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77歳、近年は糖尿病を患い、体調がすぐれなかったようです。
私が子供の頃、一番好きな力士でした。
相撲を見始めた頃は関脇で、大関昇進目前の番付でした。
小兵ながらしぶとい取り口で「ピラニア」と呼ばれ、相撲に対して研究熱心なことから「相撲博士」の異名を取りました。
膵臓炎を患い、入院していた1975年3月場所では、病院から稽古場に通って途中出場し、4勝2敗の成績を残しました。
医師から「命の保証は出来ない」と警告されたのに対し、「土俵で死ねれば本望」と答えたという、凄まじいエピソードが残っています。
この1年後の1976年3月場所では、13勝を挙げて優勝決定戦に臨みました。
惜しくも横綱輪島に敗れたものの、場所後大関に昇進します。
大関時代も膵臓炎に苦しめられましたが、1977年9月場所では14勝1敗の好成績を残しました。
この時は、横綱北の湖が15戦全勝で優勝したため、惜しくもあと一歩優勝に届きませんでした。
その後は 膵臓炎で度々入院治療を続けながらの土俵になりました。
そんな中でも、1978年3月場所7日目の魁傑との一戦では、水入り2回、それでも決着がつかずに10分後取り直しとなる大相撲を取りました。
合計10分19秒の大熱戦で、場所前に退院したばかりの体調での相撲は、今でもよく憶えています。
この日の打ち出しが18時25分に達し、NHKの相撲放送延長の新記録となっています。
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1979年9月場所7日目、同期である新横綱三重ノ海に敗れ、途中休場後に引退を発表しました。
「一度は優勝したかった」という言葉を残しています。
引退後は年寄大島を襲名して、大島部屋を興し、横綱旭富士を始め、多くの関取を育てました。
旭富士が1988年1月場所で初優勝を遂げた時、「師弟の夢が叶った」と言われていたことが印象に残っています。
また、1992年にモンゴルから初めて6人の弟子をスカウトし、入門させました。
当時の春日野理事長から叱責され、解雇も辞さない心づもりで弟子たちを鍛えました。
この中から、後の関脇旭天鵬の現大島親方や、小結旭鷲山が育ちました。
横綱旭富士、関脇旭天鵬、小結旭鷲山、旭道山、旭豊、幕内旭豪山、旭里など、多くの関取を育てました。
後に日本相撲協会の理事を務め、2012年4月に定年退職しています。
退職後は、大島部屋は閉鎖されて、弟子たちは友綱部屋に移籍していました。
弟子の 旭天鵬が優勝
した時は、パレードの助手席に座って、優勝を祝福したそうです。
後に引退した旭天鵬は友綱部屋の師匠に就任しましたが、その後、2022年2月1日付で名跡交換を経て、友綱部屋から名称変更する形で大島部屋を再興しました。
大島部屋の看板が再び戻って、良かったと思ったのが最後の旭国の思い出になりました。
天国でまた、北の湖、輪島、貴ノ花、若乃花、隆の里、魁傑、麒麟児、金城、栃赤城、青葉山、大潮などの同世代の好敵手、そして同部屋の黒姫山さんなどと、お会いしているのでしょうか。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
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