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長野県中川村の曽我村長さんの長野県戦没者追悼式典に際してのメッセージがあちこちで話題になりなじめている。一読胸をうたれる文章だった。→ ここ 特に次の部分は曽我村長さんと同じに繰り返し聞いた言葉であり、聞くたびに疑問をもった言葉だったが、曽我村長さんの言葉はすっきりと疑問に答えてくれる。 できれば全文をできるだけ多くの人に読んでいただき、考えて欲しいメッセージである。 引用~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~「戦争で亡くなった方々の尊い犠牲があって、現在日本の平和と繁栄があることを、私たちは一瞬たりとも忘れてはならない。」 登壇したおそらくすべての人がこのようにおっしゃった。様々な戦没者追悼式で必ずといっていいほど言われる言葉だ。しかし、本当にそうだろうか。戦争の犠牲がなければ、平和と繁栄は得られなかったのか。私にはそうは思えない。もし戦争がなくて、平和のまま、犠牲になった兵士や市民が元気に活躍し、それぞれの夢や計画に邁進しておられたら、今の世の中は、もっともっとよいものになっていたのではないのか。戦死した皆さんは、戦争で犠牲となることを強いられることによってではなく、農業や得意とする技術やみずからの構想を実現することによって、日本や社会に貢献することを望んでおられた筈だ。私たちは、かけがえのない人たちを失ったのだ。破壊と殺戮が、どうして平和と繁栄に貢献するのだろうか。 戦争による死を、「無駄ではなかった、意味があった」と信じたい遺族の方々の感情はよく分かる。しかし、「平和と繁栄のためには犠牲が必要だった」という考えは、危険な芽を孕んでいる。「今後も平和と繁栄のためには時として犠牲が必要となる。」こういう考えを誘い入れかねない。勿論、演壇に立たれた方々がこんなことを主張された訳ではない。しかし、深く考えていないために、突き詰められればこういう考えを容認することになる。 「世界の恒久平和実現に向けて一層の努力を傾けることを、戦争の犠牲になった皆様の前でお誓い申し上げます。」 壇上からの言葉の多くは、こういう形で締めくくられた。それと同時に、多くの方が、「今も繰り広げられるさまざまな地域紛争に心が痛む」とおっしゃった。なのに、なぜ、「テロとの戦争」に加担していることは不問に付すのか。誤爆その他で幼い子供を含む多くの一般市民が犠牲になっているにもかかわらず...。それを私たちは私たちの税金によって支援しているのに、なぜ知らないふりをするのか。戦争ができるように憲法を変えようとする動きに、なぜ何も言わないのか。
2008/11/30
鳩山大臣が給付金給付に上限を設けないとへらへら笑いながらいっていた。うん十億円の資産をもっていても、数万円だってのがしはしない、というのであろう。だが、これは選挙民買収が目的。2兆円にはやがて数十倍の消費税他大増税がおまけにつく。 このカネは名目は景気対策ということだが、ほとんどの人が指摘するように景気対策などになりはしない。使うのなら弱者救済につかってはどうか。 厚労省調査では来年3月時点で、非正規3万人が失業と予測している。別の報道では、正社員の解雇もはじまっており、来年度前半で失業率が4%後半まではねあがるという予想もある。それに対して、有効求人倍率は0.8倍と低下している。 一方消費者物価は1.9%上昇。ボーナスは3・1%の減少である。 まず、失業者の救済。生活弱者への援助などにこの2兆円をつかってはどうだろうか。生活が安定している人には、後に回ってもらって、職の無い人困窮している人の援助にまわしてはどうだろうか。もちろん収入の多い層や富裕層には、遠慮してもらう。 選挙目当て以外に何のためかわからない予算である。こんな予算を組まないでいいのだが、どうしても使うというのなら、ぜひ、失業者、弱者救済につかってほしい。
2008/11/29
「盗人たけだけしい」ということばがある。このことわざにぴったりなのが、元航空幕僚長である。「悪事や不義理などよくないことをしておりながらかえって居直って他を責めたりして極端にずうずうしいこと」という新明解国語辞典の解釈にぴったりである。 元幕僚長氏は7000万円もの退職金をもらうという。だが、元幕僚長よりもっと悪いのは、悪事を見逃し、退職金まで気前よく出す方かもしれない。 憲法に反する教育を隊内で行い、自らも憲法尊重擁護義務に反した言動を重ねた人物を処罰もせず、普通に退職させ、7000万円もの退職金を払う。 その権力が、憲法に保障された表現の自由、政治活動の自由にしたがってビラまきをした人を、逮捕し処罰する。日の丸の前で起立しなかったということで教師を処罰し、研修という強制を行う。 政府とそれを支える自公、裁判所や検察庁や警察庁のやることは正しいといえるだろうか。 彼らの捧げている正義の秤(はかり)は大きく傾いている。 追記、元NHK会長、現横綱審議会会長を務める厚顔無恥な人物にも凍結されていた退職金が出る気配である。みなさまのNHK、公正中立のNHKではなかったか。(なかったなあ)。ここでも秤は狂いっぱなしである。
2008/11/28
麻生首相が、また、妄言をはいた。第25回経済財政諮問会議(11月20日)の終了間際のことである。さまざまな提言がなされた後で、突然、麻生首相(議長)が不規則発言をした。まるで井戸端会議的な妄言である。諮問会議のHPの会議の要旨からその部分をそのまま引用する。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(麻生議長) 67歳、68歳になって同窓会に行くと、よぼよぼしている、医者にやたらにかかっている者がいる。彼らは、学生時代はとても元気だったが、今になるとこちらの方がはるかに医療費がかかってない。それは毎朝歩いたり何かしているからである。私の方が税金は払っている。たらたら飲んで、食べて、何もしない人の分の金を何で私が払うんだ。だから、努力して健康を保った人には何かしてくれるとか、そういうインセンティブがないといけない。予防するとごそっと減る。病院をやっているから言うわけではないが、よく院長が言うのは、「今日ここに来ている患者は 600人ぐらい座っていると思うが、この人たちはここに来るのにタクシーで来ている。あの人はどこどこに住んでいる」と。みんな知っているわけである。あの人は、ここまで歩いて来られるはずである。歩いてくれたら、2週間したら病院に来る必要はないというわけである。その話は、最初に医療に関して不思議に思ったことであった。それからかれこれ 30年ぐらい経つが、同じ疑問が残ったままなので、何かまじめにやっている者は、その分だけ医療費が少なくて済んでいることは確かだが、何かやる気にさせる方法がないだろうかと思う。 (与謝野議員) 今日の議論を次のようにとりまとめたい。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 麻生首相のいいたいのは、自分は努力して健康を保っている。病院に来る人にはその努力が足らない。やる気がない。だのにタクシーに乗るなどして健康になる努力をしていない。それで非常に医療費がかかっている。自分は健康に留意し、医療費もほとんどかかっていない。自分はそれなりに努力をしているからだ。自分は彼らより税金も多く払っている。健康への努力もしている。そんな努力もしない人の分をどうして私が払わなければならないのかということである。 つまり、一つは、病院にかかっている人たちは、努力が足りない。やる気がない。だから医療費がかかりすぎると言うことであろう。だが、それは本当であろうか。自分の健康に払う金も時間も削って働きその結果今があるという人たちが多いのではなかろうか。それにここには病院に行きたくても行けないような人たちへの配慮がまったくない。 健康に十分に配慮する時間とカネがあり、そうしできるということが、どれほど恵まれているかという自覚がない。 麻生氏が税金を多く払っているのは当たり前である。いつも自慢するようにそれだけの収入があるからである。それなのに、納税額が少ない人を非難する資格はない。 麻生氏が健康に留意でき、健康でいられることは、けっこうなことである。だが、健康でない人を見下し、でたらめなおもいつきで努力不足と決め付けるのは、経済財政諮問会議議長で首相がいうことではない。 ましてや、努力をしない人の分をなんで私が払わなければならないのかというにいたっては論外である。社会保障制度の原点は相互に助け合うということであり、多く持つものが少ない者を助けるということはごく自然なことではないか。そんなことも分かっていない。 国民目線などといいながら、麻生氏には、持てる者の、恵まれたもののおごりがある。ことばづかいも無神経である。 こんな首相とあんなメンバーから構成される諮問会議は国民から、庶民からはるかに遠い。
2008/11/27
安倍、福田、麻生と解散、選挙をせずに首相になった。そのたびに政権与党から出された理屈は政治に空白は許されないということであった。ところが、総裁選挙に時間をついやすなかで、政治的空白の時間はおびただしく過ぎ去った。 麻生首相は、百年に一度の世界的な経済問題が起きているとき、政治に空白は許されないといって解散をおこなわなかった。ところが、具体的な政策は出さず、第二次補正予算は次国会に提出するなどといっている。 民主党は、新テロ特措法に強固に反対していたが、突然態度を変え、それを通すといった。かと思うと、再び、対決姿勢などといっている。 国会での議論をまともにやらず、党首会談なる闇談合を試みて失敗し、議会での党首討論をやるなどといっている。この党首討論、なぜか他の野党党首が話題に出てこない。 民主党は、政権交代をとなえるだけで、まともに討論しようとしない。 こうして国会は空白のうちに過ぎてゆく。「二大政党」は、政治ゴッコに耽り、実際の政治はおきざりにされている。 いや、置き去りにされているのは、主権者である国民である。議員に真剣に取り組んでほしい課題はやまほどある。政治が必死でとりくまねばならないことは山ほどある。 苦しむ国民を置き去りにして、ただむなしく空白の時間を過ぎさせているだけの自公、民主の議員たちに議員の資格はない。
2008/11/26
戦争について書かれたものを読むたびに、国家というものについて考える。昨日のNHKのチャリティー歌謡番組で朗読された特攻兵士の遺書を聞いた時もそうだった。 特攻兵士の遺書、特に前半の19歳の(19歳なのですよ)兵士の遺書を聞きながら、涙が流れた。朗読を聴きながらふるさとの光景、別れを告げるため家族の住む家の上空で翼を振るようすが目にうかんだ。 戦争は一人の人間に他の人を殺させる。戦争は一人の人間自身に殺されることを求める。一人の人間は戦争を進める国家により、それを強制される。それを逃れる幾つかの方法があるにしても、それは例外で、一人の人間は戦争のなかで殺し殺される国家から逃れるすべはほとんどない。 戦争に反対であれ賛成であれどうであれ、国家はそう強制する。小説、詩、川柳、短歌、自伝、体験記、映画などなど、そのいずれであれ、一人一人が国家の枠に追い詰められている姿がまず意識にうかぶ。 「国家の装置は「自国の兵士を強制的に死に追いやる以外に、敵に勝つ手段が無いので、ある国家と他の国家の戦争は、ただちに国と軍の装置と自国の兵士たちとの戦いに転化する」」 「戦争とは最大級の抑圧であり、戦場とは兵士たちの大量虐殺の場である」 「戦争とは国家が自国民を殺す仕掛けだ」 国家が法を網の目のように張り巡らせ、暴力でそれを強制する装置として機能する中で追い詰められた一人一人の人。総力戦という現在、例外はあるがほとんどの人がその仕掛けの網のなかにおちる。 だから、国家という暴力装置、その中に顕在する軍隊という装置を放置してはならないのである。小さな芽でもそれはつまねばならない。何年も先にその芽は大きい樹に成長しているかもしれない。国家というものにとって数年や、十数年の時間は待てない時間ではない。 NHKのチャリティーコンサートを見て、遺書を聞いた後そんなことを考えた。 (注)引用は中山元『フーコー入門』(ちくま新書)から。
2008/11/25
四方田犬彦さんの書く物が好きだというそれだけの理由で買った。読んでみてなかなか面白かった。学会の先端の研究を参照するなどということにはかまわず、自分なりの読みを書いたと断っているが、こんな風に古典を読めたら、学生時代の古文の授業も楽しかっただろう。 取り上げられているのは、古事記から鶴屋南北まで18作品と6人。なるほどこんなにも読めるのか、こんなに読んだ人もいたのか、こういう世界とつながっていたのかと、楽しませてもらえた。 たとえば「梁塵秘抄」は、傀儡子や遊び女にうたわれたこと。遊び女が当時の女性歌手であったこと。その頃は、傀儡子や遊び女が上皇や天皇のもとへ自由に行き来できたこと。 今様が当時の流行歌であり、韓国のパンソリのように歌われたのではないかという仮定にはワクワクした。パンソリはなんどか聞いたことがあり、太鼓一つにあわせて自在に謡うパンソリと今様を謡う遊び女をむすびつけながら、当時の民衆の娯楽の世界というものを想像した。 後白河上皇が書き留めることによって今に残った庶民の世界の一部。四方田さんの解釈を読みながら、楽しい想像の時間に遊んだ。 どの作品、人物についても東西の人や文化とつなげ、さまざまな解釈も引きながら、それらをかき混ぜ、転倒させ、独自の読みを展開する。 読んで損をしない。知的興奮を呼ぶ一冊である。ながく読んでいない日本の古典の世界がぐんと近くなった思いがした。
2008/11/24
「始業1時間前に出社して休日勤務は当たり前のまじめな夫が、長年勤務した会社を課解雇された。46歳の夫に地方での再就職の壁は厚く、月収10万円台の仕事すら面接に至らず、履歴書だけが次々と返却されてくる。 ニート、ネットカフェ難民……そう呼ばれるのは別世界の人たちだと思っていた。努力したり我慢したりが不得手な人たちだから仕方なかろうと。それが、自分もこれから先、いつ、そうなってもおかしくない。」 これは「朝日新聞」23日の「声」 欄に掲載された40歳のパートの女性(札幌市)の投稿の前半部である。まじめに働いていても、いつ、誰が会社から無用のものとして放り出されるかわからない。そして放り出されれば、どうなるかわからない。地方であれば、なおさらである。 今の企業は、人間をたんなる部品のように扱っている。それは大企業の場合、特にひどい。企業も社会もl、そうして放り出された場合、自己責任だとして救いの手をのべない。 こういう場合に、手を差し伸べるべき私たち主権者の代表である政治家はどうか。彼らの多数派は改革と称して、セーフティーネットを壊し、職を失った人たちが再就職できる施策をこうじようとはしない。それどころか、企業が首を切りやすくしようとまでしている。 それだけではない。「百年に一度の不況」などといい、今は景気回復に専念する時、などといいながら、給付金をばらまいたりする程度のことしかできない。政治的空白は許されないなどといいながら、空白、無策の時間が続いている。この投書をされた人の夫のような人を放置したままで政治ゲームに遊んでいる。 この人は投稿を「今後どれだけ、頑張っても報われることはないのか。明日の不安を感じないで眠りにつける日がきてほしい。」と結んでいる。 私たちは「健康で文化的な最低限度の生活」を保障しあうことを誓っているはずである。それは、投稿者のいう、頑張れば報われる、明日の不安なく眠りにつける生活を保障するということではないか。 このような声に敏感に応える社会、政治でありたい。
2008/11/23
田母神前統合幕僚長が自衛隊の統合幕僚学校長時代に講師として「つくる会」関係者を多数招いていたことが報道されている。自衛隊の幹部が「つくる会」のような歴史観を持つ、つまり田母神氏がいいまくっているような史観を持つ状態を想像するだけでもぞっとする。皇軍の復活を連想するからだ。 ところで、「つくる会」あるいは、それと考えを同じくする例えば自民党の議員たちを思い浮かべる時、彼らが、おおやけという言葉を好み多様することに気づく。それはなぜだろうと、ふと、考えた。こういうときは言葉の歴史をたどって見るのも一つの方法である。 大野晋さんの『古語辞典』で調べてみた。意味1は天皇家、意味2は朝廷である。別の辞典にも、元は天子、朝廷の意、とあった。大日本国語辞典では意味1は、大きな家、意味2は朝廷、政府、意味3は天皇、意味4は国家という順であった。 いずれにしても天皇あるいは天皇制国家という意味が、根元にあった言葉らしい。天皇が力を弱めていた時代は別にして、明治から敗戦までを考えてみるとき、天皇主権の憲法下のおおやけは、天皇あるいは天皇制国家以外にありえなかっただろう。 「つくる会」の人たちや改憲論者の多くは国家像を想定する時、天皇を中心とする国家像を想定しているらしい。このこととおおやけの重視を重ね合わせてみる時、単に政府や国家中心主義というだけでなく、天皇を中心に、権力者、支配層が取り巻く国家像を思い浮かべているのではないかと想像してしまう。 田母神氏から、おおやけへ、そして改憲論者のおおやけ観へと連想は展開したが、再び統合幕僚学校へとかえると、こんな重大なことが浮かんでくる。 統合幕僚学校での授業の中身は、このような現憲法に反するものでなのではないか。講師の顔ぶれはそれを証明してはいないか。授業の中身の公開がここで求められる。 自衛隊という暴力装置はつねに主権者である国民に開かれていなければならない。 統合幕僚学校という自衛隊トップの教育場所が閉ざされ、その闇から静かなクーデタの芽が育っていったりしてはならないからである。かつての軍隊の暴走の教訓を忘れてはならない。
2008/11/22
麻生首相が、私立幼稚園PTA全国大会で「しつけるべきは母親」といったという。幼稚園教育がうまくいかないのは、こどもを育てる親のせいということだろうか。 麻生首相は、母親の系統も父親の系統も名家ぞろいらしい。それを自慢にしているようだが、ご自身は、失言、放言、呆言、暴言、妄言の連発である。政治も行き当たりばったりで中身が無い。国民目線などといいながら、庶民のことなどまったくわかっていない。 母親の教育がうまくゆかなかったせいだろうか。ついでに、父親の教育もどんなだったか知りたいものである。 前の前の首相は、教育再生会議などという素人の井戸端会議を主催したあげく、「親学」などというものを提唱し、父親母親に押し付けようとして、あまりの悪評に取り下げたことがある。 この人物も母親の系統も父親の系統も名家であることを自慢していた。その割には、首相としての仕事はほとんど何も出来ず、途中で投げ出すなどという無責任なことをした。 親学を提唱する人物の親はどんな親だったのだろう。あの無責任ぶりから推測するに、親学が必要な両親だったのかもしれない。 この二人の首相に共通するのは、無知で、教養や常識に欠けるということである。そのことの自覚がないから、無責任なざっとしたことをしてしまう。 教育については他人のことなら誰でも一言いえるものである。だが、こどもを放置している場合は別にして、真剣に子育てに取り組み、悩んでいる普通のお母さんやお父さんを責めることは誰にもできない。それが、このお二人を含めてかなりの政治家には分かっていない。 自分があまりにもラクラクと世渡りをしてきたから分かるはずがないのではないか。
2008/11/21
『昭和の劇』がおもしろくて、『破滅の美学』(ちくま文庫)を読んだ。期待どおりの本だった。著者は今はなき笠原和夫氏、「仁義なき戦い」他ヤクザ映画を中心とした名シナリオ作家である。 映画の裏話、やくざの世界の裏話、エピソードなど、膨大な取材、調査の一端が、とても面白く、興味深い。だが、そんな世界もまだこの世界の表面でしかない。 筆者はいう。 「この人たち(経済界のトップたちのこと)の、地位や実権、財産に寄せる執念、強欲、野心、独善は、かの応仁の乱の「餓鬼図」を想起させるほど凄まじい。最近は警察が総会屋一掃に乗り出しているが、総会屋や「組織」をもっとも必要としているのは、この人たちなのである。そして彼等は財界の雲の上で、政・官界までコントロールしている。」 「一総会屋の足もとに巨大な洞穴が暗黒の口をひらいて広がっているのを知って、戦慄を覚えた。洞穴のなかには、日本列島とおなじ大きさの、〈我欲〉をむさぼってのたうつ怪物が棲み、その神経線維は地上のあらゆる〈権力〉と結びついて、この国土を腐らせている。」 …ヤクザ世界の血で血を洗う抗争などと言われた世界が〈無邪気な〉と見えた時、笠原和夫氏はやくざ映画と訣別することを決める。なるほど、公式の席で財界人がいう言葉は、笠原氏の観察を裏付けているようである。公式の席であれほどの強欲を露骨にいうのだから、その裏にどんな〈我欲〉がのたうっていることか。 そんな彼らが、政・官界をコントロールしていることもよく理解できる。 「大西雅寛(悪魔のキューピーと呼ばれた凄腕のやくざ)は、~中略~(巨きな力)に挑みつづけた。彼の暴力は、幾人もの人命を奪う残虐なものだったが、その何倍もの残虐を、一方の(巨きな力)が行っていることを、彼の血が一番よく知っていたからである。〈仁義〉は、最底辺の肉体労働者たちが、連帯を固めるための誓いである。決して遊び人の〈義理の盃〉を充たす美酒ではない。 戦後、民主主義の普及と産業の変革によって、徒弟制度や部屋制度の不文律社会が崩壊し、それに伴って〈仁義〉なき戦いが始まった。それはいまもあらゆる階層に及んで拡大しつつある。 大西雅寛の27年の生涯は、そのことをわたしに教えてくれた。」…この部分も納得できる。大西雅寛は凄腕のやくざで何人ものやくざを殺し、最後に追い詰められて自殺するが、彼の暴力の何倍もの大きな力が、残虐を行っていることは、ひしひしと実感できる。政府も財界も官界もどれだけの残虐を行っていることか。それは、直接人を殺す戦争だけではない。…今〈仁義なき戦い〉が拡大しつつある。特に資本主義の世界のそれはすさまじい。たとえばトヨタという一大企業のそれをみてもわかる。世界を覆いつつある大不況の姿を見てもわかる。新自由主義経済、経済のグローバリズムをみてもわかる。その後に犠牲となった庶民の死屍が累々と連なっている。…私は、やくざ映画そのものは、それほどは見ていない。笠原和夫氏のこの二冊の本もやくざや映画の世界の裏話の面白さに引かれながらよんだのだが、笠原和夫氏がそれらの映画の脚本をつくることを通してみたこの社会認識の確かさに感じ入った。
2008/11/20
★選挙のエサにカネをばらまくという。ばらまくことは決めたがばらまき方は地方にまかすという。ばらまくカネは2兆円で名目は景気対策だというがだれもそんなことを信じてはいない。 社会保障にカネがかかりすぎて、足らないという。足らないから毎年2200億円減額するという。十年間で2兆2千億円。一方でへずって一方でばらまくこの不思議な神経。 国と地方あわせての債務は、700兆円とも一千兆円ともいう。それなのに一方で減らし一方でばらまく。ばらまきは2兆円だけではない。国際協調とかいう名目でIMFに出すカネもハンパではない。その一方で今年も赤字国債を30数兆円も出すという。 骨格になる長期の見通しがなく、その場その場で自分たちの都合で動いているから支離滅裂になる。こんな政治家たちに任せておけば、将来はない。★銀行の貸し渋りが問題だ。特に中小企業が大変なことになると政府・与党は緊急金融政策を打ち出した。ところが、三菱、三井、みずほの三大銀行は、もうすでに過去1年間で3兆3千億円も中小企業に対して貸し渋りをしているという。 三大銀行は大幅の減益だからというが、減益の原因は、海外に大量投資をして出した巨額の損失である。日本国内にカネを回さず、アメリカのバブルにのって海外へ大量投資をした結果だ。 先の日本のバブル、税金の注入、ゼロ金利、免税など、国民から膨大なカネを奪っておきながら、バクチに手を出して大量損失とは、銀行の無責任にもほどがある。☆トヨタがいままでに2000人の期間工を解雇したという。来年3月までに7800人解雇する予定という。 2兆円も純益があったのが、6000億円に減ったからだという。それでも6000億円である。過去兆円単位で利益が上がったのだ誰のおかげだろう。 自分たちの利益しか考えない。経営者がはびこっている。☆自衛隊の統合幕僚学校という高級幹部の教育施設で「歴史観・国家観」講座の講師を務めた三人の大学教授がいずれも「新しい歴史教科書をつくる会」正副会長だったという。 講座の講師は五人、うち三人が大学教授でつくる会正副会長。福地惇大正大学教授は「つくる会」副会長をつとめた。八木秀次高崎経済大学教授は「つくる会」三代目会長。高森明勅拓殖大学客員教授は「つくる会」副会長を務めた。
2008/11/19
民主主義とはほとほと縁遠いことが行われている。民主主義は議会制だけによるものではないが、その議会制度が機能していない。ペテンの選挙制度で選ばれた議会がまったく議論をしようとしない。 民主主義を支える、市民の行動もほとんど目立たない。労組や市民団体といった組織そして個人の行動も見えていない。 あるのはサル山のボス争いである。 先の衆院で、新テロ特措法を通すということで与党と民主は合意し、審議をほとんどしなかった。重大課題が山積しているのに、それらの審議を放棄して新テロ特措法だけに絞りしかもそれを通すことで合意し、そのとおりに通した。 あれほど、反対していた民主党はどうしたのだと批判したが、知らぬ顔で、その後の重大な問題についてもおざなりな審議を続けた。 民主党と自公与党は、議会での討論を避け、ボスどうしの談合で取り引きしようとした。談合は失敗で、民主党はまた新テロ特措法などで審議拒否をするのだという。 眠り続けた民主党が目を覚ましたと思ったら談合で、談合が失敗すれば審議拒否である。またまたかと思う。審議拒否でうやむやのうちに法案は次々通ってしまう。議会はその存在意義を失っている。 自民党は、それを好都合に当然国民の審判をうけるべき選挙を後延ばししている。百年に一回の云々を繰りかえし、それを口実に正統性のない政権を維持し続けている。口実の景気対策も選挙目当てのエサまきで、実質なにもできていない。 民主党も自民党も、国民目線などといいながら、目に見えているのは、政治権力だけである。国民の生活をどうするか、崩壊する庶民の生活や社会保障をどうするか、日本の未来をどうするか。そんなことよりも、どちらが多数派になり、政権の座につくかということだけである。 猿山のボスの座をどちらが取るか。民主も自民もそれだけしか考えていないようである。それだけしか見えていないようである。 国会という国民の目のまえで見える形で議論せずに、闇のなかでボス通しが談合する。 これを猿山のボス争いという以外になんといえようか。
2008/11/18
自由という言葉が逆転してつかわれている。元空幕長が「言論の自由がある」と国会やその後の記者会見で繰り返した時、そう痛感した。 旧憲法下では自由という権利は、「法律の範囲」でほとこしとして与えられるものでしかなかった。だから、次々と法律が作られ、治安維持法で最高刑が死刑となった時、自由は死んだのである。 現憲法では、国民の自由権を国家が守らなければならなくなった。自由権は万民に与えられた権利として規定され、国家は憲法尊重擁護義務によって権利の尊重が厳しく規定されたのである。 元空幕長は、もちろん言論の自由があった。だが、それは憲法の範囲ないでのことである。現憲法に反することを一切発言することは許されない。それでも反対意見をいう自由があるといえば、そうである。だが、その時には自衛隊という場を離れなければならない。 自衛隊ということでは、文民統制に服さなければならないということになっている。それは先の憲法下での軍部の暴走から引き出された教訓である。自衛隊員が憲法や政府に反することをいう自由はない。それでも自由をいうならやはり自衛隊という場を離れなければならない。自衛隊という暴力装置が暴走することは決して許してはならないからである。 ところが、元空幕長は、現役時代から、憲法に反し、政府の方針に反することを発言し、教育してきた。彼はそれをも自由というのであるが、これは全く許されないことである。政府は、彼を懲戒免職し、地位剥奪すべきであった。 このような自由がいま蔓延している。政治家たちもいいほうだい、憲法を蹂躙する発言を繰り返している。 それに対して、国民の自由の権利は、国家権力によって、じりじりと狭められている。自由の権利を守らなければならない、権力が国民の権利を奪っているのである。 ビラをまいて逮捕有罪になった例はいくつもある。麻生首相の邸宅を見に行こうとして逮捕拘留された例もある。本来自由として守られるべき行為が警察、検察、裁判所によって、国家権力によって奪われ狭められているのである。 本来政府幹部が憲法に従えば、本来言えないはずのことを自由のなのもとに公言し、逆に憲法で保障されているはずの国民の自由の権利が、それをまもるべき国家権力によってふみにじられる。まさに、自由という権利についての基本が逆転しているのである。
2008/11/17
佐野眞一の『沖縄 だれにも書かれたくなかった戦後史』(集英社)を読んでいて、どきっとしたところがあった。いろいろ知らなかったことを教えてもらったが、ドキッとしたというのは次の箇所である。 佐野さんがある人にインタビューしていた時その人が言った言葉。 「だから、本土の人たちが、われわれは、独立を回復した。朝鮮半島みたいに南北に分断されなかった。と言っているのを聞くと、何を言っているんだ、日本と沖縄は分断されているじゃないか、と言いたくなるんです。」 分断されているという現在形は分かりにくくても、戦後米軍の支配地となり、本土とは違った形で、米軍の思うがままに支配された。講和条約で日本の独立が回復されたのちも復帰まで、アメリカの統治下にあった。ということは、日本は分断されていたのである。 ドキッとしたと言う時、私は敗戦から、復帰までのことを意識し、のんきに平和な国日本を謳歌した自分に気付かされたのであった。確かに沖縄は本土と分断されていた。 だが、すぐ気がついたのだが、この言葉は現在形で語られている。そこに話者の「それは過去のlことではない。現在も続いている。」という認識がある。ここには、沖縄と本土とのあいだに米軍統治下から続く分断があるといっているのである。 戦前の沖縄の場合、差別と融和が裏表の植民地的統治がなされた。強力な統合政策と差別政策とで、沖縄と本土とのあいだには分離線が隠されていたのである。 復帰後も沖縄は特別な地位に置かれ、別の形ではあるが、隠された分離線がある。 だが、話者のいいたいのは、それだけではないだろう。多分話者は、沖縄は復帰後もアメリカ統治下と変わらないではないかと言いたいのではないかと思う。 この本は沖縄についてさまざまな方面から取材したものであり、初めて知ることもあったが、一番ドッキリとしたのは、この箇所であった。
2008/11/16
経団連が道州制についての提言を発表して、自民、民主、財界の案が出揃った。三者の案は大骨がほぼ同じである。 いずれも全国を10前後の「道州」にする。自治体は自民が700~1000、民主が当面700~800とし最終的に300程度、財界が1000程度である。民主が一番極端な提言をしているのだから、一致するのはみえている。 道州制にすることによって、何を目ざしているのか、経団連の場合を見てみると、行政経費の削減などで約5兆8000億円の経費削減。公務員約3万3000人の削減などが目玉のようである。 自民も民主もこの点は共通するようである。経費削減、公務員削減で国からの歳出を削ろうというわけである。 道州制には問題点が山ほどある。まず、「道州」が出来、自治体が1000程に減らされたら人々の意見を反映する場がほとんどなくなる。自治体が減らされるということは、自治体が大きくなるということである。大きくなるということは、切り捨てられる人々、人々の声がそれだけ増えるということである。極度の中央集権化が更にすすむ。 道州制は大きなねらいが経費削減であることでわかるとおり、住民サービスは今よりもさらに大幅に削られる。住民の日常生活に密着した政策は減り、逆に財界(大企業)などの大型公共事業や、大企業の意向が行政に反映しやすくなる。地方政治は、ないに等しくなる。 民主党の最終300自治体案などはメチャクチャである。自民、財界案も五十歩百歩ではあるが。 道州制について三者共に今の所、大枠しか示していない。詳細な案がまもなく出されるようだが、それらの案がどうであれ、経費削減、住民サービスの切捨て、中央集権化の推進が根本にあることを忘れてはならない。 甘い言葉がちりばめられるであろうが、よくみればこの基本に沿った提案がてんこ盛りになるはずである。 あのアメリカでさえ、数万の自治体があるそうである。小さいのでは数百人というものさえあるという。難点も多いアメリカだが、こういう点はみならってもいいのではないだろうか。 いずれにしても、蔭で大連合がなされて着々と進んでいるこの悪制度の行方を見守り続ける必要がありそうだ。
2008/11/15
沖縄タイムス 11月1日 によると国連人委員会は、琉球民族を先住民として認め、土地や文化の保護などを行うよう日本政府に勧告する報告書を発表した。重要な記事だと考えるので、同社ホームページの記事を転載しておく。 国連「琉球民族は先住民」/人権委認定文化保護策を日本に勧告 【東京】国連のB規約(市民的および政治的権利)人権委員会は三十日、日本政府に対して「アイヌ民族および琉球民族を国内立法下において先住民と公的に認め、文化遺産や伝統生活様式の保護促進を講ずること」と勧告する審査報告書を発表した。 同委員会の対日審査は一九九八年以来、十年ぶりで、人種差別・マイノリティーの権利として「琉球民族」が明記されるのは初めて。 勧告では、「彼らの土地の権利を認めるべきだ。アイヌ民族・琉球民族の子どもたちが民族の言語、文化について習得できるよう十分な機会を与え、通常の教育課程の中にアイヌ、琉球・沖縄の文化に関する教育も導入すべきだ」と求めている。 国内の人種差別問題などで同委員会の委員らに働き掛けてきた反差別国際運動日本委員会は「日本政府はこれを重く受け止めて、国際人権基準に合致した履行に努めることが求められる」と評価した。 同勧告をめぐっては、沖縄市民情報センター(喜久里康子代表)なども同委員会に琉球・沖縄に関する報告書を提出していた。
2008/11/14
元経団連会長でトヨタ自動車相談役の奥田氏が、12日、首相官邸で開かれた「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」の席上で問題発言をした。なにが問題かというと、この発言があきらかにおどしであるからだ。誰に対するどんなおどしか、まず発言をみてみよう。新聞報道をつなぎあわせるとこうなる。 「私も個人的なことでいうと、腹立っているんですよ。」「新聞もそうだけれど特にテレビがですね、朝から晩まで、名前を言うとまずいから言わないけれど、2.3人のやつが出てきて、年金の話とか厚労省関する問題についてわんわんやている。」「あれだけ厚労省がたたかれるのは、ちょっと異常な話。正直いって、私はマスコミに対して報復でもしてやろうかと(思う)。」「正直言ってああいう番組のテレビには出さないですよ。特に大企業は、皆さんテレビを見てわかるとおり、ああいう番組に出てくるスポンサーは大きな会社じゃない。いわゆる地方の中小。流れとしてはそういうのがある。」 厚労省に問題が多いから、それについて検討する懇談会の委員をしていながら、この発言はないだろう。 トヨタといえば大スポンサー、奥田氏といえば元経団連会長、経済界への影響力もつよい、それを意識した上で、ほのめかしながらおどしをかけているのである。 おどしをかけられているのはテレビや新聞。大企業に引かれたらお前たちもたないだろう。批判的な番組は控えろということである。 この発言で裏付けられたが、トヨタを始め大企業への批判はきわめて弱い。それは新聞やテレビがまさにこの発言のようなことを意識しており、日常的に圧力を受けているからであろう。 このようなことの被害者は直接的には新聞やテレビであるように思える。だが、よく考えてみれば、真実が隠され、批判が抑圧されるということで実害を被るのは国民である。 奥田氏は、経団連会長を辞めても政府関係の各種委員をたくさん務めている。そういう人物がこういうなのである。奥田氏は、ちょっと検索してみても暴言がずらっと出てくる。その発言の内容を見ると、トヨタが大企業がよければそれでよい、庶民からは絞れるだけ絞れ、サービスは削れるだけ削れという考えが露骨である。 こんな傲慢な意見がそれほどの批判も受けずに素通りされるのは間違っている。期間工や契約労働者を平気で切り、カンバン方式で中小企業を搾取して大もうけしながら、批判は許さないなどというのは、こちらが許さない。こんな発言ややり方を続けておれば、トヨタをはじめ大企業にやがて跳ね返ってくるに違いない。 おごる平家はひさしからずである。 追記、年金の問題、厚労省の問題で国民が怒るのは当たり前。怒るな、厚労省を批判するなというほうが理解できない。
2008/11/13
元空幕長が国会でいいたいほうだい言った。国会に呼ばれているというより、独演会のようであった。もっともNHKは中継しなかったから新聞、テレビからの判断ではあるが。 こんな人物が自衛隊のトップであったとはそらおそろしい。なにが恐ろしいか。 アパグループの懸賞論文で最高の賞を貰った論文やあれこれの報道をみるとよくわかる。 ・自衛隊のトップが憲法を意識的に無視し、政府の決定を平気で踏みにじったこと。過去の歴史の教訓は軍の独走を強く戒めている。憲法が軍隊そのものを無くすことを規定しているのも一つはそのためであろう。それに意識的に違反する人物がトップにいてはいけない。 ・論文を読んでも分かるが、彼の歴史認識は誤りがてんこ盛りである。こんな誤った歴史認識を空自幹部に教育しようとすることは自衛隊自体の方向を誤らせることになる。 ・論文もその後の発言も、自衛隊という暴力装置のトップとしてきわめて危うい。論文はきわめて幼稚だし、誤りに満ちている。その後の発言を見ても、トップとしての自覚が全く見られない。このような幼稚で粗雑な考えしか出来ない人物がトップでは、自衛隊どこへゆくかわからない、暴走の可能性も考えられる。 ・そのような人物を分かっていながらトップに起用し、その上誤りが露見しても、政府は厳しく処置しない。懲戒免職にし、官位を剥奪するくらいのことがあって当然なのに、何もしない。それは、政府自体が同意していることになる。こんな政府では、自衛隊がどこへ行くか心配になる。 ・自衛隊ばかりではない。政府の顔ぶれや彼らが最近やっていることをみれば、この国がどこへゆくやら心配になる。
2008/11/12
百年に一度の暴風が吹き荒れているといってみたり、日本は大丈夫といってみたり、あたふたとしていたが、大変だ大変だに落ち着きそうである。だから、解散しないというのが麻生自民党である。 ところでその政府がやろうとしている経済政策はどんなものか。金融資本の貸し渋りを防ぐための資本注入、企業向けの投資減税、証券優遇税制の継続。つまり大企業と銀行や金持ちへのこれも選挙目当てをかねた優遇政策。 国民への給付金、住宅ローン減税、高速道路料金の値下げなどの選挙目当てのばら撒き政策。 いつもどおりのワンパターンである。百年に一度のとか、解散している時ではないとか、いうにしては、選挙対策のですしかない。政権にしがみつくためとくっきりわかる。 実際じわりじわりと中小企業をはじめ庶民の生活まで、日本経済は深刻な状況になっているのだから、それなりの対策が必要だろう。だが、それはこんなことではないのではないか。 小泉改革で輸出依存型、それも自動車や電化製品などに特化したつけがここで直撃を受けている。根本的な百年先を見通した議論が必要だろう。 庶民が安心して暮らせる社会はどういう社会か、それを支える経済は今のままでいいのか。いつもどおりでない政策を出せる政党を育てる必要がある。
2008/11/11
ナポリにウンベルト画廊とよぶアーケードがあるという。この小説はこのウンベルト画廊を舞台の一部にとりこんだ9の「肖像」と名づけられた短編と8っつのプロムナードと名づけられた掌編から構成されている。 第二次大戦の末期の前線は進み、ナポリは後方基地となっている。そこで繰り広げられる八人の人物を中心とした物語。戦争は最後の一章でわずかしか描かれないが、戦争というもの、人生というものについて考えさせられる小説である。 そこで繰り広げられる人間の生の豊かさ。猥雑さ。それに比べて戦争というものの愚かさ。そういったものが戦闘場面をほとんど描かず生きることそのものを描くなかで明らかにされる。 そしてそれぞれの短編のなかでさりげなく語られる言葉に打たれる。 「こういう可哀想な子ども達は、少年期の無邪気さを知らないのだから、一体大人になったらどうなるだろう。もし彼らが冷酷な卑劣漢になるとしたら、世界は本当に戦争に敗れたことになるだろう。 「ところが近代戦は総力戦だ。戦場の軍隊などというものは昔の旧式な戦争からの遺物にすぎない。1944年の戦争は、一人一人が相手の一人一人にむかって手を振り上げたことによって終わりを告げたのであろう。文明はすでに死滅したのだが、何人もそれを自己承認しようとはしなかった。」 「万人はその気があれば、働き、食い、眠り、恋をし、衣服を着る権利を持っている。人生のその他のいっさいは、いわゆる支配階級や知識階級によって持ち込まれてきたのだ。1944年のこれらの階級の連中は、自分のことはすりすぎるほど知っているくせに、自分たちの責任はしらなさすぎる。」 「人々は、こんなことがわが身に降りかかってくるわけはないといいながら、一生の大部分を過ごしている。死の床にありながらも、そんなことをいっている。それで、自分は生きているという事実をはっきり受けいれることができなかったために、自分が死にかかっているのを死って驚くんだよ……。」 (J・Hバーンズ『画廊』 杉木喬・飯島淳秀訳 岩波書店 絶版)
2008/11/10
私の大事な恋人が どこか遠いところへやられた あなたはいまどこにいるのか 鳥になりたい 風になりたい 風よ 憎い風よ お前は私の恋人の まわりをまわり さわっても歩けるだろうが 私は人間だから 行くことができないのだ ヤイサマネナ 仕方ない 風にでも 鳥にでもなって 飛んで行ったら 恋人にさわれるだろうか ちょっとでも姿を見れないだろうか ヤイサマネナ ヤイサマネナ…… アイヌにはユーカラやウェペケレのほかに多くの歌謡が残されているという。その中に叙情歌というのがありそのなかにヤイサマというのがあるという。ヤイサマは自分の心を述べるという意味でここに転載したのもそのヤイサマの一つである。 ヤイサマの多くは、松前藩が大商人に請け負わせてアイヌに強制労働をさせアイヌが衰亡していった時代を背景にしたものも多いという。このヤイマサもそういうものの一つである。 アイヌ語でどう表現するのか。こころにひびく哀切な歌である。 (計良光範『北の彩時記 アイヌの世界へ』(コモンズ)より)
2008/11/09
厚労省が7日発表した「就業形態の多様化に関する総合実態調査」によると、07年10月1日現在の状況について全国一万791の事業所とそこで働く2万8783人が回答した。 それによると民間の事業所で働く労働者のうち、派遣やパートで働く非正社員が37・8%と4年前より3・2%上回ったことが明らかになった。 中でも派遣労働者は、前回の2・0%から4・7%へと2倍以上に増えている。契約社員は前回調査から0・5ポイント増の2・8%、パートは0・5ポイント減の22・5%だった。 業種別では、派遣は情報通信業や製造業、契約社員は教育・学習支援業、パートは飲食店や宿泊業で働く人が多かった。 非正社員を活用している事業所に複数回答理由を尋ねたところ、「賃金節約のため」が40・8%と最も多かった。 労働者にいまの働き方を選んだ理由を複数回答で尋ねたところ、「正社員として働ける会社がなかった」が、派遣では37・3%、契約では31・5%を占めた。 今後の働き方については派遣は51・6%、契約は50・2%が他の就業形態を希望、そのうち9割以上は正社員として働くことを望んでいた。(8日、朝日より) これをみても、企業が労働賃金を削るため、労働者の非正規化を進めており、一方労働者は、正社員として働くことを希望していることがよくわかる。 「多様な働き方」「選択の自由」などということばが、いかにごまかしであったかもよくわかる。企業は、(特に大企業は)労働者削減による利益の確保、増大に味をしめ、非正規化を強めている。 大企業が非正規労働者を増加し、昨日も書いたように、利益確保のための調整弁としてかってきままに使い捨てしていることが、いかに社会を破壊しているか、労働者を破滅に追い込んでいるかをよく認識する必要がある。 それにしても非正規雇用が4割に近づこうとしているとは恐ろしい。
2008/11/08

自公が国民に給付金をやろうといった。その後、給付金をめぐって右往左往している。社会保障費を毎年大幅に減額しておきながら、全国民におカネをばらまこうという。 こんなメチャをする意図はみえみえで、国民の税金で国民買収選挙をやろうというのであろう。ところが、実施を前に、横槍が入った。景気対策なら、支給に上限を設けよというのである。それで紛糾している。 上限は1500万円、1000万円などという説がでたと思ったら、給付金支給券のようなものを一端全員に配布しておいたあと辞退してもらうという珍説が出た。これで、一票ほしさの思い付きであることがますますはっきりした。強欲な金持ちが辞退などするだろうか。 本気で日本経済の復興を考えるのなら、非正規雇用を減らし、国民の購買意欲なり購買力を高める、社会を回復させ、国庫収入を増大させている政策こそ必要なのではなかろうか。 「しんぶん赤旗」によれば、大手企業が不況を理由に続々と期間工や契約社員の契約打ち切り、つまり解雇をしており、更に増大する見込みだという。非正規雇用の多用でさんざんもうけておきながら、もうけているときは、利益を自分たちだけで独り占めし、労働者や社会に還元せずにおきながら、ちょっと不況になればこうである。 こうした解雇で、社会経済はますます冷え込むであろう。国民の購買力、購買意欲は更に低下し、経済は停滞する。不況は更に進み、解雇で切り抜けようとしてさらに景気がわるくなる。そんなスパイラルになりはしないか。 国庫にカネがないといいながら2兆円をばら撒くより、雇用の確保、非正規雇用の規制、正規雇用の増大を真剣に考えることのほうが必要なのではないだろうか。 ちなみに、現在非正規雇用解雇の現状と将来計画についての「しんぶん赤旗」の統計を貼り付けておこう。(「しんぶん赤旗」のホームページから)
2008/11/07
鶴見和子『遺言』(藤原書店)を読む。死を迎えるまでの病床日誌と講演、短歌、時代評論の短文、対談を集めている。みずみずしい感性と、生命感あふれる内容に感嘆する。 ・政人(まつりごとびと)いざ事問わん老人(おいびと)われ生きぬく道のありやなしやと …政府がリハビリテーションの期間を短縮してうち切る政策を実施したあと、それまでリハビリによって歩けていた鶴見さんは背骨の圧迫骨折をし寝たきりになる。多田富雄さんとともに怒りの声をあげたのだが、多田さんはこの歌を繰り返し引用している。鶴見さんは政府の政策は結局は老人は早く死ねという政策だと批判する。 ・早く死にたい死にたくない山茱萸(さんしゅゆ)の緑の若葉 朝の日に揺れているなり …つよい精神で病を生きる鶴見さんだが、生と死のあいだを心が揺れる時がある。若葉の緑とともに揺れる心。死と生のあいだを揺れながら、こころはみずみずしい。 ・ある日、鶴見和子は見舞いに来た弟鶴見俊輔にこういう。「死ぬというのは面白い体験ね。こんなの初めてだわ。こんあ経験するとは思わなかった。人生って面白いことが一杯あるのね。こんなに長くいきてもまだ知らないことがあるなんて面白い!!驚いた!!」。弟俊輔は「人生は驚きだ!!」と応える。「驚いた!!面白い!!」といって二人はげらげら笑ったという。 …死までを対象化し、探究心の対象としてしまう。そして、面白いと笑う二人に驚嘆する。果たして私がこのように死に向かいあえるだろうか。 ・斃(たお)れてのち元(はじ)まる宇宙耀(かがよ)いてそこに浮游す塵泥(ちりひじ)我は …この歌についてはすこしわかるような気がする。宇宙に耀いて浮遊する塵泥の一つになるのだという認識は、私にもある。宇宙の塵泥から生まれた命はまたそこへ帰ってゆく。 ・最終講演のなかのこういう部分に特に魅かれた。南方熊楠やクストーの生命観について触れた部分である。そこで生物や文明の多様性について触れ、多様性が壊れることは地球が壊れることだという。 …現代の文明が欧米、あるいはアメリカ文明に単一化され、生命が滅ぼされ続けている現状は、人類が、特に欧米文化を中心とする人類が、滅びへの道を辿っていることのように思える。地球を壊す道である。生物や文明の多様性を守る方向を選びたい。 ・同じ最終講演で憲法9条についても述べている。「これはアメリカの思想というよりは人類の理想です。それを、いまは九条があるのに海外派兵をするということを決めたでしょう。だからあっても歯止めにはならないけれども、もしなければ、どんどんどんどん外国から請われるままに、どこへでも日本から軍隊を出兵して戦争に参加する。そういうことになれば、日本はまた修羅場になっちゃいますね。戦争に巻き込まれてしまう。」 …この考えにも同感である。政権与党の政治家やあれやこれやの人びとがいうように現状と九条は乖離している。だけど、なくなれば鶴見さんのいうようになってしまう。だから、前空幕長のような論文を書かせてはならないし、そんな認識を認めさせてはならないのである。防衛庁は組織的にかの懸賞論文に応募のよびかけをしたらしいが、軍隊という暴力組織が暴走させてはならない。そのためにも憲法は、そして九条は守らなければならないのである。アメリカの軍事戦略に組み込まれ実際行動をつよく要求されている今だからこそなおさらである。 …鶴見さんの遺稿集ともみなすべき書物だが、読み終えて爽やかな風が吹きすぎたように思えた。風たちぬいざいきめやも、といっても亡くなられて鶴見和子さんには失礼にならないような気がする。
2008/11/06
★空僚長が先の戦争を肯定する論文を書いて更迭された後、定年退職した。内閣もメディアも問題の大きさを十分に認識していない。 問題は、憲法の精神を尊重し、擁護する義務を、自衛隊の幹部である航空幕僚長がka確信的に踏みにじったという点にある。憲法を平気で踏みにじるような幹部が放任されるようでは、自衛隊という暴力組織が憲法や主権者である国民の意思とはまったく別の方向に向うおそれが生じる。 日本国憲法は先の戦争が誤りであったという認識に基づき、政府はその認識に従うことを公式に表明している。それを確信的に踏みにじる行為は、幹部でもそうでなくても許されない。 空幕長は、だから、あのような見解、認識を表明した時点で、地位を剥奪し、懲戒解職の処分にすべきであった。それを定年退職させ、関係者が給与をカットすることですますのは、認識が甘すぎる。 認識の甘さは、政治家のかなりの部分に平気で憲法に反する言動をし、憲法99条に日常的に違反する者がいることと密接に関連しているのであろう。★オバマ氏がアメリカ大統領選挙で圧勝した。日本の首相のお祝いの言葉の中心が「日米同盟の強化」であるのは、おそれいる。アメリカの属国の首相らしい言葉である。 世界の現状と未来についての独自の見解、政策、方向付けがあれば、もっと別の言葉も出たのだろうが、そんなものとは縁遠い首相は、日米同盟強化としかいえなかった。 麻生首相は、麻生という係累の力を除いたら、ただの酒飲みのやくざな男にすぎない。安倍、福田、小泉なども二世、三世でなかったら議員にも首相にも縁遠いような連中だった。 そんな連中が政権を無責任に投げ出し、国民の信任を得ずにたらいまわししている現状は異常である。
2008/11/05
ある人が役所に医療扶助について話にいって暴言を浴びたということを聞いて、いったいどういう決まりになっているのか知りたくて、役所に電話してみた。別の自治体の窓口ではあったが。 知人のことなのだがと断った上で教えてもらった。電話に出た女性は、丁寧に教えてくれた。 「医療扶助を貰いたいという人がいるのだが、どうすればいいのですか」 「まず生活扶助を受けていることが前提となります。受けていますか。」 「受けていません。受けるにはどんな条件がありますか。」 「まず収入がないことです。年金など収入がある場合、家族構成とかいろいろな条件がありますから直接来ていただかないと」 「わかりました。詳しいことは分かりませんので。それは、それとして他に条件などありますか。」 「貯金、保険などがあれば全部解約していただきます。持ち家とか土地があれば、全部売ってもらって、それらをまず使い切ってしまってからということになります。」 「それでは、全くゼロになるというのが前提ということですね。」 「いろいろ細かい条件がありますが、県がきめることですので。」 「県が決めるということは、国が決めるということですね。」 「そういうことです。」 説明を聞いていて、なるほどこれでは、生活保護を受けようとするのは、相当にむずかしいと感じた。細かい条件をクリアする前に、家も土地も貯金も保険も使い切って丸裸になったうえで、残余の条件をさらにこまかく検討したうえで受給の当否を決めるのでは、生活に困った個人が救われるのはまず不可能に近いと感じた。 (大阪の知事は高校生との議論のなかで、生活保護というセーフティーネットがあるといったが、これだはセーフティーネットがあるとはいえまい。) 昨日聞いた話の役所の人は、当人としては国の決めたマニュアルに従っただけかもしれない。だが、人間は機械ではないのである。公務に携わる人が、生活保護法や憲法の精神を忘れ、相談に来た人の尊厳を無視し、踏みにじるような暴言を吐くようではなるまい。誰の立場に立つかが問われている。 といっても結局は、末端にそういわせる国=政府=厚労省のあり方に問題があるのである。ということは、そういう制度を作った政治家の問題に行き着く。 「国民目線」だの「大衆目線」だのたわごとをいい、事実は逆の政治を行っている政治家を選んではならない。
2008/11/04
ある家族がある。四人家族である。年金暮らしの老父母と離婚した娘とその子が同居している。娘といっても50歳を越えている、彼女がかなり進んだガンだと分かって緊急入院した。 老父母の国民年金はわずかしかない。娘は数年前に会社が倒産してアルバイトをして食いつないできた。蓄えはない。子どもは高校卒業が就職氷河期にあたり、非正規職にしかつけなかった。今もわずかな収入でしかない。 つまり、老父母のわずかな年金を頼りに四人家族がつつましく暮らしていたのである。そこへ、娘が重いガンとわかり緊急入院した。かなりの医療費がかかることが予想された。医者の勧めもあって医療扶助を受けたいと役所へいった。 役所へいって担当にあうと、暴言を吐かれた。若い担当者は、老父母の年金で四人が食べることくらいできるといった。医療費のことをいうと、家を売れといった。家を売ってどう生活すればいいのかというと、それはあんたらが考えることだと担当者は言った。 情けなくて人には言えないような暴言を担当者は、言い続けたという。情けなくて泣けそうだったと市役所へいった老母は嘆いていた。 四人家族が年金とアルバイトのわずかな収入でそれでも生活保護も受けずつましく暮らしていた。重病の家族が出たので、医療費だけでもと申請にいったら、暴言を浴びせ続けられた。 生活保護制度については詳しくはしらないが、医療扶助は生活扶助を受けていることが前提であるらしいが、申請にいった人は何も知らなかったらしい。ただ、医療費だけでもと願ったのである。 担当者は制度の仕組みから丁寧に説明すればよかった。暴言を連ねる必要はなかった。だが、担当者は推測するのに、医療扶助云々のまえに生活保護を受けさせないことだけが頭にあったようだ。 役所の担当者は、誰に奉仕しているのか。多分、今まで報道されてきたことで分かるように、保護費など出さないように厳しく指導されているのであろう。そのため、必死になって暴言となったのかもしれない。 政府から、担当者まで、貧しい人たちが困ってもよほどのことがないかぎり、一銭も出さない方針が徹底されているのであろう。 政府は金融危機だ、緊急事態だといって一見甘い政策を並べている。だが、現実にやっているのは、このようなことである。庶民の困窮者を切り捨てながら、カネをばら撒いている。それも大金持ちも貧乏人も定額だという。 政府は誰に奉仕しているのか。各省庁から始まって末端の担当者まで、公務員は誰に奉仕しているのか。あなたたちは、全体の奉仕者ではなかったのか。 申請にいった人は、結局暴言を聞いただけで、帰ったらしい。担当者は生活について詳しく聞き、丁寧に制度について説明し、実現の可能性を一緒に探るべきであった。 こんな話を聞いて、政府=国というものの正体に改めて怒りを覚えた。政府の欺瞞を見逃してはならない。
2008/11/03
ある人がサルを飼っていた。餌の木の実を朝に三個、夕方に四個やっていたら、サルが騒いだので、朝に四個、夕方に三個やったら、サルが満足した。中国の朝三暮四という故事成語のお話である。 自公政権は、サルをだますと同じに人々をだまそうとしている。生活が苦しいと訴える人々に小額のカネをばらまき、選挙で票を買ったうえで、消費税という税金をがっぽりと収奪しようというわけである。といってもこの場合、だますのはすべてのサルではない。 自公政権のあくどいのは、だまそうという相手が国民すべてではないということだ。大企業への減税、銀行への所得税減税、富裕層への特別減税などは続ける。ゼロ金利で金融業大企業を助ける。その金融業はアメリカに出向いて傾いた金融会社に支えようとしてりる。彼らはだまされない。 庶民が痛手を受ける年間2200億円の社会保障費抑制は続ける、金融危機が産業に影響を与えているという理由で、派遣社員や契約社員、期間工などの雇い止めはそのまま放任する。 財源はないから、当然つけとなる。つけは赤字国債ということになろう。そしてツケの払いは、大企業や富裕層など多額の恩恵を受けた勢力がになうわけではない。払わされるのは、大企業や富裕層などなどの勢力を除いた庶民ということになる。だまそうと名ねらわれているのは庶民である。 わずかなバラマキのエサに惑わされて、大きな支払を背負わされてはならない。わずかなエサの後に待っているのは、社会保障を始めとして庶民の生活に直結する国費の削減であり、庶民の生活の切捨てである。そして、最大のねらいである消費税の大増税がまっている。
2008/11/02
沖縄ノートをめぐる裁判について大阪高裁判決があった。高裁は軍関与をみとめ控訴を却下した。当然である。だが、最も狭い意味での隊長命令については新資料の出現で真実性が揺らいだとするのは、その後の資料に見る限り認められない。 同じ日空自トップの航空幕僚長田母神俊雄氏が「我が国は被害者」「侵略国家というのは濡れ衣」と全面的に前の戦争を肯定した論文を発表して更迭された。発言の重大さからみれば、処分は余りにも軽い。 ところで、沖縄戦における軍の行為を免罪し、先の戦争を肯定するような裁判や発言が相次ぐのは、なぜだろう。それは、日本を戦争の出来る国にしようとする勢力がそれを必要とし、今がその時機と判断しているからだろう。 アメリカ軍は世界的な再編制を行っている、その中で自衛隊の位置も現在以上に重い役割を担わせ、米軍の体制の中に深く組み込もうとしている。それと呼応して日本側でも財界とも連携しながら、自衛隊を軍隊として位置づけようとしている。 その場合、障害になるのが憲法であり、日本帝国軍隊の侵した犯罪行為という罪である。沖縄での集団自決への軍の関与などあってはならないのであり、先の戦争で日本帝国の軍隊は侵略行為などしなかったと彼らはしたいのである。そうすることで、自衛隊を堂々とアジアに世界に軍隊として再登場させようとしているのである。 大江裁判では、原告は「沖縄ノート」を提訴した時点で読んでいなかった。そうした原告を動かし、訴訟費用などを支えることも含めて動かした藤岡信勝氏を始めとした勢力があった。空幕長の論文の場合でも、論文を公募したのは、「真の近現代史観」を広めようとする目的でアパグループであり、代表の元谷氏は「論文は私の考えとも全く一致しており」といっている。ちなみに、審査委員長はそういう主張を盛んに展開している渡部昇一氏である。彼らの行動は確信犯であり、連動していると判断できる。 もっとも、国連の自由権規約委員会が、「慰安婦」問題で法的責任の受け入れと謝罪を求めたということでもわかるように、世界の特にアジアの人びとは、決して、日本帝国の行為を忘れてはおらず、日本国内でどのように歴史の書き換え、記憶の抹消を行おうとも、そのまま受け入れてはもらえないだろう。彼らの運動もそう容易に進むとも思えない。 だが、アメリカは日本が米軍とともに、米軍の手先として積極的に行動することを望んでおり、そんなこととはかかわりなしに圧力をかけてくるであろうことを考えると安易に考えることはできない。
2008/11/01
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