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24歳で独立開業することになった虫けらは、「女・24歳」に対して持つ世間の認識を十分に理解しているとは言えなかった。もちろん、20歳で世の中に出てからの4年間、若輩者につきまとう既成概念の弊害は実感していたし、一般的な24歳の人間との努力の差、経験の差を認識していた虫けらは、ある程度の自信とポリシーを持って仕事に望んでいた。前職でやり始めていた「企画」は封印。求められるのは、もっと力の要る現場作業。安ーい、安ーい印刷物の制作や、包装紙、ランチョンマット、箸袋といった、職人技が必要な制作物、中には、金印(印刷に使う金型の印章)の制作といった、レアな仕事もこなした。この時代には、広告代理店でも、企画会社でも経験できなかったような地場の仕事とネットワークづくりができて、それ以後の仕事に随分役に立った。若いからこそできたことだと思う。「失敗してなんぼ」「失敗からしか学べない」と、心に言い聞かせて、寝る間を惜しんで仕事に励んだ。しかし、常に立ちはだかるのは、「女・24歳」の壁。価格交渉、納期、各種契約、業者紹介……「信用」が必要な場面で、「女・24歳」が障壁となる。ところが、本当の窮地に立たされることがなかった。大切な仕事の時に、虫けらを信用してくれる人が現れ、実績をつくることができた。ひとつ実績をつくると、次の仕事がしやすくなる。例えば、虫けらの所持金(個人としての)が70万円しかないのに、200万円ほどの支払いのある250万円の仕事を受けたことがあった。「初回の取引の際は前金で」というのが通例の印刷業界。これを言われたら、仕事自体を断るか、借金するかのどちらかになる。しかし、印刷会社の社長が「よっしゃ。後払いでいいから、いい仕事してや」と言ってくれた。デザイナーは、虫けらがその人の仕事をしていたので、最悪「相殺」という形で支払うことに同意してくれた。それ以外の仕事(撮影、取材依頼、取材、イラスト作成等)は全て虫けらがこなし、外注費を極限まで下げることができた。こうして、250万円の印刷物を納品し、期日までに支払いができたので、この実績が次の仕事を生んでくれた。もちろん、250万円の支払いをしてくれるクライアントについては、一筋縄ではいかなかった。後述するが、支払いを受ける側と支払う側の立場の差、力の差をいやというほど思い知らされることになる。ともあれ、独立早々、小さな仕事から大きな仕事まで、次々に受注しては、忙しく立ち働く日々を送る虫けらであった。専門学校の教師時代は、スーツとまではいかなくても、少し堅いファッションを余儀なくされた。広告代理店時代は、GパンはNGながら、それほど堅苦しいファッションを強いられることはなかったが、部長が父親と同年代(昭和ヒト桁)なので、「常識」をうるさく言われた。独立して心がけたのは、いつも「スーツ姿」だった。仕事自体はコピーライティングや企画だったので、ラフな格好に越したことはなかったが、「営業」を兼ねていたし、クライアント(印刷会社や広告代理店)と一緒にトップクライアントのところに出向くことも多かったので、恥ずかしくない格好を、となると、スーツ姿が最も無難だった。パンプスとブリーフケースは必携。スーツは、ブランド物ではなく、DCブランド程度にしていた。自分の仕事や能力よりスーツが勝(まさ)っていては、本末転倒だからだ。とにかく仕事をした。何時にFAXが入っても、すぐに返したし、納期は絶対に守った。寝ずの仕事など、当たり前だった。いま考えても、無謀な毎日だったと思う。しかし、求められてやる仕事には、精一杯の努力で返すしかないと思っていた。サラリーで働く企業人なら、就業時間があり、仕事がなくても給与があり、何かあったら企業が前に出て戦ってくれる。しかし、「女・24歳」には、何の後ろ盾もない。仕事に対する姿勢やコミュニケーション能力、納めた「仕事」で評価してもらうしかないし、それで評価されなければ、次の仕事はもうない。毎日が戦いだったのだ。そんな、悲壮な毎日の中でも、虫けらは必ず心がけたことがある。「格好よく生きよう」ということだ。「カッコよく」でもいいのだが、漢字表記の方がカッコいいと思うし、正しくは「かっこう」なので。「格好いい」の対義語は何だろうか。「格好悪い」ではない。「みっともない」なのだ。その言葉の中に、一縷の望みもない。全否定の言葉だと思う。「みっともない」と言われる人間にだけはなりたくなかった。「格好よく生きよう」と決心した虫けらの心中と、では、「みっともない」とはどういうことか、は次に。to be continued……
2025.01.30
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「文屋」、つまり新聞記者は、「あるランク以上の大学を卒業した男子」しかなれない、今となっては結構差別的な職業だった。そこで調べに調べた虫けらが出した答えは、「速記士」として就職するという道だった。その頃は、FAXもない時代。取材先に出向いた新聞記者は電話(口頭)で記事を新聞社に送る。その時、電話を受けて口述筆記するのが速記士なのだ。速記士として潜り込むことができれば、何らかの手練手管を用いて新聞記者に転身できると考えたのだ。甘い考えながら、そのくらいしか奇跡を起こす方法はないと思われた。そして、速記の専門学校に進む。祖母からもらった振袖(成人式の際に着るもの)を購入するための費用と、アルバイトで貯めた資金を入学金に当て、何とか入学できた。そして、猛烈に勉強する。成績は常にトップ。2年の8月に最速で1級を取得し、晴れて速記士になる。9月。就職相談のために校長と面談する。校「読売、朝日、毎日、共同から既に求人募集が来てますね」虫「(選びたい放題だ!…)どこでもいいんですが…」校「女性の募集はありませんよ」虫「え……」というわけで、新聞社への就職はできなかった。雇用均等法がない時代。マスコミという、偽善の塊のような集団なのに、「女性は不要」と堂々と言って憚らないのだから、どうかしてる、としか思えない。自力で就職活動を開始し、どうにか広告代理店に職を見つける。できるだけ新聞社に近いところにいたいという発想だった。関係のできた新聞社から引き抜きなどの方法で、再就職できるかもしれないと思っていたのだ。広告代理店には、事情により2年間しかいなかったので、そのチャンスが訪れることはなかった。就職から2年後、母校の専門学校から連絡が来た。「校長が病に倒れ、教員が足りなくなった。学校に戻ってほしい」というものだった。かくして学校の教員をすることになる。3月31日まで広告代理店に勤め、4月1日には専門学校の入学式に教員として参列するという狂気の沙汰のスケジュールだったし、1週間後には授業が始まるという信じ難い態勢だったのだが、1年生のクラス担任として仕事を受け持ち、しかも、2年生の実習授業も担当、さらに、週に2〜3回ある夜間の授業もこなすという狂人的な働き方をすることになる。その上……広告代理店時代に知り合った印刷会社の社長からの「個人的な依頼」として始めていたある企業の広報紙制作(月刊発行)の仕事も抱え、殺人的な忙しさの中、学生の人生相談、就職相談なども一身に背負う毎日となった。教員生活は1年で終えた。経営陣と大変もめた、ということもあるが、広告代理店を辞めて学校に戻るという話が出た時に、「1年のみ」という申し出をこちらからしていた。やはり、文屋の夢は諦め切れなかったということか、それとも経営陣を信じていなかったのか、いまとなってはそのときの心境を覚えていないが、どちらもだろう。広告代理店時代の知り合いからの誘いで、企画会社に就職した。「企画」という分野は魅力的だと思っていた。商品開発、販売促進、イベント、広告……あらゆる分野に「企画」というものがある。全ての「元」になる企画を立案する醍醐味とワクワク感。やってみたい仕事だった。企画会社では、虫けらの仕事を認めてくれた、大手印刷会社の企画部門の担当者から指名の仕事が入るようになった。すると、上司が嫉妬の鬼と化した。事あるごとにもめた。仕事が終わったので帰ろうとすると、「まだみんな残っている」と言う。虫けらは年俸契約の社員なので、残業代がつかない。自分の仕事が終わったら帰る、というのは、会社全体が周知している就業体制である。しかし、上司は帰してくれない。デザイン部門の面々が残って仕事をしている。虫けらの前職をよく知らない上司は、デザイン部門の人間の手伝いなど虫けらにはできないだろうと、いわゆる「いじめ」感覚で手伝えと言ったのだ。しかし、虫けらはデザインのことは熟知している(最初に就職した広告代理店でデザインをやっていた)。「トレススコープ」という紙焼きの機械の使い方をデザイン部門の新人の女の子に教えていた。すると、上司がやって来て、上「何やってんねん」虫「トレスコの使い方を教えてます」上「……君はそんなことせんでええ」上司、『えー、トレスコの使い方、知っとるのか』と、驚きの表情。虫「じゃ、何をしましょう」上「……」虫「デザインを手伝いましょうか?」上「え、できるの?」虫「はい」上司、困惑の顔になる。上「きょうは、もう帰ってええ」いじめるつもりが、いじめにならなかったときの、失敗の悔しさが滲み出た顔で言う。虫けらは、女の子にトレススコープの使い方を最後まで教え、帰途についた。こうやって、嫉妬の鬼と化した上司によって、1年後、虫けらは解雇を言い渡される。社長は止めてくれたが(社長より上司の方が権限が強いわけではないが、上司か虫けらかの二者択一になると、上司を選ぶということだ)、虫「私は大丈夫ですが、あの上司の下では いい仕事をすることは難しいと思います。 指名してくださる得意先の期待に答えられません」と言って辞めた。そうしたら、「あんたが会社辞めるのを待ってたんや」「あんたに仕事頼みたいのに、あの上司さんが もれなくついてくるのが嫌やったんや」「あんたに発注するから、うちの仕事、やってや」と、さまざまな声がかかり、虫けらは独立開業することになった。もちろん、前職(企画会社)の得意先ではなく、虫けらがそれ以外で知り合った人々が仕事をくれたのだ。このとき、虫けら24歳。自分の会社を持ち、単身であらゆる注文をこなす日々がスタートするのである。to be continued ……
2025.01.18
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「哀しき清貧一家の哄笑な日々」でも触れているが(フリーページにまとめあり)、虫けらが生まれた家は貧乏だった。昭和の時代にはありがちだった貧乏一家の中でも、下(げ)のランクだった。虫けらは3人兄弟の末っ子で、女、男、女という、最後の女は「不要」という構成だったため、ひどい扱いを受けて育った。そういう物理的環境に加え、大病を患った母親の病の影響で、虫けらに障害が出ると医師から言われ、堕胎される予定だったのだが、母方の祖母の必死の抵抗で生まれてしまったという如何ともし難い事情のために虫けらの居場所は家の中になかったのだ。こういう下の下の貧乏一家には珍しく、姉も兄も虫けらも学校では皆、学級代表や生徒会の役員を務めるような目立つ存在だった(虫けらは目立つ存在ではなかったと思う)。成績は、姉が最もよかった、そして、兄が最もよかった、という時代があった。が、結果的には虫けらが最もよかった。中学時代までは平凡な成績だった。進学したのは大阪では有名な進学校だったが、上位での合格ではなく、100〜120番をウロウロする感じ。600人以上の中なので、1/5に入っているなんて、上出来じゃないか、と思っていた。しかし、2年に進級し、担任が成績順に席を並べる(前が下位、後ろが上位)教師だったので、せめて一番後ろの列に入りたいと思ってしまった虫けらは、アルバイト(学校は禁止していたが、アルバイトしないと学校生活を続けられない)で忙しい日常と、忍耐力がない性質をうまくカバーする勉強法を編み出し、試験の1週間前からスタートし、1日に4時間程度しか机に向かわないという怠惰でコンパクトな勉強法ながら、すぐに(2年の2学期)全体で一桁の席次に加わることができた。進学校(しかも私学)なので、虫けら以外は家庭教師をつけているような、勉強熱心なメンツばかりだったが、虫けらは独自の勉強法を貫き、卒業するまで、一桁台は守り続けた。が、大学には進学しなかった。父親の猛烈な反対に遭って、随分抵抗したが、結局、大学進学は諦めた。その頃、女子学生の就職率が悪かったのも、諦める理由となった。四大卒→26% 短大卒→51%だったと思う。当然のことながら、高卒の方が就職率が高かった。中でもうちの高校は、就職率100%だった(就職を希望する学生のクラスがあり、銀行、建設、メーカーなど、有名企業への就職が可能だった。何と、日銀に必ず1名就職するという大変な就職校でもあった)。しかし、高校から即就職、というのは嫌だった。その頃の虫けらは「文屋」になりたかった。今となっては、そっちの道に行かなかったことを「よかった」と思うのだが、若い虫けらにとって、ペンの力で何かをするということは、夢のような世界だった。新聞記者になるためには、大学を出ていなければならない。しかし、女性を公に募集してはいない。縁故で就職する人はいたのだが、虫けらに縁故はないので、正規の方法では就職できない。そこで考えた奇策があった。それは、「速記士」として就職することだった。to be continued……
2025.01.17
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●前提その1昨年末(24日)、虫けらは熱発と下痢に見舞われ、感染症が流行する折柄、「好中球減少症」なる抗がん剤治療者にとっては致命的状況である可能性が高く、虫けらは病院に相談の電話を入れた。が、看護師を通した主治医の返事は「もう少し様子を見て、午後からもう一度電話を」だった。虫けらは絶望の淵に叩き落される。「もう少し」がない状況だった。次は救急車を呼ぶか、死ぬかの二者択一。これは、虫けらに限ったことではなく、抗がん剤治療中の患者にとって、好中球減少症からの感染症が命の危険を伴うことは、治療者も患者もよく理解しているところである。虫けらはその死の淵から這い上がった。死なずに済んだのは良かった。しかし、38℃以上という危険水域からは3日間脱出できず、平熱に戻ったのは6日後、下痢が治まったのも6日半後という壮絶なものだった。●前提その2虫けらは、1月10日の外来診察日をすっぽかすことも考えた。もし、年末に死んでいたら、外来診察どころではないし、緊急事態過ぎて(本人がかかりつけ病院のことを申告できず、状態だけで判断して)他の病院に搬送されたなどにより、入院中だったとしても、それどころではない。病院(怖い主治医)の対応に不満があるし、それをうやむやにしては、診断や治療を受け入れることはできないという意志表示をすることも必要かもしれない。が、そこまでして怖い主治医を責めることも、心配をかけることも、やり過ぎのような気がする。どうせ治療終了の話をしないといけないので、予定どおり外来に向かった。病院のエントランス(玄関前)のスロープ。虫けらは北側から入るのだが、怖い主治医は南側から入ってくる(間に駐車場がある)。ちょうど、というタイミングで互いがスロープに入った。先に気づいたのは虫けら。怖い主治医が何気にこちらを見る。視線は虫けらに向けられている。虫けらの前後に人影はない。結構長い間虫けらを凝視したまま建物の陰に怖い主治医が消えた。虫けらは歩く方向に怖い主治医がいたので、顔を動かすことなく視線を向けられたが、怖い主治医からは右側90°の方向に虫けらがいたので、ずっと顔を横(こちら)に向けていた。よって、虫けらを見ていたのは確実。こういう状況は、過去2回経験している。が、診察室に入って、この話題に触れたことはない。怖い主治医は視力がいいので、虫けらを認知していたのは確実だが、怖い主治医が見た人物が、虫けらだと認知しているかは疑問である。虫けらは、近くで見たときと、遠目で見たときの印象が随分違うと指摘されたことが何度かある。怖い主治医もその錯誤に陥った可能性がある。しかし…これまでの態度からすると、虫けらと認知しているのではないかと思う。「思う」に過ぎないが。●前提その3虫けらの診察は2番目だった。1番目の人はいつも虫けらの前にいる女性で(診察前の血液検査の順番が反映される。女性は、とても早く病院に到着するようだ)、この人も診察の後すぐに治療室に行くので、がん患者だろう。その女性が診察室から出てきた。が、なかなか虫けらを呼び込むアナウンスがない。5分以上待っただろうか。実に珍しい。診察前に分析しないといけないデータがある場合は、少し時間を要することがあるが、今回は血液検査だけだし、5分以上かかるというのはこれまでに例がない。もちろん、診察予定以外の患者さんからの(電話)相談や、治療室からの質問などに対応していたのかもしれないのだが。●前提その4虫けらの心積もり。年末の事件に対する怖い主治医の判断にまつわる話になったら、「見放された、いえ、見捨てられた、いや、見殺しにされた!」と言ってやろうと思っていた。「『絶望』を初めて味わった」と。いや、実際に「死」を覚悟するほど絶望したのだ。目が覚めなかったら、一体どれほどの人に迷惑をかけることになるのだ、と、朦朧とする意識の中でさらに絶望を感じたことも事実なのだ。「トントントン」虫「失礼します。おはようございます」怖「……はい」怖い主治医、こちらを見ることなくモニターを凝視しながら、右手で頭を抱えている。虫けら、丸椅子に腰掛け、モニターを横から見る。血液検査のデータが表示されている。治療に関係するデータを素早く見る。白血球と好中球……全く問題ない。肝臓と腎臓関係の数字……LHの表示はあるが、基準値に近い数字ばかり。問題ない。頭を抱える数字が見当たらない。ここに表示されていない何かがあるのか?怖「う…ん…」怖い主治医の口から、言葉にならない声と吐息が漏れる。虫けら、微動だにせずに座っている。怖い主治医、目だけ動かして虫けらを見る。怖「あの熱、なんやったんやろね」虫けら、ちょっとムカつく。それはこっちが聞きたい!だから、電話相談した。何の答えも出さなかったのは、あんたじゃないか!と。虫「感染症じゃないですか」とても低いトーンの、冷たい声色のいつもの虫けらのそれとは違う声が出た。怖い主治医の表情が変わる。「感染症」というワードは、抗がん剤治療の患者には恐怖でしかない。虫けらがそういう認識でいることがはっきり提示されたのだ。虫けらのいつもと違う声と表情に気づいたのか。いや、最初から頭を抱えていたということは、年末の判断に問題があったのだと診察の前に自らが認識していたのか。それからの怖い主治医の言葉や動作は一言で言うと「おどおどしている」と言えるものだった。そんな姿を初めて見た。しかし、虫けらが動揺することはない。それどころか、さらに冷静に、静かな口調で話す。怖い主治医がそれを嫌ったのか、虫けらの語尾を切ろうとするシーンが何度かあった。しかし、治療の話になかなか移らない。よほど、年末の熱発が気になっているのだろう。虫「とりあえず、きょうの治療はなしにしたいです」虫けらから口火を切る。怖「やめましょか」怖い主治医、すぐさま同意する。それをきっかけに、怖い主治医が元気になる。つまり、治療の中止を自ら言うのが嫌だったということか。ま、こういうことはいつも虫けらが決めているのだが。もっと早く申告すれば、怖い主治医がおどおどすることもなかっただろう。申し訳ない。怖「時間の長いやつだけでも受けてくれへん?」虫「……」46時間のヤツだ。何が嫌って、これが一番嫌な抗がん剤。痺れの出る「オキサリプラチン」は金輪際やらないつもりだが、46時間入れ続ける「フルオロウラシル」というのは、副作用が多種多様で、副作用の出方が強くなっているいま、警戒しないといけない抗がん剤となっている。もう一つ「ベクティビクス」というのがあり、これは皮膚障害を引き起こす。虫けらの肌にもいろいろ出ていて、これ以上障害が大きくなると、がんより嫌な「病」となるのだ。つまり、3つの抗がん剤の全てを拒否する姿勢でいるというわけだ。怖「いやか…」虫「はい」怖「わかりました。……せっかく小さくなってたのに、 もったいないけどなぁ」小さくなっても、なくならなかった。縮小のために、抗がん剤を際限なく続けるのは不毛な努力というものだ。怖「1ヵ月くらいやめる?」虫「…そうですねぇ」即答を避けた。今すぐ「全部やめたい」と言える空気ではない。怖「次は…、通常、治療がなくても2週間後に また来てもらうんですが、嫌やったら ひと月後でもいいけど」虫「薬のことがあるので、2週間後にまいります」怖「いい?」前回、年末年始の変則スケジュールのため、通常2週間間隔の治療が3週間になった。そのことを知らぬ間に薬の量を申告したので、1週間分足りず、手持ちの保湿クリームを使わざるを得なかったということがあったので、こう言ったのだが、どうも、怖い主治医の言い方が投げやりで、診察を早く終えたいという主張かと受け取れた。虫「先生、怒ってはります?」怖「怒ってない」虫けらの「ます」にかぶせるように答える。怒っているようだ。少なくともイライラしてると見える。虫けらが「治療終了」を言い出す前に診察を終えたいということか、もしくは、治療のない人間は利益を生まないので、診察に時間を使うのがもったいないということか、はたまた、虫けらの「圧」に翻弄されたという事実がプライドを傷つけたのか、いずれにしても、虫けらとの会話を終了したそうだった。他にも、副作用のことや、薬のことや、内科でかかっている病気の話など細かなことを質問したり、意見を求めたりしたが、後半はいつもの怖い主治医の冷静で冷たい話し方と視線に戻っていたが、診察室に入ったときの主治医の様子を思い出すと、とても申し訳ない気持ちになった。以前、怖い主治医は「怒る」という単語を何度か使った。虫けらが怖い主治医に対して「怒っている」と解釈しているということだ。虫けらが怖い主治医に対して「怒る」という感情を持ったことはない。しかし、怖い主治医は、虫けらが怒っていると思ったのだ。今回もそうかもしれない。ま、今回については本当に怒っていたので、それは「正解」ということになるのだが。病院のスロープで見た虫けらから、並々ならぬ『圧』が出ていたのかもしれない。「怒られる!」と怖気づいたのか。ゆえに、先手を打って「困っている」「怒っている」という小芝居をする作戦を取ったのか。『圧』については、否定はしない。命がけの数日を過ごした。とんでもない後遺症を残すような病(感染症)にかかっていてもおかしくなかった。そのことへの落とし前はつけなければならないという気持ちがあったと思う。しかし、別に怖い主治医が悪いわけではない。自分の判断で、救急車を呼んでもいいし、夜中に救急外来に行ってもよかった。怖い主治医が100%の対応をしてくれるわけではない。甘えていたわけではないが、こんなときくらい、助けてくれると思っていたのは確かだ。これまで、怖い主治医を困らせる患者ではなかった。判断は全て自分でし、その結果について、責任転嫁するようなことも、不満を言うこともなかった。今回ばかりは、助けてくれてもよかったではないか、と。しかし。『圧』は慎もう。亡くなった夫がいつも言っていた。「お前は、黙ったときが一番怖い」と。言葉を発しないのに、それを上回る「圧」が押し寄せる。自分の居場所や避難場所がどこにもないことに気づき、絶望的な気持ちになるらしい。それを、怖い主治医相手にやってはいけない。何らいい結果をもたらさない。次の診察では、何をどうしよう。怖い主治医も策士だから、虫けらが断りにくい形で治療継続の説得をされるように思う。強い意志で立ち向かわないと(「圧」ではない)。 圧 死
2025.01.12
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昨日の、怖い主治医と虫けらの攻防は、この後にして。このブログでもたびたび登場する15歳のときに告白され、なーんにもないまま終わりを告げた、青い恋の相手。当時は、野球部のエースで生徒会長で、成績優良な上にマラソン大会では毎回優勝するスーパーマンのような男子生徒だった彼が、私を選んだことに必然性はないまでも、私としては納得のいく展開だったが、その噂を聞きつけた彼のファンから総攻撃に合い、痛く傷ついたのも確かだった。(逆の展開が彼側にもあったと聞くが)ま、15歳の記憶など遠く遠く、痛みや喜びも伴わないほんわかとした事実だけが残っているという感じ。彼は長い間関東住みなのだが、実家が大阪にあって、お父上が昨年末に亡くなられたため、荷物の整理や母上君の世話も兼ねて月に2回ほど大阪にやってくる。その際、必ず私に連絡が入り、私の自宅近所の居酒屋で、2~3時間の会食を楽しむのがここ最近のルーティーン(彼にとっての。私には、結構なイベント。「死ぬ間際にこんな機会をつくってくれてありがとう」といつも言っている)になっている。(お父上が亡くなる前にも、お父上のお世話のためによく大阪に戻ってきていたので、昨年10月くらいからの話である)昨日、病院から帰った後、例のとんかつ屋で昼食を済ませたのだが、いつもの定食にカキフライを2個追加したのがいけなかった。食べ過ぎのしんどさで、昼寝をしてしまった。目が覚めたら、約束の時間の30分前。急いで身支度をしたが、体がなかなか目覚めない。同級生と会ったとき、顔がむくんでいたのか、化粧が落ちて、いつもと違ったのか、「虫けらさん、最近、若返ったなぁ」と言われる。思い当たる節が見当たらない。同「14年前に再会したとき、まぁ、それなりに歳を重ねた容姿になっているなと思ったけど、ここ何回か会って、毎回若返ってると思う」虫「どういうこと?」同「中学のときの容姿に近い」虫「15歳に近いの?」当たることがないが、一つあった。26歳のとき、働き過ぎて体を壊して入院した。しばらく会っていなかった友達(やめた会社の同僚)が見舞いに来てくれたときに言われた言葉。友「虫けらちゃん、すごくきれい。死ぬ前の人って、きれいになるらしいよ」彼が何を思って言ったのかはわからないが、よほど私がきれいだと思ったのだと解釈した。要するに、『この世のものではない』きれいさだと感じたのだと。昨日会った彼も、そう思ったのかもしれない。『この世のものではないきれいさ』か。それはそれで嬉しいかも。きのうは治療日だった。しかし、それを断った。怖い主治医のそのときの様子は別のブログに記すとして、治療を断ってよかった。抗がん剤を脇に吊って人と会うのはやはり気持ちのいいものではないし、同級生と会える貴重な機会にそんな状態になっているのももったいない。私の判断は間違ってなかったとちょっと満足した。ま、治療を断ったときの怖い主治医には申し訳なかったとしか言えないような顛末があったのだが、それはそれとして。同「温泉行こうよ。どこに行くか、考えといて」と言われた。『温泉』という言葉は、何度も彼の口から出ている。こちらは別にいいのだが、向こうは家族がいるし、変な噂が立つのも、家族の耳に入るのも本意ではないので、その危険性がないようにしないことには、できない相談なのだが、上手にそこをクリアできれば、これまでいけなかった場所の温泉に行きたい気はする。近畿圏は温泉がない。火山がないのだから仕方ない。鳥取、四国、越前あたりまで行かなければ、本物の温泉に出会えないのが近畿住まいの悲しいところ。有馬、龍神、宝塚といった、小規模の温泉地はあるが、北関東や東北の名湯と言われる場所に一度は行ってみたい。なんて思いながら、3時間足らずの会食を終え、氷点下の中(気温は+だったと思うが、風が強く、体感は−の気温だった)、帰路に着いた。寒さの中、脳裏に浮かぶのは、その日の朝に対峙した怖い主治医の声と表情だった。とても悪いことをしたような気持ちになっていた。そうしてやりたい、という気持ちがなかったと言えば嘘になるが、そうなったときの気分の悪さは経験したことのないものだった。「人間、意地悪などするものではない」と改めて痛感して、目を伏せる夜のひとときであった。 懺 悔
2025.01.11
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まだ6時。この状況を説明した後の怖い主治医の指示としては…、「すぐに病院に来るように」しか考えられない。38℃以上の体温が12時間続いているなら、既に何らかの細菌かウイルスに感染していることを疑う状況。人間は、体内に様々な常在菌を持っている。それが悪さしている可能性もあり、その場合は抗菌剤(抗生物質)で抑え込める。しかし、インフルエンザや最近はやりのマイコプラズマ肺炎、手足口病などの厄介な伝染病には、専門的な手当や薬剤が必要になる。いずれにしても、およそ半年の抗がん剤での治療経験で初めての状況であることは間違いない。体力の低下、栄養状態、運動不足など様々な要素が重なってのことだとは思うが、何より、副作用が強く出ていることが原因の一つのような気がする。つまり、抗がん剤によって、白血球を初めとした体内の状態が大変悪くなっているのではないかと考えるしかなかった。電話相談は8:30〜となっているが、出勤してすぐに、ややこしい電話を受けるのは時間的にも精神的にも嫌だろうから、9時まで我慢することにした。8時になったらシャワーを浴びよう。病院に泊まりにでもなったら、絶対シャワーは使わせてくれない。何日泊まりになるかわからない。入院セットはある程度つくってある。短期の入院なら、それをカバンに詰めてティッシュと飲み物、パジャマを突っ込めば、何とかなる算段だ。8時近くになっても、状態は変わらない。体温は38℃超え。経口で水分を補給しても、すぐに水様便になって出て来る。ゼリー飲料も同じ。脱水症状を何とかせねば。8時。シャワーを浴びる。ついでに体重を計る。前日より1.5lgマイナス。体外に出た水分量がわかるというもの。9時。テーブルの前に座り、体温を測る。37.6℃。シャワーでスッキリした分、体温が下がる。(しかし、すぐに上がるのだが)抗がん剤治療者に渡されるしおりに書いてある病院の番号をプッシュする。電話に出た女性の声は…医事課の人間だ。大代表の番号か。「電話相談なら、2時以降にかけ直してください」と言われる。「抗がん剤の副作用が出た場合、電話で相談するようにという指導を受けています」と言って、ようやく外科につなぐとの回答。大分待って(4分くらい)、出てきたのが知らない看護師(医事課かもしれない)の声。症状を言う。「受診したいということですか?」と聞かれる。この病院は、抗がん剤治療中の患者への対応が全く周知されていないようだ。「強い副作用が出た場合、電話をして主治医の指示を仰ぐようにとしおりに書かれています」と言うと「◯◯先生(怖い主治医)に聞いてみます」という言葉とともに、電話は保留音に。2分以上待って、「今、先生は診察中なので、後でかけ直していいですか?」こんな簡単な話で7分もかかった。テーブル前に座っていた私は、ぐったりし、このまま電話を待つか、2階に上がって床に入るか迷う。5分ほどしてコール音が鳴る。電話の相手が怖い主治医なら、もっと詳しく症状を話したのだが、先ほどの看護師のようで、「先生に確認したら、もう少し状態を見て、悪くなるようならまたお電話下さいますか?」だと。死んだ。絶望の淵に沈んだ。これ以上悪くなったら、自分では動けない。ギリギリの12時間待ちだったのだ。床に潜り込み、「死ぬか、死なずに済むか半々の確率。生命力にかけるしかない」と腹をくくる。もちろん、再度電話する気などない。救急車か、死ぬかのどちらかしかないと思っていた。重い感染症なら、死ぬ確率が高くなる。しかし、常在菌や大したことのない感染症で、細くなったとはいえ、私の免疫力が勝ったら、何とか生き延びることができる結果として、生きていた。当日、営業予定だったので、予約客に連絡を入れ、状況を説明して予約をキャンセルさせてもらった。月曜日と火曜日の夜までで、トイレは合計20回程度、経口補水液は1000cc、ゼリー飲料を3つ。結局、体温は24時間以上38℃前後を行ったり来たりした。水曜日の朝の体重は、火曜日の1.5kgマイナス。つまり、月曜の朝の体重の3kgマイナス。49kg程度の体重が1日半で3kg落ちるというのは、大変な脱水と組織破壊を意味している。平熱になったのは、6日後。下痢が治まったのは、7日後。これは、病院に行かなくていい状態ではない。一歩間違えば、死んでいてもおかしくない状況だ。というわけで、抗がん剤治療は終了することにした。こんな大変な状況なのに、全く助けてくれない病院を信用することも、頼ることもできるわけがない。「悪くなったら、電話を」と言っていたが、追跡もされなかった。一人暮らしであることは、怖い主治医は知っている。孤独死していても、すぐには見つからない。そういう状況なのに、放置された。多分、看護師に伝えた情報が少なかったのだと思う。同じ情報量でも、直接怖い主治医に伝えていたら、全く違う判断になっていただろう。(希望的観測かも)看護師の口を媒介したことで、「軽い症状なのに、愚痴って来た面倒な患者」というニュアンスで、表現されたように思う。としても!怖い主治医は、直接私と話すか、もっと詳しい症状の説明を求めるべきだった。これは、完全に怖い主治医の失策だと思う。ま、いい。そのうちに、治療は終える予定だった。少し早まったが、それはそれでいい。問題は、治療終了をどう告げるか。今回のこの失策をどう責めるか。怖い主治医への幻滅度合いをどう説明するか。あと3日で診察日がやってくる。いかに効果的な言葉を繰り出すかを真剣に考えよう。文字通り命がけの攻防だ。向こうは命がけでも何でもない、日常茶飯事だろうが。そうは言いながら、生きている自分の強さには感服する。しかも、水曜日も金曜日も予定通り営業した。営業後はさすがに死にそうになっていたが、年末に入っていた、常連のお客さんの予約は断れなかった。おかげで、回復に時間がかかった。体重は、2週間以上たった今でも元に戻っていない。正月は食べては寝、飲んでは寝ていたのに、消化器が悪いのか、身にならなかった。筋トレは徐々に再開しているが、外を歩くと、少し肺に負担がかかる。体力、筋力が落ちている証拠。「年がまたげない!」と危惧したが、どうにかまたぐことができた。これも「拾った命」と考えて、今年は後悔のない生き方をしなければならないと痛切に思う。「今年は」なんて言っているが、「来年」などないのだから、「この冬は」とか、「春までは」とか、季節単位の考え方になるだろう。さて。怖い主治医とどんな会話をすることになるか。また、ここで報告することにしよう。 云 々
2025.01.07
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時は2024年の年も押し迫った12月23日(月曜日)、夕方の仕入れ業者の来訪を前に虫けらは徒歩で店に向かっていた。前週の金曜日(20日)に入れた、抗がん剤の最後の点滴が抜けたのが22日の午後。土曜は家から出ず、日曜もちょこっと買い物に外に出たのみ。運動不足は筋力の低下のみならず、腸の動きを悪くしたり、食欲不振を招いたりするので、できるだけ外に出たいのだが、寒さが募る季節であることと、抗がん剤のデュフューザーを脇に吊ったまま出歩くのは、見栄えの問題や、物理的に邪魔になることもあって、大抵ちょこっと出るくらいになってしまう。で、月曜日の仕入れは、従来なら自転車を使うのだが、運動のために歩きを選んだ。今回の抗がん剤投与で、明らかに副作用が強烈に出ていることに気づく。顔に寒風が当たると、毛細血管が縮むのか顔に蜘蛛の巣がかかったような違和感を覚える。しかも、そこが痺れる。手袋をせずにジャケットに手を突っ込んでいたのだが、手が冷えると、指が動きづらくなる。(こむら返りを起こしたような感じ)巷では、インフルエンザが流行っているので、気をつけないといけないと思っていたが、接触するのは仕入れ業者だけだから、さほど気にかけていなかった。店で用件を済まし、家に戻ると、「ん? ちょっとだるい?」こう感じるときは、大抵熱が出ているときだ。早速測ってみる。「38.3℃!?」これは危ない。抗がん剤を投与している患者にとって、この体温は危険水域だ。しかも、店に行く前から下痢が始まっていた。通常なら、抗がん剤を抜いてから2日後に始まるのだが、抜いた日の夜中に一度、翌朝から、断続的に下痢を起こしていた。そして、本格的水様便に変化したのが15時くらい。自宅に戻った20時前には、連続でトイレに駆け込む頻度になっていた。熱を測ってすぐにビオフェルミンを服用する。止瀉薬ではないので、下痢を止める力はないが、20回を10回に減らすくらいのパワーはある。かくして、水様便は夜中には頻度が下がり、布団の中でゆっくりする時間が持てた。いや、問題は、下痢ではないのだ。もちろん、下痢は問題だ。いつもと違うタイミングで起こっているので、抗がん剤の副作用というより、感染症が原因と考えることもできる。しかし、それより問題なのは、熱だ。感染したとて、免疫力で抑え込むことができれば、「熱」が発生することがない。しかし、38℃以上の熱が出ているとなると、「好中球減少症」の疑いがある。極端に好中球(白血球)の数値が下がると、免疫力が下がり、感染症への懸念が高まる。折しも、インフルエンザが猛威を奮っている昨今、ちょっとしたウイルスが侵入しても、大事になることが考えられる。とりあえず、我慢できるところまで我慢しようと考えた。救急車で病院に行くことが最終手段。朝まで我慢できなければ、タクシーを呼んで、救急外来に行こうと考えていた。脱水症状がひどい。10回の水様便を数値に換算すると……想像するのも嫌だが、1L以上の水分が体外に出ていることになる。経口で摂取できた補水液はせいぜ500cc程度。体内の水分を随分持ち出していることになる。しかし、それ以上、食べたり飲んだりする力も体力もなかった。とりあえず、朝まで何とか生きていれば、電話で主治医の指示を仰ぐことができると。12時間以上の忍耐は相当なものだった。初めて感じる強烈な副作用──「痺れ」。全身にシックスパッドを装着しているのではないかと感じるくらい、全身の筋肉が収縮している感じ。力を入れると、こむら返りを起こすほど、あちこちの筋肉が緊張している。胸焼けがひい。食道の痛みもひどい。心臓が痛い。背中が痛い。熱があるのに手足の先が冷たい。掛け布団を頭まですっぽり被って膝を抱えてガタガタ震える。もちろん、エアコンがついていて、部屋はあったまっているのだが、それとは全く関係なく、体がこわばっている。夜中から朝にかけて、トイレに行ったのは3回。3回に減ってくれてよかった。寝室は2階、トイレは1階なので、こわばった筋肉で行き来するのは大変だ。体温は何度測っても、38℃から下がらない。眠れない。まんじりともせずに朝を迎える。空が白けてくる。「もう少し、もう少し我慢すれば、主治医が病院に来る。 そうすれは、解決策を指示してくれる」そう願って、時計の針を見つめる。……to be continued
2025.01.06
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