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「非凡とは平凡の繰り返しだ」と聞いたことがある。非凡な人というと、私たちは「凡人にはなれない高みの人」と思いがちだが、実はそうではない。平凡な仕事をあきないでつづけていく人が、非凡な大仕事を成し遂げるのだ、と知ったとき、若い時期の私はパッと明るくなったものだ。ところが現実はそれは不可能に近いことだった。風邪も引くし、下痢もする。10年に1回は家で休み、20年に1回は入院する。これが私の生活だったが、タモリはどうだ!「笑っていいとも」の初回は1982年10月だった。それから32年間、彼は毎週月曜日から金曜日までの5日間に、増刊号の日曜日を加えると、週に6日間、働きっぱなしだった!スタートしたのは36歳で、気がついたら68歳になっていた。「一業一生」を黙々と実践してきた非凡な芸能人だった。まさに「平凡の繰り返し」の一生だった。来年3月「笑っていいとも」は終了することになったが、もうタモリのような平凡な非凡人は、現れないだろう。いつも飄々(ひょうひょう)としていて、怒ったところを見たことがない。芸人としてもそうだが、人間として、これだけ練れている男は、どこをさがしてもいないだろう。むしろ「笑っていいとも」が終わったら、芸人社会から足を洗って、別の世界で模範的な生き方を、生まで見せてもらいたいと思う。いまの時代はゆるキャラだ。この「ゆるキャラ」という概念は、みうらじゅんがつくったようだが、実はタモリに原点があるように思う。タモリの芸風には、適当、ゆるさ、自由さが漂っており、いつも肩の力を抜いている。この姿を見るだけでも、気分がゆったりしたものだが、テレビからこの姿が消えるのはさびしい。ゆるキャラとして、再び復活してもらいたいと思う。
2013/10/30
警視庁の24歳の巡査が、実弾5発入りの拳銃をもったまま、行方不明になった。制服や雨合羽をトイレに捨て、ふつうの人の服に着替えて逃走した。幸い逮捕されたが、強盗事件で犯人が使う、目出し帽や大量の衣服をもっていた。また自分の口座から300万円引き出していたというから、もしかすると、なにか犯罪を企んでいたのかもしれない。考えてみると、これは推理小説に使える手法だった。かりに暴力団が拳銃と屈強の団員が欲しかったら、予備軍の優秀な男に1回、巡査試験を受けさせて、巡査にさせることもできる。あるいは、松本清張ではないが、完全犯罪を考えて、忘れられたあとに殺人を犯すこととして、「1年半待て」を実行することもできよう。このとき巡査になっていたら、筋立てとしても面白いかもしれない。恐らく今回の事件で、この元巡査の動機が、なんであったかを知りたがっているのは、ミステリー作家たちではあるまいか? それほど意表をついた逃走劇だった。警視庁は、この巡査の動機をオープンにしないかもしれない。かりに「人殺しを実行するために巡査になった」としたら、それを発表できるだろうか? あるいはもっと深読みして、巡査になってから、陰湿ないじめを受けた上司への復讐を企てていたとしたら、どうだろう?ミステリー作家も顔負けの動機が隠されているかもしれない。いずれにしても、作家も編集者も、この巡査の発想に注目している。
2013/10/24
非運の経営者として、私はリクルートの江副浩正、西武鉄道グループの堤義明、それにダイエーの中内㓛の3人を挙げている。それぞれ昭和のカリスマと呼ばれた経営者だ。江副浩正と堤義明は非運ではあるが、江副はリクルート事件を起こし有罪、堤義明もインサイダー取引で有罪となり、それが引き金となって引退した。それに対し中内㓛は、ダイエーをトップスーパーストアに育て上げながら次代を読み切れず、無念の引退となった純粋経営者だった。他国との戦争でも、ビジネスの戦いでも、勝者がいれば敗者もいる。その意味で敗者はなんら愧ずることはない。『中内㓛のかばん持ち』(プレジデント社)という1冊が出た。著者の恩地祥光さんは現在、別の会社の社長をしているが、26歳のときから秘書役として、中内さんのかばん持ちとして仕えたという。どの大企業にも、経営者のかばん持ちがいる。私は西武百貨店の堤清二さんのかばん持ちと親しかったが、大経営者の側に四六時中いるだけに、必ず出世して経営者になっていく。それは当然であり、それくらいの器量がなければ、かばん持ちに抜擢されないだろう。私は中内さんとは面識がないが、1度だけ、福岡空港から羽田まで、目の前の席に3人の側近と思われる人たちと座る幸運に巡り合わせた。このときスーパーシートに座らない謙虚さに驚いたが、3人の側近を笑わせつづける話術にも驚嘆した。やはり只者ではないと、このとき思ったのを覚えている。恩地さんの筆は非常に巧みで、中内さんの人間性を飾り気なく描いている。1人のカリスマの半生を知るには、絶好の一書と思う。敗軍の将ではあるが、この生き方には万人に秀でた価値がある。
2013/10/18
私が週刊誌の編集長をしていた頃、マスコミや文化人は高揚した口調で、「アメリカ人は」「中国では」と論じていたものだった。それにいつの間には感化されて、私も高飛車ないい方に慣れてしまった。ところがあるとき、無名の科学者に会うと「それは中国のどの町のことですか?」と、真剣に質問されてしまったのだ。このとき私は、自分がいい加減な情報を、声高にしゃべっていることに、初めて気づかされたのだった。科学者は小さなものへの追究を怠らないが、文系の多いマスコミ人は、つい「韓国人の反日態度はひどすぎる」など、大ざっぱにくくってしまう。もちろん字数の関係で、そう書かざるを得ないこともあるが、話すときは、気をつけなければならないだろう。きずな出版で『日中海戦はあるか』という新刊を出した。第22代統合幕僚会議議長の夏川和也氏が監修し、元海将2人が書き下ろしたものだ。私はこの本だけは、多くの人々に読んでもらいたいし、海上保安庁、海上自衛隊の皆さんの苦労を知ってほしいと願っている。私が驚いただけでなく感心したのは、やはり自衛隊のトップは、実に緻密で落ちついている。筆は冷静で、中国はこういう攻撃を仕かけてくるだろうが、こちらにはこういうプラス、マイナスがあると指摘する。いわゆる大げさな形容詞は、1つもないのだ。かつての日露戦争でバルチック艦隊を破った東郷司令長官は、海戦中「動かざること巌(いわお)の如し」で、長官の立っていた靴の形だけ、波しぶきもなく白く残っていたという。私は基本的に、国名や人名で、好き嫌いや、非難、批判するのは好きではない。そんな書き方やしゃべり方で金を稼ぎたくないと思っているのだが、この本の著者の姿勢には、感心してしまった。
2013/10/10
私は週刊誌の編集を長くつづけたせいか、いまから50年前と100年前の人物や事跡を調べるのが、癖になっている。50年というのは、死殁した作家の著作権の権利が切れる年だからである。1962年に殁した作家には吉川英治、宝生犀星、柳田国男がいるし、63年には野村胡堂がいる。これらの作家たちの作品は、どの出版社でも出す気なら、原則として、印税なしで出版できることになる。ただし、日本では50年だが外国では70年なので、これから協議の対象になるだろう。また100年前の事跡にもいろいろあるが、私は女性専門なので、常にその目で見ている。1913年には、現在女子学生に人気の上智大学が、カソリック系大学として、初めて設立を許可されている。そしてこの年、東北帝大に女子学生が3名初合格となった。その前年、1912年には石川啄木が死んでいる。歌人の与謝野晶子が追悼の歌をつくって発表した。そして1914年には、読売新聞が初めて「身の上相談」欄を開設している。また女性の間に造花が流行した。といった具合に調べておくと、なにかのときに便利だし、それが知識となっていく。仮に「20世紀女性百年史」というテーマで1冊書くとすれば、少しずつ書くべき内容が蓄えられていく。1902年、20世紀初頭のこの年には、豚肉を食べられない女性がほとんどだった。そこで女性のための「豚肉料理試食会」が催されたのだ。100年前のこんなエピソードを豚シャブ店で話せば、みんな「へえ」と驚くのではあるまいか? 私の知識は、こんなところから積み上げられている。
2013/10/04
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