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12月23日、東京のみずがめとなっている、多摩湖(村山貯水池)と狭山湖(山口貯水池)を散策してきた。その前の晩は、友人と高田馬場駅前の居酒屋で牡蠣料理を楽しんだ。牡蠣七点盛 産地 【2013/12/22】 高田馬場「海宝」・昆布森:北海道(釧路管内)釧路郡釧路町昆布森 (太平洋)・厚岸:北海道(釧路管内)厚岸郡厚岸町 (厚岸湾)・的矢:三重県志摩市磯部町 (的矢湾)・広島:広島県広島市 (広島湾)・室津:兵庫県たつの市御津町室津(播磨灘)・坂越:兵庫県赤穂市坂越 (坂越湾)牡蠣は味も大きさも微妙に違ったが、どれも美味しかった。知らなかったのが兵庫県の牡蠣産地である。赤穂と龍野産の牡蠣は、昆布森産と比べると若干小振りではあるが、濃厚な味が旨かった。------------------明けて23日、西武線で西武球場まで行く。ここから徒歩で隣接する山口貯水池を散策する。村山貯水池は狭山湖とも呼ばれ、昭和9年に完成した。円錐形の尖り屋根を持つ赤煉瓦造りの取水塔が美しい。ダム堰堤の上を対岸まで歩き、また戻ってきた。堰堤付近にはバズーカ砲のような大きな望遠レンズを付けた中高年カメラマンが多く、バードウォッチングを楽しんでいた。西武球場では「ももクロ」なる歌手のコンサートが開かれるとの事で若い人がいっぱい集まっていた。赤、緑、黄など派手な原色の服を着ている人が多かった。当方にとって全く場違いも甚だしい所に来てしまった感があるので、早々に西武山口線の豆汽車で退散する。今度は西武遊園地に隣接する村山貯水池を散策する。村山貯水池は多摩湖とも言い、昭和2年に完成した。こちらの取水塔は屋根が半球状である。先程の山口貯水池の取水塔と同様に瀟洒な佇まいを見せている。ダム堰堤を渡り切り、対岸(南側)にある門柱。旧陸海軍軍營の營門などを彷彿とさせる。これでダム湖の散策が終了し、武蔵大和駅からモノレール甲州街道駅を経て信州まで戻った。(おわり)
2013年12月31日

12月21日~22日、滋賀県の長浜市と近江八幡市を散策してきた。(その4)引き続き、近江八幡市内観光である。新町通りを南下し、隣接してある市立資料館・旧伴家住宅・旧西川家住宅を観覧する。旧伴家住宅「扇屋・伴庄右衛門」蚊帳や畳表で財を為した近江商人の家である。明治期以降は学校、役場、図書館などとして使われた。かなり広く立派である。池田町付近に並ぶヴォーリズが手がけた洋館街。いずれも現役の住宅なので外観のみ瞥見する。近江八幡市立八幡小学校。かなり改装されているが、大正6年築らしい。現役の校舎である。昨日に引き続き冷たい雨のため、ここまで見たら観光意欲が減衰してしまった。バスで駅前まで戻り昼食を摂る事にした。駅前にある洋食店「ティファニー」の近江牛ステーキランチ(約4000円)。昼の食事としてはかなり高かった。近江牛は柔らかく美味しかった。これで近江八幡市の散策を終え、新快速電車で大阪へ向かった。(滋賀紀行の巻 <完>)
2013年12月30日

12月21日~22日、滋賀県の長浜市と近江八幡市を散策してきた。(その3)雨で体が冷え切り、観光を途中で打ち切って、近江八幡駅前のホテルへ投宿する。夕食は駅前の居酒屋で一献する。近江八幡市は謀反の疑いを着せられて僅か28歳で切腹させられた豊臣秀次が開いた城下町であった。秀次は善政を敷き、町発展の基礎を造ったと言われている。その後、江戸時代は近江商人の街として発展した。また、かつては水運が発達し、水郷の街としても知られており、現在は観光用の水郷めぐり船も運航されている。(潮来、柳川などと類似)明けて22日、この日もあいにくの雨。駅前より近江鉄道バス長命寺線に乗って大杉町で下車する。近江鉄道は西武グループ傘下らしく所沢近辺を走っているバスと同じ色でライオンの顔も描いてあった。最初に白雲館へ行く。明治八年に学校として建てられた擬洋風建築とのこと。松本の開智学校、磐田の見付学校を思い出す。現在は観光案内所となっている。白雲館の二階から道路を挟んで向かい側にある日牟禮八幡宮を眺める。近江八幡市の名称の由来にもなった古社である。八幡神社の脇から、八幡山(城址公園)へロープウェイで上がる事が出来る。あいにくの雨天のため、山へ行くのは止めにした。江戸時代の面影を残し、八幡宮前を流れる八幡堀。濠一帯は景観保全地区となっている。メンターム(メンソレータム)で知られる近江兄弟社。製薬業の他に学校、病院等も運営している。ウィキペディアに依ると、一度倒産し、メンソレータムの商標はロート製薬に引き継がれた。再建後はメンタームの商標を使用しているとのこと。近江八幡と言えば、建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ抜きには語れないようで、この近江兄弟社もヴォーリズが創業した。建築家としては教会を中心とした数多くの洋館を手がけた。建築家、実業家、伝道師などの顔を持つ多彩な人物であったらしい。景観保全地区となっている新町通り。八幡宮前の市街地は碁盤の目のようになっており、計画的に造られたのだろう。(次回に続きます)
2013年12月30日

12月21日~22日、滋賀県の長浜市と近江八幡市を散策してきた。(その2)長浜城の観光を終えて、駅の反対側にある黒壁スクエアなる一角へ向かう。同エリアは黒塗りの壁を持つ家屋が建ち並ぶ 景観保全地区となっている。メインストリートの大手門通り。脇の路地も黒壁でなかなか良い雰囲気を醸し出している。昼食は若干悩んだ挙げ句、安直な近江牛肉うどんと焼き鯖寿司にした。長浜界隈の名物は鴨料理、鮒ずし、焼鯖素麺など知られている。風雨で冷え切った体に、温かいうどんが嬉しかった。また、近江牛のトッピングはしゃぶしゃぶ用の薄切り肉を使ってあり、柔らかく美味であった。腹が朽ちたので近くにある曳山博物館を見学する。長浜市の曳山(山車)は、京都祇園、飛騨赤山と並んで殊に有名である。二葉目は博物館の裏手であるが、背の高い倉庫扉の内側に山車が格納されている。山車は所有する町会ごとに○○山と名が付けられている。館内では四月中旬、桜の頃に行われる曳山祭の内容の展示や映像資料、子ども歌舞伎関連の映像資料など見て学習した。その後、黒壁エリア内をぶらぶらしながら、駅舎に隣接する旧長浜駅および鉄道資料館たる長浜鉄道スクエアを観覧した。長浜駅裏手にある記念写真撮影用の三成くん看板。隣町彦根市のひこにゃんなど昨今はゆるキャラによる街興しが盛んである。電気機関車と蒸気機関車の実物が展示されている長浜鉄道スクエア。併せてこの地区の鉄道の歴史展示もある。旧長浜駅舎。明治15年完成。長浜は、黎明期の鉄道敷設時代、東海道線の駅として開業し、ここから大津まで琵琶湖上を鉄道連絡船が結んでいたとのこと。そこから京都・大阪方面まで再び鉄道で行けるようになっていた。後年、東海道本線が米原経由で全通すると、長浜はその地位を失い、北陸本線の駅として機能して行ったそうである。この駅舎は明治36年に新駅舎の完成と共にその役割を終えている。駅舎内部は全盛期の雰囲気で再現されており、明治村に来た気分であった。この後、長浜浪漫パスポートであと2箇所回れる権利を有していたが、寒い冬の雨に打たれて精神力を喪失し、今宵の宿がある近江八幡市まで這々の体で退散した。投宿したのが16時過ぎであったので、ずいぶん勿体ないことをした。(次回に続きます)
2013年12月29日

12月21日~22日、滋賀県の長浜市と近江八幡市を散策してきた。(その1) 滋賀県は、空路・新幹線・高速道路などで通過してしまうことが多く、以前観光したのは彦根市と大津市だけであった。今回はその中で未訪となっている両市へ行って見る事とした。21日早朝、高速バスで信州を発つ。名古屋駅でひかり号に乗り継ぎ、米原駅下車、更に北陸本線の鈍行に乗り換えて長浜駅で降りる。天候は冬の冷たい雨。長浜市は琵琶湖の南側に近いエリアに位置するが、気候的には日本海側に近く、冬型の気圧配置になれば雨や雪となる。現に駅前の道路には消雪用の散水機構が埋め込まれていた。駅中にある観光案内所で地図など貰って、冷たい風雨の中、湖畔にある長浜城址公園へ歩いて行く。長浜市は石田三成の出身地であり、豊臣秀吉が最初に大名になった地でもある。また、中山道と北国街道が分岐する(隣の米原市)など交通の要衝となっており、戦国時代にはこの地域の支配権を巡って度々戦いが行われている。戦場となった姉川、賤ヶ岳、小谷城などが有名なほか、関ヶ原合戦場にも近く、戦国ファンには興味が尽きないエリアである。駅から数百メートル歩くと琵琶湖畔に面して長浜城がある。浅井氏を滅ぼした織田信長が羽柴秀吉に長浜を領地として与え、浅井氏の本拠であった小谷城を廃し、この地に築城して城下町を整備した。長浜城は豊臣氏滅亡後に廃城となり、城は彦根に移された。以来維新まで彦根藩井伊家がこれを統治した。現在の天守は昭和58年に再建されたもので、内部は歴史博物館となっている。長浜城で「長浜浪漫パスポート」なるものを販売していた。千円で15箇所の有償観光施設の内5箇所を見る事が出来る。個々に入場券を買えば2千円程度はするはずなのでかなりお得である。迷わず購入する。天守内は歴史博物館となっており、浅井氏滅亡後に秀吉が城と城下町を築き、年貢の免除など楽市楽座を施行し、城下町経営の基礎を作った街であることを学んだ。また、大阪の堺と並んで火縄銃の一大生産拠点であった国友鉄砲鍛冶集団にかかわる展示も充実していた。今回は行かなかったが、国友集落は長浜駅からバスで10分程度の郊外にある。城内の見学を終え、天守最上階からの眺望を楽しむ。あいにくの雨天のため視程が悪く琵琶湖の対岸の景色は見えない。煙突が目立つ大きな建物は昭和5年に創業を開始した旧鐘淵紡績長浜工場(現・KBセーレン長浜工場)。かつて県下屈指の規模を誇った。このほか、長浜は農業用機械と天気予報で有名なヤンマー(山岡発動機工作所)の創業者山岡孫吉の出身地でもある。このため同社の工場があるほか、ディーゼルエンジンなどを学ぶ事が出来るヤンマーミュージアムもある。湖側に面して豊公園があり、長浜ロイヤルホテルが聳えている。また、城址公園内は桜の木が多く、春は花見の名所でもある。琵琶湖の湖面も一望出来るが、視程が悪く遠景は見えない。琵琶湖の湖畔まで行ってみる。湖が大きいので海岸にいる気分であった。豊公園の噴水。背後は長浜ロイヤルホテル。これで城址公園一帯の散策を終えて一旦駅までもどる。昼食は駅の反対側にある黒壁スクエア(景観保全地区)で摂る事にしている。(次回に続きます)
2013年12月28日

報道に依ると安倍首相が26日靖國神社を参拝したとの事である。たいへん結構なことであり、今後も是非続けて貰いたい。もとより支鮮の雑音は一顧だにする必要は無く、国家のために命を落とした英霊に対し、追悼の意を捧げるのは元首として、また日本国民として至極当然の事であろう。(靖國神社、青銅製の第二鳥居と神門)なお、A級戦犯については、東京裁判自体が勝者が敗者を裁いた結果であって、「A級=悪」と単純に断定出来ないと思う。事実に基づく厳密な歴史的検証を経て、合祀の可否を判断をするべきであろう。東京裁判がある意味欠陥裁判であったのは、無罪あるいは訴追されなかった者を考えるとよくわかる。有名な陸海軍人を列挙してみると、、、・敵前逃亡:栗田健男、小柳富次、富永恭次・無謀な作戦を強行し味方に多大な戦死者を生じる:牟田口廉也、服部卓四郎、辻政信・重大機密漏洩:福留繁あくまでも個人的見解ではあるが、これらの輩は死刑しかありえない大悪人である。にもかかわらずぬけぬけと生き残り、天寿を全うしている。ある意味、勝者である連合国を利する結果を招いた当事者であるので、そもそも訴追対象にならなかったのかもしれない。本当は無罪であったかも知れない戦犯者がいたり、本当はとんでもない悪なのに、訴追されないのを良い事に戦後頬被りしてのうのうと天寿を全うした者もいる。厳正な歴史的事実のみに基づいて、戦争の決算を行わなかったツケであろう。しっかりとした調査を行って、冤罪であった人の名誉回復と、処罰されなかった悪人を歴史の名において断罪することが必要だと思う。--------------------※蛇足ながら、A級戦犯の代表格東条英機については、対連合国云々以前に日本国民に対してやったことだけで死刑になって当然と思う。神として祀ることは不適当と思われる。(個人の研究による結論)・憲兵隊を使っての行き過ぎた言論統制 (治安維持を担当する内務省所管の特高警察でさえ証拠や罪が無く逮捕が無理であると諦めた人物まで、憲兵隊を用いて弾圧)・自分と意見を異にする者に対して懲罰として召集した (逓信省工務局長松前重義、東京日日新聞記者新名丈夫に対する懲罰召集が有名である)・戦陣訓の発令に関与した (これにより、民間人も巻き込んだ無益な玉砕、自決を招く事となった)・陸軍人事の私物化 (大臣・総長などの兼任のほか、気に入らない陸軍将官を前線に左遷した事など)東條の悪かった部分を最初に書いたが、良い部分を書くと、首相就任当初は天皇の意向を受けて対米戦回避に努力し、仕事熱心であり、天皇に対して忠誠を尽くし、メモ魔と言われるくらい几帳面な人物でもあった。サイパンの陥落で退陣するときにも、特に天皇よりねぎらいの言葉を賜っている。
2013年12月27日

12月10日は馬來沖海戰の起こった日である。昭和16年、開戰劈頭に眞珠灣の米艦隊を擊破した我が海軍部隊は、馬來方面に於いても出撃してきた英艦隊を航空攻擊によって擊滅し、嚇嚇たる大戰果を挙げた。大本營もその戰果を大々的に報じた大本營海軍部發表(十二月十日午後四時五分) 「帝國海軍ハ開戰劈頭ヨリ英國東洋艦隊、特ニソノ主力艦二隻ノ動静ヲ注視シアリタルトコロ、昨九日午後帝國海軍潜水艦ハ敵主力艦ノ出動ヲ發見、爾後帝國海軍航空部隊ト緊密ナル協力ノ下ニ捜索中、本十日午前十一時半馬來半島東岸クワンタン沖ニ於テ再ビ我ガ潜水艦此ヲ確認セルヲ以テ、帝國海軍航空部隊ハ機ヲ逸セズ此ニ對シ勇猛果敢ナル攻撃ヲ加へ、午後二時二十九分戰艦レパルスハ瞬間ニシテ轟沈シ、同時ニ最新鋭艦プリンス・オブ・ウエールズハ忽チ左ニ大傾斜暫時遁走セルモ間モナク同二時五十分大爆發ヲ起シ遂ニ沈沒セリ、ココニ開戰第三日目ニシテ早クモ英國東洋艦隊主力ハ全滅スルニ至レリ」「忽チ左ニ大傾斜」のくだりは、流行語にもなったらしい。擊沈された最新式英戰艦プリンスオブウェールズ號((HMS Prince of Wales)。同じく巡洋戰艦レパルス號(HMS Repulse)。殊勲の我が九六陸攻(G3M)。同じく一式陸攻(G4M)。この時期は、大本營發表も概ね眞實が報道されてゐた。
2013年12月10日

本日12月8日で大東亞戰爭の開戰から72周年となる。宣戰の大詔が渙発された日でもある。「臨時ニュースヲ申シ上ゲマス。臨時ニュースヲ申シ上ゲマス。大本營陸海軍部、十二月八日午前六時発表『帝國陸海軍ハ本八日未明、西太平洋ニ於テ米・英軍ト戰闘状態ニ入レリ』」朝の臨時ニュースで驚いた人も多かったようだ。畏れ多き宣戰の大詔も渙発された。 『天佑ヲ保有シ萬世一系ノ皇祚ヲ踐メル大日本帝國天皇ハ昭ニ忠誠勇武ナル汝有眾ニ示ス。朕玆ニ米國及英國ニ對シテ戰ヲ宣ス朕カ陸海將兵ハ全力ヲ奮テ交戰ニ從事シ朕カ百僚有司ハ勵精職務ヲ奉行シ朕カ眾庶ハ各〻其ノ本分ヲ盡シ億兆一心國家ノ總力ヲ擧ケテ征戰ノ目的ヲ逹成スルニ遺算ナカラムコトヲ期セヨ、、、』眞珠灣への奇襲攻擊、比島・馬來方面の上陸と多面的な侵攻作戰が開始された。このうち布哇眞珠灣は三回ほど瞥見する機会を得た。戰艦ミズーリ號記念艦(USS Missouri,BB-63)より見た、アリゾナ號記念館(USS Arizona,BB-39)。 【2003/02/14撮影】聖戰に散華された英靈の冥福を改めて祈念した。
2013年12月08日

11月23日~24日、好天に恵まれた三浦半島を散策してきた。(その3)立石公園を散策後、友人と合流し、予約しておいた観音崎の旅館「東京湾」へ投宿する。海系の食材中心の食事を美味しく戴き、深更まで酒を呑んで語らう。客室からは対岸にある房総半島の灯りが間近に見えた。宿にはマラソン大会に出場するという中学生の団体も泊まっていた。マラソン大会がある事はまったく知らなかったが、翌日(11月17日)三笠公園から出発し、観音崎で折り返すハーフマラソンが行われるとの事であった。翌朝、朝日で目が覚める。宿の客室からの眺望。朝日に染まって美しい。写真右側が猿島。左側の白く見える建物は宿の人に聞くと金沢八景の辺りであると事。目の前にある走水漁港。隣接する走水海岸は春期~夏期は潮干狩りが行われ、盛夏は海水浴場となる。朝食を戴いて宿をチェックアウトする。ところが宿の前の道はマラソン大会で通行止めとなっていた。帰路は路線バス(京急バス・須24系統)の予定であったので焦る。宿の人に聞くと、京浜急行線の馬堀海岸駅まで二粁弱とのことなので、海岸線を歩いて行くことにした。快晴の下、海岸通りを歩くのは実に気持ちがよい。歩いていると白バイ・オープンカーの先導で先頭のランナーが走ってきた。あっと言う間に通過してしまい、写真を撮りそびれてしまった。仕方がないので二位のランナーが力走する勇姿を撮影する。あとで確認したら、このランナーは箱根駅伝に出場したこともある一流選手であった。風のように走り去っていった。次々と三位以下の選手とすれ違う。上位ながらかなり高齢のランナーも居て驚く。バス運休のための思わぬハプニングであったがマラソン大会を垣間見ることが出来て、嬉しい誤算となった。馬堀海岸駅から京浜急行線で都内へ戻った。(三浦半島散策の巻 <おわり> )
2013年12月02日

11月23日~24日、好天に恵まれた三浦半島を散策してきた。(その2)引き続き天神島エリアの散策である。 天神島臨海自然教育園に隣接してある白亜の「佐島マリーナホテル」。 ホテルの隣は、ヨットが繋留されている佐島マリーナとなっている。湘南海岸から三浦半島西岸かけてはこうしたマリーナが多くあり、自分とはほど遠いセレブな雰囲気である。 最後に佐島漁港を俯瞰する。こちらはヨットでなくて漁船が舫っていた。これで佐島地区の散策を終え、本数の少ないバスに乗って北上し、途中の立石公園で降りる。 海に屹立した岩が独特の景観を造っている立石公園。広重の浮世絵にも描かれているとのこと。 弧状の海岸は海水浴場にもなっている。立岩と岩礁の張り出した岬が良い景観であった。遠くに富士山も見え、浮世絵と同じ構図になった。(次回に続きます)
2013年12月01日
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