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このかわいいグリーンの寄植え鉢は大樹が23歳の誕生日に、行きつけの美容院からいただいたものでした。お花屋さんから 息子宛に届き「最近の美容室は気がきくな~」と思いました。エアープランツが植えてありました。自宅の玄関は北向きで、日当たりが悪く寒いので半年ほどでだめになってしまいました。その美容室には亡くなる10日前に行っていました。髪は短髪・茶髪はだめ・パーマも無理茶髪は社会人2年目の正月、明けで2日休みの日に染めて、3日目の夜に黒く染めて仕事に行きましたね。ピアスも高校を卒業するほんの少し前して、会社に入ったらもちろん出来ません。それで終わり。中学校・高校と野球部は皆、坊主頭。おしゃれだった 大樹にしては楽しみな美容室だったでしょうね。随分埃だらけになったいましたので、綺麗に掃除をして花乙女という 多肉植物を植えました。これから寒くなるのに という思いはありますがお店のカウンターにおいて 癒されています。多肉植物【花乙女】
2008.10.30
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10月もあと少しですね。いつもの年より暖かい1ヶ月でした。今日は朝から寒く、午前中は晴天でしたが午後からは 冷たい雨が降っています。今日は可愛い小物の紹介です。届きました。可愛いエンジェルのストラップ石けんのブログで教えれいただいた miimartさんに依頼をしていたものです。先に何個か作っていただいたのですがブルーのリクエストで今回は作っていただきました。これは プレゼント用です。キラキラ輝くエンジェル可愛いですね。
2008.10.29
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手元に残る仕事関係の書類 乗務かばんに残されたマニアルや自分で勉強した書類それとどの場面でいただいたか思いだ出ませんがブルーのクリアファイルに入った 大樹の最後の勤務になった2006.5.31の動力車乗務員乗務表 初めて見るものでこんな事がなければ親は見ることなどないものでしょうね。本人の字で、行路や報告、遅着・遅発、列車番号などが書かれています。新任運転士3ヶ月後フォロー研修報告書 17年12月15日付9月に運転士になってから3ヶ月その頃の研修レポートのようにまとめてあります。知悉度テストのコピーもありました。「普段から真っすぐ頑張っています。今回の研修も真剣に聞いていました。技術的にも知識的にも今のところ問題はないようです。少しづつ課題を与え、更に伸ばしていきたい。」と研修担当者のコメントがありました。個人面接シート18年度4月24日に個人面接があり その時に書かれたもので将来の希望や17年度の下半期の振り返り、取り組みや反省点が書かれています。『自分の強み』の欄に 一度やると決めたら最後までやれると思う『特記事項』良好新任運転士6ヶ月後フォロー研修報告書18年4月19日の研修レポートには、「質問すると自信なさそうに答えるが、的を得た回答を行なっていた。研修中に予習しているのを見かけ、激励した。ATS-Pの取り扱いについては少し弱い。研修でフォローを行なった。」とありました。運転無事故個人台帳この台帳にはH15年10月つまり 京都支社から金沢の列車区にきてからの物です記事の欄には H15.9.19金沢列車区車掌 第1回達成予定H20・9・30 H16・12・1~H17・3・21運転士科 H17・9・13金沢列車区運転士 第1回達成予定H20・4・30に変更平成18年度は月数の欄に 5 そして6/1永眠記事の欄には 乗務員人生無事故 ありがとうございました と大きい字で書いていただきました。
2008.10.27
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事故から半年でもうすっかり冬になりました。12月に入ってからは 記念碑の打ち合わせが入ってきました。夏の終わりに先生に記念碑の制作を依頼してから数ヶ月ようやく連絡が入り、デザインと簡単な模型をもって来て下さるそうでわくわくしながら お待ちしていました。記念碑の制作のきっかけはに書いています。2006.9.112月17日に藤岡智紀さんが、模型をもってこられ説明を受けました。でも正直なところ 何がいいのか私も主人もわかりません。とりあえずその模型をもって 藤岡先生と大樹の行きつけのSOUL TO SOUL(バイク店)へ行きました。お店は滋賀県へ帰る途中の国道8号にあります。造形のデザインをおこす軽い素材のものを削って出来ています。下の台座を バイクのシートにみたててあるそうです。なるほどな感じですね。○o。..。o○すっかりお店のオーナーさんとエンジンのことやら形の事などで話が弾みました。なんだかお二人の話を聞いていると、子供が夢中に何かを作っているそんな目の輝きが見えてくるのです。今になってその時の事を思い出すと、きっと大樹がその辺にいて、わくわくして見ていたのではと思いました。ただ私は本当にどんなものが出来るのか 不安でした。その打ち合わせの時に、藤岡先生の方から「パンヘッドの上部に空間を作れるので、そこに手紙を入れたらいかがですか」とのアドバイスをいただきました。「そんな事が出来るなら是非に」とお願いいたしました。お店の前で先生を送り私はすぐに自宅に帰り早速メッセージを 友人にお願いするべく行動に移しました。まずは紙。かさばる紙はだめですし、その週に今立の和紙の里会館へ行きず~と何年も残る紙・しかも薄い・丈夫で。雁皮紙(がんぴし)をカットしていただき 150枚用意しました。用紙が届きましたら、お願いのお手紙を添えて友人・知人に手渡し・郵送でお願いいたしました。その様な事をしていて12月はあ~という間に終わりました。この年の新年は 何もかもが色あせて見えました。
2008.10.25
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息子と父親とは、あまり会話の無いものでしょうか?私の主人は まるでアニメ“巨人の星”を地でいくような感じです。特に野球には厳しかったですね。社会人になっても 口うるさく私に言いますが本人は知らん顔をしていました。とにかく子供を褒める事よりしかるほうが多い。私から見ても かわいそうでした。だから急に大樹が亡くなり、「もっと褒めてあげればよかった」「いろいろ話をしておけばよかった」と悔しがりました。『虹の会』の方のブログで タツロウさんのお父様が、息子さんの事を書かれた記事を拝見し、父親としての悲しみが あるのだと本当に思いました。ここに了解を得まして ご紹介させていただきます。息子が残してくれたもの確か2005年11月だったと思う。県○○会の移動理事会が敦賀市で行われた。終了予定時刻が大幅に遅れたため、すっかり夜の帳も落ち、複雑なインターチェンジ構造ゆえ、高速道の入口を見つけ出せずに3~4回どうどう巡りをした後、ようやく狭い進入路を発見した。もう福井に戻れないのではないかとの不安が頭をよぎった途端であった。真っ黒い北陸自動車道をゆっくり北上した。そのうち暗闇の中に武生、次いで鯖江の町の明かりが見えてきた。不意に、いつだったか今と同じように“郷里に戻ってきたのだなあ”というある種の安堵感の混じった懐かしさを経験したことが思い出された。幾許もせず、10数秒かもしれないし、1秒以内であったかもしれないが、“あぁー、あの時だったのだ”と思いついた瞬間、とめどなく涙が溢れてきた。3年前の10月17日、次男のなきがらを乗せて東京から東名高速~名神高速、そして米原より北陸道へと入り、夜の9時頃に妻と一緒に福井まで移送して頂いたのだが、武生、鯖江に至って、このあかりを見て「タツロウ、家に帰って来たよ」と何度も囁いた。この時の名状しがたい感情が思い起こされてしまった。そういえば福井から金沢方面へ足を運ぶことはあっても、北陸道を南下することはなく、今回の移動理事会が唯一の機会となった。心の片隅に移送と同じルートは避けたいという気持ちがあったことも否めないように思う。一気に突然襲ってきた感慨に戸惑いながら、一方では必死に福井インターに着くまでに泣き止んで、涙の痕跡を家族、特に妻には悟られないように努力しなれけばならなかった。身を切られるほど辛い出来事以降、落莫の日々を送る妻にシンクロナイズして泣き悲しむ訳にはゆかず、見掛け倒しでも涙は見せられなかった。平生ドライブする習慣はなく、せいぜい病院と県○○会館を行き来するくらいであるが、途中で陸橋を越える時、遠くに大きな空と山並みを眺めることとなる。初めの頃はフロントガラスから飛び込んでくるこの風景に接する度に寂寥の思いが込み上げ、多様に姿を変える雲の表情にも触発されて、忽ち涙腺が緩んで困惑した。約3年の年月を要したが、漸くこのような情感のシャワーに晒されなくなり、次男のいない生活に慣れてきた矢先の、強烈な一撃であった。いつの時代でも若者の生態、行動を見て“今どきの若い者は・・・”と年配者は避難しがちであるが、はたしてそうだろうか?この5年余の次男の友人たち(Tatsuro’s Friends,T-Friends)との交流を通して、自分ならば到底できないであろうことを自然体で実践する彼ら、彼女らに心から敬服している。毎月の命日には家に集まってくれる福井のT-friends、鯖江にあるお墓にいつの間にか供えられている生花。9月最終土曜日は京都四条河原町のかつて息子達が議論を戦わせていたという店に行くことにしているのだが、いつも関西在住のT-Friends が十数名駆けつけてくれる。逝去翌年より始めたことであるが、京都、大阪、遠くは神戸の友人たちが在りし日の達郎の思い出を語り、私どもは初めて知る数々のエピソードに毎回新鮮な驚きを見出した。また誰もが認める唯一の欠点(時間に頓着せず、興が乗れば連日の徹夜を厭わぬ集中力とそれに続く他に追随を許さぬ爆睡能力であるが)にまつわる、今だから笑って話せる出来事にも皆一様に寛容と親しみを示してくれているのが不思議であった。東京でも京都に続いて同様の例会を東京のT-Friendsが設定してくれている。このようなT-Friendsが取り持つ縁で知り合って結婚した人や、子連れで参加してくれる人もいて、私には今では三十数人の息子や娘がいる状況になっている。彼らは時おり、京都まで来たからとか、福井ないし石川で仕事があったからとか、種々の口実で我が家を訪ねてくれたり、お墓参りをしてくれる。しかも生前息子と面識のなかった家族を連れて来てくれるのである。感謝の気持ちを伝えると皆さんは異口同音に「タツロウの魅力ですよ」と色々解説してくれる。親の知らない息子の隠れた一面に半信半疑でいると、「だって、いつまで経っても皆こうして喜んで集まってくるでしょう。それが何より証拠ですよ」疑問の余地は全くないと断言する。本当に有り難く、嬉しい評価であるが、こちら側に世界に身を置いている私とすれば息子の側面を知らないままでいるのが常の姿なのにと思う。ついつい朝・晩、仏壇の前で尋ねてしまう。“タツロウ君、どうしていますか?”と。東京、三茶(三軒茶屋)の現場に隣接した歩道の一角には、東京都の許可を得て、小さな『タツロウ花壇』を設けさせて頂いているが、花を絶やさぬように年2回は植え替えのために上京している。ここでも新たなご縁により、現場近くのお寿司屋さん御夫妻とその2軒隣りの未亡人のおばあちゃんが水やりやゴミ拾いなど気配りをして下さり、見ず知らずの方々の厚意に感謝せずにはいられない。東京のT-Friendsや知人が時折ビールや花束を花壇に手向けてくれるのだが、本年春、私どもがまだ上京していないにもかかわらず、花壇に新たな草花が植えてあり、柵までしてあったとの情報がはいった。これまでも厚意の主が特定できないこともあったのだが、後日上京の際、偶然お寿司屋さんの奥様がして下さったことと分かり、感謝・感激で頭が下がった。更にひょんなことから昨年よりもうお一人、強力な助っ人が現れた。クリスマスにはカードとブーケを、正月にはミニチュアの小さな門松を花壇に飾ってくれた61歳の中島誠之助そっくりのラグビーのコーチ兼ミュージシャンの御仁で、自宅より徒歩20分位で『タツロウ花壇』に至る道をT-参道と名づけ、きめ細かく花壇の世話をしてくれている。本年3月末の上京の際には、福井のT-Friendも同行を希望され、渋谷ハチ公前で東京にいるT-Friends二人と合流し、私は妻と三人の娘を連れて、三茶より「松陰神社前」で下車。歩いて花壇に着くと、手袋・スコップ等準備万端の中島誠之助氏が今や遅しと待っていた。お互いに初対面であったので簡単に自己紹介をし合ったあと、花壇を整理し、バージョンアップを行った。その後、皆でT-参道を通って三茶に戻り、その最上階からは東京に出てきた息子の足跡がすべて一望できる私どもの“こころ”のランドマークでもある、キャロットタワーで一服した。夕方、私ども夫婦が次男タツロウとの最後の会食の場となってしまった思い出の居酒屋で、その他の東京のT-Friendsも加わって歓談した。今でも達郎に関する新情報がポロリと顔を出すのを聞くと、彼なりに密度の濃い楽しい生活を送っていた証かもしれないと考えたりする。ある人曰く「人生は短くても、その人にとって十分充実した納得の人生であったと言えるのですよ」と。本当だろうか?突然にいとしい子を失った親の気持ちを慰める言葉として、それなりの説得力もあるが、あくまで一時的安寧を得るのみでやはり惜別の念が勝つ。事故の一瞬、“しまった”という取り返しのつかない思いが脳裏をよぎったに違いない。そしてその瞬間、彼の頭の中を走馬灯の如く駆け抜けたものは何だったのか?自分が中学生の頃、三八豪雪があった。校舎の雪下ろしが終わった後、体育館の高い屋根から飛び降りたところ、固くしまった雪の中に胸まで埋まってしまい、いくらあがいても身動きがとれなくなり、そのうちに周囲が薄暗くなりだした時には焦りと不安が増幅した。今でも鮮明に覚えているのだが、この時せいぜい1~2秒程度であろう、飛び降りて雪に埋まるまでの時間は。しかし、この刹那にも非常に沢山の思いが交錯した実感がある。即ち、時間とは長さではなく、量であると悟った。この体験から想像してしまうのである。彼はどんなことを思ったのだろうか。時折このことがフラッシュバックのように自分を虜にし、激しく胸を締めつける。 5年余、妻は必死に、私もそれなりに努力したが、季節の移ろいは何と云っても大きい力を持っている。次男のいない現実を受容する中で、同居している長男夫婦の子供も1人から4人に増えた。下の2人は1歳に満たないが、上の2人は就寝時には必ず「タッチャン、おやすみ」と言ってくれる。夕食時、卓上の次男の写真の前に必ず一品供えることになっているが、準備不足の時は「タッチャンのは?」と気にしてくれる。一番上の孫でも達郎と会ったのは1歳くらいで当然記憶にないものだから、物心のついた頃にはしばしば「タッチャンはどこのいるの?」「いつ帰ってくるの?」「遠いところにいるんだよ」と答えると、「飛行機なら帰ってこれるところなの?」と矢継ぎ早の質問に困惑させられたが、なんとか凌いできた。ところがある日の次の問いには胸が張り裂け、二の句が告げなかった。達郎の写真を見ながら、「動くタッチャンはどこにいるの?」と聞いたのである。自分だけでなく、家族皆涙ぐんでしまったのが察せられたが、他方無垢な子供の感性の凄さに感じ入ってしまった。笑顔の戻った日常ではあるが、心の奥底では癒えることのない喪失感が払拭し切れていないことが時々露呈する。それでも現状に即し、自分自身に素直に淡々と生きていきたいと思う。5年前がん手術の入院中にはからずも浮かんできた“自然に従う”という諦観に従って。 福井県○○会だより 第565号 2008年7月
2008.10.22
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今日は久しぶりに雨です。予定よりも早く振りだしましたね。今日は私の40代最後の誕生日。誕生日と嬉しかったのは遠い昔の話。19日の日曜日には お店の壁に飾る和紙のタペストリーを買いに今立の和紙の里会館に行きました。今の時期にはやはり紅葉ですね。手すき和紙に、紅葉の絵が書かれています。今までにない感じのものです。銀杏の葉もそろそろ色がついてきました。一雨ごとに 寒くなるのでしょうね。
2008.10.22
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今日も爽やかな秋晴れの日ですね。「虹の会」を教えてくださった、タツロウ君の七回忌です。2002年10月。突然のアクシデント。大樹が亡くなり 何で何でと思う日がありましたがようやく前向きになった頃に ネットでタツロウ君のお母様に出会いました。今でも不思議なご縁・偶然の出会い?それとも 千の風の引き合わせ。きっと 大空にいる息子達が、母達が淋しくないように会わせてくれたと私は信じています。今回の本には私の写真も載せて頂いております。君は光となって・・・ 28ページとても素敵な詩と短歌で綴られております。「皆様の心の片隅に置いて頂ければ幸いに存じます。」とはじめに書いておられますが 私は皆さんに読んで頂きたいですね。虹の会の出会いは こちらで書いています。2008.8.20 虹の会千の風に癒されて、共に生きて
2008.10.17
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2年前の10月16日、人間ドッグで乳がんの疑いが見つかりすぐ次に週にMRI検査や超音波診断をうけました。良性か悪性の判断がつかず、ドクターは私のおっぱいがA4の画面ぐらい いっぱいに映されているのを ジ~ット難しい(^^♪をしてみています。でも本当に良く見ないとわからないくらいの 0.5ミリぐらいのがパラパラとあるのです。俗に言う 石灰化です。まるで体が火山岩のような言われ方でびっくりデス。さらに精密検査をしたほうが言われましたが、事の重要性を認識していない私は「これから忙しくなるから」と話しました。そうしたら、ドクターは「悪性ならこの状態でも転移しますよ」その言葉に、「一番早い検査の予約をお願いいたします」仕事よりも命だ11月の中旬に マンモトーム生検を受けました。これがなかなか大変でした。マンモグラフィ(乳房のX線撮影)で石灰化のある部分に目印をつけながら特殊な針生検をするのです。あごやら肩やらが凝り X線でとりながら場所に針を刺すそして組織を採取して 顕微鏡で検査するのです。麻酔は局所麻酔ですが、何よりもおっぱいを挟まれたままの検査です。普通は40分ぐらいなのですが、私の場合小さいのと(0.5ミリ)と数が多いので2時間ぐらいかかりました。ドクターも大変でしたが、今でもその姿を想像すると吹きそうです。結果は悪性ではなかったのですが、それからは経過観察です。人間年をとると、いらないものが増えてきますね。大樹の事も思いながら病院へ行ってました。今年も20日(月)に行きます。なばなの里のフクシアの花
2008.10.16
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2年前の今頃は、毎朝大樹のお勤めをしていても涙で声も出ず涙ばかりで、ハンカチでは足りずタオルを片手に泣く日ばかりでした。何を祈っていたかと言うと、事故で怪我をしていましたから、生まれ変わった時には“もっといい顔の男になれますように”“頭の怪我が治りもっと賢い頭脳に”と。今にして思うと不思議ですが真剣に祈ってました。そんな時仲の良かったバイクを乗っている友人の夢に現れ、「手がだめでハンドル握れんし乗れん」と言ったそうです。生きている時と変わらない姿だったそうです。左手首は顔をかばうために、骨折していました。ただ、外傷はなかったので、皆は知らなかったと思います。「死んでもやっぱりバイク乗りたいのか。」その話を聞いて 手首の事は祈ってなかったのでそれからは、手の事も追加で祈りました。親は生きている時も いろいろ心配をし、また亡くなってからも 心配なのです。行く事のできない世界では祈る事しかできないのですが 母の祈りは届くと信じています。それでも時間になると、気合を入れて顔を洗いメイクをして出かけます。それがなかったらひきこもってたかもしれません。そしてあまりの体重減少に私も心配になり数年ぶりに人間ドッグを受けました。10月は私の誕生月。一泊二日で受けました。大樹の事故以来、始めての外泊です。私は母を癌で亡くしていますから、思い切ってPET検査も受けました。結果は痩せて健康的になりましたが、乳がんの疑いがあり精密検査をすることになりました。マンモグラフィー検査で 本当に小さい乳腺腫瘍が見つかりました。精密検査の予約をして受診しました。そんな10月でした。
2008.10.15
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今日はあいにくの雨です。連休はいかがお過ごしでしたでしょうか?私は土曜日はお店なので日曜日を利用して主人と二人で金沢の能登博に行ってきました。目的は能登牛を食べる事と辻口美術館に行くことでした。何よりも最大の目的は、大樹が亡くなる数日前に一人で走った道を走ってみたいと言うのが本音です。バイカーの仲間に一緒に走ろうとは携帯の写メを送っていました。どこを一人で走ったかは今ではわかりませんが行きたかったのです。能登牛と言うのはこうじつです。でもせっかく行くのですから美味しい牛肉をと思い走りました。世界一長いベンチがあることで有名なところです。予約をしていなかったので、お店に着きましたが食べれませんでした。気をとりなおし、七尾に向かい七尾駅を見てから能登食祭市場へ行き、遅い昼食をして中を見学しました。天気も良く、何台ものツーリングのバイクを見かけました。走るのには最高の陽気でしょうね。それから次の目的の辻口博啓美術館へ行きお店でケーキを食べることでした。美術館は600円の入場券は必要でしたが、様々なシュークルダール(砂糖の芸術作品)が素晴らしく創作された壁画『海に中の銀河」は高さ1.2メートル、幅6メートルのも及ぶ飴で出来ています。LEDで照らし出される光りも素敵でした。グリーンに光った飴で「心の泉」という作品には“水の動きは心の動きと似ている 水面の揺らめきは 心の揺らめきでもある"と表現されていました。とても神秘的で、魅力的です。2階3階には、輪島生まれの漆器作家 角 偉三郎実術館になっています。見学を済ませてから、1階のカフェでケーキを注文して食べようと思いましたがここも待たなければ無理で、お持ち帰りにしました。極上のエスプレッソを飲みたいのですが待つのがいやな主人と一緒では。。。。ケーキのお味は それはもう最高です。JR七尾駅全体に黒で統一してあります。能登島大橋
2008.10.14
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最近、歳のせいかおめでたのニュースが多いのです。お客様の息子さん、娘さん昨日と今日で孫が生まれる話がたて続けに5人でした。さすが少子高齢化に「まった」をかけると話題のわが県だけの事はあるように思われます。今日お店の帰りにスーパーによりました。久しぶりに、大樹の友人のYさんに会いました。仕事の帰りに春に結婚したご主人とお二人で買い物をしていました。「お元気でしょうか?お母さんは?お父さんは?」「変わりありません。」他の人からすれば何でもないような会話ですが 私達には共通の悲しみがあります。私の思い過ごしかもしれませんが、お互い懐かしい感情、その後からお互いの、心の中にある思い。彼女は息子の小・中・高校の同級生です。彼女のお父さんも主人と仕事関係で知り合いでした。大樹のお葬式にはお二人で参列していただきました。その時も彼女のお父さんは、目に涙をいっぱうかべ言葉も無く挨拶をしてくれたのを私も良く覚えていました。そんなやさしいYさんの弟さんが、大樹が亡くなった9ヵ月後の2007年3月、21歳で交通事故により帰らぬ人になりました。本当に悲しい知らせに、辛い再開でした。弟さんの1周忌が終わってから、お付き合いをされていた彼氏と結婚しますと聞き Yさんの幸せを私も祝福いたしました。来年の春にはお母さんになるとの事、新しい家族が増えると言うのは、何よりの明るい話題です。子供を亡くした親は、孫が生まれて 喜びの中になくした子供の幼顔を思い出してしまうのです。私は経験がありませんが、いろいろな方のお話からそのように思われます。いつの日にか、私のところにも孫がやってきたら、感じていくのでしょうか。今年の6月、親友のホージーがタイへ行き、ハーレーのバイクをお土産に買ってきてくれました。
2008.10.11
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昨日の水曜日大阪へ行ってきました。秋の晴天で絶好のお出かけ日和。目的は梅田芸術劇場で公演しています、黒部の太陽を見るためです。主人と二人で見ました。私の父がそのゼネコンのプロジェクトの会社にいたので大変興味がありました。ヘルメットノマークはいつも見ていましたから。私が生まれたのは、関東の利根川水系のダム(八木沢ダム)工事現場の病院です。母から工事現場現場といっても一つの町のようと聞いた事があります。黒部ダムは是非行きたい場所ですね。中村獅童・神田正輝さんの演技もよかったですが、大地康雄さんの個性的な演技が素晴らしく良かったですね。私は金井勇太さん演じる川村修二が18歳でトンネルの掘削工事中にガス爆発が起きて事故死する。父親が迎えにきて、息子の亡骸に向かい声をかけるシーンには思わず涙で声がでそうでした。とかくトンネルの水が噴出するシーンが話題になっていますが、現実にあった難関である建設工事にかける男達、またその映画を撮りたいと、石原裕次郎が夢をかけて挑んだ事を。演技を見て感じました。私の生まれた時代の男達の生きる姿がとても新鮮にうつりました。12列目の席で見ましたので迫力もあり、水のシーンは涼しくもありました。前の席にいた方は ビニールで濡れない様に覆いながらの観劇でした。
2008.10.09
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今日から10月ですね。朝は曇っていましたが、 ぐんぐん天気が良くなり晴天です。暖かい秋の日です。月命日であり、月の初め。毎月1日はお店をお休みしています。私は毎朝の日課のお勤めをしてから、花屋さんに行きそれからお墓参りに行きます。主人は学校がお墓に近いので、毎日お昼に寄ります。ですから我が家のお墓は花がいつも綺麗です。親父と息子。主人は 口うるさい主人をきらってあまり話をしなかった息子と親子の会話をしているのでしょうか。大樹の大好きな ラッキーストライクのタバコとダイドーの缶コーヒーをお供えをして帰ります。でも毎回次の日に行くと お供え泥棒にとられてないです。花泥棒もいるようです。時々タバコが線香立てにあったり、お花があったり、嬉しいかぎりです。「きっと今日は走れる」と何処かへ行っているのでしょう。3回忌のお花
2008.10.01
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