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「声に出して読みたい・・・」という本が書店に平積みしてある。ぺらぺらと経ち読みしてみるが、面白くない。教室で声をそろえて読んでいるような、のっぺらぼーな情感のこもらない平板な選び方だ。文部省推薦、ナショナリズム溢れるといった感じ。 そんなおりある本に紹介されていたこの本を読む。2003年初版、明らかに「声に出して・・・」をからかったパロディー風の本だ。 この本は、性愛の日本語、ののしる日本語、風変わりな日本語、アウトローの日本語、神の日本語、の5章に分かれている。 いずれも社会から排除され、あるいは異端視された人たちや、そのような分野の文章、ことばだ。たしかに声に出して読むわけにはいかないもの、こっそり読みたいものもあるが、声に出してもおかしくないものもある。 異端、禁断、猥雑、社会の片隅に生きる日本語のエネルギーが溢れる。正しく、清く、美しくといった日本語というものが、実体としてあるというと考える人達に対して、そうではありませんよと実例を示している。 日本語はもっと多様で混沌としており、文章の美しさというものも誰かが実体として提示するようなものではない。人それぞれに美しいことば美しい文章、美しい日本語、声に出して読みたい日本語も違っている。こっそり読みたいものもある。そんなことを感じさせる痛快の本だった。
2005/05/31
題にひかれて、読んだ。文春新書の一冊だが、これがなかなか面白かった。小学校唱歌など学校で習う歌を中心に書いてあるのだが、これが勝手な改作などが非常におおいのだそうだ。 私が興味をもったのは、小学校の唱歌に軍歌がかなり入っていたということ。改作が一番激しく行われたのが戦争後で、それは、戦前戦中おびただしく作られた、軍歌や戦時歌謡の改作だったという部分だった。 たとえば「汽車ポッポ」は、もとは「兵隊さんの汽車」で、一番の歌詞は次のとおりだったそうだ。こういう歌がたくさんあったのだ。 汽車 汽車 ポッポ ポッポ シュッポ シュッポ シュッポッポ 兵隊さんを乗せて シュッポ シュッポ シュッポッポ ぼくらも手に手に 日の丸の 旗を振り降り 送りましょ 万歳 万歳 万歳 兵隊さん 兵隊さん 万々歳 それから面白かったのは、「絶対音感」が昭和14年頃提唱され、一部の軍人が軍事目的(飛行機の音に敏感になるなど)に着目して、昭和15年文部省が採用したという記録だ。絶対音感というのは、音楽教育上は先進国ではそのころすでに教育効果なしとして禁じられていたものだという。 筆者のいいたいのは、恣意的な改作、恣意的な演奏、歌唱についての異議なのだが、私はこういう部分(筆者がかなり力を入れて書いている)を面白く読んだ。 そして筆者のこういう歌を垂れ流して反省しないNHKへの批判や「二度と学校教育において「軍歌」を歌わせるようなことのない、世相が変わっても内容を変えずに済む」音楽教科書をつくることをという筆者の文部省への望みに共感した。 文部省の問題は、今も、無関係なことではないように思われる。
2005/05/30
小海永二さんが必読の名著として紹介されていた。やっと図書館で見つけて読んだ。マヤ=キチェ族インディオの女性の聞き書きをまとめた一冊である。小海さんのことばにたがわぬ好著だった。 語り手のリゴベルタ・メンチュウは、グァテマラの人口の40数パーセントをしめる先住民族のマヤ=キチェ族の女性である。この聞き取りを受けた時、23歳。そのときすでに一人の人間が一生に体験する以上の体験をしていた。 先住民族マヤ族は自然を大切にし、自然と共に生きる人たちであり、一時は高度の文明を築いていた。今は、ラディノの支配下で圧政に苦しんでいる。彼らの多くは辺鄙な山間や森の中に追いやられ、季節労働者として貧窮のどん底で生きている。 ラディノの地主達の支配はきびしい。メンチュウの共同体は、山を切り開いてようやく食べられるだけの収穫を得るようになるが、そうなるとすぐに地主達が政府の役人や軍隊とともにやってきて、先住民をだまし、脅して、その土地を取り上げる。金持ち達と政府と役人と軍隊が一体になった収奪と抑圧がすさまじい。 小さな共同体に分かれ、伝統と文化を守りながら生きる、先住民達は、やがて団結して自分達の土地を守ることに目覚める。大地を母と考え、土地私有制度というものを知らなかった人たちが、すべての根源が土地私有制度にあることに目覚める。 先住民達は、小さなつながりを無数につくっていく。やがて、それは、先住民の団体、ラディノの中の貧しい人たちとの連携をつくりあげ、政府を揺るがすまでの運動体に育っていく。 この本のすばらしいところは、先住民の豊かな思想と文化、すさまじいまでの貧しい暮らしの描写、抵抗運動の組織のようす、などが具体的に描かれる場面である。政府や金持ちが軍隊を使って弾圧するそのむごさ。メンチュウの父も母も弟もその中でむごたらしく殺される。貧しさと弾圧のむごさとその一方でそれに対抗する先住民族の勇敢さと高貴さとが心を打つ。そしてメンチュウさんたちの闘うすがたに未来への希望を感じる。それがこの本のすばらしいところだ。 今は絶版になっているが、入手できれば、ぜひ手元に置いておきたい。 くりかえすが人間の尊厳、人間の高貴さと未来への希望を感じさせてくれる一冊である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ リゴベルタ・メンチュウは、その後もグァテマラを中心に活動し、1992年、ノーベル平和賞を受賞。93年の国際先住民年の際には国連特別大使に就任したということである。
2005/05/29
森岡正宏厚生労働政務官の発言は、先の戦争を肯定し、戦前のような戦争をする国を待望する発言である。 日本帝国は、ポツダム宣言を受諾しており、そのポツダム宣言には、「吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては、厳重なる処罰を加へらるべし。」とあり、降伏文書には、「ポツダム宣言の条項を誠実に履行すること」を約束している。 森岡氏の発言は、これらの約束をすべて無効にし、戦争状態に戻そうという意味を含むものであり、大変な妄言である。 この発言に対して小泉首相は、「とりあげてもしようがないんじゃないですか」と問題にしない。その他の自民党幹部の発言もどうようである。それは、以下のような背景があるからだろう。(友人のホームページから引用) 「小泉首相の「未来志向」とは、靖国神社参拝をてこにして、アジア諸国に「大東亜戦争」の精神を肯定する日本を容認させ、過去において戦争をした普通の国、将来において戦争を辞さない普通の国という新しい装いで、アジア政治に対峙しようというのである。かくして、靖国参拝の強行と憲法改正への突進が日本の右翼政治の車の両輪であることがはっきり見て取れるわけである。」 「アジア諸国に「大東亜戦争」の精神を肯定する日本を容認させ、過去において戦争をした普通の国、将来において戦争を辞さない普通の国という新しい装いで」振舞おうと考えるから、戦争を過去と未来に渡って肯定しようと考えるからこのような発言がでるのである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 森岡政務官の発言(アサヒ・コムから抜粋) 森岡正宏厚生労働政務官は26日の自民党代議士会で、小泉首相の靖国神社参拝を「大変良いことだ」と支持する考えを示したうえで、「極東国際軍事裁判は、平和や人道に対する罪を勝手に占領軍が作った一方的な裁判だ。A級戦犯の遺族には年金をもらっていただいており、日本国内ではその人たち(A級戦犯)はもう罪人ではない」と述べた。 森岡氏は「中国に気遣いして、A級戦犯がいかにも悪い存在だという処理のされ方をしているのは残念だ。日中、日韓関係が大事というだけで、靖国神社にA級戦犯がまつられているのは悪いがごとく言う。こういう片づけ方をするのは後世に禍根を残す」とも指摘した。 小泉首相は26日、森岡氏の発言について、記者団に「聞いてませんけどね。今そんな発言を取り上げても、しょうがないんじゃないですか」と語った。A級戦犯の責任については「戦争裁判で済んでいるじゃないですか」との認識を示した。 細田長官は同日の記者会見で、「事実関係は種々誤りが含まれており、論評する必要はない。極東軍事裁判などは政府として受け入れている。政府の一員として話したということでは到底ありえない」と述べた。
2005/05/28
JR西日本の井手取締役相談役が取締役を退いたが、顧問として残り報酬も支払われることで批判が高まっているという。この人事について垣内社長は「井出氏はJR西日本にとどまらず、旧国鉄の分割民営化にも大きな役割を果たした。その識見や経験を生かしてほしい」と語っている。(愛媛新聞) 朝日新聞は、退任について触れただけで、顧問就任の件については、全く触れていない。それどころか10版13面では、井手相談役退任「豪腕経営洗い直しを」と題して井出氏を擁護するかのような記事を編集委員に書かせている。 この記事では、井手氏の手腕を高く評価している。「井手氏の手腕が求められた」「経営手腕を発揮した」震災後「他の鉄道会社に先駆けて復旧させた」「現場に目を向けようとした」等々である。 ただ、井手氏の育てた経営風土が批判されているとした上で、「国鉄時代の無責任体制が残っていた」という井出氏の言い逃れをそのまま書く。これでは、井手氏を弁護しているとみなされても仕方があるまい。 この文章の終わりで編集委員はこういう。「二度と事故を起こさせない安全思想を盛り込みつつ、上場企業として投資家に利益を配分する責務をどう両立させるか。難しいテーマだが、JR西日本は、それを果たす責務がある」 井出氏は会長時代講演で「平成元年時点で、当社を100、私鉄を100といたしますと、現在当社は130までいっており、私鉄は逆に93に下がっているということでありまして、わたし達の努力がどのようなものであったか分かっていただけると思います」と語ったという。 編集委員の文章は、井手氏の「経営手腕」が生み出したものが、今回の事故につながっていないか、利益至上主義(投資家への利益配分)が事故の遠因ではないかという検証を全く欠いている。 国鉄民営化にあたって「人材活用センター」なるものを設置し、このセンターは「国鉄職員に効率優先に「転向」(安全優先の組合からの脱退)を迫る強制収容所だった。このおぞましい、労務支配のテクニック(たとえば草むしりの強制)が、現在もJRの現場に「日勤教育」などとして引き継がれているのである。」(週刊金曜日、立山学「事故防止には民営化路線を見直せ」)といわれる労組差別と労使協調路線を利用した経営、利益至上主義の経営を推進した人物と経営方針をこの編集委員は評価しているかのようである。 JR西日本の井出氏の処遇は、NHKの海老沢会長の顧問就任人事(取り消されたが)とよく似ている。この処遇をみてもJR西日本は事故への根本的な反省、検証をする姿勢に乏しいといわざるをえない。 そして、その人事に触れず、井出氏を擁護する朝日は、資本の立場に立ち、民営化の旗振りを続けている自社の姿勢をここでも貫こうとしているのであろうか。
2005/05/27
日中関係は経済的には日米間よりも大幅に比重をましている。これからも日中関係をはじめとするアジアとの関係はより重要になってくるに違いない。 だが、小泉首相は、日中関係やアジアとの関係よりも、日米関係を重視し、日本国内右派のナショナリズムを重視しているようである。(金子勝氏は敗北のナショナリズムといっている)相次ぐ靖国発言は日中間、また、アジアでの人たちの心情を逆なでし、緊張をかきたてている。 小泉首相の靖国関連発言は、さまざまに論評されている。だが、根本にあるのは、日中共同声明と日中平和友好条約を小泉首相が忘れている、あるいは、無視しているところにあるように思う。 日中平和友好条約には「前記の共同声明が両国間の平和友好関係の基礎となるものであること及び前記の共同声明に示された諸原則が厳格に遵守されるべきことを確認し、・・・」とある。 日中共同声明には「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」とあり、「復興三原則」を十分尊重する立場に立つことを確認している。 このことからいえば、靖国参拝、教科書問題等は、条約の前提となる、過去への責任と反省を拒否していることに通じる。また、アメリカとの共同戦略の展開、日本の軍事国家化は、さらに、平和友好条約、共同声明、復興三原則を裏切ることになるだろう。 小泉首相の靖国発言や靖国参拝は、それ自体が憲法違反であり、アジア諸国の人々への背信であるが、こうした一連の問題とつないで考えるとき、更に重要な意味を帯びる。 小泉首相は、日中共同声明や日中平和友好条約に立ち返って自己のありようを点検すべきだと思う。
2005/05/26
旧国鉄の分割・民営化の先頭にたち、JR西日本の社長・会長を11年近く努めた井手相談役のインタビューが25日の朝日に出ている。まさに居直り、傲慢発言である。 まずJR西日本の企業風土が事故の背景にあるのではという質問には、旧国鉄のあしきものが残存し、復活したのだといい自社の企業風土を棚上げして旧国鉄のせいにする。 経営効率を追求しすぎたのではという質問には、効率を上げるのは当たり前、安全を無視してまで効率一辺倒にはしていないと、107人もの死者と500人以上の負傷者を出したことへの反省のかけらもない。その上、阪神大震災で新幹線新幹線高架補強やトンネル崩壊事故で集中的に投資をしなければならなかったことを言い訳にする。 日勤教育についての質問には、それは当たり前だし、一分でも遅れれば大きな社会的なロスというのはものすごいストレスとなると乗客のストレスを理由に正当化する。 過密ダイヤについても、東京より余裕がある。お客のためだとこれも何の反省もない。 万事がこの調子である。このような社長・会長が11年も君臨し、民営化の旗手と奉られたら安全への配慮がどうなるか容易に予想できる。 インタビューの最後には、後続の快速電車を2,3分待つのをやめさせたといい効率優先の姿勢を自ら述べながら、「井手がスピードマニアとか効率一辺倒とかいうのはやめてほしい」とも述べる。 朝日は一面で「国鉄時代の無責任体制残った」「運転士の再教育当然」という見出しをつけていたが、むしろ「効率第一あたりまえ」「安全軽視はしていない」という見出しをつけたほうが、井手氏の本音に近かったのではないかと思う。 社長が何回頭を下げて見せても、このような考えで会社が創立当初から運営され続け、今も、なんらの反省も行き続けている限り、会社は変わらない。このような幹部は総退陣し一から出直す必要があるだろう。
2005/05/25
旧国鉄の分割・民営化の先頭にたち、JR西日本の社長・会長を11年近く努めた井手相談役のインタビューが25日の朝日に出ている。まさに居直り、傲慢発言である。 まずJR西日本の企業風土が事故の背景にあるのではという質問には、旧国鉄のあしきものが残存し、復活したのだといい自社の企業風土を棚上げして旧国鉄の生にする。 経営効率を追求しすぎたのではという質問には、効率を上げるのは当たり前、安全を無視してまで効率一辺倒にはしていないと、107人もの死者と500人以上の負傷者を出したことへの反省のかけらもない。その上、阪神大震災で新幹線新幹線高架補強やトンネル崩壊事故で集中的に投資をしなければならなかったことを言い訳にする。 日勤教育についての質問には、それは当たり前だし、一分でも遅れれば大きな社会的なロスというのはものすごいストレスとなると乗客のストレスを理由に正当化する。 過密ダイヤについても、東京より余裕がある。お客のためだとこれも何の反省もない。 万事がこの調子である。このような社長・会長が11年も君臨し、民営化の旗手と奉られたら安全への配慮がどうなるか容易に予想できる。 インタビューの最後には、後続の快速電車を2,3分待つのをやめさせたといい効率優先の姿勢を自ら述べながら、「井手がスピードマニアとか効率一辺倒とかいうのはやめてほしい」とも述べる。 朝日は一面で「国鉄時代の無責任体制残った」「運転士の再教育当然」という見出しをつけていたが、むしろ「効率第一あたりまえ」「安全軽視はしていない」という見出しをつけたほうが、井手氏の本音に近かったのではないかと思う。 社長が何回頭を下げて見せても、このような考えで会社が創立当初から運営され続け、今も、なんらの反省も行き続けている限り、会社は変わらない。このような幹部は総退陣し一から出直す必要があるだろう。
2005/05/25
国民、特に庶民、低所得層の切捨てが各分野ですすんでいる。これで、まだ政治家が強烈な批判を浴びないのは不思議でならない。 現在参院で審議中の介護保険法案もその切捨ての一つであるが、自公民で激しいやりとりがあった当話も聞かず、報道も不十分である。国民がほとんどなにも知らないうちに、重大なことがひそかに進んでいく。 法案では、介護施設の入所者から、部屋代、水道代、光熱費、食費を徴収するのだという。在宅サービスとのバランスを取ると厚生省はいっているらしいが、それは口実で、介護給付費の削減が大きな狙いだという。介護保険料の大幅引き上げ、介護年齢の人たちへの税負担の大幅増を進めながら、その一方で、これである。 法案では、相部屋の標準的な部屋代として月額1万円、食費4万千円を想定しており、実際の金額は入所者と施設の契約によるという。ユニット型個室の場合、6万円になるという。 この措置で困るのは低所得層、庶民だろう。それでなくとも低い年金からこれだけの負担は、退所を要求されているのに等しい。 厚生省は将来、ユニット型個室を特養ホーム全体の7割まで増やす方針だというが、特養ホームは今でも生活保護受給者など低所得者が入所者全体の約8割を占めるというから、これらの人たちは将来、次々と退所を迫られる可能性がある。 介護の負担を軽くするためつくられたはずの制度、国民全体が介護保険料を負担している制度が、逆に負担を増し、排除され、不安な老後を迎える。その一方では恵まれた所得の持ち主が、ぬくぬくと安心した老後を過ごせる。こんな構図が思い浮かぶ。 ここでも弱者、庶民の切捨てと、格差の拡大がつくられようとしている。 (注)参考*愛媛新聞「核心評論」~介護施設の居住費徴収、在宅との単純比較疑問~共同通信編集委員 楢原多計志
2005/05/24
JR西日本についての報道を見聞きしていると、メディアが避けようと、あるいは触れまいとしていることがあるように思う。メディアが避けたり、触れないこと、タブーにしていることは多いが、ここでもという感じである。 JR西日本報道の場合、それは、国鉄民営化、つまり民営化の功罪ということである。民営化は続々と進められ国民の財産が二束三文で民間に払い下げられ、それによって政官財はおおいに潤ったようだが、果たしてそれが国民にとってよかったのかということである。国民にとってよい場合にこそ民営化は成功といわれるべきだろう。 JR西日本を見ていると国鉄民営化は決して成功とはいえないと思う。国鉄時代に政治家達が自らの利益のために垂れ流した赤字は増す一方だし、新幹線は作り続けて国民の負担は増え続けている。その上、国労の壊滅で批判勢力は、大いに弱体化した。そして、相次ぐ事故である。 JR西日本に関連して民営化に触れるべきメディアがそれに触れないのは、郵政民営化を進める政府に遠慮してかもしれない。いや、例によって政府の政策を無批判に支持しているからかもしれない。メディアは、自らの過去の罪も反省せず、民営化礼賛をつづけいる。 こんな時に書かれた次の文章にわたしは同感する。 「メディアは、中曽根「国鉄解体」路線に同調、「赤字・たるみ・人員余剰・国労避難」キャンペーンで民営化に加担した。そして今ーーー。 (効率的な運営をして、収益をあげることは企業として当然のことだ。そうした意識が定着したのは、国鉄が民営化されたプラスの面だろう。しかし、収益をあげようとするあまり、安全を軽んじてしまったのでは元も子もない)(5月10日づけ朝日社説) まだ、こんなことを言っている。」 ~週刊金曜日5月20日号~ ~山口正紀氏の文章「分割・民営化 問い直す視点を」より~ 社説の言い分は恥知らずの見本といえそうだ。
2005/05/23
JR西日本についての報道を見聞きしていると、メディアが避けようと、あるいは触れまいとしていることがあるように思う。メディアが避けたり、触れないこと、タブーにしていることは多いが、ここでもという感じである。 JR西日本報道の場合、それは、国鉄民営化、つまり民営化の功罪ということである。民営化は続々と進められ国民の財産が二束三文で民間に払い下げられ、それによって政官財はおおいに潤ったようだが、果たしてそれが国民にとってよかったのかということである。国民にとってよい場合にこそ民営化は成功といわれるべきだろう。 JR西日本を見ていると国鉄民営化は決して成功とはいえないと思う。国鉄時代に政治家達が自らの利益のために垂れ流した赤字は増す一方だし、新幹線は作り続けて国民の負担は増え続けている。その上、国労の壊滅で批判勢力は、大いに弱体化した。そして、相次ぐ事故である。 JR西日本に関連して民営化に触れるべきメディアがそれに触れないのは、郵政民営化を進める政府に遠慮してかもしれない。いや、例によって政府の政策を無批判に支持しているからかもしれない。メディアは、自らの過去の罪も反省せず、民営化礼賛をつづけいる。 こんな時に書かれた次の文章にわたしは同感する。 「メディアは、中曽根「国鉄解体」路線に同調、「赤字・たるみ・人員余剰・国労避難」キャンペーンで民営化に加担した。そして今ーーー。 (効率的な運営をして、収益をあげることは企業として当然のことだ。そうした意識が定着したのは、国鉄が民営化されたプラスの面だろう。しかし、収益をあげようとするあまり、安全を軽んじてしまったのでは元も子もない)(5月10日づけ朝日社説) まだ、こんなことを言っている。」 ~週刊金曜日5月20日号~ ~山口正紀氏の文章「分割・民営化問 い直す視点を」より~ 社説の言い分は恥知らずの見本といえそうだ。
2005/05/23
郵政民営化と国連常任理事国入りが現在の政府の二大課題らしい。メディアのにユースもこの二つをメインにすることが多い。だが、なぜこれらが必要なのか。当面の重要課題なのか、私には分からない。 わたしに分からないのは、政府から説明がないからだ。首相も「改革の本丸」だの「重要課題」だのというだけで、具体的な説明はなにもない。 今朝のサンデーモーニングでもあれこれといっていたが、必要な理由についての説明がやはりうすかったように思う。 郵政民営化は何度か触れたのでおくとして、国連常任理事国入りがなぜ重要課題なのか、よくわからない。全大使を招集するというような例外的なことをし、外務省=政府の悲願だなどといいながら、そうなったらどういうことをしようと考えているのか。また、どういうメリットがあるのか説明をせず、ただ加入促進をうたうだけだ。 外務大臣は平和国家として60年などと強調していたが、あれほど憲法の平和主義を攻撃してきた与党あるいは政府、町村外務大臣が平和国家をいうのは、ただの口実でしかない。宗旨を変えて、国連で平和主義を広めるというわけでもあるまい。 戦争責任をきちんと清算せず、平和主義とは逆の道を選ぼうとしている国であり、アメリカの世界戦略、軍事戦略の一翼を担おうとしている国が参加することはアメリカの票を一票増やす以上の意味はないだろう。 サンデーモーニングのコメンテーターで毎日新聞の幹部である岸井という人物は、平和国家、唯一の被爆国の参加の意義を強調すべきだなどと、常任理事国入りを支持する発言をしていたが、これまで平和国家としての役割、唯一の被爆国としての役割を果たしてこなかったという事実を無視したよいしょ発言にすぎない。 こういう発言をのぞけば、具体的な理由の説明はない。だからわたしにはどうしてもこれらが重要課題である理由がわからないのだ。 以上国連常任理事国入りについて触れたが、肝心のことを説明しないまま政治が(多くの政治家の好むことばでいえば)「粛々と」進められることが多すぎはしないだろうか。 「粛々と」という時、そこには主権者無視のにおいがする。
2005/05/22
愛媛県内民間放送4社が「指定公共機関」の指定を受け入れた。これで、まもなく愛媛県が予定している14公共機関の全部が指定を受け入れることになる。 武力攻撃事態法と国民保護法では、武力攻撃事態等ということばが繰り返し使用されているが、この等は、武力攻撃予測事態を表す。予測事態とは、どのようにでも判断できる概念で、誰が認定するかの手続きがなく、総理大臣一人の判断で決定、戦争に突入できるという危険なものである。 これと緊急対処事態を含めて、そういう事態になれば、指定公共機関としてのメディアは政府の流す情報をそのまま流す義務が生じる。 このような事態に政府の情報のみが流されるということの危険性は、先の戦争でも経験済みのことである。 更に、指定公共機関は、平常から業務計画を策定、報告し、訓練をする必要が生じる。平時に、有事・戦時が生じないようにすべき政府がその反対のことをしようとしているとき、メディアがそれと足並みをそろえて平時の有事化に強力することは、ジャーナリズムとしての使命を放棄することになる。 まっさきに受け入れたNHKといい、今回の愛媛という地方の民間放送機関の受け入れといい、批判を欠いたまま体制に流され、巻き込まれていっていいのだろうか。
2005/05/21
愛媛県の松山市に「素心居」というアトリエがある。ここでは、障害を持つ人たちが絵を書いたり、焼き物を作ったりしている。私はまだいったことがないけれど報道などで何度も接している。 また、まだ素心居の出来る前に彼ら彼女らの焼き物を見たことがある。縄文土器を思わせる迫力のある作品だった。 素心居は彼ら彼女らに作品をつくることを教えた河部樹誠さん(養護学校の美術の先生)が自費を投じてつくったものだという。そこで卒業後も、作品をつくり続ける彼ら彼女らの作品は一段と素晴らしいものになっている。 DAYS JAPAN 6月号には、武田直さんの写真と辛淑玉さんの文で作品と作者が紹介されている。 鮮やかな色彩と単純化された形は、辛淑玉さんが「となりのピカソ」と呼んだのにふさわしい美しいできばえである。 これらの美しい作品を見ながら、人間の中に潜む可能性というものを見せてもらっているように感じた。 素心居は、ホームページをつくっている。「素心居」で検索して一度ぜひ見てほしいと思う。 DAYS JAPAN 6月号も書店で目を通してほしい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ウズベキスタン問題について(メモ)TUP 500号にウズベキスタン関連の興味深いニュースが紹介されている。ここにその一つをメモしておく。ウズベキスタン問題でもロシアやアメリカのメガネを通した報道が多いことに注意が必要なようだ。★ここにもアメリカの暗い影が・・・ 米国の「テロとの戦い」の新しい同盟国であるウズベキスタンでは、反政府デモの鎮圧で、一般市民も含めて500人の犠牲者が出た。 そのウズベキスタンにおける人権侵害の実体を暴露したことが原因で大使を罷免されたと主張するウズベキスタンの元英国大使、クレイグ・マレーは、今回の惨事について、こう語った。「あのデモは、タリバーンのようなイスラム過激派が先導したと喧伝されていますが、参加者には穏健的なイスラム教徒が多く、宗教的な要因は、大したことはなかったのです。 この惨事は、米政府の横っ面をはるようなできごとです。というのは、米国は、拷問が日常的に行われていると悪名高いウズベキスタンの軍や警察に、年間10億円もの援助をしているからです。 米政府は、『ウズベク警察に、あまり弾圧的になりすぎないような尋問の仕方を教えている』と主張しますが、それは基本的に真実ではありません。 ブッシュ政権が、そんなウズベクの治安機構に何十億円も与えるのは、南部のカナバードという町にアフガン軍事行動のための米空軍基地を置かせてもらっている『甘いお礼』なのです」 英国 オブザーバー紙 5月15日http://observer.guardian.co.uk/international/story/0,6903,1484252,00.html
2005/05/20
書評に引かれて買ったまま、ながくそのままにしていたのをやっと読んだ。人物のつながりをたどれば、大河小説ともよめる短編小説集である。 全体の柱の一つは生物学を中心にした学問の流れであり、いまひとつは、登場人物それぞれの愛の物語である。時代は一編をのぞいて19世紀。舞台はイギリスとヒマラヤとアメリカだが、主に自然豊かな辺境のアメリカである。 表題の「地図に仕える者たち」と「森」と「静養」が特に楽しめた。 「地図に仕える者たち」は、大英帝国が植民地支配を拡大する過程でヒマラヤの詳細な測量地図を作ろうとする。その作業に従事する一測量士を描いている。今人物は全体をつなぐ家庭の当主となる人物である。 彼の内面と同時にヒマラヤの測量の描写や、大英帝国の植民地経営の実態のいちぶに興味をひかれた。 「森」は、彼の子孫の女性と、年老いた科学者との交流のお話である。この短編集では一番面白かった。パーティーの場面の活写、そこを抜け出して公園の鹿を見に行く場面、最後に二人がそれぞれの行き場所を求めて出発するところなど。 「森」の科学者の母親がナチスに殺されているらしいこと。だが、科学者は母親が生きて森の野牛の再生の仕事に生涯をささげていると信じようとしているらしいこと。そんなことが、作品に深みを与えている。 「静養」には、測量士の孫の代の出来事が描かれる。アメリカの辺境の結核療養地で「静養」用の宿泊所を経営する女性とその周辺の人々の落ち着いた生活、死と向き合った患者との静かな生活が描かれる。 この作品集を読んで、ある意味で非常に古典的な世界が描かれ読まれていることに驚いた。19世紀のアメリカにこんな世界もあったのだと改めて、私が抱いていたイメージの狭さを思いしったのだった。 この作品にはついこの間といえる19世紀の科学の世界の一端も描かれており、その面での興味を引く作品でもある。
2005/05/19
靖国参拝についての中国の批判に小泉首相は「罪を憎んで人を憎まず、これは中国の孔子のことばですよ」といって自らの行為を正当化しようとした。そんな中国古代の一思想家のことばで正当化できるものではないが。 彼は、「米百俵」とか「三方一両損」とか古臭い、陳腐なことばを引用するのが好きだ。だが、そのウソも今ではすっかり明らかになっている。それらのことばをもてはやした「タイコモチ」の連中は黙っているけれども。 靖国参拝については、「国にはそれぞれの追悼のやり方がある」ともいった。このことばは問題山盛りだ。靖国参拝を国の追悼の方式だといつ誰が決めたのか。決めたのなら、これははっきりとした憲法違反だ。それとも首相として国を代表する形で参拝するというのだろうか。これももちろん憲法違反。 「日本が戦後60年間平和のために努力をしてきたことを理解してほしい」とも言っている。憲法改悪を推進し、憲法遵守義務を踏みにじっている人物のしらじらしいことばだ。憲法改悪がアジア諸国にどれだけの疑惑と不安をもたらしているかを想像する力もない。 以前は「死んだら仏とみなして、差別しないのが日本の伝統」などともいった。そんな伝統などない上に、靖国では、死んだら「神」になるのであって「仏」になるのではない。それに靖国神社自身がいうとおり「靖国神社」は死者を選別する。つまり、差別するのである。 勝手な伝統を作り、靖国参拝を続けることを合理化することはできない。中国や韓国のA級戦犯だけはどうかしてほしいという要求は最低限のものだろう。それによって先の戦争を合理化し肯定することだけはやめてほしいという要請に、理由が分からないなどというのでは総理失格だ。 ハチャメチャ発言は枚挙に暇がない。少しだけあげたが、それにしても、彼が靖国参拝にあれだけこだわる理由が分からない。北朝鮮外交は行き詰ったまま、韓国とも不必要な緊張をつくり、中国外交も行き詰っている。これらの国との友好の必要性が首相には、わからないのだろうか。 それとも、アメリカと何かの約束をしているのか。アジアで混乱と緊張がつづくことを望んでいるアメリカにどこまでもついていくためにやっているのだろうか。 アメリカとどこまでも一体化することを理想とし、いわば心中するのは、日本に暮らす人々にとって悪夢である。 それにしてもコケの生えたような首相の引用に拍手を続ける連中のタイコモチ精神にはあきれるほかない。
2005/05/18
エッジ・オブ・アメリカとは、アメリカン端っことでも言う意味だろうか。なにげなくテレビのチャンネルを回し、つい見てしまった。 舞台は、まさにアメリカの端っこ、ネイティブアメリカン(インディアン)の居留地である。そこへ、マイノリティーとした端っこの存在であるアフリカ系アメリカ人(黒人)が教師としてやってくる。 荒地にある居留地で暮らす人々の貧しさ。そこにある底辺の高校のさえないバスケット部。そのバスケット部を州大会の決勝せんを戦うまで彼は育てる。決勝でまけるが、彼は彼らは人生において決して負けては居ない。むしろ勝者である。といったお話であった。 ネイティブアメリカンの生活はそれほど描かれず、スポーツ物語としての定型であるが、それなりに面白い。 高校に学ぶネイティブアメリカンのすさみに反映させてアメリカの差別政策がすこし描かれるが、中心は、その差別をバスケットの練習と試合を通して乗り越えていく姿である。 端っこに生きるものどうしの連帯が描かれているという点で、パターンにはまった映画だが、それなりに楽しませてもらった。
2005/05/13
個人情報保護法についてはその危険性が指摘されていた。主にジャーナリズムの関係者から出され、当の個人にとっても有害でありうることについては指摘が弱かったように思う。 JR西日本の事故に関連して、沿線自治体が見舞金の支払いや安否確認などのために、JR西日本に負傷者の名前や連絡先についての情報を求めたところ、個人情報保護法の規定を理由に拒否したことで、その危惧が現実となった。(その後会社側は、書面で要請があれば検討すると変化) JR西日本は死者、負傷者の情報を一手に握っている。一方被害者や関係者は一部の情報しか把握していない。この関係は、両者が争った場合、圧倒的に会社側が有利になる。 被害者が相互に連絡しあい、話し合うことの必要性は、補償という以前に、精神的な面でも指摘されたいる。被害者側の情報は、個人情報の保護ということで、入手できず、被害者自身の努力で、一つずつ入手しなければならない。 それに対して、情報を一手に握る会社は、個人情報保護という名目で、被害者へ渡すことを拒みうる。同時に、その情報を使って、どのようなことでも出来る。 御巣鷹山日航機墜落事故の際、日航側がとった、被害者同士の連絡、交流、組織への妨害、切り崩しは凄まじいものがあった。同じことがこんどは、個人情報保護を名目になされないとは限らないのではないか。 個人情報保護法が本当に個人を守るものになるかどうか、こんなことからも安心できない。 国会では、人権擁護法案が審議されている。これも、本当に個人の人権を保護することにはならない危険性の方が大きいように思う。 個人保護を名目に肝心の個人の権利が狭め、奪う動きが進んでいる。
2005/05/12
昨年、相次ぐ台風で百名近くの死者が出た。さすがにメディアも報道をしたが、その最中に、中越地震が起こった。死者四十余名の大災害。それにつづいて玄界島の地震。JR西日本の大事故。 その都度、メディアは大報道をする。センセーショナリズムに流され、次に何か起こると大報道もすぐに忘れてしまう。報道は、本質や背景や原因を掘り下げるということをしない。情緒的、感情的報道を垂れ流すだけだ。 こうして、事件も事故も災害も、すぐ忘れられる。メディアも政府も忘れてしまう。 忘れるということは見捨てるということに近い。台風も地震も復旧も補償もまだまだだ。JR西日本などまだ始まったばかりだ。 だが、メディアは流されていく。そして、メディアの受けても共に流されていく。流されて喜ぶのは政府関係者や会社だけだろうに。 JR西日本の大事故も、昨日からウソのように報道されなくなった。イラクで日本人が拘束されたからだ。 それにしても、おとといまでの涙涙の大報道、正義を叫ぶ報道はなにだったのか。 本質を追うことを忘れた、センセーショナリズムに流れるメディアとともに流されたくないものだ。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 戦争請負会社(メモ) イラクで拘束された日本人が働いていたのは、「警備会社」と報道されているが、正確には「戦争請負会社」あるいは「民間軍事会社」である。実態についてはいろいろのサイトがあると思うが私には以下が参考になった。 ジャーナリストの綿井健陽さんのホームページの記事 5月10日の 戦争の「下請け化」(http://www1.odn.ne.jp/watai/から) 5月8日の 「戦争の悪化」もご参考になる。 ジャーナリストの志葉玲さんのブログから 「イラクで日本人拘束/英系警備会社 に勤務か?」 http://reishiva.exblog.jp/d2005-05-10 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 憲法についてのいいことば(メモ)「カフェ・ヒラカワ」より全文素晴らしいけれど、結びの部分。 http://plaza.rakuten.co.jp/hirakawadesu/diary/200505090000/ 「俺は憲法を無条件で信ずるべきだなんぞといいたいわけではない。変えたきゃ変えればいい。ただ、何をやりたいのか、そうすることによって、どこが現行の憲法と抵触するのかということだけは、明確にしてもらいたい。そのやりたいことが日本人の総意であるならば、確かに憲法は実情に合わないといえる根拠になる。先に憲法を変えていて、憲法に書いてあるからやりたいことができるというのでは話の筋目が通らない。俺は、敗戦という厳しい現実の中でぎりぎりの思考の果てに生まれたテキストを、先人たちが日本という国家の旗印として選んだのであれば、その精神から学んでいければよいと思っている。混沌としてきた世界情勢の中で、どうにも胡散臭い二世議員たちの言うふつうの国になるんだという改憲理由よりも、戦争というものを肌身に染みこませた人々が、平和の理念を掲げ、これを受け入れ、それを遵守しようとしたことに対して、すくなくとも敬意を表したいと思っているだけなのである。自分たちが加担してきた現行憲法に対する敬意の無いところに、誇りもへったくれもない。」 内田樹氏のブログから。 これも素晴らしいが結びの部分だけ。(これだけでは少し分かりにくいが) 「これはフランス革命以来の世界政治史の経験がその論理を整えた1945年時点での憲法案の「模範解答」だからである。開示済みの「模範解答」が手元にあったから「素人」にも書き写せたのである。その意味で日本国憲法は「アメリカ軍が恣意的に押しつけた」ものという判断に私は与さない。もちろん日本国憲法の中には憲法史的「模範解答」には含まれておらず、明らかに「アメリカ軍が恣意的に押しつけた条項」も含まれている。日本国憲法中の条項で、それに類するテクストがアメリカ人たちが参照したはずの先行憲法の「どこにも」含まれていないものは一つしかない。それは第一章「天皇」である。もし「アメリカ軍に押しつけられた」という歴史的事実それ自体がテクストの価値を損なっているということを憲法改正の心理的動機に数えるのなら、「まず」改訂すべきは九条ではない(何度も言うとおり、九条は1927年の不戦条約の文言を「コピー&ペースト」したものであり、大日本帝国はいかなる軍事的強制にもよらずこの条約に調印していたからである)。もし「押しつけ」を理由に廃絶すべき条項があるとすれば、何よりもそれは「第一条天皇」である。だが、私は第一条を改訂せよ(そして「天皇制を廃止せよ」あるいは「天皇親政」に戻せ)と主張する「押しつけ憲法論者」に会ったことがない。なぜ当然「現実」となってよいはずの「第一章改訂」が議論の主題にならず、当然「現実」となってよいはずの「憲法内部の論理的不整合批判」を語る声が聞えないのか?それは「現実」と「非現実」の分岐点はどこにあるのかという問いが決して「いわゆるリアリスト」たちの思考の主題になることがないからである。」
2005/05/11
殺人事件の被害者は、殺されたという。病気で亡くなった人は殺されたとはいわない。死んだという。病院の過ちがあった場合は、比ゆ的に殺されたといったりする。 戦争の被害者の場合、殺されたというだろう。では、戦争の犠牲になって命をなくした人はどうだろう。これも場合によれば国家に殺されたといってもいいだろう。戦闘で殺され、そして死んだ。 なだ・いなださんは、靖国神社は戦争で殺された人を祀る神社だという。でも、そういわないのは、殺されたというと、その人たちを送った国の責任が問われるからだという。 殺されたと死んだあるいは、死者が出たとでは、ことばの重さが違うのだ。 では、JR西日本事故の場合はどうか。事故で死んだのか。殺されたのか。殺されたのなら、殺したのは誰か。 これからの裁判で厳しく問われるだろう。その時会社はどう応えるだろうか。
2005/05/10
昨日の報道できになったことがあった。ほんのちょっとしたことだが、大きな違いがあるので、報道の受け手として自戒の意味も込めて検討しておきたい。 次の記事は昨日のJR関係者の宴会に参加した議員の発言の報道である。 「席上『復旧を急ぐと共に、利用者の信頼回復のためにJRとしてがんばってほしい』とあいさつ。」(朝日) 「宴会に先立ち、出席者は事故の犠牲者に黙とう。黙とう後から参加した梶原議員も『犠牲者の冥福(めいふく)を祈り、信頼回復のためにがんばって欲しい』とあいさつするなど、参加者全員が重大事故の発生を認識していた。」(読売) 朝日は一面トップの記事にしている。読売はネット記事だが、それほど長い記事ではなかった。 両者を比較して不思議に思ったのは、読売にある「犠牲者の冥福を祈り」ということばが朝日にはないということだ。この語があるとなしとでは、議員が重大事故の認識をもっていたかどうかが分かれる。 朝日の記者にどのように取材したのか分からないが、ちょっとしたことばであってももし取材していたのならカットしてはいけないと思う。 報道の受け手として思うのは、つねづね軽く読み飛ばしている記事の背後にあるもの、記事が報道しない世界、記事がつくられた場面を想像しながら読む、出来たら比較しながら慎重に読むという習慣を持ちたいということだ。 面倒ではあるが、すべての記事にそうする必要もないから。 昨日、二つの報道に接しふと気づいたことである。
2005/05/09
8日づけ朝日によると、JR西日本脱線事故当日、JR西日本社員で構成する親睦会「丹波群団会」メンバー39人が宴会とカラオケをしていたという。 宴会では冒頭参加者全員が黙祷。その後2時間、宴会カラオケを楽しんだ。この会には地元出身の梶原康弘衆院議員(民主)も参加していた。 議員の挨拶「復旧を急ぐと共に利用者の信頼回復のためにがんばってほしい。」 この件を公表しなかったことについて、同社広報室「(会合を開いた団体は)会社内部の組織ではない。あくまでもプライベートな問題で、会社として把握するものではないと考えている」 突然起こった事故でその時点での社員の行動がやむをえないものもあり、すべてが責められるものではないと考えているのは以前も書いたととおり。それに、会社が将来の訴訟なども見越してすべてを社員に押し付けようとする姿勢が見られることを批判するのも変わらない。 でも、これはどうも。と思う。死者がつぎつぎと増えていることも知りながら、犠牲者に黙祷もささげた上でというのがあきれる。議員さんも招待していたのでやめられなかったのか。ここで旧国鉄体質をいう人がいるが、むしろ民営化された新会社の退廃した体質のほうを私は見る。 同社が全員調査をしながら、この問題についてはあくまでプライベートというのも不可解だ。それなら調査したほとんどがプライベートだろう。議員の参加ということで公表を控えたのだろうが、ここにも同社の体質が伺える。また、事故の責任を社員個人のあり方にすりかえようとする姿勢がうかがえるような気がする。 終わりに、マスコミがこのような問題ばかりに集中し、事件の背景や底にある原因を掘り下げる点が相変わらず弱いことは、変わっていないようだ。
2005/05/08
JR西日本の社員の事故当日の行動についてJR西日本は詳細な調査をして報告、謝罪した。事故当日調査を混乱させる置石説をさっそく発表した割には、それ以外の対応には混乱や疑問の多いこの会社のこの対応には疑問が残る。 突発的な事故だったから、社員はさまざまなことをしていただろうし、さまざまな対応をしただろう。そのいちいちを責められるものでもなかろう。それを詳細な調査をして発表し謝罪をしてみせるところに、疑問がある。被害者の会を作ろうという人にあのように将来を予測しての冷たい対応をした会社だからなおさらである。 会社は、あのような発表、対応をすることで、問題を社員だけのことにすり替えようとしているのではなかろうか。利益優先、効率優先の会社のあり方、そこから来る苛酷な労務管理、それと裏腹な社員の社会への視点の弱さ、などなど物事の本質に迫らせないようにしようとしているのではないだろうか。 メディアも本質から遠いところで、ここの被害者の悲しい物語や社員のスキャンダルだけに焦点をあてようとしている。JR西日本にとっては願ったりかなったりであろう。 今日、JR4労働組合と会社との協議会が持たれた、テーマは安全な体制作りということだった。それはそれで必要なことだが、この時点で組合がすべきなのは、事故の原因をそのそこまで掘り下げ、会社に改善を迫ることではないだろうか。 JR西日本の一連の対応は、ことの背景、本質、根本の原因をおおいかくし、すべてを現場の社員だけの責任にし、会社としては、安全体制づくりというきれいごとだけで逃げようとしている気がしてならない。
2005/05/07
琉球新報のホームページを見ていて、沖縄戦新聞というのがあることに気づいた。昨年7月から作成しているそうで、知っている方も多いだろう。ホームページでは最新号しか読めない。第8号が最新号だった。 「沖縄戦新聞は記者が60年前にさかのぼり、当時の報道を検証しながら貴重な証言、新たな事実を加味して再構成する企画です。言論統制で当時伝えられなかった沖縄戦の全体像を現代の視点で報道します。」ということだ。 1~7号が読めないのが残念だが、第8号だけでもすごい迫力がある。トップ記事は「米軍が伊江島占領、住民1500人が犠牲、日本軍守備隊は壊滅」、だ。他に「女性も総攻撃に参加」「沖縄作戦打ち切り検討大本営陸軍部」「那覇、首里住民退去命令を検討、32軍司令部」「子どもや老人犠牲いとわず『国土決戦教令』配布」などの記事がある。いずれも周到な調査に裏付けられているようだ。 中でも「方言使えばスパイ 極秘の住人監視隊設置 沖縄守備軍」という記事は衝撃を受けた。 明治以降国語教育に力が入れられた。それには、国民の思想的統合といわゆる「標準語」の普及による国民統合の狙いがあった。そのため「標準語」普及とともに「方言」強制教育が徹底された。その中でも沖縄でのそれが凄まじいものであった。それは、沖縄方言といわれるものが、一つの言語として独立させえるほどに、本土の「日本語」とは距離があったからだ。 いくら「標準語」教育に熱を入れても、学校を離れれば、それを話せない、あるいは十分に話せない人は多かったに違いない。そこへこれである。記事によると第32軍会報には次のようにあるという。 「じこん(今後)軍人軍属を問はず標準語以外の使用を禁ず。沖縄語を以て談話しある者は間諜(スパイ)として処分す」 軍は住民を監視するため、特務機関「国士隊」をひそかに結成した。こうして沖縄の人々はスパイ容疑者として軍の監視下におかれたのだ。 沖縄戦の記録を読むと、実際、この会報のとおり沖縄語で話していてスパイとみなされ処分=殺された人もかなりいたようだ。 軍が住民による住民監視組織をつくり、住民を監視させ、本土の軍人には理解できない沖縄語を敵性語として排除し、それを使用するものを処刑する。本土の軍人の疑心暗鬼が生み出したものだ。 「標準語」を十分話せない人々にとってこれは、重圧であり、多くの犠牲を伴うものだった。統合は排除を伴い。戦争は排除されたものや弱者を犠牲にする。 この再構成された記事を読みながら、軍隊というものが決して住民を守るものではないということをひしひしと感じた。 すでに成立した有事法制も同じである。そしてもし憲法が改悪された時そこに生じる事態も同じだろう。沖縄戦の経験は、決して忘れてはならない貴重なものだ。そして、琉球新報のこの企画は、多くの人に読んでほしいと思う。 ぜひ、琉球新報のホームページで「沖縄戦新聞」を読んでほしい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ (メモ) 憲法記念日の社説では、琉球新報が一番だった。二番は東京新聞。 大新聞はだめでしたねえ。
2005/05/06
こどもの日には、部落でこども相撲大会がある。部落の男の子総出で相撲をとるのだ。この習慣は私のこどものころのずっと前からあったようだから、もともとはこどもの日というより端午の節句の行事だったのだろう。土俵をつくる場所にあるいは、明治維新の廃物希釈による神社統合で統合され廃された神社があったのかもしれないと今では思う。 今はどうか知らないが私のこどものころには、4日に近くの川原にリアカーを引いて土俵につかう砂を取りに行った。それから、大人の指導で土俵の俵を稲藁でつくった。御幣や景品を準備するのは中学生の仕事だ。 当日は、中学生がすべてを取り仕切った。相撲の取り組みの組み合わせ、行司、景品渡しと進行を責任を持って果たした。 私は相撲は弱かったが、ずいぶん強い子も居た。三人抜くや五人抜きをすると御幣をもらえたが、御幣をもらえる子がうらやましかった。 私のこどもも弱かったが、何事にも力だけではないコツがあるようで、それが私たちには分からなかったようだ。 今も行事は続いているが、どのようになっているのだろう。最近はいったことがないのでわからない。 農業の手伝いのよく出来る子、魚とりの上手な子、いろいろなものを作るのが上手な子、勉強のよく出来る子、いろいろな子がいたが、この日はみんなが熱狂した。そしてこの日に毎年輝く相撲の強い子がいたのだった。
2005/05/05
ブッシュ夫人ローラが4月30日ホワイトハウス記者団主催の夕食会で、早く寝る夫に不満を抱いていることを「暴露」、記者団の爆笑を誘った。 ローラ夫人は大統領のスピーチを途中でさえぎり登場。「9時には寝息が聞こえる」云々と紹介。 さらに「本当に世界中の圧政を終わらせたいのなら、もっと遅くまでおきていなきゃだめよ」と、苦笑いの大統領に語りかけ、喝采を浴びた。(ワシントン1日共同を短縮) 早寝の大統領をからかったジョークだが、「世界中の圧政を終わらせる」などというジョークが、ジョークでない本音と聞こえるところが恐い。 このジョークに喝采する記者団も恐いと思う。ブッシュあるいはアメリカあるいはアメリカ政府が世界のどの国が圧政か判断し、それを終わらせる権限があると考えることが恐い。 その場の雰囲気に自分達は世界を支配し、どんなことでも出来るのだというものがあったのかもしれない。 ジョークに目くじらをたてることもないのかもしれないが、アメリカの一面を象徴する記事だった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ JR西日本の運転士が二人事故車に乗り合わせていたのに、自己の被害者の救助活動をせず、近くの駅に向かい通常通り運転業務に従事していたということが分かった。 このことで分かるのは、運転士がいかにJR西日本の労務管理におびえており、従順になっており、その結果まわりが見えなくなっているかということだ。 救助活動をしなかったことの責任は逃れられないが、見落としてならないのは、救助を放棄してまで、遅刻を恐れ、仕事につくことを優先させるように仕向けているJRのあり方だ。 亡くなった、事故を起こした運転士も、そのような労務管理に縛られ事故につながる運転をしたのではないか。このような観点からも、事故原因を見る必要がある。 二人の運転士の行動についてJR西日本が発表を遅らせたのもそのあたりに理由があるのかもしれない。
2005/05/04
今日は憲法記念日。恒例の憲法集会にいった。参加者750人。よく集まったといえる。講師は浅井基文さん。外務省出身で氏ともうひとりくらいしか評価できないと誰かがいっていたが、素晴らしい講師だ。 レジメは、それを見るだけで十分なくらい周到なものを準備されていた。時間の都合で詳細なお話は聞けなかったが、それでも十分参考になった。後でレジメを読むのが楽しみだ。 お話で印象に残ったことをいくつか。 1、憲法押し付け論について・・・日本はポツダム宣言を受諾して降伏した。ポツダム宣言は徹底的に軍国主義の過去と決別して平和国家になることを要求しており、この宣言を無条件で受け入れた日本は平和憲法以外の道はなかった。そういう意味で押し付け論は成り立たない。 2、平和憲法と国連憲章の関係・・・憲法9条は徹底して力(武力)によらない平和を目指す点で力(武力)による平和を実現する立場にも立つ国連憲章とは、根本的に性格を異にする。 安保理の決定に加盟国は従う義務があるが、軍事的措置については、加盟国が自分でどうするかを決めることを国連憲章自体が定めている。 国連による国連が容認した武力行使が常に正しいとは限らない。 アメリカそしてアナン事務総長が予防的武力行使に積極的であることも、戦争違法化の歴史の流れの中で警戒を要する。 日本は平和憲法の立場にたって取り組むべきだし、取り組むことが可能だ。 国連との関係や国際社会での役割を強調することで9条改憲を合理化することはできない。 長いお話の中で印象に残ったことのなかから二つだけを簡単にメモしておく。
2005/05/03
今日の朝日新聞のJR脱線についての記事にこんな箇所があった。 「87年の民営化の前後10年間、人員削減策で高卒社員の採用がストップした。あおりで30代の運転手の割合は全体の0・5%にすぎない。私鉄との競争で運転本数は増えており、「一人でも運転士を確保するのが懸案」(JR広報室)だった。 JR東日本や同東海は社会人や経験者採用を積極的に続けてきた。一方、JR西は20代の若手を大量養成し、「空白」を埋めてきた。今や4割近くが20代だ。」 民営化の前後の人員削減とあるが、旧国鉄の民営化に際し、四大新聞を初めテレビも新聞も旧国鉄とそこで働く労働者をそろって大攻撃した。今見れば、攻撃の対象にならないようなことでも、攻撃した。 民営化を声を揃えて称え、労働者の削減をはじめとする「合理化」を揃って支持し、推進を煽った。この記事にある。運転士不足も、民営化に際し、旧国鉄関係労組弱体化のため、大量馘首をした結果でもあるのだ。 民営化、つまり私鉄となって、他の私鉄と競争することでいいことづくめであるかのような記事を連日書いた新聞が、こんな記事を何の反省も無くしらしらと書く。そんなところにジャーナリズムがジャーナリズムとしてのありようを見失っているように思う。 こういう報道のあり方を今ならメディアスクラムというのだろうが、最近ではその傾向が強まっているように思う。 あるモーニングショーに毎日新聞の幹部社員がコメンテーターとして出演している。他のコメンテーターが発言すると、割り込んで中和するような発言をする人物でいて、面白いと思う時がある。 それは、四大新聞社の態度についてときどき表明するときだ。有事法制の時も、「四社は有事法制支持ですから」といった。社説を比べてみるとそのとおりだった。郵政民営化についても「四社は推進の立場です」といっていた。そのとおりのようだ。これなどは分かりやすい例である。 小さなことで言えばメディアスクラムと思われることはたくさんある。 国会は、民主と自公がほとんど同じことをいっている。その上にメディアの論調まで似通ってくれば、人々の声は反映しにくくなるだろう。 メディアがそれぞれの独自性を失い、政権によりそってゆく時、メディアは誤った道を先導する役割を果たしていることになる。 新聞の記事から、旧国鉄民営化の際の報道を思い出し、こんなことを思ったのだった。 (補足) 内橋克人氏は「旧国鉄の民営化までさかのぼって、社会的、政治的に解明すべきだ。現場の責任者追及だけに終わらせてはならない。」「安全投資は渋り、株主対策には力を入れる。利益は株主還元と自社株買いに振り向けるか、現預金でそのまま抱え込んでいるのが日本企業の姿だ。これでは『公共』は守れない。民営化しさえすればすべてうまくいく、という小泉流構造改革に甘い拍手を送っていていいのか。国民は問うべきだ。」といっている。 メディアも被害者の悲しい話と現場責任を記事にはするが、こういう点での追求はほとんどしない。内橋氏もいうとおり国民もこの点を十分に問うべきだろう。 (愛媛新聞5月3日「民営化「成功」の陰に安全軽視、利益追求へ合理化優先」から)
2005/05/02
2001年、大阪の学校で児童殺傷事件が起きたとき、戸締りを厳重にして外部の人間が立ち入らないようにしろという通達を出した。今年の事件の後でも、校門の戸締りを厳重にしろという通達を出した。同じような通達を出したのは、忘れていたのか、不十分だと思ったのか。たぶんに忘れていて機械的に出したのではないかという気がする。 それというのも、政府関係者の忘れっぽいのことあきれるばかりだからだ。国民に約束したことなどもすぐ忘れるし、もっと重大なことは、過去の歴史で誤ったことなどすっかり忘れてしまっているからだ。 日の丸・君が代のもとで行われた教育がどういう結果を生んだか。戦後、文部省を中心に国が進めてきた教育がどういう結果を生んだか。もっと近くでいえば、「ゆとり教育」がゆとりゆとりの大合唱で出発したこととか。忘れっぽいのにはあきれる。 最近では、明治憲法下で行われた歴史的事実、政治的弾圧や侵略戦争のことなどもすっかりわすれてしまっている。あるいは忘れようとしている。 忘れて困ることは、過去の教訓が生かされず、再び誤りをくりかえすことだ。二世三世議員のひしめく政治家たちは過去の歴史的教訓を忘れ、あるいは忘れたふりをして抽象的空念の世界をさまよい、誤った方向を選ぼうとしているような気がする。 忘れたふりをする連中は論外だが、私は忘れないようにしたい。忘れている人々には記憶してもらい、忘れないようにしてほしい。忘れないためには、記憶をくりかえすことが大切らしい。 毎日毎日それをする必要は無い。一定の期間をおいて、記憶するほうが記憶には効果的らしい。 だから、せめて5月3日、8月15日といった節目の日だけでも記憶を確かめる作業、記憶を再生する作業、新たに記憶する作業をしたいものである。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 追記 ・・・池澤夏樹さんのメールマガジンに素晴らしい文章があった。その一部をここにメモさせていただきます。文明の悪の抑制の仕掛けを個人の心の中に設置する。そこで記憶の果たす役割が大切なのですね。・・・・ なぜ忘れてはならないか。 文明という集中の装置を得て、人は巨大な悪をなし得るようになった。 数万の人を殺すにはそこに数万の人がいなければならない。 日本語では普通「強制収容所」と呼ぶが、欧米ではconcentrationという 言葉が用いられる。 集めること、まとめること、集中させること。 これは文明の原理そのものだ。 文明は人やモノを都市に集めるところから始まった。 だから、文明に依って生きるかぎり、それがなし得る悪に対する抑制の 仕掛けが要る。 そしてそれは、結局のところ、文明を担う個人の心の中に設置するしか ないものだ。
2005/05/01
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