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正中線というと妊娠線と思う人もいるだろうが、実際は左右対象形の生物で、前面、背後の中央を、頭からタテにまっすぐ通る線をいう。わかりやすくいえば、頭の中央から鼻の真ん中を通り、へそから陰部に達する線のことだ。名人が刀を振うと、真っ向唐竹割りといって、この正中線を切り割ることになるが、まったく音もなく、血も出ないで切れるという。ところが実際は、鼻が曲がっている人もいれば、へそが真ん中にない人もいる。私はどうもへその位置が、やや右にあるようだ。通称いわゆる「へそ曲がり」だが、右に位置するところから、やや右寄りのひねくれ者かもしれない。風呂に入っているとき、よく確認してみよう。まっ裸になって自分のへそを見る機会は、このときくらいしかないだけに、風呂の中に正座して、へそが正中線上にあるかどうか、確認してみよう。もしなければ、性格が素直でない。だからといって、悪いわけではない。むしろ、自分の本当の性格を知る上で、できるだけきちんと知っておいたほうがいい。かりにまっすぐだったら、芸能界やマスコミには向かない。素直すぎて面白みに欠けるからだ。政治家も右か左のどちらかにズレているほうが、成功するのではあるまいか?わが子のへその位置を、幼いうちに風呂で確かめるのも興味深いものがある。へそ占いではないが、意外に当たるような気がしているのだが。
2013/05/31
村上春樹の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』ではないが、政界では『色彩を持たない安倍晋三と、彼の巡礼の年』が展開されているようだ。第1次安倍内閣では、色彩をもつ赤城徳彦、塩崎恭久、松岡利勝の赤、白、緑の3閣僚に足を引っ張られたため、第2次内閣では日銀総裁、白川方明を最初から下ろしてしまった。代わって黒田東彦を日銀総裁にもってきて、アベノミクスを推進させたのだが、この巡礼の旅は成功したようだ。どうも色彩的に見ると、白より黒の名字のほうが圧倒的に優勢だ。白のつく有名人といえば横綱白鵬しか思い浮かばない。これに対し、芸能界だけでも黒澤明を筆頭に、黒柳徹子、黒木瞳、黒鉄ヒロシが浮かんでくる。ほかにざっと挙げるだけで、戦国時代の謀将黒田長政、画家の黒田清輝、建築家の黒川紀章、メジャーで活躍する黒田博樹投手などなど・・・中堅クラスでは大黒摩季から黒田アーサー、黒谷友香、石黒賢などもいる。念のため赤と青を調べると赤が優勢で青は少ない。どうも色彩をもつ名字としては、黒が断トツのトップだ。色彩で人間を判断するのはよくないかもしれないが、現実には「黒」が最優秀であることは間違いない。もしペンネームや芸名をつけるとしたら、私は「黒」をすすめる。安倍首相がそれを知っていたかどうかはわからないが、黒田姓を日銀総裁に据えたのは成功だ。一言つけ加えるならば、「黒」姓の人は、長くその地位を保ちつづけるようだ。
2013/05/23
このところ、日本の動きが世界の注目を浴びてきた。安倍首相の発信力といっていいだろう。英国のフィナンシャル・タイムズは「日本は突然奮起した!」という特集を載せているが、「ツナミと中国がその要因だ」と分析している。大津浪、原子力発電、韓国と中国の脅威、北朝鮮の暴走など、いくつものむずかしい局面がいっぺんに起こったことで、平和慣れした日本人も「かくてはならじ」と、目が覚めたのかもしれない。私はどの国も、男性社会と女性社会を交互に繰り返している、と思っている。たとえば日本でいうと「平安朝時代」の安定した女性社会が、約390年ほどつづいた。次に武家政治の「鎌倉時代、戦国時代」が約400年つづいて、男性社会となった。ようやく徳川家康によって平和が保たれるようになり、幕府は約250年つづいた。女性社会といっていいだろう。次に明治維新(1868)から太平洋戦争の敗戦(1945)まで、77年間が大動乱の男性社会となった。平和な女性社会がやってきたのは昭和20年(1945)以降で、これが現在まで、約70年弱継続している。これで見ると、まもなく男性社会になっても不思議ではない。フィナンシャル・タイムズの指摘は、ある意味、日本の方向を指差しているようにも思える。平和な女性社会をつづけたくても、そうはいかない。周りが騒がしくなれば、眠れる日本人も、起きなくては殺されてしまう。私は右翼でも左翼でもなんでもないが、一研究者の目で見ると、あと7年の間に、日本は男性社会に変わるだろう。また変わらなければ、日本が守れないし、日本人を存続させられない。
2013/05/17
同じことをいっても、許される人と許されない人がいる。同じ東京都知事でありながら、石原慎太郎の失言は大目に見られたり、ときには苦笑いですまされてきた。それは、長年の政治家生活で「彼は皮肉屋」というレッテルが貼られてきたからだった。そして現実に芥川賞をとった作家であり、もともと愛国主義者で超右翼、と知られてきたからこそ、中国人を支那人といっても、誰もクレームをつけなかった。それに慎太郎には、照れ笑いという、人の好さを覗かせる一面もあった。ところが猪瀬直樹知事については、まだ都民はなにも知らない。都知事選で記録的な票を集めたからといって、彼の魅力とはいえない。むしろ石原慎太郎から禅譲されたようなもので、そんな男がそっくり反って、威張っているのを、私たちは許したわけではない。米国でトルコの悪口をいったというので、大騒ぎになったが、ようやくアラブ諸国に詫びらしき言葉をいったと思ったら、翌日にはまたケチったらしい弁解をいっている。とうとう安倍首相自らトルコ首相に詫びを入れたが、ここは猪瀬自身、安倍首相に礼をいうべきだし、都民にも一言「お騒がせした。申しわけない」と、詫びるのが筋ではないか?かりにこれで20年のオリンピックがトルコに決まったら、猪瀬は私たち都民の、70億ともいわれる巨額の税金を、ドブに捨てたことになるのではないか? ここはもっと、新聞も評論家も、猪瀬に強くいうべきなのだ。彼には、まだ大目に見られる長所がない。いや、あるのかもしれないが、それが都民には見えていない。もっとユーモアを含めて語るべきなのだが、大阪府知事の橋下徹とは、どうも格が違うようだ。人間的な魅力とは、許される魅力をいうのである。
2013/05/09
この5月4日は寺山修司の没後30年だ。どの時代にも早熟の天才が出現するのもだが、1935(S10)年生まれの寺山は、18際のとき早くも短歌で賞をとっている。後の「短歌研究新人賞」だが、20歳で処女戯曲「忘れた領分」が、早稲田の大隈講堂で上演された。彼は私より4歳年下だったが、同じ文学の道を志した少年、青年時代において、早くもまぶしい存在だった。昔から同時代に1人の早熟の天才が出ると、その周りの人々の才能は枯れるといわれる。そうやって書けなくなった人たちを、私は多く知っている。実際、私も太宰治、三島由紀夫、そしてこの寺山修司らの才能にたちすくんでしまい、編集者への道に転向していったのだが、のちに三島、寺山とは親しい間柄になっていったのだから、人生はわからない。寺山修司は青森県弘前市の出身で、詩人、歌人、作家、劇作家などなど、言葉に関する仕事のすべてを網羅する天才だった。それでいて、ふだんは下駄ばきで東北弁を使う。劇団「天井桟敷」を主宰して、渋谷の小劇場「ジァンジァン」を根城にしていた。私はよく遊びに行ったが、芝居がはねると喫茶店に入り、深夜までしゃべりつづけた。彼は1983(S58)年、47歳で死ぬのだが、そのしばらく前まで、つき合いはつづいた。先日、たまたま井の頭線の浜田山に行く用事があり、そのついでに旧松本清張邸に回ってみた。すでに未亡人も亡くなっているので、訪れるわけにもいかなかったが、そのあと、寺山が最後に住んでいた永福に足を向けたが、ふと彼が亡くなって30年たったことを思い出し、なにやら、寺山の魂に呼び寄せられた気がした。
2013/05/02
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