全16件 (16件中 1-16件目)
1
桐壺帝の女御として入内なさったのは、ご寵愛の深かった亡き桐壺の更衣に面差しが似ていらしたからでした。 源氏の君も幼い頃からおそば近くにおいでになったせいか、折につけ親愛の情をお示しになります。 お患いなされて、藤壺の宮がお里下がりなさいました。 ところが、思い当たるふしがおありなので、宮は気が気ではありません。 三ヶ月になりますと、もうはっきりと傍目にも分かるようになります。 そうこうするうち、宮は無事に男皇子をお生みになり、源氏のお子とはご存じない帝はたいそうなお喜びようで、源氏の君を後見として若宮を春宮に、また藤壺の宮を中宮にお立たせになるのでした。 けれども中宮は、帝や世間を欺いておいででもあり、「わが身はさるものにて、春宮の御ために かならず よからぬこと出で来なん」と、執拗に逢瀬をお求めになる男君から逃れ給うため、ご祈祷をおさせになり、なんとか思いとどまらせようと手を尽くしておいでなのです。
July 30, 2006
一人の若い女性と知り合いました。彼女は私をじっと見ながら「最近離婚しまして」と言うのです。私はことばに詰り「そうでしたか」と応じました。彼女が病気に苦しんでいるとき、夫はなにもしてくれなかったのだと言います。そんな彼に、「これではだめだ」と、見切りをつけたのだそうです。私は彼女に「勇気がありますね。よく決断なさいましたね」と、賛嘆しました。すると彼女はそれまでのことを、お互い名前もよく知らない私に、こまごまと話し始めました。友人たちの中で最初に結婚したのが彼女であり、離婚を経験したのも彼女だけなのだそうで、話しを聴いてくれる人がいないのかもしれないと、私は思いました。そして多分、病気のときに気遣いをしてくれない、或いは家事に非協力的であるというだけの、いわばありふれた理由で離婚に踏み切った彼女に、理解ある意見をよせてくれる「同性」も少ないことだろう、とも思いました。でも私は思うのです。夫に対しての不満や愚痴の中に暮らすよりも、それらを潔く振り捨てて、新しい自分の生き方を選択した彼女に、私はエールを贈ります。男性の多くが、彼女の元夫のような女性依存タイプであるとしても、男性に媚びない彼女の生き方はすてきだと、私は思うからです。
July 29, 2006
庭に咲いた、大ぶりのゆりです。光の加減で花粉の色が変わって見え、きれいなので上げてみました。「うるわしの白ゆり」という讃美歌があります。クリスチャンの葬儀では、亡くなった方が愛唱された讃美歌を歌いますが、母方の伯母が亡くなったとき、この讃美歌を歌いました。ゆりの咲く季節になると、若くして亡くなった伯母のことを思い出します。
July 28, 2006
私の作品第一号です。麻に木綿の入ったやわらかい風合いの布地で、こげ茶の細いストライプが入っています。上にフレンチ・スリーブのプル・オーバーを組み合わせてみました。
July 20, 2006
清少納言は「秋は夕暮れ」がすてきと書いていますが、私は夏至を少し過ぎたあたりの、ゆっくりと暮れていく夏の夕暮れ時が好きです。 真っ赤な太陽が沈むダイナミックな夕日もいいのですが、私が好きなのはお日様が顔を出さない、高曇りで薄暗い感じのする夕方です。 薄暗くはあっても日が長いので、まだ点灯するほどではないのですが、それでもそんな日は早くに街灯がともり始め、外を流れる車のライトがしだいに多くなり、夏至という季節と時の過ぎ行く気ぜわしさとの間に、ちょっとした時差のようなものを感じさせるのです。 私はそういった早送りの時間の外で、しずかに暮れていくさまをぼんやりと眺めながら、平穏なひと時を過ごすのが好きです。 「つるべ落とし」と言われる秋の夕暮れは、私にはなんだか切ないような寂しすぎるような気がするのです。
July 17, 2006
「あらゆる悪意の中で、女の悪意ほど耐え難いものはない。女のかんしゃくほど始末に負えないものはない。獅子や竜と住むほうが、悪妻と暮らすよりはましである。悪意に満ちた女はその形相が変わり、顔つきは熊のように不機嫌になる。物静かな夫が口やかましい妻と暮らすのは、まるで老人がその足で砂丘を登るようなものだ。悪妻は、夫の気持ちを卑屈にし、顔つきを憂鬱にさせ、心を傷つける。女から罪は始まり、女のせいで我々は皆死ぬことになった。悪妻に言いたいほうだい言わせるな。妻がお前の指図に従わないなら、彼女と縁を切れ。」シラ書25章ではこのように、悪妻について男性の立場から一方的に書かれているのですが、この「女」と書かれた箇所を「男」と読みかえると、どんな文言になるでしょう。「あらゆる悪意の中で、男のわがままほど耐え難いものはない。男の支配欲ほど始末に負えないものはない。獅子や竜と住むほうが、暴力的な夫と暮らすよりはましである。傲慢で悪意に満ちた男はその形相が変わり、顔つきは豚のように下品になる。物静かな妻が口やかましい夫と暮らすのは、まるでカミナリにびくびくするようなものだ。悪夫は、妻の気持ちを踏みにじり、卑屈にし、顔つきを憂鬱にさせ、心を傷つける。男のわがまま、甘えから罪は始まり、男の無責任のせいで家族は皆死ぬことになった。悪夫に言いたいほうだい言わせるな。夫がお前の意見に耳を貸さないなら、彼と縁を切れ。」逆も「可なり」です。
July 16, 2006
カンタータ35番の中の器楽曲です。ニ短調ですが華やかで親しみやすく、リズミカルで踊りだしたくなるような曲です。 独奏楽器のオルガンは高音で、装飾音がフリルのようにかわいい感じですが、メリハリがあって、どこか現代的な音楽という印象を受けます。 私は、カメラータ・アカデミカ・ザルツブルグの演奏とアーノンクール指揮のウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの二種類のCDを持っていますが、前者はゆっくりした演奏で多少メリハリにかけるかもしれません。後者は淡々とした速めの演奏ですが、古楽器であるところが気に入っています。1)サー・ロジャー・ノリントン指揮 カメラータ・アカデミカ・ザルツブルク DECCA POCL-19142)ニコラウス・アーノンクール指揮 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス TELDEC BACH2000
July 15, 2006
唐招提寺ブランドの「鑑真香」です。木か竹の皮を模したもので編んだ入れ物に入っていて、なかなか趣があります。薫くと白檀が際立ち、すずやかで上品な香りがします。香立ては錫製の桜の花で、大きさは実物の桜の花と同じくらいでしょうか。早朝3時ころに画像入りで書き込みをしたのですが、なぜか写真が数分で消えてしまい、やむなく削除を繰り返しました。ご覧下さった方には、失礼いたしましたことをお詫び申し上げます。この画像も消えずに残っていてくれるといいのですが・・・。
July 13, 2006
Nさんは何年か前にご主人を亡くされた、子供のいない50代後半の女性です。 死別なさった当初は毎日、店を開けるとほとんど同時にやってきては、からだの不調を訴え、身の不幸を嘆きました。 今日も今日とて「最近二箇所で不幸があって行ってきたけれど、悲しい思いをして、また物思いに沈んでいる」と言っては嘆きます。 来るたびに嘆き悲しみ、まるで自ら悲しいことを求め、自己憐憫に浸ろうとしているように私には感じられ、彼女の話を聞くたびにとても憂鬱になるのでした。 私はこれまでの彼女は、不幸とは縁遠い平穏で幸福な生活の中に生きていたのではないか、と思いました。求めても得られない哀しみ、喪失感や不安感、魂の次元で飢えるもの、そういったものにかつて出会ったことがないからこそ、こうした不幸になすすべもなく戸惑っているように感じたのです。 区内で生活苦から餓死した人のニュースが報道されたことがありました。 そのときNさんは親しい友人に「自殺の方法をひとつ覚えたよ」と言って、その友人を泣かせたことがあったそうです。 本人の口からそれを聞いたとき、私は彼女の人間性を疑いました。 「悪い冗談」というものです。いいえ、「卑劣なせりふ」といった方がいいでしょう。 自分を心配してくれる心優しい友に対して言うべき言葉ではない、それはむしろ「裏切りに近い」と、思ったからです。 いつまでも同じところを彷徨っていないで、少しでも光に向かって頭を上げよう、立ち直ろうとする健気さ、善良な人の誠意や親切に甘えてばかりいてはいけないという自立心・・・そんな前向きに生きようとする力のないことが、残念でなりません。 「死」を悲しんでばかりいるのではなく、「死」を出発点として「生」を眺めることが大切なのではないでしょうかと言うと、Nさんは「そうなれるでしょうか」と力なく言いました。 「なれるか」ではなく「なりたい」と、自分から求めていかなくては、決して与えられないのではないか・・・私はそう思いましたが、なにも応えませんでした。
July 11, 2006
我が家で収穫したさくらんぼです。甘みが濃く、おいしいものができました。このザルに3回ほど採れ、お隣にもおすそ分けできるほどでした。
July 10, 2006
プール教室が終わった後は、併設されたレストランでお昼をいただいてから帰ることにしています。 今まで気にかけていなかったのですが、最近そのレストランのBGMが、クラシックに変わっていることに気がつきました。 ところがその音楽には統一性がなく、ヴィヴァルディの室内楽の後にブラームスの交響曲という具合で、しかもどれもさわりの部分だけなのです。 室内楽曲にはきびきびした主張がなく、プロらしからぬ演奏であることが私には気になるところですし、何よりブラームスやベートーベンなどドイツ系の、エネルギッシュに暗い交響曲は、楽しいランチの場にはふさわしくないように思いました。上品なヘンデルか、明るく弾むようなモーツアルトの喜遊曲あたりがいいのに・・・と。 でも、いい演奏だからといって食事時に聞き惚れるということはありえないでしょうし、まして一楽章だけではやはり物足りないわけですから、つまるところBGMは聞こえるか聞こえないか程度の、気にならないものがいいのかもしれない・・・などと、ひとりで苦笑していました。
July 10, 2006
「鑑真和上展」に行ってきました。 和上の坐像は私が思っていたより小さく、暗い展示室のほのかな照明の中で、静かに瞑想なさっておいででした。 その淡い光のせいか、正面からのお顔は優しく微笑んでいるようでしたが、少し右から眺めると憂いているように見え、横からでは苦悩の表情をにじませているようにも感じられました。複雑なその表情の中には、私が「モナリザ」に感じる皮肉さはなく、枯れた哲学者のような雰囲気がありました。 出口でお香をひとつ、買いました。 竹の皮かなにかで編んだ、15~16センチほどの筒型の入れ物に入っており、丁字と微かに沈香、そしてほのかな白檀の香りがします。 家に帰って早速、季節はとっくに過ぎているのですが、さくらの花の香立てを選びました。さくらの花を模した錫製の小さな銀色のもので、5つの花びらの真ん中の、柱頭の部分に線香を立てるようになっているかわいいものです。 唐招提寺ブランドのお香は、焚くと白檀がひときわ香りたち、その控えめで上品な香りに、私はすっかり嬉しくなりました。 薫きものをくゆらせ、立ち上る淡い煙を眺めては、古人の奥ゆかしさにしばしうっとりとした時を過ごしました。
July 8, 2006
ソーイング・ビギナーの私がここ一ヶ月の間に縫い上げたものは、フレアスカート5枚、カットソーのプルオーバー8枚、パンツ6枚。トライすればできるもので、自分の着るものだけでなく、母のパンツやポシェットを縫っては「あんたがズボンを縫うなんてね~」と感心されたり、友人のスカートを縫っては「あなたって薬剤師じゃないみたい!」と、おかしな褒め言葉をもらったりしました。 私にとっては、ひとつの型紙を使っても、布地によって出来上がりの表情がさまざまに変わるところがとても楽しいのです。 同じコットンでも薄くて柔らかいものは肌触りがいいだけでなく、風にスカートの裾がなびいてとてもエレガントですし、細い糸であってもしっかり織られたコットンは、適度な重さがあるせいか裾がすとんと落ち、それがからだの動きについてくるところが優雅です。灰色がかった紺のチェック柄にエンボス加工の入った布地では、適度な広がりが出るのですが、色に落ち着きがあるので甘すぎず、満足できる仕上がりになりました。 中でも一番意気込んだのは、シルク・シャンタンで作ったスカートです。これは色を選ぶのにとても迷い、結局一番無難な「黒」に決めました。 布地に張りがあるので、出来上がったときはちょっとロマンチックかな・・・と不安になったのですが、着てみると意外に上品でいい雰囲気になり、すっかり嬉しくなりました。 パンツでは、初めて袋ポケットをつけてみました。麻の生成り、生成りに白のストライプ、コットン・プリントなどの布地でショートやロングを作りましたが、同じ型紙でありながら、それぞれに主張のある個性的なパンツになりました。 「何事も、やってみなくてはわからない。布地も私も!」そう実感しています。
July 7, 2006
「ワイヤーロープのように太くて強い絆、ですか」と、友が言います。私は「うふふ」と笑って・・・「しっとりとしたツヤのある細い絹糸でできているのに、他人(ひと)が引きちぎろうとすると、その人の手指に食い込んで傷を負わせるような、そんな糸」
July 4, 2006
くも-2-かわいそうなことをしたと、私は思いました。しかしそれにしても、どうして他の場所に移動しなかったのか、と思います。くもに大脳などないのですから考えることはできませんが、もしこれが人間だったとしたら・・・と、私は考えました。人間だったとしたら、とても愚かなことだと思いました。不毛な場にしがみつくよりも、他所に活路を求めることが大事ではないでしょうか。ことによりけり・・・かもしれません。しかし、それは単なる「場所」に限らず、自己中心的な価値観や体面、虚栄心など、およそ「不毛」なものに固執するのは愚かな生き方であり、周りの人間をも不幸にする罪深さを孕んでいます。大脳という思考の根源を与えられながらも、くものレベルと変わらない人間がいるのも現実なのではないでしょうか。
July 3, 2006
物干し竿を外に出すと、決まってくもがそこに巣を張ります。くもが大嫌いな私にとっては大迷惑で、まず巣を木の枝で払い、竿をきれいに拭き上げてからでないと、洗濯物は干せません。ずんぐりした体にあの気味の悪い足で、白く清潔に洗い上げた洗濯物の上を歩くかもしれないと思うと、巣に近い部分には吊るすことができないでいます。しかし幸い、ご本尊はお隠れあそばしたままなのでお目にかかることがないのですが、お天気のいい日が続くと、払っても払っても巣がかかっているので、私は毎日それを見るのが憂鬱になりました。どこか違う場所に行けばいいのに、とも思いました。雨が続いたあとの久々のお天気の日、やっぱり同じ場所にくもの巣があります。でもそれは張りがなくたわんで、風に力なくなびいていました。糸も細くて、これでは獲物が逃げてしまいそうです。せっかく張った網を私が毎日せっせと払ったせいで、くもは餓死寸前だったのかもしれません。栄養失調で身を震わせながら、ようやくの思いで糸を吐いたのだ、と私は思いました。
July 2, 2006
全16件 (16件中 1-16件目)
1
![]()

![]()