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9月10日から約一年間、台湾に留学するため、当ブログの更新は一時中断します。留学先で日本語の本を読めばここに感想を載せるかもしれませんが、しばらくはそれもできそうにありません。
2007.09.10
すなみまさみち /古山浩一『万年筆クロニクル』エイ出版 万年筆好き必携の年代記。同じくエイ出版から出された古山浩一の『万年筆の達人』の続編のような一冊。『万年筆の達人』は国内の万年筆職人にスポットを当てた本で大変充実した本だったが、私はまだ国内の手作り万年筆にまでは手を広げられずにいるので、自分のコレクションとは直結しないためそんなに関心をもてなかった。この『万年筆クロニクル』は万年筆の歴史にスポットが当てられ、誕生から現代に至るまでの国内外の重大なできごとがイラスト入りで説明されており、大変興味深かった。アンティーク万年筆の蒐集家のみならず、海外有名ブランドの万年筆のコレクターや日本の手作り万年筆の愛用家にとっても、興味深い資料が盛りだくさん掲載されている。少々高い本ではあるが、万年筆好きならば、とりあえず買っておかねばならぬ万年筆本の一つである。
2007.09.07
衛藤征士郎 /小枝義人『検証・李登輝訪日 日本外交の転換点』ビイング・ネット・プレス /星雲社2001年の李登輝が心臓病治療のために来日した際の、日本側の政治的動きを紹介。貴重なインタビュー記録や、日台関係を考える上で重要な法律や条約などの資料も多数収録。今年の李登輝訪日は多数の講演や靖国神社参拝、「おくのほそ道」の旅など大きな成果を収めたため、2001年や2004年の来日のことが大昔のことのように感じられるようになった。正直に付け加えると、その当時の私はまだ台湾に関心を持っていなかったのだが。とはいえ、今年の訪日の意義を考える際に、かつての訪日のことは覚えていないではいささかまずい。そこで、2001年の李登輝訪日について学ぶために本書を読んだ。大体の流れは掴めたが、暴露話は特になく裏事情を垣間見るような面白さはあまりなかった。加えて、インタビューや参考資料はとても充実しており、期待して以上に参考になった。
2007.09.06
『蒋介石総統偉績画伝』中国出版公司蒋介石を讃える画伝。多数の写真と語録を収録。台湾の国立故宮博物院の所蔵品が初来日したとのことで、大阪市立美術館に「特別展 上海 -近代の美術-」に行ってきた。故宮博物館に行ったときには玉や工芸品にばかり目がいってしまい、書や絵画は見飛ばしていたが、今回はじっくりと書や篆刻を拝見してきた。大阪市立美術館のショップで、おそらくこの特別展に因んでか『蒋介石総統偉績画伝』が売られているのを発見した。古書で、カバーには破れ等の傷みがあり、値段は800円。衝動買いで購入した。美術関連の古書がメインの古書店のようで、店員さんからも「めずらしく…」といわれてしまった。この手のプロパガンダ臭が漂ういかにもな本は、あまり美術館では売れないのだろう。しかも、台湾では民主化・本土化がますます進み、本省人は蒋介石への嫌悪をますます露骨にあらわにするようになっている。東ドイツあたりではかつての独裁時代の文物を懐古趣味的にキッチュとして楽しむのが流行ったりしているそうだが、台湾の政治的ごたごたは複雑かつ現在進行形なのでそういうノリのトレンドになりそうにはない。肝心の内容だが、出版当時の台湾国民政府の国威発揚がメインとなっているようなだ。もちろん、蒋介石の大陸での功績についてもしっかり宣伝されているが、台湾に来てからのことのほうが目立っていた。第二次大戦後の大陸での国共内戦についてはほんの少ししか扱っていないこと、台湾を中国を代表する正統な政府である国民党の大陸反攻のための基地としてとらえているということなど、出版当時(1969年)の台湾国民政府の主張が伝わってきて興味深い。国民党は台湾を実効支配しているに過ぎないにもかかわらず、長年にわたって全中国を統治しているかのような政治体制を維持し続けようとしてきた。そんな台湾国民政府の政策は、現代の日本人にとって理屈はわかってもその雰囲気はなかなか理解し難いところがある。勿論この本は、蒋介石の主張に沿った一方的なものであり、動員戡乱時期臨時條款で締め付けられていた台湾住民の本音が聞こえてくるわけではない。しかし、台湾の一面、当時の表の顔を知り、台湾の理解していく上で、本書は貴重な一冊であろう。ちなみに、私はこの本は800円で入手したが、改めてアマゾンで調べたところ、ユーズドで一万五千円近くの値が付いていた。これは、思っていた以上の掘り出し物だったのかもしれない。
2007.09.04
宮崎正弘『出身地でわかる中国人』PHP新書「北京愛国」「上海出国」「広東売国」。広大な中国の差異に富んだお国柄を紹介。これを読めば、もう「中国は…」と一括りにできなくなる!「同じ“中国語”だ」といっても、例えば上海語(呉方言に属する)と北京語(北方方言に属する)とでは全然別の言葉だというのはもはや常識であろう。それと同様に“中国人”と一括りにされている人々も出身地ごとに全然異なる性格を持っている。中国好きも中国嫌いもしばしば「中国は…」と、中国を一つのモノであるかのように論じている。しかし、あの広大な多民族国家、多言語国家の中国をそのように捉えるのは大変危険なことである。一つの衝撃的な出来事だけを見て、中国の全体をイメージしては判断を誤りかねない。麻生太郎も演説や著作で、重慶で反日暴動が起きている一方で別の場所では10万人の中国人が谷村新司のコンサートで昴を大合唱した、というエピソードを紹介している。あらゆることに当てはまることだが、特に広大で複雑な中国の場合、多角的に見なければ中国の実情はイメージできない。もっとも、中共の言論統制や日本のメディアの恣意的な報道も、中国をイメージし難くさせている一因となっているのだが。本書は出身地ごとに“中国人”を見ていくことで、“中国人”という一つの人種があるかのような幻想から脱却するための画期的な本である。地方ごとのお国柄や住民の気質の違いは、もはや同じ国の国民とは思えない。“中国人”と一括りにいわれる人々も出身地別に見れば、ドイツ人、イギリス人、フランス人、スペイン人の違いにも匹敵する差異を見出すことが出来るのである。これほどまでに地方によって考え方が違うならば、自分たちの事は自分たちで決めるという民主主義の原則を適用すると、中国は一つの国ではいれないだろう。その上、大体の“中国人”は孫文が散砂と例えたように個人主義的傾向を持っている。これらの人々を一つの国に纏め上げるには、上から厳しく締め付けるしかないのかもしれない。大中華帝国を夢見る中共の統治が独裁になるのは、やむを得ないことなのか。問題は、これほど違う地方色を持つ人々を一つにまとめる意義が果たしてあるのかである。グローバル化で一つにまとまっていく一方で、エスニックグループごとのアイデンティティーを見直す流れもある。現状を見ると急に中国が地方ごとに分断されるとは思えない。しかし、台湾やチベットの今後次第では、ありえないと一笑に付すこともできないのではないだろうか。
2007.09.02
中島らも『永遠も半ばを過ぎて』文春文庫写植屋が無意識のうちに書き上げた謎の原稿。詐欺師がそれを出版社に持ち込んだことで…。中島らもの名作小説。「リアル・デザイン」の2007年6月号の、「ジャケ買い本」についての特集を読み、『永遠も半ばを過ぎて』と出会った。アートブックならいざ知らず、小説をジャケ買いするというのは邪道のようにも思える。しかしこの『永遠も半ばを過ぎて』の場合、表紙デザインが本の内容やストーリーと重要な繋がりがありある種の伏線的必然性を持っている。なので『永遠も半ばを過ぎて』は、ネタバレ気味のコピーにつられて読むよりも、ジャケ買いで読む出したほうが楽しめるかもしれない。ハードカバーの方はもう売り切れているようなので文庫版の方にリンクを張ったが、古本を買ってでもハードカバーで読んだほうが楽しめるかと思う。
2007.09.01
萩野貞樹『旧かなづかひで書く日本語』幻冬舎新書これ読んで、ちよつと勉強しさへすれば、誰でも旧かなづかひを使ひこなせるやうになる。前々から興味関心はあつたのだが、なかなか一歩を踏み出せずにゐた。たまたま書店で本書を見かけたので、早速読んでみた。読むのは古文に比べると簡単だが、書くのはやはり難しい。確かに、活用など文法を考へれば、確かに新かなづかひよりも旧仮名づかひのほうが理屈の上ではすつきりとして簡単である。しかし、例へば「い」「ひ」「ゐ」のどれを使へば良いのかなど、慣れるまでは大変だ。きつと、私のいま書いてゐる感想文にも、誤字があることだらう。とはいへ、書く練習をするのは面倒なので、旧仮名づかひで書かれた本を読んで慣れたいと思ふ。本書で一番感心したところは、文語の短歌を新かなづかひで書かれると意味が解釈できなくなるといふ話しと、旧かなづかひで書かれた文学作品を新かなづかひに改変することの愚についてである。特に向日葵の譬へ話しは印象深かつた。現実問題として考へると、ただでさへ純文学が廃れてゐる今日、旧かなづかひで出版したのでは売れないといふ事情があるのだらう。とはいへ、作品が改竄されてゐるといふことにすら意識しない者が多いといふのはとても寂しいことである。
2007.08.17
半藤一利、中西輝政、福田和也、保阪正康、戸高一成、加藤陽子『あの戦争になぜ負けたのか』文春新書「あの戦争」を多角的に眺め、敗因を探る。過ちを繰り返さないために。8月15日は終戦記念日。あの戦争を振り返るのに最適の日である。毎年この時期になると、日本全体が戦争への反省一色に染まる。あの戦争は間違っていた、アジアにはご迷惑をおかけした、国民にも多大なる犠牲を強要した、謝罪しなければいけない、との大合唱が始まる。戦後日本において戦争への反省といえば、感情論による戦争否定のことであるかのように見られてきたのである。しかし、特に失敗に学び将来に生かすという意味では、なぜ負けたのかをしっかり考えていくことが重要である。あの戦争をなぜ戦ったのか、あの戦争になぜ負けたのかをしっかり考えることこそ、戦後日本にとって一番必要な「戦争への反省」だろう。開戦責任や戦争遂行責任の追求も大切だが、敗戦責任の追求を忘れてもらっては困る。本書では、支那事変がなぜ対米戦争に繋がったのか、ヒトラーとの同盟の意義、海軍と陸軍が持っていた組織としての欠点、大元帥と天皇の立場上の違い、戦争を盛り立てたメディアと国民の熱狂、現実と大義、特攻・玉砕・零戦・戦艦大和など、他方面からあの戦争を見つめなおす。どの項目についても、現代にも通じる問題を内包しており、いろいろ考えさせられる。特に関心を持ったのは昭和初期に政党政治不信が高まった理由について。これまでも政党腐敗は目に余るものだったにもかかわらず、この時期に不信感がピークに達した理由の一つが、二大政党制が始まったことによって政党同士がスキャンダル合戦を始めたことにあるという。最近、政治家のスキャンダルや失言が大いに取りざたされ政治問題の本質的な部分が隠されてしまっているような気がしていた。政権交代に向け民主党が勢いを増しているということが、その背景にあるのだろう。あの戦争の失敗に学び、同じ過ちを繰り返さないためには、次の二点に留意する必要があるだろう。一つ目は一つ前の戦争に備えているだけではだめだということで、二つ目は本質的な問題点はいつの時代でもそう変わらないということである。大東亜戦争の敗因の一つに、第一次大戦から学ばなかったということが指摘されている。にもかかわらずいままた同じ過ちを犯そうとしている。「軍人は一つ前の戦争に備える」というが、60年も戦争を体験しなかった日本で戦争反対論者が反対しているのは二つも三つも前の戦争である。いつまでも、大東亜戦争を、せいぜいベトナム戦争くらいをイメージして、「過ちは繰り返しません」と言い続けているようでは困る。科学や社会が変われば戦争の在りかた変わる。戦争が起きないように、万が一起きても敗れないようにするためには、今考えられる脅威に備えなければいけない。また一方で、敗戦自体に気を取られ、その背後にあった敗因を改める努力を怠ってきた。売り上げのためには何でもするメディアと時局に流され熱狂する民衆、組織内や組織同士の権力闘争に終始し問題の本質を見失ってしまいがちな省庁、場当たり的で長期的な視点をもてない外交。あの戦争の前の失敗を、戦後日本が克服したとは思えない。戦争を反省するのならば、この前の戦争で明らかになった社会の問題点を改めなければならない。このままでは、「敗戦」という同じ過ちを繰り返すことになりかねない。何が過ちだったのか。どう改めていくのか。終戦記念日がこれからもずっと8月15日であり続けるためには、あの戦争になぜ負けたのかを問い続け、その反省を将来にどうつなげていくのかを考えていく必要があるだろう。
2007.08.15
柯旗化『台湾監獄島 繁栄の裏に隠された素顔』イースト・プレス白日の下にさらされた、台湾戦後史の暗部。アジアの民主国家の優等生として名高い台湾。しかし、ほんの少し前までは、ファシズム政党である国民党によって、恐怖政治が行なわれていた。台湾で民主化弾圧、台湾人への苛烈な締め付けといえば、あの2.28事件が有名。しかし、恐怖政治の一番の恐ろしさは、監視・密告・投獄・拷問・処刑が、毎日毎日、日常の隣に潜んでいることである。いつ何時、幸福な日常生活が壊され、いわれのない冤罪を被せられるかわからない。政治犯、思想犯が収容された緑島が国民党による恐怖政治を象徴しているが、緑島だけが監獄島だったのではなく、台湾全土が監獄島だったのである。本書の著者、柯旗化さんも冤罪で緑島に投獄された1人。英語の教員として、英語参考書の著者として成功していた柯さんは、台独運動に関わっていたわけでも中共のスパイだったわけでもない。しかし、拷問に耐えかねた友人のでたらめな自白により、捕まり緑島に何年も閉じ込められてしまう。民主化した現在、台湾の恐怖政治の真実が次々と明らかになってきている。実際に緑島に収容された著者によって明かされる、理不尽なエピソードの数々には、読んでいて恐怖と怒りを覚えさせられる。特に今年は台湾旅行もブームのようで、これからは台湾の歴史に関心を持つ人が増えていくだろう。恐怖政治時代の一端を伝える本書は、いまの民主的な台湾になるまでの歩みを知るための重要な一冊である。ちなみに緑島は、現在観光名所になっているそうで、かつての監獄も見学できるそうだ。機会があればぜひ見学に行きたいと考えている。
2007.08.14
福井晴敏『Op.(オペレーション)ローズダスト』(上・下)文藝春秋 『亡国のイージス』を凌ぐスケールのサスペンス・アクション。例によって分厚い本なので怯んでしまい、なかなか読み始める気になれなかった。が、読み始めると、やはり面白いので一気に読み終えた。この作品は、これまでの作品よりもメッセージ性が強くストーリーもよく構成されてはいるのだが、面白さでは『亡国のイージス』『終戦のローレライ』のほうが上かもしれない。ここでは、福井晴敏作品の売り物である、登場人物、メッセージ性、爆発、の三点について『Op.ローズダスト』の感想を記す。まずは登場人物について。主役を張る男性陣は、これまでのように、冴えないロートルと凄腕だが人間性に乏しい若手のペア。物語に色香を添えるべきヒロインは、冒頭に登場するプロローグで登場した後、話しが本格的に始まる前に死んでしまう。しかし、その死んだヒロインを巡る想いが話を引っ張っていく構成になっているので、直接は暑苦しい男たちを描きながらも、話しが進むに連れてその女性の魅力が語られていく。また、サブヒロインとして主人公の娘が登場し、硬派な話に華やかさを与えている。話のメッセージについては、「新しい言葉」の内容がいまいち明確ではないのが残念。まあ、それを模索する話なので仕方がないといえば仕方がないのだが、新しくて斬新な政治思想を紹介すればもっと話に深みが出てきただろう。対米従属一辺倒で主体性を欠いた戦後日本外交やセクショナリズムなどを批判するシーンは読み応えがあっただけに、なおさら残念だ。もっとも、「新しい言葉」を探すのはとても困難である。以前このブログで紹介した『「昭和」をつくった男』は、昭和期の右翼を、「新しい言葉」を提唱した男たち=「新体制構築派」と、「古い言葉」を破壊したものの「新しい言葉」は発見できなかった男たち=「現状破壊派」に分けて見ていくという本だった。その分類でみると、『Op.ローズダスト』のテロリストたちは「現状破壊派」ということになる。次の小説の主人公達には新体制を構築してもらいたいものだ。福井晴敏はいまも雑誌などで外交や政治問題についてコメントしたり対談したりしているが、福井晴敏独自の「新しい言葉」がもっと明確になれば、いま以上にコメントを求められること機会が増えるだろう。最後になったが、爆発のシーンはこれまでの作品の中で一番凄かっただろう。これまでは沖縄の米軍基地しかり、イージス艦しかり、潜水艦然り、これまでの作品では爆発するのは特殊な場所に限られていた。しかし、今回は東京のど真ん中で何度も何度も爆発する。クライマックスでは、特殊な爆弾による波状攻撃でお台場が液状化をおこし沈み始める。有明清掃工場とダクトを使ったトリックは、かなり斬新でスリリングだった。オウム真理教の地下鉄サリン事件を意識したテロ事件や9.11のテロについて何度も言及されている。我々はこれらのテロに、「小説や映画を越えた現実のテロ」の恐ろしさを見せ付けられてしまった。それゆえ21世紀を生きる我々を唸らせる小説には、9.11などの現実のテロを上回る規模と破壊力を持つ必要がある。かつ、あまりに大袈裟すぎても荒唐無稽なギャグになりかねないので、現実問題として認識できる範囲に収めなければならない。この作品のテロシーンは、派手でありながらリアルに克明に描かれており、読者の期待にしっかり応えてくれている。爆発シーンに関しては、本作品が福井晴敏の作品の中で最高傑作だろう。まさに、自称「爆発小説作家」の面目躍如といった作品である。
2007.08.12
酒井亨『台湾海峡から見たニッポン』小学館文庫台湾からアジアを見れば、中華帝国の脅威がよくわかる。タイトルは『台湾海峡から見たニッポン』であるが、内容は台湾海峡から見たアジアであり、台湾人の日本観についての本ではない。アジアにおいて猛威を振るってきた中華帝国に対して台湾をはじめアジア諸国がどのように対処しているのか主なテーマとなっている。面白かったのは、北朝鮮の異常な振る舞いは中国の増したにあるということに起因しているという考え方。確かにそれは一理ある。それと、もう一考えさせられたのは、日本おける保守派と台湾における革新派の関係について。大まかにいうと、日本では、反中国は右、親中国は左との構図になっている。しかし台湾では、これまで中国人意識を持つ外省人が主導権を握り、台湾人意識を持つ本省人はそれに服従させられてきたため、革新派が反中国で保守派が親中国(ただし反中共)という構図となっている。そのため保守的な日本人と革新的な台湾人は歴史問題や外交問題では意気投合している。ただ、環境保護、弱者の人権などの市民運動ではこの両者には温度差があるようだ。加えて最近では日本でも、中国の人権侵害を指摘し中国を批判する声が高まってきている。悲惨な中国の実情を日本の市民派も知り始めた。本格的な中共のシンパはともかく、雰囲気で左翼がかっていただけの市民層が台湾にもっと目を向け始める可能性がある。そうなれば日本における台湾の存在感はますます大きくなるだろう。
2007.08.11
亜州奈みづほ『新しい台湾いろいろ事始め』 凱風社台湾の魅力を項目ごとに細かく紹介。台湾に留学した日本人女性による台湾紹介本。生活に密着した情報から、観光客が喜びそうな話題、政治外交上の問題まで、多角的に台湾が紹介されている。モノクロではあるが写真も豊富。これから台湾に行く人にもってこいの、手軽に台湾の今を知れる一冊。
2007.08.01
松尾芭蕉『おくのほそ道』角川ソフィア文庫俳諧求道の旅日記。総ルビ入りの原文に加えわかりやすい現代語訳、詳細な注釈、豊富な図版が収録されているので、入門編にぴったり。李登輝の影響で『おくのほそ道』を読んだ。冒頭や平泉のあたりは学校で読んだことがあるのだが、通して読むのは始めて。角川のビギナーズ・クラシックシリーズは面白いコラムも収録されているので、素人ながらも楽しめた。公儀隠密説や忍者説は印象に残った。確かにこの脚力は只者ではない。ただ一点、本書の編集に残念な点があった。それは、原文の前に現代語訳があること。古典を楽しむためには現代文は原文の後ろに置いたほうがよいと思う。
2007.07.25
早坂隆『日本の戦時下ジョーク集(満州事変・日中戦争篇)』『日本の戦時下ジョーク集(太平洋戦争篇)』中公新書ラクレ 大人気!早坂隆の「ジョーク集」シリーズ最新刊。今度のテーマは、戦時下の日本。これまでのシリーズ同様、本書も悲惨な環境でこそジョークが重要な役割を持つというのがコンセプト。一般的に暗くて厳しかったとされる戦時中の日本において流行った数々の傑作ジョークを紹介し、逆境をも笑い飛ばしたたくましさが紹介される。戦時中のすべてを悪とする風潮をようやく乗り越えたいまの時代の空気とも合致し、本書もこれまでのシリーズのようにヒットするだろうと思われる。しかし、一点残念だったことがある。それは、これまでのシリーズで取り上げられてきたジョークは、民衆の間で伝えられてきたジョークがほとんどだったが、本書で紹介されるジョークは漫才師などプロによるジョークが多かった。もちろんプロの作品も世相を反映し庶民の本音や時代精神を体現した笑いである。しかし、民衆が誰とはなしに言い出し広まっていったようなジョークのほうが、よりその時代の民心をストレートに反映していると思われる。本書でそのようなジョークがあまり紹介されていないのは、プロの作品は残りやすいが、自然に出来て広まっていったジョークはあまり残っていないからなのだろう。そう考えると、よく出来た漫才師のネタよりも子供達によって口ずさまれたという軍歌や戦時歌謡などの替え歌などの方が興味深く思われた。
2007.07.22
斎藤孝『コメント力 「できる人」はここがちがう』ちくま文庫面白くってためになる。数々の名コメントに学ぶ、コメントの要諦。今回はコメントについての本についてのコメント。緊張する。私は何かにつけてコメントしたがるくせに、コメントするのが下手である。私のコメントは、本書でいうところの「意味はあるが面白くない」になりがちだ。また、ダラダラと長くなるのでインパクトに欠ける。今後は簡潔に断定するよう心がけたい。はずしの方は、天然系関西人なのでまあ大丈夫だろう。ただ、はずしすぎないよう空気を読むことを肝に銘じたい。また、なぜ私がコメントするのかや、自分と相手の立ち位置も、意識していきたい。
2007.07.21
藤崎慎吾/田代省三/藤岡換太郎 『深海のパイロット 六五〇〇mの海底に何を見たか』光文社新書この地球上に宇宙よりも調査が遅れている場所がある。深海の神秘の魅力への水先案内。本書では、日本の潜水調査船、しんかい2000としんかい6500のエピソードを中心に、飽和潜水や世界の潜水調査船開発の歴史などが面白く紹介されている。宇宙開発では大きく遅れをとっている日本も、海洋国家の威信をかけて深海の調査についてはトップを走っている。ただ、あまり国民に知られているとはいいがたい。私は、子供の頃に読んだジュール・ベルヌの『海底二万里』で深海の魅力を知り、しんかい2000のマグカップを愛用しているのだが、恥ずかしながら本書を読むまで具体的な話はほとんど知らなかった。印象に残ったのは、深海に行くことは宇宙に行くのに匹敵するほど困難であるにもかかわらず安全性はかなり高いという話、必ずしもしんかい6500がしんかい2000よりも優秀というわけではなく一長一短があるという話、深海の調査も宇宙開発と同じように科学上の必要性と経費が天秤にかけられ無人の調査船が有人の調査船に取って代わるようになっているという話、それでも有人の潜水調査船でなければならないという話だ。海底資源の絡みも含めて、海洋国家日本にとって深海を調査することの意義は今後ますます大きくなると思う。最近話題の地球深部探査船「ちきゅう」も含めて、今後の調査に注目していきたい。
2007.07.06
池上永一『レキオス』角川文庫混沌のSFファンタジー。ストーリーに惹かれて読んだのだが、あまりにもキョウレツな登場人物にたじろいだ。ぶっ飛んだ描写が連続し、登場人物の言動に頭が付いていけず、いまいち楽しめなかった。ストーリーは面白いのだが。真面目に読めばいいのか、笑えばいいのか、あきれればいいのか。むちゃくちゃな沖縄の描写に沖縄人が怒るのではないかと危惧したが、作者自身が沖縄人だったので、これが沖縄なのだろう。日本の小説とは一味も二味も違う雰囲気に圧倒されたが、これが沖縄小説だと思えば納得できる。本土と沖縄の違いを見せ付けられた気がする。ぶっ飛んだ内容のSFファンタジー小説ならば、私は明石散人の鳥玄坊シリーズのほうが好きだ。
2007.07.04
小林英夫『「昭和」をつくった男 石原莞爾、北一輝、そして岸信介』ビジネス社「昭和」の右翼を、「現状破壊派」(井上日召、橘孝三郎、権藤成卿ら)と「新体制構築派」(石原莞爾、北一輝、田中智学ら)に分けて紹介。昭和をつくったというよりも昭和に混沌をもたらしたというイメージが強い昭和の右翼たち。ただ、昭和は動乱の時代、激動の時代と考えると、確かに「昭和」をつくったのは彼らであろう。「昭和の右翼」の姿は、現代の右翼のイメージとはだいぶ異なる。本書では、昭和の右翼を「現状破壊派」と「新体制構築派」に分けて紹介されている。目的達成に向けての行程やビジョンなどは異なっていたが、どちらも日本の現状を憂い何とかしようという志を持って行動していたことは共通している。昭和の右翼たちの理想は、いまの感覚では左翼がかって感じられるのが興味深い。この時代の右派の知識人と左派の知識人の違いについてもっと詳しく見ていきたくなった。また、この時代の左翼から右翼に転向した人の思想遍歴も気になってくる。このころ共産主義も流行したが、主流となっていった講座派の左翼は庶民と乖離しており、庶民の視点に立ち庶民に支持されたのは左翼ではなく右翼だった。彼らは、恐慌で苦しむ農民や労働者の惨状を見て義憤に駆られ、資本主義を破壊して天皇の下で皆が平等な理想の社会をつくろうとした。真逆のはずの右翼と左翼の異同や関係の複雑さを改めて考えさせられる。それにしても、ここに出てくる人物達の個性、主張、行動は過激で強烈である。個々人の性格や、エリートコースをどこかでそれてしまったことなどの諸事情が、彼らの強烈な活動の原動力と成っていることはは確かだろう。しかし、時代精神に上手くのった、時代の波に翻弄されたという側面も強いだろう。積もり積もった矛盾を秘めた社会の鬱積した感情は、きっかけがあれば大きな運動に発展する。一つの時代を破壊し新たな時代をつくる原動力となった彼らも、彼らの力だけではあれだけのことが出来なかった。昭和初期の右翼たちは戦後では悪の権化のように見なされているが、その生き様や主張はそんなに単純なものではない。今後ますます研究が進むにつれ、一般向けの本もこれからどんどん出版されるだろうと思う。
2007.07.02
柳本通彦『明治の冒険科学者たち 新天地・台湾にかけた夢』新潮新書日本が帝国として歩み始めた明治時代。日清戦争の勝利によって手に入れた未知の島、台湾を調査した三人の冒険科学者の生涯を描く。本書で紹介されるのは、台湾で人類学、植物学の研究に従事した、伊能嘉矩、田代安定、森丑之助の三人。蕃人たちの住む未開のジャングルに科学調査が入り文明の光が未開の闇を晴らした、というと現代人には傲慢なことのように思われる。しかし、植民地に組み込んだ新領土を科学的に調査し、それに基づいて近代化に乗り出すのは帝国主義時代のごく当たり前のこと。ましてや植民地を収奪の対象としてではなく、開化し本土に組み込んでいくべきものとして捉えていた明治日本にとって、新領土の調査研究は統治していく上で必要不可欠なものだったのである。私の印象に残った三人の共通項は、日本本土では主流になれなかった境遇、台湾への熱い情熱である。正規の教育を修めていない者や佐幕派の子弟などの内地の主流から外れてしまった者が成功のチャンスを求めて台湾に赴くという構図は、科学者にも官吏にも共通する。しかし、姉歯松平などの官吏は台湾に居ながら台湾と距離を持ち続けたのに対し、本書の冒険科学者たちは台湾を台湾を愛しその魅力にのめり込んでいった。この違いは、個々人の性格によるところも大きいだろうが、職業柄そうなっていったのではないかと思われる。また、成功を夢見て内地から台湾に赴いて研究を進めていくうち、現場と本国の対立、理想と現実のギャップに直面する。植民地で素晴らしい成果を収めても所詮は末端の嘱託職員に過ぎず、内地からは軽んじ続けられた。ましてや現代においては植民地時代は悪とされ、台湾の植民地統治も忘れ去られようとしている。三人のことは私も本書で初めて知ったのだが、業績の輝かしさに感心しただけでなく、生前は軽んじられ、死後は忘れ去られてしまったという悲劇性も印象に残った。
2007.06.29
酒井亨『台湾 したたかな隣人』集英社新書 民進党の発展を軸に台湾民主化の過程をたどる。ジャーナリスト酒井亨による台湾レポート。酒井亨は民進党で通訳をしていたこともある人物で、もちろん本書も民進党よりの視点。今年に入ってからは李登輝「転向」問題をめぐって李登輝支持陣営と対立し、「酒井亨変節」と批判されていた。本書を読んだあと少しインターネットで調べたのだが、以前から結構過激な人のようでしょっちゅうで激論を戦わせてきたようである。ともあれ、有名な日本人の台湾人ジャーナリストなので、ちゃんとおさえておきたい。
2007.06.27
森巣博『蜂起』幻冬舎文庫世の中、狂ってる!さあ、ぶっ潰せ!!いろいろと怪しからん作品ではあるが、とても面白い。前半は、人生に躓いて転落し始める4人のアウトローの姿をリアルに描写。後半では、社会矛盾が極限に達した近未来の日本で起こる大暴動を描く。政治的メッセージ性のこめられた作品ではあるが、その辺は好みではない。ただアウトローの描写と破壊のカタストロフィの迫力が印象的。
2007.06.25
講談社現代新書『中国語はおもしろい』 新井一二三中国語学習のポイントや、中国語を喋ることのメリットを著者の経験を交えつつ紹介。中国語を学ぶモチベーションを上げるために読む。中国語と中華料理の話を聞くたびに、中華文明圏の広大さを改めて考えさせられる。中国語は広い地域で大勢の人間に使われている。その一方で、各地の地元語はとても「中国語」とくくれないほどの違いを持ち、「普通話」も地方ごとで訛り通じにくい。逆に、ゆえに何とか理解しようと互いに努力するため、多少下手糞でも何となく通じてしまうそうだ。いつまでも中国語になれないでいる私に、この言葉は慰めになった。私の留学先は台湾であって中国ではない。台湾の「国語」と、中国の「普通話」は、同じ中国語でありながら異なる点も多い。しかし、いま私が学んでいるのは大陸の中国語。そのことに不安を抱いていたのだが、まあ大丈夫なのだろう。この前話した台湾人の学生曰く、「大陸の中国語はテンションが高め」とのことだが、その辺のニュアンスがわかるほど私のレベルは高くない。私の場合、「国語」と「普通話」の違い以前に、自分の「普通話」の出来なさ加減を心配したほうがよさそうだ。ついこの間まで経済的側面から中国がもてはやされていた気がするが、ここ最近政治的に中国が嫌いな人が増えている。日本の中国への感情は、昔から多いに揺れ動いてきた。善かれ悪しかれ、日本の隣にある大国、中国の重要性は今も昔もこれからも変わることがないだろう。たしかに、中国はいろいろと出鱈目なところが暴露され、ますます中国はイメージダウンしているが、それでも中国文化には一定の経緯を払うべきところもあると思う。ちなみに、この本には中国への文化的な親しみが込められている。また、アジアの知識層にとって中国語は基礎的教養の一つで、江戸、明治初期の知識人は漢文の素養を持っていた。いまの中国は政治的に社会的に好ましくないが、それでもやはり中国語を習得したいものである。
2007.06.22
落合信彦『虎を鎖でつなげ』集英社文庫台湾侵攻を企てる中国に戦争請負人が仕掛けた数々の策略。50人の傭兵部隊VS人民解放軍約300万人!東アジアの平和は保てるか?手に汗握る、近未来軍事活劇小説。この前、映画「300」を見てきた。300人のスパルタ軍が1000000人のペルシア軍がテルモピュレイで真っ向勝負する話である。今回読んだこの小説の場合、人口比はもっと不利であるが、真っ向勝負ではなく権謀術数を使い戦いを有利に進める。溜まりに溜まっている中国の社会の歪を衝き中国崩壊の弾みをつけるという作戦がとられるのだが、中国が抱えている社会矛盾がざっと紹介されている。ストーリーも面白く、登場人物も実にユニーク。たまにはこういうエンターテインメント小説も面白い。ただ、中国の出たらめっぷりに関しては、事実があまりにも激しすぎるので、いまいち物足りなかった。
2007.06.21
猪塚恵美子『字がうまくなる 「字配り」のすすめ』新潮新書なぞり書きや習字教室、ペン字講座では悪筆は直らない。字がうまくなるための極意とは。本のタイトル通り、本書で提唱される字がうまくなるための極意は「字配り」である。要諦のみ紹介すると、ゆっくりと書く、線と線はきちんとくっつける(※楷書の場合。行書の場合ははなす)、方向を変えるときはきちんと折る、横線の向きをそろえる、漢字は大きく仮名は小さく、行の最後をそろえる、となる。本書では、楷書の場合、行書の場合、縦書きの場合、横書きの場合と、書き方ごとに細かく字配りのポイントが紹介されている。私は中学時代に万年筆に出会って以来その魅力の虜になり、このblogで万年筆関係の本を何度も取り上げてきた。しかし、今回私がこの本を読んだことからもわかるように、実は私の字は自他共に認める悪筆である。とても人様に見せれたものではない。万年筆好きのくせに字が下手では格好がつかない。本書でも紹介されているように、万年筆は字を美しく書くのに最適の筆記具である。私の場合も下手ゆえに万年筆にのめり込んでいったいう面もある。確かに、私の場合でも万年筆で書けば、シャーペンやボールペンで書いたときよりは幾分ましな字が書ける。それでもやはり万年筆が好きである以上、お気に入りの万年筆で「幾分まし」ではなく、「比較的綺麗な字」を書書くことに憧れている。高価な万年筆を使っている以上、それなりの字を書かねば万年筆に申し訳が立たない。万年筆好きとして日々、己の悪筆に悩んでいるのである。そうはいっても、私はこれまで悪筆を改めるための特段の努力を払ってこなかった。大人になれば自然に綺麗な字が書けるようになると問題を先送りしてきた子供時代を悔やんでも、いまさら手遅れだと半ば諦めていた。さりとてこのままずっと字が下手なままでいるのも嫌だ。かといって、なぞり書きを始めるほどの根気もない。そこで最近気になっていたのが、手軽に綺麗な字を書けるようになるような気配を漂わせてる書店で字の書き方に関するハウツー本コーナーである。とりあえず手に取ったこの本を、物は試しと読んでみることにした。読み物としても興味深かった。楷書と行書の違いについてはこれまで意識したこともなかったので、参考になった。また、文豪の誤字のエピソードはとても面白かった。今度塾の生徒に誤字脱字を指摘されたら、島崎藤村の話でも紹介してみようと思う。本書で説かれる「字配り」にも納得で、これを極めれば確かに字が上手くなりそうである。とはいっても、本書で実際に字が上手くなるかは暫く様子を見なければわからない。私の場合は残念ながらそんなに上手くなるとも思えない。というのもここで紹介された話の半分ほどは、すでに知識として知っていたが実践できないでいたからだ。確かに、この本で紹介されたことを実践すれば確実に今より綺麗な字になる。また、内容もそんなに難しいことではなく誰でもすぐに実践可能なことである。それでも自分がそれらをすべて実践するかといえば即答しかねる。身に染みた悪癖はなかなか抜けきらないもので、習慣を変えるのは頭でわかっても実践しにくいのだ。そもそも、悪筆の人も、綺麗な字の書き方はあちらこちらで教わってきているし、上手い人の書きかたを見ればどう書けばいいのかは大体わかる。それでも字の下手な人は自分の間違ったやり方を変えない。それは大方私も含め、悪筆であることに諦念を持っているからではないだろうか。「悪筆」といわれている人でも、丁寧に書いたときはそこそこ読める字を書ける。にもかかわらず、常々丁寧に書こうとしないから悪筆になってしまう。頭でわかっても、常に実践しなければ字は上手くならない。この本を読んだところで、この本を実行しようという気を常に持ち続けることができなければ、字は上手くならない。暫くの間は意識し続けるであろうから、この本のお陰で少しは私も字が上手くなっただろう。その後、意識して字を書き続ければ、その書き方がくせになり本当に字が上手くなるだろうし、厭きて止めてしまえば元の木阿弥となる。そうはならないように頑張りたいが、果たして上手くいくかどうか。
2007.06.19
佐藤愛子『今は昔のこんなこと』文春新書いまではもう失われた明治、大正、昭和初期の日本の風俗を、ユーモラスに紹介するエッセイ。年長者には懐かしく、若者にはかえって新鮮な、今は昔のこんなことやあんなことが盛りだくさん。変わり果てた現代を憂い、古きよき昔日の風景を懐かしむ。「昔はよかった」との声がなかった時代はないが、若者が年長者のその意見に賛成することはまれである。しかし、本書のユーモラスな語り口と今も昔も変わらない人生の哀歓に、読んだ私は、若者であるにもかかわらず、筆者の意見に頷きつつ過ぎ去った昔の風俗に憧れや羨ましさを抱いてしまった。そろそろ懐古趣味や復古調が流行る気配があるので、本書で紹介されたものの中で復活するものはないだろうか目次を見返したが、リバイバルの可能性がありそうなのは褌、カンカン帽、煙管くらいだろう。習慣は一度廃れるとそれっきりになってしまっても、物は何らかの形で再度流行する望みがあると思う。一時はパナマ帽も絶滅したようだが、再度流行する気配がある。その勢いでカンカン帽も復活して欲しいところだ。本書では紹介されているのではないが、私は開襟シャツの襟を背広の襟の上に出して被せるスタイルに憧れている。是非このスタイルも、クールビズの名目で是非復活してもらいたいものだ。
2007.06.16
中川昌郎『中国と台湾 統一交渉か、実務交流か』中公新書元外務官僚が台湾の外交上の問題を判りやすく解説。台湾と中国の対立と結びつき、台湾と中国の友好国獲得競争、台湾の実務外交の建前と実体、香港返還が台湾に与える影響など、現代台湾の外交上の問題点が判りやすくまとめられている。1998年に書かれたものなので、少々古く感じるところもあるが、基本的状況は今と変わらない。本書では、台湾の沖縄間についても触れられている。沖縄も台湾の領土だとの台湾人の感情は、親日的台湾人の著作の触れないところなので興味深かった。
2007.06.15
『地球の歩き方 台湾』ダイヤモンド・ビッグ社海外旅行ガイドブックの定番。最近、長らくこのblogを更新していなかった。実のところ、今回の『地球の歩き方 台湾』もまだ読んでいない。このblogは基本的に備忘録代わりに読書感想を書き散らしてきたが、今回は近況報告を兼ねた日記を記す。昨年の秋頃から台湾への留学を考え始めていたのだが、今年の秋から台湾に留学することが決定した。思えば今年に入ってからは、このblogでも台湾関連本を多数紹介していた。最近blogの更新が滞っていたのはその準備や大学院での研究に忙殺されていたため。今後このblogをどうするか迷ったが、閉鎖は止めて当面は惰性で少しずつ更新することにする。これまで、自分のためのメモなのか、人に読んでもらうための文章なのか、自身でも曖昧なまま書き続けてきた。特にこれといった目的を持たずに続けてきたので、モチベーションは低いのだが、負担にならない程度に日記スタイルの読書感想メモを書き続けていくことにする。いまは、文章量を減らし更新頻度を増やせればと考えている。これまでは、自分にピンと来なかったり、このblogの読者にとって面白くなさそうな本については、blogで取り上げなかった。これからは一言コメントくらいはメモしておこうと思う。また、留学期間中の出来事については、mixiか別のblogかで日記をつけることを考えている。こちらは人に読んでもらうことを前提に、現地の写真を交えつつ気合を入れた文章を書く予定。指導教員にも見ていただく予定なので、変なことは書けない。開設し次第、リアルでの友人には改めて報告しますので、どうぞ宜しくお願いします。
2007.06.14
恩田陸『黄昏の百合の骨』講談社文庫『麦の海に沈む果実』後の水野理瀬を描いた幻想ミステリ。魔女の館に隔された謎と一連の怪事件の真相に迫る。本作は、『三月は深き紅の淵を』に関連付けられる一連の作品群の中の、水野理瀬をヒロインに据えた系統の作品で『麦の海に沈む果実』の続編として位置づけられる。関連作品を読んでいれば独特の雰囲気に馴染みやすく、作品の中に散りばめられた謎めいた記述についてより一層楽しむことができる。とはいえ、『三月は深き紅の淵を』関連の作品の関連は実に緩やかで、特に本作は独立性が高いため、これ一冊だけでも十分ミステリとしては楽しめる。この作品も他のシリーズと同じく、独特の恩田ワールドが転回されていく。この恩田ワールドを一言で説明するならば、幻想と現実の狭間にある儚くも奥深い世界と言えるのではないかと私は考えている。黄昏のような美しさと不気味さの混在する瞬間を舞台に、百合のように美しく華やかで強烈な魅力を持った登場人物によって、読者は奥深くに埋められた凄惨な骨の真実を垣間見る。恩田陸のシリーズはたいていこのような筋書きになっている気がする。この作品の舞台も、日本を舞台としながらもどこか西洋風ファンタジー世界の香りが感じられ、謎めいた事件の舞台として申し分のない舞台装置に仕上がっている。特に水野理瀬のシリーズはいかにもな館が主な舞台となっておりミステリ色が濃い。登場する知的でミステリアスな少年少女たちも透明感と底知れぬ闇を兼ね備えており、読者を惹きつける。事件のほうはこれまでの関連作品よりも比較的普通ではあったが、小さな謎を散りばめるという手法は今回も遺憾なく発揮されワクワク感を高める効果を高めていた。最後の最後に一波乱あって最後まで気を抜かせないところも良かった。
2007.05.17
林浩『アジアの世紀の鍵を握る 客家の原像―その源流・文化・人物』中公新書自身も客家である著者が、客家について多角的に説明。客家とは、中原を追われ華南や東南アジアに移住していった漢民族のエスニックグループのこと。客家人は漢民族中のエリートグループとのプライドと反骨精神を持ち、古くからの伝統を固持しながら、商業や学問の領域で活躍している。また、歴史上の反乱や革命の指導者の中に客家人が多い。李登輝やリー・クァン・ユーなど、アジア各地の指導者になっているものもおり、その活躍の舞台中国国内におさまらない。李登輝も客家だということに興味を持ち、本書を読む。客家の歴史的生活スタイルは、日本人が憧れを抱いているような中国のイメージと近いようだ。言語も客家語が日本の漢字と近いとのこと。日本語の食べるは、中国の普通話では吃となるが、客家呉では食のままだという。そのほかにも、日本人が尊敬していた中国のイメージのもとと思しき風習もかなり残っているようだ。もちろんどんな民族でも、自分自身のことは総じて美化して書きたがるものなので、すべてをそのまま信じるのはいけないかもしれない。また、客家が自信を持って説明していることのでも、日本人の感覚からは疑問に思うことも幾つかあった。しかし、それでもいまの中国全体のひどいイメージと比べると、ずいぶん立派に思えた。日本人は、昔から中国に反発しつつも一定の敬意も持っていた。しかし、日清戦争以降は中国人を軽侮し、敗戦後は自虐的な贖罪意識を持ち始めた。最近は侮蔑と恐怖と敵意が入り混じっている気がする。確かに、中国は様々な面でレベルの低い国であるが、急成長もしており、何より日本の地位を脅かす存在である。しかし、中国の歴史を見る際には、いまの関係から来るバイアスを捨てて、冷静かつ客観的に評価していく必要があるだろう。中国関係の本を読むたびに、中国は広大で複雑だという、諦めにも似た感想を持つ。「中国のユダヤ人」といわれる客家の総代で興味深い歴史も、中国の歴史のほんの側面にしか過ぎない。中国を読み取るために必要なのは、民族の絆か、一族の血縁か、秘密結社の契りか。共産党の時代といいつつも、イデオロギーとは異なる様々な関係によって結びついている。その一方で所詮は散砂のようにまとまりがなかったりもする。広大な地域で膨大な数の人々がエネルギッシュに欲望をぎらつかせて活動している中国。極東の島国に日本に住む一介の若造にすぎない者が、何冊かの本を読んだところで、把握できるような生易しいものではない。それでももっと知りたいと思わせる魅力と、知らなければ怖いという存在感を中国は持っている。
2007.05.09
三崎亜記『となり町戦争』集英社文庫地方自治体間で公共事業として遂行される見えない戦争の物語。この手の作品が好きでないということは自分でもわかっていながら、その話題性と内容の奇抜に惹かれて読んでしまった。結局結論からいうと、やはり好みではなかった。一言で言うと軽薄すぎた。この手の作品が好きになれないところは、まず、極端な現実味のなさにある。現実と乖離した内容が問題なのではない。SFやファンタジーは非現実的な素材であるが、私は嫌いではない。ここで言う現実味のなさとは、作品世界の作りこみ不足からくるリアリティーの欠落のことである。この作品の主人公は「戦争に現実感をいだけないでいる」とのことだが、そもそも「小説の中の戦争の現実」が描けていない。物語を書く際には小説の世界設定の緻密さや人間心理のリアルさももちろん必要だが、小説のモチーフとなっている現実世界の事象を取材しそれを踏まえるのも重要である。本作の場合、町役場の描写についてはその努力が見れたが、戦争や戦争心理については現実のそれとあまりにも乖離しすぎている。小説で書きたい戦争と現実の戦争はもちろん全然違うということは承知しているが、それにしても酷すぎる。それどころか、小説世界での戦争についての描写も一切なかった。戦争をモチーフとしながら、ここまで戦争を描くことを拒絶したのはある意味で賞賛に値する。だが、これでは読者も、「戦争に現実感をいだけないでいる」主人公のいる、小説の中の現実を把握できない。どれだけ不合理で不条理な話でも上手く描かれてさえいれば、その不合理な世界に納得できる。よくできた小説ならば、小説の主人公が現実感をいだけないでいても、その主人公や彼を取り巻く小説の世界観が読者に伝わるのである。しかし本作品の場合は、筆者も小説世界の中の現実感を想像できないでいたのではないかと疑いたくなってしまった。もっとも、私の感性が鈍くなりすぎたがゆえに、小説世界の中の現実感を感じられなかったのかも知れない。あるいは、いまどきの小説には、そのようなものはもはや不要なのかもしれない。次に、そのテーマについてだが、奇抜な内容の作品のわりに案外と古臭い。誤解を恐れずに書くと、となり町との戦争であるという折角の面白いモチーフが生きていなかった。おそらく中心に据えているのだろう、一般人が無自覚のうちに間接的に戦争へ荷担しているという問題も、取立てて新鮮なテーマではない。特に経済的側面からは、第一次世界大戦や朝鮮戦争の特需のことを思い出せば日本人なら誰でもわかるし、戦争経済学という学問のジャンルもある。また、無自覚のうちに我々が殺戮行為に手を貸しているケースとしては、中国へのODAとチベット弾圧の関係を挙げるとわかりやすいだろう。戦争の悪として捉えるのではなく、その肯定的な側面もほのめかしているところは、意表を衝くと共に不気味さを煽りたかったのかもしれない。しかし、「たたかひは創造の父、文化の母」という側面は昔から言われていることである。もっとも、戦後の平和教育に洗脳された人にとっては衝撃なのかもしれない。お役所仕事のクールさや単調さの気味の悪さもこの作品の肝となっている。とはいえ、旧陸軍のお役所的だめっぷりの数々とくれべれば、実に可愛らしいものである。補足して言うと、個々人の運命が行政の歯車に巻き込まれ潰されていくということについても、本作のエピソードはあまりにも矮小である。これらのテーマを主張したいならば、非現実的なとなり町の戦争というモチーフよりもストレートに戦争そのものを描いたほうが余程効果的であろう。最後に、本作品全般についての感想を述べると、戦争というものの本質が描けていなかった気がする。平和で満ち足りた環境で、なに不自由なく育った現代日本の若者特有のナイーブさ、ひ弱さ、薄っぺらさ、小奇麗さばかりが目だっていた。世の中に無関心で戦争に対して現実味を持てないでいる若者を扱った作品でありながら、戦争のリアリティーを描けていないので、「戦争に対して現実味を持てないでいる若者」の姿にも危機感が出てこない。これだけ戦争と向き合うことを避けながら戦争を書こうとしたというのは驚異的であり、ある意味では戦後日本の最大傑作かもしれない。もっとも現代の日本人でも、少し過去の歴史を振り返ったり、海の向こうを眺めれば、生臭い戦争と向き合わざるを得ないのだが。作品のテーマも他のモチーフを用いたほうがより激烈に伝えられる。そもそも戦争というものを描けていない。しかし、それでもこの作品は大ヒットした。その要因は、いうまでもなく奇抜な設定にある。ただ、そのオリジナリティーある設定も、描写が不十分で小説の世界観が際立ってもいない。山田悠介の『リアル鬼ごっこ』を読んだときに感じたのと同じ、乱暴さを感じた。アイデアはぴか一で非常に面白かったので、その奇抜な設定のみをショートショートか短編にしていたならば、私も絶賛していた可能性もある。
2007.05.07
長嶺超輝『裁判官の爆笑お言葉集』幻冬舎新書 法の下で厳格かつシステマチックに運用される裁判の中で、チラリと見える裁判官の個性的なメッセージを紹介。裁判員制度のスタートが迫り、一般向けの裁判関連本が流行している。この本は、元司法浪人が書いたものであるので、趣味で裁判傍聴をしている単なるマニアの著作より、本質に迫っている気がした。ともあれ、一般の人にも裁判を面白いものとして興味を持たせるという意味で、この手の本はなかなか価値がある。法律というものは非常に論理的に良くできているが、同時に温かみの欠落している。誤解を恐れずに言うと、無味乾燥で面白くない。一般の人にとって、合理的な現代の法治よりも、人情が介入する余地のある人治のほうが魅力的に思えることもある。もちろん、人治が多くの問題を抱えていることなど自明のことで、中国の実情がそれを如実に表している。とはいっても、一般の人が難解に見える専門的な法制度に不信感を抱き、大岡裁き的な単純でわかりやすい裁判に魅力を感じる気持ちもよくわかる。そのような民心と司法のずれが問題となっている中で、この本は、機械的に思われるいまの裁判にも血が通っているということをアピールすることに成功した。裁判官達の人間としての声は、裁判への感情的な信頼感を誘うものである。自分と遠くはなれた無関係な世界と思っていた裁判が、本書を読んで、身近に感じられた人も多いかと思う。政治学を学んでいない人でも、床屋政談でああだこうだと天下国家を論じるのは、普通の人にわかる言葉で政治問題を扱った書物やテレビが多数あるからだ。娯楽として政治を扱ったものも数多い。一方で、これまで司法の分野は、専ら専門用語で語られ、門外漢には理解不能な領域だった。近年の娯楽として裁判を見るという風潮は、近寄りがたかった司法の領域を身近なものに変えつつある。裁判員制度をめって、司法への不信と司法への参加に対する躊躇の間でゆれる国民に、これらの本が与えた影響は大きい。
2007.05.05
サミュエル・P・ハンチントン 『文明の衝突と21世紀の日本』集英社新書ハンチントンの名著『文明の衝突』の概要紹介に二本の論文を加えた、日本人向けの手軽で便利な一冊。ハードカバーの『文明の衝突』は値が張り、かつ読むのが面倒なので、手軽なほうで済ませる。日本のケースについて突っ込んで見ていきながら「文明の衝突」理論を掴めるように構成し、興味を持たせやすくまとめられており、サラリーマンの教養用向けとして良くできている。「文明の衝突」理論の紹介はいろいろなHPに掲載されているので当blogでは割愛し、「二十一世紀における日本の選択」に関しての一言コメントのみ記しておく。アジアの地域大国を中国、第二位の国を日本とする考え方は、非常に残念であるが認めざるを得ないだろう。日本とは中華文明圏と決別したアジアの国家であり、孤立しているのはやむをえないし、むしろそこに存在意義がある。また、日本の国家戦略は「追従(バンドワゴニング)」にあるというのも、悔しいがその通りである。ただ、日本がとるべき選択肢として、追従する対象となるパートナーにアメリカと中国のどちらかを選ぶことのなるとあるが、中国を選ぶことは考えにくい。日本にとって、中国とよりもアメリカとのほうが、共有できる中長期的な戦略的目標が圧倒的に多い。中国もアメリカも日本とは別の異質な文明のリーダーであるが、どちらかを選ぶとなればアメリカの理念のほうに共感する日本人のほうが圧倒的に多いのではないだろうか。中華文明圏の辺境から離脱しアジア性を捨て去ったアジアの国が日本であるという存在意義を示すことこそが、近代化のはるか以前から国是であった。それをいまさら、中国に追従するならば、それはもはや日本が日本でなくなることを意味するのではないか。あくまで、表面上では中国との関係を悪化させないように配慮しながら、裏ではグローバルな超大国アメリカとしっかりと手を結んで中国を押さえるしかないだろう。ブレジンスキーも、ひよわな花である日本はグランドチェスボードのプレイヤー足りえないと書いている。孤独で小さな日本文明が、一極多極時代を乗り切るためには、アメリカの覇権と日米同盟が強固なものであり続ける必要があるだろう。
2007.05.04
蔡焜燦『台湾人と日本精神 日本人よ胸を張りなさい』小学館文庫日本人以上に日本的な“愛日家”蔡焜燦が台湾に息づく日本精神を紹介。そして、自虐史観に迷い込んでしまった日本人に、自信と誇りを取り戻すよう訴える。「日本人よ胸を張りなさい」知日派の台湾本省人の著作の代表作。この手の本の流れはだいたい以下のようなパターンが多い。(1)規律正しく、「公」を重んじる日本精神を日本統治時代に学んだ、(2)日本統治によって台湾は近代化に成功した、(3)日本の敗戦後、独立を喜び、中華民国に期待を寄せたが、中国人のていたらくを知って失望した、(4)外省人の苛烈な支配と腐敗した日常に耐えてきた、(5)李登輝以降、我々本省人は台湾人としてアイデンティティーを回復し、れっきとした国民国家へと更なる繁栄の道を歩んでいる、(6)現在の日本は敗戦以降の自虐史観を脱することができずにおり、中国の顔色を伺ってばかりでだらしがない、(7)日本と台湾は手を取りあって、輝ける未来へと前進するべきだ。最近の日台友好の原動力としてよく取り上げられるのが司馬遼太郎の『台湾紀行』と小林よしのりの『台湾論』で、この『台湾人と日本精神』の著者、蔡焜燦はどちらにも登場する。この本で特に面白かったのは、蔡焜燦の韓国・朝鮮人に対する意識。日本人と台湾人、大陸の中国人と台湾の中国人、台湾の本省人と外省人を、比べて書かれた文はよく読むが、日本時代の台湾人と朝鮮人の違いを皮肉たっぷりに書かれた文章は始めて読んだ。これについてもっと詳しい話を知りたくなった。参考までに軽く紹介しておく。・創氏改名について 朝鮮人:自己申告制、日本名を名乗る人が多かった、戦後は反日に 台湾人:許可制、日本名を名乗る人は少なかった、戦後も親日 先に日本に組み込まれた台湾よりも朝鮮を優遇した政策に蔡焜燦は苦言を呈し、朝鮮人は優遇されていたにもかかわらず戦後反日に走っていると指摘する。植民地統治について「反省」する際には、このように同化政策を捉える「アジアの人々」もいるのだということを踏まえる必要があるだろう。補足で記すと、創氏改名は朝鮮人側の要望に渋々応じたものであり、無理矢理押し付けたものではない。・戦後の三国人問題について 朝鮮人:日本人に対して横暴な振る舞い、戦勝国中華民国の人間には卑屈な振る舞い 台湾人:特権をいかして人々のために親切な振る舞い 三国人とは、戦勝国の人間でも、敗戦国日本の日本人でもない、旧植民地の人間のことを指した戦後の言葉。蔡焜燦は台湾人として、朝鮮人の悪行を暴き、台湾人の美談を紹介している。しかし、騒乱・衝突を引き起こした台湾人もいたわけで、日本人の感覚からしてはどっちもどっちだという意識もある。しかし、戦後60年以上たったいま、朝鮮・韓国と台湾の意識の違いは歴然と現れてきている。第3章では、上に紹介したようなエピソードが紹介され、最後のほうの章では今後の関係について言及している。その内容を紹介すると下記のような感じである。日本は反日的な韓国や中国よりも親日的な台湾をパートナーに選ぶべきで、中国にへつらい過ぎていれば、世界で一番親日的な台湾も今の日本を批判する立場に回らざるを得ない。もっとも、この反日は媚中派日本人に対する反日であるが。この指摘は、非常に示唆的なメッセージである。かつて親日的であったからといってこれからも親日的であり続けることが保証されているわけではない。親日的な「多桑」世代はもう高齢化している。「哈日族」の若者が惹かれているのは、日本そのものというよりも日本の先端的でクールな文化についてで、流行が日本以外に向けばその熱は醒めやすいだろう。今の日本の行動は、台湾に対して冷たすぎるとの指摘はご尤もである。にもかかわらず、日本人は親日的な台湾というイメージに満足しきっている。友好の為には、かつての歴史も重要だが、いまどのように行動するかが重要だということは言うまでもない。インドネシアも親日国として良く取り上げられるが、果たして親インドネシアの日本人はいまどれくらいいるのか。台湾にしてもその他の親日的なアジアの国々に対しても、格下の国々として軽んじ、根拠なく蔑視している日本人が多い気がする。これではとても、アジア諸国との友好は難しいだろう。失ってしまった“日本精神”を取り戻し、西洋との協調、アジア諸国との友好をバランスよくこなしていかなければ、中国の覇権を前に、日本は太刀打ちできなくなってしまうだろう。
2007.05.02
哈日杏子『哈日杏子のgo go台北 新交通システム捷運に乗って』まどか出版日本文化に惹かれる台湾の若者“哈日族”の代表格、哈日杏子による台北旅行ガイド。哈日杏子は小林よしのりの『台湾論』にも登場し、日本でもそこそこ有名で、その著作は何冊も日本語に翻訳されている。本書は、豊富な写真やイラストを交えながら、新交通システム捷運の駅周辺の人気スポットをエッセイ風の文章で紹介している旅行ガイド。新交通システムの乗りかたや、観光のときに知っていると便利な会話集も収録されており、かなり親切。またフランクな話し言葉で書かれた文章も、親しみやすく読みやすい。ただ、少々古いのが難点。ユーズドで一番安いという理由で本書を選んだのだから仕方ない。最新の情報を盛り込んだものも出ているので、旅行の前に読もうと考えている方は、そちらをお読みになられたほうが良いだろう。
2007.04.30
『趣味の文具箱 vol.7』エイ出版社待っていました!趣味の文具箱vol.7ついに出版。万年筆ムック本の大御所、「趣味の文具箱」年2回発行のペースで、ついにvol.7が出版された。日本で出ている最近の万年筆関係のカタログ本はすべて買うようにしているが、このシリーズを一番楽しみにしている。筆記具という趣味のジャンルは奥が深いと入っても、そんなに広くはない世界である。そろそろネタが出尽くした感が漂い始めた気がする。新作の紹介はネットよりも情報が遅い。万年筆業界の両雄であるモンブラン、ペリカンの歴史や過去の名作はすでに取り上げた。日本の手作り万年筆の紹介は『万年筆の達人』で取り上げた。関連品の紹介も、前号と今号でほとんど紹介しつくしたのではないだろうか。今号では、いつも以上に使用者の万年筆談義が多く掲載され、「使うこと」に重点を置いた感じがあった。(ちなみに、関係者や使用者のコメントを紹介するのはワールド・フォトプレスの「万年筆スタイル」の得意分野だった)となると、vol.8以降はどのような路線に進んでいくのかが、気になるところである。私の個人的希望としては、海外の万年筆事情や、各ブランドが出している宝飾系万年筆の紹介を読んでみたい。イタリアの万年筆工房やフランスやドイツの万年筆オタクの動向など、実際に見に行けないないからこそ、本で読みたいものだ。また、天文学的な数のゼロが並ぶような宝飾系の万年筆は、その実物を拝む機会があまりなく、その情報もほとんど入ってこない。先日モンブラン心斎橋店のリニューアルレセプションに行ってきたのだが、初めて見る超豪華モデルが多数展示されていた。雑誌やインターネットで見ることのないモデルも幾つかあった。もちろん、宝飾系の万年筆など、手が届く筈がなく、その情報を知ったところでどうなるというものでもない。しかし、買えなくともせめて写真で拝みたいというのがマニアの心情だろう。買えないようなもののことなど載せても意味がないのかもしれないが、買えないからこそ本で読みたいのである。もっとも、ブランドイメージや一部の人のためにという限定感を維持するために、大衆的な雑誌には載せられないようになっているのかもしれない。
2007.04.28
明石散人『日本史快刀乱麻』新潮新書鳥玄坊シリーズの「築地の先生」による、歴史薀蓄本。明石散人の作品の奇想天外かつ胡散臭い薀蓄は癖になる。「京極堂」の師匠であり、また多くの作家や政治家のブレーンを務めているらしいが、詳しい話は知らない。正体については諸説あるが、はっきりと明らかになってはいないようだ。まあ、博覧強記と言いつつも、書いているネタにパターンがあるのでその辺を探れば正体が掴めそうな気もする。ただ、わざわざ別名で書くぐらいなので、表での作風と全然違う可能性もある。この作品は新書で、もっともらしい歴史本のの体裁をとっているが、いまいち信用できない。参考文献が明記されていないところや、その独自の主張の根拠が曖昧であり、胡散臭いことこの上ない。どこまでが本当で、どこまでがこの人の主張なのか曖昧なので、すべてを信じるのはかなり無謀だとしか言いようがない。話半分に読む分にははいいが、あまり真剣に読むものではないだろう。その意味で、はじめから小説として書かれている、鳥玄坊シリーズのほうが面白いしお勧めである。書き手も読み手も、フィクションであるとの共通の了解に元に成り立っている話なので、割り切れる。鳥玄坊シリーズはSF小説として、ぶっ飛んだ設定がいきいきとしている。
2007.04.26
ジョー・バフ『深海の雷鳴』ヴィレッジブックス ソニー・マガジンズセラミック船殻のステルス原潜が戦術核魚雷を使ってドンパチする、近未来海洋軍事アクション小説。かつて、潜水艦小説は、(1)Uボートや伊号潜水艦をメインに描く作品、(2)冷戦期の米ソ原潜同士の一触即発の追いかけっこや核戦争の危機を描いたもの、(3)敵から隠れたり沈没したりしている潜水艦内部の閉塞感を描いたもの、(4)海洋冒険ジュブナイル、の4パターンに分けることができた。(1)か(2)かのどちらかを時代背景として選択し、オプションとして、艦長と副長の対立、敵艦艦長との因縁、艦内に紛れ込んだ異分子、本国との連絡途絶、閉塞環境における乗組員の心理、核の恐怖、などを適当にチョイスすれば潜水艦小説が出来上がったといっても過言ではない。いわば水戸黄門的なお約束を踏まえていれば、時代背景と潜水艦という舞台の魅力だけで、物語が成立したのである。しかし、冷戦崩壊後、潜水艦は花形兵器の座から去っていった。国際情勢の変化に伴なって、任務は変化し、予算は削減され、魅力的な新型艦も登場しなくなり、軍事小説のネタとしての面白みは失われていった。そんな時代に颯爽と登場してきたのがこのシリーズ。現実世界が潜水艦小説の舞台として魅力を失った新時代の潜水艦小説であるこのシリーズは、ドイツと南アが手を組んで米英と戦争し始めたという架空の近未来を舞台に設定した。登場する潜水艦も、セラミック船殻で4500m潜航可能な架空の潜水艦。戦術核魚雷をふんだんに使用し、敵輸送艦隊を一瞬のうちに蒸発させたり、遠距離での核爆発で敵原潜を破壊したりと、これまでの潜水艦小説の戦闘シーンとは一線を画すSFチックな描写が目新しい。また、潜水艦で輸送した特殊部隊による地上での任務にもスポットが当てられ、閉塞感ある潜水艦小説の風通しを良くしている。舞台である深海の描き方も、海底火山の描写など、ビジュアル的にイマジネーションを刺激する工夫もなされている。潜水艦モノは映画化すると、ストーリーやキャラクターは魅力でも視覚的な面白みに欠けるという弱点を持っているが、これくらい視覚的にも訴えかけるような小説ならば、映画化しても面白いものになるのではないだろうか。上記のように新しく新鮮な要素のたっぷり詰まった新型の潜水艦小説であるが、もちろん前述の王道パターンもきちんと踏襲しており、その点でも安心して読むことができる。ただ、設定がちょっと破天荒なため、リアルさを追求する人にはお薦めできない作品ではある。
2007.04.24
高田亜季『台湾風』アルファポリス現地に住む日本人の目から見た台湾の日常生活。最近、台湾の政治や歴史について学者や政治家が書いた本を何冊か読んだ。今回読んだこの『台湾風』は、台湾人男性に嫁いだごく普通の日本人女性によるエッセイ。政治問題について書かれた書籍からは見えてこない、台湾の庶民の生活の一端を垣間見ることができた。著者の夫が外省人であるためか、この本から見えてくる台湾像は、私が持っていたイメージ以上に中国的に感じられた。現状から見ても、歴史的経緯から見ても、台湾は大陸中国とは違う独立した国家としての実体を備えている。また、台湾を大陸とは一線を画す国としたのは日本統治の経験によるところが大きい。それらの事実についての知識から、台湾は中国よりもかつての日本に近いといったイメージが、実際以上に肥大化してしまっていたのかもしれない。外省人は、中国共産党を否定していても、中国を否定しているわけではないし、本省人も数百年前に大陸から渡ってきた漢民族である。台湾人の中国認識やアイデンティティーの問題は、実際に交流してみないとわからない問題だろう。もっとも、大陸中国のことも、私は本を何冊か読んだ程度しか知らない。台湾人は、本省人の場合特に、自分達は大陸人とは違うとの意識がとても強いらしい。実際、大陸と台湾とでは、レベルが全然違う。この前、日本に来ている台湾人留学生は、「日本に来て、違いに戸惑ったことは?」との質問に「ない。ほとんど一緒だから」と応えていた。日本人の私が日本でこの本を読んで台湾も中国的だなと感じたと書いたが、それは台湾と中国の違いを知らないが故の、失礼なコメントなのかもしれない。台湾にしても中国にしても、その実体を知るには本を読むだけでは限界があることを改めて感じさせられた。
2007.04.22
ニコラス・D・クリストフ/シェリル・ウーダン『新中国人』新潮社アメリカ人のジャーナリスト夫婦が見た現代中国の実像。活気あふれる成長も非道な抑圧も現在の中国の実体である。政府は実体を隠蔽すべく取材を制限しようとするが、クリストフとウーダンはあの手この手で規制をすり抜けて、地元民との交流のなかから中国の現状を探り出す。具体的エピソードがふんだんが書かれており、臨場感ある中国論となっている。特にウーダンは中国系アメリカ人であったので、白人にはできないような取材をを行なっており、非常に面白い。また、華僑と中国の関係も浮かび上がってきて、興味深かった。権力者の苛烈な支配、関係(コネ)と人治による社会システム、腐敗した王朝に対する暴動と易姓革命、都市部の繁栄と貧困にあえぐ農村、社会の隅々にまで蔓延する賄賂、女性への徹底的な差別、権力への盲従、散砂のごとき個人主義、拝金主義、中華思想による対外膨張の傾向。共産党の革命で、中国は大きく変わったとはいえ、その本質は中国四千年の歴史を継ぐ赤い皇帝の率いる王朝である。西側と中国の間には巨大な溝があり、多くの問題を抱えているが、このような中国と付き合うためには、まず中国を知り、対話と圧力を駆使する必要がある。中国は巨大かつ複雑な存在なので、クリストフとウーダンにも、今後の展開を読みきることは出来ない。崩壊し未曾有の混沌を引き起こすのか。それとも、経済的豊かさ、外国からの圧力、教育水準の向上によって民主化し、超大国となり繁栄を手にするのか。北京オリンピックを翌年に控えた中国の姿に、いま世界中が注目している。
2007.04.21
橋本恵『謀略―かくして日米は戦争に突入した』早稲田出版岩畔豪雄とは何者だったのか。「謀略の岩畔」の真の姿に迫る。ロジスティック、満州国の経済事務、諜報活動、陸軍中野学校の設立などで活躍した「謀略の岩畔」。大東亜戦争では南方作戦で活躍したほか、特務機関「岩畔機関」を率いてインド独立工作に従事している。ちなみに「大東亜共栄圏」という言葉を作ったのも、「戦陣訓」を提唱したものも岩畔である。もっとも岩畔の企図した「戦時訓」は、戦後のイメージとは全然異なるものなのだが。そもそも岩畔の活動の大半は、世間のネガティブなイメージの謀略というよりも、時代を先取りする先見の明にとんだ合理的なものだったといえるだろう。しかし、岩畔の活躍の中で一番有名なのは、日米開戦回避の外交交渉だろう。日米諒解案を策定し、和平に向けての努力を重ねた岩畔の姿勢は、謀略的なイメージとは裏腹に、実に誠実なものだったそうだ。松岡外相が三国同盟に固執したために交渉ははかどらず、独ソ戦が始まってしまったことで、完全にタイミングを逸したため戦争は回避できなかった。いわば失敗に終わったため、岩畔の知名度はそんなに高くない。しかし、彼の真摯な取り組みは、アメリカから高く評価され、東京裁判で戦犯に問われることはなかった。追記現在『謀略』は絶版となっているが、著者である橋本恵のホームページいわくろ.comで同様の内容が公開されている。
2007.04.18
李登輝/小林よしのり 『李登輝学校の教え』小学館文庫李登輝と小林よしのりの対談。基本的には小林よしのりの『台湾論』の李登輝との対談部分とかぶる部分が非常に多い。まあ、よく考えると、どちらも同じ対談を本にしたものだから当然か。この前このブログで、福井晴敏の『Cーblossom』を取り上げたとき、漫画よりも小説のほうが好きだと書いたが、今回は『李登輝学校の教え』よりも『台湾論』のほうが面白かった。李登輝の経歴と台湾の現代史についての李登輝の発言は、自著『台湾の主張』とほぼ同じ内容。ただ、この本は小林よしのりとの対談なので、李登輝の発言の常々の発言と、小林よしのりの主張にあわせての発言とを見分ける必要があるだろう。また、日本へのリップサービスも多かったような気がする。気になったのは、第一講の「日本と台湾の企業の大陸進出は自殺行為に近い」という部分。今春のいわゆる「転向」発言の際には、両岸の経済的結びつきのバランスをとるために大陸からの投資の受け入れをもっと、といった感じのことを述べていた。たしかに、主張はかわってはいる。しかし、ここ数年の両岸の経済情勢も変わっているということを踏まえて、今と昔の主張の真意を考える必要があるだろう。
2007.04.16
福井晴敏/霜月かよ子 『Cーblossom Case 729』講談社文庫 『亡国のイージス』の如月行を主人公とした、サイドストーリー。講談社文庫から出ているが、実はこれは小説ではなく漫画。イージスの事件の前に起きた事件で、短編集『6ステイン』の7つ目のエピソードとして位置づけられている。私は普段漫画を読まないので、漫画の絵から情報を読み取る能力に欠けているためか、あまり面白くなかった。『6ステイン』の短編小説は短くともエッセンスが凝縮されており、ある意味で『亡国のイージス』以上に面白かったので、おそらくこの『Cーblossom』も小説の形態で出ていたら楽しめていたと思う。同じような厚さの本なのに、『6ステイン』では六篇の物語が書かれているのに対して、『Cーblossom』ではたった一話の話しか収録されていないという事実から、小説のほうが漫画よりも6倍も効率がいいと考えるのは、暴論だろうか。話の内容や密度は7篇ともそう変わらないと思うので、あながち間違いでもないと思うのだが。どちらの形態が優れているかという問題ではなく好みの問題だとは思うが、私は活字のほうが好きだということを改めて実感した。
2007.04.13
養老孟司『バカの壁』新潮新書 いわずと知れたベストセラー。何を今更、という感じもあるが、いまだにあちこちの書店で平積みされているので読んでみた。もちろん私の思考も「バカの壁」に遮られている。私は頑固なたちなので、大方人よりも分厚い壁に遮られていることだろう。売れているからという理由でこの本を手にとった私が、さらっと読んだだけでわかった気になっているのも、「バカの壁」による錯覚だろう。普通の人は君子ではないので、自分の欠点を改善することは難しいだろう。私も自分の「バカの壁」を崩していく作業の難しさを感じている。また、それ以上に難しいのは、他人の「バカの壁」を取り除くことだろう。
2007.04.05
エリザベス・ムーン『復讐への航路』ハヤカワSF「若き女船長カイの挑戦」シリーズ第二弾。宇宙のあちらこちらで活躍しているヴァッタ家の一族郎党が同時テロによって皆殺しにされる。復讐を心に誓ったカイは、テロの裏に隠された巨悪の陰謀を暴くために立ち上がる。ヴァッタ家はなぜ潰されようとしているのか?アンシブル破壊工作の目的は何か?独り立ちを余儀なくされたカイの前には、様々な謎と困難が待ち受けていた。今作で大きなストーリーの流れが見え始めたこのシリーズ、主人公の活躍の舞台広がり、大規模で派手な展開になりそうだ。単なる宙間貿易の話から、陰謀が渦巻き銃弾が飛び交うミリタリーSF色が濃くなってきた。今作で、シリーズとしての伏線がたくさん散りばめられたので、今後どのように話が収まるのか気になる。
2007.04.02
船戸与一『金門島流離譚』新潮文庫海峡を隔てて大陸と向き合う金門島。中台の経済的歩み寄りと政治的対立を象徴するこの島を舞台に繰り広げられる冒険小説。かつて中華民国の軍事拠点として最前線だった金門島は、軍事技術の発展により、最前線としての軍事的価値を失う。そして、台湾が2001年に金門・馬祖両島に限って小三通を承認によって観光の島として賑わうようになった。私は金門島に行ったことがないので実情がどうなっているのかは知らないが、この冒険小説で描かれる金門島の雰囲気は、経済的繁栄の裏に多くの禁忌を抱える灰色のイメージである。もちろんこの手ハードボイルド小説のほとんどは、物語の性質や主人公がアウトローであるとの理由で、陰鬱で暗澹たる空気に覆われている。しかしこの小説の空気を作り出しているのは、個人の悲哀やグループ間の暗闘を超越した、国家間の歴史的な確執によるところが大きい。舞台をどこかに置き換えてもそのまま通用する物語も多いが、この小説は金門島が舞台でなければ書き得ないものである。国家同士のせめぎあいを前にすると、個人はあまりにもちっぽけで無力な存在となる。曖昧なバランスと暗黙の了解の下に、非合法なビジネスで儲ける主人公は、ひょんなことから、複雑な両岸関係の隙間にある触れてはならない禁忌にぶちあたる。いったん巻き込まれてしまうと、その泥濘から抜け出せず、遂には最悪の結末を迎えることになる。登場人物の生き様とストーリーと物語の背景。どれもが面白く、密接に絡み合うことで独特の雰囲気を醸しだしていた。アジアの国際問題を冒険小説と上手く融合させる船戸与一、是非他の作品も読んでみたい。
2007.03.30
司馬遼太郎『街道をゆく40 台湾紀行』朝日文芸文庫 司馬遼太郎による台湾考。いろいろな台湾関係の文献を読むと、この本の李登輝とのインタビューが引用されていることが多い。「街道をゆく」シリーズは政治的な書籍ではないと思っていたのだが、かなり台湾の政治事情について言及していた。後で調べてみると、やはりこの『台湾紀行』は一連のシリーズでも異質な存在のようだ。台湾問題については、このblogで他の本を読んだときにあれこれ書いたので、今回はその内容については割愛する。司馬遼太郎はこの本で、李登輝と対談し省人にシンパシーを抱き、台湾の民主化を讃え、中国を批判している。また、山地に住む少数民族についても非常に重視している。司馬遼太郎の特徴は、個人個人の生活の延長線上に歴史を描いていることだ。この『台湾紀行』においても、大上段に構えて政治学的な局面から台湾を語るのではなく、人々の生活を見ていく延長線上に台湾の現実を探ろうとしている。もちろん、個人の生活体験を見るだけでは、大きなマクロヒストリー的な政治の実体を把握しきれないだろうが、そこに生活している人々を無視して政治を語ることは出来ない。この本にそのことを改めて感じさせられた。
2007.03.29
エリザベス・ムーン 『栄光への飛翔』ハヤカワSF船長としての初の任務は簡単に終わるはずだった…。「若き女船長カイの挑戦」シリーズ第一弾。宇宙でも有数の大手航宙会社の愛娘カイは、持ち前の親切心が仇となって士官学校を追放される。父に命じられて、退役目前のおんぼろ貨物船で貨物を辺境星域に運ぶという任務に赴くが、冒険心に富む一族の血を引くカイは、おんぼろ船をスクラップ行きの運命から救うために一か八かの賭けに出る。冒険心と優しさを併せ持つ主人公が窮地を乗り越えて成長し成功をつかむという、よくあるスペースオペラの定石を踏んだ、気軽に楽しめる娯楽SF小説。魅力たっぷりの主人公は財閥のお嬢様、脇を固めるのは有能な乗組員、士官学校、宇宙貿易、宙賊、傭兵、アンシブル、とキーワードを並べると無粋な説明がなくとも、雰囲気は掴めるだろう。日本ではシリーズ第三弾まで翻訳されている。一冊千円以上という文庫本としては高めの値段には閉口するが、続きが気になるシリーズである。
2007.03.28
若林正丈『現代アジアの肖像5 蒋経国と李登輝 「大陸国家」からの離陸?』岩波書店蒋経国と李登輝からみる台湾現代史。大陸と睨み合いながら台湾に戒厳令を敷いて開発独裁を行なった蒋経国。民主化を推し進め新しい台湾人を作ろうとした李登輝。現在の台湾を語る上で欠かすことのできない二人だが、その出自の違いが面白い。方や大陸から移ってきた蒋介石の息子。方や日本統治下に生まれ2.28事件では狙われたほうにいた本省人エリート。この二人の人生を辿れば、台湾が抱える課題が見えてくる。この本のサブタイトルは“「大陸国家」からの離陸?”。毛沢東に追われて台湾に来た国民党は、中国全国を代表する正統性を主張すると共に、大陸の中国共産党との違いを強調する必要に迫られた。数百年前に大陸から移民し台湾に移り日本統治の経験を経た本省人は、中国人とは違う台湾人としてのアイデンティティーを持つに至った。外省人と本省人が大陸から離陸した経緯は違うが、いまや民主主義と経済発展の中で新台湾人という共通のアイデンティティーを確立しつつある。両岸関係が経済的に深まっていく中で、これからも台湾は中国とは一線を画す国であり続けることができるのか。台湾が大陸を台湾化しつつあるのだというものの、経済的結びつきが強くなればなるほど、大陸の台湾への影響力は大きくなる。経済学をやる人はEUの例を挙げながら経済と政治は別だと説くが、本当にそうだろうか。中華世界は恐ろしい。これまでの中国の歴史で、幾たび中国を征服した異民族を中国化してきたことか。本気とも思えないが、もし大陸が民主化すれば大陸との統一もありうるとの主張もある。大陸を台湾化しているつもりが、逆になってしまいかねない危うさを感じる。そのようなことはないとは思うが、経済的結びつきが政治的独立にどう影響を与えていくのか気になるところである。もっとも、大陸から離陸した台湾は、高度を上げすぎても国際問題になってしまう。もう大陸に墜落する心配はないと思うが、果たしてどの程度の速度でどの程度の高さを飛べばいいのか。国民国家に着陸するための航路を手探りで探しながら飛び続けているのが、いまの台湾である。李登輝の「転向」問題は、日本人にもそのあたりのことを考えさせる契機となった。
2007.03.25
李登輝『台湾の主張』PHP研究所李登輝前総統、現代台湾の問題と人生哲学、政治哲学を語る。両岸の経済関係がますます深まりを増すなか、台湾では「大陸との経済的関係の深化」と「台湾としての自立」との折り合いをどうつけるのかが問われている。台湾の大陸への投資が増え海峡両岸の経済的な一体化が進み、逆に大陸の台湾への影響力が増してきている。そのような状況のなか、『壱週刊』に掲載された李登輝氏のインタビュー記事が、李登輝は「転向」したのではないかとの議論を巻き起こした。改めて李登輝の主張を整理するために『台湾の主張』を読んだ。台独についての李登輝の基本主張は、すでに独立しているのだから改めて独立を声高に叫ぶ必要がない、というもの。『壱週刊』のインタビューそのものは読んでいないが、日本で紹介された論説を読む限り、今回も記事もこの路線に沿ったものに思えた。本省人でありながら中華民国総統になったほど政治感覚に優れており、また行政の実務面にも詳しい李登輝のこと。真意を知るためには、その発言の政治的意図や、より実際的な技術的問題についても考えていかなければならないだろう。ただ、この本で気をつけたいのは、あくまでこの本は「李登輝の主張」だということ。本省人の主張はだいたいこのようなところなのだとは思うが、=「台湾の主張」ではない。台湾辿った数奇な運命と、それに起因する重層的なアイデンティティーの重層性が、問題を複雑にする。その昔は「化外の地」とよばれた台湾は、日本の植民地となり近代化を遂げる中で、中華世界とは一線を画す独自性を現してくる。そして日本の敗戦後に中華民国がやってきた。しかしその光復の実体は目を覆わんばかりのもので、「イヌが去ってブタが来た」と揶揄された。台湾にやってきた国民党は、2.28事件の大弾圧を行なった。毛沢東の中共に大陸を追われた国民党は、逃げ込んだ先の台湾から中国全国を代表する正統政府との姿勢をとり続ける。政権は蒋介石から蒋経国に移り、大陸反攻はもはや外省人も信じなくなった。それでも戒厳令は解除されず、少数者である国民党が台湾を牛耳る一党独裁体制が続いた。その後、蒋経国の病死により跡を継いだ李登輝は本省人。李登輝の下で、台湾は民主化を進めながら、台湾としての独自性を取り戻し、新しい台湾アイデンティティーを模索しつつある。現在では外省人も新台湾人として台湾帰属意識を高めてきている。それでもやはり、本省人と外省人とでは主張は異なるだろう。これからも「中華民国在台湾」でよいのか。それとも、名実共に独立し、中国とは異なる台湾という国民国家を作り上げていくのか。大陸との経済的結びつきが深まるいまこそ、台湾は中国とはどう違うのか、台湾とはそもそも何なのかが問われてくる。李登輝の後の台湾ではどのような主張がなされていくのか注目していきたい。
2007.03.24
恵隆之介『誰も書かなかった沖縄―被害者史観を超えて』PHP研究所現在沖縄が抱える問題の根源を探る。沖縄といえば、のんびりとしたイメージがある。あくせくした都会の暮らしとは掛け離れた、牧歌的な南の楽園。ある意味でそれは正しい。しかし、それこそが現在の沖縄の最大の問題となっている。「のんびり」とは言い換えれば、「いいかげん」で「だらしない」という意味。この本で描写されるかつての琉球の実体は、李氏朝鮮を彷彿とさせるアジア的なだらしなさに充ちた姿である。勤勉を美徳とする日本とは別の文明圏にあるとしかいいようがない。私はこれまでは日本の一地方として沖縄を捉えてきた。しかし、沖縄の近代化の過程は朝鮮、台湾あたりとよく似ている。この本を読み、日本は単一民族国家ではないということを改めて感じた。もともとの中華文明圏の辺境にあった沖縄は、江戸時代に日本の文明圏にも組み込まれる。この日中両属の時代に、沖縄は元々のアジア性に加えて日和見主義的と事大主義に磨きをかける。明治には完全に日本に組み込まれ、政府の懸命な政策により本土と同化しつつあった。「後世格別のご高配を賜わらんことを」といわしめた、沖縄戦における島民の活躍はその証明だろう。しかし、敗戦後の琉球政府になってから、またかつての琉球らしさを発揮しアメリカと日本相手に上手く立ち回る。本土復帰後も依然として被害者史観を振りかざし、数々の問題を乗り越えることができない。沖縄を訪れたときに聞いた話のなのだが、かつて沖縄では問題に直面するとそれを先祖への供養が足りなかったからだと考えたそうだ。線香の本数が多かったり、墓が大きかったりするのはそれが理由とのこと。自分の事を自分で何とかしようとせず人に頼ろうとする、主体性の欠落を象徴するエピソードとして印象に残った。もう一つ沖縄で呆気に取られた出来事があった。宿泊したホテルのフロントマンが接客中にガムを噛んでいたのだ。この本を読んでもっと凄まじいエピソードを知ってしまったので、その程度沖縄では普通なのかもしれない。念のために記すが、私は沖縄が嫌いではない。沖縄は非常にいいところだ。沖縄でお会いした人は皆、人の良い方々で、いろいろと親切にしてくださった。景色もいいし、気候も良い。料理も旨いし、泡盛も最高だ。確かに、教育、雇用、治安などの問題の解決しなければならないはたくさんある。もちろん沖縄はこれから変わっていかなければならないだろうが、沖縄の良さは失わないでいてほしいものである。
2007.03.23
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