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なぜか首相になった首相が吠えている。国際社会がどうのこうのといっている。はて、国際社会のことを真剣に考える人だったろうか、国際社会ってなんだろうか。 今日の新聞で確認した。所信表明演説で、首相はこういっていたのだ。「海上自衛隊によるインド洋での補給支援活動を、わたしは、我が国が、我が国の国益をかけ、我が国自身のためにしてきたものと考えてきました。テロとの戦いは、まだ到底出口が見えてまいりません。尊い犠牲を出しながら、幾多の国々はアフガニスタンへの関わりを、むしろ増やそうとしております。このときにあたって国際社会の一員たる日本が、活動から手を引く選択肢はありえません。」 恐ろしいtことをいう人である。アフガニスタンへの支援は「我が国の国益」のためだと三度も繰り返している。アフガニスタンで罪のない普通の人びとが米軍のために大勢殺されているが、これも「我が国のため」だというのだろうか。 多くの国は尊い犠牲を出しながらアフガニスタンとの関わりを増やそうとしているというが、尊い犠牲とはどういう人たちをいうのだろう。米軍その他に殺されているアフガニスタンの人たちのことは首相の頭の中にはまったくないように読める。 そして、「国際社会」。国際社会とはなにだろう。世界のすべての国をいうのか。アフガニスタンは国際社会から除外されるのか。イラクやパレスチナや北朝鮮は、国際社会の一員でないのか。 もちろん、首相は「国際社会=アメリカとその周辺の数カ国」のことをいっているのである。もっとはっきりといえば「国際社会=アメリカ」。 首相は、アメリカに従属することでおこぼれを貰おうとする以外に日本が生きていくうえの選択肢 はないといっているのである。 国会の所信表明演説で、アメリカ従属以外に選択肢があるかと吠えてみせる首相の姿ほど情けないものはない。 追記 ・小泉氏の選挙以降、安倍、福田、麻生と国民の信託なしに、たらいまわしの首相は正統性を欠く。 ・所信表明演説は、そんな首相の政治理念、政治構想、政策の方向を国民に向かって明らかにするものだ。麻生氏は総裁選でなにか言っていたかもしれないが、あれは、党員向けのものである。国民に向かってはまだなにも語っていない。民主党にケンカを吹っかけるというのは別の場所ですべきことである。国民無視、国民をバカにした所信表明演説だった。 ・「国際貢献」で民主党に「それでもいいとかんがえるか」といったのは、滑稽だった。民主党は、アメリカに従属しないでやれるかと問うているわけで、目くそ鼻くそとである。所信表明演説のこの部分はいかにもアメリカの属国の首相らしかった。 ・首相の演説のあとはまあ、口からでまかせ。
2008/09/30
雨が降って、急に寒くなった。あちこち刈り残された田圃の稲が晴れるのを待っている。 田圃を隔てる畦は、今はコンクリート。畦が土であったころには、真っ赤に彼岸花が咲いていたのだが。 彼岸花が咲いていないことはない。それは、堤防の片隅に小さく一群隠れていたりする。 彼岸花は、マンジュシャゲとか葬式花とかそうれん花とか、いろいろに言われた。球根には毒があるともいわれたが、大切な救荒食物であるとも聞いた。球根をさらして毒を抜いて食べたといもいう。 かつての農林省があれこれと政策を進めるたびに、農村は荒れ、衰退していった。コンクリートの畦と彼岸花の不在はそのひとつの証明である。 農村は戦後復興のなかで利用されるだけ利用されて見捨てられた。 しとしとと降る雨の中で、かつて一面に真っ赤に彼岸花が咲いていた頃の村の姿を想った。
2008/09/29
中山元国交相の発言はひどい。その後の発言から判断すると確信犯だからおそろしい。しかも彼は各種大臣をはじめ与党の要職を歴任しているのである。 「ごねとく発言」にしても「単一民族発言」にしても、国会議員としてあまりにも蒙昧といえる。 ここでは日教組発言を取り上げるが、別に日教組でなくてもいいのだが、国会議員がある労働組合を「ぶっこわす」などという発言をしていいはずがない。中山氏は国会議員でなくても、憲法に定められた団結権についての知識くらいはあろう。 しかも、国会議員で閣僚である。労働組合をぶっ壊すなどという発言が違法行為であるくらいは知っておいてほしいものである。それが、辞任後の発言でも、政治家として貫くなどといっている。おそるべき無法な人だ。 またこんな発言もあるという。「ついでに言えば、大分県の教育委員会のていたらくなんて日教組ですよ。日教組の子どもなんて成績が悪くても先生になる。だから大分県の学力は低いんだよ。私はなぜ全国学力テストを提唱したかと言えば、日教組の強いところは学力が低いのではないかと思ったから。現にそうだよ。調べてごらん。だから学力テストを実施する役目は終わったと思っている」 発言の前半についてはあちこちで批判されている。だが、後半ももっと問題だろう。そうとうに反対や批判の多かった全国学力テストだが、真意は、日教組とこどもの学力との相関を調べるためだというのである。つまり、日教組をぶっこわすのが役目だというのである。 国鉄の分割民営化は、当時最強の労働組合であった国労を潰すのが目的と中曽根氏が自慢していたが、全国学力テストの実施は日教組潰しにあるという。これが真実とすれば、全国学力テストそのものが否定されることになる。 さすがに氏は大臣を辞任せざるを得なかったが、その辞任の会見でも開き直ったような発言が目立った。 放言、失言、妄言、暴言が飛び交う政治家の世界であるが、中山氏はまたいくつも付け加えた。 こんな人物が国会議員であり、与党幹部であり、閣僚であるとは。人間としても、政治家としてもレベルの低いことである。
2008/09/28
★生活保護世帯が110万を越した。完全失業者も多い。国民の多くは生活の苦しさにあえいでいる。 その時に自民党は総裁選の茶番劇を演じていた。五人のいうことは空しく風に吹き流された。総裁が選ばれ、首相が選ばれて、選ばれた麻生という人物が最初にしたことは、アメリカへ行くことだった。 国連総会へとんぼ返りした麻生氏は、日米同盟を中心に米国発の金融危機、米国がいうテロとの戦いに協力を誓った。集団的自衛権の解釈を変えると宣言した。国連でのことだが、すべてアメリカへの忠誠の宣誓である。 麻生氏には、多くの国民の苦しみは見えていないようである。見えているのはアメリカ政府やアメリカの財界だけ。 ★麻生氏といえば、数限りないといえるほどの放言、失言、暴言、妄言を頻発している。一部の人たちが好きな言葉である「品格」なぞかけらもない。むしろ、その正反対である。こんな人物が自民党の総裁に選ばれ、自公政権の首相となる。自民党という党の質の低さがはっきりとわかる。 ★麻生氏が首相に選ばれたのは、彼がそれにふさわしい力量があったからではない。三代の世襲議員として受け継いだ財力・人脈等があったからにすぎない。安倍、福田、小泉氏にしても同じである。 国会議員には世襲が多い。特に自民党は半数以上が世襲である。そして、彼らが政権の中枢を握っている。親の御蔭だけで大臣になる人物も多い。 世襲議員が権力を握る姿を見ていると北朝鮮も素直には笑えない。日本でも世襲議員が権力の中枢部におり、富裕層となっている姿をみると世襲議員階級とでもよびたくなる。 ★中山国交相が妄言を吐いた。内容をみると無知蒙昧、知性のかけらもみられない。もし、わかっていて放言したのなら、一部の人たちが好きな言葉でいえば、、まったく「品格」に欠ける。 ★これだけみただけでも、多くの国民と彼らとが大きく乖離していることがわかる。的外れの内閣は出きるだけはやく解散して、国民の審判を受けるべきであろう。
2008/09/27
「小泉「構造改革」は、ひたすらゼロ金利を続けて円安を誘導し、輸出だけに依存する脆い経済「構造」を作ってしまった。この脆い経済構造は、戦後最大の金融危機とグローバル同時不況によって輸出が減少すると、ひとたまりもない。 それと裏表で、「構造改革」による雇用や社会保障の破壊が格差を拡大させ、また地方交付税削減政策が地域経済の衰退をもたらして、内需を低迷させた。それが、ますますにほんの経済構造を脆くする。そして、ゼロ金利を続け、300兆円に及ぶ巨額の財政赤字を増やしてしまったために、もはや財政金融政策は麻痺状態となり、グローバル同時不況に対処する政策手段を失わせてしまった。 さらに「構造改革」が掲げた「貯蓄から投資へ」「金融立国」というスローガンは、モデルとなる米国の金融危機によって破産した。また、環境エネルギー政策でもブッシュ政権に追従したために欧州や米州の一部から大きく立ち遅れてしまった。その結果「構造改革」は何も新しい成長分野を生み出せなかった。小泉・竹中路線のツケが、グローバル同時不況からの脱出口を見失わせているのだ。小泉「構造改革」は完全に失敗であった。」 小泉「構造改革」への批判の一つである。週刊金曜日9月26日号の「「構造改革」からの政策転換を」(金子勝)から引用した。 小泉・竹中両氏を中心とする人達が、さんざん「構造改革」の必要性、その効用を説いた。イタミに堪えろ、やがてばら色の未来があると強調したのであった。その結果は、金子勝さんもいうとおりである。いや、これでもなお言い尽くしていない。 小泉氏が引退するという。逃げ足の見事なものである。彼らが強引に生み出した「構造改革」による惨憺たる現状をそのままに優雅な引退生活を送るのであろう。そして、政治家のうま味をわが子に伝え満喫させるのだという。四代にわたる世襲はよほどのうま味があるのであろう。 国民の生活をメチャクチャにし、自分たちだけがいいとこ取りをする。そんな政治家に拍手を送ったのはだれか、今も送っているものはだれか。 政治家には、有害無益なものが多い。小泉氏はその最たるものの一人といえよう。
2008/09/26
茶番が終ったとおもったら、次の茶番だ。テレビはそれを垂れ流す。特にひどいのは「みなさまの」NHKである。 テレビをつけたら、閣僚がなんとかえんえんとやっている。6時からは番組を変更して、地方ニュース、気象情報まで削ってまた、記者会見の閣僚呼び出しのとえんえんとやっている。 7時のニュースもまたえんえんと同じ内容。総理が閣僚名簿を自分で読んだということを二度も繰り返す。NHKは、「みなさま」のNHKというより、「自民党のみささまの」NHKである。 総裁選挙のときからテレビはひどかった。総裁選のときも、NHKが特にひどかった。テレビはみんなひどかったが。 中立公正、政治家の圧力はない、だけど、予算のこともあるので政治家の皆様に(自民党の皆様に)番組についてご説明するのは当然、みなさまのNHK、いい番組作りに専心します、まもなく地デジにかわります、などなど、慇懃無礼なNHK。露骨に自民と政府に奉仕するNHK。なにがみなさまのNHKだ。 こうした茶番の蔭で、アメリカの原子力空母の入港、アメリカからの自衛隊のアフガン参戦への圧力、世界経済の破綻、年金問題、などなど、山盛りの重大課題が隠れてしまっている。自民党、公明党はまた有権者をだまして票をかすめとろうとしているのである。 追記、民主党は政権を取るというだけで、政権を取ったらどういう政治をするのかまったく見えない。元辣腕の自民党幹事長がこわもての民主党代表では話にならない。
2008/09/25
王さんが監督を辞任するという。野球の現場から去るということである。 王さんが甲子園で投げた時からのファンだった。巨人は嫌いだが王さんだけは応援し続けた。中西、稲尾の西鉄、秋山、工藤の西部と時代を超えてさまざまな選手やチームを応援したが、王さんは別格だった。 王さんは中国籍である。高校時代、外国籍だという理由高校総体に出場できなかった。そういう時代だったから、外国籍だという理由での差別を王さんは数多く体験したのではなかろうか。 張本さんは、汚いヤジを浴びせられるのはしょっちゅうだったという。朝青龍を週刊誌が罵倒する背景には外国人差別が感じられる。今だってそうなのである。 だが、そういう中で王さんはすばらしいプレーを見せ続けた。そんな王さんだから、こんなこともいえるのである。「アメリカという国は差別的、という言葉を王監督は使われなかったですけど、そういうニュアンス――まあ、白人至上主義というか、そういうのが残っていて、要は『その中で、日本人が誰もやったことのないことを打ち立てることというのは、想像以上に難しいことだ』って言ってもらったんですよ。そのとき、僕は本当に泣きそうになって、『この人、すげえ』と思って感動してね」(イチロー選手の言葉) 王さんのファンとして、すばらしいプレー、すばらしい記録とともに、このような心配りのできる人であることに拍手を送る。 胃がんで胃を全摘した王さんは、もう現役は限界だった。王さんはほんとうによく頑張ったと思う。しばらくはゆっくりと休んでほしい。
2008/09/24
私がもし障害を持つ子をもったとしたら、どうするだろう。最初、そのことを受け入れられないかもしれない。だが、それは事実。受け入れるが、限りない不安を持つに違いない。 障害を持つ子をどう育てればいいのか。育って行った先はどうなるのか。 障害児学校に行く。それはいい。障害児学校を卒業した先はどうなるのだろう。仕事はあるのか。自立できるのか。 今の時代は、弱者に酷な時代である。カネが人間の評価の基準とされ、弱者は「自己責任」といわれて捨てられる。さまざまなきれいごとの言葉は飛び交う。自立支援などということばが。だが、実際は、自立できる障害者までも自立できないように追い込む。 政治はその先頭に立つ。本来は、最低限度の文化的な生活が保障されるはずなのだが、事実は違う。 障害者を持つ親の不安は果てしない。これからどう生きていけばいいのか。自分たち親が亡くなった先は、この子はどうなるのか。 そういう不安を抱える人たちを政治も社会も冷たく「自己責任」と切り捨てる。 本当は社会にはそういう人たちの交流の場もある。共に助け合う場もある。そういう場に出会えた人は幸である。もし、出会えなかったら。 ある人は子どもが難病にかかった時、子どもと一緒に死のうと考えたという。そうしなかったのは、子どものある言葉で、一番苦しんでいる子どもがあんなに頑張っているのだからと気付いたからだという。 弱者に酷な社会と時代のなかで、障害を持つ子とともに生きるということは、とてもむずかしい。
2008/09/23
絨緞爆撃ですべてが廃墟と化した街に、かろうじて生き延びた老人がいた。老人はたまたますくった子どもと廃墟の地下室で暮らしていた。子どもは生まれた日もわからず、老人自身戦災ですべての証明書類を失っていた。 1951年のある日、老人は少年の誕生日を創ってやり、誕生日のお祝いに、徹夜で小さなおもちゃの自動車をつくる。だが、子どもはそれを戦車だという。 ある日、老人が一番好きな森に子どもを連れて行く。森の向こうの丘の上に先の戦争の遺物である戦車が残されている。老人はそれを無視して、きれいな小川の流れるところへこどもを連れて行く。 目を離した隙に姿を子どもは姿を消す。必死でさがす老人。すると、さっきの戦車の砲塔から姿をあらわした子どもが、歓声をあげる。 K・ヴォネガットの『追憶のハルマゲドン』という短編集にある掌編である。 老人はあの厳しい戦争を生き延びて、戦争をなによりも憎んでいる。戦争中に生まれ、その母親から託された老人は、子どもに戦争に触れさせたくない。だが、子どもはなにかにつけ戦争の遺物に関心を持ち、老人を悲しませる。 老人が徹夜で作った四輪のおもちゃの車を戦車と呼び、戦争の遺物として残された戦車に乗って歓声をあげる子どもの姿は老人をどれほどか悲しませたことだろう。 この短編集には、ヴォネガット自身が経験した第二次大戦に取材した短編が集められている。有名な『スローターハウス5』の元になったドレスデン空襲の体験を綴った手紙も収録されている。 戦争は敵にとっても味方にとっても惨いものであり、庶民にとってはさらに惨いものである。老人はそれを経験しているだけに、子どもにそんなものに関係するものに触れさせたくないのである。 だが、子どもは、容易にそれになじみ、それを好む。忘れっぽい多くの人にとってもそうである。この作品にはそうした人たちへのヴォネガットの深い悲しみが感じられる ここで私は安倍元首相を連想した。彼がなぜ教育、教育といったか。それは、戦争の経験も記憶も持たず、容易に戦争になじむ子どものなかに戦争を植えつけようとしたのであろう。生まれついてのエリートは、庶民の人間的成長と幸せを願うよりも、どのように利用できるかを計算するのではないか。自分自身は選ばれた者として除外しながら。 そんな政治家の存在を考えると、この掌編の持つ悲しみが更に深く沁みる。 追記、ドレスデン大空襲で、約20万人の市民が殺されたといわれる。この空襲で連合軍は絨緞爆撃を行った。絨緞爆撃は、日本でも行われ、更に工夫、「改良」されて多大の被害を出した。この絨緞爆撃は、中国の重慶爆撃の際、日本軍によって「開発」された。めぐりめぐって、更に凶悪なものになって、日本人の頭の上に降り注いだのである。
2008/09/22
裁判官は、もともと受験競争に勝ち抜いてエリートである。そのエリートが裁判の現場に出ると最高裁判所の厳しい統制のもとに置かれる。個々の裁判に対する干渉があるし、裁判官個人への統制がある。 最高裁を頂点にしたピラミッドの階層のなかでの統制、市民的自由が奪われていること、最高裁が行う査定による人事、などなどがんじがらめに統制されている。裁判官は裁判所関係者だけの世界で過ごし勝ちである。 上の意向に沿わなければ、地方周りばかりさせられる、裁判官としての地位も向上しない(つまり出世はない)、当然その反映として給与も低く抑えられる。 こうして理想に燃えて裁判官になってもほとんどが最高裁の意のままの裁判官になってしまう。 その最高裁裁判官は、統制に最も従順な裁判官の集団となる。政治権力は最高裁裁判官としてそういう人物を選ぶ。それが権力に都合がよいからである。こうして統制のサイクルとも言うべき体制のなかで裁判官は権力にのみ気をつかう裁判官が多くまんえんするわけである。 ところで武藤一羊さんによると戦後の日本国家は、アメリカ帝国原理、憲法に依拠する平和主義原理、戦前帝国の承継原理、という矛盾した三原理を内部化した矛盾に満ちた国家だという。 権力はそこで行政を追認する形の裁判(判決)が行わせることで国家体制を矛盾しない形でおさめようとする。そこで、権力にばかり気を使う裁判官を育てることになる。 具体的にはアメリカ帝国原理、安保条約(最近では日米同盟という)関連の裁判では、条約には司法審査はなじまないとして平和憲法との矛盾に触れない。自衛隊の存在については、統治行為論によって判断をさける。 憲法に依拠する平和主義関連の裁判では、先にも述べたが自衛隊についての憲法判断を避ける。門前はらいをすることで判断をさける。 戦前の帝国原理承継の原理では、相次ぐ戦後補償裁判での門前払いが生じている。戦前の誤りについては時効等を理由に絶対に誤りを認めない。 というわけで、裁判は政治権力の側にぴったりと寄り添っているのである。 このような裁判所、裁判官だから、最近の言論の自由、思想信条の自由、表現の自由を抑圧するような行政のあり方といったいになって、それを積極的に追認しているわけである。 たまに勇気ある裁判官が憲法に沿った全うな判決を出しても、高裁、最高裁までいくとほとんど逆転してしまう。 政治権力と一体になった、自らもその権力の一部である裁判所、裁判官という現実を見るとき、ビラ配布に関係する数々の弾圧を始め、言論の自由を奪う裁判で、裁判所が積極的に合憲と判断している現情を軽視してはならないだろう。 (注)インパクション164号、特集「大崩壊へ向かう司法」の中の生田暉雄「日本の裁判官は、なぜヒラメと呼ばれるのか」から必要な部分を大幅に利用させていただいた。 なお、武藤一羊の解釈は『アメリカ帝国と戦後日本国家の解体』(社会評論社)の重要なテーマであるが、ここでは生田氏の引用をそのまま孫引きした。
2008/09/21
安倍、福田と政権をなげだし、総裁選の茶番劇で国費を無駄遣いし、いたずらに日々を空費している自公。民主党は、政党合併とかで、こちらも山積みの重要課題を放置している。放置していても、特別の不都合がないのか不思議である。 だが、放置していては時間がない問題もある。北朝鮮に拉致された人たちと家族との再会である。 小泉氏は後半は何もしなかった。安倍氏は言葉とはうらはらに、何もできなかった。福田氏はなにもしなかった。政府には、まったくやる気があるようにみえない。あるいは、やる気はあるが、手がまったくないのかもしれない。 制裁だ、圧力だなどと言って交渉の窓口を狭めないで、取れる手はなにからでも一つずつ積み上げるべきだと思う。 拉致被害者の方々も高齢になっている。横田ご夫妻も、孫のキムヘギョンさんとあってもいいのではないだろうか。会うことでこれからの交渉が左右されることもないだろう。 会って、その上で交渉は交渉として続ければいいのである。北朝鮮には問題が多いという。それは、分かりきったことである。それを承知の上で手を打つのが、外交交渉というものではないだろうか。とにかく、再会できる日がはやく実現することを期待したい。 総裁選の政党合併のと、内間の茶番にせいをだすことに熱中して、大切なことを放置していては「国民のための政治」など、口にする資格もない。 週刊金曜日9月19日号の蓮池透さんのインタビューをよんで、そんなことを考えた。
2008/09/20
もう古い古い話になるが、二級下におとなしい男の子がいた。母子家庭の農家だった。わずかな田圃を母と息子が耕して米をつくっていた。 息子は学校が終るとすぐに家に帰り、田圃に出て夕暮れまで働いた。ただ一日数時間だけは、勉強のために母親からもらった。 こんな生活を中学、高校と続けて、彼は東大を受けて合格した。貧しい家庭の子どもにも可能性が開かれていた時代があったということである。 今母子家庭でわずかな田圃では、生活すらできない。農家でなくてもほとんどの家庭が生 活に追われて大学進学も容易でないだろう。 いわゆる偏差値の高い学校の親の収入が相当に高いという統計もある。今の時代は可能性という点ではきわめて狭い未来しかない。それだけ閉塞された時代になっている。 過去はとかく美しく見えるものである。また人は過去を美化しがちである。だが、私のこの記憶は可能性が今よりも緩やかに広かった時代があったことを示しているように思う。 文科省や政府が教育基本法をかえてまでやろうとしていることは、恵まれた層にさらに恵まれた教育を、そして恵まれない層は、そのままにという方向を露骨に示している。 それがどんな未来を生み出すか、昨日、今日の世界や日本の騒動を見れば、その結果は明らかなように思える。 ハチャメチャな世間の動きにそんなことを考えた。 この話でしたいのは、彼が優秀であったということではない。
2008/09/19
「頭のよい」やつがいて、貧乏人に家を買わせる方法を発明した。どんどん家の価格はあがります、ローンなど簡単に返せます。確かに家の価格はどんどんあがり、家を転売してローンの支払も簡単に出来た時期もあった。 その頃、家のローンを債権化して、他の債権と混ぜて売る方法を発明したやつがいた。食べ物でも混ぜ物はやばいといわれる。何が入っているか分からないからである。この商品がよく売れた。 だが、家が売れなくなった。ローンの支払が出来なくなって破綻する人達が増えた。当然債権は暴落する。この債権は細切れにされ混ぜものにされていたから、損害は万遍に広 がった。これでもうかると大量に買っていた連中は大損をした。 だが、考えてみれば、安く家が手に入ると騙した企業や人、債権を工夫して売りまくった企業や人は、詐欺集団そのものではないだろうか。いまや、世界有数の企業やそこで働く「優秀な頭脳」が詐欺集団となっていたのである。 いぜん、「カネを稼いで悪いですか」といったやつがいたが、優秀な頭脳、人材を集めた集団、企業が、詐欺まがいのことをして濡れ手で粟でぼろ儲けをしていることが悪いのであり、その意味で「カネを稼ぐのは悪い」。 頭も技能ももっと人のためになる使い方をしてほしい。企業も企業としてのモラルというものをちょっとは考えて欲しいものである。 金融商品を開発し、架空のカネを動かして、額に汗して働く人たちを手玉に取るようなことが許されてはならない。
2008/09/18
日々わたしたちのまわりでなにがおこっているだろう。地球温暖化、環境破壊、戦争、破壊される社会と生活。資源はむさぼられ、大量消費され、失われてゆく。今日が明日がよければそれでよいといった感じである。 でも、それでよいだろうか。 地球も地球の自然も資源も社会も、今育ちつつある子どもたち、これから生まれてくる子どもたちのためにあるのではなかろうか。 それを荒らし、壊し、消費しつくして、いいのだろうか。 この地球と地球の上でのすべてのことが、今の私たちだけのものではないことを知らなければならない。 たっぷりと豊かで美しい未来を、これから来る人たちのために伝えたい。
2008/09/17
ローマクラブが1962年に『成長の限界』という報告書を出した。2004年、に同クラブは『成長の限界 人類の選択』という報告書を出した。この報告書はさまざまな要素から分析して、人類の成長には限界がある、その限界も早い時期にやってくる、人類はその対策を選択しなければならない、それも今すぐに、という趣旨のものであった。 デイヴィッド・ストローンの『地球最後のオイルショック』は、石油資源に依存した現代文明という一点に絞ってその限界と人類が選択すべき道について述べたものである。 筆者によれば、中東の石油資源にしろ、中東以外の石油資源にしろ、すべてがその限界に近づいている。いや、すでに限界を超えているものもあるという。 そして地球全体のレベルでいえば2010年代、あるいは2020年代には、その限界をこえるだろうという。 すでに残された石油資源をめぐって熾烈な争いが展開しており、アメリカのイラク侵略もそれを狙って、1900年代末から準備されていたという。どんな名目ででも戦争をする必要性がアメリカ側にはあったというのである。 筆者は細かく具体的な数字を挙げ、世界の石油関係者の主だった人人にインタビューして、各国の動き、産油国の現状を詳細に分析する。その結論が前段でのべてことである。 石油資源が枯渇すれば、どうなるか、代替エネルギーの可能性は、国がすべきことは、私たちができることは、と筆者は詳細に述べる。 そしてローマクラブの『成長の限界』にも触れながら、今すぐに対策を急ぐべきだと、まだ希望はあると結ぶのである。 (注)デイヴィッド・ストローン『地球最後のオイルショック』新潮選書
2008/09/16
オイル・ピークということがいわれ始めて久しい。イラクへの侵略は早くから計画されていたことだとはよく言われる話である。石油資源の枯渇し始めた米英が中東の石油資源の確保を狙ってイラク戦争を起こしたと。 アフガンの場合も石油パイプラインの敷設が目的であったというし、グルジアの場合は明らかにパイプラインの敷設がからんでいる。 アフリカのビアフラにしても豊富な石油資源があるという。 なんであんなところで、悲惨な民族抗争などといわれている戦争の背後に熾烈な資源獲得のための争いが潜んでいる場合が多いのかもしれない。 では、日本はアフガン、イラクの侵略に加担したのであろうか。ちらほら政府筋が洩らしているように、アメリカにしがみついておくことで中東の石油資源を確保したい、そんなところかもしれない。 世界=アメリカのためにと繰り返す裏はそんなところではないか。 本当に未来を見渡すことのできる政治家、経済人、官僚、学者が期待されるところである。 自民党総裁選の茶番をみながら、そんなことを思った。
2008/09/15
自民党の総裁候補が5人そろって大阪で街頭演説をしている光景が伝えられた。奇妙な光景である。 自民党総裁選は、議員票と都道府県別に割り振られた票の合計で決められる。都道府県への割り当てはそれぞれたぶん3票だったと思う。その3票は当然党員の投票によって決められる。 街頭で演説することは、だから党員ではないわれわれには、何の関係もない。 先日はテレビや新聞の記者クラブの主宰で、五候補の討論会が開かれ、テレビや新聞で報道されたが、これも自民党へのへつらい、自民党の宣伝のお手伝いでしかない。 街頭演説も、今やっている総裁選そのものが、自民党の宣伝でしかない。 自民党総裁候補は、投票権を持つ党員を集めて、あるいは、党員対象に電話などで、支持を訴えるのが筋というものである。 それでは、国民に分からないというのであれば、直ちに解散して国民に信を問うべきであろう。 小泉から安倍へ、安倍から福田へ、そして福田から誰かへと、続けてきたたらいまわしこそしてはならないことである。 自民党出演、マスコミ演出の猿芝居は国民をバカにしている。
2008/09/14
事故米とはうまくごまかしたもので、事実は毒に汚染された米である。 農水相は「これからは、毒に汚染された米は送り返すことにする」 などといっている。 輸入の際の検査で毒が確認されたら送り返すのが当然である。 ギョウザであれだけ騒いでおきながら、低濃度だから心配ない などというのもおかしい。 関係業者にはもちろん責任があるが、 農水省の責任もそうとうに重い。
2008/09/13
天皇家を批判する内容の映画のビラを貼ったということで映画監督渡辺文樹氏が逮捕された。→ここ 電柱に無断でビラを貼ったということで、軽犯罪法の現行犯ということだが、何日も「警戒」していたというから、尾行をやっていたのだろうし、公安が逮捕していることから見て、意図的な弾圧と考えられる。 イラクに自衛隊を派兵する際には、トイレへの落書き、マンションへのビラまきなどが、あいついで逮捕、有罪にされた。明らかにイラク派兵への反対運動の萎縮を狙ったものであった。 警察、検察はもちろん権力そのものである。今回の逮捕は、戦前の不敬罪の復活を思わせる。 逮捕は、ビラを無断ではったという軽犯罪法違反ということだが、ねらいは明らかに別にある。 象徴天皇制下であれ、天皇家への批判には限界があることを権力が暗示し、逮捕によって映画の上映を妨害しようとしたものだろうが、明らかに公安の行き過ぎである。 司法もいったいになって、反動化を強めている現状だけに、見逃せない事件である。
2008/09/12
2001年、脳梗塞で倒れ、声を失い、右半身不随、となった多田富雄さんは、嚥下障害にも苦しみながら闘病生活を続けている。1969年、原因不明の難病に倒れた柳澤桂子さんは、無数の病気の発症にも苦しめられながら、ほとんどベッドの上での闘病生活を続けている。このお二人の往復書簡をまとめたのが、『いのちの対話 露の身ながら』(集英社文庫)である。山のような屑本が出版されている中、一粒の露のように美しくすばらしい本である。 お二人は書簡で、お互いの病気、闘病のことについて語る。お二人ともに一時死を考えたという闘病の過程は凄まじい。そのすさまじさについて語りながら、お二人は、命について、人間について、人間の社会について、人間の未来について語り続ける。そこには、障害を越えて命が輝いている。お二人はその思いを伝えるため、人の何倍もの時間と労苦をかけて文章をかく。 柳澤さんはいう。「子孫のために、少しでも住みやすい地球を残してやりたいと願っております。」と。 多田さんもいう。「でも私は書かなければならないと思っています。なぜか、といつも自問します。まだ私は希望を持っているからです。何に?人間に、まだ絶望しているわけではないからです。」 ご自身の重い病気、障害に苦しみながら、なお未来の人間への希望を語るお二人に私は勇気づけられる。 多田さんは、「露の世は 露の世ながら さりながら」という一茶の句が好きだという。表題はそれにちなんでのものであろう。 この本を読んでいる頃、丁度NHKは7時にニュースを30分延長して自民党総裁候補特集をえんえんと放映した。どの民放にも自民党総裁候補が。今日の朝日は数面全面を使って自民党総裁選特集だった。テレビも新聞も週刊誌もマスコミがこぞって総裁選を盛り立てようとしている。それを受けて踊ってみせる五人の候補のなんと空疎なこと。 テレビも新聞も週刊誌も五人の候補も、このお二人の小さな本に比べて何という軽さ。中身のなさ。命の重みを受け止めて生きる者とそうでない者とのちがいだろう。 マスコミも五人の候補も多田さんや柳澤さんの絶望のなかの希望の重みと比べるとなんと軽いことだろう。
2008/09/11
★農水省は三笠フーズと「共存共栄」の関係だったという。(朝日10日)WTOによって輸入を義務付けられたミニマムアクセス米の処分に便利な業者だったらしい。だから、電話などでの「告発」を受けて96回も立ち入り調査をしても分からなかったというが、分からなかったのではなく、分かろうとしなかったのではないか。 それから、農薬に汚染された米もいずれミニマムアクセス米だから、工業用に消費するのだからと、汚染が分かっているのを押し付けられたのではないか。ここでも「共存共栄」があったのではないか。 ★大阪の業者が自衛隊装備納入で、原価を水増ししていたのが発覚したという。軍隊が存在し、軍備が備われば、そこに必ずこういうことが起こる。この場合は水増しということだが、ほとんど業者の思うままの価格となり、関係者は大いに潤うこととなる。「共存共栄」である。 ★日本の教育への公的支出はOECD28カ国中最低だという。GDB比でたったの4・3%である。ちなみに一位アイスランド7・2%、二位デンマーク6・8%。道徳を押し付けたり、選別教育を進めたり、競争を煽ったり、教員の力を絞れるだけ絞ろうとはするが、肝心のカネは出さない。一方では私費負担は増える続ける。カネを削る政府とカネをもうける受験産業とが「共存共栄」である。 ★在宅で介護する人の11・1%が80歳以上。70歳台が23%、60歳台が24.4%、50歳代が29・8%。 高齢者だけの「老老介護」が増え続けている。これでみると70歳以上が三人に一人。厚労省は、療養病床を大幅に減らし、介護病床は全廃するなどといっているから、自宅で老人が老人を介護すると言う姿がもっともっと増えるだろう。国に見捨てられるのだ。 そのうち、一人残された老人が孤独死するのも当たり前になるだろう。 ここには「共存共栄」はない。
2008/09/10
事故米が問題になっている。事故米をだまされて買った業者は気の毒としかいいようがない。 事故米を買ってそれをだまして売って儲けた業者はひどいものだが、農水省には問題はないのだろうか。 米余りといいながら、輸出との関連で義務的に輸入する米らしいが、余りにも毒性が高すぎる。輸入してから検査して事故米と分かる仕組みらしいが、それでいいのだろうか。 事故米を大量に輸入して国民の税金を無駄にしていること。 毒性の高い米を輸入しているということは、他の食品は安全なのか。 事故米を工業用と限定して販売していたというが、今回の問題で何のチェックもないことがわかった。農水省はそのことに責任はないのか。 なんとかフードがいけないのだが、農水省も大いに責任がありそうな気がする。
2008/09/09
憲法によれば私たちは主権者であるという。では、主権者は、具体的にどのように主権を行使できるのだろうか。 よく言われるのは選挙である。ところが、これが一票を投じることだけに限定されている。たとえば、支持者のために戸別訪問すること、ネットを使って宣伝することなど、あれこれの活動はほとんど手足をもがれた状態である。手足をもいだのは誰か。主権者から信託された政治家という連中である。 選挙以外にも、たとえば直接請求、請願などの行為がある。これらは十分知らされておらず生かされてもおらず、提出しても政治家にほとんど無視されることが多い。 次に直接的民衆的手段がある。デモ、座り込み、ビラなどによる宣伝、ネットにより広めるなどなどの行動がある。だが、ほとんどの人たちはこういうことが主権者としての当然の権利行使であることが理解されていない。 さらに裁判に訴えるという手段もある。政府の行為について裁判所の判定によって制限を加えたり方向を変えさせるという行為である。だが、これは政府と一身同体になっている裁判所、特に高裁、最高裁によって裏切られることがほとんどである。 私たち主権者は選挙で一票を投じる以外にもさまざまなことが出来るはずである。その権利はできるだけ広く認められる必要がある。それでこそ民主主義が可能となる。 ところが、政治家、マスコミ、その他によって選挙で一票を投じることだけが、主権者の権利行使だと思わされている。更に、主権者としてのさまざまな権利が狭められている。最悪なのは、多数決が民主主義だなどと思わされていることである。アメリカでは市民的不服従が行われているのに。 これだけ主権者の権利行使を限定され、きわめて狭い選挙に閉じ込められては、ほとんど主権者などとはいえないくらいである。だが、主権者は主権者、憲法で規定された諸権利を回復する必要がある。 こういうことが分かってみると、自民党総裁選などは茶番である。福田首相は、辞任の意思を表明するのなら、直ちに解散し、主権者の意思を確認すべきであった。それなのに解散せず、総裁選を行い、主権者の判断を受けることなしに、政権のたらいまわしをするなどとは、主権者無視もはなはだしい。 マスコミ企業と支配層が手を組んだ大茶番劇に踊ってはならない。
2008/09/08
女子ソフトボールが優勝して金メダルをとった。ところが、次のオリンピック種目から外されるので、競技団体への補助が大幅ダウンしたという。健闘ぶりにファンも増えたし、競技人口も増えるかもしれないのにもったいないことである。 日本体育協会か日本オリンピック委員会かしらないが、次のオリンピックでの金メダルの目標をきめたという。日本政府のスポーツ政策、体育政策の貧しさでもあるのだが、金メダルの取れそうな競技に重点的に補助をするのであろう。 これはオリンピックにしろスポーツ・体育政策にしろ誤っている。オリンピックにしろ、なんにしろ、スポーツなどを楽しむ人々が増えることが第一のねらいではないか。その上に、すぐれたアスリートがあるというのが理想である。 あきれたことにこの金メダル主義が、学問の世界でも始まっている。文科省はノーベル賞の数を目標に掲げ、ノーベル賞に近い部門に重点的に予算を配分するのだという。 学問の世界は、地味な基礎部門から、派手な先端部門までどの部門も重要であり、ノーベル賞にあたいする研究はどの部門から生まれるかわからない。それを特定の部門だけに絞って予算を配分するなどは、愚の骨頂である。そうなれば、たとえばカミオカンデの研究などは除外されるかもしれない。 学問の世界でも地味な基礎部門からじっくり育ててこそ独創的な研究も生まれるというものであろう。 最近、いろんな部門で近視眼的な金メダル主義が広がっているように思う。せっかちに、よくばって、甘い果実だけを狙う。 だが、学問にしろスポーツにしろ、産業にしろ、地味な基礎、土台をおろそかにしては、何者も生まないのではないだろうか。効率主義と裏表の金メダル主義はあまりにも犠牲になるものが多すぎる。
2008/09/07
自民党総裁選にあれやこれやと立候補している。自民党も人材不足だなあ。それにしても人材不足の自民党を支えて悪政を次々と実現した公明党は悪質だなあ。などと考える。 それにしても小泉氏の「痛み」にしても、安倍、福田氏とつづくみっともない無責任な政治にしてもその被害をもっとも蒙るのは底辺に生きる人びとである。 だが、小泉氏にしても、安倍、福田氏にしても自らが生じさせたそういう被害についての認識はないのであろう。 彼らを見ていると前の戦争の際、自らの作戦で、何万、なん十万という死傷者を出しながら、自分自身は生き延び、なんの責任も取らなかった、軍の幹部達の姿が思い浮かぶ。 いや、戦争を推進し、日本人だけで、300万人以上の死者を生み出した指導層の無責任もが連想される。 形は違え、政府の指導層は、多数の犠牲者を生み出してきた。たとえば、年間3万人を超す自殺者がここ十年以上続いていること。小泉氏や安倍氏、福田氏は、それをただの数字としかみていないのではないか。そこにある一人一人の人間、人としての命、暮らし、生身の人が見えていないのではないか。 自民党総裁選に立候補した小粒なあれこれの候補を見ながら、彼らも、生きた生身の一人一人の人間への想像力を欠いているのではないかと想像してしまう。 あれこれの政治をして、そこに多数の被害者が出てもおもいやりさえしない姿を想像してしまう。 一人一人の人から世界へと想像力を展開できるような政治家が望まれる。
2008/09/06
品格という言葉が流行った。品格という名のついた本が並んだ。それは相撲にまで及び、朝青龍は横綱としての品格に欠けるなどという方々がいる。白鵬は、日本の伝統にのっとった理想的な力士に近づいているのだそうだ。 佐野眞一さんが面白いことを書いている。 「だいたい、酒によっぱらいもしないで昼間から他人の品格を云々できる彼らの神経がわからない。あまり人様の顔のことは言いたくないが、他人の品格を云々する前に、横綱審議会の海老沢某やら、内舘某やらは、「妖怪大戦争」や「ゲゲゲの鬼太郎・千年呪い歌」にでも登場するキャラクターそっくりな自分たちのご面相を一度鏡に映してはどうか」 まったく同感で、言うことを始め、其の顔まで品格のかけらもない。彼らは白鵬のように口数の少ないことを高く評価しているようだが、自身はしゃべること、しゃべること。 品格を言う方々は、沈黙、口数が少ないことを品格といって、庶民に押し付けているのではないか。しゃべるのは地位も権力もあるわれわれ、お前達は黙っておればいいのだと。 品格を言う方々は、品格にダブルスタンダードを適用する。自分たちに自ずから備わる品格。庶民に押し付ける品格。そして庶民に品格という場合は、要するに黙っておれということである。 こうして何が起ころうと庶民は沈黙してこそすばらしいと品格を言う方々はいいたいのではなかろうか。 品格本を一冊も読まない私が品格からほど遠い方々が品格品格というのを見ての妄想である。 (注)佐野眞一さんの文章は「ちくま」9月号「テレビ幻魔館 「ぶっころしてやる」「より引用
2008/09/05
ごまかし上手といえば、政治家とマスコミがすぐに頭に浮かぶ。今大騒ぎの自民党総裁選挙もその一つである。首相がふたりも連続で投げ出したのだから、解散・総選挙がすじなのに、総裁選挙で大騒ぎ、世論を誘導してすべてを隠してしまうその手際はうまい。 ごまかしといえば、「後期高齢者制度」などは、今なお生生しい。前期高齢者といえば、65歳から74歳。では、後期高齢者はといえば、75歳以上で終わりがない。だから、後期高齢者医療とは終末期切捨て医療であるとは、誰かがいった言葉だが、後期高齢者とはうまくごまかしたものだ。 後期高齢者といってなにか期間があるかのようにごまかして、実は、75歳以上の人はやがて死ぬ人間、金も人でもかけませんよというのが、真実である。(わざわざ国民健康保険から切り離して。)関係した政治家、学者、官僚、経済人のごまかし上手には、あきれる。 彼らは、ごまかすことで真実を隠す。隠して主権者である国民をだます。22日頃が総裁選のようだが、約20日間も、自民党が演出し、それを分かった上で、マスコミは大騒ぎする。自民党はマスコミに大宣伝をしてもらうわけである。 そうして、自民の失政、公明のそれへの加担ということが隠され、忘れられる。ごまかし上手な連中の手で、新たな政権が誕生する。こうして失政続き、政権連続投げ出しの無責任な政治家、政党が救われるのである。 かつて、つくられた小泉ブームにのって騒いだ結果、庶民は大変な「痛み」を得た。いままた、つくられつつあるごまかしに、やすやすと乗るのであろうか。
2008/09/04
アメリカでは民主党、共和党それぞれの大統領、副大統領候補もきまり、大統領選挙が動き始めた。派手な演出で騒いでいるが、アメリカ市民にとって喜んでもいられない大イベントである。 「勝者がすべてを独占するというアメリカの選挙制度が、大資産家、マスコミ企業、およびその二つと非民主的な関係で結びついた基本的には単一の政党の二つの支部(共和党、民主党)によって支配されており」とD・デリンジャーがいっているとおり、(『「アメリカ」が知らないアメリカ』藤原書店)どちらの候補が選ばれようと結果はあまり変わらない。 第三の候補、第四の候補がいても、それが取り上げられると言うことはない。アメリカの支配層は、いずれにせよ安心、安定のなかにいることができる。アメリカ市民は、両党のわずかな違いに期待をよせるしかない。 日本の場合も同じになろうとしている。自民と、民主は、デリンジャーにならって言えば、単一の政党の二つの支部である。そしてその二つの支部は、大資産家、大企業、マスコミ企業と非民主的な関係で結びついている。 二大政党がいわれ、民主、自民ばかりが報道されるのには、それが支配層にとって安心できる体制であるからだ。マスコミ企業はもちろんその宣伝の先頭にたつ。 福田首相辞任表明を受けての自民、民主の空騒ぎ、それに同伴するマスコミの大騒ぎのねらいがそのあたりから見えてくる。それは、いわゆる「二大政党」の真実から目をそらさせる、目くらましである。
2008/09/03
安倍氏に続いて、福田氏がまた首相の座を投げ出した。無責任なことである。 彼らには政権の正統性がなかった。小泉政権の時には、どういう理由であれ、衆院選挙で与党に圧倒的多数を与えた。だが、安倍政権でも福田政権でも支持率は最低であり、選挙により有権者の信託を得たものではなかった。 安倍氏も福田氏も二世、三世議員である。彼らの先代、先先代の七光りで、毛並みがいいなどと持ち上げられて首相になった。彼らには、首相にふさわしい、識見も教養も学力も指導力もない凡庸な人物にすぎなかった。彼らは彼らを持ち上げる一部の流れに乗っただけである。 こう見てくると彼らが政権を簡単に投げ出さざるを得なかった理由がすんなりと納得できる。 そこで、最大かつ緊急の課題は、直ちに、衆議院を解散し、選挙により国民の意思を確認することであろう。国民の意思と無関係なところで政権のたらいまわしなどしてはならない。 たらいまわしといえば、三世議員の麻生氏が次の首相に取りざたされている。例によってゴマすりメディアが国民に人気があるなどといっているが、それはメディアがつくりあげたものであり、選挙で国民の意思によるものではない。たらいまわしなど論外である。 なお、安倍氏の場合も福田氏の場合も、政権投げ出しには、もう一つ、新テロ特措法がからんでいそうにも思える。アメリカの指示、圧力に耐え切れなかったそんな構図が想像される。あるいは、これが決定的な力となったのかもしれないと考えると、なんとも情けないことである。
2008/09/02
『「アメリカ」が知らないアメリカ』(藤原書店1997年)を読んだ。D・デリンジャーの回想録である。著者デリンジャーは、この本の副題にもあるとおり、反戦・非暴力の活動家としてよく知られた人物であるようだ。 デリンジャーは裕福な弁護士の長男として生まれ、イエール大学で優秀な成績を修め、政府機関でも経済界でもトップの地位につける可能性があったという。だが、彼は貧しい底辺の人たちと共に歩む道を選ぶ。 彼は第二次大戦の徴兵を拒否し、平和運動の道に入る。その後、黒人解放運動にも関わりながら、更に平和運動を続ける。ベトナム反戦運動での大運動、大デモの先頭に立って戦う姿は見事である。 政府側は、さまざまな妨害を仕掛けてくる。それを巧妙にかわしながら非暴力、非排除の原則をつらぬいて、広範な大衆を立ち上がらせる。 政府は、そのデモの頂点でシカゴの8人と後に呼ばれた人たちを逮捕し、裁判にかける。裁判官、検察官、政府が一体となって陰謀をめぐらし、陪審員にまで、協力者をもぐりこませて有罪にしようとする。それに対して、彼らは毅然として戦う。 2段組600ページほどあるこの本を要約するのはむずかしいが、この本を読んで感じた最大のものは、アメリカという国のなかにある良質な部分ということである。アメリカという国はこの本にも十分に描かれている凄まじい国であるけれど、草の根のように地に根を下ろし、活動しつづけているこの良心的な部分がアメリカの尊厳を守っている。 その根にあるのは、アメリカ独立革命から、ソーローなどを経て、デリンジャーやハワード・ジンに代表される人たちに連なる「市民的不服従」の精神のように思った。政府が間違っている時、あらゆる法に関わらず、不服従の抵抗をする。それも非暴力によって。 この本を読んで、もう一つ感心したのは、非排除ということである。デリンジャーたちも、非常な努力によってそれを実現するのであって困難なことだが、我が国でも非排除の方向で努力できないものだろうかと、しみじみと思った。
2008/09/01
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