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きょうの一句。 背高くし向日葵風に揺れにけり 青穹(維史) そして、英語のハイクも一句。 In broad sunshine Cicadas chirp all at once Oh summer has come! これは一昨年つくった「陽白く蝉いっせいに鳴きにけり」の英訳(のつもり)。
Jul 31, 2008
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WBC世界フライ級チャンピオン内藤大助氏の3度目の防衛戦をテレビで観戦した。挑戦者は世界13位の清水智信氏。 清水氏は失礼ながら少年の幼さが残るような風貌で、13位ということもあって、私はもしかすると無謀な挑戦になるのではないかという予断があった。なにしろ内藤氏は過去に対戦者を試合開始24秒でノック・ダウンしている強烈なパンチ力の持主である。 ところが、いざ試合が開始されると、素人目の私が「おや?」と思いはじめた。なんだか内藤選手に落ち着きがない。さかんにフェイントを仕掛けたりパンチを繰出すものの、当っていないのだ。空振りはいたずらに体力を消耗するだけ。片や清水選手はチャンピオンを相手に非常に落着いてみえる。怯みがない。 8ラウンドが終了したとき、会場に3人の審判員のそれまでのジャジメントが発表された(こんなことをするとは知らなかった)。3人全員が、1ポイント差くらいで、挑戦者清水選手の優勢を告げていた。 つづく9ラウンドも内藤選手の劣勢。コーナーに戻った彼の顔に、私はちらりと焦りの色を見た。・・・もしかしたらチャンピオン・ベルトを奪われるかもしれない、と私は思った。 そして10ラウンド目が始まった。 「うん?」内藤選手の勢いがめざましく違うのだ。と思う間もなく、清水選手がダウンした。少年のような顔が天井を向いて、目がうつろだ。 しかし清水選手は立ち上がる。2度3度グラブを交えるが、再び内藤選手のパンチが炸裂、清水選手はロープに倒れ、そのままマットに沈んだ。内藤選手は両腕をあげて勝利を宣言した。彼は泣いていた。そしてコーナーに戻った清水選手も泣いていた。もちろん二人の涙の物語はまったく異なる。 内藤大助氏は、勝利者インタビューに応えて言った。「ビビッター」と。 それからこうも言った。「オレ、ボクシング・センスがないんだ。内藤優勢なんて言われると、まったく駄目で、負けるかもしれないと言われると、いいんだ。ほんと、ボクシング・センスがないんだ」 こんな勝利者のことばも珍しい。会場は笑いにつつまれたが、みな、内藤大助氏のいまどきめずらしい純朴さの虜になっているみたいだった。もちろん私もだ。そして、この純朴な男のどこから激しい闘争心がうまれるのだろうと思った。 「このベルトは誰にも渡さない」と言ったとき、はじめてそこにハングリーな男が我が手で世界をつかみ取って行く意志の力をみたように思ったのだった。
Jul 30, 2008
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近年、欧米では俳句(Haiku)や短歌(Tanka)がたいへん盛んで、学生や一般のひとたちが世界で一番短い定型詩を楽しみながら創作しているようだ。私自身が昨日初めて英訳をこころみて思ったのだが、日本語と英語やフランス語などのラテン語系の言語とでは、成り立ちがまったくちがうので、日本語の五七五、あるいは五七五七七を、英語のシラブル(音節)として成立させようとすれば、じつは容易なことではない。まして季語を入れてという条件のなかでこなすことは至難といってよい。 日本文学の古来から有名な俳句や短歌は数多く英訳されているけれども、その訳は、意味をつたえることを第一に考えているので、じつは英語のシラブルで五七五、あるいは五七五七七となるように訳されているのではない。むしろ自由詩というような型式で、しかも英語詩として美しい調べとなるように工夫と努力がなされている。 大岡信氏が長年にわたって朝日新聞に連載したコラム『折々のうた』は、同紙の顔のひとつとして人気があった。これを大東文化大学教授ジャニーン・バイチマン氏が英訳したものが『ORIORI NO UTA; Poems for All Seasons』として講談社インターナショナルから出版されている。私はバイチマン教授にもう20年以上の知己を得ているが、それだから言うわけではないが、この英訳はまことに美しく、ちょっと目からうろこが落ちるようなところがある。この本を出版した当時の同社部長にプレゼントされた一冊は、いまでも折に触れて読む私の愛読書である。 すばらしい英訳だけども、バイチマン教授にして英語のシラブルで五七五、あるいは五七五七七に翻訳することはできなかったようだ。創作なら可能かもしれないことを、翻訳では意味のみならず情感や、日本語の文学としての「切れ」のようなもの、それを技術の粋といってよいかもしれないが、そういうものが伝わらなくなる。バイチマン教授は、あくまでも翻訳を文学として成立させようとしているのだった。 ところで今やHaikuを創ることがブームとなっている感がある欧米では(講座をもつ大学もあるようだ)、日本の古典俳句はもちろん創作にあたっての基礎をおしえているのであろうが、私が目にした一般の人たち(つまり文学者ではないという意味だが)の作品は、日本人の俳句とくらべると、情緒的というより自己の意思を強く発現するものである。季語はないことが多い。自然に託して自己を語るというのではなく、感情もあらわに・・・と言ってもよいかもしれない。しかし、私は、ある固有な文化のなかで独自の形式を保って来たものがいよいよ国際化し、文化圏を脱出して万人の共有形式となるということは、そういう「崩れ」を意味するであろうと思う。そして、それを良しとしなければならないだろう、と。 そのような文脈において一つの文学的な成果をあげたのはアレン・ギンズバーグであろう。彼はその晩年、禅に関心をもっていたが、俳句にも関心をもってその影響下に非常に短い詩を連作している。彼はその自分の短詩をHaikuと言っている。アレン・ギンズバーグは、俳句から始まってまったく新しい詩形式を創造したとも言えるが、そこに国際文学となった俳句(Haiku)の姿があるのだと言ってもよいのではないかと私は考えるのだ。 さて、そんな大上段の構えでは全然ない。私の英語のハイクである。日本人の私が英語でハイクをつくろうというのだから、せめて季語を入れ、英語のシラブルの五七五形式にしようというわけである。情緒・・・そこまでは行きませんな。それに、私は情緒的なことがニガテときている。まあ、ゲーム感覚で創ってみようというのです。 では、きょうの英語ハイクを六つ。Under blazing sunWhat difference does it makeIf heaven-hell be?An insect cageSingle fireflyHangs under the eavesHydrangeaBlue of it becomes denserRainy TokyoSummer festival---Girls, boys in 'kimono'Fours, threes, or fivesA monstrous whaleIllusion wriggles, wriggles---It's the dark nightAs I look backAutumn steps quietlyAn aster blossoms-----------------------------------------Copyright (c) 2008 Tadami Yamada. All Rights Reserved.
Jul 29, 2008
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自作の俳句三つを英訳してみました。英語のシラブル(母音で区切られた音節)を五七五にするために、もとの句のイメージを少し変えました。An evening glowTo open my armsLike a swan's wingsKeep saying good-byDeep in my heart aloneThe evening glowA cicada fallsI keep standing the wayBad luck the day---------------------------------Copyright (c) 2008 Tadami Yamada. All Rights Reserved.
Jul 28, 2008
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午後、東京西部は遠雷がとどろいていたが、2時過ぎにポツリポツリと雨が降出した。私は自転車で近所に猫の食糧を買いに出ていた。パンツの膝を濡らす雨染みが次第に数を増す。西表島のあたりに台風8号があって、西北に進んでいるのだと言っていた。その影響ではあるまいが、この暑気をしずめるほどには降ってほしいものだ。 ・・・しかし、結局、昨日同様にたちまち晴れてしまった。それどころか・・・ 夕方6時半、外の様子を見ようと障子戸をあけると、隣家の二階の壁が炎に照らされたように真っ赤に染まっていた。「火事か!」と、一瞬ハッとして辺りを見回した。夕焼けであった。さきほどの雨はすこしばかりだったけれど、空中の埃を流してしまったのだろう。空気が澄んでいるので、夕陽が燃えるように射しているのだった。裏山の木々の葉叢が、いつもは煙ったようにぼんやりしているのに、葉の一枚一枚が見えるほど輪郭をあきらかにしている。 「夕焼けが、火事のようだよ」と、私は誰にともなく言った。 俳句の季寄せでは、夕焼けは7月の季語である。なぜかは知らない。空を真っ赤に染める壮快さが夏にふさわしいと感じるからのようだが。 夕焼けに翼のごとく手をひろぐ 青穹(維史) 夕焼ける彼岸に向い手をひろぐ 青穹 さらばとは胸にたたまん夕焼けや 青穹 NHK・BS1で『大リーガー野茂英雄の軌跡』を見た。 13年間アメリカ・メジャー・リーガーとして活躍した野茂英雄氏が去る14日に引退を表明した。「悔いのない野球人生だったと言って引退するひとがいるが、私は悔いを残して引退する」と。 私は、勝負師としてひたすら前進する野茂氏の意欲とその寡黙さに惹かれていた。バナナ・ボートをもじった歌が「ヒデーオ! ヒデエ~~オ!」と球場に流れ、ノモ・マニアの子供達がトルネード投球の格好を真似し、ノーヒット・ノーランを達成寸前には敵方のファンまでもが彼の応援にまわってしまった等々、数々の忘れられない光景を残して、彼は去って行った。
Jul 27, 2008
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日暮れ方、庭木の葉叢がざわめいてザーッと雨になった。連日の猛暑に、この雨を待っていたような気になって、しばらく雨音に耳をかたむけた。しかし、ものの10分、ほんのお湿りであがってしまった。「無情の雨」というのは、雨が降ってほしくないときに長々と降り込めることを言う。降ってほしいときに降らない雨は、なんといえばよいか。気をもたせて通り過ぎてしまうのも、無情の雨といいたい気がする。 ところで過日の日記に、今年は庭にやってくる虫が少ないと書いた。夕刊をとりに出ると、柿の木から蝉がまるで転がるように飛び立った。人の気配に驚いたのであろう。それであらためて気がついたのだが、今年は蝉の鳴き声が聞こえないのだ。我家は裏手に山をひかえているので、毎年、時がくると沸き上がるようにいっせいに鳴き始める。しかし今年はその鳴き声がない。なにかの異変か、それともまだ時に至らずというだけなのか。 鳴きやめて飛ぶ時蝉の見ゆるなり 子規 人病むやひたと来て鳴く壁の蝉 虚子 蝉まろび我たちすくむ今日の凶 青穹(維史)
Jul 26, 2008
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炎天に蓼食う蟲の機嫌かな 一茶 なるほどねー。熱風渦をまく昼日中、嫌いと言おう好きと言おう、さほどの問題ではありませんや。みごとな一句です。 それにしてもでござんす。ほんとうにアッチーよ。東京は午後に雨になるかもしれないとの予報に、ちょっと用事をすませに外出した。歩いているかたわらを自動車が通り過ぎようものなら、そこから放射される熱気は、まるでガスバーナーを向けられたようだ。思わずたじろぐ。 炎天に地獄極楽あなおかし 青穹(維史)
Jul 25, 2008
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私の視力はたいへん悪いのだが、それでも目は商売道具なのでタウリンを多く含んだイカをよくたべる。刺身や塩焼き。あるいはフライパンにオリーブオイルを大匙半分ほどいれ、ニンニク1個のスライスとエストラゴン(タラゴン)で焦がさないように香りをつけ、イカを丸ごと入れてサッと炒め(イカがふくれたら、それでよし)、火を止めぎわに醤油をフライパンの縁に回しいれてできあがり。エストラゴンが入手できない場合はバジリコでも。・・・と、料理方法はいろいろあるのだが、こんなことを書きはじめたのは、昨日たまたまNHK・TVの「ためしてガッテン」を見たのだ。イカをおいしく料理する方法についてやっていたのである。なるほどとうなづきながら、自分の料理法に誤りがあったことも分った。で、忘れないうちにと、さっそく今夜の夕食のためにイカ(スルメイカ)を買って来て、番組の教示とおりにやってみたのである。 目からウロコとはこのこと! やわらかい、イカの風味満点の料理にしあがったのだ。まさに、ためしてガッテン! じつは上にのべたイタリアン・エストラゴン風味のイカのソテでは、私もやっていたにもかかわらず、そのことをイカ料理全般のコツとしては意識していなかったのだった。 それではイカをやわらかく煮るコツ。 ワタを抜いたイカをまるごとゲソとともに水から煮る。ほどなくゲソがむくむくと動きだし、ついで胴のほうがふくらんでくる。それでできあがりだ。つまり、このときイカは60℃になっていて、温度がそれ以下だと生臭いし、それ以上だと硬くなるというわけだ。その見きわめが水から煮て、いま述べた状態になったときなのである。見た目にもはっきり柔らかいことがわかる。 イタリア風にソテしたときに、私は胴がふくらんだときに火を止めていたが、それでよかったわけだ。ただし、私がやっていたのはこの料理のときだけ。ほかのときはカラッキシ。 こうして煮たものをサラダにするもよし、別に作った煮汁に浸すもいい。私は、今日は、煮汁に浸した。 番組では刺身のつくりかたも教示していたが、それを試すのは次の機会にする。焼き方については触れなかったが、60℃が目安と知れば、あとはおのずと判断できる。
Jul 24, 2008
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幻の鯨のたうつ闇夜かな山田維史 《幻鯨》 コンピューターグラフィックTadami Yamada 《The Illusion of Whale in the Dark Night》 CG
Jul 23, 2008
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暑い暑いと口に出してもしかたがないので黙って耐えているが、きょうは暦のうえでは一年中でいちばん暑い「大暑(たいしょ)」である。暑いといっても家の中にいれば冷房がきいていて快適・・・のはずなのだが、今年はちょっと事情が変った。89歳の老母(90歳だと主張している)は、冷房が身体にはきつすぎるようで、家族はそれにつきあって冷房せずにいるのだ。窓を開け放ち、打水をして、ガマン、ガマン。 私の仕事部屋だけは、さすがに冷房し、この世の極楽をきめこんでいる。「そのかわり、しっかり仕事をセーよ!」と、無言の意思がつきささる。 朝方、近所の子供達のにぎやかな声がきこえていた。終業式らしい。あしたから夏休みか。 私は子供達の声が街のなかにあるのが好きだ。「うるさくて嫌いだ」と言って、さも自分が正しいことをしているかのように公共の場から子供達を閉め出そうと画策する人がいる。人にはそれぞれ事情があり、聴覚過敏の人もいるだろうし安静にしなければならない病人がいる家庭もあろう。だが、子供の幸せな笑い声が聞こえない町は、やはり不自然。むしろ社会的にはトラブル・メーカーとなる人間的な異常性を内包しているといえるかもしれない。 私が散歩していると、学校帰りの見知らぬ子供達が、「こんにちわ」と挨拶する。私も、「こんにちわ」と返す。ただそれだけのこと。・・・私はこの子たちが町からいなくなれば良いなどとまったく思わない。 君たち、元気な声をだして、楽しい夏休みをすごしなさい。
Jul 22, 2008
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ここ数日来、庭に数匹の蝶が飛来している。もんしろちょう、あげはちょう、せせりちょう。今朝、といっても9時半を過ぎた現在でもまだいるのだが、窓辺に「つまぐろひょうもん」が来ている。羽をとじ、10分ほどおいては広げ、団扇でのんびり風をいれるように、ふわりふわりと動かす。そしてまた閉じて、じっとしている。もうどのくらいの時間が経つだろう。 蝶は死者の魂という考えがヨーロッパにも日本にもある。だとしたら盂蘭盆会のこの時季、私を訪ねてくる死者たちは誰だろう。・・・まあ、しばらくゆっくりお休みなさい。きょうも暑くなりそうだ。
Jul 22, 2008
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晴れてはいるが薄曇り。雨になる心配もなさそうなので、家の三方の草取りをした。秋に種が飛んでは来年がめんどうだ。 私の仕事ぶりを猫のリコとフクが塀のうえを歩きながら見ていた。ときどき何かを話しかけて鳴くので、「いいこ、いいこ。そこで見ていてね」と応えながら。1時間半ほどで終了。意外に早くかたづいた。 夏来てもただ一つ葉のひとつかな 芭蕉 (注)「一つ葉」は山間の樹陰などにはえる羊歯植物。 近隣の町内会が合同で盆踊りをおこなうと言ってきた。26日が本番で、その前に練習をするのだそうだ。私は遠慮するけれど、盆踊りの練習というのがなんとなく可笑しかった。 四五人に月落ちかかる踊かな 蕪村
Jul 21, 2008
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レオナルド・ダ・ヴィンチが素描(デッサン)によって風景の研究をはじめたのは1500年代のこととみられる。ウィンザー城王室図書館所蔵のいわゆるウィンザー手稿にふくまれる『アルプス山麓の渓谷を襲う嵐』は、1503年から4年にかけて描かれたものと考えられているが、ここには私が注目する「線描による雨」が描かれている。非常に高い山頂から遥か下方の小村を俯瞰しているのだが、じつはこのきわめて「それらしき」スケッチはレオナルドの空想であろうと考えられる。レオナルドはアルプス超えを夢見て、空想旅行をしていたようだ。実際は見たこともない風景を、こうして如何にもそれらしく描いているわけである。 したがってここに描かれた雨をともなう嵐も、現実ではない。私はここに注目せざるをえない。ヨーロッパ絵画において、このレオナルドが描いた雨から、線描の雨が発展しなかった理由としてである。この素描研究が、公表を目的としないきわめて私的なノートであった事実とともに。 私が、いま、たいへん大胆な見解をのべていることは承知している。だが、このことは、私自身の今後の研究のためにも頭にとどめておくべきだと思う。 では、私たちが安藤広重その他の浮世絵師の作品で見慣れている「線描による雨」は、日本では誰が一番初めに考えついたのであろう。 この疑問に応えるのは、そうたやすいことではない。今なら、幼稚園児でも、青いクレヨンで棒のような雨を描くかもしれない。けれども、それはそのように雨を表現することが日本文化のなかに定着し、ふざけた言い方に聞こえるかもしれないが、「遺伝子」として表現がつたわっているからである。 安藤広重(1797-1858)は幕末の絵師である。浮世絵にかぎっても、彼より半世紀以前の鈴木春信(1725-70)は、すでに線描の雨を描いている。彼が雨を描いた作品は、じつは私が「雨の画家」と呼ぶ広重より、数としてはずっと多い。『雨夜の宮詣(見立蟻通明神)』のような名作もある。春信といえば誰でもが思い出す絵である。 夕立がザーっとやってきて風を巻き起こし、三人の女たちの着物の裾を翻している『七小町』を描いた勝川春潮は生没年不明ながら春章(1726-92)の弟子だから、春信につづく絵師。 美人画の喜多川歌磨(1753-1806)も雨を描いている。私が調べたかぎりわずか2点ながら、そのうちの3枚つづきの『雨宿り』はすばらしい。 浮世絵を離れてはどうだろう。 レオナルドのウィンザー手稿には、先にあげた嵐の素描以外にも数点の嵐の研究素描がふくまれている。そのなかに、一塊の黒雲からなにやら放射状に無数の短い線が空中に出ている図がある。雨とは思えない。なぜなら、それらの線はかならずしも下にむかって放射してはいないからだ。たぶん、嵐をはらんだ雲のエネルギー、あるいは風力と考えられる。・・・この素描で私が連想するのが、レオナルドの素描より200年も前に制作された『松崎天神縁起』(1311年;応長元年六月制作)である。菅原道真が太宰府に流罪になり、その怒りが雷となって都を恐怖に陥れる、いわゆる天神信仰縁起絵巻である。ここに黒雲に乗った雷神が怒髪振り乱して都に安住する貴族の屋敷を襲う場面がある、よくみるとその黒雲から稲光とともに恐ろしいエネルギーが無数の線となって放射しているのである。レオナルドとそっくりな表現である。 私たちは、とりあえず、黒雲から発するこのエネルギーの線描を記憶しておこう。 だが、これは、厳密に言って、雨ではない。雷雨とも考えられるが、ひとまず、それを否定しておこう。 さて、次の資料は『松崎天神縁起』絵巻から300年以上後の1659年(万治2年)に刊行された、お伽草子『伊曾保物語』である。『伊曾保物語』はイソップ物語が日本に伝来し、日本の物語として翻案されたお伽草子である。いまそのことを語る余裕はないが、私は、国会図書館が所蔵するこの万治本の下巻第二十七「かわらけまんきをおこす事」の挿画に注目する。 右上に黒雲がかかり、そこに雷神が怒りも激しく太鼓を打ならしている。地上には大きな盆のうえになにやら並んでいるが、おそらく「かわらけ(土器)」であろう。そして、黒雲から無数の「線」が降り注いでいる。これは『松崎天神縁起』のように、黒雲のエネルギーの放射であろうか? 私は、これは「雨」だと判断するのである。それは、その線が右上から左下同一方向に地上に達する長さであるという以外に理由はないが、雷光が描かれていないというのも理由である。雷神の威光を表現する第一は稲光であろう。それは『松崎天神縁起』でもそうであったが、同じ天神信仰縁起絵巻の『北野天神縁起』絵巻においても稲光なのである。 もしこの『伊曾保物語』の「線」を雨だとすれば、1600年代の日本の絵画史上には「線描の雨」が現れていたことになる。そしてその表現方法は、『松崎天神縁起』に見られるように黒雲のエネルギー表現から発展的に生まれた表現である、と私は考えるのである。【追記】 私が安藤広重を「雨の画家」と呼ぶ由縁は、雨が描かれた浮世絵のなかでも、広重の雨はことのほか繊細だからである。広重は数多くの旅の名所絵のシリーズを残している。なかにはレオナルドのように空想ないし先人の種絵をもとに描いた作品もあるが、彼を葛飾北斎につづく風景画家として一躍巷間にその名を高からしめた『東海道五十三次』は、天保3年(1832)8月に幕府の八朔御馬献上の一行の一員として、実際に初めて東海道を旅しての見聞を描いたものだ。先輩格の北斎が、奇抜なデザイン感覚で風景を処理したのにくらべ、広重は実際の見た目を重視した。 彼の雨が線描表現にもかかわらず、象徴を超えた雨の情緒をつたえているのは、実際に見ているということが大きく影響しているだろう。そしてもう一つ、私は、かつておそらく指摘されてこなかったであろう事実を述べておこうと思う。それは、版画を彫る、彫り師の意識と技量の問題である。 原画をいかに忠実に版画として再現するかは、彫り師と摺り師との技量にかかっているかは言うをまたない。しかし、ここに、原画を読み取る能力、それを意識する能力も問題になるはずだ。 雨を線によって表現した浮世絵師は本文で述べたように広重の先人として何人か存在する。しかし、その雨の「線」をよくよく注意して観察すると、それらの先人の雨の線は、広重のそれとは隔絶の感があるのである。ひとことで言うなら、「粗い」のである。技術が広重の彫り師に劣るのか? いや、そうではあるまい。なぜなら、喜多川歌磨の女の鬢の髪の繊細な彫りは、驚嘆にあたいするではないか。そのような神技の彫り師にして、雨となると、「象徴」の域を脱していないのである。原画そのものがその程度であったのだろう。 だが、広重にいたって、彫り師は俄然、そこに表現されている雨にかつてない様相を認めたのだ。象徴の域を超える、雨の線である。 広重の雨を表現する線は、誰よりも細く繊細で、画面いっぱいを覆い尽くす数の多さだ。そしてそれらは薄墨で刷り上げられている。・・・私は、これらの版画の陰に、彫り師と摺り師の「雨の線描」に対する鋭い意識があったことを他との比較のうえで指摘しておきたい。
Jul 20, 2008
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私は寝付きも寝覚めもいいほうで、床にはいって枕もとに積んである本を適当にとってページを繰ってはみるが、たちまち放りだして寝入ってしまう。冷房も切ってしまうので、連日の蒸し暑さはほとんど朝方までつづく。 もう少しで明けるというころ、ちょっと目覚めたついでに窓をあけると、さすがにその時刻には蒸し暑さもしずまって、ひんやりした空気が室内にはいってくる。その昧爽(まいそう)の冷気を目をつぶったまま肌に感じると、私はいつも子供時代の夏休みのラジオ体操にでてゆく朝の空気を思い出すのだ。 山峡の鉱山住宅。私の家はすこし高台にあったが、その下の広場にあつまっての体操だった。標高1500メートルの地の朝の空気は澄みに澄んで、時に肌につきささるようだった。・・・その冷気の感覚が寝床の私の肌によみがえるのである。しかもごく短い一時の間である。「あたらしい朝がきた 希望の朝だ・・・」 私の耳にラジオ体操の歌が聞こえてくる。・・・そのかすかな幻の歌声を聞きながら私はまた一眠りする。
Jul 19, 2008
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さきほどの雨は時雨れのようにたちまち上がってしまった。もうしばらく降って、空気を冷やしてくれると良かったのだが。 ところで先日触れた(29、June)雨の絵について、もうすこし書いてみよう。 欧米の美術史上にはほとんど登場しない雨だが、おもしろいことにアマチュア画家(日曜画家)たちは意外に雨を描いているらしいのだ。らしいと言うのは、私がそれらの実物は見ていないからで、しかし試しにインターネットで雨の絵(painting of rain)を検索してごらんなさい。アマチュア画家の作品ばかりずらずらと出てくる。この状況をどう解釈したらよいだろう。 日本の浮世絵には雨の絵、それも名作といってよいものが幾つもある。安藤広重はなかでも最多を誇る。このあいだ書き忘れたが、「近江八景 唐崎夜雨」はまるで水墨画のように墨と藍の濃淡だけで天の黒雲から社の森のある港にまっすぐ雨が降りそそいでいる。雨は黒い細線をまるで幕のように無量描いて表現している。現代抽象画のようでさえあるデザイン感覚。題名にあるとおり、夜の雨である。こんな雨を安藤広重以外に描いた人はいない。その意欲、その才気、その感性、その技量、まったく驚くばかりだ。こういう絵は、アマチュア画家には描けない。いや、プロの画家にも描けなかったのだ。私は安藤広重を「雨の画家」と呼ぼう。 安藤広重を始めとし、現代イラストレーターの三輪典東氏の雨の水紋の諸相のシリーズにいたるまで、とにもかくにも日本には雨の絵があり、欧米にはほとんど存在しないのは、雨に対する情緒がことなるからに相違ない。映画評論家の故淀川長治氏がそのエッセイのなかで、アメリカ西部、たとえばロスアンゼルスなどで通り雨にあって雨傘を買おうと思っても売っていないのだ、と書いている。めったに雨が降らない土地だから、通り雨くらいは皆濡れて平気なのだろう。 傘は4000年前に発明されているが、それは儀式用ないしは日傘であった。英語のumbrellaの語源にその痕跡がある。すなわちumbra、日を翳るという意味である。 雨傘として用いたのは中国がはじめてである。18世紀から19世紀にかけて旅行家ジョナス・ハンウェイがロンドンで雨傘を使用しはじめたとき、人々は男があんなものを、と好奇の目で見たという。日傘・雨傘を売る「傘屋」の初めは、1830年にロンドンに開店した「ジェイムズ・スミス・アンド・サンズ商会」である。つまり、ヨーロッパでは19世紀までは少なくとも男は雨に濡れても平気だったのである。 しょっちゅう雨が降り、「入梅」などという雨雨雨の時期がある日本人と、乾燥地帯の人との情緒に違いがあるのは当然である。日本語には濃密な愛情表現を「しっぽり濡れて」などという。もちろんこれは雨に濡れることではないが、寄り添う男女がたまたま雨に降られても、そこには当然「しっぽり濡れて」という感覚が生まれてくるだろう。「相合い傘」という言葉もあるではないか。東映仁侠映画ではしばしば男同士の相合い傘で、せっぱつまった、やるせない情緒を表現している。 だが、雨を描くということにはもうひとつ別の問題があるのである。しかも、絵画という表現メディアの重要な問題である。それは、「時間」だ。 雨というのは時間をふくんだ現象である。それは「雪」とも異なる。雪の絵は日本にも多いし、欧米にも多い。雪はもちろん時間をふくんでいる現象ではあるが、雪片が舞う光景を時間を止めて表現することができる。しかし、雨はそれが難しい。ターナーの名作『雨、蒸気、速度』は、右上から左方へ降り掛かる雨が、この作者独特の「朦朧体」で表現されている。しかし、もし題名がなかったなら、すぐには雨だと気が付かないかもしれない。少なくとも安藤広重を知っている私たちにとっては、なんとなく物足りないような雨だ。とはいえターナーは、その題名のなかに雨とともに「速度」とわざわざ記しているとおり、果敢に「時間」を描こうと挑戦しているのだ。ターナーの画風として知られる「朦朧」とは、「時間」の謂いといってもよいかもしれない。 時間の問題が欧米の美術史に雨の絵を登場させなかったのは、この歴史の流れが「リアリズム」を追求していたからである、と言えるかもしれない。片や広重の雨は、雨の降る様をみごとに伝えているものの「象徴」なのである。私たちは象徴の作用によって、まるで雨を見ているかのように「錯覚」しているのであって、欧米文化のリアリズムが追究していた気象的実相ではないのだ。ただし、レオナルド・ダ・ヴィンチの素描における雨は、きわめて安藤広重に近い。同じと言ってもよいだろう。レオナルドの素描の雨は、版画としてなら美術史上に発展する可能性を秘めていただろう。しかし、そうはならなかった。ひとつには版画さえもまだ「風景画」にめざめてはいなかったことと、そろそろ誕生しつつあった風景画は、むしろ異国風景への関心、外国旅行の土産の絵葉書のような役目をしていたからである。 同時代のヨーロッパ人と日本人との雨の描写の興味深い比較がある。岩波文庫、清水勲編『続ビゴー日本素描集』は、明治15年に来日したフランス人画家ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(1860-1927)の滞日スケッチを収録している。そのなかに「牧歌 ポールとヴィルジーニ」と題された、日本の若い男女が雨傘をさし着物の裾をからげて腰に挟んだ姿が写された一枚がある。現代の日本人なら、あられもないと眉をひそめるか、反対に大笑いしてしまうような、雨に濡れまいとして若いみそらの太もも丸出しの姿。しかし、この絵が描かれた明治20年当時は、おそらくごく普通の風俗だったのであろう。 この雨中の絵は、ふたりの足元の路面が濡れていることをよく表わす影が描写されている。さて、本書の編者清水氏は、別のページに参考図版として明治41年の岡野栄の『夕だち』を掲げている。じつは清水氏は乳母車が描かれていることでこの絵をとりあげているのだが、私はむしろ「雨」の描写に注意が向う。ビゴーは、雨降りを描いても、傘をさしているからそれと知れるのである。だが、岡野は、線によって雨降りを描写しているのである。まるで広重伝来の日本御家芸のような、あの細い線。この両者の描写のちがいを、わたしたちは記憶にとどめておいてもよいかもしれない。 雨をリアリズムで捉える。このことが欧米絵画史で実現したのは1980年代にアメリカで起ったフォトリアリズム(スーパーリアリズム)においてである。非常にめずらしい例ではあるが、しかしそういう作品が登場したことは見逃しにはできない。 1950年生まれのデイヴィス・コーンという画家が描いた『ヴァラエティ・フォトプレイズ』という作品がそれだ。カンバスにアクリル絵具で描かれたその作品・・・夕闇迫る雨上がりの街路、ヴァラエティ・フォトプレイズと赤いネオンサインの看板が掲げられた建物、その前に駐車するムスタング、雨に濡れた路面に街の灯りが反射している(これは映画でよくやる手法)。驚くべき細部、ムスタングは無数の雨滴で覆われ、雨があがった直後であると知れる。 「写真のようだ」という言い方を一般の方がなさるが、この『ヴァラエティ・フォトプレイズ』という絵はまさに写真のようである。それもそのはずで、作者は街で撮影した写真をスライドでキャンバスに拡大投影して下絵として写し取り、その後、何枚ものスライドを拡大鏡で見ながら不透明アクリル絵具で輪郭描写をし、さらにエア・ブラッシ(噴霧機)によって細部を仕上げているのである。 写真をスライド投影して作品を描くというのがフォト・リアリズムの手法である。このような写実主義が現代アメリカで起ったことについてはここに述べる余裕はない。ともあれ、私の考えによれば、欧米のリアリズム追究の意志が、時間を問題にする雨を捉えそこなったとすれば(それは映画というメディアに一任してしまった)、今降る雨ではないにしても、すくなくとも雨の痕跡のこのうえない微細な表情を、写真を利用することによってようやく絵画になったのである。 一方、日本の線による象徴的な雨は、日本人の雨に対する情緒をたっぷりに唱いあげることに成功したが、じつは現象の実相に迫るというリアリズムを美術史全体のなかで失ってしまったと言えるかもしれない。私は、日本の精神史は幻想にひたされていると疑っているのだ。そのことを今は、雨の絵によって述べてみた。【追記】 時間を描くという命題は絵画芸術のおよばないことであるが、それを承知のうえで意地悪にも小説の挿画として描くことを要求した小説家がいる。『不思議の国のアリス』の著者、ルイス・キャロル(1832-98)である。彼は『不思議の国のアリス』を正式に出版するにあたり、それまで自分で描いていた挿画ではなく、プロの挿画家に頼まなければならないと考えた。そしてジョン・テニエルに依頼した。そのときキャロルはテニエルに注文をつけた。木の枝のうえにいてアリスと会話していたチェシャー猫が、ニタニタ笑いを空中にただよわせながら煙のように消えてしまう、その場面を描くように指示したのである。 なんという意地の悪い注文だろう! 笑い声という「音」、煙のように姿が消えてゆくという「時間性」と、消えるという、つまり見えないものを描くという難題を画家にふっかけたのである。「どうだ、できるか」というようなことだろう。 ヴィジュアル・アートといっても、映画ならできる。しかし絵画には絶対的に不可能な命題なのだ。 可哀想なテニエル。彼はこの意地悪な注文をどうこなしたか。それは皆さんが御存知であろう。マンガのようにコマ割りにした。映画のフィルムのコマのように、時間をコマ割にして描いた。 はたしてキャロルがこの方法に満足したかどうかは不明だが、そうするより他に方法はあるまい。 空中に煙のように姿を消すチェシャー猫と「雨」は絵画上の問題としては同じなのである。
Jul 18, 2008
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台風7号の影響なのかどうか、東京は午後から雨になる予報が出ている。仕事場の窓から北側をのぞむと、隣市の上空を黒い雨雲がおおている。それは東へ移動していて、つまり我家の方向へかなりの早さでおしよせていた。 15分後、黒雲は私の町をおおいつくした。黒雲の重なりがわずかに薄いところから日の名残りのような明るさが漏れて、それが一瞬、窓ガラスに反射して鬱金に燃え、そして徐々に消える。黒雲の下、夕暮れのような光のなかに、鴉が飛ぶ。と、ある種のざわめきが遠くに起り、たちまちザーっと雨がやってきた。 空気はいまだ蒸し暑いが、ゆらめくような風の気配をふくんでいる。雨は一層激しさを増し、その音がときどき遠くから近くへ轟くようにわきあがる。仕事場の窓からのぞむ甍の上は、雨の跳ねで水雲が巻き上がっている。 ただ今、午後1時45分。先日、このブログで雨を描いた古今東西の絵画作品について書いた。そのためでもないが、私はしばし雨の来襲を窓からながめていた。
Jul 18, 2008
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老母は皆と一緒の朝食の1時間半ほど前に、林檎(1/3を擂りおろしたもの)とヨーグルトを食べる。食が細いので、こうして何度かに分けて食べさせているのだ。 その最初の食事をすませ、ひとりテレビで時代劇を見ていたが、何やら私に声をかける。聴き取り難いので、「どうしたの」とそばに行くと、「江戸時代にセルフサービスの食べ物屋があったの?」と言う。 テレビ画面を見ると、町同心が居酒屋で酒を飲んでいる。 「いまね、酒のアテを自分でカウンターに行って取ってきたから・・・当時も現代風なセルフサービスがあったのかと思って。おもしろいなと思ったのよ」 「さあ、どうなんだろう。わからないなー」 で、老母の疑問は当然だと私も思い、さっそく何か手持ちの資料はないかと探してみた。江戸時代の食事や食物、あるいは屋台や飯屋・料亭に関する書物は所蔵しているが、それらのページをぱらぱらと繰ってみても、たとえば居酒屋や一膳飯屋のような店のなかに、客がセルフサービスで食い物をみつくろうことができた店があったかどうかは書かれていない。 母が見ていたテレビ時代劇のように、店に馴染みの町同心(侍)が、気の置けなさで、たまに店主や女中の手をわずらわせるまでもなく自分で、それこそカウンターの大鉢から取り皿に菜をみつくろったことはあるかもしれない。しかし、それが店のシステムであったかどうか。 大久保洋子著『江戸のファーストフード 町人の食卓、将軍の食卓』(1998、講談社選書メチエ)は、めずらしい視点でまとめたなかなか面白い本である。いまや日本料理を代表する天麩羅(てんぷら)・鮨・蕎麦は、せっかちな江戸の庶民のファーストフード屋台から生まれたもの。その実状をさまざまな資料を駆使して論じている。 そのなかに、武州忍(ぶしゅうおし)藩の下級武士・尾崎隼之助(号;石城)が書き残した『石城日記』に記述されていることとして、下級武士の食事のようすが述べられている。 自宅での食事は家族銘々が膳をもちい、大人と子供との間はかなり距離を置いて食事をした。部屋のなかでの座る位置関係は家族間でも厳しくはっきりしていた。つまり下級といえど武士の家庭ではセルフサービスどころではなかったということだ。 しかし、酒宴のように大勢の人たちが集まっての食事は、敷物の上に大皿や鉢をならべ、円座になってそれぞれが取り皿で食べたようだ。刺身や蕎麦、湯豆腐、煮染めなどが盛られた。 また尾崎隼之助は人付き合いもよく、いろいろな人の家で御馳走になり、外食も多かったらしい。日記には握り鮨や蒲焼も登場するという。 さて、残念ながら老母の疑問に明確な解答をするまでにはいたってない。江戸時代にセルフサービスの食べ物屋があったのか、なかったのか。頭の片隅にとどめておくことにする。
Jul 18, 2008
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今朝、まだ床のなかにいて、そろそろ起きようかなと思って脚をウーンとのばしたそのとき、左の足の裏にコリコリグニュッとした奇妙な感触があった。ウッ!? 何だ? 私はそれが動物的な感触だったような気がして、とっさに、足を動かしてはいけないなと思った。連想したのが、蛇、もしくは小さな鼠の背中だったので、まさかと思いつつほんのしばらく身じろぎをしなかった。そして気のせいだったかと思った瞬間、ふたたびコリコリグニュッと明らかに足の裏で動いたのだ。私は飛起きてシーツをめくった。何もいない。あたりをくまなく探ったが、やはり何もいない。それはそうだろう。寝室に蛇や鼠が出没するわけがない。私はシーツを掛直し、そのまま起床したが、なんだか狐につままれたような感じがした。気のせいで片付けるにはあまりにもはっきりした感触だったからだ。 家人達には黙っていた。恐れて一騒動になると面倒だと思ったのだ。しかし足の裏にはしばらくのあいだコリコリグニュッの感触が残っていた。
Jul 17, 2008
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昨日の日記で私は、夏の盛の自分の制作姿がバミューダショーツの裸で、それを称して「ピカソの真似じゃないが」と書いた。そのあとで、ピカソについて想いめぐらすうちに、以前から気になっていたことを少しばかり書いておきたくなった。 ピカソはその数万点にのぼる厖大な作品を、尽きることなかった旺盛な創作欲でほとんど日記のように作りつづけた。事実、ピカソの作品の多くは制作年月日が明記されているのである。油彩の場合は、観客に見える画面にはPicassoと署名されているだけのこともあるが、その裏側のキャンバス支持体(木枠)にはちゃんと年期が記入されている。 何がこのようにピカソを創作へ駆り立て、駆り立てつづけさせたのかは、人間研究としても興味がわく。しかし、このピカソにしてパタリと筆が止った時期があった。『ゲルニカ』(1937)が制作される2年前のことである。1935年。「私の生涯で最悪のとき」とピカソは言っている。 女性関係がはげしかったピカソだったが、原因はその女性関係にあった。 ピカソは1918年にオルガと結婚し、長男ポールをもうけた。が、1927年、17歳の少女マリー=テレーズに出会い、二人は秘密の恋愛関係に入った。そして1935年、問題のその年、愛人マリー=テレーズが妊娠し、それを知った妻オルガは息子を連れて家を出た。夏のことで、その後、離婚訴訟が起されてこじれにこじれる。マリー=テレーズは10月の初めに長女マイアを出産した。 ピカソにとってマリー=テレーズは制作においても重要な存在であった。しかし、それは彼が妻オルガと暮らしている限りにおいてであった。オルガはピカソの作品において「歯のある膣」として表現されている。つまり男根を食いちぎられるのではないかという潜在的恐怖を男に与えるいわば「猛女」である。それに対してマリー=テレーズはピカソという男の「夢」であった。マリー=テレーズは彼の作品のなかで明るく優しい色彩につつまれた女として表現されている。ピカソが片やオルガとの苦悩の暮らしがあってはじめて心やすらげる場所としてのマリー=テレーズの存在である。 ところがオルガが別居し、事実上そばにいなくなると、ピカソの心情は変化していった。甘い家庭を営むマリー=テレーズに飽き足らなくなっていったのであろう。マリー=テレーズが出産してそのわずか3ヶ月後、詩人ポール・エリュアールの紹介で、彼は写真家ドラ・マールと出会う。彼女はシュルレアリストたちと親交があった知的な女性だった。 オルガとマリー=テレーズの間で板挟みになって苦悩していたピカソは、上に述べたようにほとんど絵筆をとることがなかった。それが知的なドラ・マールと出会ったことで、再び創作意欲が萌はじめる。『ゲルニカ』制作にむかうエネルギーだった。今日、私たちが、『ゲルニカ』制作の過程のほぼ一部始終をしることができるのは、ドラ・マールの撮影した写真があるからである。彼女は、ただひとり、ピカソのアトリエでその過程を見、撮影を許されたのである。 余談ながら、ドラ・マールをピカソに紹介した詩人ポール・エリュアール(1895-1952)について、すこし。 ブルトンやアラゴンとともにシュルレアリスム運動において指導的役割をはたし、また、現代フランス詩の最大の詩人のひとりと評価されている。それはそれとして、この詩人、ちょっと奇妙なところがある。ピカソにドラ・マールを紹介したとき、彼は彼女と「関係」があったかどうかは知らないが、女を人に紹介する「癖」があったかもしれない。じつはダリの妻ガラは、ポール・エリュアールの妻だったのだ。自分の妻を若きダリに紹介して、その結果、略奪されてしまったのである。 さて、ピカソが絵筆をとらなかった時期、彼はいったい何をしていたのだろうか。 詩を書いていたのである。詩人ピカソを知るひとは、ピカソの絵画を良く知る人でもそんなに多くはないかもしれない。しかしアンドレ・ブルトンは、「ピカソは文章家でもある」と言っている。 ピカソの詩は、句読点のない言葉のうねりで、暴力的でさえあるエネルギーがほとばしる。説明するより一二を訳してお目にかけよう。 万一、俺が外出でもしてみろ狼どもが俺の手を食いちぎりにやって来るまるで俺の部屋が俺の外側にあるかのように俺のほかの収入は消し飛んでしまう世界は粉々にぶっ壊れた 子供たちの泣き声女たちの泣き声鳥たちの泣き声花々の泣き声木と石の泣き声嗅覚の泣き声そいつらが煙のようなそいつら自身に爪を立て泣いている喉笛を噛み大鍋でぐつぐつ煮立て鳥たちに雨を降らせ骨の髄まで食いつくし綿を噛む歯をへし折り太陽はその皿を拭い去り株式取引所や銀行は岩に穿たれた足跡のなかに隠れる 聖餐台の布のうえの小麦の祭り墓太巻き葉巻(お偉方)の臭気に満ちた地球に小便をぶっかける愉快な肖像画あるいは抽き出し(上流階級)のどでかい聖遺物箱のガラス窓を塗りつぶす新鮮な卵白の蝋をしたたらせる黒幕支配下のボール遊び 【注】言葉の意味の二重性が指摘できるのではないかと思うものを()の中に記した。しかしあくまでも私・山田の解釈である。 これらの詩は1935年4月18日(当時、ピカソ54歳)に始まり、1959年の夏ころまで書きつづけられた。シュルレアリスムの詩として注目されている一方、1934年に描かれた絵画作品とも関連つけられている。 しかし私が注目するのは、シュルレアリスム運動が概して「無意識の探究」であったとすれば、ピカソの詩はそこから大きくはずれていたと言えるだろう。ピカソが自分の詩について1948年にルイ・パロ(Louis Parrot)に語った次の言葉がそれを証している。 「私が詩を書きはじめたとき、私は言葉のパレットを自分自身に用意したかったのです。あたかも様々な色を配するように。これらすべての言葉は、重さを計られ、濾過され、価値を判断されました。私はこれらの多くの言葉を無意識の自然発生的な表現にゆだねたのではありません。馬鹿げているかもしれませんが、意志によって言葉を駆り立てられると考えていたのです。」 この言明は、私の考えではピカソのあらゆる作品に言えることである。あの一見奔放な作品が、古典の引用であったりその意味の伝統につらなろうとする意志の表現であったり、また古典に対する視点の変換であったり、・・・きわめて意識的でまた抑制のきいた知的表現なのだということだ。たとえば「遠近法」が科学ではなく哲学であり思想であるということ、したがって時代によって「遠近法」そのものが変遷してきたことを思うだけで、キュビスムの底にあるヨーロッパ思想史に対する読み直しの意志が理解できるのである。「重さを計られ、濾過され、価値を判断され」ているのだということを、私は思い知るのである。 ピカソの詩はもっと分析的に研究してみる必要があろう、と私は考えている。
Jul 16, 2008
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「芸術の秋」というけれど、実のところ美術家の制作に秋もヘッタクレもありはすまい。ほかの美術家のことは知らないので、なかには「イイ気候になった。さあ、絵を描こう」という人もいるかもしれない。たぶん美術団体等の展覧会が秋に開かれることが多いのだろう。私はいかなる団体にも所属していないし、そのような美術展をまったく一度も見たことがないので、これも分らぬ。 とはいえ、思えば私は夏にせっせと仕事をしてきた。展覧会のためではない。出版社などのクライアント(依頼者)が、秋に刊行されるものの依頼を済ませてから夏休みをとるからで、私の方は休み返上というわけだ。あるいは、この期間にこそ自主制作の作品を完成させようと思うのである。。 長年の間にそれが習慣になってしまったのか、夏になるとやおら制作欲が兆す。ピカソの真似じゃないが、バミューダ・ショーツ一丁の裸で大型画面に取っ組むのが好きだ。 というわけで、午前中から新たな50号(90×117cm)の作品に取り組みはじめた。下描きをし、下塗り(プルミエール・クーシュという)も済んだ。これから何日かかるか分らないが、構図上、一気呵成にとは行かない細かい作業がつづくことになる。
Jul 15, 2008
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2時間ほど小品の下塗り。小品といえど、土台つくりに始まる建築施工のような手順は、大作とまったく変らない。こつこつ、こつこつとやって行く、それが私の仕事。ほんとうは50号(90×117cm)くらいが私には一番描きやすい。小品を描きながら構想を練り、体力を蓄えるつもりだ。
Jul 14, 2008
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曇り空がムッとする暑さを閉じ込めている。二階の仕事場の窓から見える2,3キロ先の隣市のビル群が、薄煙のような湿った空気のなかに灰色に滲んでいる。 裏山の森の葉叢も、そよとも動かない。日曜だというのに子供達の声もしなければ、人の気配さえない。さきほどから微かに遠雷の音がするばかりだ。 私も外出もせず、無言で小品のための下絵つくり。 冷やっこ死を出入りしあとの酒 虚子 この句の凄みを思いつつ。
Jul 13, 2008
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初めて書いたソネット。『涙の流れを通って我が道を曲れば』As I Wind My Way Thru Tear StreamAs I wind my way thru tear streamLike murmur of brook it reminds meThe days with you in a sweat dreamBeing and cooing each on your kneeIn those days very inexperience we'reAlthough love but we didn't regard it,Being in primitive forest without fear,Being filled with hope, living own witFortunate until it arrived at the wayWhich separated to two forks thenAnd laughing we chose different wayTrue life of each was beyond our kenI parted from you never to meet againSo long, I now wind my way with a pain--------------------------------------Copyright (c) 2008 Tadami Yamada. All rights reserved.
Jul 12, 2008
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新作『黒髪のイヴ』は、この秋、9月末か10月に朝日アーティスト出版から刊行される『現代の絵画』第14巻に掲載される。この作品は随分以前の『林檎の樹の下で』のヴァリエイションともいえるものなので、『林檎の樹の下で』を同社からほぼ同時に刊行される『画家年鑑2009年版』に再掲載することにした。編集部からこの作品を表紙の一部に使わせてほしいと言って来たので了承した。 というわけで、絵筆も執らずに、半日、しばらく作っていなかった英詩を作って過した。ソネットを作ってみようと思ったのである。最初の連だけできていたものがあったのでそれに手を入れた。 ソネットは4行3連と2行1連、もしくは連に分けずに12行と2行からなり、押韻がABAB CDCD EFEF GG という形式である。シェイクスピアが得意としていた。 たとえばシェイクスピアのソネット集の第3番目は次のようだ。Look in thy glass, and tell the face thou viewestNow is the time that face should form another;Whose fresh repair if now thou not renewest,Thou dost beguile the world, unbless some mother.For where is she so fair whose unear'd wombDisdains the tillage of thy husbandry?Or who is he so fond will be the tombOf his self-love, to stop posterity?Thou art thy mother's glass, and she in theeCalls back the lovely April of her prime:So thou through windows of thine age shall seeDespite of wrinkles this thy golden time. But if thou live, remember'd not to be, Die single, and thine image dies with thee. (Sonnets of William ShakespeareよりNo.3) 作れるか作れないか、などと心配するのは生意気というもの。上のシェイクスピアを見れば分ることだ。シェイクスピアはこの厳密な形式で154ものソネットを書いた。作れるはずがないのだから、自分のできる限りをやってみる。これが私のモットーだ。引きはしない。 四苦八苦して3連12行まで書いた。残り2行でどうまとめるか。・・・今夜はもうしばらく悪戦苦闘をつづける。
Jul 11, 2008
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さきほどまで午前10時5分から30分間、きのうのつづきNHK・TV「知の楽選 グールド4」を見ていた。きょうは初めから見ることができた。昨日、私が言及したバッハの『ゴールドベルク変奏曲』についてである。私はどうやら早手回しだったようだ。 私の疑問、「なぜ27年後に、この曲を再録音したのか?」について、当時、グールド自身が録音スタジオにおいてインタビューに応えていた。 「再録音はたしかに珍しく、2,3曲しかしたことがない。コンサートをやらなくなって長い年月になる。その間、この曲を一度も演奏したことがなかった。若いときの録音を聴き直してみると、当時も満足していたわけではなかったが、とくにバスの扱いはバランスがばらばらであると気が付いた。」 テレビは、グールドが再録音のために『ゴールドベルク変奏曲』を一音一音解きほぐして詳細に分析した自筆のメモを映し出す。普通私たちは曲の解釈というと「曲想」を考える。音楽番組等における演奏家の解説も、たいていは、作曲家がどのような「想い」で音符を書いたかというようなことを言う。それはそれで聞くべき価値があるものだ。しかし、グールドのメモを見るかぎり、どうもそのような分析をしているのではなさそうだった。 グレーン・グールドはJ.S.バッハを最高の音楽家と崇敬していたらしい。それは、バッハが、厳密な形式(それは当時にあってさえすでに時代遅れだったのだが)に則り、形式の可能性について追究の意志をゆるめなかったことへのピアニスト・グールドの共感であり、「芸術とは、癒しなおしである」と言う彼の確信を保証するものをバッハのなかに発見していたからであった。 グールドの分析ノートは、まさにそのことを物語っている。どういうことか。つまり、作曲家の「想い」など想像するまでもなく、形式を形式たらしめている一音一音の音の長さ、すなはちどのようにリズムがつくられ、音の展開のなかで維持され、変形してゆくかを、演奏技巧に写し取ってしまえば、おのずからバッハの曲は成立し、かつ最高度の癒しなおしの芸術となる・・・そういう確信を証している。そのノートには言葉がひとつも書かれていない。まるで数学のノートのようだ。 ところで、「なぜ27年後に、この曲を再録音したのか?」について、吉田秀和氏はこう言っていた。 「憧れてさがしもとめた高みだったが、いくらさがしても見つからなかった。それで出発点にもどってみようとしたのでしょう。」 グールドの出発点。それが『ゴールドベルク変奏曲』である。 私が所持している再録音盤『ゴールドベルク変奏曲』のライナーノートにはこう書いてある。ちなみにこの盤のライナーノートは独・仏・英の三ヵ国語で書かれている。 「1955年、ひとりの若いピアニストがコロンビア・レコードの巨匠シリーズとして初めてレコーディングしたとき、彼は演奏会の音楽ファンに良く知られていたわけではなく、ましてレコード市場ではまったく未知であった。」 そして27年後の再録音についてこう書く。 「Gould has offered only the explanation that new technology plus his own desire to re-examine the work in terms of its "arithmetical correspondence between theme and variation" led him back into the studio for this recording.」 「主題と変奏との間の数学的調和について再試行したいという願いが新しい録音技術(ディジタル録音)と結びついた」というのである。まさに分析ノートから得た私の印象がここに語られている。 J.S.バッハが形式美に魅了されていたのみならず、その形式によって整合された世界を一望したいという欲求の持主であったことは、ひとつのアリアの主題を30のヴァリエーションに展開してみせた『ゴールドベルク変奏曲』や、『平均律クラビア曲集』、あるいは、王が提示したつまらない主題を見事に16曲(4楽章から成る3声のトリオ・ソナタを4曲と数えて)のヴァリエーションとして音楽的に展開したいわゆる『音楽の捧げもの』をみれば理解できよう。しかもそれらは何と数学的であることか! グレン・グールドの憧れた高みとは、宗教的なそれではなく、水晶の結晶のように透明な純粋数学の世界であったかもしれない。彼の座右の書が夏目漱石の『草枕』(英訳:Three Cornered World)だったという。それをグールド自身が朗読した録音があるそうで、テレビではその一部が流された。雲雀(ひばり)が空の高みをめざして登り、やがて雲のなかに姿が消え、声だけが聞こえている・・・という部分である。グールドはその雲雀に自分のピアニストとしての人生を重ねていたのであろうか。
Jul 10, 2008
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仕事場と居間との間をうろうろしていたが、お茶を飲みながらテレビをつけた。するとNHKがグレーン・グールド(Glenn Gould: 1932-82)についての番組をやっていた。新聞で確かめると、「知る楽選 グールド3」とある。ひとりよがりのタイトルだが、内容はきっちりしている。 もう終りに近かったが、そのまま見つづけた。音楽評論家・吉田秀和氏の鋭い洞察に感じいったからだ。氏はこう言う。 グレーン・グールドの天才は、「モーツァルトという天才作曲家が、(現在の演奏家たちが演奏しているような)凡庸な楽曲をつくるはずがない」という解釈であって、グールドの演奏についてエキセントリックだとか何だとか言われるけれども、「しかし、モーツァルトのなかに荘厳、というのではないが何か厳粛さを感じるのは、私はグールドの演奏が初めてで、いままでそんな演奏はなかった。今、モーツァルトが多様な演奏で聴かれるのは、グールドの勇気があってこそなんです」。 そして、グールドをこう定義する。 「グールドの演奏は彼の自画像。ロマンティストです。ロマンティストというのは分裂をかかえている。ここに無いものに憧れているわけですから。現状に対して批判し、絶望したり、諧謔的になったり、結局ついに実現することがないものを望んで初めから分裂しているんです」 氏の言葉はこのとうりではないとお断りしておくが、言っている主旨はこのとうりだった。これはたいへん優れた鋭い洞察である。吉田氏はグレーン・グールドをショパンやシューマンの「系統」に連なる演奏家と位置付けているのである。かつてグールドを評して「幼児性」という言葉をつかう論者がいたが、それこそ幼児的な表現。吉田氏は「ロマンティストの自画像」と言う。見事な定義である。 私はグレーン・グールドの演奏が好きで、なかでもバッハ『ゴールドベルク変奏曲』を聴いて、こんなおもしろいものはないとさえ思ったものだ。グールドはこの曲を1955年に録音している。いわゆるバッハ・デビュー盤と言われているレコードである。そして私が所持する盤は、彼の生涯の末期、1981年4月22日~25日、5月15日、19日、25日に、ニューヨークの有名な30番街スタジオにおいてディジタル録音されたものである。死の2ヶ月前に発売され、日本では追悼盤として発売された。50歳の誕生日の9日後の死であった。 グレーン・グールドがなぜ27年後に、このバッハの曲に再挑戦しようと思ったのか。私にはそれに答える何ものもないが、レコードが日本で発売されたときにジャケットに付けられた帯に書かれた二人の方の言葉をそのまま引用してみよう。 作曲家・諸井誠氏の言葉: 「J.S.バッハ最晩年の傑作に、50年の生涯の末期に再挑戦したグレン・グールドの演奏は、名盤のほまれ高い27年前の初録音をはるかに凌駕する世紀の名演である。旧盤が若い才気の飛翔だったとすれば、新盤は賢者の深慮にもとずく確固たる造型と技巧の勝利であり、あらゆる音に奏者の意識が働いている、演奏のマニエリズムの極致ともいえるものなのである。」 オーディオ評論家・高城重躬氏の言葉: 「チェンバロのために書かれたこの曲を、チェンバロ独特の音色の変化を意図しながらも、ピアノならではの、そしてチェンバロでは不可能なタッチによる著しい強弱や微妙なニュアンスを存分に発揮、ディジタル録音がこれをシャープにとらえている。」 この追悼盤が出た頃、私は、ある著名なピアニスト二人にグレーン・グールドの演奏について意見をもとめたことがあった。二人がふたりとも首を横に振ったものだ。私は心の中で彼等に意見をもとめた自分が愚かだったと思った。「音楽」がこんなに素晴らしく奏でられているのに、否定したり、疑問を感じることなどどこにあろう。この二人にとって音楽って、いったい何なんだ?、と。・・・25年も昔の話である。 テレビ番組を見たついでに、私はひさしぶりに物置の鉄製のレコード・キャビネットを開けて、グレーン・グールドの『ゴールドベルク変奏曲』を取出してきた。
Jul 9, 2008
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玄関先に据えた鉢植えのシャコバサボテンに綺麗な若緑の細い枝が一本落ちていた。長さ15cmほど。我家の庭木に見たこともない枝だったので、不思議におもって目を近付けた。 「おやっ?」と、指で摘みあげようとしたとたん、枝先が「ペキッ」と折れた。いや、そうではない、木の枝ではなく、昆虫だ。折れたと思ったのは、擬態だった。エダナナフシである。 今朝、柿とグミの枝があまりにも鬱陶しく茂っているので、時節ではないので可哀想だったが、すこし枝を払った。エダナナフシは、おそらく、その葉の茂みにいたのであろう。 それにしても、この昆虫を見たのは何十年ぶりだろう。とくべつ珍しい昆虫というわけではないはずだが、私は長い間見たことがなかった。56,7年ぶりと書くと、まさかと思われる人がいるかもしれない。本当である。小学校1,2年、長野県川上第二小学校の運動場の雲梯(うんてい)のところで、私はこの昆虫をみつけたのだった。それ以来というわけだ。 ナナフシのなかまは、このエダナナフシとナナフシ、トビナナフシがよくしられている。前二者はエダナナフシのほうが触覚が長い。そしてナナフシよりいくぶんスマートで、きれいな緑黄色をしている。ナナフシはすこし樺色がかっている。トビナナフシはその名のとうり、空中を飛行する。普段はたたまれているのだが二番目の脚の付根に羽がある。トンボの羽のような透明な羽である。 さて、私は家の中に声をかけて家人を呼んだ。「来てごらん。おもしろい虫がいるよ」 さきほど私が指でふれようとして折れたようになった脚だったが、家人がそっと息を吹きかけると、ピンともとの真直ぐな一本の枝状になった。「おもしろい!」 家人はエダナナフシのとまっているシャコバサボテンの鉢をかかえて家に入り、老母に見せているようだった。 「エダナナフシって言うんだよ」 私は戸口から言った。 めざとい猫達に見つからなければいいが・・・、そう思いながらスケッチブックに描きとめた。 【追記】 エダナナフシの擬態について少し説明がたりなかった。頭部(まったく頭らしくないのだが)の側面から出ている前脚は、頭の上で触覚もろともぴたりと合わさって胴体と一直線の枝そのものになってしまう。そうしてその頭の方を下に向けて植物の幹などに張り付くように止っているので、残りの4っつの脚は上に向って開いた状態になる。つまり4本の脚は∨の字に上に開いて、その真中に一本の棒状の胴体がついている状態。おわかりになるだろうか。木という字の横棒を取って、さかさまにひっくり返した形である。ほら、木の枝そのものでしょう?
Jul 8, 2008
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あいにく星も月も見えないけれど、今夜は七夕祭である。いつの頃からかは不明だが、この祭は商店街や観光客ねらいを兼ね、私の町でも7月になるまえから通りや商店の入口に笹竹の飾りなどが立てられているのを見かけた。しかし古くは、「七夕」と書くとおり、七日の夕べに始められ、翌朝には江戸城大奥の祝儀の供物は品川台場附近へ遺棄したのだという。 平安の王朝時代はずいぶん手の込んだ儀式だったようだが、江戸時代になると五節句のひとつとして一般化した。それでも、江戸城内でも諸大名の行事と大奥とでは内容が異なり、諸大名は殿中出仕の装いは白帷子長裃(しろかたびらながかみしも)、祝儀を上申した。一方、大奥では、御台所は瓜や西瓜や桃や菓子などを白木の台に山のように盛り、その四隅に笹竹を立てて注連縄をめぐらし、灯明を供えた。そして星合せの歌をただ一首のみ短冊にしたためて御休息の間にそなえた。女中たちも銘々に歌をしたためた短冊を笹竹に結んだ。彼女たちは彼女たちで、御台所とは別の祭りをしたのである。余興があるわけでもない、静かな星の祭りだった。 武家の場合はまた異なり、机のうえに五色の糸巻を供え、その四方に机を立てて色とりどりの総模様の小袖を幾枚も重ねかけて飾った。 一般庶民は町のいたるところに笹竹を立て、思い思いの詩歌を五色の紙に書いて竹の葉陰に結び付けた。『絵本寝覚種(えほんねざめぐさ)』に庶民の七夕飾りの様子をうかがえる挿画が入っているが、短冊や小さな紙提灯が竹に結びつけられている。酸漿(ほおずき)などもつるした。さらに、帳面や筆、硯、算盤なども結び付けた。女子は恋の願いを歌に書き、願いの糸を掛けた。おまじないである。この糸が竹の葉末から中空に流れ舞い上がり、恋の成就を願ったのである。 以上のことは小野武雄編著『江戸の歳事風俗誌』および平出鏗二郎著『東京風俗志』、河鰭実英著『有職故実』等に出ている。 このような七夕風俗がすたれたのは、明治6年1月に五節句を廃したからである。七百年八百年とつづいた年中行事のひとつが、時の政府が祝儀としてはやらぬと決したことによって、たちまち亡んでしまった。文化の衰退ということを考えるとき、興味深い実例である。さしずめ現代なら、「改革」をぶちあげたとたんに、社会の橋桁が崩れたようなものだろう。 ただし明治政府がやった五節句廃止とは、国の重責をになう指導者たちが官庁あげて、季節行事に国家予算をつぎこんで威儀を正してどうにかなるものでもないという見きわめであろう。五節句とは、正月七日(人日)、三月三日(上巳)、五月五日(端午)、七月七日(七夕)、九月九日(重陽)をさす。 そうそう、江戸時代には、七夕祭に冷や麦、冷や素麺を食べたそうである。我家の昼食は、冷やし中華だった。なにしろ文化無国籍家庭でして。
Jul 7, 2008
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きょう日曜日、東京西部は湿度の高い蒸しぶろのような暑さ。向いの夫人が、顔をあわせるなり「暑いですねー!」と浴びせかけてきた。夫人の飼い猫が家の前の道端で横になってこちらを見ていた。我家の猫達はどこに姿を隠したやら、たぶんそれぞれ涼しい場所をみつけて寝転んでいるにちがいない。猫は自然の涼しさが好きで、冷房の効いた部屋には居たがらない。それでも御飯時になると、どこからともなく帰って来る。何か遊びの最中のときは食事をしながらも遊び場が気になるらしく、一くち二くち食べては振り返り、ついには我慢しきれずとびだしてゆく。まるで人間の子供のようだ。 食欲が無いわけではないが、すこし刺激のあるものをと、はしりの青唐辛子を昔風に煮付けてみた。青唐辛子はいわば未熟ものなのだが、昔は葉付き枝付きのまま売っていた。きょう買ったのは10本ずつ束ねて2束をパックにしていた。これがなかなかの辛さ。食べてちょっとおいてからヒリヒリとやってくる。 虚子に次の句がある。現代の東京住まいの者はこの光景は見かけぬ。 添え干して青唐辛子ありにけり 虚子 「添え干して」とは、いったい何に添えているのか。鄙の軒先きか、縁側の笊のなかか、それらしき風情は想像できるが、しかしその想像はあくまで読む者が創作だ。「うまい!」と膝を打つほどではない。この省筆と曖昧さを、日本的な美などといわれてはかなわない。 ハハハハ、うっとうしい暑さのせいで、妙なところで絡んでいる。
Jul 6, 2008
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完成したばかりの油彩作品(W91×H117cm)をトップに掲載しました。以下は、その部分拡大図です。御覧くだされば幸いです。
Jul 4, 2008
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ウナギの産地偽装事件が報道をにぎわしている。きょう新たに報じられたなかに、検体の一部から発ガン性があるマラカイトグリーンが検出されたとあった。 天然鉱物であるマラカイトグリーン(Malachite Green)は孔雀石ともいわれ、美しい光沢がある鮮緑色の単斜晶系の結晶体である。私は子供のころ、いろいろな鉱物のコレクションをしていたが、そのなかにマラカイトグリーンもあった。ヒ素および炭酸銅・水酸化銅などの銅成分をふくむ毒性鉱物である。 食品偽装事件に絡んで、マラカイトグリーンの名が出てくるとは意外であったが、近年まで魚類の抗菌剤なかんずく妨カビ剤として使用されていたという。じつは非常に古い時代には着色顔料として画家のパレットに存在していたのである。 知られているのはベネチア派の巨匠ティシアン(1477-1576)のパレットに存在したことである。ティシアンのメティエ(彩色技法)は非常に秩序ある堅牢なもので、色彩は豊かである。しかし実際に使用された絵具はわずか9色であった。そのなかにマラカイトグリーンがあった。 ちなみにその9色とは次のとおり。 1、マダー(Madder)、2、ラピス・ラズリ(Lapis Lazuli)、3、バーント・シエナ(Burnt Sienna)、4、オーカー(Ocher)、5、レッド・オーカー(Red Ocher)、6、オルピメント(Orpiment)、7、ピーチ・ブラック(Peach Black)、8、リード・ホワイト(Lead White)、そして、9、マラカイト・グリーン(Marachite Green)。 現在、油彩画にとってはごく一般的なキャンヴァス(トアールという)は、15世紀半ばころに港町ヴェネチアで帆布を利用したことに始まる。それ以前は菩提樹の板や金属板(おもに銅板)に描いていた。 帆布は、しかし織物であるから、直にその上に描いても織目がゆるんだり、曲ったりして、絵具が定着しない。織目を固定しなければならないのである。現在市販されているキャンバスは白い顔料が塗られて織目が固定されている。織目を固定することを縷止(るどめ)といい、まず膠水を塗ってから鉛白(シルバーホワイト)をリンシード油で溶いたものを塗布したものをセリューズ仕上げといい、ジンクホワイトを使ったものをアブソルバンという。ティシアンの使用したのは現代の研究によれば、石膏と澱粉をまぜあわせて水で溶いたものをかなり厚く塗り、数カ月間放置して乾燥させてから表面を磨き上げたようだ。 絵を描いているかた、そして、彩色組成についてきっちり勉強したかたなら、上にあげたティシアンのパレットを見れば、おおよその技法的な見当がつくだろう。彼はまずグリザイユのような方法でモデリングしてから不透明色と透明色とを巧みに使い分けながら、彩色構造を組み立てている。 私は若いときにこのティシアンのメチエを勉強した。私の人物表現の技法はグリザイユの応用で、したがって画肌は見た目よりずっとソリドなのである。 私の技法のことはどうでもいい。ティシアンのパレットに存在したマラカイトグリーンであるが、上に述べたように何分毒性がある。しらずしらずのうちにヒ素に犯される可能性は十分にあった。そのため後世、この顔料は次第に使われなくなり、現在では画家のパレットからは完全に排除されている。 ウナギの産地偽装にこの毒性鉱物が使われていたのか、いなかったのか。報道は、検体の一部から検出されたとだけしか言っていないが、人体に与える毒性の大なることを指摘され禁止薬物となったのちも使用されていたのだとしたら、この食品偽装は単なる偽装ではなく、無差別殺人につながりかねない犯罪行為ということになるのではないか。商業倫理の問題というより、なにかもっと深い心性の闇、そういう人間を次々に排出している社会の構造的な闇があるのではあるまいか。 ティシアンの緑は美しくとも、偽装ウナギの緑は無気味である。
Jul 3, 2008
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きょうは作品の写真撮影のため、いつものように新橋のスタジオへ行く。予想していたとおり、一筋縄ではゆかないようだ。時間をほしいとのことで、金曜日までに仕上げてもらうことにする。 ちょうど昼食時で、と或ステーキ・ハウスの前を通りかかったら、たいへんな人だかりがしている。何事か、何か事件でもおきたかと、恐る恐るながめたが、どうやら東南アジアからの観光客が団体でそのステーキ・ハウスで食事をするらしかった。30人以上だ。聞こえてくる言葉はタイ語のようだった。 四谷の迎賓館近辺、赤坂、霞ヶ関、虎ノ門と、警視庁の警備隊が出動している。サミット開催を控えての警戒である。警視庁の前には報道カメラマンが数十人陣取って何かの到着を待ち構えていたが、何か事件の容疑者でも護送されてくるのか。 郊外の山の上の我家から都心に出て来ると、いやはや騒がしいのー。温気と人息れ。 この暑さだというのに、銀座の高級ファッション・ブランド店のショー・ウィンドはどこも秋冬のモード一色。ジョルジオ・アルマーニのファーの襟がついたモスグリーンのジャケットは素敵だけど、見るだけで暑い暑い。 そんなわけで帰宅したときには、ややぐったり。冷たくしたコーヒーを飲んで、すこし眠った。
Jul 2, 2008
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ここしばらく閉じこもりがちだったので、昼前、運動のため2時間のサイクリング。アップ・ダウンのつづく道を選ぶ。帰宅してシャワーで汗を流し、昼食。 新作にほんの少し最後の筆をいれる。あしたはスタジオへ搬入して写真撮影。おそらくこれまででも1,2の難しい撮影になるだろう。
Jul 1, 2008
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