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いつか何処かで…。 30
倉敷は空に雲がかかり晴れない一日であった。
風もなくよどんでいた。工場の煙突からいつもより多くの煤煙が吹きあげられていた。書いていると雨の足音がだんだんと激しくなっている。
今日は少し良寛さんのことを書いてみたいと思う。
良寛は出雲崎の大庄屋、橘屋の跡取り息子山本栄蔵として生まれた。平らに時が過ぎていれば山本栄蔵として何不自由もなく人生を全うしていたことだろう。
だが、ひとの定めとは時に悪戯をする。父親の左門泰雄は商いに向いてなく五七五に魅せられ惹かれ以南と号を持つ程の歌うたい。だんだんとお日様が当たらなくなって家督を栄蔵に譲ってしまった。
栄蔵は十七歳で庄屋見習いになった。
代官所と村人の仲を取り持ち、佐渡の金山から送られてくる金を荷揚げすることになる。
その頃、飢饉が続き百姓一揆が起こりその斬首に立ち会い胃のなかのものを吐き卒倒した。栄蔵は名主の重圧を受け止めることができなかった。栄蔵は女に酒にと溺れる日々が多くなって行った。そして、何もかも放りだして光照寺へと逃げ込んだのであった。
そこで寺男のような生活をしてのんびりと本ばかり読んで暮した。
以南はそんな栄蔵に見切りをつけて弟の由之が後を継いだ。
実家から仕送りを受けながら四年間過ごしたことになる。
二十二歳のときに大忍國仙和尚が越後に来られ得度し剃髪をして仏門に入った。
國仙和尚は栄蔵の顔をじっと見て「大愚良寛」と名付けられた。
良寛は國仙和尚に連れられて備中玉島の円通寺にやってきて、そこで十三年間修業をすることになった。
良寛はその修業の中で縋るように仏の道を修めた。が、知れば知るほど、縋ればすがるほど身を縛られる事を感じた。
良寛は円通寺の庭に出て遠く瀬戸の海を眺めることが多くなっていった。小波に操られながら漁をする舟を眺めながら人間の道もまだ同じなのだと思った。
同輩の仙桂が田地を耕して作物を育て汗をかいているのを見ても何も感じなかった。道元の教えの「只管多坐」のなかには「一日作さざれば一日喰わず」という教えがあるがその言葉の真意を理解しようとせず、経典の中に救いを求め生き死にの導きに縋ろうとしていた。
そんな日々の中に良寛はいてもなにもすることなく日向ぼっこをしながら内海の波が返すまたたきを見つめるだけだった。この当時にはうたの心も持ち合わせてはいなかった。
そんな日々で良寛の心に芽生えたのは虚無であったのか、師の國仙和尚が示寂された後良寛は円通じをさった。手には國仙和尚から下された「印可の下」、どこの寺の和尚になってもいいと言うお許しの言葉が書きつけられたものを持っていた。
良寛のそこ後の足取りは良寛しか知らない。
この数年間の行方は分からない。その後に国上の五合庵、乙子神社の境内で30年間ほど暮らすことになる。
俗説に良寛は子供たちと毬遊びをし、商家の屋号を書いたり、祝いの言葉を書いたりして、酒台を貰っていたというのがある。高名な寺の住職にと声がかかったというがこれは怪しい。良寛は越後に帰って自由に生きていたので声がかかるとは思えない。
「愛語,戒語」書いているがそれは若かったころのものとして笑っていた。
人に戒めなどいらないというのが良寛の精神であった。むしろ戒律の中で生きる方が楽なことは知ってそれを否定している。
自由に生きることは自分を律しなくてはならないからこれは苦行である。それをなぜ選んだのか、生き方の上で考えるという事を彼は望んだ。教えられて学ぶのではなく、自分で考えて学ぶ事の大切さを、「何事も教えられて学んではならない、自分で作るのじゃ」と良寛は語っている。
70歳のころ30歳の貞心尼と巡り合う、この出会いは良寛を人間として完成させることになる。
今までのすべてを棄て、なくなる4年間に良寛の心に芽生えたものは老いらくの恋であった。
「貞心さん、この世は総て夢、夢に生き、夢に遊び、この良寛、貴方のお陰で好い夢が見られた」
形見とてむ何か残さむ春の花
夏ほととぎす秋は紅葉 ( 良寛 )
生き死にの界はなれて住む身にも
避けぬ別れのあるぞかなしい ( 貞心 )
生きることは自らが作る、道を開くのだという事を私は感じた…。
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