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〇外出する時は肩下げバッグに飲み物と句帖の他に、何かの読み物1冊を忍ばせて出かけています。掲題『京都 なるほど事典』(清水さとし著)は左右の頁つまり2ページに収まる範囲内で、京に関する豆知識を盛り沢山綴って下さっている便利帳で、電車内で読むのにぴったり。第1章「古寺・名刹・神社仏閣を歩く」 その最初の見出しは”どうして東寺があって、西寺がないのか”から始まって、”大原野の十輪寺にある塩釜に秘められた恋とは”まで43話。第2章「京都の歴史を知る街歩き」 ”山城国に平安京が造営されたのはなぜ?”に始まり、”鹿ケ谷の陰謀事件と真夏のかぼちゃ供養”に至る30話は、「京都通」になる裏ワザとも言えましょう。この日記で本当の京都を知るには観光地よりも寧ろ京の町々を歩いて下さいと口酸っぱく申し上げている所以です。第3章「京都の味を食べ尽くす」(25話) 例えば”南禅寺と嵐山に湯豆腐の店が多いのはなぜ?”・・・この項を読めば、時の流れが歴史・景観を変えてしまう恐ろしさに気がつきます。南禅寺にある1635年創業の「奥丹」と、片や1850年代創業の嵯峨豆腐「森嘉」の人気にあやかり昭和30年代に殖えた嵐山地区とは重みが違う筈ですが・・・。このほか「怨霊・魔界・百鬼夜行を歩く」(15話)や「京都通になるための知恵袋」(21話)とまぁ、完全に読破した上で、この本1冊を携えて京の町を歩き廻られたら、あなたは立派な「京都通」になられることでしょう
2024.05.31
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〇わが家と小学校との中間地点に地名となっている塚、古墳がありました。地面との抵抗を少なくする竹の板や、自分たちで拵えた木製のソリを抱えて、その塚の天辺から斜面を滑り居ります。今で言うジェットコースターのような遊びでした。何度も繰り返していた或る時、下まで滑り降りたところ、コラ~!!と大人の大声。すんませ~んと言いながらほうほうの体(てい)で逃げました。・・・後日、小学校近くの中学校に入学した時、その怒鳴った人が先生の一人だったので驚いたのでした。その古墳と中学校は地続きだったのでした。
2024.05.30
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〇実際の書名の煕の字には二水・ンがついていますが、ネットでは見つかりませんでした。田中さんの解釈する煕子像は、光秀と煕子とが幼馴染みながらも、相性よく、許嫁同士だったことから、元々、信濃では帰蝶と煕子とが美人さで群を抜き、ライバル心は無いものの、心の片隅にありましたが、美嚢の蝮・斎藤道三と織田信秀との間で信長の許に帰蝶を嫁がせる経緯となり、急遽、光秀との縁談が決まったその年に、疱瘡に罹り、顔に大きな暗い翳ができてしまいました。光秀の花嫁には妹を両親は差出しましたが、光秀の心は昔と変わらず煕子と生涯を共にする意志が固かったのでした。明智の郷は敵に飲み込まれ、夜分、弥平治は長女を背負い、光秀が身重の煕子を背負って山を越え逃亡。明日の食い物にも困るような貧乏に耐え、足利将軍という切札で出世して行きました。その後、信長の重臣の筆頭にありながらも、信長の心中にある光秀への嫉妬、濃姫(帰蝶)への煕子の嫉妬心が最後まで描かれています。
2024.05.28
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〇私は今でこそ普通の背丈ですが、高校生になるまでは成長が進まず、朝礼の並び順番は前から2、3番でした。一番辛いなあと思ったのは散髪屋に行った時です。小児は小さいので補助の板を渡しますが、実は私の場合もその処置をされました。只でさえ高所恐怖症なのに・・・椅子から落ちないかと踏ん張っていたのでした。 小学校の正門前には時々ひよこや手品を売りに来ていました。細長い鉄製の棒をポケットに入れたかと思うと、10円玉が出て来る。また別の子供のポケットに突っ込んでみると新たな10玉が湧いて来る不思議な手品。この勢いで10玉が増えたらおっさんは金持ちになる筈なのに・・・といぶかしんだりしていました。籠に入れられる小鳥以外は動物を飼うことを許さない父でしたので、ひよこも手品も只見るだけにしていました。
2024.05.27
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〇加太こうじさんの略歴を見れば、<1918年東京浅草に生まれる。太平洋美術学校卒、少年時代より紙芝居の作画に従事し、1960年紙芝居の衰退とともに文筆業に転ず。思想の科学研究会会員>1973から11年間レコード大賞審査委員を務められ方だし、いま巷には紙芝居も復興しつつあるようですが、松永武雄の後を継承、あのヒット作品「黄金バット」などの作・画、興行に従事した方でもあります。彼はその著「歌の昭和史」(新版)の中で演歌に触れていらっしゃいます。<演歌調とポップス調というのは、レコードをつくって売る側が、業界がつくった区別である。明治の演歌は政治運動に役立つ歌の本を売ることから始まった。・・・(略)・・・軍歌、唱歌、民謡、俗謡、端唄、小唄、浅草オペラの歌、日本歌曲その他、演歌師が作詞、作曲した歌もふくめて、演歌師がうたえばすべて演歌といわれていた。・・・(略)>こういう事情があったのなら、やはり今で言う演歌は”艶歌”の方がその雰囲気に近い表現という気がしますね。
2024.05.26
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〇「芸術新潮」1992年10月(通巻514号)の特集は<あっぱれ!科学が花拓かせた江戸の芸術>と銘打って、江戸っ子が買えたハイテク新製品、その小見出しには、本居宣長も愛用した「木製入れ歯。「エキテル」は科学玩具、今も写せます堆朱カメラ、万能宇宙時計、豆絵競争など。続いて<身体を開く→解剖の様を大和絵手法>或いは江戸の科学オタクたち。これ等は余りにも生々しいので画像は出せません。ほかの特集として帰ってきたウィーン幻想派、華麗なるハプスブルグ家のおかしなコレクション、ギリシアの放浪画家セオフィロスが主な見出しとなっています。
2024.05.25
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〇テレビ番組の中の好きなものの一つに「爆報なんでも鑑定団」があります。我が家のお宝?としては高浜虚子から戴いた直筆入りの短冊入れ(金文字で虚子の句も)、日野草城の手紙、京鹿子創始者:鈴鹿野風呂先々師の諸々のものなどがありますが、SPレコード盤の中に、高浜虚子が自らの句や芭蕉・蕪村・子規の代表句を披講しているものが見つかりました。何処かで聞いたような声だと思ったら、畏れ多くも先帝昭和天皇の御声に似ているように感じました。私も時々披講させて戴く機会がありますが、浪々たる声と節回しは流石だなと思いました。コロンビア・レコードが添えている23ページの冊子には こゝに又こゝだ掃かさる落椿 虚子の直筆句があって、単に印刷されたものなのか、或いこのレコード盤を買った後に、ホトトギスに50句ほど選んで戴いている誼で、虚子にサインして貰ったものか判別は尽きませんが・・・。俳句の巨匠・虚子の声入りのレコードは「お宝」と言えるのかも知れません。
2024.05.24
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〇山川静夫さんの『歌舞伎のかくし味』いう本の装丁は、掛け軸箱、脇息、飛脚の挟み箱、渋団扇、番傘、煙草盆、三味線、笛、鼓を適当にあしらった粋なデザイン。内容は先日紹介したように役者の風味や家の芸の滋味、芸談にみる情話、舞踊の妙味などが述べられており、正月の読み物として相応しいように思っています。同書の「余話百味」の”旅支度”の件りでは、「沼津」の呉服屋・十兵衛の旅の拵えの道具を列挙しています。 饅頭笠、煙草入れ、矢立、火縄、手拭、甲掛け、手甲、脚絆、納戸色の合羽、提灯、道中日記、ろうそく入れ、草鞋、パッチリと呼ぶ上締めなど、江戸時代の旅の小道具の集大成と記述してあります。
2024.05.23
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〇月刊誌「ハルメク」2023年6月号の記事の中に掲題のコーナーがあって、第62回のテーマは「庭の小枝で、ようじ作りを楽しむ初夏」。そう言えば、父を亡くした母存命中、時折実家に寄っては、昼食、夕飯も拵えていましたが、庭の片隅にひそと咲く梅花の小枝を箸置き代わりに食卓へ置いたこともありました。本件は、黒文字やあんず、クルミの小枝でようじを作っている写真が添えてありました。
2024.05.22
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〇阪急京都線の河原町終点から地上に上がって来て西へゆくと新京極通。アーケードが始まる辺りに漢方薬局が視界に入ります。特に猿の腰掛なるものは目につきます。東洋医学は中国に於て、紀元前後凡そ2000年もの歴史を有する医術で、本来は農耕作業同様、じっくり時間をかけて、人それぞれにあった健康な体づくりを行い、病気に備える学問・施術。私ども夫婦には永らく子供が授からず、現代医学やお灸による冷え性対策など講じて7年目に長女の誕生をみました。西洋医術と東洋医術双方の良い部分を取り入れながら、向後も健康な体を維持したいものです。
2024.05.21
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〇加齢と共に頭脳の劣化に拍車がかかりますが、少年の眸のように、過去意識の範疇に無かったものに目を向ける、テレビにくぎ付けパソコンや携帯電話に頼るばかりでは、前頭葉に涼風を送り込めません。で、一種の煌めき、直観力を活かせて、テレビの番組表から適宜、選んで予約入力しいぇおきます。関西電力提供の毎土曜日、午前11時から30分「LIFE 夢のカタチ」。18日は畳の普及に奮闘する老舗のベテラン職人と四代目息子」という畳職の希望に満ちたノンフィクション番組。 屋根だけ残し、2006年にリフォームしたわが家には、辛うじて一部屋仏間に畳みが六畳残っています。今風の建築屋に依頼しましたが、仏間は他の部屋より意欲的につくっていました。子供の頃、畳にごろ寝すれば、それは平和で至福のひととき。乳幼児に対しても危険なものがない安心の部屋。丈夫に工夫された白障子も和風でよろしい。 話を戻せば、四代目は祖父母が棲んでいた隣家を畳敷きの寛ぎの間として喫茶をオープン。再び増えだしたインバウンドに「受け」出しました。その勢いで、畳み半畳分を肩から下げる敷物にして、河原で寛ぐ試みや、B5程度の大きさにしたキャンバスとして工夫。畳に焦げ目を入れて、見事な龍の組み合わせ壁掛けを呈示。TARTAMIというアート作品に。彼の創作意欲は無限に。畳業界の生き残り兼将来を牽引できるレベルまで高めつつあります。
2024.05.20
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〇『小倉百人一首』上巻に<人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける> 紀貫之の和歌について、大和の長谷寺の十一観音サンは平安時代の人々から熱い信仰をよせられた。『源氏物語』でも玉鬘の姫はここへ徒歩でお詣りし、知るべの女房とめぐりあい、運が開ける。霊験たちまち、あらたかだったわけである。『枕草子』にも初瀬へまいった記事がある。清少納言は椿市の粗末な宿に泊まったというが、貫之は、お寺の近くの知人の家に泊めてもらったものらしい。参詣のたびに泊まったというから、心安い人の家であろう。これが男性の知人なのか、否、女性だったのかの詮索に話は移りますが、貫之の母は朝廷内の舞踏音楽研究所の150人ほどの妓女の一人だったようで、彼の和歌にある語調の良さ、リズム感はそんな環境で育った所為かも知れないと。
2024.05.19
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〇久し振りに図書館へ出向き、次なる5冊を借り出しました。1)『枕草子』松尾聡・永井和子 高校で習ったきりですが、『源氏物語』の紫式 部との対抗馬として、読みたくなりました。2)『女人 古寺巡礼』杉本苑子 小説家は勉強家で、1つのテーマに対してあら ゆる方面から事前学習をされるようです。石山 寺は無論,瑞龍寺、高桐院など20数か所。3)明智光秀の妻『煕子』中島道子 父すばるをじっと支え続けた良家の娘だった母、 私の家内、そして本書の煕子という女性も。4)天下取りに絡んだ『戦国の女』鳥越一朗 永井路子さんがその著に於て、賢明でないと戦国 時代の姫の責は務まらかったと書かれている様に 武田・北条・今川・上杉・織田・徳川・豊臣に絡 んだ女性にスポットを当てています。5)『戦国おもしろばなし』青木繁男 教科書に載せられていない(裏)話やエピソード 満載の百話。新選組記念館館長、京都史跡研究家 ならではの面白い話。
2024.05.18
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〇わたし達の多くは十進法による数え方をしていますが、いかつい古いソロバンは五つ玉。それが進化して四つ玉に。 *また二進法からスタートした電算機。それを更に発展させた十六進法がプログラムなどで利用されているようです。 *わたし達は紙などに書くことによって文字や漢字を覚えましたが、いざ社会人となって事務に携わりますと、文明の利器なくしては短時間に膨大な事務量を消化することが出来ないように思います。 * 銀行員だった頃、返済の滞る取引先には、催告状や督促状、そして相殺通知などを書き、公証人の確定日付を取って法的対抗要件を充たしていました。 *その書類は当時カーボン式の三枚複写になっていて、取引先、公証人、銀行側の控えとなっていたように記憶していますが、文章の一番最後の行などで失敗すると、最初からやり直し、書き直しでしたので嫌いな仕事でした。 *今や複写機がありますので鉛筆書きの原本をコピーすれば済ませますので現在の融資係の職員は心のプレッシャーから開放されていることと思われます。 * インターネットという便利な世界によって、沖縄から北海道まで日本全国の方々と友達になれること、リアルタイムに心のキャッチボールが交せることにもなりました。 *相手さんが見えないから、より慎重に、より丁寧に伝えることを基本にしていれば、インターネットの負の部分は避けられるものと確信しています。 * 卓上計算機も助かりますね。但し加算作業中の記録の無い加算は正しい答えかどうかの見極めに難点があります。その点エクセル機能を駆使すれば、精度の高いものになりますね。 *文明の機器はそれを巧みに使いこなすことが肝要で、機械類に人間が使われてしまったり、機械なしでは生きて行けないという症状になったり、至便性による頭脳の劣化を招いては本末転倒(英語では馬の前に荷車)になりかねませんね。
2024.05.17
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〇今から10数年前、50年ぶりに佐賀を訪れましたが、実に水の豊かな市街でした。子供の頃、家のすぐ近くの川には蛍が無数に舞っていました。当時は農薬などを散布しなかったから、蛍と人は仲良く共生していました。佐賀に移る前、京都に居た時にも、広い桂川の川敷に蛍が舞っていました。浴衣地の布に丸い輪を二つ嵌めこむだけの虫篭。笹を拾って来て、とっぷり暮れた河川に行くと、夥しい蛍が群れを成したり、別れたりしてまるで戦さの陣形のように変化するのでした。竹の笹で上から地面に降ろすと、笹の葉には何疋かの蛍がいました。それを籠に入れたり、掌に包んだりして、翠色の幻想を楽しむのでした。家に持ち帰ったら霧吹きで水を吹きかけると、蛍の点滅が活発になり、真っ暗な部屋の一部がぼうっと妖しく見えました。京都の「哲学の道」もそうですが、こちらの小泉川にも蛍が生息していて、蛍祭りも毎年開催されています。
2024.05.16
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〇この実家の改築前、凡そ20年前の話です。実家の食器棚から幾種類もの小皿や小鉢を取り出して、お惣菜を盛ろうとして、おや?っと思いました。この皿は随分くすんでいるな。繊維性のスポンジに磨き剤を付けてゴシゴシ擦ってみました。すると真っ赤な蕪の模様が浮き出てきました。皿の表面には小さな窪みが円状に15個ぐらいつけてある上等の小皿。余りにも永い間、使用されずに「積んどけ」状態に放置されていた所為で埃の層がついたのに違いありません。他にも見覚えのある皿が続々と発掘されました。私が小学生の頃に使われていた菓子皿や小鉢が懐かしい顔を覗かせます。50年も往古にライムラグしました。今夜は「天麩羅」を揚げてみる積もり。は~て、どんな皿に盛り付けようかな? ぐい呑み茶碗やお猪口、陶器製の小さな三重箱。そうだ!昼ご飯はいろんな小鉢を使って松花堂弁当など工夫してみよう。主夫って結構面白いなぁ。 注)もう当時の画像残っていません。ネットから現代もの拝借しています。
2024.05.15
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○俳句の校正作業をしていますと、いろんな事を知る機会となっていて、勉強になります。機械化の進む農耕のジャンルは年々、歳時記の中から消えてゆくものがあります。「京鹿子」では歴史的仮名遣い・現代表記いずれも会員さんが選べるようになっていて、最近、歴史的仮名遣いと現代表記の中間、判り易く言えば、促音便(小さなっ)は前者の選択でも本人が小さく表記してあれば、そのまま掲載する事も認めています。ほかに、ちゃんちゃんこ等の拗音についても、現代表記の方が効果的なら本人の意思を尊重しています。この話は後日、古事ことわざ辞典の記事に繋がってゆきます。今日はこの辺で。
2024.05.14
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〇佐賀にはカバヤというお菓子屋があって、確かピンク色の河馬の形をした宣伝カーが街中を練って居ました。キャラメルを買うと券が入っていて、それを集めると児童文庫の景品が貰えるのでした。私は毎日のように小遣いでキャラメルを買っては、「せむしの子馬」「トムソーヤの冒険」などの本に換えて、大切に読みました。グリコのおまけにも可愛い景品が箱にくっつけてありました。子供の希望や夢は、ほんの些細なもので充たされるのでしょうね。近年は童話を書いていませんが、童話は気持ちを真っ白に清めないと書けません。俳句は催眠術のように瞬間的に真っ白になれば良いのですが、童話となると書き納めるのに小一時間はかかりますから、瞬間的な純真さでは間に合わないのでしょう。兎も角、幼年時代は児童文学、童話に親しんだのでした。浪人時代は日本の大家のものを若干読みました。社会人になっては、巷で飲み歩き人間研究をしていましたので、物知りには成れませんでした。この歳になると活字を拾うのが視力の関係で辛くなります。記憶力も衰退しますので、将来的に素敵なものが書けるのか、甚だ心配なのです。
2024.05.12
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〇茶道千家の十職の一つ釜師大西清右衛門宅のある釜座町には、古くは“鬼殿跡”と呼ばれる伝説がありました。唯一の取り柄が笛の名手、他はどう仕様もない大飯喰らいの百貫デブ“三条の中納言”と称されたのは藤原朝成。 名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られでくるよしもがなの和歌でお馴染みの貞信公・三条右大臣藤原実方の六男。その面相はまさしく赤鬼そっくり。藤原伊尹と蔵人頭の任官争いで負け、犬猿の仲となりました。その後、ライバル伊尹は摂政まで大出世。大納言に欠員ができた折、止む無く朝成は伊尹にその位を懇願しましたが却下され、恨みに恨みました。伊尹が四十九歳でぽっくり死ぬと、京童は「ありゃ、あの赤鬼はんにとり殺されたんどっせ」と口さがなく噂した由。 *その朝成も二年後には五十八歳で没しました。しかし世間の評は「あんなお人や、死んでも祟りまっせ」といった具合。 伊尹の子孫は勿論、京童たちも朝成の屋敷を「鬼殿」とか「悪所」と呼んで、誰も寄り付かなくなったと、大鏡や古事記、十訓抄にも記載されているという噺。諸説有。
2024.05.11
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〇男女を問わず人間は欲の塊で、成人するにつれ社会的地位や肩書きへの欲求も大きくなっていくように思います。私は先輩や同僚、後輩たちの出世欲をつぶさに見てきました。そんな環境下にあって、出世ということにそれほど興味が無かったのは親譲りなのかも知れません。父は勤務時間中は最大の努力を払うけれど、企業の犠牲者になる積りはいささかも無く、帰宅後の余暇を大切にしていて、星座・数式・古文・俳句・演劇・歌舞伎・宝塚歌劇・舞踊(都をどり他)・落語(漫才)・美術・デザイン・歴史・美食・和菓子・・・・数え上げても際限が無いほどの趣味を継続していました。 勤め人が退職し、傍系の関係会社で再び肩書のある名刺が使える期間は知れているし、やがて肩書きのついた名刺は使えなくなってしまうと、その人物に威光や存在感が無くなってしまうように感じることが多々あります。寧ろ、その御夫人の方が社交的でパワフルに生活していらっしゃることが多いように思います。兎にも角もにも、肩書の取れた老年は、浴衣がけのような身軽さで対処する方が宜しかろうと愚考しています。
2024.05.10
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〇今わたし達が目にする大阪城は徳川家の手になるもので、この城地を最初に目をつけのが蓮如で、高齢になってからお堂を建てましたが、その折、礎石に相応しい大石が沢山出たので、石山御坊と名付けました。次に大坂に目をつけたのは、「大坂はおよそ日本一の境地なり」と言った信長で、奈良・堺・京都に近く、淀川や桂川、宇治川にも通じ、西には大陸と繋がる富貴の湾があることが挙げられます。信長公生存中は手に入らなかった大坂を後継者である秀吉が狙っていましたが、清州会議では、行き掛り上、大坂を含む摂津の東半分は池田恒興のものとなりました。止むを得なく天王山に城郭を築き、柴田勝家に刺激を与え、交戦で勝利するや恒興を大垣に移し、大坂を取り上げ、築城を始めました。天正十一年9月から着工、11月には天守の土台ができ、同じころ、各大名に屋敷を造れと命じました。40日間に7千戸ができたようです。玉造地区には細川、宇喜多、蜂須賀、前田、鍋島、浅野、片桐、備前島地区には石田、天満には黒田、織田、木津には毛利、船場には堀、筒井屋敷が建ち、久太郎町(堀久太郎秀政)や竜造寺町(政家)の名が残っています
2024.05.09
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〇大学の教授陣のご協力のもと、今回上梓しようとする鈴鹿野風呂先師『續俳諧日誌』の戦前・戦中・戦後辺りの日記には父すばるが再々登場しています。実は亡き母も。昭和20年 1月20日には、起床七時半、昨日今日とやゝ寒さゆるぶ。仁に墨をすらせ、椿人氏等の短冊かく。(中略)帰途すばる居に立ち寄り、母堂及びあけりさんと語る。夜、「比枝」雑詠等清記及び選句。>新婚時、母はまるで騙されるが如く、父について行ったところ、句会の席で、いきなり俳句を詠む破目に入ったと聞いています。この日記にある「あけり」は母の雅号。あけり星で、すばる星とあけり星の子、という意味で、後年、私の句が、野風呂先生の選に入った折に、この雅号を拝受しました。母あけりは、何とか常連から外して貰い、時々作句していたようで、小さ目のノートに遺句が綴ってありました。
2024.05.08
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〇堪忍どした。きのうの続きどす。さし物は、ちりかんと呼ばれる鼈甲の簪、鹿の子留、よしちょう、橘、前ざし、両ビラ(家紋入り)。衣装は下から順に、木綿のさらしの腰巻(白)、胸当て、もう一枚腰巻の長めのもの、袴、木綿の肌襦袢に襟は赤、長襦袢は綸子地赤、扇面のいろいろな花の縫い取り、襟は別になっていて縮緬の赤地に金、銀の源氏車、本衣装は綸子黒地に御所解、帯は青金、赤金の松、帯揚げは縮緬赤地家紋入り相良繍(ヌイ)。本衣装の時は帯留はせえへんのどす。持ち物は扇、手拭、紅、櫛、それに鏡台前の鏡掛け、お座布団、籠、櫛入れ、扇袋など、結構多いどっしゃろ。 うち等、祇園の舞妓は芸事に磨きを掛け教養を身につけることに精進してますよって、水揚げと言うてもお客さんと同衾するんとは違います。ステップ・アップのために儀式することどすさかい、髷を割れしのぶから「やっこ」や「おふく」に変えるんどす。祇園祭の間だけは「勝山」という髷にします。また赤地の襟から白地に替えるんどす。もう可愛いということだけで許されないことになりますねん。(参考資料:「芸妓峰子の花いくさ」岩崎峰子著<講談社>)
2024.05.07
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〇みなさんは祇園というところをどないに思てはるんどすやろ。何処ぞの遊郭と同じように思てはるんどすやろな。祇園甲部は藩の取り潰しをはじめ、廃藩置県、四民平等、爵位返上、財閥解体などの憂き目に遭わはった武家や名家の子女の受け皿どしたんどす。祇園甲部で舞妓、芸妓と呼ばれるのんは、祇園甲部の舞の流儀が京舞井上流で、能、人形振り、篠塚流を基礎として、300年もの精進を重ねた近衛家のお抱え流派で、御所にも指南役として上がってました格式の高い技芸集団どすねん。舞と踊りとが根本的には違てるということを覚えておいておくやす。 舞妓の店出しの日は朝の6時から起きて、まずお風呂に入り、髪結いさんに行きますねん。朝食はお赤飯と鯛で、できるだけおトイレに行かんで済むように、水やお茶などは殆ど摂らへんのどす。髪を整え、鬢つけ油で下地を作ります。初めに練り白粉の白を首から2、3度引き、次に頬、鼻筋と引き、桃色の生臙脂または砥の粉で鼻筋、眉毛をかたどり、白を重ねていきます。もう一度、生臙脂で眉を描き、その上に黒の眉墨を重ねます。 長ごうなりますんで、続きは明日にさせていただきます。
2024.05.06
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〇豊中市出身、小学5年の時、プールでのターンに失敗して視神経を痛めたことから中学2年にして全盲に。盲学校を経て追手門学院文学部卒、再び日本ライトハウス情報処理学を修められ、日本アイ・ビー・エムの学生研究員を続けながらITによって全盲の方への技術革新を駆使する事によって、白杖に代る便利なものを拵える事に専念されました。彼女の創意工夫は世界的にも認められ、宇宙飛行士として成功された毛利衛さんの跡継ぎとして、日本科学未来館の館長の傍ら、各分野に於て顕著な確約をされています。視覚的障碍者の歩行を補助する機器は、危険な場所に着く前に静止したり、迂回するソフトが埋め込まれていて、そう遠くない将来、更に精度をあげたものが政府公認のもと、商品として市場に出る事でしょう。
2024.05.05
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○長岡京市のイズミヤ駐車場の隅に古書・古新聞の回収コーナーがあって、機器に対応する自分のカードを差し込み、新聞側と古書を別々に入れると、その日の重量がカードに表示され、500キログラム貯まれば、500円の金券が貰えます。本日は夫婦自転車2台で持ち込んで、17キロでした。その折、紙袋が破けて小さな冊子が2つ残りました。明星2月号の第2付録で、クリスマスソング、歌曲、青年歌30曲。表紙は弘田三枝子さん。もう1冊は東芝音楽テープの歌詞集で、日本全国民謡歌詞集。おこさ節、タント節など60曲ほど。
2024.05.04
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〇 三枝子は彼の手を取って、「ほら、永井さん!これが私の心臓の音、ドキドキ元気に動いているでしょう? ほら、これが貴方の心臓の鼓動よ! ドキドキ言ってるわ! ほら、こんなに正確に!・・・ねエ、ほらっ!私と同じように元気に動いているわ!二人共生きているのよ、貴方は生きているのよ、普通の人と同じように、ほらっ!判るでしょ!・・・・・・」三枝子は感極まって泣きながら、懸命に続けた。彼の左手を彼の左の胸に当て、右手はしっかと自分の左の乳に当てがった。三枝子達は雪の上に座っていたのだが、冷たいとは感じなかった。三枝子の左胸に置いた彼の手に、次第に力がこもって来た。彼女はその上に自分の手を重ねて押えた。 どれほどの時間が過ぎたのであろう。突然、彼は三枝子を抱き竦めた。彼女もこれに応えた。乳を通して、彼の胸の鼓動が聞こえるような気がした。彼女の腕に暖かい滴りが落ちた。永井の涙に違いなかった。涙すら浮かべることのできなかった彼が泣いている。感情が甦ったのだ。「永井さん!」そう叫んで、三枝子は夢中でしがみついた。 エピローグ 彼女は、ふと、我に返った。三枝子はフィアンセ、亘の腕に絡みついていたのだった。彼女の頬を軽く指で突きながら、「君の今の涙は美しい。美しいよ。きっと美しい思い出があるんだろ。幸せな人だよ、君は。」亘はそうささやいた。夕日が沈んで風でも呼んだのか、色づいた銀杏の葉がはらはら落ちて行く。三枝子はまるで死んでいった永井を見送るような気持ちで、それを見ていた。白衣を着ていながら永井を誘い、抱き締めたあの爆発的な感情は、永い間、彼女の胸の奥に蓄積されていた愛の炎というべきものであったろう。彼女の愛は、ついに白衣を貫き迸ったのだ。看護婦としては罪を犯したのかも知れない。しかし、恋人として止むに止まれぬ愛の表現であったのだ。その日の永井は再び意識を回復したのであったが、二人の新しい結びつきは、二人の離別を早めるものでもあった。互いに愛していれば一緒になるのが世の常とは言え、このような事情の下では叶えられない恋でしかなかった。二人は求め合いながら、別れが近づいて来るのを、ひしひし感じていた。・・・・・・ そんな訳で、三枝子は勤め先を変えた。今度は大学の付属病院であった。二年の月日は、彼女の胸の中を洗い流してくれた。そして、彼女は叔母の勧めで見合いをした。包容力のありそうな亘は、三枝子には勿体無いほどの人物であった。一方、亘はすっかり三枝子が気に入ったと見え、積極的に話を進めて来た。今、三枝子の胸の何処かに、小さな、新たな炎が燃え始めているのかも知れない。思い出深い白衣に別れを告げる日も遠くない。二人はベンチから離れると、夕食を摂るのだろう、ネオンの街に肩を並べて消えて行った。 昭和44年9月3日 BY陸治
2024.05.03
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〇三枝子は自分の力の無さを嘆いた。また、果たして自分は永井の恋人で有り得たのかと、疑ってもみたが、最後の勇気を絞って、誰も居ない、想い出の杉の木立に彼を連れ出して来た。雪は止んでいた。月の無い星夜であった。明るくはなかったが、雪の白さに変りは無かった。「ねエ、元気を出して頂戴。もう少しの辛抱だわ。雪割草の出る春まで、もう少しよ。」子供をあやすような言葉しか、三枝子には浮かばなかった。それほどの彼は放心状態なのであった。昔、同じこの杉の下で、彼女を励ましてくれたあの力強さは、どこにも見られなかった。「ねエ、何か云って!黙ってないで!」そう言って永井を抱きながら、三枝子は彼を揺さぶった。「・・・・・もう遅い。何もかも・・・・・僕の前には死神が・・・・・もう僕の頭は破裂してしまう・・・死ぬ・・・・死神が取り憑いた・・・・・」到頭、あらぬことを口走る永井であった。
2024.05.02
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〇それに生まれつき、血圧も低いので手術する訳にもいかなかった。なるほど、心細い話である。冬眠の蛙が土の中で、春の訪れを辛抱強く待つように、永井の場合も静養することだけが、回復への近道であった。ただ、蛙のように無神経に寝入ることが人間にはできない。だから永井の辛い気持ちはよく解る。永井をこのような不安に陥れたのは、彼の境遇にある。彼には両親が無い。ひと廻り歳の離れた兄と、婚期の近い姉が居るだけであった。金には縁の薄い兄や姉からのささやかな仕送りと、自分のアルバイトで得た金で、国立大学を目指して勉強してきたものの、三度も失敗したことは、かなり彼を苦しめた。叱咤するような二人の激励がなかったら、彼はその時、受験を断念していただろう。今度こそ最後の機会と剣が峰に立つ思いで、彼はまた、勉強を始めた。一方、兄姉への遠慮も顕著になっていた。その矢先に、長の病に罹ってしまったのである。病人に気遣いはマイナスと聞くから、彼は努めて明るく過ごしてきたのだが、一年半ばの病院生活は、再び彼の心を曇らせてきたのである。兄や姉からの励ましの手紙は、返って彼の心に焦りを生ませるものであったし、三枝子ですら、彼をひ弱にするのを助長させる存在でしかなかった。
2024.05.01
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