2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全23件 (23件中 1-23件目)
1
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-15)「光にならない隠れ光子」(その3)物理学の用語で連成波というのは、2種類の場の間での連なった波動運動のことで、いまの場合は、水の電気双極子の凝集場の波動運動と、電磁場の波動運動が同期して連なっている、ある意味で秩序だった運動状態を表す。これが、水のミッキ-場である電気双極子の凝集場に、実現されるダイナミカな秩序に他ならない。もちろん、頭蓋の中の電磁場と脳細胞のミクロの世界で相互作用するのは、水の電気双極子場だけでなく、細胞膜、細胞骨格などの脳細胞を構成している生体物質すべてなのだ。このような生体物質も、第一近似では、空間に拡がった複雑な電気双極子場として考えるのが理論物理学の利点だ。実際に脳細胞を構成している脂質や、タンパク質などの生体物質の詳細な原子配置や物理的性質が分かったとしても、それが無数に複雑に組み合わさって、マクロのスケ-ルの物質となったときに最も重要となるものは、個々の構成物質の詳細によらずに与えられる、全体的で大まかな性質だけになる。そして、電磁場の波動運動のような広範囲に拡がる物理的な対象との間の影響を見ていく場合には、特に顕著になってくる。理論物理学では、ミクロの世界での物質場の量子が、凝集してマクロのスケ-ルにまでなった物質と、電磁場の相互作用を考えるとき、第一近似として凝集体を電気双極子場や磁気双極子場とみなすことがほとんどなのだが、その理由はこういうことだったわけだ。電子や原子核の凝集体としての脳組織と、頭蓋の中の電磁場の相互作用を量子電磁気学の枠組みの中で見ていくとき、全体の30%程度を占める生体物質も、第一近似で電気双極子場と考え、残り70%程度の水も電気双極子場と考えることになる。そして、その相互作用の中の「こころ」の物理像を見出そうとするのだ。もちろん、電磁場だけがあっても駄目だし、脳組織を大雑把に捉えた電気双極子場だけがあっても駄目だ。「こころ」は、場の量子論でのみ理解することのできる、両者の間の相互作用の中に存在するのだ。(つづく)
2007年01月30日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-15)「光にならない隠れ光子」(その2)さて、脳のミクロの世界は、脳細胞の中にある細胞骨格の近くや細胞質の直ぐ内側に水で満ちていた。そして、その水は、ミッキ-マウスの頭のような形をした水分子の電気双極子がダイナミカルな秩序を示していた。この水の電気双極子の凝集場は、頭蓋の中の電磁場との間に調和のとれた秩序ある運動を生み出しわけだ。それは、音楽と一体となったシンクロナイズドスイミングにたとえられた。脳の細胞組織が頭蓋骨の中に水とともに閉じ込められているため、細胞の中や細胞間隔にある水の電気双極子の凝集場は、周囲の電磁場の雑音的な波の影響を受けにくい頭蓋骨の中の穏やかな電磁場と互いに強く影響を及ぼしあいながら、脳全体にわたり様な広い範囲にダイナミカルな秩序を張り巡らせることができると考えられた。そして、これこそが脳の「いのち」。記憶や意識などの脳の高度な機能を生み出す根源としての「ココロ」ではないかと思われたのだった。場の量子論の考え方を、電磁場にあてはめた量子電磁気学の理論の中で、ミクロの世界での電磁場の波動運動がいったいどのようにして光子と呼ばれる光の粒としての性質を持つかを、見極めてきた。万学の基礎としての物理学の、そのまた基礎を与える理論物理学で捉えれば、だれもその結果に疑問を挟むことはできないだろう。頭蓋の中で、水と頭蓋骨によって、ある程度遮蔽された電磁場は、海にたとえると穏やかな瀬戸内海のイメ-ジだ。それに比べるとお尻の細胞は異なる。尻の細胞のミクロの世界で水の電気双極子の凝集場が影響を受ける電磁場は、何も遮蔽するものがないため、外部の電磁場の変動がそのまま残った激しい波動運動を持ち、まるで冬の日本海だ。水の電気双極子の凝集場が電磁場と相互作用し、より広範囲に電気双極子が揃った運動を示すダイナミカルな秩序が生まれるためには、電磁場が冬の日本海の状態ではうまくいかない。騒音や雑音の激しいプ-ルでは、音楽が雑音の中にかき消されてしまい、なかなか華麗なシンクロナイズスイミングの集団演技はすることができない。これと同じことである。ところが、瀬戸内海の穏やかな海ならダイナミカルな秩序を生み出すことができる。おだやかな頭蓋の中の電磁場と相互作用する脳細胞の水の電気双極子の凝集場は、電磁場の波動運動と同期(シンクロナイズ)することにより、広範囲にわたって電磁場との間の連成波としてのダイナミカルな秩序を生み出すことができるわけだ。(つづく)
2007年01月29日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-15)「光にならない隠れ光子」(その1)われわれは、ミクロの世界における電磁場の波動運動が場の量子論によって記述され、その結果アインシュタインの光量子論が、電磁場の量子である光子の概念によって、理論的に裏づけられることを見てきた。これは何も電磁場に限ったことではない。もしミクロの世界に無限の自由度を持った何らかの場が存在するのであれば、場の量子論の考え方を、その場の波動運動にあてはめることにより、何らかのエネルギ-の粒、すなわち粒子をその場の量子として、見出すことができるのだ。電磁場以外の場に、はじめてこのような考え方を当てはめたのは、湯川秀樹博士である。実は、原子核は陽子や中性子など核子と呼ばれる素粒子から構成されているのだが、湯川博士はこの核子の間に作用する、核力という力の場の量子論の考え方を当てはめたのだ。その結果、核力の場の量子が未知の素粒子として存在することが予言され、アメリカの物理学者によって宇宙線の中に発見された。この素粒子は中間子(メソン)と呼ばれ、このときからミクロの世界における基本的な物理理論としての場の量子論が一躍脚光を浴び、現在に至っている。場の量子論がなければ、ミクロのスケ-ルでの物理現象を理解することが出来ないのはもちろん、今では日常的になっている超伝導現象に始まり、はては大宇宙の生成に至るまで、とうていわれわれの理解力の及ぶところではない。脳のミクロの世界もまた例外ではないのだ。(つづく)
2007年01月28日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-14)エネルギ-量子としての光子(その6)そうです。光はそれが持つエネルギ-を通してみた場合、粒子のような存在なのである。振動数とプランク定数を掛け合わせたものが、光の粒一つが持つエネルギ-の大きさになっているのだが、このエネルギ-をエネルギ-量子と呼んでいる。電磁空間の中の調和振動子の固有状態のエネルギ-が振動数とプランク定数の積で与えられるエネルギ-量子の0倍、1倍、2倍、3倍、などとなっていることは、そこに光の粒が0個、1個、2個3個ある、ということに他ならない。このように、エネルギ-を通して見た光の粒を光量子と光子と呼んでいる。また、必要があれば光子は電磁場の量子だといい表すこともできる。これが電磁場の波動運動を場の量子論の枠組みで捉えたときに初めて生まれてくる光の粒子像であり、アインシュタインの光の量子論の正しさを理論的に裏づけるものとなっているのだ。光の粒子性を見るときに、もっとも基本的なものは、エネルギ-なのだが、例えば光が粒子として電子などに衝突する場合、重要な物理量として運動量がある。光の持つ運動量も、エネルギ-の場合と同じように電磁空間中の調和振動子の運動量を、それぞれの固有状態での固有運動について計算することにより、ある定まった値の0倍、1倍、2倍、3倍・・・となっていることがわかる。この一定の増分の値は、一定の波長と振動数を持った単色光を表す電磁場の進行波の波数ベクトルにプランク定数をかけたものに等しくなる。ここで、進行波の波数ベクトルとは、この進行波が進んでいく一定の方向を指し示す矢印で、長さが1センチメ-トル(あるいは1メ-トル)あたりの波の山の数に等しくしたベクトルのことだ。進行方向で計った1センチメ-トルあたりの波の山の数は、波数と呼ばれ、波長の逆数になっていることは明らかなことである。場の量子論の考え方を、電磁場についてあてはめた結果、私たちは光が単なる電磁場の波動運動ではなく、エネルギ-と運動量を通してみる限り、波動運動の振動数にプランク定数を書けた値のエネルギ-と、波数ベクトルにプランク定数をかけた値の運動量ベクトルを持って空間の中を運動している粒、すなわち光子がいくつか集まったものと考えなければならないことを突き止めたのだ。これが、光のほんとうの姿なのである。(つづく)★脳の本質を物理的に見る限り、ややこしい文言はもうしばらく続きます。ご辛抱を!さて、ある死刑囚が裁判の甲申書に別の殺人について告白した事件が報道されていた。そして共犯者や、依頼した家族を含め8人がその自白に基いて逮捕された。商売の借金から、家を手放す瀬戸際となり、家族は困り果て、店主に1億円の保険を掛け殺人を依頼したらしい。借金の額が4千万円、毎月の返済額が200~300万円という高額のものであったらしい。店主は糖尿病と肝硬変を病んでいたので、アルコ-ル濃度の強い酒を無理やり飲ませて殺害したらしい。葬式の時点で、周囲の人は家族が涙も見せず余りにも冷静だったので不思議に思ったという。逮捕された8人中、家族らは噂の時点では否定していたが、逮捕さてたらスンナリ自白したという。しかし、共犯者の一人は今だ犯行を否定しているらしい。主犯が何故告白したかとの理由が振るっている。「自分が死刑判決を受け、刑務所生活をしているのに、共犯者や依頼者はノホホンとした生活をして知らん顔である。それが許せない!」と言うのである。この事件で犯罪者の脳環境にも3段階を見ることができる。主犯は地獄に落ちても救われない脳環境を作ってきた極悪人。共犯の否定している男も同程度。共犯の自白した者達は、浮き草のような生活から悪に感染した小悪人。肉親の殺害を依頼し、葬式にはついに泣けなかった家族。脳にまだ、罪の意識が多少残っている証拠。哀れな微悪人。しかしもうひとり目に見えない悪人がいる。4000万円の借金に月300万円の高利をつける連中。元金を貸すのは、何処の誰だろうか?高利貸しやブロ-カ-だけではない。その裏には、資金もとの銀行等金融機関が付いていて、野放しにそうさせる一端の責任は、更に法を担う政治にもあるわけだ。これらは永遠に裁かれない者達である。いつの世にも存在し、悪の元凶ともいえる偽善者達といわざるを得ない。平凡でも清く生きるという事は難しいことである。特に昨今の富指向の社会においては、「温かいこころ」など軽視されてしまう。冬の縁側で浴びる太陽の光は何と温かいことか!その温もりを忘れてはいけない。古来からの教えに「良き友を作れ!」「良い奴と付き合え!」「良い書を読め、そして歴史や古典に触れよ!」など皆良い脳の環境を創るためのものである。温かい脳の環境は、温かい脳をつくり、「こころ」をつくる。その「こころ」から、やがては温かい光が発生し人々を温かく包んでくれる。そればかりでない。光を受けた人達も、それまでに培った脳に共鳴し、更に強く温かい光を放つのである。先日紹介した新宿近辺の掃除をする若者達。その行動が、必ず同じ「こころ」を持つ者達に共鳴していくである。これは不思議であるが、古来から真実であり、人間の持つ素晴らしさのひとつでもある。拡がって欲しい温かい善の波動。冬の日の太陽のぬくもりのように、世界の果てまで温かい人の心の波動で、包み込んで欲しいものである。
2007年01月27日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-14)エネルギ-量子としての光子(その5)電子の場合には、空間の各点にある小さな時計の針の変動が、電子の波に他ならなかったのだが、この波は、重ね合わせによって、干渉現象を引き起こすなど、一般の波としての性質を持っているということはいうまでもない。だから、電磁空間の一直線上の小さな時計の針の変動は、調和振動子の波と考えられるのだが、波としては本当はどんな形の波でも実現できるわけではない。弦楽器の1本の弦の振動の波と同じように、いくつか決まった波のパタ-ン(音色)しか実現されないわけだ。一直線上の調和振動子の小さな時計の針の波として実現される決まった波は、調和振動子の固有状態と呼ばれ、1,2,3と数えていって、無限個あることが分かっている。調和振動子がその中のある固有状態にあるときは、小さな時計の針で形づくる波がある決まったパタ-ンになって、電磁空間の中の一直線上に実現され、その小さな時計の針の長さの平方が与えてくれる確率に従って、調和振動子がその直線上の点に見出されるように運動していると考える。このような調和振動子の運動を物理学では固有運動と呼ぶ。それぞれの固有状態にある調和振動子が示す固有運動については、調和振動子の運動エネルギ-と位置エネルギ-の和、つまりエネルギ-を計算してみる。すると、いちばんエネルギ-の低い値をゼロと考えて、ある一定の値の1倍、2倍、3倍・・・・・というように、等間隔で増えていくことがわかる。この一定の値というのは、単色光に対応する電磁場の整った進行波の振動数にプランク定数と呼ばれる物理定数かけたものに等しいのだ。ここで大切なことは、調和振動子のエネルギ-が等間隔にとびとびの値をとるということだ。われわれが電磁空間の中の調和振動子としての場の量子論の言葉で表そうとしてきたものは、実は一定の波長と振動数を持った単色光に対応した、電磁場の波動運動であったことを忘れないでもらいたい。そこで調和振動子と考えられたのは、一つの代表的な電磁空間の中で常に一定方向を指したベクトルポテンシャルの矢の先端そのものだった。だから、この調和振動子のエネルギ-とは、場の量子論において、一定の波長と振動数を持った単色光を表す電磁場の持つエネルギ-に他ならない。言い換えれば、場の量子論を用いなければならないミクロの世界においては、一定の波長と振動数を持った単色光を表す電磁場の波動運動は、そのエネルギ-が振動数とプランク定数を掛け合わせた値を増分として、小さいものから順に等間隔にならんだ値となるものしか存在しないわけだ。さて、この事実はいったい光の本性について何を教えようとしているのだろう?(つづく)
2007年01月26日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-14)エネルギ-量子としての光子(その4)いよいよ光の量子論だ。理想的な単色光だけを考えたとき、古典物理学において電磁場の運動の自由は、1つの三次元の電磁空間の中で、常に一定の方向を指したまま単にその長さだけが変動するベクトルポテンシャルの矢により表された。つまり、本質的には電磁空間内の一直線上を変動するベクトルポテンシャルの先端の点の運動だけを見ればよいわけだ。いま、ベクトポテンシャルの先端の点だけに着目して、それを、一直線上を運動する仮想的な粒子と考えよう。その粒子の質量は単位質量、つまり1に等しいとしておく。すると、ベクトルポテンシャルに対する波動方程式は、この仮想的な粒子についてのニュ-トンの運動方程式とも考えられる。そこでは、この仮想的な粒子は単位質量を持ち、一直線上を原点からの距離に比例した大きさで、絶えず原点に引っ張られながら運動していると見ることができる。このような仮想的粒子を物理学では一次元の調和振動子と呼んでいる。調和振動子は、原点からの距離に比例した引力の作用を受けているが、その比例係数は光速度の平方を波長の平方で割った値になる。これは丁度、バネの伸び縮みの力と同じ形をしているので、調和振動子を考えるときに、たとえば単位質量の粒子が、バネで原点に結ばれたものを想像すればよい。結局のところ、光の量子論を最も手軽に見ていくと、それは一つの電磁空間の中の調和振動子の量子論になる。ここまでくれば、あとは電子の場合と大差はない。まず調和振動子が運動する一直線上の全ての点に小さな時計が与えられていると考える。電子のときには、電子が運動する空間のすべての点に小さな時計があった。それぞれの小さな時計の針が変動する様子が、電子の波であった。そして、小さな時計の針の長さの平方が、その点に電子を見出す確率を与えてくれるのだった。調和振動子の場合も、調和振動子が運動する一直線上の任意の点にある小さな時計の針の長さの平方が、その点に調和振動子を見出す確率を与えてくれる。また、この一直線上の小さな時計の針が並んでいる様が、調和振動子の波動なのである。一定の波長や振動数を持った、整った電磁場の波動運動だけを考えているおかげで、空間のすべての点にある電磁空間の中におけるベクトルポテンシャルの古典物理学的な波動運動を、一つの代表的な電磁空間の中での、調和振動子の運動とみることができた。このままでは、古典物理学の範囲なのだが、この調和振動子の運動を、調和振動子が運動する直線上の各点に、小さな時計を想定し、小さな時計の針の変動が、直線上に描く波動を捉え、その針の長さの平方が、調和振動子をその直線上の各点に見出す確率だとすることにより、電子のときと同じように、ミクロのスケ-ルでの電磁場の波動運動の量子論、つまり、電磁場の量子論である量子電磁気学が生まれるのだ。ミクロの世界では、電磁空間の中の調和振動子の運動としての電磁場の波動運動も、電磁空間の中の小さな時計の針を通してしか記述できなくなる。これが、場の量子論の考え方で捉えた電磁場の波、つまり光の正体なのである。しかし、これだけではまだ光が粒子の性質を持っていることの説明にはなっていない。これを見ていくには、代表的な一つの電磁空間の中の一直線上にある、小さな時計の針の変動の様子を調べておく必要がある。(つづく)
2007年01月25日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-13)量子電磁気学(その3)電子の運動の場合、3次元の空間の中の上下、左右、前後の方向の運動の自由だけだったため、空間の各点に小さな時計を仮想すればよかった。しかし、電磁場の運動の場合には、空間の各点に幽霊のように張り付いた各電磁空間内における点の運動を考えるので、すべて3次元の電磁空間の中の「上下」、「左右」、「前後」の方向の運動の自由を考えていかなければならない。それぞれの電磁空間は3次元といっても、われわれの空間とは違うものだから、その中での方向性を「上下」、「左右」、「前後」などと表すことは、深い意味のあることではない。一応現実にわれわれがいる空間との対比で壮呼んでおくわけだ。そうすると、電子の運動の場合に、空間の各点に仮想的に配置した小さな時計によって、量子論的な記述が可能であったように、電磁場については、それぞれの電磁空間内の全ての点に、小さな時計の針の長さの平方は、その電磁空間内での、ベクトルポテンシャルの先端がそこに存在する確率を表すことになる。このように考えていけば、電磁場の運動を、場の量子論の言葉で言い表すこともさほど難しいことではない。電子について見てきた通りである。ただ、空間のすべての点に、それぞれ電磁空間が張り付いているので、電磁場の場合は、空間の中の点の数、すなわち連続無限個ものベクトルポテンシャルの運動を、それぞれの電磁空間の中の連続無制限個の小さな時計を駆使して、同時に見ていく必要がある。このように、電磁場の運動の自由は、電子などに比べて極端に大きなものとなり、それを場の量子論の中で取り扱おうとすると、無限大によく出くわしてしまう。しかし、その多くは物理的には意味のない無限大として、消し去ることができるようだ。さて、古典物理学の適用範囲である、マクロのスケ-ルにおいては、すべての電磁空間内でのベクトルポテンシャルの運動は、古典電磁気学の教えるところである。そこでは、任意の場所に張り付いた電磁空間内のベクトルポテンシャルの運動は、それに隣接する電磁空間内のベクトルポテンシャルの運動と強く関連しているため、すべての点でのベクトルポテンシャルを眺めると、連続的に波を形づくるように変化していくのだ。これが電磁場の波動、つまり電磁波に他ならない。隣接する電磁空間の中のベクトルポテンシャルどうしのつながりは、古典電磁気学の基礎方程式であるマックスウェエルの波動方程式によって与えられている。このマックスウェルの波動方程式は、個々の電磁空間内のベクトルポテンシャルの運動を定める運動方程式に他ならない。ただし、そこには、お隣の電磁空間の中のベクトルポテンシャルも顔を出すので、このままでは複雑になって、電子の場合と同じように扱うわけにはいかない。いや、待って下さいよ!われわれは、電磁場を場の量子論の枠組みの中で捉えることにより、アインシュタインの光量子論がどのように理解されるのか見ようとしているのだった。つまり、光の本性を探ろうというわけだ。そのため、光としては理想的な単色光だけを考えればよいのだが、これはマックスウェルの電磁気学においては、一定の波長と振動数で、一定の方向へ進んでいる電磁場の整った波に他ならない。そこで、電磁場の運動としては、ある一定の波長と振動数を持った整った波動運動だけを考え、それを場の量子論の立場から見ていくことにする。物理学の用語では、このように整った進行波に限定しておくと、マックスウェルの波動方程式の中に、おとなりの電磁空間内のベクトルポテンシャルが顔を出すことはなくなる。これを個々の電磁空間内の、ベクトルポテンシャルの運動方程式と考えればよいわけだ。また、一定の波長や振動数を持った、整った電磁場の波動運動だけを考えているおかげで、見かけ上、全ての電磁空間の中のベクトルポテンシャルが同一の運動を示すことになる。つまり、電磁場の自由度としては、ほんとうは空間の各点に張り付いた、連続無限個の電磁空間の中のベクトルポテンシャルすべての運動の自由を、考えなければならないが、進行波の場合、それらを代表するたった1つの電磁空間だけを考えればよいわけだ。しかもその中で、常に一定の方向を向いていて、長さだけが変動するという、極めて単純なベクトルポテンシャルの運動の自由だけ、着目すればよいのだ。(つづく)
2007年01月23日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-13)量子電磁気学(その2)量子場脳理論に登場する場の自由度には2つある。1つは細胞骨格や細胞外マトリックスもマイクルフィラメントの近くの水の電気双極子場と、もうひとつは頭蓋内の電磁場だった。ミクロの世界でのこれら2つの場の波動運動は、どちらも場の量子論によって捉えなければならないし、しかも互いに強く関連しあっているので、同時に見ていく必要がある。しかし、その本質は物理場と電磁場を、場の量子論の中で記述する、量子電磁気学の場合と全くおなじである。量子電磁気学の中で、もっとも重要な役割を果たすのは、場の量子論の考え方によって捉えられた電磁場だ。電磁場は、空間のすべての点にベクトルポテンシャルの矢が与えられた、空間を埋め尽くす針ネズミの集団のようなイメ-ジで捕えることができた。そして、電磁場の波動として考えられていた光の本性が、実は粒子の性質を持った光量子に他ならないとしたのが、アインシュタインの光量子論だった。光が実際につぶつぶの粒子として見出されることは分かったが、電磁場の波動運動がいったいなぜ粒子のような性質を持つかについては、触れてこなかった。それもそのはずで、電磁場の姿は、まだほんとうの姿ではなかったのだ。19世紀末までの物理学、つまり古典物理学において電磁場の波動現象と考えられていた光は、アインシュタインによって、粒子的な存在と考えられ、光量子と呼ばれた。そして、アインシュタインの光量子論を契機として、ド・ブロイによる物質場の理論が生まれ、エルウィン・シュレ-ディガ-が波動関数による物質場の記述を発見した。では、このようにして完成された現代物理学において、光とはいったいどのようなものとかんがえられているのだろうか?電子場の場合には、空間の各点に仮想的に小さな時計が分布したものと考えた。そして、その時計の針の連なりが空間の中に描く波動、これが電子波であり、もはや各点での、時計の針の長さの平方が教えてくれる電子の存在確率をとうしてしか、電子の運動を捉えることはできなかった。次に、電磁場の番である。実は電子の運動については、物理的なこの三次元空間の中での上下、左右、そして前後方向への運動の自由だけを考えていれば良かったのだが、電磁場の運動の自由は少し複雑だ。なぜなら、電磁場の運動は物理的な3次元空間の中の全ての場所に与えられた、目に見えないベクトルポテンシャルの矢が示す運動だからだ。電磁場の運動を場の量子論の枠組みで理解するためには、ちょとした工夫が必要だ。まず宇宙の拡がりが作る3次元の物理的な空間だが、これを単に空間と呼んでおき、この空間の各点にそれぞれ仮想的な3次元空間が幽霊のように重なっていると考える。この幽霊のような仮想的空間を電磁空間と呼んでおく。この名前は便宜上のもので深い意味はない。空間の各点に仮想的な電磁空間が張り付いたものを考えるのは、電磁場のときと同じように、電磁場の運動を場の量子論によって記述することができるようにするためだ。さて、電磁場の運動は、空間の各点に与えられたベクトルポテンシャルの矢の運動に他ならない。この矢の運動を記述するために、空間の各点でのベクトルポテンシャルの矢を、それぞれの電磁空間の中に描き直し、矢の先端に位置する点を想像する。すると、ベクトルポテンシャルの矢の向きや、長さが変動する様子は、全ての電磁空間での、この点運動と見ることが出来る。これが、電磁場の運動だ。それは、空間の各点に幽霊のように張り付いた電磁空間の中の点の運動であり、したがって現実の空間の中の運動ではないことに注意してほしい。(つづく)
2007年01月22日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-13)量子電磁気学(その1)電子などの電気を持った量子と、光子がおりなす不思議な現象を捉えることができる、電磁場と物資場についての場の量子論は、量子電磁気とか量子電磁力学(QuantumElectrodynamics)とよばれる。物理学ではこれを単にQEDと省略することが多い。同様に、原子核の奥深い所での強い相互作用を含む高エネルギ-の素粒子現象を、記述するための場の量子論は、量子色力学(Quantum Chromodynamics)でありQCDと略される。そこでは電子に対応するクウォ-クと呼ばれる量子が、光子に対応する量子であるグル-オンと絡み合って、非常に複雑な高エネルギ-物理現象を生み出していると考えられている。それよりさらに微細な空間領域に入っていくと、空間や時間の幾何学までも場の量子論の対象となってしまうのだが、これは量子幾何学(Quantum Geometrodynamics)でQGDと呼ばれたり、量子超重量理論と呼ばれたりしている。このほかにも、やはり梅沢・高橋両博士により提唱された、マクロのスケ-ルでの物質の熱現象を捉えるための場の量子論もあり、それは量子熱力学(Thermo Field Dynamics)の意味でTFDと略されている。このように、場の量子論というのは非常に一般的でかつ普遍的な物理学の理論体系であり、ミクロの世界における多種多様な物理現象を統一的に捉えることのできる基本的な物理法則を与えてくれるものである。人間の記憶や意識などのカラクリを生む脳のミクロの量子世界の素過程も例外ではない。では、まず脳細胞としてのニュ-ロンやグリア細胞の集団の中に拡がったミクロで網目状の立体構造である、細胞骨格と細胞外マトリックスのマイクロフェラメント近くの水のミッキ-場、つまり、電気双極子場の量子としてのコ-ティコンと、頭蓋内の電磁場の量子としてのスチュア-トン、すなわち光子との間で生じる物理現象を見ていくことにしよう。そうすることによって、記憶や意識のカラクリを場の量子論の中で捉えようとした雄大な理論である量子場脳理論(Quantum Brain dynamics:QBDと略すこともある)が解き明かしてくれる「こころ」の実像を、できるだけ直感的に分かりやすく紹介できるかもしれない。(つづく)
2007年01月21日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-12)知の水源梅沢、高橋博士の考えによれば、脳の細胞組織の内外にはコ-ティコン場とスチュア-トン場という2つの量子場があり、そこでのミクロな波動現象により、高度な脳の作用としての記憶や意識が生まれるという仮説だ。ならば、人間の脳について見てみよう。脳は非常に多数の細胞によって構成されている巨視的な物質である。脳の脂肪は、やはり細胞膜、そして細胞骨格を形づくるタンパク質のマイクロフィラメントやマイクロチュ-ブルなど、基本的には普通の細胞と同じ構造をしている。もちろん、細胞の内側や外側、いたるところに水があることも同じだ。お尻の細胞の中にもあった「いのち」、細胞の中のミクロの世界に水のミッキ-場が張り巡らしてくれるダイナミカルな秩序。そして、細胞の中では電気双極子を持った小さなミッキ-の頭たちが、調和の取れた美しい光の「音楽」にあわせて、華麗なシンクロナイドズスイミングを披露してくれている。それが、細胞が生きているという意味だった。もちろん、沢山の細胞が集まって1つの組織をつくり、その組織が数多く集まって1つの生物を作り上げるのだが、その場合は細胞と細胞の間の部分にも、ちゃんとタンパク質のマイクロフィラメントの藻のようなものがあり、細胞と細胞の隙間である細胞間隔にある水のミッキ-場が、ダイナミカルな秩序を張り巡らすことができるようにしてくれていた。このような細胞の外に張り巡らされたタンパク質のマイクロフィラメントの網は、生物学の用語では「細胞外マトリックス」と呼ばれている。そして、この部分のマイクロフィラメントを作っているタンパク質は、細胞骨格のものとはちがい、コラ-ゲンとよばれるものが多いようだ。細胞と細胞の隙間を水と一緒に埋めてくれ、水のミッキ-場が張り巡らしてくれる「いのち」を1つの細胞から隣の細胞にまでも広げていくために、タンパク質マイクロフィラメントの細胞外マトリックスは役立っている。もちろん、脳細胞と脳細胞の間もこれと同じような状況になっている。お尻の細胞も同じであることから、脳細胞の内外のミクロの世界で繰り広げられている水のミッキ-場のダイナミカルな秩序、電磁場の量子である光の調和のとれた音楽と一体になったミッキ-の頭(電気双極子)のシンクロナイズドスイミングの存在は、「いのち」ある細胞組織に共通の普遍的な物理現象のようだ。ということは、このままでは脳細胞の中のミクロの世界だけにしか見られない特異な現象と見ることはできない。言い換えれば、細胞のミクロの世界での水のミッキ-場のダイナミカルな秩序は「いのち」の実体にはなりえても「こころ」の実体とはなりえないということである。一番の違いは、脳の細胞組織は、頭蓋骨の空洞の中に水とともに閉じ込められていることである。これなら、細胞の中や細胞間隔にある水のミッキ-場は、周囲からのよけいな電磁場の「雑音」を気にすることなく、頭蓋骨の中に響き渡る調和に満ちた光の「音楽」にあわせて、最大限に華麗なシンクロナイズドスイミングを演出してくれるはずだ。周囲の電磁場の「雑音」に邪魔されることなく、頭蓋骨の中で脳細胞の内外の水のミッキ-場と電磁場は、互いに影響を及ぼしあいながら、脳の全体にわたってミッキ-場と電磁場の大きなダイナミカルな秩序を張り巡らすのだ。それぞれの脳細胞の「いのち」が、頭蓋骨のおかげで、脳組織の全体にまで拡がった1つの「いのち」になるわけだ。これこそが、脳の「いのち」、つまり、記憶や意識などの脳の高度な機能を生み出す根源なのではないだろうか。脳細胞の内外にある「いのち」の水。これこそが、文字通り、われわれ人間の「知の水源」なのかもしれない。量子場脳理論に登場するコ-ティコン場は、脳細胞の内外に拡がった水のミッキ-場。そして、コ-ティコン場と互いに影響しあって生じる量子の世界でのミクロな波動現象によって、記憶や意識を生み出すスチュア-トン場は電磁場。そう考えれば、全てがうまく説明できる。これこそが理論物理学の醍醐味である。物理学のいちばん基本的な法則や理論から出発して、あとは頭の中で右往左往するだけでよい。こうやって見つけ出された結論は、たとえこの大自然の中の自然現象として知られていなくとも、絶対に正しいのである。そして、何年、何十年経ってから、大自然の中にちゃんと見つかるものだ。あとは「こころ」の実像に迫っていくのみである。(つづく)★余談であるが、今朝のNHKで新宿駅東出口広場を毎朝清掃している上智大S学生を紹介していた。この場所は、有名な歓楽街新宿歌舞伎町につながる、東京でも屈指の雑踏路である。背中に段ボ-ルを背負い、手書きの看板として、黙々と早朝のゴミだらけの広場を清掃しているのである。看板は「私と一緒にゴミを拾いませんか?」というような手書きの内容であった。雨の日以外早朝5時起きて継続しているらしい。2週間くらい経つと、高校生や大学生の協力者も出てきたり、暖かい飲み物を差し入れたりする人も出てきた。画面中では学校生活等も取材し、番組後半のスタジオでアナウサ-は、S君が自分探しもしているのではないかと、上手いコメントを出していた。この手の行動を取ると、周囲の人間はたいがい「偽善行為」と批判するか、軽視する。中にはわざわざご丁寧に、目の前にゴミを捨てたり、集めてあった缶を蹴って去って行く者すらある。そんな連中は、僻みと劣等感などが凝り固まった心の持ち主達であろう。屁理屈は兎も角、純粋で何と清々しい心から生じた行動ではないか!こちらまでうれしく久ぶりに清々しい心になる。そんな気持ちで駅に着く。自動切符売り場で老人がウロウロしている。「どうしたんですか?」「東京までの往復切符を買いたいのだが・・・?」「お父さんこれはね、ここをこうして押してね・・・」もうすぐ電車がホ-ムに入ってくる。急がないと乗り遅れる。「1本ぐらい遅れてもいいか・・」いつもの自分と少し違う。今日は私もいつもより親切だ。S君とその仲間達のおかげである。殺人や暗いニュ-スが多い昨今の報道。マスコミの行き過ぎた報道姿勢にも問題がある。ニュ-ス性を追いすぎて、犯罪を誇張しすぎていないだろうか?そのエコ-現象が、次の犯罪を生み、周囲の心をも不信と憎悪の場に導いて行く。個人的には、犯罪などの報道はもっと簡素にすべきである。今のマスコミは、報道と言う名のもと、余りにも身勝手に行動しすぎていないだろうか!悪い場を造れば、そこには悪の光子が生まれ、気や心を造り、亡霊のように成長して険悪非情な行動となる。その逆こそ、人類が求め続けている「平和の現世」に他ならない。S君とその仲間達、ありがとう!
2007年01月20日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-11)「心とは何か?」ではいよいよもうひとつの難題、「心とは何か?」について見ていこう。梅沢博士と高橋博士が最初に目をつけたのは、最も高度な生命現象である脳の記憶機構だった。1960年代、意識を育む記憶を、場の量子論における秩序形成過程として捉える理論を提唱した。その後、1970~1980年代にかけて、熟成されたこの理論は、1990年代に入って世界的に脚光を浴びるようになった。「量子場脳理論」である。じつはこの理論は、基本仮説については極めて単純なものだ。現在の医学や生物学では、ニュ-ロンと呼ばれる神経細胞が、たくさん集まって複雑な神経回路を作っているものが脳と呼ばれる組織であり、記憶や意識などの脳の高次の機能はニュ-ロンの神経回路の中を行き交う電気的な信号や、化学的な信号によって生み出されていると考えられている。このような考えは、20世紀のはじめに確立した、古いものだ。不思議なことの、その後も医学や生物学ではほとんど疑われることがなかった。梅沢博士と高橋博士は、それまでだれもが信じて疑わなかったこの古い考えに真っ向からたちむかったのだった。そして、ニューロンの神経回路の作用は本質的なものではなく、むしろ記憶や意識などの脳の高度な機能の本質は、量子の世界にあると考えた。古典的な物理学の上に築かれた古い考えではだめで、場の量子論の考え方によってはじめて理解できるのが脳の本質である。もちろん、ニュ-ロンの神経回路も脳の中にあるわけだから、結局のところ脳はミクロのスケ-ルでの量子論的物理系と、マクロのスケ-ルでの古典的物理系であるニュ-ロンの神経回路の2つが、有機的に結びついた物理系だと考えておかなければならない。そうしておかない限り、意識や心のほんとうの姿を理解することなど、とうていできはしない。さて、梅沢、高橋博士の量子場脳理論では、脳の中に量子場がいくつか存在しなくてはならない。2人はそれをコ-ティコン場とステュア-トン場であると考えた。そして、コ-ティコン場の波動を、場の量子論の枠組みの中で捉えたものがコ-ティコン場の量子であり、コ-ティコンと呼ばれた。また、スチュア-トン場の波動がスチュア-ト場の量子、スチュア-トンなのだ。スチュア-トンの名前は、2人の良き共同研究者であった、アイルランド出身の物理学者アイエイン・スチュア-トの名前にちなんだものだ。具体的にこの仮説を見てみよう。まず、第一に、脳の機能的な構成要素は細胞膜で閉じられたニュ-ロンと呼ばれる神経細胞だけの物理的な体系ではないと考える。つまり、量子場脳理論での脳の構成要素のイメ-ジとしては、脳の基本単位のイメ-ジとしてよく知られた、1つの神経細胞としてのニュ-ロンではなく、量子場が細胞内外に拡がったものであると考える。このように細胞の内外に拡がった量子場の1つが、コ-ティコン場と呼ばれ、そして、コ-ティコン場の量子論的な波動現象により、脳の記憶のからくりを説明するわけだ。われわれが生きているこの大自然の中では、たとえば電子なら電子だけが宇宙に存在してもそこには何もおもしろい物理現象は生まれない。電子と電子を結びつけ、大自然の中に神秘や秩序を生むためには、それらをつなぐための場が必要だ。電子場の量子化された波動である電子たちを結びつけるのは、電子場の影響を及ぼすことの出来る電磁場。そして、これと全く同じことが量子場脳理論においてもいえるのだ。つまり、コ-ティコンだけが脳の中に存在しても、そこには秩序ある量子の運動を見出すことはできない。脳の中に神秘や秩序が実現するためには、コ-ティコンとコ-ティコンを結びつける量子場が存在しなければならない。そのような量子場として考えられたのが、スチュア-トン場なのだ。量子場脳理論の仮説では、このように神経細胞の1つであるニュ-ロンだけでなく、すべての脳細胞の内外に拡がった2つの量子場、コ-ティコン場とスチュア-トン場の量子の間に、繰り広げられる物理現象により、人間の「こころ」が生み出され、その中には記憶や意識に対応するものもあるというのだ。大宇宙の中を電子(エレクトロン)や光子(ファトン)などが飛び回るように、われわれの小宇宙脳の中をコ-ティコンやスチュア-トンが飛び交うことにより記憶や意識のカラクリを与える物理現象が現れてくるわけだ。ではそれはどんな物理現象だろうか?たとえば、大宇宙の中で電子が引き起こす現象といえば、オ-ロラ、超伝導、電子・陽電子の消滅など、どれを取ってみても光子が重要な役割を果たしている。実は、光子と電子は互いに密接に関連していて、特に電子場の量子である電子は、電磁場の中に波動、つまり光子を発生させたり消滅させたりすることによって、互いに作用しあうという性質を持っている。これは、電子場の波動と、電磁場の波動の間の相互作用を、場の量子論の枠組みの中で捉えた、量子電磁気学により見出された事実なのだ。これと同じことが、脳の中のコ-ティコン場の波動と、スチュア-トン場の波動の間にもいえることならば、脳のミクロの世界でコ-ティコンやスチュア-トンが、互いに複雑にからみ合うことによって、記憶や意識のカラクリが生み出されてくる可能性が示されることになる。(つづく)★貴方は、「脳のカラクリやこころについて」何だかおぼろげながらイメ-ジすることができるようになりましたか?脳の中に2つの場が存在し、互いに干渉しあうことにより新しい光子が発生する。まるで、北極に現れるオ-ロラのように・・・。まずは、単純にそうイメ-ジして見て下さい。
2007年01月19日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-10)「いのち」と「こころ」お尻の細胞の中にも水のダイナミカルな秩序があり、だから生きているのである。脳細胞や、その他の身体組織の細胞は言うに及ばず、いろいろな動植物を形づくる細胞や単細胞生物の細胞に至るまで、これが生きているということの最も根元的な現われに他ならない。このことが、生命そのもの、「いのち」の姿なのか?これだけは確かである。エルグィン、梅沢博士、高橋博士、この3人の理論物理学者が、量子と場の理論を駆使して見つけ出してくれた、最も基本的で根元的な生命の姿である。大自然の神秘や秩序を解明する最も基本的な物理法則、場の量子論だから導くことのできる答えである。「生命とは何か?」という難題に対して、いまのところ、この答えしか見つかっていない。そして、これが現在の科学、サイエンスの限界である。これ以上の答えが見つかるのは、おそらく、量子と場を基本として大自然の中のあらゆる物理現象を記述するいまの物理学に、再び大革命が起こり、われわれの自然観がガラリと変わる時ではないだろうか?(つづく)★暗視野顕微鏡で見えるナノの世界。細胞よりはるかに微小の世界である。そこにはギルダ-エンダ-レイン博士の研究したプロテイッド(ガストン・ネサン博士はソマチット)が未知なる生命体?として確かに存在している。いや、ナノより微小なピコロの世界でもその生命体?は存在している可能性があると私は推測している。さらに、分子や原子の世界に至る世界では、人間の想像をはるかに超える現象が行われている可能性も否定できない。人間の分析映像技術が更に高度に進化して、その世界を肉眼で捉えることが出来る未来も来るかもしれない。限りない人間の可能性に期待したい点のひとつでもある。
2007年01月18日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-9)ミッキ-のシンクロナイドスイミングここまでをもう一度、おさらいしてみよう。ミクロのスケ-ルにも、電磁場があり、それは空間にはいたるところに、針ネズミの針のようなベクトルポテンシャルの矢の付いたもので満ちたものであった。針ネズミたちが姿勢を変えるたびに針が動き、その動きが波となり、これが電磁波の波、つまり電磁波だ。そして、光は、量子電磁場の波がその存在確率を与えてくれる光子の集団であった。小さなミッキ-たちのまわりには、量子電磁場があり、量子電磁場の波がたえず大自然の調和を奏でている。そしてミッキーの頭は、小さな電気双極子になっている。頭のてっぺんのあたりがマイナスの電気があり、首の辺りにはプラスの電気があった。そして電気双極子は量子電磁場の波で簡単にゆさぶられる。でたらめな波なら振り回され、キレイな波なら整然としたうごきとなる。量子の世界の、水のミッキーの頭たちは、量子電磁場の調和の取れた美しい波動、華麗な光の「音楽」にあわせて、素晴らしいシンクロナイズドスイミングの集団演技を披露してくれる。もちろん、それだけでなく、ミッキ-の頭の電気双極子が動けば、量子電磁場が波立つのだ。電磁場の調和の取れた美しい波動、その秩序ある動きによって、逆に量子電磁場の中にも秩序ある波が生まれ、霊妙な光を放つことになる。このようにして生まれた電磁場の波は、もともとの電磁場の波動と重ね合わされ、より調和のとれた美しい波となる。このように、細胞中のミクロのスケ-ルの量子の世界で、量子電磁場と水のミッキ-場とが、場の量子論の法則に従って互いに繰り返し影響を及ぼしあい、しだいに調和し協力していくことにより生まれる、秩序ある波動。これこそが、ミッキ-場が細胞の中に張り巡らしてくれる、ダイナミカルナ秩序である。物理学の用語では、電磁場と水の双極子の凝集場が作る連成波の場の量子ということで「ポラリトン」と呼ばれている。量子電磁場と水の電気双極子の凝集場との間に、場の量子論によって、ダイナミカルな秩序運動が生じることは、イタリアの物理学者エミリオ・デル・ジュ-ディチェやスイスの物理学者チャ-ルズ・エンツによる、場の量子論の精密な計算で再認識された。今後はこのような物理的観点に立った精密自然科学としての生物学の発展が期待される。エルツは、従来の近似的にのみ計算していたことを不満に思い、量子電磁場と凝集体の電気双極子場の間の相互関係を、場の量子論の枠組みによる精密な計算をすることにより、理論的な実証を得たのであった。(つづく)
2007年01月16日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-7)「場の量子論」「場の量子論」は、「量子場の理論」ともいい、この大自然の中に繰り広げられるいろいろな自然現象を理解するうえで、もっとも基本的な考え方を与えてくれる物理理論だある。特に、ミクロのスケ-ル、量子の世界での物質の成り立ちを体系立てて調べていく素粒子論の研究には欠かせない三種の神器の1つである。あと2つは、「対称性」と「頭のヒラメキ」である。「対称性」というのは、大自然の神秘や秩序が、単純で美しい法則によって実現しているはずだと考える「勘所」のことだ。たとえば、電子場の量子で、マイナスの電気を持ったものが電子だったが、大自然の中にはマイナスの電気を持った量子だけがあると考えたのでは、あまり美しくない。むしろ、プラスの電気を持った電子場の量子だってあるほうが、大自然の秩序としては単純で美しいものとなる。そういった勘所から「プラスの電気を持った電子」があるはずだと考え、色々実験をしていった末に見つかったのが陽電子、ポジトロンだ。この陽電子は、いまではガンの治療や、脳の活性化を見ることが出来る特殊な断層写真の撮影に用いられている。このように「対称性」をもとにして新しい素粒子が見つかることがよくある。やはり、大自然の奥底にある神秘や秩序は、単純で美しい法則によって支配されているのだろうか?「頭のヒラメキ」は独創性と大きく関わっている。同じ現象を見ても、他の多くの人たちとは全く違ったことを考えるのが独創性。この頭のヒラメキこそが、場の量子論や対称性を道具として、独創的な素粒子論を生み出しているのだ。もちろん、素粒子論の研究だけでなく、どんな研究にも、頭のヒラメキは必要不可欠。一体心とは何か?どのようにして生まれるのか?それを解き明かしていくのにもっとも大切なのは独創的な頭のヒラメキなのかもしれない。さて、ミクロのスケ-ル、小さな量子の世界での大自然の神秘の秩序は、すべて量子場についての法則性により表されるに違いないと考えるのが、量子場の理論のエッセンスだった。この「量子場」自身の性質を見ることによって、ミクロの量子の世界での物質の振る舞いを調べるのが場の量子論なのだ。ここでもう一度脳の中を見てみよう。細胞質のまわりには、小さなミッキ-の頭、水の分子が電気双極子をそろえるようにして、ダイナミカルナ秩序を張り巡らせている。これは、細胞膜やタンパク質が、電気双極子になっているためだ。水の分子、小さなミッキ-の頭も電気双極子になっていた。そして、空間の隅々までミッキ-の頭の双極子が満ちている状況を「場」の言葉でいえば、ミッキ-場。ミクロのスケ-ル、量子の世界ではミッキ-場こそが水のほんとうの姿だったのだ。物理学的な言い方をすれば、電気双極子の凝集場。そして標語的表現では「凝集体の第一近似は電気双極子場である」となる。水のミッキ-場の性質を量子論的に調べると、細胞膜の外側では、細胞間隔にある水のミッキ-場がダイナミカルな秩序を形成し、膨大な数の脳細胞の間を縫うようにして大脳全体までひとつながりになり、広範囲での脳細胞の活動に大きく関わっているようである。そして、細胞の中はまるで海のようで、タンパク質でできた藻の様なものが立体的に張り巡らされ、細胞骨格と呼ばれるネットワ-クの網目模様を形づくっている。藻のようなものには、細い鎖のような形をしたマイクロフィラメントや、ストロ-の形をしたマイクロチューブルがある。どちらも、ピ-ナッツや鈴の形をした比較的小さなタンパク質分子が、規則正しく秩序だって集まってできているため、全体として大きな電気双極子になっている。だから、ミッキ-の場は、脳細胞の中の細胞骨格のまわりにも、ダイナケミカルな秩序を張り巡らしていることになる。大脳を形づくる脳細胞の中や外には、水のミッキ-場のダイナケミカルな秩序が充満していたのだ。ひょっとすると、ミッキ-場のダイナケミカルな秩序が、心とは何かを理解するための重要な鍵なのかもしれない。さらに探求を進めていこう。(つづく)
2007年01月15日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-6)光子(ファトン)さて、光は電磁波の波だった。そして、電磁場は空間を埋め尽くすベクトルポテンシャルの針をまとった透明な針ネズミの集団をイメージすることで、想像力の世界で視覚化できた。また、電子もまた、電子場と呼ばれる場の波動運動に他ならなかった。そして、その場は空間の各点に与えられた小さな時計の針の向きと長さによって視覚化することができた。しかも、各点における小さな時計の針を一辺とする正方形の面積が、その点に電子が存在する確率を表していた。実は、光の場合も状況は全く同じなのだ。光が波だということは、たとえば光を遮蔽する板にカミソリの刃先の厚みより小さい間隔で離した平行な2本の切れ込みを入れた2重スリットに光を当てることにより、既に1804年から確認されてきた。エジプト学の権威としても知られるイギリスの物理学者ト-マス・ヤングは、2重スリットにあたった単色の光が左右のスリットから反対側に漏れ出してくるとき、背後のスクリ-ンの上に、光があたる部分と、あたらない部分の縞模様が出来ることに注目した。そして、左のスリットからの光の波と、右のスリットからの光の波が重ね合わされることによって、縞模様が出来ると考えた。いまではヤングの干渉実験と呼ばれるこの実験の結果、確かに光が波の性質を持っていることが明らかになった。19世紀のこの実験で、光は波であると結論づけられたが、あくまで当時の科学技術力の範囲でのことで、近代の科学技術を用いて再現すると、光について全く違った性質が浮き彫りにされた。実験してみると、光を弱くしていくと、スクリ-ンの上で照らし出されているはずの部分は、最後に小さな点状の部分に集まっただけになり、ついにはたった一つの光る点になってしまう。ということは、電子のときとまったく同じように、光も波にちがいないが、その波そのものが光というわけではなく、波はあくまで光が空間の各点に存在する確率を与えるものでしかない。電子の場合は電子場の波みの動きを表す空間の各点に与えられた小さな時計の針の長さの二乗、つまり、小さな時計の針を一辺とする正方形の面積が確率になったが、光の場合は電磁場の波はベクトルポテンシャルの矢の動きとなる。そして、電子の場合は小さな時計の針の動きは、単に盤面で回転するだけであったが、光の場合のベクトルポテンシャルの矢の動きは、前後左右上下と自在な方向を向くことができるのだ。このような電磁場に特有な事情のため、光については電子とだいぶ違った取り扱いが必要となるが、2つの波の重ね合わせが各点でのそれぞれの波のベクトルポテンシャルの矢を2辺とする平行四辺形の対角線で与えられることは同じである。光が単なる電磁場の波ではなく、電子など素粒子と呼ばれる物質の構成要素と同じく極めて小さな粒、すなわち粒子の性質をもっていることは、ド・ブロイが電子は波だと主張する少し前に、アルベルト・アインシュタインにより唱えられていた。ド・ブロイの考えの正しさをいち早く見抜いたのもアインシュタインだった。彼は、スイスの首都ベルンの特許局の役人をしていた。1905年にその後の物理学の大革命の引き金となる、2つの大きな論文を発表した。1つは相対性理論であり、もうひとつは、それまで電磁場の波だと信じられてきた光が粒だとする、光量子論に関するものだ。アインシュタインが提唱した光量子論では、電磁場の波と考えられていた光は、実はエネルギ-が波の振動数に比例し、運動量が波の波長に反比例するような運動をしている質量ゼロの粒子の集まりに他ならないとした。そして、この粒子に付けられた名前が光量子だった。その後、光量子理論が認められてからは、この光の構成粒子としての光量子は光子とかファトンとよばれている。電子や光子に代表される素粒子は、すべて量子と呼ばれる存在であり、その運動は一般に量子場と呼ばれるその量子に、固有な場の波動が与えてくれる存在確率をとおしてのみ知ることができることになる。もちろん、電磁場やその波動運動である電磁波は、日常的なスケ-ルから宇宙的スケ-ルにいたるまでのマクロの世界にも存在している。そして、宇宙の中の隅々まであまねく拡がって存在する電磁場は1つである。マクロの世界の電磁場もミクロの世界の電磁場も同じ1つの電磁場にすぎない。ただ、現代物理学の基礎を与える場の量子論によって明らかになったことは、ミクロの世界ではその同じ電磁場であっても、現れ方ががらりとちがってくるということだ。その典型が光の本性だったわけだ。さて、マクロの世界で電磁場や電磁波の性質を見極めるための物理理論は、電磁気学とか、古典電磁気学と呼ばれ、19世紀にイギリスの物理学者ファラデ-やマックスウェルらによって作り上げられていた。そこでは、光も電磁場の波として考えられ、日常的なスケ-ルでの光の現象をすべて説明ができるほどに完成した理論体系だった。ところが、19世紀末から徐々にミクロの世界での電磁波の特異な性格が見出されはじめ、20世紀に入ってすぐに光は波でなく粒子の性質を持つというアインシュタインの光量子論や、逆に物質は粒子でなく波の性質を持つトイウド・ブロイの物質波の理論が提唱された。そして、完成した物理学の基礎理論が「場の量子論」である。ミクロの世界で電磁場の性質を見極めたり、電磁気現象を調べたりするためには、マクロの世界のための古典電磁気学では役に立たない。そこで必要となるものは、場の量子論を電磁場という具体的な場にあてはめた理論体系だ。これは量子電磁気学とか量子電磁力学と呼ばれ、現代物理学の中でもっとも強力で精密な理論であることが多くの実験によって確かめられている。量子電磁気学では、場の量子論の観点から電磁場を見ていくが、このように見た電磁場をマクロの世界の電磁場と区別するために量子電磁場と呼ぶことがある。ただ、それは取り扱う物理理論がちがうというだけで、あくまで電磁場は電磁場、この宇宙には1つしかない同一の電磁場であることに注意しなければならない。(つづく)
2007年01月14日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-5)波止場から見た波、波動場と波(その2)電子を見るのにはフイルム(物理学では蛍光版とか蛍光スクリ-ンという)にぶつけて見ることができる。電子のぶつかった跡の点の濃さ、薄さで見ることが出来る。小さな時計の針が長いところがぶつかった時、痕跡の多くなる。しかも、針の長さが2倍になれば4倍と、平方つまり、2乗に比例する。すなわち針を1辺とする正方形の面積に比例しているのである。このように空間のあちこちにある小さな時計の針の長さの2乗は、そこに電子のある確率を表している。ミクロの世界での電子の運動は、「確率」でしか表せない不思議な物理法則に支配されている。エルグィンは、原子核から放出される電子の空想観察に、こんな思考をこらした。実験台の中央に置かれた放射能を持った物質の原子核から、電子が1つだけ東向きか西向きかに放射されるようにしておく。そして、実験台の中央から西向きに少しだけ離れたところに、放射線測定器ガイガ-・カウンタ-をセットしておく。さらに、検知器が作動した場合、電流が流れ実験台の下に置かれた檻の中のネコが電気ショックで死ぬようになっている。電子が東側に飛び出した場合は、装置は作動しないが、運悪く西側に飛び出した場合には死んでしまうのである。名づけてシュレ-ディンガ-博士の処刑台。原子核の中を覗いても電子はみつからないということは、原子核の内部の空間を埋め尽くす小さな時計の針の連なりが描く電子の波がないということだった。小さな時計の長さがゼロになっていれば、電子が存在する確率もゼロ。つまり、電子はいないことになる。ところがいないからといって安心は出来ない。しばらくすると、突然に電子が飛び出すのだ。原子核の中には、「電子波隠れ身の術」でちょうど山と谷、そして谷と山が打ち消し合うように重ねあわされた結果、消えていたのであった。では、東向きに運動する電子波と西向きに運動する電子波が重ねあわされている間の、猫の生死はどうなるのだろう?電子波が打ち消しあっているときに、電子はほんとうのところ、どんな運動をしているのだろう?それを見たものなど誰もいないのである。夏の日に恐ろしい怪談を聞いた後、窓の外に映る、柳の枝を幽霊と思ったり、そんな時は何を見ても幽霊に見えてしまう。他人噂話のことは全く聞こえないのに、自分のことなら遠くでのヒソヒソ話でも聞こえたり、「ノ-」といったのに、自分に都合の良い「イエス」と聞こえるときもある。これと同じで、電子を見るときにも、都合の良い波の場合には電子の運動を見ることができ、都合の悪い波の場合には全く見えなくなってしまうのだ。「そんなばかな!」たしかに、幽霊ならいざ知らず、電子までもが、都合の良い電子波のときしかみえないなどとは・・・・。エルウィも大いに悩んだが、結局この奇想天外な事実を受け入れざるをえなかったのである。実際に実験装置を作り試してみても電子は都合の良い電子波のときしか見つからなかった。ここで、「都合の良い」というのは電子を見ようとする、むずかしくいえば、電子を観測しよう人によって、「観測するのに都合の良い」と言う意味だ。たとえば、東向きに運動する波とか、西向きに運動する波などは、電子を観測する人にとっては、すこぶる都合の良い電子波なのだ。おおいに悩んだあげく、エルウィン達が最後に辿り着いた結論は、もっと激しいものだった。観測する人にとって都合の悪い場合、たとえば、東向きと西向きの波が重ね合わされたようなときに電子の運動を観測する場合、観測した瞬間に重なった波のどちらか一方だけが残り、結果としては観測に都合の良いようになるというのだ。観測する人が観測した瞬間に、電子の波はどちらか一方に「収縮」してしまう!。不思議というよりは、驚くべき事実ではないか。われわれの理解の限界を超えたこの事実を、エルウィが考え出したのが「猫の処刑台」の思考実験だったのだ。原子核の中では、東向きに運動する電子波と西向きに運動する電子波が重ね合わされているため、電子がほんとうはどんな運動をしているのか、だれも見ることが出来ない。もし、東向きの波だけなら猫は生きているし、西向きの波なら猫は死んでいる。しかし、2つが重ね合わされたときには、一体猫は生きているのか、それとも死んでいるのだろうか?もちろん、生きているとも、死んでいるともいえない。だれも見ることの出来ない、不思議な状態だからである。そして、猫の生死を確かめようと思って観測した、その瞬間に猫の運命は決まってしまう。観測したことによって、運よく西向きの電子波が消えてしまえば、猫は無事に生還できるわけだ。しかし、運悪く東向きの電子波が消えてしまったら、かわいそうに猫は一巻の終わりである。すべては、観測しようとしたことが悪いのである。ご心配無用。全ては空想の世界での思考実験だ。それでも、事実は事実。この大自然の神秘の力は、猫にだって臨死体験をさせてくれるのだ。まとめてみると、東向きにまっすぐ飛んでいる電子の波を観測すれば、東向きに運動する電子が見つかり、西向きにまっすぐ飛んでいる電子の波を観測すれば、こんどは西向きに運動する電子が見つかる。ところが、いったんこの2つの電子波が重ね合わされたとき、もはや電子はどんな運動をしているのか見えなくなる。あるいは運動をしているのかどうかさえもはっきりしなくなるということだ。(つづく)
2007年01月13日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-5)波止場から見た波、波動場と波(その1)光は、空間に限りなく拡がった電磁波の波、つまり電磁波の一種だと習った。電磁場のように空間の隅々まで埋め尽くすものは、物理学では場と呼ばれ、大自然の神秘を理解する上でもっとも大切な基本になるものだ。海の波は海水の表面を場とする波動であり、音は空気の濃さ、つまり密度を場とする波動である。物理学では、波だと思えるような動きを「波動」と呼び、波のような動きをするものを「波動場とか、単に「場と」と呼んでいる。場は、空間に拡がって存在する物質でもある。地震の揺れは、地面を場とする波動であり、Jリ-グや野球の応援ウエ-ブは、ファンの位置を場とする波動だ。しかし、電磁波のような目に見えにくいものをイメ-ジするには工夫がいる。まず電磁波から見ていこう。可視光も電磁波の波動である。可視光より少しだけ波長の長い電磁波は赤外線である。これが目に入っても網膜が変化しないため見えないが、皮膚では温かく感じる。でも背後にある波のように動くものは、見えない。なんでだろう?。そう、電磁場(デンジバ)だ。この大自然の中にあまねく存在している目に見えないもののうち、その波動が光などの電磁波となって、空間の中を駆け巡るものが電磁場と呼ばれる「場」なのだ。空間の中に、何も存在していないという状況を、限りなく分割していって最後にのこっている、いちばん小さなものを「点」と呼んでいる。空想の世界に拡がった空間のすべてに数限りない点がうじゃうじゃと集まっているイメ-ジ。そして、点には矢がついていて、向きや長さは自由に変わるまるで針ネズミのようである。これが電磁場が拡がった空間の姿である。物理学ではこの針ネズミの針のように映る矢をベクトルポテンシャルという。この針ネズミの集団を波動場とする波動が電磁波で、光も例外でない。つぎに、電子の波である。ルイ・ド・ロイは「電子は波だ!」といったが、どんな波動場の波をイメ-ジしたらよいのだろう。ルイのアイデアを救ったのは、エルウィン・シュレ-ディンガ-であった。エルウィンは分子や原子の内部だけでなく原子核の内部でも、電子はある決まった方程式を満たす波としての動きを見せることを発見した。電磁場のときのイメージを針ネズミの針に付いた矢でなく、時計が付いていると考える。そして、針は一本でかつ、長さや方向は自由に変えながら時計回りに回っているとする。この時計の針を、物理学では波動関数と呼んでいる。波動関数という名前は、原子や分子の内部の世界で、電子の動きのときにも出てきた。この電子の波動場は「電子場」と呼ばれ、波動関数として記述されるその波動は「電子波」と呼ばれている。ルイ自身は、電子だけでなく、大自然の中の物質をかたちづくる基本となる目に見えない小さなものを総称して量子という名前をつけていた。そして、この量子は「物質場」とか「量子場」と呼ばれる波動場の波、つまり、「物質場」だと考えた。だから、電子も量子の仲間であり、電子場も量子場の仲間。原子や分子、それにその中にある原子核や電子などがうごめく目に見えないミクロの世界を「量子の世界」と呼んだのはこのためである。エルウィンの工夫は、電子場だけに限ったわけでなく、より広く量子場をイメ-ジするために考え出された。だから、いくつかの種類がある。電子場なら「電子用」とロゴマ-クが入っている。田園一面に拡がった稲穂が風にそよいで出来る波の動きにも似ている。これが、電子場の波動、つまり、電子の波のイメ-ジだ。物理学では、この電子の波のことを「電子波」と呼んでいる。空間を埋め尽くす小さな時計の集団を波動場とする波動が電子波なのだ。もちろん、電子に限ったわけではなく、量子場の波動が量子なのだが、これは「量子波」と呼ばれる。さて、原子核の外の空間には電子波がたくさんあるのに、どうして原子核の中には見つからないのか?また、放射線物質の場合、原子核の中にない電子波が、しばらくするとどうして原子核から放射されるようになるのか?この謎に迫ろう。ウォークマンと同じである。ウォ-クマンは耳に入ってくる音の波を早く察知して、丁度山と谷が逆になった波を作り、ヘッドホンから送り出してやる。すると、重なり合って音は消えてしまう。空気の分子の濃さで考えれば、薄い部分に濃い部分が合わさり、逆に負い部分に薄い部分が合わさって丁度均一の濃さになってしまったわけだ。隠れただけで消えたわけではないのだ。電子も波だから原子核の中で姿を隠していられたわけである。電子の中での重なり合いは、時計の針の方向と長さで平行四辺形をつくって見ると分かりやすい。消えてしまう場合は、長さが同じで、角度が180度違う場合を考えればいいわけだ。この場合、針の長さはゼロになってしまう。空間の全ての時計が同じようになった時、電子の波は忽然と消えてしまうわけである。(つづく)
2007年01月12日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-4)「放射能」とは?脳のミクロの世界は、細胞膜や細胞質を形づくる脂質やタンパク質分子、それにそのまわりに目に見えない立体的な秩序構造を作っている水分子などからなる凝集体としての組織である。そして、物理学では凝集体としての脳の物質構造の第一近似として、空間の中に拡がった電気双極子場という見方ができる。この電気双極子場の物理的な振る舞いを調べていけば、物質としての脳の基本的性質が明らかになるはずである。さて、脳の話を進める前に、原子の世界をより理解するため、放射能の姿について探ってみよう。放射能とは一言で言えば、原子の中央にある小さくて硬い原子核から放射されるもので、いろいろのものがある。ウランやラジウムのように鉱物から出るものもあるが、電子や光でも、原子核から放射されるものは放射能なのである。それらは、原子のまわりを取り巻くように乱舞している電子や、電灯の光よりも、もっと大きなエネルギ-を持っている。だから危険なのである。放射能として原子核から出てくるエネルギ-の大きな電子と光は、それぞれベ-タ線とガンマ線と呼ばれている。放射能がどんなものかまだはっきり分からなかった時代に、とりあえずギリシャ語のアルファベットの順番にアルファ、ベ-タ、ガンマと名づけられた。ならば、アルファ線はどこに消えたかというと、放射線の中で一番重いのであまり遠くまで飛んでいかない。ヘリウム原子で説明すると、原子番号2番だから、原子核は水素原子の原子核の二倍のプラスの電気を持っている。放射能を持つ物質の多くは、原子番号が80以上の原子でできていて、このような原子の原子核からはヘリウム原子核も放射されている。これが、アルファ線なのである。さて、原子核から放射される前の電子はどうなっているのか、原子核に近づき更に探ってみよう。しかし、ミクロの世界に戻って目を凝らしても、どこにも電子が見当たらない。不思議である。電子の中の空っぽな空間に入ったときには、原子核から確かに電子が放出されていたのが見えていた。それは、水銀灯に照らし出された夏の虫のように、原子核を遠くに取り巻いてきれいな立体絵柄を描いていた電子の間をぬって、勢い欲飛び出していた。ところが、原子核の中には電子がいない。電子はどこに消えてしまったのか?そもそも電子とはどんなものなのだろうか?われわれの電子のイメ-ジは、目に見えないほど小さいもので、マイナスの電気を持っているという程度のものである。一体電子とはどんなもので、どんな性質があるのだろうか?世界で最初に電子のほんとうの姿を頭の中で考え出すことができた人は、フランス人貴公子の、ルイ・ド・ブロイだった。20世紀になったばかりのフランスパリ。大学の文学部で歴史学を修め、科学者の兄の実験室に遊びに行ったときである。20世紀になったばかりのその頃は、電子がどんなものなのか、世界で誰一人わかっていなかった。物理学で共通で持っていたイメ-ジも、測定できないほど小さく、マイナスの電気を持っている物質粒子という程度だった。だれもが、極度に小さくてマイナスの電気を帯びた粒というイメ-ジを抱いていたとき、貴公子ルイは、世の中をびっくりさせるようなことを考え出してしまった。「電子は波だ」というのだ。しかし、専門家は、頭から否定した。「文学青年の素人が何をとぼけたことを!」というのである。しかし、その正しさを見抜いた人がいた。アルベルト・アインシュタイン博士である。博士は、当時でも、最も影響力のある偉大な科学者だった。そして、ドイツやスイス、オ-ストリア等、ドイツ文化圏の若き物理学者に向かって、ルイの後に続くことを勧めたのであった。これを受けて、ドイツ圏の若者たちが動き、目に見えないミクロの世界での自然法則を見つけ出していった。この自然法則は量子論と呼ばれ、その後、量子力学や場の量子論の形にまとめあげられ、物理学のもっとも基本的な法則となったのだ。電子が波だというルイの素朴なアイデアから出発し、目に見えない量子の世界にはじめて足を踏み入れた若者の中に、有名な「エルグィン・シュレ-ディンガ-」もいた。エルウィンは、電子の波の方程式を見つけ出した人であり、この方程式を、シュレ-ディガ-方程式と呼ばれている。そして、電子の波は波動関数とよばれている。体調のすぐれなかった彼は、ルイのアイデアを基に、アルプスの保養地アロ-ザで、精神と物質の谷間に遊び、分子や原子の内部だけでなく、原子核の内部でも、「電子はある決まった方程式を満たす波」としての動きを見せることを発見したのだ。1926年のことである。★「電子は波だ」と発想したのは、文学専門のルイ青年であった。当然専門家からは、馬鹿にされ相手にされなかった。どうも人間界にあっては、どんな分野においても、その道の専門家は、狭い理論の中に埋没してしまいやすくなり、大局を見られなくなるらしい。それに名誉欲などが絡むと、実に始末が悪くなる。医療やビジネスの世界でもそうである。教育の世界でもそうである。今日本ではイジメによる自殺問題や教育問題が、毎日のようにマスコミに取り上げられている。政府も、広く民間から委員をつのり検討を開始している。委員長はノ-ベル賞受賞者の野依博士である。その博士の提案は実に振るっている。「元凶は塾にあり。従って学習塾を全廃せよ」という。実に大局から見た深く重い意見である。私も全く同感である。しかし、周りの専門家連中は浮かぬ顔をしている。きっと陰では、色々と屁理屈を並べて強烈に批判していることであろう。「部外者に何がわかるか!そんな単純なものでないさ・・」結局自ら蟻地獄に入っているわけだ。もし私が、「生命は宇宙からでなく、地球内から誕生している。そして、ある環境の元、炭素と水それに多少のミネラルがあれば、生命は誕生する」と言ったら、これも同じ批判の対象となるであろう。「ま・・・・いいか!」である。
2007年01月11日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-3)水とミッキ-場(その2)さて、ミッキ-場である水に、リン脂質が混ざった場合どうなるだろうか?リン脂質の頭の部分は電気双極子になっているため、やはり電気双極子になっている水の分子を引き寄せることが出来た。だから、互いにくっついたり離れたりしてさ迷っている水の分子も、何の抵抗もなく近くのリン脂質頭部にもくっついたり離れたりしている。水の分子にとっては、相手が水の分子であろうとリン脂質の頭部であろうと、とにかく電気双極子どうしでくっつくことができるならば、それでよいのである。水の分子が電気双極子場として凝集したところに入ってきても、それ自体が電気双極子になっているリン脂質頭部は邪魔者扱いされない。このように、水に邪魔者扱いされない性質を親水性という。ところが、リン脂質のヘアピンの足の部分では原子番号6番の炭素原子に2つの水素原子が結合した構造が鎖のように繰り返されていて、電気双極子になっていない。これらが、水の分子が凝集したところに入ってきても、絶えずくっつく相手を取り替えている水の分子には、邪魔者でしかない。だから、どの水の分子も、このようなくっつけない部分を遠ざけるかのようにくっつく相手を求めていくため、この部分は水の分子が凝集したところからはじき出されることになる。この性質を疎水性という。リン脂質の分子では、リン原子のある頭の部分は水になじみやすい親水性を示し、ヘアピンのような足の部分は水に嫌われる疎水性を示す。細胞膜のまわりは水が取り囲んでいるから、リン脂質の分子は2重に並んで膜を作っている。リン脂質の親水性の頭の部分をそれぞれ外に向け、疎水性のヘアピンの足をそれぞれ内に向けているわけだ。子ども達が頭を同じ方向に向けて寝転がって列をひとつ作り、自然に足の裏と足の裏をあわせるようにして、もう一列頭を同じ方向に向けた子ども達が寝ている様子のイメ-ジだ。リン脂質で作られる細胞膜の断面は、このようになっている。細胞膜の表面はすべて親水性の部分が露出していて、細胞膜内外に凝集した水の分子と強くつながり、ミッキ-場を繋ぎ止めておくことができる。細胞の中や外に藻のように張りめぐらされているマイクロチュ-ブルやマイクロフェラメントは、目に見えないほど小さな電気双極子であるタンパク質分子が集まってできている。あるときには小さな電気双極子が揃い、全体としても1つの大きな電気双極子になる。また、プラスとマイナスがでたらめに並び、全体としては電気的な性質を何も持たなくなることもある。細胞が生きている間は、マイクロチュ-ブルもマイクロフェラメントも全体として大きな伝記双極子になり、細胞が死んでからは秩序を失って、このような電気的性質を示さなくなる。したがって、藻だと思ってきたマイクロチュ-ブルやマイクロフェラメントの周りの水が、目に見えない立体構造を形ずくっているかどうかを考えるのには、この大きな電気双極子がとても重要な鍵になっていたのだ。(つづく)
2007年01月09日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-3)水とミッキ-場(その1)細胞膜はリン脂質という分子からできている。このリン脂質は原子番号15番のリンの原子に酸素原子がいくつか結合したリン酸を頭に、原子番号6番の炭素原子と水素原子が結合した炭化水素の長い鎖を足にするようにつながっている。この鎖はリン酸の頭部から2本出て、丁度ヘアピンのような形をしている。リンの原子番号が15番ということは、電子が15個あるわけだ。酸素原子は8個の電子のうち、6個までが大きく丸い立体絵柄を描くように原子核を遠巻きにして乱舞し、残りの2つの電子がその外側に、上下左右に対称に飛び出した絵柄を描くように飛んでいる。リン原子もこれと同じで、14個の電子が描いた大きな丸い立体絵柄の外側を、残りの1つの電子が上下または左右のどちらかに対称に飛び出た絵柄を描いている。外側には1つの電子しかないため、リン原子に酸素原子が1つ結びついてしまった場合、他から電子をもらってこない限りさらに別の酸素原子を結合させることはできなくなる。そのため、リン酸の頭部にある1つの酸素原子のまわりには、余分な電子が乱舞することになり、そこにはマイナスの電気を持つことになるわけだ。この余分な電子は、リン酸の頭部なアミンやコリンなどと呼ばれる別の分子を結合することによって供給されるのだが、その結果としてアミンやコリンの部位はプラスの電気を持つようになる。そのため、リン脂質の頭にあたる部分には電気双極子ができ、やはり電気双極子なっている水の分子を引き寄せることができる。水の分子はH2Oで、酸素原子1つと電子を共有するように、水素原子が2つ結合していた。水はこの水の分子が沢山集まってできたもので、ビ-玉がバケツいっぱいに集まったものとはようすがだいぶ違うのだ。水が気体になったものが水蒸気だ。このとき、水も分子は単に沢山集まっているだけで、バケツの中にビ-玉が沢山集められた状態とそんなに違いはない。しかし、液体の水は、水の分子が単純に集まっただけでなく、互いにくっつき合ったり融けあったりしているのだ。物理学のことばでは、凝集しているという。さて、水の中の「水の分子」を更に、ナノからピコの世界まで拡大して見てみよう。すると、ミッキ-の頭の形をした水の分子は、同じ水の分子にくっ付いたままではないのだ。くっつく相手をどんどん替えている。それも目まぐるしいほどにである。だから、水の分子の電気双極子も目まぐるしく変化しているわけだ。これが、水の分子が互いに融けあって凝集した水の本当の姿なのである。ただ沢山の水の分子が単純に集まったなどと考えてしまったら最後、水のことは何も分からなくなってしまうのだ。物理学の最前線では、水はむしろ目まぐるしく変化する電気双極子が、ある範囲の空間の隅々まで満ちている場と考えている。これを、物理学の硬い言い回しかたでは、「電気双極子の凝集場」と呼ぶが、われわれはその形がおなじみのミッキ-マウスの顔に似ているので、ミッキ-場と呼ぶことにしたい。コップの中の水は、コップの中の空間に拡がったミッキ-場だ。もちろん、水だけでなくあらゆる物質は原子と分子の集まりとして形づくられている。その物理的な性質の多くは、原子核のプラスの電気と、電子のマイナスの電気の分布から生まれる電気双極子の場の振る舞いによって決定づけられている。さらに、物理学の標語としては、「凝集体の第一近似は、電気双極子場である」ともなる。(つづく)★古来から人類は水は特別なものとして意識してきた。「命の水」とか良い水という名の元に、良質の水を求めて世界中に水のビジネスは繁栄している。超ミネラル水とか活性水など通常の水との違いをアピ-ルして、高価な浄水器も販売されている。しかし、水の実体を知らないでむやみに飛びつくのはどうかと思う。水の物理的実体を知っていれば、それらの製品の評価もそれなりに推測できるというものである。例えば、「富士の湧き水」には、バナジウムが多い。バナジウムは脂肪の分解等の際、触媒効果を発揮するといわれている。(酸素電子を奪う反応→還元作用)もちろん周囲が水の中での反応である。バナジウムにより、通常の水より電子の行き来がし易くなり、反応が進むわけである。今の技術では見ることができないが、おそらく水のミッキ-場が変化しているはずである。水の酸素と2つの水素の結合角度が、通常107度より開いているのであろうと推測している。また谷川の水は、やはりエネルギ-に満ちているため、角度が開いていて、豊かな電気双極性性を持っていると考えられる。ところが水道水は、塩素殺菌の塩素の影響で、この電気双極性が落ちているとも考えられるのである。恐らく角度は107度より閉じているはずである。遊離した塩素電子が、水素電子を奪おうとして働けば、水の活性化は落ちる、すなわち例の角度は閉じるほうに向かうとも考えられるわけである。いずれにしろ良い水とは、水の電気双極子が生き生きしているものといえる訳だ。これを邪魔するものは良くない水と大方、判断できるわけだ。化学的にいえば、還元作用(酸素電子を奪う)を促す物質は水を活性化させ、酸化作用(水素出んしを奪う)を促す物質があれば水は不活性となるということが出来る。
2007年01月07日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-2)水の構造物質の構造を語るとき、水が最もなじみがあり取り上げられやすいが、今回のように、生命や脳を語るときは、水のことがひときは重要になる。水という中に潜んでいる特質こそ、生命の不思議さや、脳の記憶や思考のカラクリ、さらには心まで操る主因が含んでいそうだからである。地球を取り巻く宇宙を見ても、生命体が存在するのは今のところ地球だけである。他の星との違いは、太陽までの位置や重力、自転、磁場など色々あろうが、最大の違いは水が有るか無いかだと私は思う。水こそ、生命に関わる重大な特質を有す化合物であり、今後もし他の惑星から生命が見つかった場合でも、必ずそこには水が有ると思う。水こそ生命の原点であり、記憶や心の原点にもなる。その水も、水素と酸素の化合物。更に突き進んでいけば、最終的には電子になってしまう。そしてさらにその先は、無なのか?残念ながら、その答えは私の生きている間には見つからないだろう。人類がこのまま最後の破壊武器を完全に放棄して、永遠の幸せを掴み、仏教の言う生まれ変わりで再び1千年後に、生まれかえったとしたら、その答えが出ているかもしれない。さて、話を本題の特殊潜水艦から見えるミクロの世界の水の構造に戻そう。水は酸素原子1個に水素原子が2個付いたものである。酸素原子は原子番号が8番で、Oという記号で表され、原子核は水素の8倍の大きさのプラスの電気を持っていて、そのまわりを遠巻きにする電子の数も8個。水素原子よりかなり大きな原子である。水素原子がバレ-ボ-ルのコ-トだとすると、酸素原子はサッカ-グランドくらい。分子は、原子が互いに電子を共有することによってできる。1つの酸素原子と2つの水素原子が結びつく水の場合も同じ事で、酸素原子8個のうち、6個までは酸素原子の周りを回り、残りの外側を回る2個の電子に水素原子の電子が最初に出会い、くっつくのである。当然2つの電子は共有しあうことになる。こうやって、1つの酸素原子に2つの水素原子が結合して出来た分子が、水である。酸素原子のまわりに立体絵柄の飛び出した部分は、上下左右対称に4箇所あり、電子が上下の飛び出た部分、もうひとつは電子が左右の飛び出た部分を行き来している。さて、一方の電子が1つの水素原子と共有され、たとえば立体絵柄の上に飛び出た部分が水素原子のまわりの立体絵柄と重なったとすると、もう一方の電子は左右に飛び出他部分を行き来しているため、2つ目の水素原子は立体絵柄をこの左右どちらかに飛び出た部分で重ね合わせるしか、電子を共有する方法はない。たとえば、左に飛び出た部分が重なったとすると2つ目の水素原子は酸素原子の上と左に、酸素原子の原子核から見て丁度90度だけ開いた方向に結びつくことになる。さらに、2つの水素原子の電子の持っているマイナスの電気同士の反発力のため、互いに遠くに離れようとし、実際は90度よりも大きく開いて107度になる。これが、水の分子がミッキ-の頭のように対称でないいびつな形をしている理由である。もし水のこの角度がなく、きれいな丸になっていたとしたら、20度で沸騰してしまい、生命の誕生はおぼつかなかっただろう。一体水の分子がミッキ-の頭のようにいびつな形をしていることで、なにがどう変わってくるのだろうか?重なった部分、すなわち耳の付け根の部分には共有されることにより電子が濃く、そのあおりで反対側つまりミッキ-の首のあたりには薄くなる。電子が濃くなると、そこにはマイナスの電気が多くなり、逆にいないようになるとマイナスの電気が少なくなる。酸素原子だけのときには、電子が上下左右対称で、偏らないでいるため、すべてのプラスの電気とマイナスの電気が均一に打ち消し合って中性になっていた。しかし水素原子と結合したために電子が偏るようになると、マイナスの電気が少なくなった部分にはプラスの電気が現れてくる。そのため、ミッキ-の頭、水の分子は水素原子がついている頭の上の部分がマイナスの電気、水素原子のない首の部分がプラスの電気を持つようになる。この構造を電気双極性といい、タンパク質にも見られる。ミッキ-の頭のような水の分子は、自然に出来た電気双極子なのだ。この結果、水の分子同士が引き合う力が強くなり、コップに盛り上がる現象、強い表面張力を生む。これは、磁石同士がくっ付き合うのと同じである。プラスチックの下敷きを脇に挟んで擦ると、友人の髪の毛くらいなら吸い寄せられる。水道の蛇口を絞って細くし、こすった下敷きを近づけてみると、水はまるで生き物のように下敷きに寄ってくる。これは、水の分子が電気双極子になっているからである。擦った下敷きの片面にはプラスの電気が、反対の面にはマイナスの電気がたまる。これが静電気であるが、両方の面のプラスとマイナスを合わせると、丁度打ち消しあって中性になるが、片面だけ近づけると、どちらかの電気が影響を受ける。水道の蛇口の水も電気双極子になっている。その近くにマイナスの電気の下敷きを近づけると、プラスの電気を持つミッキ-の首の部分がまず引き付けられる。あとは電気双極子がたくさん数珠つなぎになるように引っ張られ、下敷きのほうに寄っていくという訳だ。(つづく)★水も実は磁石なのである。コップの水が盛り上がる表面張力という現象も、その作用であり、細く絞った水道の水が擦ったプラスチック製の下敷きに吸い寄せられるのも磁石の作用だったのだ。そこには目に見えない電子が作用しているわけである。水道の実験は簡単なので貴方も是非試してもらいたい。そこに水の構造や、電子の動く姿を是非想像してもらいたいものです。「エエ」電子が見えたって?「ウソ-!」 「本当ですって!」驚いた!。うらやましい!そんな貴方は天才か?それとも異常者かも?しれませんぞ?
2007年01月06日
第2章 新物理学から見た脳とこころ4. ミクロの世界から4-1)原子をのぞいてみると!ギリシャ時代の哲学者デモクリトスが、万物は目に見えないほど小さなアトム(原子)が集まってできている、といった。いまでは、物質は原子、あるいは原子がいくつか集まった分子で出来ていることが分かっている。水の場合、酸素原子と水素原子が真横に並んで手をつないでいるのではない。酸素原子の中心から107度開いた方向の左と右に、それぞれ水素原子がついている。丁度、ミッキ-マウスの首から上の部分の形に似ている。丸い顔の部分が酸素原子、2つの耳の部分が水素原子にあたる。これが水の分子なのだ。これらは小さすぎて顕微鏡や、高性能の電子顕微鏡を使っても見ることはできない。最新の走査型トンネル顕微鏡で拡大されやっと見ることが出来る。酸素原子の中を覗いても、そこはほとんどカラッポ。サッカ-グランドの中心にサッカ-ボ-ルがあり、これが原子核で、重さはこのボ-ルの重さである。原子核はとても硬く普通では壊れない。原子核が一気に壊れる時の爆発的なエネルギ-を悪用するのが核爆弾、ゆっくり少しずつ壊してエネルギ-を徐々に取り出すのが原子力。グランドの上をでたらめに飛び回り、それでいて証明に引き寄せられて集まっている虫達と同じのが電子。電子は原子の中の空っぽの空間の中を、でたらめに飛び回り、それでいて打ち上げ花火のようなきれいな立体絵柄を描き出すように集まっている。物理学では、電子のでたらめな運動を「量子のゆらぎ」と呼び、原子の中に電子が描くきれいな立体絵柄を量子軌道とか波動関数と呼ぶ。原子の世界は、量子ゆらぎと波動関数に支配された量子の世界なのである。原子1つ1つは、プラスの電気とマイナスの電気が丁度打ち消しあって中性になっている。だから、電子と電子が互いに互いに電気の力で引き合ってくっついてしまうことはない。原子と原子が結合するためには、巧妙なカラクリが必要である。水素分子の中を覗いてみる。2つの水素原子の原子核を遠巻きするようにして電子が描いている立体絵柄の一部が重なっている。しかも、電子はその重なっている部分を通って、別の原子の方に移ったりもしている。この時の電子のエネルギ-は、小さくてすむ。元の原子状にするためには、エネルギ-が必要となる。ほとんどの分子ができるカラクリはこのようにして、いくつかの原子が結合してできている。(つづく)
2007年01月05日
明けましておめでとうございます。新しい年は良いものです。何を見ても新鮮で爽やかに感じる。日常からひと時脱して、見上げる空は驚くほど青い。「綺麗だな-!」自然に言葉が出てくる。人間が優しさを取り戻すためには、やはりこんな節目が必要だ!さて、皆さんは「フォトンベルト」という言葉を聴いたことがありますか?宇宙には電磁波?のベルトが幾つかあり、太陽系も近年そのリングの中に突入するらしい。太陽は既にその中に入りつつあり、太陽活動に異変が生じているという。地球上で、温暖化の影響とされている異常気象は、実は全てフォトンベルトのものであるという。1万6千年程度の周期で訪れ、その都度それまでの文明は崩壊して来たという。2012年頃地球もそのリングに突入するという。親殺しや、子殺し等異常な事件は、その影響を受けやすい人が既に影響を受けている証拠だという。どんな影響が出るのか、被害の規模は如何ほどか、それらすら想像もつかないらしい。では、守る術はというと全くないという。ロケットを飛ばして逃げ出したくとも、銀河系すら抜けられない今の人類の宇宙技術では、追いつかない。なぜならフォトンベルトは幾つかの宇宙に係っているからであるらしい。物騒な予言や、この手の話は常にあるものだが、専門家のNASA等が動かないのは不思議である。全くの作り話か、それとも手の打ちようないのかどちらかであろう。詳しいことを知りたい方は、書店の店頭を覗いてほしい。既に、幾つかの関連書物が発刊されている。さて、新年早々物騒ぎな話題から入ったけれど、人間には必ず訪れる終着駅がある。それは「死」である。それをどう捉え、生きるかがそれぞれの人生である。重い病の床に臥して、はじめて自覚するこの問題の一片を、今日は触れたいと思う。新年だからこそ、触れておきたいと思う。多くの末期がんの患者さんを、看取った、医師芦根義和先生のある雑誌に掲載された文を参考に紹介したい。「その人らしさを貫くために!」 茅 根 義 和 (日本赤十字社医療センタ-緩和ケア-科部副部長)「わたしにはまだ死ぬという仕事がある」作家の三浦綾子さんが、晩年にしばしばこの言葉を口にされていたという話を以前読んだことがあります。私の取り組む終末医療はまさに、診療を受ける方がきちんと最期の時を迎えるためのお手伝いといえます。人の体は本来、そこにもともと備わっている治癒力によって治るものであり、医療にできることは、そのお手伝いに過ぎません。大学の医学部で学んでいた頃から、私は医療の力で治すという考え方に違和感を覚えていました。実際、人間の体はいずれ死に向かうものであり、そこに至っては治す医療も何ら力を持ちません。治る見込みのなくなった患者さんを見放さざるを得ない医療の現実を色々見てきたことも、私が終末医療を志すきっかけとなりました。現在籍を置いている日赤医療センタ-の緩和ケア病棟では、主に末期がん患者さんの診療に取り組んでいます。死は非日常の出来事であり、自分とはあまり関係ないことのように捉えがちです。しかしここでは毎年約150人もの方々をお看取りしており、死は誰の身にも必ず訪れる自然な出来事であることを実感させられます。診療を通じて心を通わせてきた患者さんと別れるのはとても悲しいことです。しかし、年に150通りもの異なる人生に触れ、最後の濃密な時間をともに過ごし、生きることの素晴らしさを教えていただけることが、大きなやり甲斐となり私を支えてくれています。たくさんの患者さんと接してきて実感するのは、死ぬという仕事をきちんと成し遂げるためには、きちんと生き抜くことであり、中途半端に生きてはよい死は迎えられないということです。そこで終末医療では、患者さんたちがご自身のエネルギ-を病気・症状との闘い以外のことに向けられるよう、痛みや苦しみなどの症状を緩和するとともに、日常生活の介助をします。体が弱ってくると、それまで当たり前にできていたことが、次第にできなくなってきます。死に向かう過程でどんなことが起こるかを経験的に知っている私たちは、患者さんが後悔することのないよう、今後の見通しを明らかにして、いま何をやっておくべきかを示唆していきます。それはすなわち、もう健康な状態には二度と戻れないことを理解していただくことに他なりません。いまの段階ではどこまでお話できるか、どういう話し方が適切か・・・相手がどこまで受け止め切れるかを慎重に探りながら接して行きます。一歩間違えば、患者さんを奈落の底に突き落とすことになるため、毎日が真剣勝負です。厳しい現実を突きつけられれば誰もが落ち込みます。しかしたいていのい方は、その現実を消化して再び立ち上がり「死に向かって生きる」という仕事に向き合いはじめるのです。その姿に私は人間の強さを実感させられ、感動を覚えます。がんという病にかかることは、確かにショッキングなことですが、人生で遭遇する危機や逆境はがんだけではありません。それまでにも様々な困難に直面しつつも、それを乗り越えてきたから、今こうして生きているともいえます。患者さんがそのことを思い出すよう接していくことで、自分でショックから立ち直る力が生まれてきます。そこから残りの時間をどう使うかはその人次第です。入院してから絵を描き始め、院内で展示会を開くまでになった人もいます。病気にかかったのを機に、自分の中に眠っていた可能性を開花させるケ-スはたくさんあります。入院中に名前の変わる方もしばしばいらっしゃいます。休暇から戻り、病室の入り口に掲げてある女性の患者さんの名前をふと見ると、名字が変わっている。不審に思い看護師に聞くと、長らくパ-トナ-として付き合ってきた男性がいて、私の休暇中に籍を入れたと聞いてびっくり。結婚披露パ-ティ-は、病室にフレンチ・シェフを招いて開かれました。お二人の笑顔はいまも深く印象に残っています。辛い症状からどうしても開放されない方もいらっしゃいました。ご本人の希望でお坊さんを呼び二人っきりで話をされてからは、驚くほど表情が穏やかになり症状も緩和されました。その方は、死ぬ前にぬぐい去っておきたかった罪責感を、仏教の教えに触れて解決されたのでした。病気という一つの危機に直面し、自分を深く見つめなおして脱皮した人は、傍目にもとても輝いて見えます。ある人はもう一花を咲かせ、ある人は抱えていた宿題をやり遂げ、ある人はそれまでの生活を淡々と続けて行かれる。どの生き方のほうがいいというものではありません。大切なことは、最期までその人らしくあること。きちんと最期までその人らしくいることだと私は思います。海外には、人生の節目節目で遺言状を書くことを習慣とする国もあります。日本人は死を悼み嫌い普通あまり考えたがりませんが、死の準備にもっと真剣に取り組むことは大切だと私は思います。元気なうちから死について真剣に考える機会を持つこと、死ぬという仕事に前向きに取り組むことで、より自分らしい納得のいく人生を全うできると考えるからです。★もし貴方が今健康なら、健康でなくても生きていたなら、その事を強く強く意識して欲しい。そして、生命体が生きるためには、膨大なマイナスのエントロピ-を供給し続けなければならない事。膨大なマイナスのエントロピ-は、生命体を食さなければ得られない事。あえて言えば、死とは、肉体のマイナスのエントロピ-が他に吸収される事。全ては大きな大きなエネルギ-のリングの中で行われている術に他ならない訳でもある。但し、二度と再びこの地上に貴方という生命体は、存在しえないことは言うまでもない。人間として生きていること。その事を、今日は貴方らしく、強く強く自覚して欲しい。本年もよろしく!
2007年01月04日
全23件 (23件中 1-23件目)
1