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〇太陽に勢いがあると凌ぎやすい秋うららの日和ですが、曇り空になったり強めの風が吹くと、いよいよ遠い大陸の方から冬の足音が小太鼓の刻みで日本を目指して来ているような気がします。風というものはそばに障害になる建物があると、渦巻くような動きをしたり、東西南北いずれの方向にも瞬時に向きを変えるものですね。 今から十数年前には青桐が西の庭にあって、この時期は道路からの引込み電線に触れないように、建物に近い部分の枝葉は伐り落としましたが、それでも、かさこそと大きな乾いた音を立てていました。嫌いな冬の到来が近いぞと予め知らせてくれているような風の嗄れ声が聞えていました。 シンデレラの魔法が解けて冬木立 by星子
2024.10.31
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〇某年某日、俳句の知人のお誘いで岐阜県の薄墨桜を観に行った折、近くの川に敷かれた魚道を見て、感動しました。海で育った若鮎が、川を上る際に、人間が取水のために作った堰やダムが多くなって、遡上が思うように捗りません。そこで魚のために作られたのが魚道で、ダムとほぼ同じくらいに魚道の歴史は古いのです。階段式の場合、落差が大きすぎると、魚とて上り切れません。そこで考案されたのが<らせん式魚道>。円筒形のビル内に緩やかにつけられた螺旋階段をぐるぐる回りながら上がるという寸法。円筒形の立体駐車場みたいなビルを川岸に建て、魚を誘い込めば、あとは魚の習性で楽に遡上できるという訳です。北海道には鮭、鱒用に、10メートルものらせん魚道が有るようです。興味ある方は、魚の遡上という検索でtubuを拾ってご覧遊べ。段差をものともせず痛々しくチャレンジする魚たちの姿に胸を打たれますよ。
2024.10.30
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〇乙訓寺は推古天皇の勅によって聖徳太子が建立された乙訓地区の古刹。当時に伝わる哀話は、長岡京遷都のさなか、藤原種継が暗殺された事件の首謀者として、桓武帝の弟君・早良親王に嫌疑がかかり、当寺に幽閉されました。ハンストを以て無実を唱えられたけれど、そのまま四国に流される船内で息絶えられた。また乙訓寺は、811年には空海が別当を務め、翌年、最澄が空海に教えを請いに来て対面した記録も残っています。前段が長くなりましたが、当寺に零余子が生っていた記憶があります。また俳句の仲間から両の掌ほどの零余子をいただき、零余子飯を食した記憶もあり、素朴な味わいは今も舌先に残っています。 ミうれしさの箕にあまりたるむかごかな 蕪村きくの露おちて拾へばぬかごかな 芭蕉
2024.10.29
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〇古い日記を繙いていると、次のような詩を残していました。若い女性の身になって、その初恋の想い出をつづったのでしょう。 「桜貝のような脆い恋」秋というピュアな世界に誘われて恋することを知りました 宝石箱の緋毛氈 桜貝のような脆い恋心 しずかに秘めやかに収めたの時は光陰の速さで行き過ぎて永らく忘れてた透明の化粧水に似た懐かしさ 私は還る あの頃へセーラー服に汚れなく恋のいろはも知りもせず恋という字に憧れた 便箋に書いてまた消す二つ文字 好き 好き 好き 小さな紙を埋め尽くす 彼の名前と好きの文字
2024.10.28
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〇人が死ぬと「あの世」へ行く。この世は三次元世界、「あの世」は四次元世界で、そこには物資も時間も空間も距離も重力もない。波動の上下によって厳格な縦割制度が作られていて、まず霊界があり、その上に幽界、更にその上に霊界、神界と上がって行くのが四次元世界である。 人が死んで肉体が消滅すると幽体が残る。幽体はエーテル体で(それは人が生きている時、オーラとして肉体の形に添って輝いている)、ひとまず幽現界へ行く。一般に死後49日間は死者の魂はこの世にいるといわれるが、これが幽現界である。「あの世」とは幽現界の上の幽界で、そこへ上がったことを「成仏した」というのだ。(中略)・・たいていは49日を過ぎても幽現界に留まっているという。幽現界から幽界へステージを上げ、そこで霊界へ上がる心境に達すると自発的にエーテル体を捨ててアストラル体となって霊界へ上る。 幽現界(現世と幽界の間)は現世での執着物欲などを引きずったままの世界である。そのためになかなか幽界へ上れず、死者の大半はここにいるといわれている。(出典・佐藤愛子著『私の遺言』)
2024.10.27
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〇志村有弘著『陰陽師列伝』第1章の列伝では、吉備真備から始まり、7番目に安倍晴明など13名の陰陽師。カラー口絵には妖狐調伏の題があって、時は久寿元年(1154)の頃、或る魔物に憑かれ給うた鳥羽院の話。事の次第は以下のとおり。 御所に現れた美女は知恵学問に優れ、弁舌にも長け、忽ち院の寵愛を受け「玉藻前」と称されました。しかし院の健康が優れず、諸山の高僧の祈祷も効果なく、死期を悟られた院は玉藻前とも今生のお別れの辞を召されました。安倍安成は病気の根源を玉藻前に違いないと卦をたて、「泰山府君祭」を行い、もろこしからやってきた老狐を追い払いました。しかし止めを刺す必要があるので弓矢の名人、上総介・三浦介の両名に那須野にて射止めさせました。後年、玉藻前の霊の棲みつく殺生石を源翁和尚の読経で漸く石が砕け、玉藻前の霊も成仏するという話で、12の絵巻になっています。
2024.10.26
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〇年末になると必ずと言って良いほど上演される演目に「仮名手本忠臣蔵」がありますが、「仮名手本」と言うのは、いろは四十七文字の事で、赤穂四十七士をを暗示しています。又、人生の手本、人の鑑を指してい、「忠臣蔵」とは、忠臣の詰まっている蔵と言う意味です。歌舞伎・浄瑠璃の外題は、五字か七字で表し、読み方も七・五音或いは五・七音で読ませる工夫がされています。漢字が偶数になりそうな場合には、二十を廿とか、神を神明と記して逆に増やして調整しているのです。 では読みを考えて下さい。1)道行思案余 2)色増栬夕映3)助六曲輪菊 4)伽羅先代萩5)隅田川続俤 6)籠釣瓶花街酔醒7)お染久松色読販 8)色彩間苅豆9)深山桜及兼樹振 10)江戸生艶気樺焼11)稗史億説年代記 12)莫切自根金生木<解答>1)みちゆき しあんのほか2)いろまさる もみじのゆうばえ3)すけろく くるわのももよぐさ4)めいぼく せんだいはぎ5)すみだがわ ごにちのおもかげ6)かごつるべ さとのよいざめ7)おそめひさまつ うきなのよみうり8)いろもよう ちょっとかりまめ9)みやまざくら とどかぬえだぶり10)えどうまれ うわきのかばやき11)くさぞうし こじつけねんだいき12)きるなのねから かねのなるき <注・これだけは廻文になっています>参考「日本故事物語」池田弥三郎)
2024.10.25
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〇大山崎の歴史資料館には行基(聖武天皇から菩薩号を下賜)ゆかりのインゴット(銅塊)が6個保存されています。数年かけてその銅塊を分析した結果、東大寺の大仏とほぼ同じ成分であることが判明。おそらく大仏建立に献身的に寄与した事への褒賞品だったのかも知れません。日本最初の大僧正に任じられても行基菩薩は何ら表情一つ変えなかったとされるほど謙虚な人物だったようです。<山どりのほろほろと鳴く声きけば 父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ 行基菩薩>行基菩薩が永眠されたのは、天平21(749)年2月2日、享年80。芭蕉翁が鑑真像を見て詠まれた句は <若葉して御めの雫ぬぐはばや はせを> 鑑真和尚の偉いところは、日本から懇請されて日本への渡海を何度もチャレンジされましたけれど、度々海上で遭難、失明する傷も負っても怯まず、6度目にやっと日本の地に辿り着かれたことで解ります。それは754年1月16日の事で、大仏開眼の2年後。捨て身の鑑真さんに翁も共感されたものと思われます。 桓武天皇は旧体制の奈良に嫌気され、長岡京、そして平安京に遷都を果たされましたが、その折に出された名文が、<山河襟帯、自然に城を作(ナ)す。・・・・よろしく山背国を改めて山城国となすべし。また子来の民、謳歌の輩、異口同辞、号して平安京という>玄武・白虎・青龍・朱雀という四方の地形が四神相応に即していたから千年以上も都であり得たのかも知れません。(参考・半藤一利著『この国のことば』・平凡社)
2024.10.24
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〇大阪は船場でリース会社に勤務していた頃、隣りのドトールでモーニング珈琲を飲む習慣になっていました。オープン当初の女店員さんは、心から、この店を大切にしていて、働き者でした。全体を見ながら細かい所にも気配りの出来る人でした。 彼女は後輩を育て、やがて転勤か退職なのか定かでなかったけれど見なくなってしまいました。後輩の女性の中で、只一人或る受付嬢が彼女の教えを忠実に守り、そして自分の個性も織り込んで、実に明るく振舞っていました。その娘さんは全てのお客さんに身体ごと体当たりする感じで接し、笑顔と優しさ、臨機応変な対応をしていました。 僅かな金で珈琲一杯を戴くショップですが、ともすれば食器返還の棚に珈琲カップなどが所狭しと置かれていて、もう置き場の無いような状態の時があります。各お客様が最後まで快い気持ちで店を出て行って欲しいと願うあまり、私は自分が返還する時には、乱雑に置かれた棚の食器類をちょこっと整理していました。これは本来、客である私のすべきことではありません。従業員さんがいつ気付いてくれるかなと淡い期待を持ちながら態度で示していたのです。通勤電車ではドアの近辺はギュウーギュー状態ですが、奥に詰めればそれほど満杯状態でないケースが多いのです。ちょうど食器返還の棚の上は、そんな状態になっていたのです。食器返還の場所には皿洗い担当の従業員が居られるのですが、他の用事を優先にするのでしょうか、直ぐに返還棚にカップ類が溢れる状態になるのです。客のモラルにも問題がありますが、やはり気持ちよく帰っていただくのが客商売の基本ですから、ついつい、私が余計なことをしていたのです。それを知っていた二代目の明るい彼女から、或る朝、お早ようございますの挨拶を交わして下さったのでした。
2024.10.23
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〇明治28(1895)年4月26日付の報知新聞によれば、今とは雲泥の差のスピードでの旅の大変さが解ります。<東京と京都間、汽車で馳すれば1日ほどなり。長さを問えば329.25マイル、汽車の賃金は下等にて3円29銭、中等はこれに倍す。上等はこれに3倍す。(中略)朝6時20分に新橋停車場を発すれば、午後10時47分には京都七条の停車場に着くを得べし。さても便利の世の中とやいわん。さりながら便利はとかく無風流、一日中に直行しては音に名高き東海道の名所旧蹟も電光石火と過ぎ行きて、五十三次の走馬灯を見る如し。殊に直行列車は上等に乗りても退屈でたまらず、中等にては腰が痛み、下等にてはまことに一日の辛抱とや申すべし。京都に着きてホッとひと息するほどならば、旅行の楽しみにあらで苦しみなり。急ぐ人は詮方なし。急がぬ人は京都直行の目的にても、名古屋あたりに1泊するをよしとす。泊らば翌日も途上の風景を眺めつつ行かるべし。 (シセキ)泊らずして夜に入れば呎尺も千里、近江八景を闇夜に通る無風流となるべし。1泊の利やかくの如し。それよりも余裕ありて2泊3泊ゆるゆる途中を見物することのできる身はいよいよ興味多からん。>(以下略)東海道線の新橋ー神戸までの全線が開通したのは6年前の明治22年7月1日。当初は1日1往復の運行で、片道20時間を要した。明治29年から上下各3本に増やし、その翌年から急行列車が走った。所要時間は、17時間22分、明治39年4月からは13時間40分に短縮された。(以上、参考図書は「新聞と写真にみる京都百年」岡満男著)しかし永らく鎖国をしていた島国の日本が、明治維新から僅か数年で自前の鉄道を完成させたということには、当時の欧米諸国は無論のこと、現代の日本人である私たちも、その国力、情熱、技術力に敬意を払うべきでしょうね。
2024.10.22
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〇今手元には172頁ながら和紙による装丁をこらせた京の行事を吟じた句集があります。昭和25年7月1日、頒価200圓で発刊されたこの本の選者は京鹿子社の鈴鹿野風呂翁で、流枕さんの跋にもあるように、四季の巻首を飾る画は当時病床の身の高倉観崖さんの流麗な画。春は提灯、夏はぎをんさんへ挨拶にゆく稚児の列、秋は大文字、冬は顔見世の招きと時雨の図。作品には、丸山佳子先生、先師:丸山海道、牧野浄雨、高桑義生、中田余瓶、松本三余、内藤十夜、風間八桂、中井大夢、谷口八星、佐々木一水、田中王城、飛騨桃十等のお歴々に混じって父すばるの句もあります。都踊出でて日のありはれがまし都踊見せて返しぬ預り娘やおん田植終へて仕人野路もどる木屋町もこぼれにぎはふ祇園ねり鉾の灯が鉾の形にともりけり地蔵会やはや睡き子に数珠廻しをしどりといふ髷の名もお節分節分や縁を願ひのお染髷などの句を拾っていただいています。勿論、画の観崖さんの句も多々載っていますが、当の観崖さんから頂いた軸や画つきのハガキもわが家には沢山残っています。
2024.10.21
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〇或る省庁のお役人が職員の教養講座に当時60過ぎの名妓・美智奴姐さんを呼んだそうな。会議室に6、7枚の畳を敷いてお座敷風に設え、100人もの職員の前で、若い頃の苦労話や舞踊への苦心談などを語って貰ったあと、椅子を片づけた畳の上で、加賀鳶という舞を踊って貰ったそうな。事後の労いの語らいに、「今日の畳は、足袋の裏が全然汚れませんでした。今どきはそんな座敷は数える程なんですよ」とお褒めの言葉をいただき、彼は驚いたと言います。美智奴姐さんの話では、昔の料亭では、座敷で白足袋の裏が汚れないよう、拭き掃除が行き届いていたけれど、近頃は畳が良くても廊下を歩いただけでも足袋裏が黒く汚れることも多々あるとのこと。日舞では再々足を上げる所作があるので、足袋の裏が黒いと客への礼を逸するから、今回は有難かったという次第。 美智奴姐さんの舞台となった畳を徹底的に磨くように指示したのは、総務課長さん。何でも彼は地元の旧家の育ちだから、客への心遣いを幼い頃から躾けられていたそうな。こういう些細なことにも気配りをするところが日本の文化なのでしょうね。
2024.10.20
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〇爆報「脊椎動物の寿命からすれば人間は120~140才まで生きられる筈」と或る医学者の説があります。寺川国芳さんが歯科医師の立場で研究されたお説では乳歯、第一大臼歯、第二大臼歯、高校生の頃親不知の第三大臼歯、そして24才頃で顎の関節が石灰化して完全な大人になるとか。よく噛んでから食物を喉に通せば、唾液をたっぷり浴びるので、ガン細胞が増えるのを抑える恩典に預るという次第なンです。また顎を動かせば動かすほど脳の血流が良くなるので脳卒中や脳血栓の予防にもなるとか。それに顎が動いて脳へ血液を汲み上げるポンプ役をするので、心臓の負担が軽減されるというワケ。加うるに、よく笑うと目尻が下がり、口角が上ります。すると胸腺が刺激を受けて胸線ホルモンの分泌を促すので、癌などを攻撃する免疫力を持つNK細胞を活発化することになり健康を維持できるとも。(参考・上前淳一郎著「読むクスリ」No31)
2024.10.19
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〇喫茶店で使うストローを紙製にしようと試みる運動が始められていますが、加工食品を容れるプラスチック容器や包装紙代わりのビニール袋など、石油製品の多さに愕然とします。このまま地球の資源を派手に使ってしまって良いのでしょうか?エジプトやシルクロードに見られる砂漠地帯。昔は緑に包まれた素敵な環境だったろうに・・・。子供の頃の包装用具は先ず一番に新聞紙、次にどんな形状のものでも包める風呂敷の至便性。そして夕暮れ、笛を鳴らして練り歩く豆腐屋さんには鍋や丼を予め用意していました。現在は剥き出しの商品は少なく、ほとんど全てがプラスチック製品などでくるまれています。風呂敷は幾通りもの包み方があって、日本人の智恵に感服します。それにもっと資源を大切にしないと、無味乾燥な砂漠を子孫に残す愚かを犯すかも知れませんね。
2024.10.18
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〇生白庵行風が編んだ『後撰夷曲集』から百人一首の本歌取り。巻三・秋歌 秋茄子嫁不喰といふ世話を ちぎり置し秋茄子をば姑か あはれことしも嫁にくはせず本歌<契りをきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり>(藤原基俊) 月見にはちゝと酒こそのみたけれ 我身ひとつもなるにはあらねど本歌<月みればちぢに物こそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど>(大江千里) 淡路島通ふ千鳥を肴にて いく夜ね酒をすまの関守本歌<・・・千鳥の鳴く声にいく夜ねざめぬ須磨の関守>(左京大夫顕輔) 忍れば白もやせけり我恋は 物やくはぬと人のとふまで本歌<忍ぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人の問ふまで>(平兼盛)有名な曰く付きの歌合戦。壬生忠見の<恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れずこそ思ひそめしか>が負けました。 鼻の穴はつまりにけりなかみいたう 我身よるひる咳気せしまに世界3美人の一人小野小町の<花のいろはうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに>も形無しですね。 ながらへば又新発意や忍ばれん しらがあたまぞ今は悲しき父顕輔と不和で、沈みがちな心境を詠んだ清輔の<長らへばまたこのころやしのばれむ憂しと見し世ぞ今は恋しき>が本歌。「新発意」は、しんぼっちと読み、出家して間もない僧のこと。白髪頭が悲しいと。
2024.10.17
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〇父が昭和37年に買い求めた長岡京市のこの地は阪急の駅から徒歩15分、小高い丘陵地にあります。昔は竹林、名産の筍がいっぱい獲れたところだったと思われますが、何故か一等地という評価があります。書斎から天王山の稜線が見えるのがその裏づけなのでしょうか。 オトクニ この地もそうなんですが、乙訓と呼ばれる一帯は西に嵐山辺りから西山丘陵が連綿と連なり、梅雨どきや秋霖の時季には、まるで絵屏風に描かれる雲海のような雲が龍が這うように山頂や山麓にたなびいてきます。一番美しいのは 見渡せば山もとかすむ水無瀬川 夕べは秋と何思ひけんと『枕草子』に清少納言の「夕べは秋」に比して詠まれた後鳥羽院の歌で有名な水無瀬地区。そこから西を望む山容は、まるで「動く水墨画」です。乙訓一帯は雨催いの折には、絵巻物、絵屏風に描かれる雲の帯、綿菓子(綿飴)を楽しむことのできる一等地です。この地を終の棲みかに選んで呉れた父に感謝しています。
2024.10.16
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〇コアラが好むユーカリの林が山火事になった時には、何週間もかけて燃え続くようです。あのユーカリは油を多く含んでいるので、実は大変燃えやすい木。南半球のオーストラリアでは1~3月にかけての夏場に吹く風は威力があり、空気も乾いているので樹木同士が擦れることで自然発火します。それ故、異常乾燥期には戸外での一切の火の使用を禁じています。トータル・ファイア・バンという法律が発動され、公示、放送されます。タバコのポイ捨てやバーベキュウ、ゴミの焼却など一切駄目で、違反したら2年の禁固刑。ところが、火事をお蔭で、ユーカリ林に混在するアカシアは子孫を残して行くのだそうです。種子はインゲン豆のような形の固いサヤに入っていて、少々の事では種子が外へ出られないのですが、大火事のお蔭で、火に炙られて種子が弾け、地上に落下。大雨や消火によって消えたあと一斉に発芽する仕組みになっているようです。一方、地下にしっかり根を張るユーカリは、幹が黒焦げになっても平気の平左で新芽を出し、燃えカスを栄養分として育ちます。(参考・上前淳一郎著「読むクスリ(20巻)」)
2024.10.15
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〇クレハ・ホームソングの中に下記の歌がありました。 木犀匂う村はずれ 栗毛の馬と少年は いつも仲良く並んで通る 馬はたてがみ靡(ナビ)かせて 口笛ふいて 口笛吹いて 朝の風ざっとこんな歌詞だったようで、亡父もよく歌っていました。そんな木犀の匂う季節。 ロマンティックなので四季の中、一番秋が好きという人が多いように思いますが、冬への橋渡し、日増しに日暮れが早くなるばかり、寒さへの重い序曲のような季節だという理由で、私は秋にな狼に襲われる前の<赤頭巾ちゃん>の心境みたいな感じです。とは言うものの、白雲が僅かに浮かぶ、澄んだ青い空を見上げていると地球からわが身が飛び出しているような錯覚に陥ります。蛸のような吸盤で地面に固定し、傾きながらも地表から突き出ている自分の姿を思い浮かべるのです。
2024.10.14
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〇京都と言えば古色豊かで、いかにも雅の総本家のように称されますが、只単純に古い伝統だけを守り通して来ただけなのではありません。一見排他的に見える京都人の気質はプライドと謙虚さを巧く配合することに長けていて、新しい流行や文化を一旦謙虚に受け入れながら、その研ぎ澄まされた美的感覚で、都のあった処として相応しいものかどうかをプライドという秤にかけながら良いもの選別し、その良いものを京都色にリフォームしながら残して来たのだと思います。京都人に謙虚さが無かったら、単に旧いものだけを守るだけで、デッド・タウンと化した京都でしかあり得なかったと思われます。京都は謙虚さを以て、新しいもの、新しい血を受け入れ、常に住みよい、心癒される町として悠久の歴史を伝えて来ているのだと思います。 わたし達もできるだけ謙虚な姿勢を忘れないで、ここに集まる仲間の斬新的なものの考え方や感覚の優れた部分、自分の琴線に合う部分を吸収し、更に自分という原石を磨いて参りましょう。奥義を極めた剣豪は、相手の構えを見るだけでその力量が推測できると言われます。謙虚さは自分を大きく育てる大切な身の置き所なのでしょうね。
2024.10.13
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〇昨日の夕から本日の午後まで11名にて彦根荘の近江牛しゃぶしゃぶ、別室にて小野から来てくれたK君手配の酒類、おつまみ、極上の葡萄・・・遅くまで語らい、歌い、翌日は琵琶湖博物館、特に淡水魚水族館の迷路を巡り、彦根駅までの爽秋の近江平野を満喫しました。
2024.10.12
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〇駄洒落と頓智の巻物・ビックリハウス版国語辞典「大語海」の”さ”の部から摘んでみました。菜食健美=菜食は美容と健康に良いということ。再三妻子=何回も離婚と結婚を繰返して妻子を次 々と代えてゆくこと。妻三妻四=俗に言う浮気者。三三九度=三回体温を計っても三十九度熱がある こと、確実に病気である。三時制限=痩せるための必須科目。三権分立=ジャンケンのこと。雑句場乱=このビックリハウスのこと。産婦人可=四十男の花嫁募集広告文の一例。三者宅一=両親と子供一人の家庭、核家族。左右対象=乞食の場合。菜涙弾=タマネギ。サボタージュ=手を抜いて作ったスープ。更科日記=そば屋の日記。座盗一=イス取りゲーム。サルマネラ菌=他人のギャク等をすぐに真似した がり、シラケた空気をつくる人間。サロンパス=盛り場を自由に出入りできること。如何でしたか?
2024.10.11
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〇今から7年前の某日、京都駅から送迎バスに乗り、午後3時頃呂輝ド比叡にチェックイン。フランス料理、幾種類もの茶を味わいました。翌朝6時から工事中の根本中堂に向かい、朝の読経と法話を聞きました。何よりもシャトルバスでの道中で、雲海を目の当たりに見ました。その見事なこと。ガーデンミュージアム、横川、西塔など巡り、ホテルに戻り、再び送迎バスにて京都駅まで送って貰いました。
2024.10.10
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〇日増しに秋色が濃くなって来ています。ご近所には永らく放置された恰好の売地があって、いつの間にやらいろんな雑草が蔓延っているのですが、中でも犬蓼、赤まんまが目につきます。植物に詳しい或る方の記述に拠ると、「犬」がつくものには食用にならない、の意味をもつものが多く、犬胡麻、犬芥子、犬薺、犬稗、犬蕨などが挙げられます。幼い頃、原っぱから取ってきた<赤まんま>の粒つぶでままごとに耽られた方も多いことでしょう。哀しいかな、今の女児たちは茣蓙を敷いて<ままごと>遊びに更けることを知らないようで、そんな画像がインターネットから見つけることができません。それに、ママゴト遊びの小物がセットで売られていますので、子供の創造力進化の上で疑問を感じてしまいます。犬蓼の大型品種で虫刺されの毒消しされる大毛蓼もあって、花野は幼年期への郷愁そのもの。 買手無き百坪ほどが赤まんま 星子
2024.10.09
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〇某日、乾いたカンカチの出し昆布を噛んでいて、歯が砕け抜けてしまいましたが、小倉百人一首でお馴染みの藤原定家も歯の治療を受けていた事に親近感を覚えたのでした。 <歯取りの老嫗を喚(ヨ)び、歯を取らしむ> 建暦2(1212)年、51歳になると彼にも老いの様相が出てきます。元日の宴から退出した折、階段でよろめき刀を損じた事が後鳥羽院にも伝わり哄笑を買ってしまった事や、1月21日には弱くなった足腰ながら有馬温泉まで湯治に出かけたものの効果なく、2月に脚気、咳、きつい腹痛(膀胱結石?)など惨憺たる日々が続いていたようです。神経痛や腹痛に対し漢方薬「大黄」や「鹿の角」などを服してみたり、身体の7ケ所に灸をすえたり・・・。そしていよいよ8月22日には上記の抜歯の記述に至ります。 当時は歯科医など居なく、歯取り専門の老婆が居たらしく、その手法は18年後の日記(寛喜2年4月4日)から察するに、<苧(カラムシ)を付け、少年嬰児の如くに引落し了んぬ>苧(イラクサ科の多年草つまり麻の一種)の頑丈な皮で作った糸で歯を抜き取ったようです。麻だから麻酔効果があったのかも知れませんし、巻きつけて置き自然に抜けるのを待つ方法だったのかも知れません。(参考・堀田善衛著『定家明月記私抄』続編)
2024.10.08
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〇おそらく京都新聞からの切抜きでしょう掲題の「古都わざ散歩」シリーズのNo3から。「伊勢へ七たび熊野へ三たび愛宕様へは月参り」という記事をまとめますと、右京区の火伏せの神・愛宕神社は標高九二四メートルの愛宕山頂に祀られています。七月末日は一日の参詣でも千日分の御利益があると言われ、夜間、ライトを持って二時間から三時間、そのままご来光を迎える人が多いのだそうです。私事ながら千本支店在職の折、七十過ぎの元気なお婆さん(高額預金者)から「火迺要慎」の護符を頂戴したことがあります。標題の諺は、江戸後期の『東海道中膝栗毛』にも弥次喜多がしゃべっています。二度のコロナ感染によって肺機能が著しく低下した身には、愛宕参りは魂に変身してからでないと叶わぬことです。
2024.10.07
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〇某年某日、大山崎町の「大念寺」の阿弥陀如来立像を拝観させて貰いました。明治維新後の廃仏毀釈の折、西観音寺の閻魔堂を此処に移築し、閻魔王など5体は宝積寺に引き取られましたが、十王像(小閻魔さん:一説に小野篁の作)はこの大念寺に祀られることになったようです。本殿に向って左側の棚に閻魔王像ほか5体、右側の棚に4体安置されていました。 延暦寺の三世座主:慈覚大師円仁さんゆかりの自仏:阿弥陀如来さんは信長によって堂ごと焼失しましたが、その模作の(2代目)が真如堂の阿弥陀さん。そして真如堂の2代目を模刻した3代目の像が乙訓西山地区、御詠歌札所善峰寺近くの三鈷寺を経たのち、この大念寺に来られた阿弥陀如来さんなのだそうです
2024.10.06
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〇某年の今ごろに詠んだ拙句。佐賀は僅か2年間しか住んで居ませんでしたが、少年期の私の情緒を形成するに相応しい素敵な町でした。 秋水や河童を愛でる城下町 食道を経て胃袋の秋の水 秋声や退職リストの未決箱 美しき貝生みし浜秋の海 波音の聲となるまで秋の海 乙訓の悲運の皇子や萩むぐら 乙訓の野面をゆたに秋ざくら 豊の秋厨を充たす具材の香 傘に触る雨滴の調べ萩しだる 光秀の郷はいづくや桔梗濃し 暮れ泥む庫裏より匂ふ秋刀魚の香 待宵や小侍従歌を能くせりと 良夜かなその名橋架け観世音 こほろぎや蛇姫ヶ池の夕帳 オカリナと月下美人の一夜譚 一夜明け枕辺にある秋の冷え 十六夜やガラシャ婦道記語り継ぐ かりそめの一夜の恋や女王花
2024.10.05
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〇京都の木屋町通御池通には漱石が詠んだ「春の川を隔てて男女かな」の句碑があります。 「大友」の女将磯田多佳との言葉の行き違いの裏話を知っていないと句の意味が判らないでしょうね。鴨川には夏の風物詩、川床を維持する為に「みそぎ川」が通されたようです。二条通を下る処で高瀬川とみそぎ川に分かれます。高瀬川はすぐ「がんこ」の庭を経て、一之舟入へと続きます。 勤王志士が多く討たれた池田屋事件で有名な池田屋は結構、間口が広かったのが昔の写真で判ります。龍馬の寓居跡である「酢屋」という名の木材屋、土佐藩の稲荷神社・・・。五条通まで来ると、平敦盛の奥さんが考案されたことに起因する扇塚、源融の屋敷跡「河原院」、五条新地歌舞練場、銅製の茶筒で有名な「開花堂」、トランプ・花札でお馴染みの任天堂もありますね。
2024.10.04
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〇江戸時代には、実にいろんな禁止令がありましたが、先ずは菜種油の買占め禁止。それから通行の邪魔、事故防止の為、牛馬の車間距離に関するお触れ。国家的な人物の逝去に伴う鳴り物の禁止や殺生の禁止。この殺生禁止令は十日からひと月余りに及び、魚屋などに大きなダメージを与えたようです。また遊郭移動のお触れでは、秀吉時代は二条柳町でしたが、それが六条柳町へ、更に島原へと移りました。 元禄時代、島原の人口千七百人の内、遊女は千二百人だったのだそうです。島原以外に祇園、北野、二条、七条などにも水茶屋が繁昌していたとのこと。享保十四年(1729)に外国から、はるばる象が献上された時は、てんやわんやの大騒ぎ。 面白いのはタケノコの盗掘を禁じるお触れ。この時代には朱雀村、鷹が峰、九条、大将軍村、下立売通、東洞院、嵯峨道、西院などが筍の名産地だったようだし、松茸も同様に禁令が出ていました。 また京枡の偽造については、寛保二年(1742)の「御定書百箇条」に触れてあって、市中引き回しの上、獄門(さらし首)の極刑と決められていました。
2024.10.03
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〇太閤秀吉に世継ぎの秀頼ができたことで、関白の地位を剥奪され、高野山に追いやられた後、切腹させられた秀次公。太閤の姉で秀次公の母である智が、子や孫の菩提を弔う為、嵯峨二尊院の傍に寺を建て、のち後陽成天皇からの加護もあって村雲「瑞龍寺」と称して日蓮宗では唯一の門跡寺となりました。昭和38年、寺は秀次公ゆかりの近江八幡に移りました。その後、途絶えていた門跡を継いだのが旧小倉藩主小笠原長幹の五女松子(12代、日英尼)。 父が遺した昭和42年1月31日付京都新聞夕刊には、「尼僧姉妹」と題して5枚の写真入りで、近く行われる普山式のことに触れ、また義妹の元宝塚スター桜緋紗子さん(英法尼マタ日 鳳尼)の事にも言及しています。12代日英尼の後を継いだ日鳳尼も9年前の3月20日に遷化(逝去)するまで瑞龍寺の復興に寄与された由。
2024.10.02
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〇豊田都峰「京鹿子」前主宰が大阪俳人クラブの代表の任にあった当時、その機関俳誌(年四回発刊)「大阪俳人クラブ」の話題として、シリーズ「かんさいの変った町名」と銘打って、第130号の淳和院町を皮切りに、弁慶石町、俊成町、道修町(大阪)、京の紹巴町、本塩竃町、二畳半町、黒谷町、垂水町(大阪)、蛸薬師町、兎我野町(大阪)、天使突抜町など、4年間掲載させていただきました。京都市内の街角にある木製やホーロー製の細長縦看板は明治四十三年に郵便配達員が困らないように設置したのが起りで、中でも有名なものが仁丹提供のものですが、上友禅町、或いは虎石町や八瀬かまぶろ温泉の養安町、など多種多様です。
2024.10.01
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