星とカワセミ好きのブログ

2019.05.20
XML
東京都千代田区大手町1丁目に、平将門の首塚があります。

平将門は関東を平定し、自らを新皇と称して政治を行いましたが、940年に平貞盛と藤原秀郷に討たれ(天慶の乱)、将門の首は京都に送られました。しかし3日後に首が光を放って東に飛んでいき、この地に落ちたので、村人は首を埋めて塚を作りました。この場所には日輪寺と神田明神がありました。

将門の祟りのように災いが続くため、徳治二年(1307年)に真教上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を贈り、板石塔婆を建てて日輪寺に供養し、そばの神田明神にその霊を祀りました。

神田明神は徳川家康が関ケ原の戦いに行くときに必勝祈願した社です。元和2年(1616)、神田明神は江戸城の表鬼門にあたる現在地(東京都千代田区外神田)に移され、江戸総鎮守とされました。日輪寺は浅草3丁目に移っています。



↑ 将門塚。





↑ 徳治二年(1307年)に真教上人は、将門に蓮阿弥陀佛という法号を贈り、板石塔婆を建てた。震災で壊れるごとに造り直された。









↑ 将門首塚の碑。 
昔この辺りを芝崎村といって、神田山日輪寺や神田明神の社があり、傍らに将門の首塚と称するものがあった。現在塚の跡にある石塔婆は徳治二年(1307年)に真教上人が将門の霊を供養したもの。明治2年(1869年)より第二次世界大戦時まで、この地に大蔵省が設置されていた。



↑ ビルの谷間に将門の首塚がある。








将門の首塚は江戸時代、大名の酒井家の上屋敷の敷地内に置かれ、明治に大蔵省の敷地になっても祀られていた。しかし、関東大震災で庁舎が倒壊した大蔵省は、塚をならして跡地に仮庁舎を建設した。それからなぜか、けが人、病人が続出し、2年間で大蔵大臣ら幹部14人が死亡したため、昭和2年に理財局長が祭典委員長となり、現在の形に塚を再建して盛大な鎮魂式を行った。昭和15年に落雷で大蔵省本庁舎が全焼した際も、怨霊話が再燃し、盛大な鎮魂祭が行われた。

第二次世界大戦の空襲で焼失した旧大蔵省跡地を進駐軍の駐車場にするため、ブルドーザーで整地中、運転手が事故死した。日比谷のGHQに陳情に行ったが、話が通じず、昔の大酋長の墓という事でやっと納得してもらえ、中止となった。











↑ 将門の首が京都から飛んで帰ってきたことから、カエルの人形が置かれている。
















↑ 歌舞伎の「先代萩」。 (伽蘿先代萩 : めいぼく せんだいはぎ)
1660年から仙台伊達家に起こった紛争が、歌舞伎となった。
伊達家3代藩主の伊達綱宗は吉原の高尾太夫に入れあげて隠居させられる。これらはお家乗っ取りをたくらむ家老原田甲斐と黒幕である伊達兵部らの陰謀であった。後を継いだ4代藩主の伊達綱村に対し、甲斐一味は毒殺を図るが側近に防がれ、逆に伊達安芸は、甲斐などの悪行を幕府に訴え、酒井邸での審理で安芸側が勝利した。そこで甲斐は刀を抜いて安芸を斬るが、自らも殺された。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2019.05.21 12:25:00
コメントを書く


■コメント

お名前
タイトル
メッセージ

利用規約 に同意してコメントを
※コメントに関するよくある質問は、 こちら をご確認ください。


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

×

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カレンダー

バックナンバー

2026.09
2026.08
2026.07

© Rakuten Group, Inc.
Mobilize your Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: