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〇法師蝉と言えば、夏休みの宿題をやり遂げる作業追われた日々を思い出します。 宿題に追ひかけられし法師蝉 星 子有難い事に、第二の職場の出会った先輩のお蔭で、今では<嫌な事を先に済ませる>性格に変りました。 水道の蛇口をフルに開けてステンレス製の桶に水を流してから、仏檀に供える水を汲み、昨日のお礼と本日の家族の無事、数十人に及ぶ人々の無事と健康などの祈願。ポット用の湯沸かしや麦茶用の湯沸かし、6枚切のトーストに蕩けるチーズを貼ってオン。ミニトマト、キウイ、豚ハム、レタス等を挟んだサンドイッチ。長浜のガラス工房で購入した青色と紫色の脚付グラス2客にコーヒを注ぎ氷も入れた頃に家内を起こします。冷蔵庫のドアに張り付けた(長岡京市)のこちゃん体重日記に昨夜の体重その他のデータ、今朝の結果をグラフ記入します。食事が終われば、朝刊とにらめっこ、テレビ番組のビデオ予約、家内は洗濯などの家事に、私はブログの更新などから一日の始まり・・・。
2024.08.31
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〇何とも奇妙な名の温泉。わが国の温泉という温泉、秘湯という秘湯すべてを浸かってきたプロでさえ、辿り着いたことの無い名湯だというのです。東北本線黒勝田駅からバス25分で死出路へ。そこから乗合馬車で1時間。車では到底行けない難所。良質 硫酸。55度。効能 機敏性強化。度胸満点。宿 1軒「卒塔婆館」 cランク、収容10人。経営者が不気味。 岩風呂に満々とある湯はきれいな碧いろ。よく見れば湯の表面に、羽虫や小動物の死骸らしきものが浮いている。参考図書は清水義範著『秘湯中の秘湯』で、北海道の骨壺温泉、秋田の風呂湯温泉、山形の迷子谷温泉、福島の湯気蒸温泉、群馬の空中温泉、山梨の極道温泉、長野の泥沼化温泉、愛知の端曝温泉、大分の湯雨温泉、シベリアのオユ湖温泉、面白可笑しく書かれています。
2024.08.30
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〇某日、先代が残している陶器・食器類の一部を家内が物置から出して来ました。幾つかの掘り出し物の中に、木箱と中身の不釣合いの宜興紫砂壺(中国急須)と湯呑がありました。桐箱の蓋表の草書は読めません。青□山水壺? 湯□。蓋の裏側には、右側に川崎銀行神戸支店、左側に應需 栄珠堂製そして印。箱の右面には支那焼茶碗とあります。煉瓦色した急須は小さなもので、蓋の摘み部分の中央に小さな穴が空いて居り、急須そのものはやや平べったく、底には”煙村四五 孟臣”という落款が刻まれています。二人用の湯呑みの内側と底は鮮やかな薄翠色地に濃い目の斑点が散りばめられて居、表はれんが色地に「石泉竹炉」という白釉薬の文字が付されています。さして上等では無いと思われますが、箱の深さと現物とが不釣合いで、推測するに明治大正年間に財閥銀行から記念品として渡された支那焼茶碗はそこそこ上等だったのでは?余談ながら、家内がバザーで購入した煎茶用の急須は、龍と鯉の模様、蓋には遊び心の、顔と舌まで出す獅子頭がついていて、上場企業の社長夫人の出品だったとか。これこそ、「爆笑、何でも鑑定団」の対象にならないかと愚考しています。
2024.08.29
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〇地球上の恐竜が小惑星の衝突による天候異変の為に絶滅したのだろうという知識をわたし達は持っています。直径1キロメートル級の小惑星が地球に衝突したと仮定したら、超高速による障害で地球には直径20キロ、深さ数キロのクレーターが出来ます。これは広島に落とされた原子爆弾500発分のエネルギーに相当します。月の表面にある「あばた」そっくりのクレーター分の土砂が細かい粒子になって舞い上がり、 太陽光は地球に届かず、地球は寒冷化して世界の平均気温はセ氏マイナス20度まで急降下します。つまり赤道であってもシベリア並みの寒さになり、数年それが続くので植物が枯れ、動物も餓死します。 この寒冷化の次には、大気中にまき散らされた二酸化炭素の層ができる為、逆に世界気温が平均セ氏60~80度になってしまいます。賢い人間の知恵で乗り切ることが出来るのかな?
2024.08.28
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〇豊田満夫さんが収集されたものは江戸から現代までの手紙約七千本、風呂敷三千枚、のれん三百枚のほか、ぽち袋、のし紙、木綿裂や着物など。 恋みくじに〆の封印のついた艶なぽち袋、利休鼠に紋入りの芸妓のぽち。中尾彬さんそっくりの怖い奴貌のぽち。読経の僧の後ろでクスンと笑う髷をんな。 ステッキた一本と羽つきの月給袋には佐良利満殿と書かれた「げっきゅう鳥 すてっ木」というぽち袋やススキをあしらったぽち。「のろけたいづくし」は鯛の逆さ画のぽち、わすれたい苦は忘れずに 夢にも忘れぬ人は来ぬ、逢ひたい見たい、飛んでゆきたい、志ん世帯、みせてやりたい、飲みたいやまひ、などみんな粋。(参考図書・京都書院アーツコレクション)
2024.08.27
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〇大山崎山荘に因む加賀正太郎の叔父、加賀豊三郎の集めた蔵書庫が東京都立図書館内にある「加賀文庫」(洗雲亭文庫)で、凡そ2万4千点を数える貴重な収集品が所蔵されています。その目録を木版刷りのものに纏めたのが『洗雲亭清賞』で、戦前における木版印刷技術の最高水準を示す美しい書物で、表紙などには京都竜村に特注した布を使用、装丁も凝っているとか。題字等は清浦奎吾・市島春城、序は徳富蘇峰という著名人が参画しています。例えば『箔の考』山東京伝自筆・・・深川生れの本名岩 瀬醒。浮世絵を学び、黄表紙の画工を皮切りに 黄表紙の作者に転じました。谷文晁の直筆画・・・”なんでも鑑定団”でお馴染 み。柳亭翁雑録・・・『偐田舎源氏』の著者、柳亭種 彦の日記や雑録2冊。 元は3代目種彦(高畠藍泉)が所蔵していたも のです。 画工歌川国貞と一緒に隅田川花やしきへ出かけ た様子など。『南総里見八犬伝』曲亭馬琴自筆。あの壮大な物 語の稿本。全9輯106冊の大作は、その執筆 途中で馬琴は失明、 一子宗伯の未亡人お路に口述筆記させ、完成ま で28年もの時を要したようです。図書館だから、ここで挙げきれないほどの貴重な文献の集積庫なのです。
2024.08.26
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〇誰でも知っている唱歌「月の砂漠」、作詞・加藤まさを、作曲・佐々木すぐる。実にロマンチックな歌詞で、メロディと見事に融合した名曲の一つですね。 広島県三次市の元音楽教師・河本正治氏が同好の仲間15人と結成された「赤とんぼの会」が発行した全8集、594曲も掲載された、絵本のような童謡集を8冊とも父が遺していました。カットの絵が明治・大正・昭和への郷愁を呼び起こさせる図柄で、1冊1,200円。直接河本さんから取り寄せていました。 1.月の砂漠を はるばると 旅の駱駝が 行きました 金と銀との 鞍おいて 二つ仲良く 行きました 2. 金の鞍には 銀の甕 銀の鞍には 金の甕 二つの甕は それぞれに 紐で結んで ありました 3.前の鞍には 王子さま あとの鞍には お姫さま 乗った二人は お揃いの 白い上着を 着てました 4.広い砂漠を ひとすじに 二人はどこへ ゆくのでしょう 朧にけぶる 月の夜を 対の駱駝は とぼとぼと 砂丘をこえて ゆきました 黙ってこえて ゆきました日本で言う駆け落ち、道行。哀切が漂いますね。
2024.08.25
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〇京の嵯峨、清凉寺すぐ近くの宝筐院は平安時代に白河法皇の勅願寺(旧名は善入寺)として創建され、数代にわたり皇族が入寺、一旦荒廃していたのを夢窓国師の弟子:黙庵が復興。また足利2代将軍義詮が黙庵に帰依、善入寺の伽藍整備に尽力。義詮没後、その院号を採り宝筐院と改めました。楠正行(正成の子で小楠公と称されます)が四条畷にて高師直の率いる北朝軍に負けた際、生前彼と交誼のあった黙庵が、その首級を持ち帰り此処に葬りました。北朝の将軍・義詮の墓が左に仲良く並んでいます。寺はその後再び荒廃、天竜寺の高木管長や川崎芳太郎によって再興されました。初夏の楓、深秋の紅葉の名所として知る人ぞしる由緒あるところです。
2024.08.24
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〇季刊「銀花」1975年の第21号春の話題は「おもちゃ絵」で、中でも目を惹くのは、掲題の「志ん版おび結様種々」で、おたいこ(16才以上の女云々)、ふくら雀(文久慶応の頃、下町の娘用で武家の娘はせず)、この他に、踊りの師匠結、文庫結、立て矢の字結(お初結び)、だらりと垂らす結い方など。 ついでにインターネットで検索するといろんな名所巡り等が見つかり、ふっと江戸時代に戻った感がしました。
2024.08.23
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〇江戸城には男子だけの表御殿と、将軍の居住地となる中奥と、そして女性だけの居住地・大奥とに、はっきり分かれていて、八百人も住む「女の園」でした。大奥傷心の順序は、呉服の間から御広座敷、御産の間からお次というように出世していきました。御広座敷の間詰(十人)からが「お目見え」以上の身分で、それより下の、お末頭や三の間詰、中居、御使番、 お犬子供、お末というクラスは全て「お目見え」以下。御次まで昇進するとかなり上のランクになり、その上が表使、御錠口となり、年寄に近づいてきます。ところで、呉服の間で針の先が一寸、一分でも紛失すれば、着替えも出来ぬまま、針探しをさせられ、自室には戻れない掟になっていました。(参考・邦光史郎著『大奥の謎』)
2024.08.22
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〇月刊誌「京都」通巻110号の特集は「通りを歩いてみたい」で、物語のある通り、川のある通り、商いの通りなどに分類して紹介しています。<物語の通り>として写真では六角通りの六角堂の赤提灯を載せています。正式名は紫雲山頂法寺。本堂の右手には京の中心といわれる「へそ石」があります。 寺町通りは平安京の東の端つまり東京極通りでしたが、後年、秀吉公によってこの通りの東側に市中の寺院を寄せ集められました。賀茂川~堀川間の御池通りは並木の映える広い通りです。それは戦時中の立ち退きと家屋取り壊しがその背景にありました。御池通りを堀川通りより西に行くと職司町など古い町並みがあって、北側には古き池、神泉苑があります。祇園祭の発祥にも関わってきます。<商いの通り>として薬屋の多い二条通り、家具の街である夷川通りは古来の冷泉小路。江戸末期は古道具・建具の街だったようです。武具・具足そして錦を商う通りだった錦小路通りは、高倉~寺町間、鮮魚・川魚・乾物・野菜・菓子・漬物など食の宝庫として人気を博しています。表千家、裏千家などの由緒ある通りが小川通り。幕末の志士が闊歩したであろう木屋町通り、お茶屋にからむ新橋通り界隈も京の魅力の一端ですね。
2024.08.21
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〇世界に知れ渡った勇者ナポレオンとポーリーヌとの出会いを略記します。お針子・召使だった母に生まれたポーリーヌは、やがて召使としてサル家に奉公している時、猟騎兵の中将に見初められ結婚。 一方あのナポレオンはエジプト遠征にあったとき、最愛の妻・ジョゼフィーヌと某青年将校との浮気を全世界に報じられ、落ち込んでいた時、気力を取り戻す上で戦中時の愛人探しを部下から薦められ、そこで出会ったのがポーリーヌ。 プロポーズを一旦断ったものの、ナポレオンの熱心な宝石・ラブレター作戦に、平穏な結婚生活よりも当時の権力者との晴れの舞台を彼女は選択しました。余談ながら、ナポレオンは身長167センチでしたが、頭回りは60センチ、足は極めて短かったようですが、そんな負の要望よりも夢に目がくらんでしまったようです。 ナポレオンは彼女の夫にパリ出張を命じ、その留守に乗じて彼女との甘い生活に溺れました。が好事魔多し、パリにゆく途中夫はイギリス軍に捕まり、エジプトへ送り返されました。そこで夫が耳にしたのは、妻と将軍閣下との不倫の噂。激高した彼は妻に暴力を働きました。そのドメスティック・バイオレンスを理由に離婚訴訟が認められ、堂々と愛人生活を送るに至りました。 間もなくナポレオンは一部の軍を率いて密かにパリに外征。同行することを彼に拒まれたポーリーヌは、後を追いかけてパリに向かうのでしたが、運の悪いことに、ペストが流行中で、永らくマルセイユで時を無駄にしました。一方ナポレオンはクーデターを興し新政府の第一人者となっていました。結婚を望みましたが受け入れられなかった代わり、生活の面倒は一生みると約束され、新しい家を買い、恋から恋へと飛び歩きながら、2年後には結婚しました。それを聞いたナポレオンは新しい夫に副領事の地位を与えました。平凡な結婚から権力者の愛人の道を選び、最後には副領事の妻に納まった彼女はしたたかな女性だったようですね。
2024.08.20
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〇秋気を感じるこの季の季語には、星月夜、星明り、秋の星や天の川、銀河・銀漢とか流星、夜這い星、流れ星、星飛ぶ、星流るなどのロマンチックなものがあります。 流星の使ひきれざる空の丈 鷹羽 狩行 ところで、倉敷出身の御年79才、佐治天文台に関わりの深い香西洋樹さんは、永年、国立天文台に於いて天体観測に携われ、50個ほどの小惑星の発見と(今は行方不明になっていますが)彗星一つを発見しておられ、吉備、難波、瀬戸内など40個もの小惑星命名者でもある方なのです。 小惑星とは太陽系が出来た折、惑星に成り損ねた、言わば星屑のことですが、1999年の時点で、世界中に登録されているその数は10257個、うち2030個が日本人の登録、つまり約2割を発見した日本は世界1の<星持ち国>なんだとか。しかも直径1キロ級の小惑星の内、発見されているのは僅か5%ですから、あなたが<お星持ち>になれる可能性は十分なんです。また、他の国では天文台に勤める職員がほとんどですが、日本の場合はほぼアマチュアというのが特徴なんです。 発見してから命名までの段取りは以下のようです。1)新小惑星の発見 → 国際天文学連合へ連絡、仮符号を付与して貰う。2)公の場で、この小惑星の軌道を観測、計算の上確定まで数年を要し、許可が降りる。3)名前はアルバベットにて16文字以内、政治家や軍人は死後百年以上経過が条件です。 シェクスピア、ピカソ、バッハ、ジョン・レノン、ソクラテス・・・・地名、人名、文学者、画家、音楽家など。面白いことに、日本の人物名を利用したものは、平清盛、源義経、坂本竜馬、夏目漱石、手塚治虫、坂本九など。 日本を含む北半球では、秋から冬にかけてが観測に向いているとか、あなたも<お星持ち>にチャレンジなさいませんか?
2024.08.19
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〇NHK大河ドラマ「光る君」が現代人に解り易いようなタッチでお茶の間に届けられているので、往時にも女性が職業婦人として活躍しておられた史実が生ま生ましく感じ取れますね。文学にみる「日本女性の歴史」(吉川弘文館)の中の、黒田弘子さんの「女性職人の活躍」七十一番職人歌合の論評を見ると、「職人歌合」なる史料が鎌倉期に二点、戦国期が二点残されていて、戦国時代の七十一番職人歌合には、 右:ー紺掻koukaki 壺こうの只一しほのそら色に 光そへたる秋の夜の月 shikama左ー機織hataori 飾磨川逢瀬もいつとちぎらぬに あながち人の恋しかるらん前者の歌意~一度だけ染汁に浸して染める一しお染 のそら色が秋の月夜に映えて美しい。後者の歌意~いつ逢いましょうと約束したわけでは ないのに、何故あの人が恋しいの?これらは働く女性を観て、貴族たちが詠んだ歌なのです。男女比は男百三人、女性はその約四分の一の三十四人。第一グループに 縫物師、機織、紺掻などの衣料関係第二グループは 魚売、米売、豆腐売、素麺売など食品関係第三グループには 炭売(大原女)、灯芯売などの日常生活物資第四グループは 白物売などの化粧関係第五には、 白拍子や巫などの芸能関係さてさて驚くなかれ、亀屋五位女という女性は帯座の座頭職というトップの座に居ましたし、布袋屋玄了尼という後家さんは、扇の販売の専売権の半分を掌握していたという事です。更に宣教師ルイス・フロイスは、日本では妻が夫に金を貸して利息を取っていると記述していて、中世の女性たちが自己の労働の主人公であり得たことを証しているのです。
2024.08.18
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〇『今昔物語』は逸話、民話、法話の宝庫ですが、阿倍晴明に関わる話も興味あります。 いつの世も政治に携わると権力争いの渦につい巻き込まれてしまうとか。陰陽師・安倍晴明が活躍した件では宇治捨遺物語から採り出せば、藤原道長と道魔法師の話や晴明の力量を試す老師との張合いでは葉っぱで蛙を押し潰す話、青年貴公子を狙う烏の呪いを夜っぴき祈祷して助けた話などがあります。 晴明とは別の逸話ですが、<月が大将星を殺す>という勘文が出されるような天文上の異変があった時、右大将だった藤原実頼は方々の社寺に祈祷させているのに、左大将の仲平は東大寺の法蔵僧都に祈祷を頼もうとしなかったので、僧都が不審に思い尋ねたところ、かの仲平曰く、<私は老い先短い六十前、右大将は三十半ばの若さの甥っ子、私が祈祷を頼み、万が一、彼に禍が及んではまずいので祈祷を頼むのは避けるべき>と答えたので僧都は思わず落涙、<その清いお心は何より、百万の祈りに勝りましょう>と申し上げたそうな。事実、仲平は難なく暮らし、大臣まで昇格し、七十余年まで生きることが出来たと言います。
2024.08.17
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〇他所から大山崎に引越してまで大山崎の歴史を研究された吉川一郎さんの『大山崎史叢考』は氏の真面目な探究心がひしひしと読者に伝わってくる名著で、数年ぶりに読み、感動を新たにしました。宝積寺蔵として掲載されている「山崎架橋図」はこれまで心に留めていませんでしたが、本尊の十一面観音像が「橋架け観音」と称された伝説を意識して天安3(859)年に描かれたもの。 一方「観音寺日譜」によれば娯楽と興行物として、元旦、節句、端午、七夕、盂蘭盆会、八朔、重陽、玄猪、節分はもとより、春の土筆摘みには狐浜や外島へ、蕨取りには天王山に登ったことなどが記されています。盂蘭盆の経木流しには淀の本流に流すのですが、その帰途には必ず西観音寺(現サントリー蒸留所)の閻魔堂に参詣していたようです。盆の放生会の頃には、離宮八幡では相撲が神事として行われていたことが記されています。観音寺山主と聞法寺住職が仲良く観ていたようです。
2024.08.16
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〇ほおずきには二通りあって、植物のほおづきと巻貝の卵のうからできた海ほおずき。後者は何の加工の必要もなく、クリーム色または赤紫色のもので、神社の夏祭の夜店でも売っていて、しょっぱい味覚と鳴らせ易さが特徴。盂蘭盆が近づいて来ると大型スーパーでは盆用品が大々的に積み上げられますが、そのグッズの一つに茎ごと売り出される「ほおずき」が挙げられます。父が勤めていた職場の社宅は二十坪ほどの敷地に客間、居間、台所、洋間、和室がありましたが、子供部屋の濡れ縁から正面に見る黒塀の前に、この時期ならダリアやカンナが咲いていて、そばに鬼灯も毎年彩りを見せていました。緑色と赤、オレンジ色の織り成す鬼灯は視覚的にも黒塀によくマッチしていました。赤く色づいたものをちぎり、萼を除いた実の部分を掌に包み、辛抱強く袋が破けない程度に優しく揉みます。実の皮越しに幾つかの種が泳ぎだす頃合を見て、楊枝を使い、実の中から種を取り出します。種は甘酸っぱい味がしました。揉むことによって浮遊した種は容易に取り出せますが、全ての種を取り払っても、最後の軸になる部分を小さな穴から抜き取る工程が大変なのです。荒っぽくやると穴が壊れてしまい、これまでの苦労はすべて水泡に帰してしまいます。穴の状態を警戒しながら、軸の部分を取り出すのです。見事取り出せたら、これで鬼灯の完成です。 口の中に含み、穴の部分を唇に押し当てながら、舌を巧みに使いながら、ほおづきの中にある空気を押し出し、鳴らせるのです。やはり姉たちは殆ど失敗もなく上手に取り出し、私より三十分も早くから鬼灯を鳴らしていました。夜店などで買った鬼灯は一周り、二周りも大きく、種を巧く引き出せた後は、音色も大きく、喜びも一入でした。
2024.08.15
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〇〇〇「懺悔偈(サンゲゲ)」 我昔所造諸悪業(ガシャクショゾウショアクゴウ) 皆由無始貧瞋痴(カイユムシトンジンチ) 従身語意之所生(ジュウシンゴイシショショウ) 一切我今皆懺悔(イッサイガコンカイサンゲ) 私たちが長い間犯してきた罪過(ツミトガ)は昔から心の中にもっているむさぼり、いかり、愚痴といった迷いが私たちの身体と言葉と意(ココロ)を通して現れたものです。いまみ仏のみ前に心から懺悔いたします。 この本にはこの他、香偈、三宝礼、四奉請、歎仏偈、三尊礼、開経偈、無量寿経四請偈、本請偈などのお経のほかに、年中行事、仏事の基礎知識が、懇切丁寧に書かれています。日本人である限り、お寺やお経と無縁で居られる道理もありませんので、偶には、お経や仏教に触れてみるのも良いと思うのです。
2024.08.14
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〇信長公の父・信秀公は流行病に罹り、42歳で没したので、法名を桃巌とし、国中の僧を集め、盛大な葬儀(僧300名)が行われました。この折、信長公は、長柄の大刀と脇差を藁縄で巻き、髪は茶筅髷に巻きたて、袴も穿かない姿で、抹香を掴んで仏前へ投げつけ去られたと『信長公記』には書かれています。 今思い出しました。小学館の「小学5年生」の付録に、「信長と秀吉」を描いた漫画があって、このシーンもあったのかも知れません。漫画を通して歴史に興味を持ちました。
2024.08.13
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〇台風5号が岩手県大船戸付近に上陸したようですが、被害の少ないよう、仏壇に掌を合わせ祈念しました。折りしも亡父の詠んだ台風の句があったので紹介いたします。以下は2003年に綴ったもの。 台風に姿あるごと予報聞く 吉田すばる 沖縄、九州を襲った台風は今夜半関西に到達するという。二百十日の頃、日本人は大なり小なり、この招かざる客が、逸れると言えば一喜、襲うと聞けば一憂する。そして頼りにするのは天気予報。受信料支払いに多少の不満はあるものの、この時ばかりは、NHKさまさま。ラジオで聞いても、テレビで見ても、台風という姿、形ある生きもの、魔物のように擬人化して捉えてしまう。風神に非ず、昇竜にも非ず、漠然とした中にまるで意思を持った生きもののように錯覚する。・・・被害の出ないことを只管祈るのみ。
2024.08.12
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〇8月11日、本日の花はオモダカ。サジタリア=矢の形をした葉に起因しています。葉っぱが人の顔のように見え、葉脈が高く浮き出ていることから「面高」水田や沼地に生え、花言葉は信頼・高潔・秘めたる慕情。白い花に凛とした気品があるから?わが家の家紋は忠臣蔵・浅野内匠頭を同じ「丸に違い鷹の羽」。 タカはその特徴から、勇猛さ、力強さ、高貴といったものの象徴として扱われ、洋の東西を問わず紋章や文様を始めとしたデザインや、神話・伝説といった文学の題材などとして用いられてきました。こうしたイメージは日本においても例外ではなく、鷹とその羽根は、古くから代表的な「武の象徴」として捉えられたことから、家紋としても多くの武家に使用されたことで知られ、現在では五大紋の一つに挙げられるほど広く普及しています。
2024.08.11
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〇今から凡そ300年前、享保5年に近松門左衛門が書き下ろした「心中天網島」のほかに特に初代都一中の為に素浄瑠璃として作られたものと言われている名作の一節。 黒髪の 乱れて今の憂き思い 眼には泣かねど 気に痞(ツカ)え 胸に涙の玉櫛笥(タマグシゲ) 向かう鏡はくもらねど 映す顔さえ水櫛や 思えばすまぬことばかり 所詮この世は仮り髷の 恋に憂き身を投島田 覚悟極めし心をば 主に何とぞ黄楊の櫛 合わせ鏡と泣く涙 落ちて流れて鬢水の 哀れ果敢なき花の露 消ゆる間近き風情なり・・・・・・・胸に涙の玉 玉櫛笥。 映す顔さえ水櫛 見ず櫛。憂き身を投げ 投島田。 何と黄楊 告げ。合わせ鏡 逢わせ。というように、昔は言葉掛けをしながら名文でリズミカルに綴っています。掛け言葉が卑しくない程度に選ばれていますね。(資料「福助邦楽まわり舞台」)
2024.08.10
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〇青い目をしたお人形、アメリカ生まれのセルロイド童謡から覚えたキューピー人形。リフォームする前の洋間には母方の祖父から新築祝いに貰った大食卓にいろんなグッズに紛れて、大小、幾体ものキューピーさんがいました。 日本興行銀行のワリコーを購入した折にこれらのキューピー人形を貰っていたようです。他には箕面の叔母さんから長女誕生祝いに貰った大き目のキューピー、ネズミ年のネズミキューピー、太陽光で充電して動くキューピーさんが今残っています。
2024.08.09
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〇掲題の本は昭和17年11月23日発行、2円80銭。カラーではありませんが、和紙に直接摺り込んだ感じ。「愛染修羅身・御炎噴」や「浜茄子華・昼雉子親仔」は新作もの。昭和15年作「雨月物語」シリーズの趣きや11年の「華厳譜・日没」のスピード感は、いかにも志功らしさが。序文には河井寛次郎の「棟方君」や料治熊太の「雑華堂のこと」があり、本文は、河井寛次郎先生に始まり、板血脈、板画道や鳥居清長、東洲斎写楽、喜多川歌麿、北斎と広重、富岡鉄斎や八甲田山などに及びます。
2024.08.08
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〇子供の頃から慣れ親しんできた噴水。住宅街にある噴水、植物園や公園にある噴水、ビル街の一角にある噴水、催し会場内に設置された噴水、随分いろんな噴水に接して来ました。大阪は吹田市千里山住宅街ロータリの芯にある噴水。都銀への就職内定したので、大の大人が小学生に混じって算盤を弾いていました。 大阪花の博覧会では、わが銀行グループが、舞台に人形の指揮者にタクトを振らせ、音響と光の噴水を演じるコーナーを設けていました。 大音響と光の織り成す噴水の世界・・・これは現代風で、それなりの意味がありました。噴水の水しぶきの中に多量に生まれるマイナスイオン。それが人々を癒してくれます。やさしくなれるから、恋人同志が愛を語るのにも相応しい場所なのかも。
2024.08.07
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〇終戦の記事の増える8月、千本下立売近辺に空襲があって大きな被害があったという話でした。昭和20年1月16日東山区馬町にB29が爆弾を落としたのを皮切りに、3月中旬右京区、4月中旬に2度(右京区と北区)、5月半ばに上京区と右京区に。そして6月26日早朝、上長者町通、下立売通、大宮通、浄福寺通に囲まれた地域に7発の爆弾が落とされ、死者50人、負傷者66人、被害家屋が300軒近くに達したようです。 軍部からの制圧で正しい情報が伝えられなかった事情が当時にはあったようです。それから恐ろしいことに、原爆投下の第1番目の候補地が京都だったとは驚きです。
2024.08.06
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〇自動車の運転席の横の席を助手席と言いますが、助手席に座った人が運転を手伝う訳でもなく、ただ座っているだけなのに何故「助手席」と言うのでしょうか?それはね、大正から昭和の初めにかけて、一定の範囲内を距離に関係なく1円の料金で走るタクシーがあり、それを「円タク」と呼んでいました。当時、タクシーの運転手になろうとする人は、たいてい助手として雇われ、運転席の隣に座って運転技術を覚えました。また客引きや客との料金の交渉や車の整備を行い、運転者の手助けをしていました。ゆえにその席を「助手席」と呼ぶようになりましたが、免許制度の変更と共に、助手もなくなり、その呼称だけが残っているのです。参考図書・北嶋廣敏著『雑学帝王500』
2024.08.05
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〇かぐや姫に興味を持たない日本人は皆無と言っても過言でないほど、わたし達が幼い時から聞かされてきた日本最古の物語。 繁田信一著の『かぐや姫の結婚』を手にした時、実在の女性である藤原千古を「かぐや姫」として紹介なさっているのは素晴らしいと感じました。「枕草紙」や「紫式部日記」のほか「栄花物語」などを通じて知る藤原彰子や藤原定子らの人間像は、彼女たちが一条天皇の妃となって以降のことに限られますが、当時かぐや姫とも称された藤原千古は裕福な父・藤原実資の「小右記」という日記によって、その幼い時から綴られているから凄いと思うのです。彼女は約千年前の長和2年の生まれ。それは一条天皇のご退位・崩御のあった年だから、彼女にとって、清少納言や紫式部ら才媛の活躍の時代は昔語りとなってしまっていたのは残念なことと思われます。この書物の魅力は、主な王朝貴族の誕生年表や系図、藤原実資家の荘園所在地図、小野宮と称された邸の推定復元図、また所在地図、千古に縁のある寺院の地図、兄弟姉妹との関係、その他幾通りもの人脈図など資料が豊富で、千年前の王朝生活や婚姻に関わる風習を赤裸々に、懇切丁寧に解明しておられる名著と言えるのです。
2024.08.04
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〇佐賀市内に居た頃、家から徒歩1分ほど先に大きな藪と野原がありました。法師蝉の鳴く頃から深秋にかけて、其処は蜻蛉の楽園。鬼やんまは無理としても<やんま>は次なる方法で捕まえていました。用意するものは、糸20数センチ、セロファン紙、小粒の石ころ2個。小さな石ころを各々セロファンに包み、その2個分の両端を糸で結んだもの、たったこれだけで蜻蛉を捕まえることが出来ました。今作った仕掛けを大空めがけて投げます。複眼のトンボは糸の存在に気付かず、石の部分を餌と見間違え追いかけて来ます。その時、羽が糸に引っかかることがあって、地面まで落ちてきます。あぁ捕虫網でもあれば、なお確実ですが。ここで大事なことは捉えたトンボの性別です。胸の辺りが青色ならがっかり。それは雄なので囮に出来ないからです。胸が白っぽかった時は大当り。釣り棹のようなものの先端に糸で結わえた雌トンボを遊ばせていると雄トンボが目ざとく近寄ってきます。雌・雄が縺れ込んだ隙に網で捕獲するという段取りなのです。少年にとって、こういう遊びは二つ三つ年上の餓鬼大将から教えて貰うのでした。田舎の秋は、晴れ渡った青空と耳たぶに吹き込む風の音ばかり・・・。
2024.08.03
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〇鯔(ぼら、いな)に背と書いていなせと読みますが、広辞苑をひきますと、<一説に、江戸日本橋魚河岸の若者が髪を「鯔背銀杏」に結っていたところから粋で、いさみ肌の若者やその容姿、気風を言うとあります。 さて1975年の季刊「銀花」第二十三号の特集には印伴纏・江戸庶民の旗印と銘打って、粋な伴纏を数多く載せています。纏に伴うものとして町火消しの揃いの伴纏から始まり、職人、商人たちに至るまで、印伴纏は、江戸八百八町を屋台骨のところでぐんと支える人たちが掲げた旗印でした。祭り用は神輿、鳶職はそのまま纏、乾物屋には萬、漁師なら大漁、材木屋は山垂れに木、獅子舞なら渦紋に朱色の獅子、大工の司の中がト、料理屋の蓴菜など主力は黒地に白抜の紋が漢(ヲトコ)ぶりを増しますね。
2024.08.02
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〇江戸時代、諸藩は大坂に蔵屋敷を設け、ここに米を送って現金に換えていました。堂島にはこの蔵米を取引する米相場が立ち、1730年から幕府公認の米市場になりました。堂島の米相場は、飛脚によって江戸を初め、全国に伝えられ、各米市場ではこの堂島の相場を基準として取引をしていました。そのため、取引業者たちは、少しでも早く堂島の相場をしりたがっていました。近畿地方では、大坂に近いという地の利を生かした通信法を編み出しました。さてそれは、a.のろし b.旗信号 c.矢ぶみのどれかしら?答)近畿各地の小高い所に、旗山、旗振り山、旗振り場、 相場山(相庭山)の地名が残るのは旗振りの名残。(参考図書:二木紘三著『電車の中の日本史テスト』)
2024.08.01
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