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写真は長男大樹3才・次男1才・その父そろいの子供服を作るのは、大変に楽しいものでした。二つ違いと言うのは、型紙を一つとれば そのサイズにプラスさえすれば裁断ができるので、同時に2枚を縫うことができ早く同時にできます。安い布を探し、おそろいの服を作れる。シャツ・ズボン・帽子・スモック・パジャマ何でも作りましたね。今のように、中国製や東南アジア製がまだ無い頃ですから高い子供服はあまり買えませんでした。「母さんが夜なべをして~手袋編んでくれた~。」そのまんまですよ。子供が寝てから、ミシンを踏んだものです。いや踏むと言うより電子ミシンですから、押すのほうがぴったりです。
2008.06.27
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会話もなく ただ心の中で何かの間違いで欲しい。その様な気持ちで祈ってました。早く着いてほしいような、そうでない様な。今までTVなどで起こる事件や事故の報道を他人事と思い過ごしてきました。自分達にまさかこのような事がおきるなんて。病院に着いたのはまだ外が明るい6時頃だと思います。町の整形外科病院でした。病院の前には 不釣合いの大型バイクが何台もあり仲間の方だということはすぐにわかり、軽く会釈をしてすぐ受付に入りました。受付の人は私達の着くのが予定より早く思われたのでしょう。「早く来られましたね」と言われ、「先生のお話がありますのでこちらに。」と診察室に案内されました。「何でこんな時にまず息子に会えないの」と思っていたら、診察室の奥で看護師さんが 見覚えのある服を黒いゴミ袋に入れているのを見て身体が震えました。医者はレントゲン写真を私たちに見せながら「救急車で運ばれてきた時には、手の施しようがない状態でした。前頭部がこのように完全に傷ついており、即死の状態です。恐らく痛みを感じる時間もなかったと思います。」私は電話で「レントゲンをとらしてほしい」と医者に言われた理由がその時わかりました。死亡が確認できたのですが、診断書に死亡原因を書くためだったと思うのです。そして隣の処置室に案内されました。大樹はそこに横になっており、顔には白い布がかけられていました。先生が布をとり、主人を近くに呼び「お父さんにだけ見てもらいます。」そう言って、おでこのガーゼを取り「このように縫合したしました。かなりの傷ですので。」覚悟はしていましたが、目の前いる大樹が信じれませんでした。そーと手をにぎると その冷たさで 死を現実のものと受け止めるだけでした。おでこに ヒエピタシートぐらいの大きさのガーゼと右側のガーゼ2箇所張ってある。右手首1箇所骨折。グルグルの包帯状態でも助かる命もあるのに、まるで本当にほんとうに、疲れて爆睡しているだけに見えるのです。暫くの間主人と次男と三人で泣きました。看護師さんが「お母さん大丈夫ですか?」と肩を支えてくださいました。どれくらい経ったのでしょうか。先生に主人が手続きにのため呼ばれました。つれて帰る準備をしてもらい、私はただそばから離れずにいました。何でここに一人で寝かされていたのか。皆は近くにいてくれなかったのか。その様な思いがありました。でも後に警察の事情聴取を私たち夫婦が受けた折、死亡が確認できた場合は家族に合わせるまで、医者は誰も会わせないもの。と教えてくれました。仲間の方も、大樹の事故の後始末や警察にいろいろ聞かれたりと大変迷惑をかけました。帰る準備ができ、病院を出るときに始めて仲間の方達が、大樹に会わせて欲しいと言われ寝台車のドアを開けて会ってもらいました。もうすっかりあたりは暗くなっておりました。今このようにその時のことを書いていると、あらためて多くの方にご迷惑をかけてしまった。仲間の方たちはそれからどんな思いで、金沢の自宅まで帰ったのか!楽しかったツーリングを 最悪のツーリングにしてしまって。大樹が謝れない分、親である私たちが申し訳ないと謝るしかないのです。その頃地元のTVでは、事故現場のニュースが流れたそうです。家で留守番をしている義母が見ていました。私たちはTVのニュースになった事すら知りませんでした。 私と主人は寝台車に乗り、次男は大樹の荷物をつみ来た道をそれぞれの思いを胸に帰ることとなりました。 つづくこれは亡くなる2日前の5月30日。能登半島に一人でバイクで出かけ友人にまた、「一緒に走ろう。お願いします~」って写メールを送った時の物今頃はパンヘッドのエンジンで大空を走ってるよね
2008.06.26
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梅雨の中休み。午後より大樹のバイカー仲間でもあり、職場の同僚・後輩だピカピカの愛車でお参りに来ていただきました。滋賀を出るときは、曇っていましたが、こちらは午後から雲が取れて暑いぐらい。お約束のヨーロッパ軒は定休日でした。それでは、一力のラーメンは ここも定休日。自宅からはちょっと離れているがおしゃれな ダイニングバーのきらくへ行きました。お昼ということで2階席はだめで、店先のオープンデッキでいただきました。ちょうど天気も良く、爽やかな風ではなかったけれど、心地よくランチをしました。風を切って走るバイカーにはそれもいいのでしょう!それにしても、おばさんとイケメンの若者3人連れてランチとは店の人にはどう映っていたのでしょうか皆の近況を聞き、大樹が生きていたら絶対ないだろうこの時間を大切にしていきたいと思う おかんでした。また皆遊びに来てください。
2008.06.24
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自宅に着いてすぐ知らされている病院に電話しました。ところが、「そのような事後の救急患者はいない。」との事。間違いがないか聞きなおしても同じでした。「どこの病院か?」ちょうどその時、2歳下の次男が釣りから帰ってきました。次男は大樹と同じ高校を卒業して、地元の消防署に勤務しており、夜勤明けの日でした。レスキュー隊員でもあります。病院がわからないので、大野消防に電話をしてみると言っていた矢先に運ばれた病院から電話がありました。「**病院です。む・む・む・息子大樹さんが救急で運ばれて来ましたが、心肺停止状態で、こ・こんな時で何ですがレントゲンを撮らしてほしい。」医者がすごくあわてきってる。私は「こんなときって・・・わかりました。」何がなんだかわからないが、最悪の事かもと 漠然としてました。「すぐに行きますが場所がわかりませんので電話を息子にかわります。」と次男に代わり、義母に「大樹は危ないみたい」と伝え2階に上がり主人に携帯から電話をしました。そして私の実家の母親にも伝え 「しっかりしなさい。とにかく気をつけて病院に。」主人の職場から自宅までは早くて40分かかります。自宅の仏壇に手を合わせて祈りました。「どうか大樹をお守りください。」留守を義母に託して、次男の運転する車で4時半頃大野に向かいました。 高速を福井までそこからは、R158号を東へ道中、お店のスタッフに「今から病院へいくので後はよろしく」と伝えるのがやっとでした。しかし次男は、いつの間にか職場に「忌引きの連絡をした」というのです。病院の先生と電話で話をしていたので私たち以上に冷静に理解できていたのでしょう。「まだわからないのに。」と言ってから、しまったと思いました。みんな そうでない事に望みをかけたいのですが・・・私はその時に始めて医者が言った「こんな時に何ですが・・・」の言葉の意味の重さを知りました。「生きている。私があきらめたらあかん」「大樹は大丈夫。そんなものわからん最後まで」晴天の夕空を車窓からぼんやり眺めながら 心の準備をしなくてはなりませんでした。 つづく2005.10.13友人とツーリング 運転士になって一月。久しぶりのバイク
2008.06.20
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14日の土曜日に 滋賀県から女友達の“ゆきんこ”さんとその彼氏がお墓参りと家に遊びに来ていただきました。彼女が短大時代、大樹が彦根駅に勤務していた頃皆でカラオケ行ったりして 遊んだ友人の一人です。亡くなってから沢山の女友達がいたことを知って、楽しい青春で良かった。と思う母でした。松原にドライブに来て、わざわざ訪ねてきて下さる。その気持ちが大変嬉しいです。私は今までその様に友人などに接していたか?主人と共に、お参りしていただいたお二人に感謝しているしだいです。お土産に 私の好きな たねやのバームクーヘンを頂きました。お花と。早速お供えをして、頂きました。
2008.06.18
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事故現場に始めていったのは6月9日。大野警察署の方に来ていただきたいと 交通課から連絡があり事故車の引き取りの書類だの、印鑑だの事故車の引き上げ代の支払い。この頃は次々と出てくる用事を淡々と済ませる毎日でした。大型のハーレーのバイクが見事にこの側溝にすっぽり落ちたのです。大樹はコンクリートの側面角に頭からぶつかり、道路に投げ出されたのです。写真ではわかりにくいですが 大変深く2メートルはあります。一緒に落ちていたらまた大変になった事です。これは滝ではなく、地理的な排水のためのものだそうです。事故から10分ぐらいで自宅に電話があり、留守番の義母から私の店に、そして私に。事故から15分後私の携帯に、着信のナンバーは 金沢いつも荷物を送るときに、寮の番号を書くので金沢の市外局番はなんとなく覚えているものです。「金沢の列車区ですが、大樹君が大野でバイクでこけまして、勝山市民病院に搬送されました。電話は*****です。今は第1報です。」「それで単独事故ですか?」「詳しい事はまだわかりません」その電話を聞いたとき、私は駅前のスーパーで買い物をしているときでした。すぐに店を出て車で自宅に帰り、「大丈夫、大丈夫、たいした事はない。」と自分にいい聞かせ車を走らせました。そして 病院に電話をしました。つづく
2008.06.14
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2時半に九頭竜湖駅を出て、一同国道158号を大野市街に向けて進行。左手に仏御前の滝の駐車場前を通過した直前の、直線の緩い下り。 事故というのは、いろいろな条件が最悪をもたらすのです。「あと少し先だったら草むらだったのに」「何もコンクリの壁にぶつからなくても」そんな事を 後日始めて警察の方に案内されて現場を見た感想です。素敵な 女の人の夢を見ていたのでしょう。事故直後、後続の同僚の人達のお陰ですぐに救急車を手配していただき、事故の現場の安全を確保する為に通りがかりの大型トラックの方が、手前でハザードで停止してくれたり、アベックが ヘルメットのバンドを切る為にカッターナイフを貸してくれたりしたそうです。後でその様なことを教えていただき、私がそのような場面に遭遇した時、助けの手を差し伸べることができるか事故でお世話になった方に会うことができたら、お礼を言いたいです。会社への第一報は、バイクでツーリング中にこけて、救急車で搬送します。でも山道最寄の消防から到着するのに 15分はかかります。その場の15分は とても長く感じたと思います。 つづく
2008.06.10
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こんにちは。やっと3回忌が終わりました。早いものです。6月1日 今年は日曜日になりました。親しくいていただいた職場の方や高校時代の友人などお集まりいただき、法要、墓参、食事と1日があ~という間に 終わりました。2年前の6月1日(木曜日)午後の2時46分大好きだったハーレーに乗って天国に行きました。職場の先輩達とツーリングに出かけ帰る途中でした。その日は 朝から雲ひとつないまさに快晴その年の5月は雨が多く、バイクを乗れなくおまけに連休明けに丹後半島にツーリングに行ったときはバイクの調子が悪く途中で動かなくなり、半月早く車検をうけたところ車検が終わり、天気が良い日は毎日乗っていました。事故の3・4日前には能登半島・飛騨高山 700キロ走っていたようです。どうもあまりの天気の良さと 夜勤明けの疲れ程よい疲労感・眠くなるのも無理からぬ事それから 一人車列から離れ側溝に落ちてしまった。どの人より安全運転で、スピードを出さず乗っていたので誰よりもバイカーの人たちがびっくりしたようです。「ハーレーは おかん。このエンジンの音がいいんや。スピード出して走るもんやないで」これが、大樹の口癖でしたから。事故の一報を聞いても怪我ですんでると、のんきにしていたものです。つづく2005.6.10自宅の前にて。この年は運転士の見習いで、緊張の毎日。唯一、休みにバイクを乗ることが 大樹流のストレス発散でした。時間を見つけて琵琶湖までが良いところ。アロハシャツはお気に入りの夏の定番
2008.06.05
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