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ずいぶん前になりますが、「着付け教室」に通ったことがあります。 和服をさりげなく着こなしたいというおしゃれ心からでしたが、仕事を終えてからの学習は、時間的にも肉体的にもかなり辛いものがありました。 「教室」とはいえ、自分が着てきた洋服から持ってきた和服に着替えるだけなのですが、和服には下着類が多く、その上腰紐やベルト、伊達巻、帯枕、帯揚げ、帯締めなどこまごまとした付属品がいくつもあって、それらを駆使しながら帯を締めるまでのコースを3回ほど繰り返すので、仕舞いにはもう音を上げてしまうほどくたびれるのです。 しかも、私にとって後ろ手で帯を締めるのは至難の業で、よくもまあ昔の女性は毎朝こんな儀式を難なくこなしていたものよと、感心するばかりでした。 それでも何とか着られるようになるとうれしくて、割烹着など買ったり、着物で車を運転して通勤したりしていましたが、1週間ほどたったころ、今までのスカートがきつくなったことに気付きました。 さあ大変! ウエストを締めず、腰骨のあたりでラク~に着付けていたので、ずん胴になってしまったのです。 それ以来和服に対する情熱もどこへやら、せっかく汗をかきながら覚えた帯の結び方も、今ではすっかり忘れてしまいました。
September 29, 2006
「くもりガラスを手で拭いて、あなた明日がみえますか」くもりガラスはもともと向こうを見通せるものではないので、手で拭くという行為は無意味であり、不自然である。だが反語として捉えるならば、「みえない明日」を強調するための「くもりガラス」となり、非常に屈折した表現であるといえる。「愛しても、愛しても、ひとの妻」「自分の妻」に対して裏切り行為をしておきながら、「他人の妻」には惜しみなく愛情を注げることに、身勝手さと理不尽さを感じる。しかしまた、これを逆に考えるならば、「他人の妻」だから愛せる、或いはここでの「愛する」ことの条件が、あくまで「他人の妻」であることと捉えることができる。「抜いた指輪の罪のあと、噛んでください、思い切り」結婚指輪を抜くことに象徴されるのは「背徳感」と「罪悪感」であり、しかもそこを「噛んでください」と相手に要求しているところに、自虐性と自己憐憫がある。しかしそれは罪の代償とはなりえない。「明日はいらない」刹那的で退廃的な表現の中に、陶酔した自己憐憫が感じられる。「せめて朝まで腕のなか、夢をみさせてくれますか」「朝までいっしょにいられない関係」であることを承知していながら、それを要求する「ないものねだり」の心理に、幼稚な甘えがある。いずれは別れるべき相手であるという覚悟がないのだが、しかしそれを知ってはいるらしく、だからこそ「夢」を見たいという。そこに自己矛盾が生じるのだが、矛盾と捉えていないようである。考察この世界には「ひとの妻」と人目を忍ぶ「卑屈な逢瀬」があって、それを奪い取ってでも正式に「自分の妻」にしようという積極的で建設的な愛の姿勢がみられず、「さだめ哀しい」或いは「春はいつ来る」と常に受身な諦念があり、さらにあくまで屈折した罪悪感と自己憐憫というステージで、じっとりと湿っぽく展開されている。・・・と、いえるのではないでしょうか・・・。
September 10, 2006
「日曜になると体調が悪いの。」 Aさんが私に言いました。 すると同期だったM君が聞いていたらしく、ずうっと離れた場所から「あ、それは子供だよ。原因は。」と、口を挟んできました。 Aさんはうつむいて、もう何も言いませんでした。 私は人の話に割り込んでくる無神経さ、人の心の中に平気で踏み込める図々しさを持った人を、心から疎ましく感じるのです。 確かにAさんの心の裏側には「子供」に起因する苦悩があるのですが、そこをダイレクトに指摘して、どんな効果があるというのでしょう。 むしろそこを察して、傷つけないようにしながらことばをかけることがいかに大切かを私は感じるのです。 「慰められた」と感じるだけで、人によってはさらに傷つくものです。 さりげなく、しかも相手の痛みを洞察する心をもって、やさしく撫でてあげるようなことばをかけてあげられたら、と思います。 最近私は、人間であるからには、誰しもが不幸を背負っていて、完全な幸福というものがありえないように思えるのですが、でもだからこそ、お互いにやさしく接することができるのではないか、と思うのです。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」ロマ12:15
September 3, 2006
一方的な会話につき合わされることほど、ウンザリするものはありません。 新聞の集金に来た女性は、自分の3人の息子のうち中三と中一の二人の息子のクラブ活動での活躍ぶりや、夏休みにその二人が自転車旅行したこと、急に背が伸びて180センチにもなったこと、足は29センチで靴を買うにも「万金がかかる」とか、私が知りもしない子供たちの、訊きもしないことをいつまでも喋り続けるのです。 私は職業柄、相談を受けて話を聴く立場にいますが、家でまで初対面の人の家族のことを延々と聞かされるのは苦痛です。 しかし彼女はそんなふうには思っていず、反って「親しく話しができた」というくらいにしか感じていないことでしょう。私が嫌な顔をしないからなのですが、本当は早くお引取り願いたいのです。 「会話を楽しむ」ということは、難しいことです。
September 1, 2006
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