあ、どっちかというと、今にも壊れそうな男、とても、脱獄なんていうタフな仕事は出来そうにない男をよく演じていたと思いました。 ぼくは、この童顔の主人公がいつ倒れるのか、という一つ目のサスペンスがこの映画を支えていたと思いました。 脱獄を決行する当日になって、脱獄という行為が「アパルトヘイト」という非道に対するプロテストであることが、そのあたりをボンヤリ見ていたぼくにも明確になるのですが、連帯しながらも、尻込みをするデニス・ゴールドバーグを描いたところにぼくは共感しました。 かつて「パピヨン」という、脱獄映画の傑作を見たことがありますが、ぼくには崖の上から跳ぶスティーヴ・マックインよりも、彼の雄姿を見下ろす、ネズミ男、ダスティン・ホフマンの方に感情移入する傾向があります。この映画でも「跳べない人」の姿を、かなり丁寧に描いていたことに好感を持ったわけです。 もちろん、サスペンスのクライマックスは、脱獄を決行する最後の20分でした。「足音」、「息遣い」、「木製の鍵」という要素だけで、「見つかるかもしれない」、「開かないかもしれない」、「折れるかもしれない」という不安が畳みかけてくる気分は、久しぶりにサスペンス気分満喫でした。 とどのつまりは、黒人用タクシーの運転手の「頷き」でホッとさせられて、反アパルトヘイト映画だったことを思い出したのでした。 それにしても、魔法が使えないハリー・ポッター君、今回は、なかなか健闘していたのではないでしょうか。監督 フランシス・アナン原作 ティム・ジェンキン脚本 フランシス・アナン L・H・アダムス撮影 ジェフリー・ホール美術 スコット・バード衣装 マリオット・カー編集 ニック・フェントン音楽 デビッド・ハーシュフェルダーキャストダニエル・ラドクリフ(ティム・ジェンキン)ダニエル・ウェバー(スティーブン・リー)イアン・ハート(デニス・ゴールドバーグ)マーク・レナード・ウィンター(レオナール・フォンティーヌ)2020年・106分・イギリス・オーストラリア合作原題「Escape from Pretoria」2020・11・21・神戸アートヴィレッジ(no11)にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.22
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ロバート・バドロー「ストックホルム・ケース」シネリーブル神戸 ボブ・ディランが劇中歌を歌っているのを予告編で見て、飛びつきました。まあ、とにかく、ディランの声がスクリーンから聞こえてくるということがうれしいじゃないですか(誰に呼びかけてるんでしょうね?)。 それにしても、チラシに出ている「新しい夜明け」と言い、「今夜はきみと: Tonight I'll Be Staying Here with You」といい、懐かしいのですが、ラブソングなのですよね。 でも、この映画、銀行強盗の話のはずなのですが・・・・。そんな気分でやって来たシネ・リーブルでした。見たのはロバート・バドロー「ストックホルム・ケース」です。 なんだか、アメリカっぽいオニーさんが、カーボーイ・ハットかなにかで登場しました。ピシッと決めている感じで、ディランの「新しい夜明け」かなんかを歌ったのか、聞こえてきたのかの気がします。 で、自動小銃を振り回しなら銀行強盗が始まりました。普段、予想もしない、まあ、ありえないことが起こるというのは、こういうテンポなのでしょうね。なんだかとてもノンビリしています。 自動小銃で威嚇したり、友人の釈放を要求したり、それらしい強面で頑張っているのですが、イーサン・ホークという俳優さん扮する強盗ラース君は、どうも、うまくいく感じが、全くありません。 なんとか人質をとって銀行に立てこもり、いやいや、こんなところに立てこもってどうするの、という展開で、最初の要求が女性の生理用品でした。この辺りまで、コミカルタッチで描かれていて、「笑う」映画なのかなあ とか感じながら、なんだか笑えません。 「身につまされる」といういい方がありますが、この、なんというか、ラースという主人公の頼りなさが、他人ごととは思えないのです。 根本的に「悪意」が理解できないタイプの人の、過剰な無邪気さのようなものが、この男を包んでいて、おそらく、そこのところが人質であるはず銀行員の女性ビアンカやクララにも伝染する感じなのです。 もう、途中からは、人質も一緒に「銀行強盗団」になってしまう風情なのですが、犯人ラースに、その状況を疑う「悪意」が感じられないのですから、人質たちがそうなっても不思議な感じがしないのです。 で、とどのつまりは、「Tonight I'll Be Staying Here with You」というディランの曲の通りの成り行きで、まあ、訳せば「今夜はきみと一緒にいるよ」となってしまうのでした。 「クライム・スリラー」とチラシなんかでは宣伝しているのですから、当然、まさかの展開なのですが、「男と女」、「人と人」という関係で考えるなら、「凡庸」で「普通」の結末だったと感じました。 むしろ、挿入歌として歌われているボブ・ディランの数曲の歌の歌詞そのままに映画が進行し、ディランの歌が、ラブ・ソングなのに、なぜか、悲しいように、映画のラストも、ちょっと悲しい という所にこの映画のよさを感じました。 それにしても、人質だったビアンカが、事件の後、服役しているラースに面会するシーンで、スウェーデンの刑務所が映りますが、すごいですね。映画全体にも、そのニュアンスが漂い続けていますが、施設の雰囲気だけでなく、根っこにある「罪」と「罰」の考え方の違い には、やはり、驚きました。 監督 ロバート・バドロー原作 ダニエル・ラング脚本 ロバート・バドロー撮影 ブレンダン・ステイシー美術 エイダン・ルルー衣装 リア・カールソン編集 リチャード・コモー音楽 スティーブ・ロンドン劇中歌 ボブ・ディランキャストイーサン・ホーク(ラース)ノオミ・ラパス(ビアンカ)マーク・ストロング(グンナー)ビー・サントス(クララ)2018年・92分・カナダ・スウェーデン合作原題:Stockholm2020・11・09・シネリーブルno74にほんブログ村にほんブログ村74
2020.11.21
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鈴ノ木ユウ「コウノドリ 32 最終回」(講談社) 表紙で鴻鳥サクラくんが笑って、手を振っていますね。今回の「コウノドリ(32巻)」が最終巻だそうです。ザンネンですね。 ぼくはこのマンガに登場する若い医療従事者たちの、前向きな生き方が、まあ、もちろんマンガではあるのですが、いや、マンガであるからこそかもしれません、好きでした。 産婦人科のお医者さんのサクラくんや、四宮くん、そして、下屋カエさん。助産師さんの小松ルミ子さん。ああ、それから、救急医の加瀬さんもいいキャラでしたね。聖ペルソナ総合医療センター院長の存在も忘れられません。 彼らが、危機一髪の悪戦苦闘をなんとか乗り越えていくたびに、涙しながら読んでいる65歳を越えた徘徊老人というのも、ちょっと、大丈夫かという気もしますが、新しい命が生まれてくる現場をまじめに描き続けてきた鈴ノ木ユウさんに拍手したい気分ですね。 今回は最終回ということもあるのでしょうね、助産師の小松さんに「恋の季節」が巡ってきました。「おお、仕事をとるか、男をとるか。小松さん、どうするのでしょうね?」 と、引っぱられていると、なんと、主人公鴻鳥サクラくんの前に、彼を生んですぐにに亡くなったお母さんの面影を宿した女性が登場します。 サクラくんが育った「ママの家」のケイコママが、その女性を見かけて、サクラの母、幸子を思い出したところです。 女性はサクラくんが通うデンタルクリニックの歯科医片平ミユキさんです。 さあ、どうなるのか?と期待したのですが、シングル・マザーとして出産を決意した彼女は、急性白血病の妊婦としてサクラくんの患者さんになってしまうのでした。 場面は、ほとんど命懸けで赤ちゃんを産み終えた片平さんが、自らも生き抜きたいと泣き叫ぶところです。 ぼくですか?もちろん、泣きましたよ。そのために読んでいるのですから、トーゼンですね。(笑) 左のページは、別れた男性との間にできた、おなかの子どもを産むことについて、片平さんが苦しんだ時のシーンですね。「出産って、誰のものなんだろう・・・・」 これが、おそらく、鈴ノ木ユウさんが、このマンガを描き続けながら、考え続けてきたことでしょうね。簡単なようで、重い問いですね。 さて、大団円、小松さんの恋の行方はいかに?果たして、片平みゆきさんは助かるのか。助かったとして、サクラくんとなんとかなるのでしょうか?ああ、それよりも、なによりも、この病院の仲間たちはどうなるのでしょう。 まあ、そのあたりは、本書を読んでいただくしかありませんね。というわけで、これが裏表紙でした。オシマイ!ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.11.20
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「100days100bookcovers no35」(35日目)安田登『異界を旅する能―ワキという存在』 ちくま文庫 SODEOKAさんおすすめの吉田秋生の『BANANA FISH』のあとを、KOBAYASIさんはどんな本を選ぶのでしょうか。『BANANA FISH』のネタ元はサリンジャーの『バナナフィッシュにうってつけの日』とのこと。それなら、次の舞台はアメリカか、帰還兵のトラウマというテーマも?とぼんやり思っていました。だからKOBAYASIさんが『キッチン』を選ばれたのを見て「んっ?なんで?」 と思ってしまいまいた。「バナナ」とか「芭蕉」とか、全然思いつかず。このところ頭が固くなってきているなあと、また思った次第です。ハハハ。 吉本ばななの『キッチン』とはなんと懐かしい。筆者はわたしより5歳下で、たぶん同じ時代の空気を吸って生きてると思う気安さで気楽に読み、読んだ後は心が澄むような気持になった気がしてけっこう好きでした。でもそのあとはさっぱり読んでいないし、映画も全く見ていません。内容も忘れていました。今回久し振りに読むことができてよかったです。ちょっと若返った気分。 実は今回の選書は最初から千々に迷っています。4日ほどあれやこれや悩んでしまい大変遅くなってすみません。まず、『キッチン』つながりで、二冊の本を思いつきました。どちらも私には思い出深い本です。でも一冊はナチスがらみなので、この話題は最近やったばかりなので繰り返しになってしまいますね。もう一冊は、下町の江戸っ子の生活や食べ物の話題で風情があり、いつかまた。 吉本ばななの『TUGUMI』が連載されていた懐かしの雑誌『マリ・クレール』の話もしたいし。2年分のバックナンバーを引っ越しを繰り返すうちに処分してしまったことが悔やんでも悔やみきれない。 文芸誌『海』から『マリ・クレール』に移籍してファッションだけでなく海外文芸を紹介する稀有な女性誌に変身させた異色の編集者、安原顕のことを書いている本を今回見つけたので、候補にしておきます。 でも、もう一度、KOBAYASIさんの『ムーンライト・シャドウ』の紹介文を読んでいてどうしても気になったのが、「橋」のそばに「亡くなった人」が現れる イメージです。 「橋」は彼岸と此岸をつなぐものですが、このイメージは「お能」じゃないかと思ったのです。能では、舞台の正面左手にある廊下を「橋掛かり」といい、主人公の亡霊はこの「橋掛かり」から舞台に出てきます。源平の戦いで無残に散っていった若武者や、実らなかった恋に苦しみ死んでしまった恋人たちが、成仏できずに現れて、無念や執心を述べ、舞うことで思いを晴らそうとする作品がたくさんあります。ちょうどお盆なので、お能の話にします。 でも、本を紹介する前にもう少ししんぼうしてくださいね。『ムーンライト・シャドウ』と能の『井筒』にいくつかの似たところがあって気になったので、触れさせてくださいね。 世阿弥の『井筒』は、『伊勢物語』を題材にして、恋人への恋慕を主題とした複式夢幻能です。簡単に内容紹介します。 諸国一見の僧が、旅の途中に立ち寄った業平ゆかりの在原寺で、塚に水をかけて回向をしている里の女を見て声をかけると、「業平夫婦が昔ここにいたらしいので、業平を弔っている。」と答え、なおも尋ねると、女は業平について話しはじめ、いつしか、実は自分は業平の妻の「紀有常女(むすめ)」であり「井筒の女」の霊だと明かして姿を消します。 その晩、僧の夢に、業平の妻の幽霊が現れ、その幽霊は業平の形見の冠直衣を身に着けて業平への恋慕を語り、舞いながら井戸で自分の姿を水鏡に映し見ます。そこに映るのは、業平その人です。その舞い方も柔らかい女であったが、業平が憑依したかのような強い舞い方になるときもある。ここは見た目は男で意識は女。一人の女の身体に恋しい男の身体を取り込んだイメージです。(『ムーンライト・シャドウ』の「柊がゆみこの形見のセーラー服を着て登校している」ところを思い出します)そして世が明け僧の夢が覚めるというお話です。 最初に『ムーンライト・シャドウ』を読んだときは、生き残った者の苦しみと再生の話だなと思っていたのですが、「能」を重ねてみると、成仏しきれない死者の思いとそれを受け容れようとする生者の姿も表現されていたのだなと感じました。 「さつき」が「等」に「あの幼い私の面影だけが、いつもあなたのそばにいることを、切に祈る。」と語るところに。 今回の本は、松岡正剛や内田樹とも交際があって、最近は講演などでも名前を見かけるワキ方能楽師です。『異界を旅する能―ワキという存在』安田登著 ちくま文庫 をあげたいと思います。 能には「シテ」と「ワキ」があります。そして「シテ方」の家と、「ワキ方」の家が決まっていて、「シテ方」の家に属する者は一生「シテ」側の役しかしません。また、「ワキ方」の家に属する者も「ワキ」側の役しかしません。 「シテ」が主人公です。亡霊や異界からやってくる者を演じ、舞い、跳ね、縦横無尽に活躍します。面(おもて)も能装束も見どころがあります。 一方、「ワキ」は面(おもて)はつけない。装束は地味。目立った活躍はしない。「シテ」と話はするけれど、「シテ」の語りを引きだしてしまうと、舞台のわきの方で木偶(でく)のようにひたすら座っているだけになってしまいます。 「ワキ」は諸国一見の僧とか、天皇や権力者の使いのものと役もだいたい決まっています。他の演劇で考えれば、「シテ」役を一生できない「ワキ方」の者は面白みがないように思えます。 しかし、安田登は、ワキの必然性やその特徴や魅力をこの『異界を旅する能』の中にわかりやすく書いています。――彼(ワキ)は無力ということをよく知っている。聴くことしかできないということを、身に沁みて知っている。 ――いつまでも浮かぶことができない魂の救済を求めて、再びこの世に出現するシテと、それをただ黙って受け止めることしかできない無力なワキ。その関係の中だからこそ、シテは残恨の思いをあるいは「語り」、あるいは「舞い」、そしてその行為を通して、最後には自分自身の力で、残恨の思いを昇華させていくことができるのだ。――そんなワキは無力だが、幽霊はほかの人々には己の姿を見せないが、ただワキにだけその姿を見せて魂の救済を求める。――換言すれば、無力なワキのみが異界と出会い、そしてシテの新たな生を生き直させる機会を得ると言える。さらに言葉を換えれば、ワキは無力だからこそ、異界と出会うことができるのだ ワキとは、シテが本心を語るに足る相手、ともに苦しむことのできる「無力」の「力」を持っていると、黙っていても、感じさせる力量が必要な役だというのですね。 自分を深く無力だと思いなしたものこそが、どうしても晴らしようもない恨みや悲しみを抱えた魂の語りを聴いてその痛苦を「晴らす」あるいは「祓う」ことができると書いています。まるで、心療内科のカウンセラーのようですね。 かつての私は死後のことは考えないようにしていましたが、最近は、突然思いもかけぬ災難で命を失ったり、まだ死に切れない思いでこの世から去っていってしまった人の魂が、語るにふさわしい者に出会いその無念を晴らすことができるという観念を形象化している芸能が生き残っていることをありがたいと感じています。 遅くなり申し訳ありません。毎日暑いですが、SIMAKUMAさんはお元気そうで何よりです。またあとよそりくお願いいたします。(E・DEGUTI・2020・08・14)追記2024・02・02 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.11.19
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「100days100bookcovers no34」(34日目) 吉本ばなな『キッチン』福武書店 遅くなりました。仕事の都合でなかなか時間が取れませんでした。申し訳ないです。 SODEOKAさんの採り上げた吉田秋生の『BANANA FISH』のタイトルは、記事でも触れられていたように、サリンジャーの短編集『ナイン・ストーリーズ』(野崎孝訳 新潮文庫)の冒頭に収められた『バナナフィッシュにうってつけの日』("A Perfect Day for Bananafish")に由来する。 次を考えるに当たって、とりあえずその短編を読んでみた。おもしろい。非常に洗練された短編に思える。ラストが強烈だ。 主人公はシーモア・グラース。サリンジャーが「長大な連作の完成に没頭すると言明した」(野崎孝の「あとがき」から)いわゆる「グラース・サーガ」(グラース家の誰かを主人公とする連作物語)の登場人物でもある。 他に思いつかなければこのまま『ナイン・ストーリーズ』でもいいかと思っていたのだが、つらつら考えているうちに思い当たった。 吉本ばなな『キッチン』福武書店 要は単純な話で、「ばなな」 つながりである。 実は他にも、吉田秋生の「バナナフィッシュ」が麻薬の名前であることから、「薬」に関連する某学者の著作何冊かも候補として考えていて、それなりに迷いもしたのだが、今回はこちらにする。 1988年出版。作家のデビュー作。表題作以外に『満月-キッチン2』・『ムーンライト・シャドウ』所収。 表題作は、第六回「海燕」新人文学賞受賞作。 『ムーンライト・シャドウ』は、日大芸術学部1986年度卒業制作作品で、芸術学部長賞受賞、さらに第16回泉鏡花賞受賞。 『満月-キッチン2』は、サブタイトルが示すように『キッチン』の続編。 きっかけは忘却の彼方だが、ある時期に何冊かまとめて読んだ彼女の小説の中で、たぶん最初に読んだのがこれだった。 『キッチン』は、森田芳光監督、川原亜矢子主演で映画化されて、私も劇場で鑑賞した記憶がある。 今回、これを選んだのは、ここの収められた『ムーンライト・シャドウ』に強い印象が残っていたからだ。 当時、初めてこの小説を読んで、ぼろぼろ涙が出てきたのである。話の細部は忘れてもそういうことは覚えている。 年齢的には31歳。まだ涙腺が緩む年齢ではない。今回はどうなるかという自分に対する興味もあった。 今回、記事を書くにあたって、3編とも再読してみた。 まず読書中に率直に思ったのは「下手だな」ということ。身も蓋もない言い方だが、そう思った。 何だか「小説」を読んでいる気がしないのだ。SNSやブログの記事に近い印象。言葉も平板に感じる。 たとえば、「孤独」「淋しい」「なつかしい」「悲しい」というストレートな感情表現も、小説家がそれをそのまま表現してどないするねんと突っ込みたくなることも。 あるいは、「2人がとても大好きだった。」(『満月-キッチン2』)というような妙なフレーズが出てきたときも。まぁ気分としてはわかるのだけれど。 単行本に付いていた帯に、「海燕」新人文学賞選評として、中村真一郎と富岡多恵子のコメントが出ている。 中村の評は「旧世代の人間には想像もつかないような感覚と思考を、伝統的文学教養をまったく無視して、奔放に描いた作品で、旧来の観念からして、文学の枠にはまろうがはまるまいが勝手にしろ、という無邪気な開き直りに、新しい文学を感じた。」 とどう考えてもけなしている、あるいは私の理解外だから好きにしろと言っているとしか思えない選評だし、富岡のコメントは中村ほどではないにしろ、「その文章のすすみ具合が、昔のひとから見れば頼りなげにうつるとしたら、それは吉本さんにとっての文学が昔のひとのレシピでは料理できなかったからであろう」 と「新世代」の文学だから、「旧世代」にはわからん、と、やんわりというよりはっきり言っている。 3つの作品とも、肉親や身近な人の「死」が物語のきっかけや中心に据えられている設定といい、文体や言葉遣いといいこれだけ、若者的にカジュアルでわかりやすければ「受ける」かも、といういくぶん意地の悪いことも考えたかもしれない。しかし、実際に『キッチン』、『満月-キッチン2』をそれぞれ読み終えたときに感じたことは、先述したような「感想」とはいくぶん異なっていた。 悪くないかも、と思っていた。 下手だとか稚拙だとかいう感想は変わらなかったし、これが新人賞に値する作品かどうかはよくわからなかったが、それでも、だから読めないとは思わなかった。 意図的に戦略的にこういう文体を採用したのかどうかは本当のところはむろんわからない。が、読んでいてあまりそういう風には感じなかったのだ。素直に書きたいことを書きたいように書いた、というのに近いのではないか。 登場人物は二十歳くらいで、したがって子供っぽいふるまいや感情も描かれ、面倒くさいと思うこともなくはなかったが、主人公の一人称語りで語られる心情吐露も、良くも悪くも「まっすぐ」で真剣で、したがって「不器用」な人間しか出てこない。嘘がない。 また、ところどころに出てくる清水のような一節が、文字を最後まで追うことにつなぎとめてくれたということもあるかもしれない。「しかし私は台所を信じた。それに、似ていないこの親子には共通点があった。笑った顔が神仏みたいに輝くのだ。私は、そこがとてもいいと思っていたのだ。」「いつか必ず、だれもが時の闇の中へちりぢりになって消えていってしまう。そのことを体にしみこませた目をして歩いている。」「闇の中、切り立った崖っぷちをじりじり歩き、国道に出てほっと息をつく。もうたくさんだと思いながら見上げる月明かりの、心にしみいるような美しさを、私は知っている。」「冬のつんと澄んだ青空の下で、やり切れない。私までどうしていいかわからなくなる。空が青い、青い。枯れた木々のシルエットが濃く切り抜かれて、冷たい風が吹きわたってゆく。」 こういう、散文というより、詩の一節みたいな箇所がもしかしたら作家の「書く意志」に直接結びついているのではないか。 作家は「あとがき」で「私は昔からたったひとつのことを言いたくて小説を書き、そのことをもう言いたくなくなるまでは何が何でも書き続けたい。この本は、そのしつこい歴史の基本形です。」 と書く。 「たったひとつのこと」はここでは、身近な人の「死」によってもたらされる苦しみとそれにどう耐えるか、である。逃げようがない状況と言っていいかもしれない。どうして作家はデビュー作にこうした「苦しい」テーマを選んだのだろうか。 その苦しみが最も直截描かれたのが最後に収められたのは『ムーンライト・シャドウ』である。 タイトルは、マイク・オールドフィールドというミュージシャン/コンポーザーの楽曲に由来する。その詞を含めた楽曲が小説の「原案」だと「あとがき」で述べられている。 簡単に話の設定と展開を記す。 さつきは高校2年のときに知り合った等と4年つきあうが、交通事故で彼を失う。等にはちょっと変わった柊という弟がいた。弟にはゆみこというガールフレンドがいた。柊のところに遊びにきていたゆみこを等が車で駅まで送る途中で二人は事故に遭った。 即死だった。 柊はゆみこが死んでから、私服の高校にゆみこの形見のセーラー服を着て登校している(ゆみこは小柄だそうだからサイズが合わないんじゃないかと思うが)。双方の親はスカートをはく彼を止めたが、「気持ちがしゃんとする」 と言って、彼はきかなかった。 さつきは苦しみを何とかしようと夜明けにジョギングを始める。 ジョギングの折返し点の川にかかった橋で、あるとき、うららという女性に出会う。彼女は、もうすぐ100年に一度の見ものがあるという。 うららから連絡があり、「あさっての早朝に、あの橋で何かが見えるかもしれない」 という。 その当日、さつきはうららとともに橋にいた。それから、彼に出会う。 同じころ、柊は自宅で彼女に出会っていたことがわかる。 等。 私はもうここにいられない。刻々と足を進める。それはとめることのできない時間の流れだから、仕方ない。私は行きます。 ひとつのキャラバンが終わり、また次が始まる。また会える人がいる。2度と会えない人もいる。いつの間にか去る人、すれちがうだけの人。私はあいさつを交わしながら、どんどん澄んでゆくような気がします。流れる川を見つめながら、生きねばなりません。 あの幼い私の面影だけが、いつもあなたのそばにいることを、切に祈る。 手を振ってくれて、ありがとう。何度も、何度も手を振ってくれたこと、ありがとう。」 ということで30年経っても、やはり涙が出てしまった。 こういう文体の、こういう物語ゆえに届く感情や情緒がきっとあるのだ。あるいは死による別れは、いつもそうした感情をもたらすのだろうか。 では、DEGUTIさん、次回、お願いします。(T・KOBAYASI・2020・08・06)追記2024・02・02 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.11.18
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ミッジ・コスティン「ようこそ映画音響の世界へ」元町映画館 今日は「映画学講義 音響編」ということで、さすがに泣くことはないだろうと思ってやって来ました。昨年「すばらしき映画音楽たち」を見て以来、「映画」にとって「音響」が、いかに大切かということに気付き始めてはいたのですが、納得しましたねえ。 「映画」という表現が、「映像」の詐術であることは何となく理解していますが、「効果音」や「映画音楽」が、そこでどんな働きをしているのか、実はよくわかっているわけではありませんでした。この映画も、せいぜい「映像」の印象をフォロー・アップする程度の働きについての話で終るのだろうとたかをくくってやって来ました。 で、びっくり仰天(まあ、ちょっと大げさですが)しました。「音」はもう一つの詐術そのものでした。 普段、劇場でぼくが耳にする「音」は、デジタルな作りものではなく、実際の演奏であったり、人間の本物の声であったり、風や波であったり、現実に耳している、本物の「音」から作りだされ、重ね合わされることで、映画の現実を「本物のように」ではなく、創造された、新しい「本物」としてつくられるということです。 たとえば、「スター・ウォーズ」という映画で、若き日のハリソン・フォードの相方だったチュー・バッカという愉快な宇宙人がいます。 都市伝説にもなったらしい彼の声の中には動物園にいるさまざな動物の声が重ね込まれていて、音を集める職人たちが、日がな一日、あるいは、来る日も来る日も、ライオンやシロクマの檻の前でマイクを構え、集めてきた現実の「音」によって作り出されていくプロセスを目の当たりにすると、「映画」という総合芸術の分厚さを実感するわけです。その上で、チュー・バッカの、あの懐かしい叫び声が響きわたったりすると、思わず涙ぐむ始末で、困ったものです。 映画という表現の「音」の作られ方が、きちんと振り返られていて、実に「ベンキョー」になったのですが、現場で工夫に工夫を凝らす職人たちが「映画」を作り、育ててきたことを、改めて感じさせてくれたことにこそ、拍手したいドキュメンタリーでした。 それにしても、「地獄の黙示録」の夢のシーンや、「スター・ウォーズ」の巨大な宇宙船が現れるシーンを見ながら、何だか涙が出てしまったぼくは、ヤッパリ、老人なのでしょうね。 トホホホ・・・・。監督 ミッジ・コスティン脚本 ボベット・バスター撮影 サンドラ・チャンドラー編集 デビッド・J・ターナー音楽 アリソン・ニューマンキャストウォルター・マーチベン・バートゲイリー・ライドストロームジョージ・ルーカススティーブン・スピルバーグロバート・レッドフォードバーブラ・ストライサンドライアン・クーグラーデビッド・リンチアン・リーソフィア・コッポラピーター・ウィアーエリク・アーダールイオアン・アレンリチャード・アンダーソンカレン・ベイカー・ランダーズボビー・バンクスリチャード・ベッグスアンナ・ベルマーマーク・バーガー2019年・94分・アメリカ原題「Making Waves The Art of Cinematic Sound」2020・11・17元町映画館no61にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.17
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冨原眞弓「ミンネのかけら」(岩波書店) 市民図書館の新刊の棚で、何の気なしに手に取った本です。著者名に、何となくな記憶はありましたが、書名の意味もわからないし、「ムーミン谷へと続く道」という副題に惹かれたわけでもありません。 まあ、誰もさわっていない新しい本がうれしいといういつものパターンで借りてきました。読み始めて、作者の名前に何となくな記憶があった理由はすぐにわかりました。この所、岩波文庫で新訳が出ていることが気にかかっていたシモーヌ・ヴェイユの研究者で、その新しい訳者その人でした。 著者である冨原眞弓さんは関西の田舎町から上京した女性で、本書では、東京の学生寮の書棚で見つけた、フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユとの出会いから始まった哲学者としての半生が語られてきます。 こう書くと、還暦を過ぎた哲学者が自らの思索の「記憶(ミンネ)のかけら」を呼び起こし、淡々と、素人には面白くもおかしくもないエッセイがつづられていると、まあ、ぼくも想像したのですが、ちがいました。 書名に出てくる「ミンネMinne」という言葉はドイツ語では「宮廷の愛」にはじまって、「記憶」・「回想」という意味でも使われる言葉のようですが、たしかに「ミンネのかけら」と題されているように、「思い出」がつづられていることは間違いありません。しかし、このエッセイは、彼女の人生そのものを動かした数人の友人との「出会い」と「友情」の物語でもあるのです。 この本に登場する友人たちで、特に印象に残った人が四人いました。一人は留学先のパリで出会った女性彫刻家フラン。二人目、三人目は世界旅行の途上、彼女の自宅に泊まったグニーラとマリというスウェーデン人の二人の女性です。そして四人目は、あの「ムーミン」の作家トーヴェ・ヤンソンでした。 もちろん、彼女が書物として出会い、研究の対象にしたシモーヌ・ヴェイユや、教えを受けたソルボンヌの碩学ジルベール・カーン、インド人の女性マリ・ドミニクの「思い出」も興味深く語られているのですが、ぼくの印象に残ったのは上記の四人の女性の「生きざま」でした。 冨原さんは最終章に、友人であるフランスの彫刻家フランのこんな言葉を記しています。「神さま、もし、わたしがこの試練を生きのびることができたら、これからは好きなことだけを、そうです、やりたいことだけをやると誓います。ひとの思惑とか、まわりの都合とかではなく。神さま、わたしをいきさせてください。」「いつもは、自分の帰りを家でじっと待っていてほしいくせに、たまには、はなやかなパーティーとかに、着飾った妻を連れていきたい人だった」夫を捨て、二人の子どもと別れ、彫刻家として生きようとアトリエを探しだしたフランを襲った蜘蛛膜下出血の最中、救急車に載せられて病院へ運ばれていく車中での言葉です。 フランさんの夫との別れや、病後のリハビリの格闘といった、前後の詳しい経緯は、本書を手に取っていただくほかはありませんが、冨原さんは、続けてこんなふうに書き記しています。 わたしはこの言葉に呼応するスウェーデン語の言葉を知っている。その人も芸術家だった。しかも作家でもあったので「ほんとうにたいせつなものがあれば、ほかのものすべてを無視していい。そうすればうまくいく」と自伝小説の主人公に語らせた。 この作家、当時85歳のトーヴェ・ヤンソンに、わたしが最後にあったのは1999年の暮れである。 自分の人生を、自分で切り開いていった二人の芸術家の言葉を、重なり合う「ミンネ」として書き記しているところに、冨原眞弓という哲学者の「生き方の流儀」浮かび上がってくるようです。 フランさんの彫刻は冨原さんの住まいの玄関に飾られているそうですが、最後にあった、この日、ヤンソンさんは冨原さんにこう言ったそうです。「ひみつをひとつ。いい?私はもう小説が書けない。そう、何にも書けない。これはひみつだから、だれにもいってはならない。いいですか?」 この時、彼女が耳にした、トーヴェ・ヤンソンの最後の言葉です。この言葉をここに記した哲学者冨原眞弓は、おそらく、自らのたどり着くべき場所を思い浮かべているに違いありません。 本を閉じて、著者について調べてみて、驚きました。なんと、冨原眞弓さんは、我が家の同居人と同じ高校の出身で、年齢もさほど違わない人だったのです。 播州の北部に位置する織物の町で育った、同じような世代の少女が、地球のずっと向う側、フィンランドの町でムーミンの作者と出会う「旅」は、それだけで、かなりドラマチックな「物語」が浮かんでくるのですが、ぼくの前には、そんな女性が新しく訳したシモーヌ・ヴェイユという「山」が、まず、立ちはだかったというわけでした。 いやはや、いまさら「生き方」にこだわる気持ちはないのですが、この女性が、とりあえず、今、たどり着いた場所を、ぼくなりに見定めたいという「誘惑」が、やはり、湧いてきてしまう読書でした。 にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.16
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バカ猫 百態 2020 その3「風呂深し」風呂ふかし おいらは何を するネコぞ喧騒の 台所より 風呂場かなこっそりと 一人居の幸 湯なし風呂いくらでも ねこ俳できる 弧ねこかな お久しぶりのバカ猫百態です。まあ、なかなか写真が送られてこないのでしようがありませんが、今回はお風呂場で「やすらう(?)」ジジちゃんです。 まあ、箱型の場所がお好きなのは知っておりましたが、ジッと写真家を見ているところが可愛らしいですね。じゃあ、またね。にほんブログ村
2020.11.15
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トム・ムーア ロス・スチュアート「ウルフウォーカー」シネリーブル神戸 久しぶりのアベック映画鑑賞会です。チッチキ夫人はお仕事帰り、シマクマ君は一日がかりで、翌日の宿題をこなして、夕方5時からの三宮、シネリーブル神戸でした。 お目当ては「ウルフウォーカー」、アイルランドの「カートゥーン・サルーンCartoon Saloon」というアニメ・スタジオの作品で、アカデミー賞に連続ノミネートされていて、ポスト・ジブリの呼び声もある「ケルト3部作」の第3作だそうです。 まあ、こう書くと分かっているかのようですが、監督も、スタジオ名も、もちろん「ケルト3部作」の残りの作品も知りません。ポスターを見て、「オッ、これは!」 と思って狙いをつけていたのですが、明日が最終日と気付いて、慌ててやって来たにすぎません。 で、見終わって、どうだったか。もちろん納得でした。 アイルランドのキルケニーという町と、その町を取り巻く牧草地、そして、その向こうに広がる森を舞台にしています。時代は中世なのでしょうか、ストーリーを大雑把にいえば、町の少女と森の少女が出会い、仲良しになるお話です。 映画.com まず気に入ったのが「絵」でした。いかがでしょう。この雰囲気、まんま絵本で読みたい感じです。 本当は町を取り巻いている城壁を遠くから見はらしている絵が印象的だったのですが、町の中を描いたこういう絵もとてもいいと思いました。向うに見える、門の外が、「野生」が、まあ、「オオカミ」がといってもいいのでしょうが、跋扈する、外の世界 です。 門の内側の世界で暮らす少女ロビンが洗濯や料理、掃除や水汲みを仕事として働いていて、生まれてからずっとそんなふうに働いてきた女性から叱られ、命じられている世界の描き方が、なんともいえずいいとおもいました。少女はまだ10歳くらいなのですがね。 そして、町の少女ロビンは、この直線で描かれた町の世界から、外の世界の冒険を夢見ています。 町が直線で描かれているのに対して、森は、下のチラシにもありますが、淡く、美しい色と曲線で描かれています。奥へ進んでいくと、とても力づよい渦のように描かれていきます。 森の少女メーヴは、激しく渦を巻き続ける描線の象徴のように自在に飛び跳ね、考える以前に、ひらめく感覚に導かれ、美しい遠吠えでオオカミたちとこころを通わせる、個性的な「野生」の少女 として描かれています。 次に惹きつけられたのは、主人公の二人が、二人とも少女だったことです。ついでにいえば、もう一つ共通するのは、「母」がいない少女ということです。 町の少女ロビンはイギリスからやって来た狩人のおてんば娘ですが母がいません。本当にこころを伝えられるのはハヤブサのマーリンだけです。 森の少女の母は、森の洞窟の奥の神殿のようなところで、眠ったまま目覚めることができません。彼女は狼たちの女王でもあり、いや、それ以上に野生の世界の王というべきかもしれませんが、その母の魂を、森の少女メーヴは、狼たちと探し続けています。 そんな、二人の少女が町と森の出会う場所で出合い、町の少女もまた、アイルランドの伝説の中に、今も生きている「ウルフウォーカー」へと変身するという、夢の様なプロットが、まずを描かれます。 やがて、母のいない町の少女が、「囚われの狼」となっていた友達の「母」を城の中に見つけ出し、「ウルフウォーカー」である自らに宿る「野生」 に突き動かされるように護国卿との戦いに挑み、最後は森の少女と力を合わせて母を救うというのがストーリーなのですが、共に戦ったのが少女二人であったという所に、いたく、納得しました。 ちょっと説明しがたいのですが、少女二人であって、少年と少女ではないというこの映画の設定は、とても興味深いと感じ入ったのでした。監督 トム・ムーア ロス・スチュアート脚本 ウィル・コリンズ音楽 ブリュノ・クーレ KiLa オーロラ声優オナー・ニーフシー(ロビン)エバ・ウィッテカー(メーヴ)ショーン・ビーン(ビル)マリア・ドナル・ケネディ(モル)サイモン・マクバーニー(護国卿)2020年・103分・アイルランド・ルクセンブルク合作原題「Wolfwalkers」2020・11・11シネリーブルno73にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.14
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朝倉裕子「詩を書く理由」(編集工房ノア) 大人になっても大人になってもしゃがみ込んでこどものように泣きたいときがある母になっても電車に乗って隣町あたりへ行き捨てられた犬になって歩いていたいときがある風のない夜の雪のように静かに降り積もるものが眠りによって繋がれた日常の上に重ねた年月の上に心の底に握った小さな固いこぶしの上にある 冬至の頃真横に伸びるひかりが家を貫く時間がある冬の中心に向かうなかで与えられた驚き黙しがちな朝の支度の最中胸のあたり黄金色の扉がひらく 久しぶりにチッチキ夫人と映画を見て、元町から神戸駅に向かって歩きながら古本屋に立ち寄りました。偶然、手に取った1冊の詩集のページを繰りながら、詩人の名前に心当たりを感じて買ってきました。朝倉裕子さんの「詩を書く理由」(編集工房ノア)という詩集です。 詩人は、夕食を調え、月を見上げ、路上のネコとの出会いや、隣家の白い木蓮の花の思い出を詩のことばに託しています。 家族が寝静まった真夜中の台所のテーブルに広げられた1冊のノートがあり、ジッと俯いてすわっている女性が思い浮かんでくる詩集でした。 彼女はこの台所で子供を育て、父や母を送り、マイタケのてんぷらで銀婚式を祝う夫と暮らしているようです。 「風のない夜の雪のように」降り積もり続ける時間、黄金の光が差し込んで来る冬の朝の喜び、ひっそりと、日々の暮らしが書き留められた詩が、他人ごとではなく、胸を打ちました。にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.13
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堀尾省太「ゴールデン ゴールド(1~7)」(講談社) 「スゴイ!」とか「イイネ!」とかを誰かがクリックして、何となく盛り上がる感じが、いつの間にか何十万「イイネ」とかになって、何が「イイネ!」なのか、実は誰にもわからないのに本屋の店先で積み上げられて、あっという間に何百万部の売り上げになると、巨匠とか鬼才とか名匠というレッテルが張られています。 それが、現代という「空虚」の、一つの実相なのだと批判を口にする人でも、自らブログだの、なんだの、ネット・メディアの世界にちょっと足を突っ込んでみると、それこそ、あっという間に「イイネ!」依存症患者、クリック待望症候群の一人であることを発見することになります。 利いた風な口をきいていますが、ゴジラ老人などと称して書いていること自体が、そういう事態の実践であるという、ある種、がんじがらめの「空虚」を、「不気味さ」として描いている、「スゴイ!」マンガが9月のマンガ便に入っていました。 堀尾省太「ゴールデンゴールド」です。 瀬戸内海で、尾道あたりからフェリーに乗ると、本土の通勤圏内にある、「寧島」という何となくさびれた島が舞台です。都会の中学校で不登校になって、よろず屋と民宿を経営している、田舎のオバーチャン、早坂町子の家で暮らしている、中学3年生の早坂琉花ちゃんが主人公です。 かなり有名なマンガらしいのでストーリーは端折りますが、彼女が海岸で拾った、表紙に登場する「仏像」状の物体が「福の神」であるらしいというのが、このマンガの設定です。「福の神」なので、かなえられる夢は「お金」です。あらゆる夢が「儲かる」という形で実体化します。 要するに、その願い小さかろうが、大きかろうが、「福の神」を信じ、「福の神」から気に入られた人の願いが叶うという、まあ、いわば人々の夢が「ラッキー」として実体化し続けるとどうなるかということなのですが、これが「不気味」としか言いようのない連鎖反応を引き起こすのです。 「欲望」が「欲望」を生む連鎖、あるいは「欲望」を「欲望」する連鎖というべきかもしれません。7巻まで、一気読みしてしまいましたが、今や複数の「福の神」が島に跋扈していて、おそらくこの後は「福の神」同士の「戦争」状態に突入するのではないかというのが、ぼくの予想です。かなう欲望が複数あれば、あとは力勝負ということで、神々による戦いが始まるほかありません。 所謂、SNSの世界が作り出している「空虚」から、このマンガについてのおしゃべりを始めたわけですが、「お金」や「損・得」という価値観の支配する世界から、いったい何が失われて行きつつあるのかというのが、このマンガが描いていることのようです。 しかし、話しはそう簡単なわけではなくて、孫の早坂琉花ちゃんの目の前で、なにげなく夢見たことが次々と叶い続け、始めは偶然だったできごとが、巻を追うごとに必然化してゆき、それと共に変貌していく町子お婆ちゃんの姿が、琉花ちゃんには「不可解」というよりも「不気味」に映り始めるところが、このマンガの「肝」なのでしょうね。 そんな風に考えながらも、早坂町子の姿に、妙にリアルな既視感を抱く、彼女と、ほぼ、同年代の読者である自分を発見するゴジラ老人なのですが、これはいったいどういうことでしょう。 ひょっとすると、SNSの世界で繰り広げられている、本来、ヴァーチャルだったはずの世界の実体化現象が、普通の生活をしていたはずの人々の生活感を、根こそぎ奪い始めている現代という社会の様子が、このお話と微妙に似ていることに由来している既視感なのかもしれません。 ついでに当てずっぽうをいえば、今となっては高度経済成長期の終末現象だったと知っている、1980年代、あのバブルの時代の様子にも似ている気がしないでもないのです。 「イイネ!」という「福の神」にすがっているのか、「スゴイ!」という、本来ただの記号だったはずの、まあ、「お金」のようなものに生きがいとかを見つけ始めているのか。 老人の感想も、やはり、「不気味」ということになるのでしょうかね。ちょっと、それではヤバイと思うのですが。 それにしても、このマンガ、ただ今、第8巻まで出ているようですが、どう終わらせるのでしょうね。興味津々ですね。ボタン押してね!ボタン押してね!
2020.11.12
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「100days100bookcovers no33」(33日目) 吉田秋生『BANANA FISH』(小学館・全19巻) YAMAMOTOさんご紹介の『夜と霧』は、ナチスの強制収容所での体験について書かれた古典的名著です。私は思春期のまっただ中でこの本を読みましたが、いま読んだら、あのときとはまた違ったことが見えてくるのは間違いないでしょう。命のあるうちに、もういちど読んでみたい。この本を思い出させて下さったYAMAMOTOさんに感謝です。 さて次は、私がこの本に出会うきっかけになった『夜と霧の隅で』の作者・北杜夫へ行こうか、どうしようか、と考えましたが、人間の極限状態 を描いた作品、ということで、これが頭に浮かびました。 『BANANA FISH』吉田秋生(小学館・全19巻)マンガかい! と思われた方、すみません。このリレーで私が勝手に設けているセルフ・ルールがあって、それはできる限り「エンタメ」で繋ぐ、ということです。どうしてかというと、私の中身がエンタメで構成されているからです(笑)。私だけのルールですので、どうぞどなたもお気になさることなく。 昨年フレデリック・ワイズマンの映画『ニューヨーク公共図書館』が公開されたとき、まず頭に浮かんだのは『BANANA FISH』のラストシーンでした。このリレーでご一緒しているKOBAYASIさんに、FBでそのことを話したところ、「バナナフィッシュ?サリンジャーですか?」 と言われて私も「は?」という状態に。サリンジャーに『バナナフィッシュにうってつけの日』という短編があることをそのとき初めて知り、さっそく読んでみたのですが、大いに関係がありました。 今回『BANANA FISH』を久しぶりに再読してみると、サリンジャーへの言及、ちゃんとあります。読み落としていたんです。 『BANANA FISH』は1985年に別冊少女コミックで連載が始まり、9年かかって完結した吉田秋生の長編マンガです。とにかく面白い。今回も全19巻を一気読みでした。すでに評価が定まっているので、ご存じの方も多いでしょう。長期間の連載なので、途中でだんだん絵も変化していきます。ニューヨークを舞台に、主人公アッシュを中心としたストリートキッズの世界を描いているのですが、この17歳の少年・アッシュがIQ200の美貌の天才(少女マンガです)という設定ゆえ、話は不良少年たちの抗争におさまらず、イタリアン・マフィアや中国の財閥一族、FBIまで巻き込んで、ハリウッドも顔負けのサスペンス活劇に発展してゆきます。 かれらの抗争の中心にあるのが(ブラックボックスでもあるのですが)「バナナフィッシュ」、催眠作用を伴う麻薬の名前です。その麻薬を権力の道具にしようとする大人たちが、バナナフィッシュの秘密を知ってしまったアッシュとその周辺の少年たちを追い詰め、秘密を入手しようとするのですが、いつもすんでのところで、少年たちの情報網と結束力、アッシュの頭脳とリーダーシップに阻まれます。 しかし、話の中盤からは、アッシュという存在そのものがまるで麻薬のように(本人が意図しないという意味でもまさに)権力者たちを翻弄してゆくことになります。 このマンガではさまざまな大人たちが描かれますが、少年たちも多様です。白人、黒人、スパニッシュ、メキシカン、チャイニーズなど多数のグループがあり、それぞれに民族特有のルールや考え方、死生観があります。 吉田秋生は日本在住の日本人ですので、リアリティを期待してはいけないでしょうが、おそらくかなりのリサーチを行ったでしょうし、彼女の興味や考え方は十分に反映されていると思います。 いずれにしろ、ニューヨークのダークサイドは、「多民族の軋みを体感したことのない日本人」のいない世界なのです。 そんな世界へ、ひとりの何も知らない日本人少年・英二が、たまたま巻き込まれてゆく。そこが、このマンガの肝です。アッシュの住む世界では、人を疑うことをしない英二は「異物」です。でも、異物はときに「窓」になります。窓を開けると、風が吹き抜けます。アッシュは英二を通して、これまで体験したくてもできなかった世界を知ることになるのです。 が、反面、英二はアッシュにとってのトリガーにもなります。異物はどこまでも異物であり、融合することはできないのです。それを悲劇と捉えるかどうか、それは読者次第です。人が人と出逢う喜びを否定するものは、この世にはないと私は思いたいのです。 これは、今回再読した私の読み方で、これ以外にもいろいろな読み方ができると思います。それが名作っちゅうもんでしょう。 おっと、ニューヨーク公共図書館を置き去りにしてしまいました。ラストシーンだけではなく、『BANANA FISH』には、アッシュがニューヨーク公共図書館を利用するシーンがいくつも描かれています。家も蔵書も持たないIQ200の少年アッシュにとって、そこはひとりで思索する自宅であり本棚だったというわけです。 映画の話題繋がりで、吉田秋生原作の映画についても少し。記憶に新しいのは是枝裕和監督の『海街ダイアリー』(2015年)、古いところでは中原俊監督の『櫻の園』(1990年)が印象的でした。 『BANANA FISH』は少年を描いていますが、上記2作のマンガは少女の心情を克明に、豊かに描いています。中原監督の『櫻の園』は原作とは肌合いが違っていますが、少女映画としては出色だったと思います。 それではKOBAYASIさん、お願いします。(K・SODEOKA2020・07・29)追記2024・02・02 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.11
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ダニエル・ロアー「ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった」シネリーブル神戸 1970年代のはじめの頃、ボブ・ディランのバックバンドとして演奏しているグループとして「ザ・バンド」を知りました。「偉大なる復活」という二枚組のアルバムを下宿のステレオ装置で繰り返し聴きました。 たしか、一枚目の裏面に入っていた「クリップル・クリーク Up on Cripple Creek」・「アイ・シャル・ビー・リリースト I Shall Be Released」・「オールド・ディキシー・ダウン The Night They Drove Old Dixie Down」・「ステージ・フライト Stage Fright」が、ぼくの「ザ・バンド」のすべてで、メンバーの名前さえよく知らないまま、あっという間に解散してしまいました。「アイ・シャル・ビー・リリースト」はディランの曲だと思いますが、ぼくは、この演奏が好きでした。 あれから40年の時が流れて、チラシの写真の左に立っている三人は、もうこの世にはいません。 生きているメンバーのロビー・ロバートソンとガース・ハドソンの二人も、当たり前のことですが、70歳を越えた老人です。 映画は、そのロビーの回想の映像化でした。アルコールや薬物、解散後のトラブルをめぐって、様々に伝えられていますが、ぼくにとっては、ぼくの「ザ・バンド」がどんな姿で描かれているのか、あの名曲は聞こえてくるのかという興味で映画館にやって来ました。 見終わって、しばらくぼんやり座っていました。彼らの音楽が生まれて50年の時が経ち、精悍な顔だったギタリストは穏やかな紳士として思い出を語っています。そして、映画は、その曲が生まれた瞬間の、あるいは、その曲と出合った瞬間の「よろこび」を、あの頃の思い出と一緒に、もう一度蘇らせてくれました。 ぼくは、チラシに写っている5人のメンバーの顔つきが、あの頃からずっと好きでした。この映画は、それを再確認してくれました。それで、充分です。監督 ダニエル・ロアー原案 ロビー・ロバートソン撮影 キアラッシュ・セイディ編集 イーモン・オコナー ダニエル・ロアーキャストロビー・ロバートソン(ザ・バンド)リック・ダンコ(ザ・バンド)レボン・ヘルム(ザ・バンド)ガース・ハドソン(ザ・バンド)リチャード・マニュエル(ザ・バンド)マーティン・スコセッシボブ・ディランブルース・スプリングスティーンエリック・クラプトンピーター・ガブリエルジョージ・ハリスンジョージ・ハリスンロニー・ホーキンスバン・モリソンタジ・マハール2019年・101分・カナダ・アメリカ合作原題「Once Were Brothers: Robbie Robertson and the Band」2020・11・09シネリーブルno72にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.10
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竹村優作・ヨンチャン「リエゾン1」(講談社) 八月のマンガ便にありました。読み終わって、悪い印象ではないのですが、なぜか不安でした。 お医者さんを主人公にした漫画は、手塚治虫の「ブラックジャック」以来たくさんあります。もう懐かしいマンガですが、「ブラックジャックによろしく」とか、医学部の学生さんの間で流行ったと聞いたこともあります。最近では、産科のお医者さんを主人公にした「コウノドリ」にはまりました。 この作品も、お医者さんが主役を演じています。精神科医で、「児童精神科」・「精神科」・「心療内科」の看板を挙げている町医者、佐山卓さんと、その医院で研修する研修医遠野志保さん、まあ、主人公は今から一人前になるために、きっと山あり谷ありの経験をしていくと思われる遠野志保さんということになるでしょうか。 ところで、表紙に「こどものこころ診療所」と副題が載っています。ケン玉を首にかけた白衣の人物が精神科医佐山卓さんですが、このマンガの、真の主人公は、彼のもとにやってくる子供たちと、その家族だというのが第1巻を読み終えたぼくの感想です。 で、不安はそこにあります。第1巻の巻末には10冊を超える専門書と、医学や、おそらく教育学の論文が参考文献として記録されています。主人公の二人の医者は発達障害、いわゆるADHDの人物として設定されています。 真正面から「子どもたち」を描こうとしている、原作者の竹村優作さんや漫画家のヨンチャンさんの覚悟のほどを感じます。 「差別」と「偏見」が善意の顔をしてはびこる世界です。苦しい現実に置き去りにされている当事者の方もおられます。 このマンガ何をどのように描くのか、第1巻では「鬱」症状の父親の、無意識のうちの「虐待」の事例が「学校に行けない子供①~④」として描かれていました。一歩間違えば、精神病や生活保護に対する偏見を助長しかねない物語です。 マンガが、「明るさ」や「共生」に向けて誠実に描かれていることは確かだと思います。私たちのモラルの境界線に立ち向かおうとしている原作者とマンガ家の真摯な勇気に、ぼくは期待しています。にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.09
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黒沢清「スパイの妻 劇場版」国際松竹 名匠黒沢清というキャッチコピーがピンとこないという事実が、ぼくの映画館不在の期間の長さを証明しているわけですが、ぼくにとっては、この映画が黒沢清作品と映画館で出会った二本めの映画です。どこにこの監督らしい味わいがあるのかよくわかりませんでしたが、印象に残ったことが二つありました。 一つは実業家福原優作が、妻聡子に対して発した一言です。 「ぼくはコスモポリタンなのだ。」 正確に、こう言ったかどうか、記憶違いもあるかもしれませんが、「コミュニスト」でも「アナキスト」でもない、「コスモポリタン」という宣言が耳に残りました。 映画とは直接、関係のないことなのですが、気になってネットをいじっているとこんな文章に出会いました。『こんな社会だから、赤裸々な、堂々たる、小児の心を持ツた、声の太い人間が出て来ると、鼠賊共、大騒ぎだい。そこで其種の声の太い人間は、鼠賊と一緒になツて、大笊を抱へて夜中に林檎畑に忍ぶことが出来ぬから、勢ひ吾輩の如く、天が下に家の無い、いや、天下を家とする浪人になる。浪人といふと、チヨン髷頭やブツサキ羽織を連想していかんが、放浪の民だね、世界の平民だね、― 名はいくらでもつく、地上の遊星といふ事も出来る。道なき道を歩む人とも云へる、コスモポリタンの徒と呼んで見るもいい。ハ………。』『そこでだ、若し後藤肇の行動が、あとさき見ずの乱暴で、其乱暴がうまれつきで、そして、果して真に困ツ了ちまふものならばだね、忠志君の鼠賊根性はどうだ。矢張それも生得で、そして、ウー、そして、甚だ困つてしまはぬものぢやないか。どうだい。従兄弟君、怒ツたのかい。』(石川啄木「漂白」青空文庫) 石川啄木の小説(?)「漂白」の一節です。 気になった理由は、当時の、まあ、今でもですが、「日本人」のセリフとしての「コスモポリタン」のそぐわなさだったのですが、使われていたのですね。 勝手な重ね合わせですが、「コスモポリタン」に対して啄木の登場人物が「鼠賊」と呼んで軽蔑している役柄が、東出君演じる憲兵津森というわけで、彼は、こういう、「存在として空虚」な役柄がよく似合いますね。彼が演じるとそうなるのでしょうか、「善」でも「悪」でもない、空虚な恐ろしさですが、この映画では、いい線まで行っていたと思います。理由のない気味の悪さです。 一方、「コスモポリタン」を自称し、「国家」も「仕事」も棄てる男、福原優作を演じたのが高橋一生という俳優ですが、この人の雰囲気と「コスモポリタン」という、自称の曖昧さはよくマッチしていましたね。「放浪の民」や、「世界の平民」という感じはありませんが、「地上の遊星」というのは、なかなかピッタリな気がしますね。なんとなく正体不明なのです。 で、そういう男の「妻」を演じた蒼井優の演技が、印象に残っていることの二つ目でした。 まあ、それが、ぼくにとってはこの映画のすべてといっていいようなものですが、「妻」から「女」へと変貌していく福原聡子を演じる蒼井優は見ごたえがありましたね。 「やられた!」 だったでしょうか、夫のウソに気付いた瞬間のセリフには、さすがに、「そう来ますか?」 という感じもしましたが、ぼくには童顔に見えるこの女優には、どこからなのか、ときどき溢れ出してくるものを感じて目を瞠る気分になるのですが、特に、終盤に差し掛かったあたりの、たとえば、病室のベッドに座っている表情には、それを感じました。 最後に、聡子の渡米を伝えるクレジットが流れますが、それに見合う蒼井優の演技だったと思いました。 いやはや、それにしても「名匠黒沢清」には、まだ出会っていない感じがしますね。まあ、ゆっくり探したいと思います。監督 黒沢清脚本 濱口竜介 野原位 黒沢清撮影 佐々木達之介照明 木村中哉録音 吉野桂太美術 安宅紀史スタイリスト 纐纈春樹ヘアメイク 百瀬広美編集 李英美音楽 長岡亮介キャスト蒼井優(福原聡子)高橋一生(福原優作)坂東龍汰(竹下文雄)恒松祐里(駒子)みのすけ(金村)玄理(草壁弘子)東出昌大(津森泰治)笹野高史(野崎医師)2020年・115分・日本2020・10・30・三宮国際松竹no5にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.08
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フェデリコ・フェリーニ「魂のジュリエッタ」元町映画館 映画.com フェリーニ映画祭の企画の1本です。今回の企画で、初めて見たフェリーニの作品でした。フェリーニとしては、傑作「道」から10年たって撮った作品で、主役のジュリエッタ役を監督自身の「妻」であるジュリエッタ・マシーナが演じている作品でした。 映画館はかなり込み合っていましたが、まあ、人のことはいえませんが、いつもの通り「前期高齢者の集い」でした。中々見ることができない作品なので、皆さん狙っていらっしゃった雰囲気です。 映画は不思議といえば不思議な話で、まず、映し出される映像が不思議でした。夫の浮気を疑う、中年にさしかかった妻の苦悩の胸中を描いた映画ですから、まあ、そうなるのであろうか、とも思うのですが、「ファンタジック」とも言えないし、「おどろおどろしい」わけでもない世界が繰り広げられるのですが、案外、退屈はしませんでした。ジュリエッタの、いわば深層心理が、荒唐無稽ともいえるシーンの重ね合わせで描かれています。 現実の場では霊媒師のような役割だったと思うのですが、深層心理の中で、天使なのか悪魔の使いなのかわからない役を演じるのが、上の写真の右側の女性で、サンドラ・ミーロという女優さんです。左に立っているのが主人公のジュリエッタ役のジュリエッタ・マッシーナですね。 この二人の、顔立ちやスタイルはもちろんのことですが、メーキャップといい、衣装といい、実に対照的な姿が、妙に印象に残りました。わけのわからない世界の中を、ただ一人だけ「現実」の意識を具象化したかのような、おばさん然としたジュリエッタが歩きまわるのといった印象です。彼女の苦悩の「哀れさ」はそこに現れていると思いました。 作り手のフェリーニが、そこに何か意図をこめているのか、いないのか、そのあたりはわかりませんが、もし、今、この作品が新作として劇場にかかれば、物議をかもすことは間違いないでしょうね。 率直に言えば、「ええー? この夫婦ヤバいんじゃないの?」 ということになるでしょうか。まあ、そういう意味でも不思議な映画でした。 ああ、それから、この映画で主役だったジュリエッタ・マシーナは、あの「道」のジェルソミーナですね。「道」から10年後の映画なのですが、それにしても、あの年齢不詳の、少女なのか、大人なのかわからなかった女優の変貌ぶりでした。 映画の途中でうすうす気付いたのですが、目を疑いましたね。監督 フェデリコ・フェリーニ製作 アンジェロ・リッツォーリ原案 フェデリコ・フェリーニ トゥリオ・ピネッリ脚本 フェデリコ・フェリーニ トゥリオ・ピネッリ エンニオ・フライアーノ ブルネッロ・ロンディ撮影 ジャンニ・ディ・ベナンツォ衣装 ピエロ・ゲラルディ音楽 ニーノ・ロータキャスト ジュリエッタ・マシーナ(ジュリエッタ・ボルドリーニ) サンドラ・ミーロ(スージー/イリス/ファニー) マリオ・ピス(ジュリエッタの夫) シルバ・コシナ(シルバ)1964年・144分・イタリア・フランス合作原題「Giulietta degli spiriti」 日本初公開:1966年11月19日2020・10・27・元町映画館no60にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.07
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いがらしみきお「誰でもないところからの眺め」(太田出版)「ぼのぼの」のマンガ家いがらしみきおが、2014年ころに「at-プラス」(太田出版)という、ちょっと硬派の雑誌に連載していたマンガの完成形がこの単行本です。 経緯は本書のあとがきに少し書かれていますが、いがらしみきおに目をつけたのは誰なのか、ちょっと興味があります。 東北大震災の後、様々なジャンルで、亡くなった加藤典洋のことばですが、「災後」の表現がなされてきました。 よく知られたところでは川上弘美の「神様2011」とか、若い映画監督濱口竜介が撮った映画「寝ても覚めても」とかが浮かんでくるのですが、このマンガは格別でした。 子供向け(?)のマンガだった「ぼのぼの」にも沿いいう所があるのですが、日常の奥に隠れている、存在そのものの「不安」を掻き立てる力が、半端ではありません。 第1章「まだ揺れている」は2014年の宮城県の海岸のシーンから始まります。海に小さな火柱のようなもの燃え上がっているシーンです。手前に描き加えられている海岸からは、初老の女性がこの光景を見ています。 なんといっても「まだ揺れている」という言葉が、東北の震災の「余震」をイメージさせますが、マンガは明らかに、震災後、すなはち「災後の世界」の始まりと、行き着く先を描いています。 いがらしみきおがこのマンガで描く「災後」は意識の中にやって来ます。合言葉は「まだ揺れている」でした。「災後」が、意識にやって来た人は「まだ揺れている」ことを、確かな現実として、身体で感じ始めます。 表紙の写真ではオレンジ色の火柱のようにみえますが、これが一体なになのか、マンガを読み終えてもわかりません。第1章では海原から燃え上がっていたのですが、最終章では、この火柱が「空」に広がっているところが描かれて、マンガは終わります。 第1章から、第2章「夢に出てくる景色」、第3章「すごく小さく、すごく速く」、第4章「言葉なんかいらない」までが「at-プラス」に掲載されたようですが、第5章「いつまでこんなことやってるつもりだ」、第6章「どこへ行くの?」、第7章「やめろ」、第8章「言葉は浮かぶんだけどしゃべれない」、第9章「誰でもないところからの眺め」は、単行本化のための書下ろしのようです。 第5章にこんなシーンがあります。 所謂、「まだらボケ」で「要介護」の老人が、素っ裸のまま座っていて、パンツをはかせてくれている息子の良介とこんな会話を交わしています。老人「いつまでこんなことやってるつもりだ。」息子「オレだって好きでやってるわけじゃないよ。」老人「だったらなぜ逃げないんだ。」息子「どこに逃げるってんだよ。そんな体じゃどこに逃げたって死んじまうだろ?」老人「死なないところなんかあるのか?どこへ行ったって死ぬんだろ?なのになぜこんなところにいる。にげないと。」少年「ボクも逃げたい。」 ここに登場して「ボクも逃げたい」と語る少年は、薬に溺れて、ヤクザに体を与えている母親と暮らす部屋に帰ることができない境遇です。 マンガはこの章まで、高齢者や認知症の老人や、この少年のような「社会」からはみ出している人たち、追い出された人たちが「まだ揺れている」ことを感じ始めていますが、「普通」の「社会人」たちはテレビが映し出す「震度」の数字を見て高をくくり続けています。 そして、「なぜこんなところにいる?」という、この「認知症」の老人の問いかけが、このマンガの、いわばターニング・ポイントでした。 ここからマンガは「破滅」と「救い」という、本来、宗教的なテーマに向かって突き進むのですが、地面が揺れることが人間の存在そのものを、根底から揺さぶり始める描写は、読んでいるぼくを、どこか息苦しい不安に落とし込んでゆきます。 様々な老人たちが病室のベッドから抜け出したり、民家の屋根を歩いたり、ベランダから飛び降りたり、次から次へと「こんなところ」から逃げ出し始めます。「どこに逃げ出そう」としているのかはわかりませんが、「こんなこと」をしている「こんなところ」から逃げ出していく老人の姿が、妙にリアルです。 最後に空に浮かぶ、島状の火柱を描くことでいがらしみきおが何を描こうとしているのか、解釈と評価は分かれるかもしれません。 ぼくは何ともいえぬ「不安」と一緒に、「いつまでもこんなことをやっている」世界からは、逃げ出していくほかはないと感じる老人の一人であることは確かだと感じたのでした。 にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.06
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「100days100bookcovers no32」(32日目)ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧 新版』(みすず書房) 資本主義、経済学から文学へと、DEGUTIさんが1冊で収まらず5冊もの書籍を紹介した後、SIMAKUMAさんは1冊ですべての領域を網羅する「狐が選んだ入門書」(山村修著、ちくま新書)を選びました。 「言葉の居ずまい」、「古典文芸への道しるべ」、「歴史への着地」、「思想史の組み立て」、「美術のインパルス」という興味深い5章立てで構成されたこの本は、本棚に置きたい1冊ですね。 山村修さんの大学図書館司書というお勤めや、勤務の傍ら「狐の書評」という匿名書評を連載されていたことなど、書物だけでなく著者にも興味が湧きました。まるで大学で教鞭を執りながらあちこち徘徊し、精力的にブログで発信されるゴジラ老人さんのようです。 さて、私自身がさまざまな評論に主体的にかかわり始めたのはそんなに昔のことではありません。仕事の必要性からかじった本や入門書は少しありますが、自分が生きている「今」や「日本」という国を時間軸でとらえる必要があると考え、まず歴史について、そして「日本」を客観的に捉えるためにアイヌや朝鮮、中国、台湾などのアジアから世界へと関心が広がりました。 専門的な知識や研究ではなく、あくまでも私の理解ができる範囲でご縁のあるところからスタートしました。そのうえでようやく経済や政治、メディアにリンクしてきたところです。SIMAKUMAさんに間口を広くしてもらったところで、ご縁のあった次の1冊を選びました。 ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧 新版』(池田香代子訳 みすず書房) 実はDEGUTIさんの選んだ山本七平『「空気」の研究』は、今お風呂タイムに読んでいる『別冊100分で名著 メディアと私たち』にも収められています。(他に『世論』(リップマン)、『イスラム報道』(サイード)、『1984年』(オーウェル)また、日曜夜のお楽しみのNHK『美の壺』の時間帯に放映された『ズームバック×オチアイ』でもオススメで紹介されたんです。 立て続けに山本七平の『「空気」の研究』が重なって気になっていたところ、もう1冊ビビビっと来たのが『夜と霧』です。 先週日曜日の『ズームバック×オチアイ』のテーマは「教育の半歩先」。休校、分散登校、リモート授業と、コロナ禍で問い直された教育。ほんの少し前に英語民間テスト活用や記述式の共通テスト見送りが決定したところ、まだ教育は迷走が続いています。 大学入試の新システム「JAPAN e-Portfolio」も 運営許可を取り消すようです。大手企業であるBenesseの企業利益に振り回されるような経済主導の教育はまっぴらです。 そもそもどのような「学び」 が必要なのでしょうか。そんな考察の中で、「豊かさ」についての示唆を与える書として紹介されたわけです。 『夜と霧』は日本だけでなく世界でも大変有名ですが、このたびは新訳の池田香代子さんの本を挙げます。「心理学者、強制収容所を体験する」とあるように、精神医学をまなぶフランクルは、第二次世界大戦中、ナチスにより強制収容所に送られた体験を著しました。 表紙のフランクルの被収容者「番号」の「11910」は、持ち物や経歴といったその人個人の属性はもちろん、かけがえのない「名前」も、人間の尊厳も奪われ、労働者というモノとして扱われた象徴と言えます。そして、裏表紙には作中の次の箇所が紹介されています。 わたしたちは、おそらくこれまでのどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。 では、この人間とはなにものか。 人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。 人間とは、ガス室を発明した存在だ。 しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。 本当に、想像を絶する収容所生活です。シベリア抑留者の方のお話も直接取材しましたし、本も読みました。昨年の南京フィールドワークのあと、多くの戦争関連(特に日中戦争)の記録や本、講演や映画、証言に触れてきました。いつも戦争の中では個人の人間性は抹殺されます。労働に適さない被収容者は移送されてガス室送りか火葬場へ、そんな選別の連続の中、筆者は生還するのですが…。 被収容者の心の反応は、施設に収容される段階、収容所生活そのものの段階、収容所からの出所または解放の段階と3つの段階に分けて記録されています。その中の収容所生活の段階は、今の日本の状況と重なるようで、そこにもぞっとしました。 もちろん絶望的な収容所の生活と今の日本の状況は異なるのですが、まあ日本については話がそれるので『夜と霧』における人々の変化に戻ります。 飢餓と重労働、暴力による懲罰や仲間の死という生活が見慣れた光景になり、嫌悪や恐怖、同情や憤りという感動が消滅し、無関心になること。精神的に追い詰められた状態の中で、精神生活全般が幼稚なレベルに落ち込むということ。風前の灯火の自分の命を長らえさせることのみを意識し、非情になること。(これらのいわゆる「極限状況」の中で人間はいかに生きるか…というのが多くの文学作品の中でも主要なテーマになっているのですが。) そんな悲惨な極限状況の中で、人間の尊厳ともいえる以下の本質も明らかにします。 すべてに無関心となる中で、政治へと宗教への関心は例外だったということ。 精神的な生活を営んでいた感受性の強い人たちは、愛や詩や思想の真実によって至福を得、内面的に深まったこと。 夕焼けの茜色に照り映える山並みなどの自然の美しさに感動し、うっとりすること。ささやかな収容所の中での芸術やユーモアに心が震え、喜びをかんじること。 孤独の中で思索にふけりたいという渇望を失わないこと。 心理学者フランクルは、収容所生活の中でも「精神の自由」はありうると、苦しむことも生きることの一部であり、苦悩と死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになると記録しました。 ともかく、苦悩を客観的にとらえ、描写する(言語化)中で、超然と見なすことができる境地に至ると述べています。日々私たちに向けられた問いに、行動、適切な態度によって応えていくことが生きることの意味だと。 たやすいことではありません。努力してそんな域に近づくことができるものではないと思うのですが、思うに人間性の高みや生きる意味とは、苦悩をどのように受け止め、自分自身がどんな態度でどう行動するかと葛藤するなかで到達できる境地なのでしょう。 そのような高みは崇高すぎて畏れ多いので、せめて私としては自然の美しさに感動したり本を読んでうっとりしたりする喜びを感じるひとときを大事にしたいものです。 お金や名誉、偏差値のように数値で表現できないものこそが「豊かさ」だと思うからです。 教育の話に戻りますが、新型コロナ対策も日本の教育も瀕死状態です。必要なのは模範解答を選択することではなく、社会の矛盾や不条理に向き合い、無関心から脱して対話し思考するというための時間なのですが、教師も生徒もそんな余裕がますます失われているようで…。 ステイホームの期間中は、「豊かさ」について思いをめぐらせた人も少なくなかったと思ったのですが、どうなんでしょうか。 あちらこちらに話が飛び、とりとめのない紹介になってしまいました。ではSODEOKAさん、よろしくお願いします。(N・YAMAMOTO・2020・07・25)追記2024・02・02 100days100bookcoversChallengeの投稿記事を 100days 100bookcovers Challenge備忘録 (1日目~10日目) (11日目~20日目) (21日目~30日目) (31日目~40日目) (41日目~50日目)というかたちまとめ始めました。日付にリンク先を貼りましたのでクリックしていただくと備忘録が開きます。にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.05
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谷川俊太郎(詩)パウル・クレー(絵)「クレーの絵本」(講談社)黄金の魚Der Goldfish 1925おおきなさかなはおおきなくちでちゅうくらいのさかなをたべちゅうくらいのさかなはちいさなさかなをたべちいさなさかなはもっとちいさなさかなをたべいのちはいのちをいけにえとしてひかりかがやくしあわせはふしあわせをやしないとしてはなひらくどんなよろこびのふかいうみもひとつぶつのなみだがとけていないということはない 谷川俊太郎が、パウル・クレーの絵を40枚選び、そのうち11枚の絵に、絵と同じ題の、おそらくクレーに対してであるのでしょう「愛」、「在るもの」、「線」というように詩を書き加えて出来上がった「詩画集」です。 最初に表紙の絵「黄金の魚」のページに書かれた詩「黄金の魚」を載せました。あと二つは、ぼくが気に入った詩と絵を選びました。選ばれた場所Auser wahlte Statte 1927そこへゆこうとしてことばにつまずきことばをおいこそうとしてたましいはあえぎけれどそのたましいのさきにかすかなともしびのようなものがみえるそこへゆこうとしてゆめはばくはつしてゆめをつらぬこうとしてくらやみはかがやきけれどそのくらやみのさきにまだおおきなあなのようなものがみえる死と炎Tod und Feuer1940かわりにしんでくれるひとがいないのでわたしはじぶんでしなねばならないだれのほねでもないわたしはわたしのほねになるかなしみかわのながれひとびとのおしゃべりあさつゆにぬれたくものすそのどれひとつとしてわたしはたずさえてゆくことができないせめてすきなうただけはきこえていてはくれぬだろうかわたしのほねのみみに シマクマ君の家には谷川俊太郎の「仕事」がたくさんあります。絵本や詩集ですね。「ゆかいな仲間」たちが小さかったころ、読んでほしいと思って買ったのかというと、そういうわけでもありません。同居人のチッチキ夫人が、昔から彼の詩が好きだったというのが理由です。 シマクマ君が彼の詩をまじめに読み始めたのは、どちらかというと最近のことです。読み始めてみると、昔読んだ詩もあれば、初めて見る絵本もあります。 この絵本は、表紙が棚を飾っていたにもかかわらず、中を見るのは初めてだった本です。手に取ってみると、ほっておくのは、ちょっと惜しいと思うのは、この三つの「絵」と「詩」で十分わかっていただけるのではないでしょうか。追記2022・06・04 この絵本とかは、まあ、詩集といった方がいいと思いますが、詩人にそんなふうにいうのもなんですが、名人芸ですね。 せめてすきなうただけはきこえていてはくれぬだろうかわたしのほねのみみに 90歳を超えた詩人は、ここの所「死」について、軽やかな「詩」のことばで表現していますが、まさに、不世出の職人詩人の長寿を願うばかりですね。にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.04
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フェデリコ・フェリーニ「アマルコルド」元町映画館 映画.com フェリーニ映画祭のプログラムの1本です。何故か「フェリーニのアマルコルド」と呼ばれがちですが、題名は「アマルコルド」です。あの淀川長治さんが愛した映画の1本としても有名な映画だと思います。ぼくは20代で見ましたが、今回は久しぶりの再会でした。 綿毛が雪のように降ってきて、街の真ん中に薪やがらくたの大きな山が作られて、山のてっぺんには女神の人形が座らされ、盛大に燃え上がる焚火が冬の女神を焼きつくしていきます。人々は喜びに満ち溢れています。イタリアの田舎町に「春」がやって来たのです。 「アマルコルド」という、変てこな題名は、この町の方言で、「わたしは覚えている」という意味だそうですが、映画は、そろそろ「春」がやって来たらしい少年チッタの「思い出」の日常がコラージュされている趣で描かれています。 格別な筋立てがあるわけではありませんが、印象的なシーンが重ねられていきます。 燃え上がる火柱、盲目のアコーディオン弾き、気がふれた娼婦、中学生のいたずらに叫ぶ女性教員、霧に浮かびあがる豪華客船、ファシストの行進、拷問される父親、そして母親の死。 しかし、何よりも町一番の美女クラディスカをめぐる、笑うに笑えないエピソードや、女性たちの肉感的な姿態をクローズアップした数々のショットに少年の日の忘れられない「思い出」が詰まっているようでした。 街が埋もれてしまうほどの大雪の冬がやって来て、やがて綿毛の舞う春を映し出しながら映画は終わりました。 15歳だった少年の思い出の一年が、これほどまでに「分厚く」描かれていたことに、20代のぼくは気付くことができませんでした。当時、笑うしかなかった少年たちの「愚かしさ」こそが、実は、人間にとって「生きている」ことそのものの経験だったのではないかと感じるほどに、ぼくも年を取ったというわけなのでしょうか。 ただ、映画を見終わって、この所、困ったことがぼく自身の意識の中に起こっています。町を歩いていて女性のお尻が気になって仕方がないのです。 理由ははっきりしています。この映画のカメラは、なぜだかやたらに女性の「おしり」を追いかけるのです。まあ、ぼくがそういうふうに見ただけのことかもしれませんが、劇場では、女性たちに気を惹かれるというわけでもなく、ただ、ボンヤリ見ていたのですが、映画館を出て、街を歩きはじめてすぐにわかりました。 頭の中では、「アマルコルド」という題名の意味を思い出そうと、結構、まじめに考えこんでいたのですが、目は、そのあたりを歩いている女性たちのお尻を追いかけている具合なのです。 なんなんでしょうね。チッタの「思い出」を見ることで、ぼくの「若かりし日」の深層心理が動き出したのでしょうかね。まあ、そういう意味でも「少年」の心を見事に描いた映画でした。拍手!監督 フェデリコ・フェリーニ製作 フランコ・クリスタルディ原案 フェデリコ・フェリーニ トニーノ・グエッラ脚本 フェデリコ・フェリーニ トニーノ・グエッラ撮影 ジュゼッペ・ロトゥンノ美術 ダニロ・ドナティ衣装 ダニロ・ドナティ編集 ルッジェーロ・マストロヤンニ音楽 ニーノ・ロータキャストブルーノ・ザニン(チッタ)マガリ・ノエル(グラディスカ)プペラ・マッジョ(チッタの母)アルマンド・ブランチャ(チッタの父)チッチョ・イングラシア1974年・124分・イタリア・フランス合作原題「Amarcord」日本初公開:1974年11月16日2020・10・26元町映画館no59にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.03
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バカ猫 百態 2020年 その2「ぼくらの肖像画」 いつも、マンガ便を運んでくれる「ヤサイクン」のおうちには二匹のネコと、一匹の犬が暮らしています。 ネコの二匹は姉弟で、おねーさんが白いネコで「キキちゃん」と言います。弟が黒猫の「ジジ君」です。二匹のネコを飼い始めて、ようやく落ち着いてきたと思った頃に、ネコを飼うだけでは飽き足りないヤサイクンが、連れて帰ってきたのが雑種のワンちゃんで「カルちゃん」という女性です。 その三匹の肖像画が届きました。誰が、どうやって書いたのか、書いてもらったのか何の説明もなしに、「なんちゃらフォト」とかに送られてきました。何度か実物とも出会っていますが、なかなか良く似ていて、かわいいですね。 カルちゃんがやって来て一年余りたつと思いますが、もうすっかり仲良しのようです。 カルちゃんとネコくんたちの食事トレイは分けてあるのですが、カルちゃんの分は床に置くしかないという結果、こういうことになってしまうようです。 栄養価が違うので、本当はネコくんたちにはよくないのですが、結局こうなってしまうようなのです。 面白いのは、三匹がべつに喧嘩をしたり、吠えたりするわけではない関係になっていることですね。 お互い仲良くなってよかったのですが、可哀そうなのはヤサイクンです。「あーちゃんママ」の反対を押し切って、ちょっと、かわいそうな境遇だったカルちゃんを連れて帰ってきた彼は、毎日、帰宅して、カルちゃんの頭をなでようとすると、「うー」って唸られるそうです。 半年間、記事を載せるのを忘れていましたが、まあ、あれこれ、バカ猫、バカ犬報告を再開します。読んでくださいね。(2020・11・01)にほんブログ村ボタン押してね!
2020.11.02
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フェデリコ・フェリーニ「青春群像」元町映画館 なんといっても「青春群像」と邦題が付けられているくらいですから。5人の、まあ、今考えれば「青春」というには、少々薹が立っている男たちが登場します。 1953年につくられた映画で、登場人物たちは20代の半ばを超えています。彼らが10代の後半から20代にかけて、何を経験したのか、映画には一切描かれないのですが、5人ともが、揃いもそろって定職につくわけでもなく、海辺の田舎町で、フラフラ、ウロウロしているのを、日本で言えば、昭和20年代の終わりということになる、当時の観客たちが「リアル」だと思って見たとすれば、おおむね予想がつくというものでしょう。 こうやって、写真を見ると、いかにも「ラテン系」の青年たちの顔なのですが、ぼくには、全く見分けがつきません。みんなマフィアの子分にしか見えないのです。 ところが、なかなか、どうして、映画の中では個性的なんです。一人一人の特徴を挙げれば、色男のファウスト、空想家のアルベルト、劇作家志望のレオポルド、美声のリッカルド、最年少のモラルドの5人です。 写真の正面にいるのがファウストで、その陰に小さく映っているのがモラルドだと思うのですが、ちょっと確かではありません。 あとで調べてみると原題は「I Vitelloni」で、「雄牛」という意味だそうです。映画は、まさに、さかりのついた「雄牛」そのものというべき「色男」ファウストが、モラルドの妹サンドラにちょっかいを出し、妊娠させた挙句、逃げだそうとするのですが、父親にとっちめられて結婚するというシーンから始まりました。 幸せなサンドラと問題児ファウストの結婚シーンです。そのあとの展開は、ファウストの、「播州弁」でいう所の「焼いても治らん」好色一代男話で、あんまりな結末に、サンドラの兄である悩めるナイーブ青年モラルドが汽車に乗って街を去るところで終わります。 ファウストの場所も、年齢も、社会的関係も、まあ、その他、制約になりそうなあらゆる障害をものともしない、女性に対する不埒で無節操な行動力は一見に値します。 ちょっとエルビス・プレスリーに似た顔立ちで、口説けば必ずなんとかなると考えているようで、見ていて笑うしかありません。可哀そうなのは、そんな男の子供産んで妻になっているサンドラなのですが、それが、どうも、そうでもないようなのです。 モラルドが街を去るのも、必ずしも、妹サンドラの不幸と、友人たちの無軌道に嫌気がさしたというより、どうなるかわからない、もう一つの青春を映し出していて、見ているこっち側が、ああ、あの頃から40年たったという感慨に浸ることになってしまうのでした。 なんだか、とてもバカバカしい映画であるにもかかわらず、妙に、胸に残る映画でした。 やっぱり、フェリーニはいいですね。監督 フェデリコ・フェリーニ原案 フェデリコ・フェリーニ エンニオ・フライアーノ トゥリオ・ピネッリ脚本 フェデリコ・フェリーニ エンニオ・フライアーノ撮影 オテッロ・マルテッリ音楽 ニーノ・ロータフランコ・インテルレンギ(モラルド)アルベルト・ソルディ(アルベルト)フランコ・ファブリーツィ(ファウスト)リカルド・フェリーニ(フェリーニの弟:リッカルド)レオポルド・トリエステ(レオポルド)レオノーラ・ルフォ(サンドラ:モラルドの妹・ファウストの妻)ジャン・ブロシャール(ファウストの父)クロード・ファレル(オルガ:アルベルトの姉)カルロ・ロマーノ(ミケーレ:雇い主)エンリコ・ビアリシオ(モラルドの父)パオラ・ボルドーニ(モラルドの母)1953年・107分・イタリア・フランス合作原題「I Vitelloni」(雄牛)2020・10・26元町映画館no58にほんブログ村にほんブログ村
2020.11.01
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