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「人はなぜ眠るのか?」(生体のリズムと睡眠の仕組み)ひとは、いかなる環境下に置かれようと、また、どのように不眠で悩もうと、いずれ眠らずにはいられない。かつてナチスが、敵スパイに対し自白させるため様々な方法を試したという。自白させるための方法は、昔から色々あり、日本では江戸時代に竹や棒で背中を叩いたり、正座させて石を脚の上に置いたり、天井から吊るしたりした方法がある。西洋では、ムチ打ちが有名であり映画等でそんなシ-ンが良く見られる。ヨーロッパの古城には大抵専門の自白場所(幽閉・牢獄)があり、そこには様々な自白用具が展示されている城さえある。いずれにせよ、肉体と精神に痛みと恐怖を与えるものであるが、ナチの行き着いた最高の自白方法は、立つほどしかない狭い場所に入れて、立たせたまま、決して眠らせない方法であったという。この方法では、どんなに口の堅いスパイでも殆ど最後は自白したという。このことから、人間の最大の苦痛とは眠れないことと言うことになる。さて、ひとは1日8時間ぐらいは眠っている。では人間、あるいは動物はなぜ眠るのだろうか。単純に朝が来て夜がくるためだからだろうか。体は、眠りとどのような関係にあるのか。脳はその時どのように振舞っているのか。生体が持つ眠りと覚醒のリズムの意味を探ってみよう。(つづく)
2006年11月30日
「臓器感覚」(4.吐き気と脳の関り)嘔吐というのは、苦痛で嫌なものであるが、保身のため行われている作用でもある。胃の中のものを体の外に出そうという作用であるが、どのようにして起こるのか見てみる。食道、胃、十二指腸、横隔膜、腹筋などが共同で起こす反射運動であるため、吐き気が始まると、十二指腸や空腸、回腸などに逆の煽動があり、胃の緊張度がなくなってくる。すると、嘔吐運動は次々と横隔膜や腹筋を刺激して、胃の内容物を外に出そうとする。この一連の運動を統括しているのが嘔吐中枢である。嘔吐中枢は延髄にあって、しかもすぐ近くに「呼吸中枢」があるので、それも刺激してしまう。だから嘔吐中には呼吸が止まった状態になる。嘔吐中枢というのは、延髄の「迷走神経背側核」とよばれるあたりにあって、ここを直接刺激すると、胃が特にムカツクわけでもないのに嘔吐する。また、脳の障害や化学的な薬物や体の中の毒素が原因で起こる中枢性の嘔吐と、胃や腸など消火器に関係した神経から中枢を反射的に刺激・興奮させて起こす反射性の嘔吐、あるいは、同じ反射性の嘔吐でも、眼、鼻、舌などの神経や迷走神経からくるものもある。そして、これとはちがって、ヒステリ-や偏頭痛などの大脳皮質の刺激や脊髄の刺激によって起こる精神性嘔吐もある。ところで、嘔吐中枢が延髄の迷走神経背側核のあたりにあることを前記したが、その背側に、化学物質で刺激される「化学受容器」がある。この受容器に化学物質がやってくると、嘔吐中枢を刺激してしまう経路があって、そのために嘔吐を催すことになるのだ。吐くという行為は、吐き出してしまえばスッキリすることもあるが、その原因によって、いつも反射運動が誘発されて嘔吐が起こっている場合は、体力の消耗もみられるし、精神的な苦痛も加算されることになる。(つづく)
2006年11月28日
「臓器感覚」(3.便意と腸と脳の関係)食べたものの最終到着点は、からだの栄養となったもの以外、そこからはじき出されたものが、尿や便になっていく。便になるもののたどる道は、胃、小腸を通過して大腸に至る。大腸は消火管の最終部分にあたり、長さは1.5メ-トルもある。そして、盲腸、結腸、直腸に分かれている。さらに結腸は部位ごとに、上行結腸、横行結腸、下行結腸、S状結腸と呼ばれている。これら大腸の役割は「水分を吸収」することと、カリウム、カルシウム、マグネシウム、鉄などを「リン酸塩」や「硫酸塩」として体外に排泄すること。そして、排便反射によって、消化されなかった線維や細菌、水分、栄養素の分解産物を便として排泄させるための運動を行うことである。便はわれわれが、便意を感ずる前までは、下行結腸からS状結腸にある。なぜもっと肛門の近くの直腸にないかといえば、S状結腸と直腸のところは輪状筋という筋肉があって、ここが収縮するので、直腸のほうに行けないのである。それである程度の量が貯まらなければ、直腸に押し出されていかないのである。では、直腸に移行するだけの便が貯まったとしよう。便は蠕動運動によって直腸へと運ばれていく。すると直腸壁は便のために伸展して、直腸の圧が高まってくる。この圧の高まりによって、直腸壁に分布している骨盤神経が刺激され、この興奮が「脊髄」から「大脳」にまで伝達されて便意が起こるのである。便意が起こると直腸は蠕動し、内肛門括約筋は緊張状態を解いてゆるみ、便は外へ出される。これは反射的になされるので「排便反射」と呼ばれる。排便反射は「脊髄」「延髄」「視床下部の前部」「大脳皮質」などによって調節されている。直腸や内肛門括約筋は、「自律神経」の神経支配下にある。自律神経には、交感神経と副交感神経があるが、交感神経は「下腹神経」としてあり、この神経が興奮すると、直腸の運動が抑制されてしまう。そして内肛門筋のほうを収縮させて、排便させないようにする。一方、副交感神経には「骨盤神経」があり、刺激されて興奮すると、直腸の運動を盛んにし、内肛門括約筋の緊張をゆるめて、排便をさせるようにするのである。★便秘の人は、神経質の人が多い。交感神経が働きすぎているからである。自律神経は、排便反射にまで大きな影響をもたらせているわけである。女性には便秘症の人が多いが、その原因を食生活や生理面の影響にかたずけたいが、真実は違った方にあるかもしれない。すなわち、神経質でいつも小さなことにこだわりすぎたり、自我意識が強すぎてイライラしたり、いずれも交感神経が働きすぎているからである。リラックスしていると、排便反射にも影響して便秘も解消され、キレイになるということになる。その方法を伝授しましょう。キレイになりたい人は、もっとモ-ツアルトを聞くと良いのです。その時、お腹を時計回りにマッサ-ジするとより効果を挙げられますよ!盲腸の上の部分は3回に1回位い、軽く押すようにします。これが最も安上がりの治療法ですよ。
2006年11月27日
「臓器感覚」(2.尿意と膀胱と脳)健康な成人男性の尿量は、平均1.5リットル、女子は1.2リットルといわれ、2リットル以上は「多尿」であり、0.5リットル以下は「乏尿」である。このように、主に水分の調節を尿でしている。何らかの原因で尿を外に出せない状態を「尿閉」、逆に出したいと思わないのに排尿があるのを「尿失禁」という。大人は、一日4~6回ぐらい排尿する。10回以上とか2回しかないのは病気である。一般的に、1回の尿量は0.3~0.4リットルの尿が膀胱に貯まると「オシッコ」がしたいと感じる。しかし、ここでトイレに行くわけではない。では、その仕組みを脳や神経の面から見てみよう。膀胱は風船のように膨らむが限界がある。0.4リットル以上になると、膀胱の内圧がさらに高くなると尿を外に出すように神経を促す。0.6~0.8リットルまで増加すると膀胱壁は周期的に収縮して、尿を外に出そうとする。我慢すると下腹部には痛みを感じる。尿で一杯となった膀胱は、風船のように膨らみ、その刺激が膀胱神経に興奮となって伝わる。これが誘因となって膀胱平滑筋という筋肉が収縮して、ついに我慢ならず排尿ということになる。こうした膀胱筋の一連の緊張や収縮は、それを調節する中枢によってなされている。そのひとつが脊髄膀胱中枢であり、「視床下部」や「大脳皮質」などの神経系である。大人は、最初ちょっと尿意を感じても仕事などで我慢すると忘れてしまう。これは外膀胱括約筋という筋肉を収縮させて、わざと排尿を抑えるからである。こんなことができるのは、脳の命令系統が大人として出来上がっていることや、経験によって「まだ大丈夫、漏れはしない」ということを習得しているから可能なのである。脳の発達がそこまで成されていない幼児には、排尿を抑える機構が不完全なので、我慢できず「オネショ」になることがあるわけだ。次に、膀胱平滑筋と内外膀胱括約筋と神経の関係をみてみよう。2つの筋には「交感神経」と「副交感神経」が分布している。尿意が起こるのは、膀胱壁の情報が、排尿中枢へ伝達されるためだが、実際に排尿させるためには、大脳から交感神経と副交感神経に刺激が伝えられなければならない。そして、膀胱平滑筋の収縮を起こさせ、内外膀胱括約筋を緩めてやるのである。こうして排尿に至る。つまり、排尿反射である。脊髄の排尿中枢は、視床下部や大脳皮質の「前頭葉」から命令を受けているが、視床下部は排尿を促進するように命じ、前頭葉はそれを抑制するように命じる。この2つの作用を受けながら、脊髄の排尿中枢は随意的に排尿を調節しているのである。(つづく)★トイレに行きたいのに我慢する事は大変な苦痛である。強い尿意があってから、それを我慢することは冷や汗ものである。誰でも一度は苦い経験をしていると思う。食欲や性欲等他のどんな欲より、強く働くものである。そして排尿した後の、爽快感はまた格別なものである。さて、尿は汚いものと一般的に見られているが、実は大変キレイなものである。血液を腎臓でろ過した体液であり、老廃物は混ざっているとはいえ、排尿当初は匂いもしないし、下手な水より良い飲料水ともいえる。「尿量法」といって尿を飲用して病を治療する治療方法が、一時ブ-ムになり、現在でも採用している病院もある。確かな治療例も、数々報告されている。しかし、「折角体外に出した毒を再び飲用とは意味がない」という逆説もあり、尿療法には、賛否両論がある。だが、少なくとも尿の中には貴重なホルモンや治療薬成分が多く含まれているのは事実である。これを腸から再吸収して利用する方法も理に適っている。その証拠に尿、特に健康な成人男子の尿からは、ホルモン剤などの薬も多く作られている。人の尿なら嫌悪感や不潔感があるが、自分の尿である。T先生の病院では、尿療法は半ば義務化されている。T先生ももちろん率先した尿療法の愛好者である?先生曰く、「一番安く、かつ安全な治療方法だ!」また、「ジュ-スやアルコ-ルに割ったり工夫すると、案外いけるんだよ!」とのこと?私もお付き合い上、チャレンジして見た。「病気になったら、この位はするべきかも?」私の正直な感想である。貴方も黄金水のカクテル、試してごらんになりませんか?
2006年11月26日
「味覚」(4種の味から無数の味をつくりだす仕組み)われわれの舌や口中の粘膜は甘・塩・酸・苦の4つの基本的な味と、それらがミックスされた多様で微妙な味を味わうことができる。味覚は嗅覚と同様に化学物質に対する感覚である。しかも水に溶ける化学物質だけが、味覚の受容器である舌や口中の粘膜にある味蕾(ミライ)を刺激することで味を感じ取るのである。水溶性でないものは味覚ではわからない。われわれの舌は、その部位によって味をとらえる感受性がたがっている。舌の後部では苦味、先端部は甘味、両側が酸味、そして舌先と舌の周縁で塩味を感じる。では、味蕾の構造を見てみよう。味蕾は大部分が舌の表面にあるが、口の粘膜の軟口蓋、後口蓋弓、咽頭蓋にも少しある。味蕾は直径60~80ミクロンで、成人ではおよそ1000個の味蕾があるといわれている。味蕾は20~30この味細胞と支持細胞とで出来ているが、1個の味細胞には、平均2本の神経がついている。ちなみに、味細胞の寿命は10日程度であることから、10日ごとに死んだ細胞と新しい細胞が入れ替わっている。舌の前の3分の2は、味覚ばかりではなく、触覚、痛覚、温度覚もあるが、これらの感覚は、舌神経と鼓索神経を通って、さらに顔面神経とともに脳幹に行き着く。一方、舌のうしろの3分の1の味覚は舌咽神経の管轄下にある。また味覚に関与している咽頭、喉頭は迷走神経によって支配されている。つまり、顔面神経、舌咽神経、迷走神経の3つは、味覚神経線維なのである。味覚神経線維は、やがて延髄に行き、さらに大脳辺縁系や視床に達する。ここから大脳皮質へ伝えられていくのである。このル-トのどこが故障しても、味覚に影響が出てくる。たとえば、顔面神経麻痺である。顔面神経は味覚神経線維でもあるので、ここになんらかの障害が起こると舌の味覚がなくなる。また、味覚は嗅覚や視覚にも影響を受ける。いい匂いだとおいしく感じ、色彩や形が美しいと、味もいいように思う。つまり味というのは、感覚と感情によって左右されるのである。むろん天候、体調、年齢、性別、季節によって、あるいは食習慣によって、味覚は実にバラエティーのあるものに変化していく。(つづく)★日本人が特に優れているのは、この味覚である。肉や魚や野菜の種類ごと、味の違いをこと細かく分類できる舌を持っている。農耕民族と狩猟民族の差かもしれないが、食に喜びを強く感じることは幸せである。生きるために必死の食では、犬畜生と同じで淋しい限りである。天の恵みを、味わいながら、感謝して、おいしくいただける事は、健康な証拠であり、実にありがたいことである。生命体は、他の生命体の命を頂かなくては自ら生きることが出来ない宿命を持っている。生命維持のために、プラスエネルギ-を発生させるからだ。従って、マイナスのエネルギ-で中和しなければ、飽和状態になって死んでしまうからである。大げさに言えば、食することは、殺生をすることでもある。そんな意味からも、おいしく感謝して頂く事は当然のことだと思う。さて、以前にも触れたが、近年のテレビ番組で料理番組が実に多くなった。これは、豊かになった証拠であり、喜ばしいことであるが、大食や早食いの番組も実に多い。小柄で痩せ気味な女性が、大男顔負けの早食い、大食をして、周囲を驚かせ、それを更に競争方式にしてチャンピン制度をつくり・・・勝者は正にスタ-か英雄気取りである。世界では、今でも食糧難で餓死する者も多い中で、実にもったいないことをしていると思う。彼らが食したものは、所詮消化できずに、無駄な糞になってしまう。牛や鶏に食わせれば、卵や肉や乳にもなるし、豚にでも食わせればおいしい肉になるのに・・・?視聴率を狙う側の魂胆は実に幼稚で、利己的である。家庭や学校でいくら一粒の米の大切さや有難さを教えても、これらの番組を見たら一変に全ての努力も吹っ飛んでしまう。「自由だろうが・・!」そんな輩に意見すると、たいがいこんな反発が帰ってくる。「いけないと何処に書いてあるんじゃい・・・?」都合の良いときは法律を持ち出し、都合の悪いときには自由を嘯く。自由には大きな責任と義務もあることを自覚して欲しいものだ。水を例にとって見てもいい。冷たい氷となれば、自由が殆ど利かない。ならば水となっても、限られた自由の中で法則に従ってその中で動いている。植物や動物になくてはならない生命維持の仕事を受け持っている。さらに、最高の自由の状態、気体となった場合はどうか?限られた条件の中で、発電をするし、雲となって熱を運ぶ。無責任の自由など、この世には存在しないのだ。存在するとしたら、わがままな言葉だけほざく、利己主義者の人間だけであろう!テレビ、ビデオ時代になり、映像を作る人々の責任は益々重い。親や先生、沢山の書物の教えも、一瞬の映像で吹っ飛んでしまうこともあるということを、もっと自覚して欲しいものである。
2006年11月24日
「臭覚」(生命維持に必要だった古い脳である)哺乳類においては、視覚や聴覚などよりも臭覚が重要である。犬、猫、鼠、兎、象・・皆臭覚をフルに生かして生きている。食べ物を見つけ出すのも、仲間と敵との区別ができるのも、あるいは愛し合うのも、匂いの識別能力に頼っている。われわれも哺乳類の仲間であるが、そこから霊長類へと分かれたことで、臭覚よりも視覚や聴覚を発達させてきた。しかし、人間は、今日のような知能を発揮するようになって、霊長類の中の最高峰に君臨したと勝手に自画自賛しているが、元来は、控えめで内気な哺乳類だったかもしれない。それが生き延びていくために大脳皮質を発達させたのである。遠いわれわれの祖先にあたる生き物達は、外界の様子を嗅ぎ分け、音を聞き分けながら夜行性の暮らしをしなければならなかった時期がある。この体験こそが人間の大脳皮質をつくり出したのだ。だから、大脳皮質は、臭覚に関係している終脳からの発展形なのである。そのために、われわれの臭覚は退化してしまったものの、それでも数千種類の匂いを区別する能力はあるのだ。まだ十分に「鼻がきく」のである。匂いの受容体は鼻にある、嗅粘膜に並んだ嗅細胞である。感度を上げるためには、センサ-の数がものをいうが、人間の場合左右の鼻の上鼻甲介の大部分と、中鼻甲介の小部分、鼻中隔の上の3分の1にある。その全面積は2.4~6.4平方センチメ-トル。ひとつひとつの嗅細胞からは嗅神経線維が出ていて、線維は束になって集まり、嗅神経・嗅系をつくっている。これが嗅球という嗅神経系の第一次嗅中枢である。第一次嗅中枢を詳しく見ると、嗅糸球体という層がある。さらに嗅糸球体のひとつに接近してみると、なんと、1個の嗅糸球体に対して、平均26000個の嗅細胞が束になっている。嗅細胞が数千種にもおよぶ匂いに反応しても、それだけではなんの匂いか分からない。嗅球に匂いが届いてはじめて匂いの種類ごとに分類が行われるからである。嗅細胞は「これがクレオパトラという名前のついているバラの花の匂いだ」と、ある特定の匂いに対してだけ反応するわけでなく、たいていは、いろいろな匂いに対応している。そして、これらの組み合わせを行って、第一次嗅中枢で匂いの識別を行うだろうと考えられている。また、第二次嗅中枢の側頭葉にある、扁桃核区や梨状葉でも、さまざまな匂いの識別を行っている。扁桃核と梨状葉は大脳辺縁系と呼ばれるところにあるが、ここは食欲、性欲、喜怒哀楽などの本能的、情動的な、いわば生命維持に欠かせない場である。かつて匂いを嗅ぎ分ける能力に長けていた祖先の哺乳類の脳は、大脳辺縁系が発達した種だったのだ。好物の匂いを嗅ぎとれば、食欲中枢が直ちに反応して餌を食べ、餌にありつけなければ、怒りを爆発させて相手を攻撃したのであろう。あるいは、異性の匂いを嗅ぎつけて性欲中枢が刺激され、その結果、繁殖もなされてきたのである。人間の場合は、匂いが大脳辺縁系で終着駅になるわけではない。さらに、前頭葉の底部にも送られて行く。このように、匂いはストレ-トにある部位で判断されてしまうのではなく、段階を踏んで識別されていく。類似した匂いの分類から次第にひとつの明確な匂いへと弁別され、われわれが「あっ、カレ-の匂いがする」と言う風に意識するのである。その匂いが、感情を動かし、あるときは胃液の分泌を促し、またある匂いは鼻をつまませ、吐き気を催すことにもなる。(つづく)★臭覚を例にとっても、凄いシステムである。まるで、人間の作る自動車や精密機械のように、各部位が目的を持ち、自然界の法則を活用して作られているのである。それも、水素や炭素、窒素等を組み合わせたもので作り上げてしまうのだから驚きである。そして、その設計図は次世代へと簡単に継承できるようになっている。また、環境により常に改造がなされていくようになっている。それは、生命体の意識外のところでやられている技である。誰が設計者なのだろうか?そして、製造責任者はどこにいるのだろう?どんな目的で? 何のために?疑問は尽きることがない。どんなに優れた生命体を完成させたとしても、その生を存続させるための環境が不可欠である。特に、生命体が必要なエネルギ-源となる食物がなくてはならない。後で追々触れていくが、生命体の生を維持するためには、物理的にはマイナス電子を食べ続けていかなくてはならない。生活動は、プラス電子を発生させるからだ。そのマイナス電子は殆ど生命体でしか得ることが出来ないのだ。だから、生きている動植物を食べるしかないのである。電子や原子・分子の世界から生命体まで、大きなリングとなってそこには存在するわけである。生命体のリングのみに、捉われていると、もっと大きなものを見失う可能性も十分あるのだ。全てがつながっていると考えるべきで、特に人の命を左右する医療世界においては、生物学だけでなく、もっと総合的な知識の上に立って常に研鑽すること大切であると思う。
2006年11月21日
「聴覚(音の振動がどうして音楽や言葉になるのか?」われわれの耳は外耳で外の音波を集め、中耳へとそれを伝える。すると、中耳の鼓室の鼓膜が振動して内耳に届く。内耳は聴覚器官であるばかりでなく、平衡器官でもある。内耳に伝わった音振動は、聴覚受容体である蝸牛の形をしたコルチ器官に行き着く。そして、いよいよここから大脳皮質聴覚領にいたる神経の通る路へと踏み入っていくのである。この聴神経の経路は、第1から第5まで、ニューロンの伝達のためのスイッチの切り替え点をクリアし、側頭葉に到達する。ここまでの経路は狭く、かつ細い「脳幹部」にあるが、この先、聴覚の中枢である側頭葉の上部へと音信号が伝達されていく。そこが聴覚領野である。聴覚野は、音の周波数と音の強さの弁別を行っているといわれている。ここを切除すると、音がどこから聞こえてくるのか、その音源の方向が分からなかったり、音の持続している時間が判断できなくなったりする。それでは、右脳か左脳の聴覚中枢のどちらか一方がダメ-ジを受けたとき、どちらかの耳の音が聞こえなくなったりするのだろうか。幸いなことにそんなことは起こらない。しかし、左右両方の聴覚中枢が障害されると、耳は音波を集めて脳に送っても、それを音として受け取ることができなくなる。耳(聴覚)がとらえた音波は、周期性がないと脳は騒音と解釈し、周期性のあるものは音楽と受け止める。そして、音楽は右脳で、言葉や意味のある音は左脳で処理されていく。われわれが、甘い恋の言葉をささやかれたとしても、聴覚がいかれていては何も響いてこない。道を歩いていて、後ろからスピ-ドを出した車が近づいてきても、それを危険な音として察知することもできない。聴覚は音を振動としてとらえながら、ついには、人間の感情をゆり動かし、理性を働かせ、芸術・文化を創造するものへと変貌し、音は、聴覚から脳へと伝わって、価値ある音として姿を現すのである。(つづく)
2006年11月20日
「色(色覚)はどうして見えるのか?」自然界は色彩に溢れている。その豊かさをわれわれは眼で楽しむ事ができる。あるいは、その色から危険なもの、用心しなければならないことを知ることもできる。色彩によって、人間は多くの情報を得、多くの情報をまた作り出している。それでは一体眼や脳はどうして色を感知し、判断しているのだろうか。まず、色覚がどのような性質をもっているのかを見てみよう。「色覚」というのは、眼の網膜に届いた光の波長の違いによって、別々の色の感覚が生じる孤島言う。たとえば、人間が捕らえることのできる光(可視光線)の波長は、397~723ナノメ-トルの間だが、短い波長から長い波長の方に変化させていくと、平均418ナノメ-トルで紫、474ナノメ-タ-で青、523ナノメ-タ-で緑、579ナノメ-トルで黄、607ナノメ-トルで橙、677ナノメ-トルで赤というふうに区別している。むろん、もっと細かく見ていけば、165色もの色を識別できるといわれている。このことは、人間の眼が、1ナノメ-トル違いの色を区別できるということだが、別の言い方をすれば、1ナノメ-トルとは、1000キロメ-トル離れたところから、1ミリメ-トルのものを識別できる、そういう僅かな波長の差を感じ取ることができるということである。網膜の、色に関する情報を受け取る細胞を錐体細胞という。この細胞が、網膜に届くさまざまな光の波長を処理し、脳に伝える。すると、脳はそれを手がかりにして色を知覚する。ただし、錐体細胞は1種類ではなく、3種類ある。3種の細胞は感光物質をもっていて、赤、緑、青、の三原色に対してもっとも吸光度が大きいといわれている。つまり、赤の723~647ナノメ-トル、緑の575~492ナノメ-トル、青の492~450ナノメ-トルの波長に対して最大の吸光度を持つ、という意味である。この3原色がさまざまに混合されることによって、われわれは豊かな色彩の世界を生きることができるのである。眼を静かに閉じてみよう。それから静かに開けてみよう。その瞬間に眼には光が入ってくる。すると、網膜の錐体細胞が3種の光の受容器細胞が働きはじめる。それぞれの細胞の感光物質が、光の刺激によって化学変化を起こすのである。ということは、そこに電気的な変化が生じたということだ。やがてその電位は「シナプス」に作用し、神経にインパルス(活動電位・神経細胞は電気によって信号伝達を行っているが、このときに1000分の1秒以下の一瞬の電位の変化をきたす。このことをインパルスという)を誘発させる。インパルスは、視神経を伝わって大脳皮質の後頭葉にある視覚領野に行き着く。ここではじめて何を見たかを知感することになるのである。ここでもうひとつ大切なことがある。明暗である。錐体細胞は、いわば色のチャンネルだが、われわれはその色の中に、明るさや暗さを感じ取っている。これは 体細胞という明暗チャンネルがあるからである。つまり、色の受容体・錐体細胞と明暗の受容体・ 体細胞とが作用しあって、これが大脳皮質に伝達されていくというわけだ。だから、あらゆる微妙な色まで見分けることができるのである。すべて、精巧な脳の働きによるものなのである。(つづく)★われわれに、眼がなかったらどんなに不自由なものか、恐らく人生は味気ないものになるだろうし、人類もこれほどの進化はなかったと思う。今日は皆さんも、もし目が見えなかったらどうなるか、ひと時眼を閉じて考えてみてほしい。眼の働きについては、上記したように、完全なものでないが、かなり分かってきたのは確かである。しかし、もっと本質的なモノについては、残念ながら全く分かっていないのである。例えば、どうして眼は合理的・理想的な2つになったのか?逆に、1つや3つではいけないのか?眼を持つ動物類でも、映像が皆カラ-で在るとは限らない。白黒で見ているものもいるのである。どうして、色別細胞が誕生したのだろうか?誕生させたそこには、どんな意識が働き、誰が設計し、製造し完成されたのだろう?そして、生命体全体の中で調和して、機能を発揮させるようになったていったのか?さらにそれを、次の世代に余すことなく申し送っていくカラクリを作り上げ・・・?疑問は滝のように流れ落ちてきて、とまることはない。鮮明な貴方もきっとそう思うに違いない。眼を閉じてみれば、人間は、まだなにも分かっていないと気づかせてくれる。そして、つないで来られた命の不思議にも是非気づいてもらいたい。われわれは、物質的・手品的なものを、奇跡と捉えいるが、本当の奇跡は、自分が誕生して今ここに存在している事なのである。閉じていた眼をゆっくり開けて、飛び込んでくる映像を味わってほしい。素晴らしい眼の機能を確認してほしい。そして、今ここに存在する自分と言う素晴らしい存在を、見つめてほしい。いじめや、生きていくための多少の苦労、そんなものは、出来たら忘れてほしい。なぜなら、この素晴らしさに比べれば、たいした価値にならないからだ。われわれの知らない細胞より小さな世界で、気の遠くなるような時間と数え切れないチャレンジと試練の繰り返しの末に、作り上げてくれた、この眼、この手、この体なのである。今存在する生の不思議。動物という生命体の中でも、最も優れた高性能の機能を持つマシンこそ貴方自身なのです。願わくば、ずっと先まで、つないで行く宿命と責任があることについても、是非気づいてもらいたいものだ。
2006年11月19日
視覚について(見ることは考えることである)人間は自分の置かれている環境がどんな様子になっているのかを知るのに、圧倒的に「視覚」に頼って生きている。耳や手や鼻や舌でも、むろん外からの情報を取り入れることができるが、70~80%は視覚による情報といわれている。ものを見ることのできる2つの眼。それは形のあるもの、意味のもつもの、色や空間のあるものとして整理する脳と眼との共同作業である。いったい眼と脳の関係はどのような仕組みで、われわれに外界を認識させているのだろうか。2つの眼球からは、脳につながる視神経が伸びている。視神経は、眼の網膜げとらえたものを脳に送る役割を担っているのだが、左右の視神経は、大脳底面のほぼ中央で交叉している。その交叉したところを視交叉といい、視交叉でポイント切り替えが行われる。つまり、右の眼から入ったものは、左の脳に、左の眼から入ったものは右の脳へと伝わっていく。しかし、一直線に最終地点の大脳皮質に行くわけではない。まず、神経細胞が沢山集まっている外側膝状体というところまで行き、ここに情報が集められて、そこから、大脳皮質の後頭葉の視覚中枢に送られるのである。われわれがなんの不思議もなくものを見て理解しているのは、視覚中枢が、眼から入った光の情報処理を行って、画像に組み立ててくれるおかげである。だから、どんなに眼球が正常であっても、画像として外界を認識する大脳皮質の視覚中枢にトラブルがあると、いったい何を見ているのか判断できないのである。むろん、視覚中枢に行き着くまでのどこの神経で故障が起きても、なんらかの視覚障害が現れる。たとえば、右眼が全く見えなくなったとすれば、それは視交叉よりも手前の右の視神経がやられたと考えられる。また、視交叉がトラブルに見舞われると、部分的にものを見る範囲(視野)が制限される。これを視野欠損という。視交叉の下には脳下垂体があるが、もしここに腫瘍ができて視交叉を圧迫したとすると、左右の眼の耳側の視界が欠損してしまう。このほかにも、視交叉を邪魔するような動脈瘤などが、視交叉を両側から圧迫したために、両眼の鼻側が視野欠損になることもある。それでは、外側膝状体から後頭葉までの多くの神経が集中しているところはどこだろうか。仮に右の後頭葉に腫瘍ができたとしよう。すると右とは反対側(左)に見えているはずのものが見えなくなるのである。だから、右眼でも左眼でも左側の視野欠損になってしまう。右側の後頭葉には、眼から送られてきた情報を手がかりにして空間認識を行うところがある。われわれがコ-ヒ-カップに手を伸ばすのはコ-ヒ-カップが何処にあるかを認識できるから、間違わずにそこに手を動かしていくのである。もしも空間認識ができなかったら、視野はさ迷って定まらず、ものに向かっていくことができない。さて、文字も眼で見て読み、意味を理解するが、これを行う順路はどのようになっているのだろう。眼から入った情報は、左脳へと行き、ここではじめて意味のある字だとわかる。そして、側頭葉の下の部分では「漢字」が読まれ、側頭葉の上の部分では「カナ」が読まれていく。しかし、これだけでは十分でない。ひとつの「言葉」として、その文字を理解するためには、感覚性言語野にしっかりと届けられなくてはならない。そこからわれわれは「ものを考える」という高次元の精神活動を始めるのである。見る、見えるということは、われわれの行動様式や、ものの考え方にも深く根を下ろしているということだ。(つづく)
2006年11月18日
今医療関係で、世間の注目を浴びているのが、四国宇和島徳洲会病院での腎臓移植手術問題だ。万波医師らが行っている腎臓移植手術に、癌などで摘出された患者のものが使われている点である。先日、この件で特集を組んだ某テレビを拝見した。先生の話だと、たとえ癌に侵された腎臓であっても、4センチくらいのものであれば部位を切除すれば、再利用できるという見解であった。事実、腎臓移植で改善された人は多く、画面にも登場して、喜びと感謝のコメントを出していた。一方、倫理面を含め監視する主流医師会としては、特に倫理面で、方針に間違いがあると指摘していた。番組では、万波先生は、患者を苦しみから救いたい一心のように表面的には見えた。「がん患者の腎臓を移植すれば、かなりの確率で癌になるのではないか?」。「それまでしなくても、いやそんな危険なことは許されない」。反対派にはそんな意見も多い。勇気ある先駆者と取るのか、無謀な殺人者と取るのか・・・今後の展開を注目したい。さて、腎臓疾患や糖尿病から腎機能が不全となった場合は、まず人工透析となる。腎臓はフィイルタ-の役割のため、人工的に造りやすい臓器のひとつだ。しかし、技術が進歩してきたとはいえ、小型の人工腎臓は不可能であるため、機械的ろ過装置での透析となる。人工透析の一番の難点は、2日に1回、週3回、それも4~5時間を要することである。一度はじめると、病院通いの一生となってしまう。仕事や、遊びなど殆ど出来なくなってしまうのである。それに、費用は国家の負担だけで、一人当たり年間1500万円といわれている。「透析をやれば儲かる」こんな噂を良く耳にするが、その辺にあるようだ。透析を安易にやると、2度と機能が戻らないと云われており、まだ十分に治療が可能なのに、透析になったという話も聞く。とんでもないことである。透析より、完全なのが他人の腎臓を移植する腎移植である。しかし、健全な腎臓はなかなか手に入らないため、近頃では、中国や東南アジアなど海外で移植する人も多い。その費用は、数百万~数千万円といわれている。中国の死刑囚や、東南アジアの貧民層の臓器売買の話が後を立たない。金次第で臓器まで買いあさる日本人の姿がそこに見え隠れしてくる。命の価値を問わないではいられない。金持ちになり、医療技術も高く国の保障も厚い日本。一方では医療費国家予算のが70%を越えて、借金だらけのあばら骨だらけの姿が影にはある。各人がまず、食べすぎ、飲みすぎ、太りすぎや運動不足から、糖尿病はじめ生活習慣病に、ならないように努めることである。さらに国としては、現代の対症療法的な医療に頼らない、他の新医療を徹底的に模索すべきではなかろうか。少なくとも、そのための前向きな研究開発に、もっと人材と資金を投入すべきである。自慢ではないが、MRS治療法で、透析直前の患者を改善させた例が1件。透析中の患者の透析回数を半減させた例が2件。現在、透析入院予定患者2名を、入院を遅らせ治療中である。両名とも、徐々に腎機能回復しつつある。諦めるのはまだ早いのだ。自己免疫力をもっと信じ、活用すべきである。
2006年11月17日
親殺しもあれば、子殺しもある索漠とした世の中であるが、そんな連中ばかりではない。いや、むしろ真面目に、己の道を歩んでいる人が殆どであると思う。マスコミの過剰報道もあり、暗い面ばかりが大きく誇張されて報道されている面も多い。地味ではあるが、「一隅を照らす」生き方をしている方を、気づく度、紹介していきたい。今回は、環境問題に取り組むトラック業界の西村のぼる氏を紹介したい。西村氏の取り組みは、公害をなくし、化石燃料消費を抑え、ついでに、荒れ果てた日本の農地である休耕田を黄色に埋め尽くすという夢のような事業である。今後様々な問題も出てくるだろうが、それに負けず、夢をかなえて頂きたいと心底願いたい。1.「地球環境問題に取り組む人達」 (西村のぼる。静岡日の出スト-ン代表取締役)1.菜の花とディーゼル車日本の物流の91%を担っているのがトラック運送業。このように、トラック運送業界が国民生活、産業経済の重要な鍵を握っている。一方排ガスによる環境への影響にも関与している。地球温暖化は、20世紀中に0.6℃上昇させ、2100年には更に5.8℃上昇するという。温暖化は、自然生態系や人間の生命や健康にも悪影響が懸念されている。主因は二酸化炭素。石油・天然ガス・石炭など化石燃料の消費によるもので四分の三を占めている。日本の軽油消費量の87%はトラック運送業によるもの。トラックの主流はディ-ゼル・エンジン。石原東京都知事は、「環境汚染の根源はディ-ゼル・エンジンによる排気ガス」と規制に乗り出し、酸化触媒装置を取り付け対応した。これにより、平成15~16年に東京都の汚染は3割程度改善されたという。この他に、エンジンを改良して煤を減らしたり、軽油の硫黄分を500ppmから50ppmと削減した。この業界に身をおく者として、ディ-ゼル車の排ガスをいかにクリ-ンにするかは、積年の課題でした。業務の合間を見ては文献をめくり、色々な研究所を訪ね、エンジンの技術者や学者に質問を発し、この問題を追及してきた。そして解決の糸口は身近なところにあることを思い知らされた。それはバイオ燃料である。ディ-ゼル・エンジンはミュンヘン大学のルドルフ・ディ-ゼルによって開発され、パリ万博で初めて紹介された。そのとき、落花生油を使用して、ディ-ゼル車を走らせている。自分でも実験して見た。4トン車に軽油8に対し菜種油2を混合、また菜種油100%、さらには食廃油使用という具合に、さまざまなケ-スで走行実験を行った。結果は上々であった。ディ-ゼル・エンジン特有の微振動が消え、排気の黒煙も発生せず、軽油燃焼時の悪臭も感じられなくなった。馬力、スピ-ドともに著しい変化は見られなかった。走行距離は、軽油では、3~3.5キロ/リットルが菜種油では、5.88キロと倍近く伸びる結果も得られた。また、排ガス成分中の不燃性炭化水素93%、一酸化炭素50%、浮遊粒子状物質30%が削減できた。発ガンリスクは、96%低減するというカルフォルニア大学の研究が米国エネルギ-省から発表された。だが菜種油をバイオ燃料として導入するとなると、別の問題が発生する。菜種油は古くから日本に入り、江戸時代には食用、また、灯明用として生活必需品だった。また、日本の気候風土に適した作物でもある。現在は需要減から収穫量が大きく減少している。一方農村では高齢化が進み、農産物の国際競争力の弱さから耕作が放棄され、遊休農地120万ヘクタ-ルのうち、荒廃農地は35万ヘクタ-ルに上っている。菜種油のバイオ燃料化には安定供給が不可欠、これをどうするかが問題だった。たまたま、14人で菜種の集団栽培に取り組んでいる農家の方から、一緒にやらないかと声をかけて頂き、農業は未経験でしたが、1年間やってみた。そして、集団栽培方式、さらには農業法人化することによって、やっていけると確信することができた。これを推し進めれば、遊休農地を解消して、農村を甦させることができる。また、化石燃料は尽きてしまえばそれまでだが、バイオ燃料は永久に再生産でき、エネルギ-問題にも貢献することができる。菜の花で一面の黄色に染まった野づら。その中を菜種油を燃料にしたディ-ゼル車が走り抜ける。そんな風景を夢見ながら、バイオ燃料普及に微力を尽くして行きたい。
2006年11月16日
モーツアルトの作品はその音楽性の素晴らしさはむろん、聴き入るだけで心身ともに大きな効果があるという。音楽療法の第一人者でモーツアルト・ブ-ムの火付け役である埼玉医科大学教授の和合治久先生の、医学的見解を某雑誌から紹介する。(最終回)「和合治久(ワゴウ・ハルヒサ)」昭和25年長野県生まれ。東京農工大学大学院終了後、京都大学にて理学博士号取得。埼玉医学大学教授および学科長を務めながら免疫音楽療法研究に携わる。「モーツアルトで副交感神経の働きを促進」人間には自分の意思では調節できない2種類の自律神経があります。交感神経と副交感神経です。体温を維持したり、心臓を動かしたり、意識しないところで生命活動に欠かせない大きな役割を果たしているのです。一般的には、交感神経は興奮させる方向に、副交感神経は安らぐ方向に指令を与え、この2つの神経は生体機能を相反する方向に作用させているので、一方が過剰に働きすぎると、他方は抑制し、バランスを取っているのです。電気のなかった時代、人間は太陽とともにあり、夜が明ければ活動し、日が沈めば休息していました。昼間は交感神経が活動し、夜間は副交感神経が活動するという、非常にバランスのよい生活を送っていたのです。ところが、現代社会はどうでしょう。電気が発明され、夜間でも昼間と同じように仕事が出来るようになりました。そのため、交感神経は働きっぱなし。過剰労働によるストレスや、不安や恐れの感情は交感神経の働きに拍車をかけるのです。現代社会はまさに交感神経優位の時代です。交感神経優位が続くと、アドレナリンが過剰分泌されます。アドレナリンは元気の源のようにいわれますが、何でもバランスが大切です。アドレナリンが分泌されると、それに反応して活性酸素を生み出す好中球の数も増えていきます。人間を老化させ、細胞をがん化させる原因が活性酸素であることは周知の事実です。さらにアドレナリンが過剰分泌されると、血管が収縮して血行障害や虚血状態が生じます。具体的には脳出血や脳血栓などの脳血管障害、心筋梗塞や狭心症をはじめ、高血圧などの血液循環系の病気が誘発されます。他にも肩こり、便秘、アトピ-性皮膚炎なども、過剰なアドレナリンによって引き起こされるのです。しかし、この21世紀の日本社会で、太陽が昇ると起き、沈むと寝る生活ができる人は少ないでしょう。そこで、日常の中で副交感神経が活躍できる場を意識的につくっていただきたいのです。副交感神経は入浴やアロマテラピ-、マッサ-ジのほか、モ-ツアルトの作品のような高周波音をたくさん含む音楽を聴くと、活性化されることが分かっています。人間の体はメリハリが必要なように生理的にできているのです。仕事は全力で取り組むことはもちろんですが、その合間に5分でも10分でもモ-ツアルトを聞いて交感神経を休めてみる。すると、ぐっと集中力が上がり、生産性も高まります。このように集中力を高めたい場合は、モ-ツアルトの作品の中でもバイオリン協奏曲がいいでしょう。あるいは、夜寝る前など、精神をリラックスさせたい場合は、ホルンやファゴットの協奏曲がお薦めです。昨今は不眠症の方がとても多いといいますが、とても効果があるので、メンタルヘルスや心療内科でも、その処方にモ-ツアルトをはじめとする音楽を使うケ-スが増えてきているそうです。これは不眠症に限らず、鬱病にも用いられているといいます。モ-ツアルト音楽療法は、薬と違って副作用もなく、安価で簡単、心地よいので誰でも続けられます。ぜひ皆さんの日常生活に取り入れて頂き、薬の力ではなく自らの体内能力を引き出して、心身ともに健康に過ごしていただきたいと思います。★さて、和合先生の研究から、モ-ツアルトの曲は、脳に有効に作用していることが明らかになった。そして、古代から、音楽そのものが生命体に有効な様々な影響を及ぼしていることを、人類は理解し活用してきたことを改めて確認できた。そして、科学的・物理的に解析してみると、周波数すなわち、電波のエネルギ-が作用していることを知ることができた。そのヘルツ(周波数)により、人体の部位が反応すること、また周波数の種類により反応する部位が違うことも、和合先生の研究で理解できたと思うモーツアルトの曲は、頚椎から上の部分に共鳴する3500ヘルツ以上の周波数が多く含まれていて、そのことが、安らぎを与えてくれる最大の理由であったわけだ。「牛舎に音楽を聴かしたら、採乳の量が多くなった」。「ハウス栽培で音楽を流していたら、虫が付かず良質のイチゴが出来た」、など音楽は人間界だけでなく生物に良い影響を与えることが証明されている。さて、当院のMRS治療器は、その周波数を巧みに治療に利用したものである。1ヘルツから10000ヘルツまでの周波数を、徹底的に分析し、有害や効果の無い周波数を排除し、有効なものを選択し、さらに効治療果を挙げるための疾病ごとの組み合わせ追求したものである。驚くべきことに、利用できる周波数は10000の中で、約110種類ほどしかない。しかし、その周波数の組み合わせにより水虫から難病に至るまで、治療がほぼ可能なのである。その昔、キリストや釈迦、マホメット、あるいは聖者達が手をかざしただけで難病を治療してしまったという逸話を聞く。現代においても、超能力者が手をかざし、念力(気)を入れると、痛みが飛んでしまう事実も散見される。「気」のエネルギ-とは、まさにこれであろうと思う。有効な周波数を患部に与え続ければ、病も治癒でき免疫力を向上させ、心も癒すことが可能なのである。「気」とは電子の波。そして、それも生体に利用するには有効な波でなくてはならない。生体に悪い波なら、細胞は死滅さえするのである。また、病原菌を殺傷するが、生体細胞には無害なものもあるはずである。太陽の光は、電磁波の波である。この中には、生体に有効な遠赤外線もあれば、やけどや癌を発生させる紫外線もある。周波数が違うだけで、太陽の光さえ、このようになっているわけである。「諸刃の剣」なのであるが、その生体に有効な面を生かせば、夢の治療器が出来るはずである。しかし、既にそれが先人達の25年という長い歳月の研究の結果、治療器として完成されているのである。「何処にそんな魔法機械があるかって?」「・・・・・・・・・・・」。両国の隅で、細々と私が旗を揚げている意味を、是非、記憶しておいて欲しいものです。それに、私のつたない日記を読み続けて頂ければ、生体の不思議ばかりでなく、脳の不思議、心のカラクリまで、鮮明な貴方だったら私以上に解明できるかも知れませんね。(完)
2006年11月14日
モーツアルトの作品はその音楽性の素晴らしさはむろん、聴き入るだけで心身ともに大きな効果があるという。音楽療法の第一人者でモーツアルト・ブ-ムの火付け役である埼玉医科大学教授の和合治久先生の、医学的見解を某雑誌から紹介する。「和合治久(ワゴウ・ハルヒサ)」昭和25年長野県生まれ。東京農工大学大学院終了後、京都大学にて理学博士号取得。埼玉医学大学教授および学科長を務めながら免疫音楽療法研究に携わる。「モ-ツアルトは、母の胎内で聞いた音」フランスの耳鼻咽喉科アルフレッド・トマティス博士は、いち早くモ-ツアルトの医学的効果に着目した一人です。1957年には、モ-ツアルトの音楽に自律神経を覚醒させ、脳を刺激して体の緊張をほぐし、感覚を安定化させる作用を見出しました。さらに興味深いことに、耳から入力される音の周波数と人間の脳から脊髄にある各骨部位が反応している点も見出しています。たとえば、延髄より上の脳神経系は、およそ4千ヘルツ以上の高周波音に反応し、頚椎は2千~3千ヘルツ、腰椎から仙椎は125~800ヘルツという周波数に反応しています。つまり、低い音は尾てい骨から始まり、音域が高まるにつれて背骨を上昇し、高周波音は首から上の頭蓋骨へと至るのです。モ-ツアルトの作品の特徴として、特にバイオリン曲やピアノ曲などがおよそ3500ヘルツ以上の高周波を豊富に含んでいるため、延髄から間脳、大脳辺縁系、大脳にかけての高次の神経系に非常に良い刺激が与えられます。一般的に、音楽を構成するメロディーは右脳半球で、リスムは左脳半球で処理されるといわれています。最終的にはその高周波音は効果的に脳神経系、ホルモン系、循環系、あるいは免疫系という、人間の健康を根底から支えている生体機能全体に多大な影響を与えるのです。モ-ツアルトの作品には「f分の1ゆらぎ効果」といって、小川のせせらぎのようなシンプルな音の繰り返しが多く含まれています。これによって人間の血液循環系、とりわけ心臓の鼓動や心拍数、脈拍などに影響し、リラックスモ-ドに導きます。また、不思議なことにモ-ツアルトの曲は、胎児が聴いている音に近いとよくいわれます。私たちが聞いている音には「気導音」と「骨導音」の2種類があります。気導音は空気を通して耳に届く音であり、骨導音は空気を介さず、骨を通して届く音のことです。例えば、耳を塞いでも自分の話す声は聞こえますが、これは骨を通して聞いているのです。胎児の内耳が完成し、音が聞こえるようになるのは妊娠6ヶ月といいわれます。羊水の中は空気の無い世界ですから、聞こえるのは骨導音だけ。空気の無い世界では低周波音は全部消され、高周波音しか耳に届きません。ですから、モ-ツアルトの作品に多く含まれる高周波音が、生まれる前から耳にしていた音と同じように脳を刺激するため、非常にセンシティブに反応するので、心身ともに癒されるのでしょう。「モーツアルトで体温上昇」五感の中で聴覚が最も脳に刺激を与えることは、先ほども述べさせていただきました。脳に刺激があるということは、間違いなく私の専門分野である免疫力もアップします。モ-ツアルトの音楽を聴くと、汗や涙、唾液、母乳、消化液などに含まれるIgAという免疫物質が分泌されます。個人差があるにせよ、30分聴き入るだけで、分泌量が2倍以上に変化する人が4,5割程度いるのです。例えば、汗が出るということは、血液循環がよくなり、体内の代謝が促進されたことを意味します。一度、冷え性の学生達に協力してもらい実験したことがありますが、彼らの手のひらの温度は25~26度しかないのです。肝臓の温度は誰もが37度はありますから、いかに末端まで血液が届いていないかが分かります。しかし、モ-ツアルトを聴き始めて10分が経ち、20分が経つと段々温度が上昇して、30分後には平均して5~6度上昇するのです。ちなみに私は冷え性ではありませんから、手のひらの温度は32度くらいですが、それでもモ-ツアルトを聴いた後は34度まで上昇しました。冷え性ひとつでもこれだけの大きな効果が表れるのです。同じように血行不良で引き起こされる肩こりや腰痛、あるいは涙や唾液が分泌されないことから起こるドライアイやドライマウス、消化液不足からくる便秘など、現代病ともいえる症状の多くに大きな効果をもたらしてくれることは間違いありません。また免疫力が低下すると感染症になりやすくなったり、がん細胞が増加したりします。また、アトピ-性皮膚炎をはじめとするアレルギ-疾患や、膠原病や関節リウマチなどの自己免疫病の恐れも出てくるのです。そこでモ-ツアルトです。モ-ツアルトの曲なら、何でもただ聴いているだけでいいのかというと、もちろんそれだけでも「心が落ち着いてリラックスできる」など、ある一定の効果は見込めます。しかし「音楽療法」として、あくまでも医学的効果を求めるならば、ヘッドホンなどでじっくり聴き入ることをお勧めします。1回につき30分程度、1日2~3回聴き入ると効果的です。朝晩や就寝前に実行するといいでしょう。どんなにいい薬でものみ過ぎると毒になるように、あまり長時間、真剣に聴き入る過ぎると、脳が疲れてしまいます(BGMならどんなに流していてもいいです)。また、聴き始める前に1杯の水を飲み、深呼吸を行うと、血液の流れがよくなってさらに効果的です。(つづく)
2006年11月13日
モーツアルトの作品はその音楽性の素晴らしさはむろん、聴き入るだけで心身ともに大きな効果があるという。以前1度モ-ツアルトに触れたが、「モ-ツアルトが人類最高の名医」でもあることを、証明していきたいと思う。そこで、音楽療法の第一人者でモーツアルト・ブ-ムの火付け役である埼玉医科大学教授の和合治久先生の、医学的見解を某雑誌から三回にわたり紹介する。「和合治久(ワゴウ・ハルヒサ)」昭和25年長野県生まれ。東京農工大学大学院終了後、京都大学にて理学博士号取得。埼玉医学大学教授および学科長を務めながら免疫音楽療法研究に携わる。「モ-ツアルトの音楽で心身ともに癒され、元気!」いま日本は空前の「モーツアルト・ブ-ム」です。クラシックのCDは年間6千枚売れればいいといわれる中、ここ2,3年はモ-ツアルト関連だけで、CD出荷数は40万枚を超えるといいます。また、今年はモ-ツアルト生誕250年の節目の年で、全国各地で記念演奏会が催されていますが、どこも満席。モ-ツアルトに寄せる関心の高さを物語っています。なぜいま、モ-ツアルトが注目されるのでしょうか?1756年に生まれ、5歳で初めて作曲。35年の生涯で、実に600曲以上の作品を残した天才・モ-ツアルト。その作品の素晴らしさはもちろんのこと、昨今の研究でモ-ツアルトの作品は人間の体にとてもいい影響を与えることが証明されつつあります。モ-ツアルトに限らず、素晴らしい音楽が体にいい影響を与えることは、すでに古代ギリシャ時代の数学者ピタゴラスによって説かれています。ピタゴラスは音楽が道徳性や社会性、あるいは宗教心を豊かにするばかりでなく、人間の精神の乱れを癒す効果も併せ持っていると唱え、この理論はアリストテレスに継承されました。また、古代エジプトでは音楽を「魂の医者」と呼んでおり、古代ヘブライ人は音楽が心身両面の障害を癒すと考えていました。米国では1950年にアメリカ音楽療法協会が発足、さらにその10年前にミシガン大学などで音楽療法コ-スが設けられるなど、当時から音楽を用いて治療をするという機運が高まっていたのです。日本では音楽療法が注目され始めたのは、米国から遅れること約半世紀の1990年頃。それ以前からヒ-リングミュ-ジックやアルファミュ-ジックのジャンルは確立されていて、確かに「癒される」「心地よくなる」ということは分かっていたものの、果たして人間の体にどういう影響を与えるかについて、医学的に裏打ちされたデ-タはありませんでした。私自身、自分でクラリネットを演奏するなど、もともと音楽が好きでした。専門は免疫学ですが、五感、その中でも特に脳細胞に最も大きな影響を与えるといわれる聴覚を活用した医学を展開したいと考えていたので、音楽療法を知ると、早速諸外国の文献を調べてみました。すると、他の作曲家に比べ、モ-ツアルトに関する論文が圧倒的に多いことに気づいたのです。世界的に権威のある「ニュ-ロサイエンスレタ-」には、カルフォルニア大学の教授によって、ただモ-ツアルトに聴き入るだけで脳の空間的、時間的な理由付けをする能力を高めることが発表されていました。もしこれが本当だとしたら、アルツハイマ-を含め、老人性の認知症に効果があるのではないか。そこから医療現場にモ-ツアルトを持ち込んだのが、本格的に音楽療法を始めるきっかけとなりました。現在は、その効果が明らかになるにつれ、「音楽療法士」として医療に従事する人数が増えつつあります。その需要は今後ますます高まっていき、医療のあり方も大きく変わっていくだろうと思っています。(つづく)
2006年11月12日
「感覚器と脳の関係」1.感覚とは何か? 無事に生きているということは、われわれが体の外の情報を素早く的確にキャッチする能力をもっていて、それがどのようなものかを判断し、対応していく感覚系の働きがあるおかげである。目、耳、鼻、舌、皮膚などは外からの情報を受け取る窓口で、いわゆる五感のことである。このほかに、内耳の平衡感覚によって姿勢や運動を調節したり、胃や腸、膀胱などの内蔵器の感覚、筋肉や関節の深部感覚がある。そして、これらの感覚器には、からだの外あるいは内の状況の変化を速やかに感じ取る細胞がある。この細胞を受容器細胞という。受容器細胞は、受けた刺激によって、インパルス(活動電位)を発生させ、それが感覚神経を伝わり、さらに中枢神経を通り、最後に大脳の感覚中枢に伝達されて、ここで「感覚」としてわれわれが感じるわけである。このように、感覚というのは「外の刺激によって感覚器系統が反応する過程」なのである。感覚は、知覚や認知と、どのように違うのだろうか。知覚とは、そのモノを認めることであり、認知とはそのモノを過去の経験と照らし合わせて理解することである。再び感覚に話を戻すが、われわれは、一定の刺激を長時間受けていると、感覚が麻痺することを知っている。つまり、これは、感覚のひとつの性質である「順応」なのだ。順応がなぜ起こるかといえば、感覚器は刺激を受けてインパルスを出すが、同じ刺激を受け続けているにもかかわらず、減少するのである。これが順応といわれる状態である。感覚のもうひとつの性質は「投射」である。たとえば、右腕のある部分に何かが触れたとしよう。早速、感覚受容器の刺激は大脳皮質の感覚中枢まで伝えられる。その結果、熱いとか、圧迫されたとか、あるいはカユイなどと感じる。しかし、その熱い、圧迫感、カユイなど感じる場は、脳ではないはずだ。この例でいえば、右腕の刺激された場所が感じたのである。このことを感覚の「投射」という。投射は逆コ-スを辿ってみても立証できる。右腕を刺激するのではなく、大脳皮質の右腕の皮膚感覚を支配しているところを刺激する。すると、右腕が感覚するのである。さらに注目すべきことは、その右腕が事故や病気で切断され、すでになくなっていたとしても、大脳皮質の右腕に感覚を生じさせていた部位を刺激すると、腕がないにもかかわらず、あたかも腕があるような感覚を持つのである。これを「幻肢」という。このように、感覚には「順応」と「投射」の性質がある。もしも、刺激が一定の強さで長時間続き、その刺激に対して同じ強度の感覚も持続するとしたら、われわれは耐え難い苦痛に悩まされるだろう。(つづく)★近頃当院での患者さんに、脳梗塞で半身不随になった方が2名おられ治療を行った。発病状態も、年齢も、緊急入院して治療したが、その入院期間や治療方法もほぼ同程度であった。両者とも、右利きで、利き手の右半身完全麻痺。原因は、左運動野脳部に血栓による脳細胞死があり、それの障害が残ったわけだ。退院後、自宅にて当院のMRS治療を約2ヶ月集中して行った。退院時には両者とも歩行器で何とか歩ける状態で、手は殆ど動かない状態であった。MRSの治療で、急速に回復に向かい、現在は杖を突かずに歩行できるようになった。すなわち、足の部分の回復は予通り順調であった。しかし、手の回復には明らかな差が生じてきた。回復の良かった方には、積極的に麻痺した手を使わせ、マッサ-ジも付加した。それに、もうひとつ、動作と同時に「右手動け」という思いを込めろと指導した。故障した部分の脳の起電力を上げるためである。暇があれば、じゃんけんの、グ-、チョキ、パ-をやるよう薦めもした。遅かった方にも指導したのだが、パソコンなど左手でも打てたので、右手は余り使わなかったようだ。それを聞いて私は、途中から、パソコンでも積極的に右手で打つよう指導した。2週間後、来院され右手の腫れがずいぶんひいて、指先もかなり動くようになっていた。本人は喜んでいたが、私も驚くほどの改善ぶりである。ところで、生物を造った神様とは凄いことをしたものだと今回の事でまた、思いを新たにした。血栓の場合、酸素や栄養不足で脳細胞が死んでしまう。今回の2人も運動脳野の脳細胞が血栓により、血行障害を起こし、機能を阻害されたわけだ。こうなると、脳の指令は出しているのだが、起電力不足で末端に信号が届かないのである。それを、思いを強くしていくと、徐々に信号が強くなり回復を見るのである。これは、残った健全な脳細胞が新しい回路を造ったためか、または死んだ細胞が生き返ってきたのか今のところ不明であるが、その結果であろう。近頃、脳についてかなり分かってきたという。先日見たテレビでは、ネズミの脳に16本の電極を入れ、ネズミの思いを起電力として捕え、その先端にロボットをつないで、ネズミの意志をロボットが行うような装置を造った。そのネズミに好物の餌を見せると、ロボットの手は、それを捕えネズミの口に運んだのである。このことから、意志を出せば、たとえ筋肉がなくても、脳の指令で、機械でも目的を達せられるということになる。ただ、前例の人間の場合、神経や筋がついており、マッサ-ジが大切である。なぜなら、脳から信号がこない神経や筋肉は、膠着して老廃物がすぐ付着してしまうからである。リハビリで痛いのは、老廃物が流れることによる痛さである。肩こりも同じで、尿酸や過酸化物が溜まると、痛みが走る。それと同じことが、リハビリ時に起こるのである。それら老廃物が排除されていけば、痛みも腫れとともに減少するのはそのためと考えられる。機械も使わないと錆が付くように、生体の場合のほうがさらに錆び易いからである。麻痺した場合は、とにかく根気強いリハビリと、もうひとつ、強い意思を脳に発信させ続ける努力を併せ行うことである。それに、ひとこと付け加えさせてもらうと、当院のMRS治療は、この種の傷害にも素晴らしい効果を発揮しております。障害発生から、早い時期に施術を行うとより高い効果が得られます。よろしく!
2006年11月11日
1.「根本的原因を見よ!」渡部昇一上智大名誉教授の意見渡部先生は、昭和の歴史、特に第二次世界大戦の原因や、南京虐殺の真実、東京裁判の違法性について等、事実に基づいた理論展開で有名である。世間では、タカ派と見られてしまうふしもあるが、真実について日本刀の切れ味を持つ、国際的知識派である。そんな先生の少子化に対する意見を、某雑誌より2回にわけ紹介したい。昨日につづき、2回を紹介したい。2. 「家族の価値観の喪失と男女共学も原因である」日常生活に近いところにも少子化の原因はある。戦後、家制度が撤廃された。これにより、遺産相続はその権利を持つ子どもたちで均等分割ということになった。これである。親が100坪の土地を持っていたとする。子どもが4人いて、均等分割相続といっても、25坪ずつ分けて、そこに家を建てて住むわけには行かない。売り払って莫大な相続税を納めた上に、残りの金を均等に分けることになる。これでは受け継ぐという実感が具体的に持てないのだから、家族の価値観が育つわけが無い。むしろ、きょうだいが多ければ相続分が少なくなるのだから、きょうだいは少ないほうがいいということにもなる。家族の価値観は低まるばかりである。家族の価値観が感じられないのだから、老後の親の面倒をみる気にもなれない。また、福祉制度が整っているから、老後の親の面倒は老人施設に任せればいい、ということにもなる。家族の価値どころではない。家族の意味さえなくなってしまう。これでは子どもを産む気にならないのも当然ではないか。もうひとつ付け加えれば、男女共学も一因になっているそうである。私は小学校3年生までは男女一緒だったが、それ以後は画然と分けられて育った。だから、女学校の前を通るだけで胸がどきどきし、息苦しくなったものである。このどきどきを抱きながら十代から二十代の初めまでを過ごすわけである。それだけ異性への関心も高まり、性欲も盛んになり、早く結婚したい気にもなろうというものである。結果として、子どもも生まれるというわけである。だが、生まれてから男女一緒で過ごし、ずうっと同じ事を幼稚園、小学校、中学、高校、大学と男女一緒にやっていると、私は男女共学の経験がないので良く分からないが、異性に対してきょうだいのような感覚になってしまうのではないか。きょうだいにドキドキしていたらこれは異常である。というわけで、性欲が退化し、晩婚化、未婚化となって少子化の一因になっているのではないか。しかし、このまま少子化が進んでしまえば、早晩日本がにっちもさっちもいかなくなることは目に見えているのである。どうするか。これまで述べてきたことで解答は出ている。本当に少子化を食い止めようとするなら、根本原因を取り除く以外にない。福祉制度をやめるのである。生活はどうなっても福祉制度などに頼らず、とことん自力だけで営むようにする。老後の安泰も自力で蓄え、自力で保障していくようにする。当然、いまよりも厳しい努力をしなければならなくなる。その努力が種の保存の本能を掻き立てるのである。そうなれば、家族で助け合わなくてはならない場面も増えてくる。家族の価値観が増大する。それが子どもを産むエネルギ-にもなっていく。だが、いまさらそんなことをしたら、内閣が何度ひっくり帰っても収まらないような騒ぎになるだろう。では、どうすればいいのか。私にも分からないというのが率直なところである。しかし、このまま推移すれば、日本がにっちもさっちもいかなくなることだけは確かなのである。それを承知で少子化が進むままに任せるか。それとも、社会の社会主義化をやめるか。いずれかを選択しなければならない。そして、その時は迫っているのである。叡智を絞って議論し、日本人が決意して進んでいく道を見つけ出さなくてはならない。少なくとも遺産相続は遺言状絶対重視として遺留分はなくしたら家の分譲の多くはとめることができよう。★渡部先生すら、この問題の具体的解決方法はないという。豊かさと引き換えに失うものが有るということだろうか。革命か戦争、それとも大きな天災でも起こり、既存の財産や権利を失わない限り、無理と言うことかもしれない。人間は安定を求め続ける。俗に言えば楽を求める動物でもある。そして、社会全体にそれが広がり満ちたとき、その時代の終わりが必ず来ることを、幾たびの歴史も物語っている。時代に流されず、意識して自我を持ち続けることは難しい。しかし、それに気づき自らを戒め、実践する個人が何人いるかによって、迫り来る危機を先延ばしできるのも確かである。
2006年11月10日
今回は、渡部昇一上智大名誉教授の意見を紹介したい。渡部先生は、昭和の歴史、特に第二次世界大戦の原因や、南京虐殺の真実、東京裁判の違法性について等、事実に基づいた理論展開で有名である。真実には怖気ずかない姿勢から、世間では、右翼・タカ派と見られてしまうふしもあるが、真実について日本刀の切れ味を持つ、世界に誇れる国際的知識派である。そんな先生の少子化に対する意見を、某雑誌より紹介したい。1.「根本的原因を見よ!」「少子化を克服するには、少子化を招いている原因を取り除かなければならない。ところが、いま云々されている少子化対策は見当違いのことをやっているように思えてならない。少子化を招いている原因は何か。ここでは大きな原因と生活に結びついた原因と、2つを挙げておきたい。大きな原因とは、社会の社会主義化である。「動物の出生率がもっとも高まるのは、種の保存の本能が脅かされた時である」。というのは良く知られていることである。野生動物は天敵に襲われ、餌の確保が困難な時ほど、せっせと交尾をする。これが動物園で飼われ、天敵の恐れも餌の確保も心配なくなると、途端に交尾をしなくなるケ-スもでてくる。オスもメスも異性に関心さえ示さなくなるケ-スさえあるという。人間も同じ動物である。いままさに定年年代を迎えようとしている団塊の世代を考えてみればいい。彼らが沢山生まれた昭和22年を中心とした時期、日本はどういう時代だったか。戦争に負け、日本は貧乏のどん底だった。その日の食事にも事欠き、衣服はボロの着たきり雀、寝るところも満足になかった。産婦人科医は圧倒的に足りず、赤ちゃんが生まれてきても脱脂綿もおむつも満足になく、粉ミルクなどダイヤに勝る貴重品だった。保育所も幼稚園も少なく、乳幼児手当や児童手当はもちろん、生活保護さえ望むべきも無く、福祉はゼロといってよかった。そのころ、行政がしきりに推進したのは「産児制限」だった。つまり、何もかも足りなくて、日本人が増えてほしくない時代だったのである。にもかかわらず、日本人はどんどん子どもを産み、団塊の世代といわれる一群を形成することになったのである。飢えが身近にあり、生きることが難しく、種の保存が危ぶまれる状態だからこそ、子どもをどんどん産んだのだ。そして、いまである。当時からは想像も出来ないほど、日本は豊かになった。豊かになった分、福祉政策を導入した。社会の社会主義化とはこれである。小泉政権の改革で格差社会が叫ばれているが、たとえ負け組みに入り格差社会の底辺に落ちても、いまの日本で飢え死にすることは絶対無い。いざとなったら、生活保護を受ければいい。それでも開発途上国に行ったら富裕層に属するような生活が可能である。普通にやっていれば、年金がうけとれる。医療保険や介護保険の制度もある。老後を心配する必要は無い。安泰そのものである。このように社会の社会主義化が進み、福祉制度が整うと、種の保存の本能が希薄となり、出生率が落ちるのだ。世界を見回しても例外は無い。ドイツ然り、フランス然り、韓国然りである。いずれも豊かになり、福祉制度が整った結果なのだ。それでもドイツやフランス、それにアメリカも、日本以上の特殊合計出生率を維持しているのは、移民のおかげである。移民はどうしても生活が苦しい。失業率が高く、福祉制度の外に置かれがちである。この状況が種の保存の本能を掻きたて、移民の子どもをどんどん増やしているのだ。移民の分を除いた本来のドイツ人、本来のフランス人の出生率は、惨憺たるものなのである。これが少子化の大きな、というよりも根本的な原因である。(つづく)
2006年11月09日
「政府の少子化対策は、バラマキ行政の延長上であり、根本的に間違っている」小泉政権当時、この問題が浮上した。当時の坂口厚生大臣が仕切りに張り切り、情熱を注いだ問題でもある。その後、担当大臣制に昇格され、初代大臣は猪口邦子氏であった。そして猪口大臣は、約1兆7千億円の少子化対策予算を概算要求した。安部内閣に代わって、担当大臣も高市早苗氏にかわり、来期の予算計上に向かって動いている。何事も資金が無くては進まないが、予算の内容項目を見ると、各種手当ての増額、出産・育児後の再就職の制度化、不妊治療の支援、夕方まで児童の面倒をみる放課後こどもプランなど女性が働きながら育児が出来る環境を原点に、経済面の援助を主体に考えられている。実に現実的ではあるが、頭の良い女性達や官僚達が、小手先の事だけに捉われた改善策のように私には見えてならない。政治とは目の先の現実にどうやら捉われるものらしい。グランドに一本の線を引こうとして、目標を決め石灰の線を引き出すのだが、船頭達が入れ替わり立ち代り来て、もっと右、右過ぎる左に少し・・・、あっ左行き過ぎ・・・。最終的には、曲がりくねった線となる。しかし何とか線を引ければよいが、船頭の方向感覚の悪いやつが担当すると、メチャクチャの線となってしまったり、石灰が途中でなくなってしまう。そんな現象と良く似ている。夕張市の破産や、不要公共施設の増産による都道府県の負債の増加、そして880兆円というこの国の膨大な借金。今回の問題も、その発想の基、延長上で事をやろうとしているのではないだろうか。ある雑誌に掲載された、評論家徳岡孝夫氏の意見を掻い摘んで紹介したい。「猪口邦子少子化担当前大臣は、約1兆7億円の少子化対策関係予算を概算要求した。安部内閣に代わって担当大臣も高市早苗氏に代わったから、この額がそのまま要求されるのかどうか知らないが、出産・育児後の再就職の制度化、乳幼児手当ての増額、不妊治療支援、夕方まで児童の面倒を見る放課後子どもプランの推進といった政策の大筋は引き継がれ、相当の予算が計上されるのだろう。しかし、役人がいくら予算を積み上げ、いま出されているような政策を実施しても、それで子どもが沢山生まれてくるようになるのだろうか?ならないと思う。「だいたい子どもって、一銭も使わずに作るものではないか?作るというより「出来ちゃっう」ものではないでろうか? なのに役人は、巨額の税金を投じて出産を奨励する。どこか間違っているんじゃないか?」いくら役人が金をつぎ込んでも、国民に性欲を与えるという神の行為を代行することは出来ない。担当大臣の給与額と、大臣の出張経費、日当および部下が海外視察に行った費用総額、少子化対策に従事する全公務員の給与総額、会議費や飲食費、役所の電気代、空調費、水道代等々、役人を雇うための費やされる金額がいくらになるのか。それが、1兆7千億円という要求予算の何割になるのか知りたいものだ。それが大きな割合ならば、関係役人を全部解雇し、予算をゼロにする。そうすれば税金が安くなり、生活が楽になり、夫婦の寝室に和気が吹き込んで、出生率が向上する」。★ これは暴言だろうか。少なくともいまなされようとしている少子化対策より、はるかに実効性があると思うのだが・・。さて、民間企業では問題が起こると、それなりの対策を取るが、効果や結果が出ないと方向修正したり、場合によっては非情ともいえる勇気ある撤退策をとる。場合によっては、厳しい責任追及も免れない。しかし、公僕という連中のやることは、対策をとるが、修正や見直しは殆どやらないかこの作業には実に怠慢である。この公僕とは、総理大臣から裁判官、警察、教師に至るまで税金で禄を養うもの達全てをいうのである。その結果が、市町村や県、国に至るまでの余りにも大きな負債である。しかし、落胆ばかりではない。こんなご時勢にも光はさすものである。ご存知、滋賀県の新幹線駅の栗原市新駅誘致問題で、「もったいない」を合言葉に、反対を掲げ、知事選に立候補して見事に勝利した女傑がいる。環境問題専門家の新知事、農学博士嘉田由紀子(カダユキコ)氏である。滋賀県の新知事は、決定されていた新幹線新駅計画を、徹底的に見直し、この計画が将来の県民を不幸にするものとして、民意を受け反対し立ち上がったのである。そして、多くの県民の支持を得て当選したのである。さすが近江商人の血を引く、滋賀県県民。信長、光秀、秀吉、山内一豊、有能な開国の士達が育んだ地である。滋賀県民の賢さに改めて敬意を称したい。現在も、新知事嘉田氏は賛成派との間で、計画凍結に向け日夜努力されている。少子化問題について、彼女の意見も是非聞きたいものであるが、彼女にこそこの少子化問題解決の担当を任せたいものである。
2006年11月07日
「人工中絶30万件の現実」近年日本の人工中絶件数は毎年30万件以上となっている。戦後60年となったが、この間の人工中絶数は6700万件と推測されている。この数字は、第二次世界大戦で亡くなった世界中の犠牲者の2倍という凄い数である。近年の日本の年間死亡者数は約100万人。人工中絶の30万人は、がん死者数とほぼ匹敵する。この数の多さの問題点には、更に複雑な内容も包容している。十代の中絶の増加である。十代の人工中絶はこの内3.5~4万人と約10%強を占めているのだ。主因は携帯電話やインタ-ネットの普及だ。出会いサイトなどの氾濫で、少女達が軽い気持ちで性交渉を持ち、妊娠するケ-スも出てきているようだ。学校の性教育は、避妊教育だけで、命の大切さや、社会道徳や倫理のことを教えていない。また家庭でも、母親がわが子の恋愛や男友達について、無頓着である。放任主義過ぎるのである。娘が人工中絶をして帰ってきても身体の異常にすら気づかないし、娘の体調が急におかしくなり、病院に行ったらお産であったりする。遺伝子工学で有名な筑波大学名誉教授の村上和雄先生は、「人間の体をつくっている設計図(ゲノム)について、一つひとつの細胞に30億もの科学の文字が書かれており、しかもそれが1グラムの二千億分の1のところに入っている。まさに、私たちひとりの命は人知を超えたサムシング・グレ-トからの贈り物である」と言っている。少子化問題で危機感をあおり、金銭的補助や、様々な特権を若い夫婦に与えるのも良いが、 命とは何か? 性行為とは何か? 妊娠・出産とは何か? 結婚とは何か? 家庭とは何か?こんな、ごく当たり前の事を教え、考える社会体制をまず創るべきだと思う。性行為を、単なる快楽に走り、特に受身で被害者となる女性の基本的人生感が、余りにも未熟すぎる。濃い化粧をし、足をきれいに見せるため、ミニスカ-トをはき、胸元やおへそを出す服装。そして、カラオケに入り、お酒を飲み、腰を振って踊りまわる。挙句の果て、ムラムラときた男友達に強姦され妊娠する事件となる。こんな女性に限って、自分は悪くないと男を責める。また、親もしかりである。冗談ではない。厳しいが、原因をつくっているのは、この女性なのである。この子を育てた親のほうである。適齢期になる前に、人間として最低の常識や生きること、自我の確立がなくて、到底結婚の扉を開けることなど出来る筈がない。「結婚しない」、「出来ない」と言うことは、その準備が出来ていないということなのである。適齢期になり結婚願望のない若者達は、体だけ一人前の未熟者と言うことが云えよう。医学の進歩で、簡単で安全に中絶可能な社会となった。勉強部屋が幼い愛の遊び部屋になり、車や、カラオケ、ホテル、公園、場所は有り余り溢れるほどだ。そして、その結果が人工中絶年間30万件なのである。余りにも悲しく、惜しい命である。欲望に流され、便利さに流されて過ごす青春には、決して確かな実りは生まないであろう。人生には旬がある。男も女も、ボヤッとしていたら、台風のように旬は去ってしまうものである。
2006年11月06日
天才は遺伝か?環境(努力)か?天才と呼ばれている人達の脳は、ごくありふれた私の頭脳と比べて、目立った相異があるのだろうか。あるいは、IQテストの高い人は誰でも幸福なのだろうか?仕事、経済、家族、友人などに恵まれているのか?答えは必ずしもそうとはいえないということである。では、「天才は遺伝するのか・?」を考えてみると、確かに、皮膚の色や目の色等は遺伝するし、知能も遺伝するだろう。でも、日々われわれが生きていく中で、周囲の環境も知的な面の成果を上げるのに深く関係している。つまり、天才は遺伝と環境とがつくり出すということである。ここに10歳の男の子がいて、この子は誕生時に医者から「フェニ-ルケトン尿症」と診断された。この病気は、われわれのからだが必要とするアミノ酸のひとつフェニ-ルアラニンの代謝に関係している。詳しく言えば、フェニ-ルアラニンの代謝にかかわる酵素をつくる遺伝物質がない病気なのである。したがって、代謝されないフェニ-ルアラニンは行き場がなく、脳に蓄積されてしまう。生後まもない乳児の食事(ミルク)であれ、一般的な食品であれ、栄養分として摂取したものが毒素になってしまうのだ。脳に蓄積されたフェニ-ルアラニンは、その子の知能(精神)発達に重大な打撃をおよぼすことになる。重度の精神遅滞を持つ子になってしまう。そこで、精神遅滞にさせないための方法が即座に取られなくてはいけない。具体的には生後すぐに、フェニ-ルアラニンというアミノ酸を含まない食事をさせることで、まったく健康な状態を保つことができるという。ここで言えることは、遺伝子はむろん重要な意味をもっているが、それ自体が知能を生み出すわけではなく、精神発達を阻害するわけではないということだ。科学的な知識を持ち、正しく活用すれば、精神障害者となって、特別の施設に入れられることもなく、また、精神発達になんらの影響も与えられなくすむのである。つまり、遺伝子的になんらかの問題があるにしても、未然にそれを解決する方法を知っていれば、知能に障害をきたさず済むということ。才能を発揮するチャンスが得られるのである。かつて発明王と称されたエジソンは「天才は99%の努力と1%の才能」によって造られると言った。この病気の人でも、十分エジソンのような天才になれるのである。努力と、継続こそ、天才を生む鍵にほかならないということである。★音楽の天才のひとりを挙げよといわれればえば、「モ-ツワルト」が多いという。彼の場合、父が音楽家とはいえ、食うために転職して得た職業であり、その父は極平凡な演奏家であったようである。また、先祖や、母方の血筋の中にもこれといった才能を持つ人物はいなかったし、それ以後も現れていないという。となると、受胎から誕生、その後の環境が彼を育てたという事になる。胎児の時期に、宮廷演奏家である父や友人の音楽を家で浴びるように聞いていたであろう。誕生して幼少時には、父が姉に教えるピアノを脇で見聞きする環境であったという。そして、父が彼に手ほどきを教える頃には、父をうならせる才能を発揮したのである。父は彼の才能に全てを賭ける決心をして、幼き彼とヨ-ロッパ各地に演奏旅行にでかけたのである。音楽で生きるということは、天才といえど生易しいものではなかった筈である。生きるため、認められるための音楽を模索しながら、父と後半には母との演奏の旅また旅。沢山の友人達との別れや、失恋、結婚、母の死、父の死、子ども達の死、妻の病(精神病)、貧乏のどん底を味わいながらも、彼の音楽の才能はさらに、益々研ぎ澄まされて光り輝いていった。それは、旅で見た美しい自然のように、底のない不変の輝きそのものとなっていったのだ。若干35歳で没するまで、800曲にも及ぶ作曲を残した彼を、天才と言わなくて讃える言葉がない。ただ彼がもし、数え切れない不幸に遭わなかったとしたら、ここまで人の心を打つ名曲は残せなかっただろう。彼を見る限り、天才はその多くが環境で創られるいうこと、そしてそれを越えたところに到達できる領域であろうと思えるのである。ただ、われわれ多くの凡人も、凡人だからといって、悲観や落胆をすることはない。天才達の曲を聞けて、天才達の絵画を見れて、心をときめかせることができる。これは、紛れもなくわれわれの細胞の中に、天才達と共鳴する細胞があるということに他ならないのだ。すなわち、われわれも天才の血をひいており、天才を共有し、すなわち、天才であるということにもなる。この道にも、その道にもずっと続く生の道には、必ず輝き続けるであろうときめきの道がある。「人間万歳!人生万歳!」 私達は天才達はむろん、先達や友人達にこそ感謝すべきである。
2006年11月05日
「いまここにある日本の危機について」という設問について「致知」という雑誌が、識者達にアンケ-トを取った。興味深い意見について紹介したい。設問は次の三点である。1.いま感じている日本の危機2.その理由3.解決に向けてなすべきこと「潮谷義子」(熊本県知事)氏(25人目)「少子化に対応する社会の仕組みづくりを!」1.いま感じている日本の危機 地球規模で進行している環境問題が、社会の持続性に対する最も大きな危機だと思います。ただ、日本における差し迫った現実的な危機としては、高齢社会における少子化の進展を第一番目に挙げなければならない。2.その理由 社会の様々なシステムが適当な速度で改善されながら、次世代がそのシステムを引き継いで利用していくようなことを想定して、私たちは将来に対する一定の安心感を得ています。その社会の仕組みが維持できなくなりそうな時、言い換えれば、既成の秩序や価値観が崩壊しつつあることを感じ、社会の持続性に不安を生じた時、危機感が生まれます。少子化は、社会の仕組みを引き継いで担っていくべき次世代が、適当な規模で再生産されていないということです。少子化対策基本法前文に、「我らは、紛れもなく有史以来の未曾有の事態に直面している」とある通り、高齢化社会の中で労働人口比率の縮小をもたらし、ひいては社会の仕組みが維持できなくなり既成の秩序を崩壊させるという可能性をかなり現実的なものと感じさせます。そればかりでなく、「人が群れる」という人間の基本的な社会生活の有り様をも希薄化させることとなり、人間性の健全な育ちに対する危機までも招いているのです。この状況は、急速には改善できないばかりか、加速度的に悪化する傾向にあります。少子化は差し迫った、そして既に逃れられない危機なのです。3.解決に向けてなすべきこと 少子化の進展に歯止めをかける対策は、長期にわたり取り組みが続けられてきましたが、状況は一向に改善されず、逆に悪化する一方です。ここで手をこまねいていては、危機はますます深刻化していくばかりです。全国知事会は、次世代育成支援対策特別委員会において「次世代育成支援に関する提言」をとりまとめ、イ)社会保障給付費における児童・家族関係給付の充実、ロ)企業における働き方の見直し、ハ)子育てについてのポジティブ・キャンペ-ンや国民運動の展開、の三つの具体策を国に対して提言しました。もちろん、国任せということではなく、今後とも国民の一人ひとりが少子化の問題を自らの問題として問いかけながら、叡智を結集していかなければなりません。一方で、次世代の規模はすでに明確です。「いまここにある危機」は、少子化対策によって成果が表れたとしても修復不可能ではないかと思われるほど深刻な危機であることを認識する必要があります。そして、そうであるからこそ、少子化の進展の結果として生じる社会状況に対応する制度の構築こそが急務なのです。年金問題を含めた社会保障制度、税政、行財政構造等の様々な仕組みを大転換しない限り、日本社会そのものの存続すら危ぶまれます。日本が国家としてこれまでの日本のステ-タスを維持しつつ存続するためには、今のままの社会の仕組みが持続できるという幻想を捨て、危機の正面から向き合い、その現実を受け入れる覚悟が必要ではないでしょうか。★近頃、日本の出生率が若干改善されたという噂を聞いた。しかし、それは天皇家に待望の男子継承者の宮様が誕生された、その影響が大きいらしい。「浩の宮様」ご誕生の時も、そんな傾向があったと聞く。これでは、少子化問題の根本的な改善とはいえない事になる。人ひとりの誕生とは、とんでもない奇跡であると同時に、膨大な細胞と能力、および歴史という時間的進化能力を備えた、生命体の再生でもある。人間の得意の科学文明を酷使しても、いまだ細胞ひとつすら出来ないのだ。もし、自動車のように出来たとしたら、その製造に関わる技術者の数は、数百万人は必要となるだろう。そしてその製造コストは、何兆円にもなることであろう。私達一人ひとりの命とは、それほど価値のあるもので、赤ちゃんひとりを誕生させるということも同等の価値があるわけだ。恋をし、セックスの快感を越えて誕生する生命とは、それほどの価値を有しており、逆に言えば焼けるような恋も、恍惚的なセックスもそのために準備されたものに過ぎないのだ。そして、生を受け、成人し、結婚した人間なら、種を残す義務が当然あるのである。美味しいところだけ頂いて、肝心なところは知らん振りで済むはずがない。そんな身勝手な生命体の未来には、消える宿命しかないであろう。このまま少子化が進めば、日本民族がこの地球上から消えることはなくても、他の民族に侵入されその血の中に吸収されてしまうことは、ありえる話であろう。若者達よ、一度立ち止まり、自らを見つめ直してほしい。いまここに存在する事を、そしてその価値の凄さを考えてほしい。流れ行くときの中で、必ず訪れる死。祖母や父母、先人達が歩んで往ったこの道。そしてそこにつながる自分と、続くであろう子孫達の道。その中でこそ、いまなすべき事、今でなくては出来ない事。案外人生とは、そう自由でもなければ、甘くもない。そしてその中にこそ、人生ゆえの素晴らしい味があることを感じて欲しいものである。忙しいから、面倒だから、そんな言い訳をしている間にも、恐ろしいかな時は過ぎているのだ。
2006年11月04日
「音声の識別は3歳まで!」われわれが言葉を聞いて、意味を理解し、応答するのは左右に分かれた大脳半球の左半球ある言語野が働いているからである。言語野は日本人でも外人でも左半球にある。では、この言語野は、どのように発達していくのだろうか。言語中枢が一定のタイプに固まってくるのは6歳~10歳までの間ではないかといわれている。左側の脳が病気や怪我でダメ-ジを受けた場合、言語中枢は右脳に移ってしまうのだという。つまり、左半球の言語野に替わって、右半球が代理作用をするのである。それも、せいぜい12歳~14歳位までなら代理作用があるが、その後に左半球がやられた場合は、言語障害が出てしまう。また、われわれの話す言語の「音声」を識別する能力は、3歳までに得た能力を基にしているという。とすれば、3歳までに、いろいろな音声を聞かせると、大きくなってから再びその音声と同じ音声に出会ったとき、ごく自然に受け入れられるということになる。3歳までにたくさんの音声を聞かせ、6歳から10歳くらいまでの間に、他国語を山のように浴びれれば、語学面の天才にもなれる可能性があるということだ。日本語の特徴は母音が多いことだが、このことが実はほかの国の人々の言語野の働きとは違っている点らしい。言語ばかりでなく、耳から入る音は、母音と組み合わせて聞く癖がある。たとえば、自然音の風の音は「さやさや」雨は「ざあざあ」といった具合。風鈴は「チリンチリン」、虫の音は「リンリン」。これらの音を、日本人は、まるで言葉のように聞き、左半球でとらえているのだ。他方、外国人はこうした音を、母音と組み合わせてとらえていないので、右半球で聞くのである。こうした音のとらえ方は、6歳から10歳まで、どの国の言葉を使って生きてきたかによって決まるという。だから、イギリス人夫婦の間に誕生した子供が、日本で育ち、日本語を話して6,7歳になると、その子がイギリス人であっても、子供の左半球は、自然音を母音と組み合わせて聞くので、日本人生まれ日本育ちの日本人と同じようにとらえるのである。(つづく)★生まれた国の言葉の発音(母音と子音)が、人間の脳をつくり上げる。これは驚きである。われわれ日本人も、欧米で生まれるか、生まれたら直ぐ欧米に住居を移し、欧米の語学の環境で育てば、欧米人の脳になるのである。そうなれば、虫の声を、雑音と捉え、月を見てもただの地球に近い星で、「兎の餅つき」や「かごや姫」の発想など決して湧かないのであろう。その代り、バイオリンやピアノの音が奏でる音楽には、日本人の感覚にない響きがあり、感じ方も異なるに違いない。どちらに生まれたら得か?一口には言えないが、ワビやサビの境地を味わえるのは日本人だけ。それは、日本語の発音に答えがある訳で、「神の国」ともいわれる由縁でもなかろうか。「音霊(オトダマ)」とは、発音自身に御霊があると古来から信じられてきた言葉である。日本とはつくづく不思議な国であり、今後も日本語を大切にすべきである。子孫達が将来にかけ、日本語を大切にし、正しい日本語を守れる限り、日本は世界に確たる地位を築き続けるであろうと思う。しかし、世界的に、英語が便利と考え、幼少より英語に通じ、日本語を軽視する環境が続けば、やがて日本人の優秀性も失われていくのかもしれない。そうなれば、日本人は英語は話せるが、背が小さくて、黄色い肌を持つ、中国人やベトナム人などアジア人と全く同じとなってしまうであろう。そうには決してなってほしくないものである。
2006年11月02日
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