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【散文詩:A prose poem】野に来て(1965年)Coming Along to the Field (1965)It was july 1965. In the evening, I came along to the field alone pushing a bicycle. It looked like the rain. The mountains beyond laied in haze. The wind was blowing a little. Poplar trees fluttering leaves looked like weeping in the distance.I picked up some pebbles, threw them over ones and twos. Those fell dozens meters away, scattered dry, hard, short trailing notes.Evening primrose, Eritrean, Plantain, Polygon, Chenopod, ---these were wild flowers in there.Someone died that day. My lover.I couldn't realize it, so I was crying there. The dead person's gentle voice was calling to my mind, went on to hail me. The landscapes were then gradually gathering the night's shades, and a stone in my hand was sinking down into deep shadoes. I thought the tomorrow morning would be cold but brilliant.The morning would always be a grave post, although it would be sad, yet it would certainly be a brilliant grave post of a day. This imagination drilled my heart and body., made me dry sands which resembled to procession of the funeral dotting with dull color like ant's row. My dry sandy mind and body would scatter to the winds over mountains along the tomorrow dawn.One of poplar trees trembling in the wind vanished from my view. The mountains vanished too.Evening primroses bloomed then, opening their petals clumsy. Nevertheless there's not the moon that night. Would flowered evening primroses hold mist tight in the dark?My thought was:"Death may come at any hour. Fata viam invenient.Why am I crying? Death is the same as life in the macrocosm, I know well. But why do I feel sorrow dropping tears in silence?"I was standing , to be enveloped with mist, and to lose the landscapes of surroundings. I thought that these things would become to my memory, and would grew on the walls of my mind like mosses, and which would draw me into past in sometimes.When I die, the moss of memory would grew with blue color in my grave unknown other people. So I would see again my lover who died, peeling blue mosses one by one, I would exchanged pleasant chats with her about us no human beings without saying the word you and I.In the yellow floweres garden where I dreamed before, I would be at my own sweet would pleasure.Coming along to the field, I was thinking till when. It was july 1965. I was twenty.--------------------------------------------Copyright (c) 2009 Tadami Yamada. All Rights Reserved.
Apr 30, 2009
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地方の事情は知らないが、私が住んでいる東京について言えば、もうずっと以前から行商人が住宅街を売り歩く姿は見かけなくなっている。昨日書いた竿竹売や、秋から冬にかけて焼芋屋が小型自動車でやって来るくらいのこと。あるいはここ2,3年前から、やはり小型自動車に一式を設備したメロン・パン売りがスーパーマーケット等の敷地の一画で商いしている。 時代とともに商品が変わり、その販売方法も変わるのは当然である。だから江戸の昔とは言わず、明治・大正・昭和とかわるにつれて、町に流れる売り声にはおおきな変化があったわけだ。 時代劇映画が製作されることは劇場用にしろテレビ用にしろ稀になったが、現代人がこれらの作品でみるそれぞれの時代の巷のようすは、行商の売り声を調べてみるかぎり、実際とはかなりかけ離れていると私は思う。日本映画史のなかで、江戸や明治のころの巷の売り声を活写した作品は、もしかしたら一作もないのではあるまいか。そのような時代劇によって、時代風俗の誤ったイメージをあたかも正しい知識であるかのように蓄えているかもしれない。 それでは日常的に巷に流れていた売り声はどんなものだったのか、私の蔵書から抜き書きしてみよう。 江戸時代の売り声は、おそらく昭和にまで引き継がれたものはないのではあるまいか。小野武雄編著『江戸の歳事風俗誌』には次のような行商とその売り声を散見する。 春先にまずやって来るのが、〈花売り〉である。「花ィ、花ィ」。 〈桜草売り〉も「エー桜草や桜草」とやって来る。 そして5月の端午の節句のころは最も市中がいろいろな売り声でかまびすしい、と『国史大辞典』にはある。売り声は不明だが、菖蒲売りが軒端に飾る菖蒲と蓬を売りにくる。〈筍売り〉が「筍や筍、そらまめやそらまめ」と。 七夕がちかづくと〈七夕の竹売り〉が「竹や竹」と。御盆のころ、6月末から7月初旬にかけては、〈盆提灯売り〉が「ちょうちんやァ、盆ぢょうちん、ちょうちんや、ちょうちん」、7月10日前後には〈灯籠売り〉が来る、8日9日には魂祭の迎火用の〈苧殻売り〉が「おがら、おがら、おがら」と。〈間瀬垣売り〉が「まこもや、まこもや、まこも。ませがきや、ませがき」と。〈竹売り〉も「たァけや、たァけや、たァけや」と。間瀬垣というのは杉の青葉を竹に編みつけて垣のように作り、苧殻(おがら)で飾ったもので、魂棚を囲う欄にもちいた。竹売りの竹は、魂棚の四方に立てて紐を張り巡らし、胡瓜や茄子をつるしたのである。 売り声は不明だが、5月中頃から7月末にかけては〈朝顔売り〉が、また〈きりぎりす売り〉がやって来た。 10月の大伝馬町の市は「べったら市」といわれ、べったら漬をうる店が立ち並んだ。売り声ではないが、この市では「べったら、べったら」と商家の小僧が走りまわっていたという。浅漬大根を買ってくるように使いに出された小僧たちが、手に持った麹粕のついたべったら漬が混雑した往来の人の衣服を汚さないように、「べったら、べったら」と叫んだのだった。小僧たちが通るのを若い娘や婦人たちは「きゃあきゃあ」言いながら道をあけたのである。 そうして年の暮、〈煤竹売り〉がくる。それから、〈厄払い〉が「御厄払いましょ、厄落し。御厄払いましょ、厄落し」と、声たからかに言いながら町から町を渡り歩いた。 お年玉に扇を贈る習慣があったようで、その扇をうる〈扇売り〉は元旦の風俗。なかなか渋い声で「おうぎ、おうぎ」と呼びあるいた。染め浴衣に白脚半、じんじん端折りをした色男が売り歩き、呼び止められれば地紙をいろいろ見せて、希望の品をその場で折上げて売った。じんじん端折りというのは、爺端折りとも書き、着物の後ろ裾をはしょって帯に挟み込んだもの。いわゆる尻っぱしょりのこと。もちろん上品な着方ではない。場合によっては褌がチラと見えるようなこともあったのだろう。 江戸の町にはそのほか数多の売り声があったのである。いま述べたなかに現代人に馴染みの〈焼芋屋〉が含まれていない。焼芋屋がなかったのか? いや、江戸時代にもそれはあった。が、行商ではなかったのだ。その理由は防火のためで、江戸の町はとかく火事が多かったので、火をつかう焼芋屋は大通りのみに店を出すことを許され、しかも芝口から筋違橋門までは一軒も出店を許されなかった。燃料は、藁はだめで、薪のみ。芋は川越のものを使用したので、江戸の焼芋はウマかったのだそうだ。 焼芋屋が流しで商売するようになったのは明治になってからである。明治の行商とその売り声については、明治32年から35年にかけて3巻本として上梓された平出鏗二郎(こうじろう)著『東京風俗志』に詳しい。 焼芋屋、羅宇嵌替(らうすげかえ)、花屋、煮豆売り、昆布売り、蒲鉾売り・・・。 (羅宇すげかえと言えば、昭和50年ころまでだったと記憶するが、浅草の仲見世の路地あたりで見かけたことがある。ラオ屋とも言った。ラオというのはラオスから渡来した黒斑竹を云い、キセルの火皿と吸い口をつなぐ竹管のことである。また、同じころ、同じ浅草でシン粉細工屋も見かけたのを思い出す。) 東京の朝は、朝餉の惣菜売りの呼声でにぎわった。先の煮豆売りのほかに、納豆売り、佃煮売り、漬物売り、煮染め屋、仕出し屋、肴屋、八百屋、七色唐辛子売り、鹽屋、蜆売り・・・等々。「声高らかに呼ばわりて振売さえしてありけば、三度の惣菜も坐(い)ながらに調え得べく云々」と『東京風俗志』は記す。 〈豆腐屋〉の売り歩きも登場するが、当時はラッパではなくて鐸(タク;柄のついた振鈴)を鳴らしていたようだ。鐸を鳴らして売りいたものは、他に〈富貴豆売り〉〈夜鷹蕎麦〉〈新聞号外売り〉があった。 以下に、売り声を列記してゆく。 〈鍋焼うどん〉「鍋焼うどん、蕎麦ウヤウー」 〈花売り〉「お花ァー五厘、切立て五厘」 〈氷売り〉「氷ッ、氷、函館名物、氷でござい」 〈延命薬売り〉「定斎(じょさい)でござい」・・・暑気払いの薬。薬籠の引手をカチカチ鳴らしながら。 〈苗売り〉「苗やい、苗やい、朝顔の苗やい、唐蜀黍の苗やい、胡瓜の苗やい、茄子の苗」 〈稗蒔売り〉「稗蒔や稗蒔や」 〈麻幹(おがら)売り〉「お迎いお迎い」・・・盆前の迎火用の苧殻売り。上記にも出。 〈門松売り〉「お宝お宝」 〈屑屋〉「くずいー、くずい」 〈掃除屋〉「おあい、おあい」・・・平出鏗二郎は「汚穢か?」と注を付している。 〈雪駄直し〉「でいでい」・・・この呼声は、まったく意味がわからない。 〈鼠取薬売り〉「いたずら者は居ないかな」・・・鼠が皿の物を舐めている絵、その下にねずみとり薬と染めた旗を立てて、薄気味悪げに呼んだ。この売り声を聞くと道で遊んでいた子供達はサッと逃げ隠れた。 〈薬売り〉「皹(ひび)、凍傷(しもやけ)、あかぎれの妙薬」・・・冬の夜に売り歩いた。 〈花梨糖売り〉「淡路島通う千鳥の恋の辻占、辻占なかのお茶菓子は花の便がちょいと出るよ、こうばしや、かりん糖」・・・これも夜の商売。 〈稲荷鮓屋〉 「お稲荷さん、お稲荷さん」・・・と、これも夜に。 〈麺包(パン)売り〉「亜細亜のパン、欧羅巴のパン、パン、パン、パンパン」・・・古いシルクハットに古びた洋服、つけ髭をつけて、腹にくくりつけた太鼓をたたきながら歩いた。 〈よかよか飴売り〉「よかよか飴屋さんにゃ、誰(たーれ)がなるよ。日本一の道楽者よ。そのまたおかかにゃ誰(たーれ)がなるよ。日本一のおてん婆が」・・・と、男が頭に飴桶をのせて太鼓をたたき、背後に女房が三味線をかき鳴らして子供あいてに飴やオコシを売り歩いた。平出鏗二郎はこの売り口上に対して、「己れを恥じずや、かく明らさまに謡うさま、また胆潰るるばかりにあきれられぬ。」と書いている。 よかよか飴売りは、たくさんいたのではなかろう。この夫婦だけだったかもしれない。身の恥をさらして物を売り歩くのは、大道芸といわず芸能本来の姿に通じるといえようか。 その大道芸については宮尾しげお・木村仙秀共著『江戸庶民街・芸風俗誌』に詳しい。また、昭和時代のそれについては俳優小澤昭一氏の数多の著作がある。同氏はヴィデオ版も出版してい、得難い貴重な資料となっている。 さて、こうして各書からザッと拾いだしただけでも、江戸や明治の町がいかにたくさんの行商人の売り声にあふれていたかがわかる。上述したように、これらの売り声は時代劇映画やテレビ・ドラマには徹底的に欠如しているものだ。いつかこのようなザワメキに満ちた巷を活写した時代劇映画が見られるだろうか。・・・だめだろうなー。 【下図は、『東京風俗志』から、上述の行商人の姿】 左上から、よかよか飴売り、定斎、苗売り、麺包(パン)売り。 中上段左から、かりん糖売り、夜鷹蕎麦、稗蒔売り。 中下段左から、花売り、富貴豆売り、蒲鉾売り、屑屋、鼠取薬売り。 下左から、雪駄直し(でいでい)、新聞売り、ラウ屋。
Apr 29, 2009
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数日前から私の町の住宅街を、豆腐屋がラッパを吹きながら売り歩いている。さきほど昼過ぎにもやってきた。「♪トゥーフィ~、トゥーフィ~」と言っているかのような、あの昔懐かしいラッパが鳴りひびく。それに加えてときどき売り声をあげる。「お豆腐はいかがですか~。お豆腐以外にも、おからや、お豆腐のハンバーグ、コロッケもございますよ~!」 ハンバーグやコロッケは、近年の健康志向・ダイエット志向からうまれた商品であろう。ラッパを鳴らすだけでは足りなくて売り声をあげるのは、豆腐屋のラッパを知らない世代も多くなったからかもしれない。先日、総務省が、戦後生まれが人口の四分の三を超えたと発表した。つまり1945年8月15日以降に生まれた人たちである。私も戦中生まれの四分の一組になったわけだ。 売り声をあげての商いといえば、竿竹売り、金魚売り、焼き芋売りなどは、私にも馴染みだが、江戸・明治のころはちょうど今頃の季節になると、冷水(ひやみず)、心太(ところてん)、白玉餅、鬼灯(ほおづき)、うみほゝづき等を売り歩いたと、『東都歳時記』にある。その売り声は、たとえば式亭三馬の『浮世風呂』にはこう書いてある。「氷水あがらんか、冷(ひゃっ)こい。汲みたてあがらんか冷こい」 式亭三馬の書いている「氷水」というのは、どんな水だったのか。この売り声につづけて客が呼び止めて、「オゝいい所へ水売りが来た。オイ水屋、雪女で氷坐頭でも入れて四文がくだっし」「ハイハイ道明寺を入れましょうか」 どうやら水桶に氷を浮かべてはいるものの、いわゆる掻き氷ではないようだ。器に白玉餅や蒸した糯米(もちごめ)を干した道明寺糒(ほしいい)を入れて、砂糖もしくは氷砂糖(氷坐頭)を加えて冷水をそそいだものだったらしい。 ちなみに清少納言の『枕草子』に掻き氷に甘葛(あまずら)をかけて食べる話がでてくるが、掻き氷、ないしは氷水を日本で最初に販売したのは明治時代のことで、中川嘉兵衛という人。横浜の馬車道に氷水の店を開いた。それ以前、横浜港が開かれて間もなくのころ、あるアメリカ人がボストンから氷を輸入して大儲けした。中川嘉兵衛はそれを見ていたらしく、信州の諏訪湖から天然氷を切り出したり、富士山から雪を運んだりして売ったのである。『明治事物起源』に出ている。四季を問わずに氷をつくる製氷技術がなかったのだ。冬の間に天然氷をつくり、保存しておいたのである。 現在は失われてしまった町名だが、東京・東銀座の新橋演舞場から銀座東急ホテルにかけての一帯はかつて木挽町といっていた。それよりずっと以前は妥女ヶ原と称した空地で、見世物小屋や芝居小屋が建ち民衆娯楽地になっていた。江島生島事件の山村座もここにあった。この事件後に、幕府の民衆娯楽に対する締めつけがはじまったのだが、それはともかく、木挽町となってからはその名が示すとおり材木商や製材商、木挽職人が住むようになった。そしてまた、氷屋も多かった。つまり木挽粉(おがくず)が氷の溶解防止に使用されたのである。氷柱を室(むろ)に入れ、木挽粉をまぶして密閉しておけば、長期間の保存ができたのである。私が子供のころは、まだそのような保存をしている製氷業者があった。店先に氷室(ひむろ)から出したばかりの木挽粉がついた氷柱が置かれていた光景が、うっすらとではあるが記憶にある。 豆腐屋の売り声から氷屋の話にとんでしまったが、私の耳には「芸」となったさまざまな売り声が記憶から浮かんできていたのだ。竿竹売りにしろ、金魚売りにしろ、焼き芋売りにしろ、伝統芸といってもよい鍛えられた声の「芸」がある。現在はそれも録音テープに吹き込んだエンドレスの無芸なものになっているけれど、それでも中には、自分の声で売り歩く者もいて、聞いていると「ああ、この人は自分の売り声に陶酔しているな」と思うことがある。音の高低、張上げかた、伸しかた等々、なかなかの訓練がなされている。それはもう、「芸」になっていると言ってよい。 さて、わが町を売り歩く豆腐屋さんの口上は、自分の工夫ではじめたのだろうから、まだまだ芸というには遠い。「家元」になるまでこの売り声を鍛えあげるかどうか。・・・私は、ちょっと楽しみになっている。
Apr 27, 2009
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先日アメリカから回送されたメッセージは、じつはイギリスからのものだと分った。その後、数度のメールのやりとりをして、その人が二十歳前の孤独な青年であることも知った。私がつたない英語で発表した詩や俳句に心ひかれたらしいのである。 このブログにもそのつど掲載したものも含め、私は65篇の英語詩と45篇の英語俳句を発表している。そのような作品に対して、これまでに少なくとも10人以上の外国人から好意的なメッセージを受け取ってきた。もちろんそれぞれに相応の返事をしているが、それにしても、じつのところ私は自分の老化防止策として英語詩を書いているので、このようなイングリッシュ・スピーカーから直接の反響が寄せられるとは思っていなかったのだ。 今朝も一通のメールが来た。ある詩に対して「Nice message for you put in your poem」と書いてあった。また「Nice imagery」ともあった。 たしかに私は、自分の詩が映像(イメージ)的であるとは思っていた。画家としての視覚的な特質が言葉にも表現されている、と。そしてそれは、私の望むところだったのだが。 いずれにしろ、このようなメッセージをはげみとして、老化防止のための英語詩つくりを今後もたんたんとしてゆこう、とあらためて思っている。
Apr 26, 2009
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雨が降っている。春雨というには遅く、卯の花腐し(ウのハナクダし)というにはまだ少し早い。なんだか重い感じのする雨だ。 卯の花は、ウツギのことで、陰暦4月、すなわち卯月のころに咲くのでこの名がある。「卯の花腐し」は、5月から6月にかけて卯の花を腐らせるかのように降りつづく雨を言う。言い得て妙、美しい言葉だ。このような言語感覚は、たぶん現代の「アラフォー」などと言ってはしゃいでいる日本人がすでに失った感覚であろう。 筍は伸びて卯の花腐しかな 虚子 そう、筍も、掘り残されたものはたちまちに伸びて、やがての一竹にならんとしている頃だ。我家では数日前、「これが今年最後の新筍の料理だね」と言いながら、筍と春蕗の煮物を夕餉の膳にのせた。みんなで筍の香りをたのしんだ。 ことづてを云いて筍括らるる 雨石 取ったばかりの筍を荒縄なんぞで括り、土産がわりにと、言伝ついでにたのまれている光景。こういう筍は、その場で焼いて食うといかにも野趣があって旨い。 きょうの雨は、卯の花をではなく我家の庭の桜草やグミの花を散らせている。また彩りのない庭になってしまった。
Apr 25, 2009
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朝日アーティスト出版から、『画家年鑑』2009年度版を月末にお手許にお届けいたします、と連絡があった。この年鑑は同社が選択した数百人の画家(日本画、洋画、版画、コンテンポラリーの各作家)の作品について、1号あたり(22×16cm)の評価額を最新作写真とともに記載している。画家のためではなく、美術コレクターの用に企図された大型本である。私の作品の評価額も出ているわけだ。「いくらか?」って、そんなこと本人の口からは言えません。興味がおありの方は、どこかで本書『画家年鑑』2009年度版を御覧ください。まあ、私と直接に作品の売買取引をしたい方には、御参考のためおおしえいたしますが・・・。ハハハ。
Apr 24, 2009
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昨日、老母をつれて東京・調布市の国領神社の「千年藤」を見てきた。昔はいざしらず、現在の国領神社の境内はおよそ200坪ほどで、さほど広くない。その中央に藤の古木があり、枝蔓を境内いっぱいに広げている。むしろ、昔は広かった社域をこの藤のひろがりまでせばめられて今に至ったのかもしれない。それほどにこの時季は藤が主役なのだ。「千年」という樹齢が事実かどうかはともかく、やや紅をおびた藤色のあざやかさは艶である。老いてますます御盛ん、と思わず言いたくなる。あと数日が見頃であろう。風もないのに花弁が散り、地面は紫に染まっていた。たくさんの人が訪れていたが、みな、この藤の全姿を見ようとするためか、藤棚の下につどうのではなく境内の三方に引き下がって身を寄せて見ている。桜の花見とちがって、飲み食いをするのでもなく、おとなも子供も小声で会話しながらみごとな花房に見とれているのだった。 「もうすこし房が長ければねー」と、老母が嘆息した。 たしかに花房がやや短いのである。それでふと思い出した昔の俳人の句がある。 名木の藤の花房短けれ 蚊杖 この句は何処の藤を詠んだものかは分らないが、名木というからには長寿の藤なのであろう。もしかすると、長寿の藤の花房は一般的に短くなっているのかもしれない。国領神社の千年藤も、花の色はあざやかだが母の指摘するように花房は短いのだった。老母の観察眼に脱帽である。 母は昔、日本人形を製作していた。日本人形の題材に「藤娘」がある。藤の花模様の衣装を着て藤の一枝を肩にかつぎ、笠をかぶった娘の姿である。その肩にかついだ藤の花房は長くたわわなのだ。母はそのあたりの知識に、いま現実の国領の藤を比較してみているのかもしれない。 「藤娘」は、もともとは大津絵の主題である。それが歌舞伎舞踊に考案されて長唄になり、本名題『歌へすがえす余波大津画』(かへすがえすおなごりおおつえ、と読む)となった。しろうとの舞踊会などでは女性が踊っているが、本来は「おやま」の舞踊である。 大津絵は江戸時代、寛永年間に起り化政年間ごろに下火となった民俗画である。初めは仏画が主であったが、諺などを書き込んで次第に世俗画へ移っていった。大津絵を研究した柳宗悦によれば、「藤娘」はよろこばれた題材ではあったが、その起源について知るてがかりは残っていないという。「藤娘」の絵には次のような歌が書き込まれている。それによって如何なる人生訓を説いているかおおよその見当がつく。(『柳宗悦全集』第13巻参照) その歌である。 盛りぞと見る眼も共に行く水の しばし止まらぬ藤浪の花 つまり、どんなに栄華をきわめ美に驕ろうと、世は移り変り、時は老いを運んでくるものだ、というような意味であろう。 なるほど、だとすれば、藤の花の下で浮かれ騒がないのも、あるいは民衆の慣習として今でも無意識のうちに形成されているのかもしれない。まさに文化である。
Apr 23, 2009
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ことしの1月に私は、「寒の雨 たれ引留める人もなく」という一句を詠み、このブログに掲載した。その後、「春寒雨 たれ引留める人もなく」と少し手直しをし、さらに英語ヴァージョンをつくって海外のさるところで発表した。 英語ヴァージョンは次のとおり。 My lone leave No one try to stop Cold spring rain 5,7,5になるようにしたのは当然にしても、ほかにも自分なりの工夫をした。しかし、自信があったわけではない。理解されるかどうかも分らなかった。 ところが、今朝方、アメリカから回送されてイギリスの読者のメッセージがとどき、それはまさに私の工夫をストレートに理解してくれていることを示していた。嬉しかったので、そのメールの内容を本人にことわりもなくこの日記に載せておこうと思う。匿名moonshieldさんのメールである。〈Greetings, Tadami Yamada. "My lone leave" Brought to life. I liked how in the first stanza, and image began to build in the first two lines, and then was abruptly brought to life in the third (at least that's how I read it). Was wondering could you translate the second verse? Thanks. moonshield〉 【訳】こんにちは。『私の別れ』 人生を気づかせてくれました。私は第一句の方法が好きです。イメージは最初の二つの句で立ち上がりはじめました。それから不意に、第三句のなかに人生が引き寄せられてきました(少なくとも私はそのように読みました)。2番目の俳句を英訳していただけないものでしょうか? ありがとうございました。
Apr 22, 2009
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アーネスト・ヘミングウェイの短篇全集を、私は2,3年ごとに一度、書棚から取出し、寝室の枕元におきながら1ヶ月ほどかけて読みなおす。 この本は、正確に記せば“The Complete Short Stories of Ernest Hemingway; The Finca Vigia Edition, Forword by John, Patrick, and Gregory Hemingway; Macmillan Publishing Company 1987”である。フィンカ・ヴィギアというのはヘミングウェイの終の住処となった家の呼び名であるが、序文を彼の3人の息子が書いていて、いわばヘミングウェイの正統的な短篇全集である。 それはともかく、この本を買ったのは1991年のニューヨーク滞在時であるから、それ以来もう何度読み返してきたか忘れてしまったが、今また数日前から読み直しているところだ。私がヘミングウェイを繰り返し読むのは、じつは「観察の妙技」というようなことが念頭にあるからだ。アメリカ人がもっとも敬愛する小説家といわれる。その理由をここで論じる準備はないが、私にとっては、観察し記述に徹しておのずと物語がうまれていることが関心をひかれるのだ。ヘミングウェイの書く物は、鬼面人を驚かすような物語のための物語りは一つもない。まるでカフェテラスの椅子にすわって、眺めた客たちをスケッチブックに描きとめたような、ただただ見る人に徹した作品なのである。そこが画家である私にはおもしろい。「観察の妙技」として学ぶところがある。 たとえば、外国旅行をしている若い夫婦がいる。彼等はおたがいに倦怠感をいだいているのだが、自分達は気がついていない。喧嘩をするのでもなく、ただどうでもいいような短い言葉をくりかえしているだけだ。特別なことは何も起らない。・・・しかし、読者には分るのだ。この夫婦が、男と女としてすでに破綻していることを。 ヘミングウェイは、この若い夫婦のどんなところを見、どんな言葉に注意を向け、そして書きとめたのだろう? 「倦怠」という言葉をまったく使わずに、どのようにして読者が彼等の倦怠感を察知できるようにしたのだろう? しかもそんなスケッチが、なぜおもしろいのだろう? そんなことに、読者はなぜ物語を感じるのだろう? ・・・私など、何度も何度も読み返すほど、おもしろがっているではないか。 と、そんなことを考えながら読んでいるのであるが・・・ ところで、そのヘミングウェイの英語だが、なんだかとても癖のある英語で、私自身の能力の問題であることはもちろんながら、でも、この人の英語って「上手」なのかしら? まず言えることは、構文はいたって簡単。だが簡単すぎて、逆に私はときどき頭から抜けてしまい、言っていることが分らなくなることがある。アメリカ人の読者は、これが分るのかしら? と、妙なことを考えてしまう。短い簡単なセンテンスが繰り返されることも一つの特徴だ。たどたどしいとさえ思えてしまう。あるいは、別な動詞のほうがもっと明確に理解できるだろうに、と思うこともしばしばなのだ。まあ、それは、アメリカ人のごく日常的な口語の慣用表現に私が疎かったり慣れていないせいだろうが・・・。 でも、やっぱり‘The Short Happy Life of Francis Macomber(フランシス・マコマーの短い幸福な生涯’や‘Cat in the Rain(雨のなかの猫)’‘The Killers(殺人者たち)’などは何度読んでもおもしろいし、好きだなー。
Apr 21, 2009
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JALが接客サービスの大切なこととして正しい日本語の社員教育に取り組んでいる、と朝日新聞夕刊(佐々木学記者)が伝えている。 同記事は6例をあげているが、たとえば「1万円をお預かりします」と言うべきなのに、「1万円からのお預かりになります」と言う。あるいは、「~でよろしかったでしょうか」は、正しくは「~でよろしいですか」である。 このような奇怪で下品な日本語は、なにもJALばかりではない。いつの頃からかは知らぬが、接客にたずさわる者はネコもシャクシもこんな言葉を使うようになっている。 私の観察では、商人として客に頭をさげることを沽券(こけん)にかかわるとばかりの奇妙な自意識が、日本人の意識のなかに形成されてきたためと思える。人間関係をサラリとするための礼儀作法が、いやにヌメッこくなって、自他の区別がつかなくなっている・・・そういう精神状態、つまりは未成熟な精神状態なのだが、それが社会全体を覆いはじめている。言葉というものは、単独な人間には必要ないものなので、言葉の乱れは必ず社会の根源的な心理状態に直結している問題とみてよい。 符牒のような簡略語がたちまちのうちに日本中を席巻するのも、言葉の経済性の問題というより、ヤクザ社会のような血のヌメリのする仲間意識が大口をあけているのだ。総務省がいままさに音頭をとっているテレビ放送の地上デジタル化、そのPR放送に「地デジ」などという符牒を使う。国の機関がヤクザな簡略語を使うのだから、何をかいわんやである。かくして日本語は乱れに乱れ、日本人はみずからの口をクソマミレにしているわけだ。 JALの社員教育が成果をあげることを期待しないわけにはゆかない。毎日毎日、私は買い物をするたびに、ケッタクソ悪い日本語につきあわされているのだから。他の企業もみならってはいかがか。
Apr 20, 2009
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つまらぬ人界の涯て山桜 青穹 ただただよ茫々として別れ霜
Apr 20, 2009
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躑躅(つつじ)が咲き、藤が咲き、山吹が咲き、そして杜若(かきつばた)も咲いて、いよいよ行く春である。 ある御宅の家庭菜園に、豌豆(えんどう)の丈7,80センチばかり伸び、薄紫の花が咲いていた。ふと懐かしさが気持によぎる。 子供のころ、八総鉱山の家の小さな家庭菜園で豌豆をそだてていた。その風景が目裏によみがえった。そして、同級生の田中君は元気だろうかとも。・・・建築士の彼は、現在、趣味が嵩じて野菜つくりに精出していると言っていた。子供のころの田中君からは野菜つくりをするイメージなどとてもなかったので、その旨をメールで言ってやると、「そんなことはない。子供のころからやっていたのだ」と折返しのメールがきた。 石工の指やふりたるつつじかな 蕪村 庭をつくっているのであろうか。武骨な石工の指がふと躑躅の花弁に触れたのである。その対比に男のいなせな色気がただよう。こういう句は、芭蕉の埒外である。 もう一句、蕪村の作を。 ゆく春や逡巡として遅桜 蕪村 いいなぁ。こういう句がつくれたらなぁ。・・・何事もない。だが、その何事もなさのなかに人生の何事かを詠んで、そこはかとない哀愁がただよう。慾を捨てたい、しかし、捨てたいと思う慾がある。そこに「明るい憂い」がふわりと出る。 ゆく春を近江の人とおしみける 芭蕉 これは芭蕉の句。この「近江の人」をどのように解釈するかで、内容がちがってくる。芭蕉にはこのような人間関係のややっこしい句が意外に多い。私があまり好まないのは、そこだ。
Apr 19, 2009
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家人がDVDで映画『天井桟敷の人々』を観ていたので、私もその第2部「白い男」から観た。もちろんすでに何度も観ている。マルセル・カルネ監督が第2次世界大戦中に3年3ヶ月という年月をかけて製作し1945年に完成した大作。映画史のなかでいまだに超えるもののない金字塔である。特筆すべきことの一つにアレクサンドル・トロネルの美術がある。「犯罪大通り」と呼ばれる、19世紀のパリのブールヴァール・デュ・タンブル街をセットで作っている。その圧倒的なすばらしさ。 しかし、そんなことは今さらここに書く必要はない。この作品は、外国映画ベスト・ランキング投票では、常にかわらず第1位の座をたもってきた。 私がメモしておこうと思うのは、いままで見過ごしにしてきた、・・・いや、聞き過しにしてきたというべきだろうが、ある効果音についてである。 俳優ルメートル(ピエール・ブラッスール)が劇場の座付作者たちと決闘するシーン。朝靄にけむる沼の傍の栗林。2台の馬車がシルエットでとまっている。しきりに「蛙」の鳴声がしている。 ・・・私が注意をむけたのは、その「蛙の鳴声」である。音声はこれだけだ。このシーンはロケーション撮影であろうから、この効果音はダビングによるものと考えてよかろう。つまりは、「蛙の鳴声」は偶然拾われた音ではなく、このシーンに付けられるべく選択されているということだ。 珍しいのではあるまいか。特に外国映画で「蛙の鳴声」がわざわざ効果音として使われているのは? 「さすがにフロッグ・イーター(イギリス人がフランス人を軽蔑するときの表現)と言われるだけに、蛙に敏感だわい」と、私は思ったのだ。このシーン、蛙の鳴声がするほかはまったく動きもなければ人影すらない、ただ朝靄につつまれた上述のミドル・ロング・ショットの風景だけで、すぐにシーンが変わって、繃帯をしたルメートルが劇場に姿をあらわすシーンとなる。つまり決闘シーンなどは無いのである。・・・この繋ぎはまさに映画ならではの飛躍なのだが、しかしやはりその飛躍の内にドラマが存在すると見ることができるのは、私の考えでは、「蛙の鳴声」につつまれた栗林のシーンのつくりかたゆえなのだ。 「ふーん!」 私はいままで気がつかなかっただけに、あらためて感心してしまった。「蛙の鳴声」に御注意あれ!
Apr 18, 2009
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『神の指紋』『鼓動』のアメリカの小説家ロン・キナード氏から、私の昨日の英語俳句について、「美しい。少ない言葉で多くのことを言っている」というコメントとその他のメッセージをちょうだいした。 じつは数日前に、氏から初めてメッセージが寄せられ、私はすぐに返事をしたのだったが、おりあしく私のコンピューターの調子が悪くて何か行き違いがあったようで、私が不愉快な思いをしたのではないかと気にかけていたらしい。「そんなことはありません」と返事したが、氏は俳句に関心があるようだ。どうやら御自分でもHaikuをつくっていて、それらを私に読んでほしい、私の批評を誇りにおもうだろうから、と言うのである。 さて、どうしたものか。ちょっと、悩んでいるところである。
Apr 16, 2009
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そのときに創れなくとも、しばらく日時が経つと解決策が思い浮かんでくることがある。以前つくった俳句「老いの身に春の嵐のたとえとは」・・・これをどう英語ヴァージョンにしようかと、あれこれ考えていた。単なる英訳ではなく、いつものことながら英語のHaiku(5シラブル、7シラブル、5シラブル)にするための工夫。 で、できあがったのが、次の句である。(老いの身に春の嵐のたとえとは)Oh! the sudden spring stormWhat metaphor is it on?For me old man by Tadami Yamada
Apr 15, 2009
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朝、まだ床のなかにいる耳に、鶯のさかんな鳴声が聞こえていた。 その鳴声はいま、午後2時過ぎても聞こえている。裏山から降りてきたのか。・・・それにしては時季的に遅くはないか? もう、ホトトギスがやって来るころだろう。・・・まあ、鶯にもそれぞれ事情があるのだろうから。ハハハ。 ようこそ、ようこそ。しばらく我家で鳴いてちょうだい。 庭の白桃も花どきをおわり、グミの花もきのうの雨ですっかり散り落ちた。 そのグミの2本の木にはさまれて、柚子の木がある。常緑樹で葉柄に特徴があり、太く強いトゲを有する。じつは我家の誰も植えた憶えがない。それなのに、いまや丈3メートルにもなって、わが小庭では大木といってもよいほどだ。もしかすると、やって来る鳥たちの糞のなかに、種子がまじっていたのかもしれない。 しかし、この柚子、いっこうに花も咲かさなければ実もつけない。図体ばかりでかくて、おまけに鋭いトゲがあるので厄介だ。いつかは花も実もなろうと、そのまま繁茂するにまかせているのだが、・・・いったい、花を咲かせないというのは、どういうことだろう? 実がなったなら、料理に利用しようと、手ぐすね引いて待っているのだが。
Apr 15, 2009
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ひさしぶりの雨を窓からながめながら、この春先ブログにも掲載した俳句から二つを選んで、英語ヴァージョンをつくってみた。句は単純なものだが、これを英語で5,7,5に仕立てるとなるとなかなか厄介だ。苦肉の作である。(桜草ただ一輪の薄曇り)A little cloudy ---Primrose blooms alone--- in the early spring(春嵐や深夜目覚めの睦ごと)A sudden spring stormat midnight; AwakeningWe've intimate talks
Apr 14, 2009
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サッカーのW杯試合やその他の日本チームの対外戦において、日本の応援団が「オーオーオー」と声張りあげて歌う曲は、オペラ『アイーダ』のなかの行進曲のメロディである。これを応援曲とすべく創案した人が当然いるわけで、私も以前たしかテレビでだったと記憶するがその初めについて耳にしている。90分間の試合中に休みなしに「オーオー」と歌われるのは、サッカーファンとしてはどうも馴染めないのだが、しかし『アイーダ』をこんなふうに使用する発想には感心している。オペラ『アイーダ』を知らない人たちにもポピュラーな曲として忘れがたくしたのは、やはり功績というべきかもしれない。 ところで、映画『永遠のマリア・カラス』のなかでは、オペラのアリアや合唱曲がふんだんに使用されている。そして、私は、『カルメン』のなかの「トレアドル(闘牛士)の行進曲」が高らかに鳴りひびいたときに、ふいに私の母校・会津高等学校の『凱旋歌』を思い出したのだ。45年ぶりのことである。 その『凱旋歌』は、「トレアドル行進曲」のメロディを使い、歌詞をつけたものである。 強者(つわもの)等 強者等 強者 強者 君が功はその胸に 輝けり 今ぞ 今ぞ 出で立つわれ等は 勝てり 勝利を告ぐる 閧(とき)の声 天下の粋ぞと 仰がれて 飯盛山の秋月高く 輝く選手のその功 フレー フレー フレ フレ フレー 会津高等学校・『凱旋歌』、ビゼー作曲・・・なぁんて、カッコウいいでしょう? そう思っているのは私だけかもしれませんが。 会津高等学校というのは旧制中学時代を含めると130年くらいの歴史があり、その旧制の校歌も残っているが、学校歌が私の時代で5つあった。たぶん現在も歌い継がれ、さらに新しい歌もできているであろう。校歌、学而会歌(一般の生徒会に当る)、第一応援歌、第二応援歌、そして凱旋歌。 『学而会歌』(1) 緋威鎧う若武者が 春 紅の花を浴び 黄金の甍 銀鞍に 右手を翳して 仰ぎけん (2,3番略) 『応援歌第一』(1) 秋秀麗の野を踏みて 重き使命の営みに 向うや若き一つ群 黒き瞳の輝きに 勝利の色の映ろいて 門出の曲に眉あがる (2,3番略) 『応援歌第二』(1) かの群小を凌駕して 美酒(うまざけ)酌みし幾度(いくたび)か 古き伝統(つたえ)の学舎(まなびや)は 今 一千の肩にあり あゝ貫かん 貫かん 栄(はえ)ある誉 我等また (2,3,4,5番略) イヤー、おぼえているもんだなー。それに、格調高い歌詞だ。 というわけで、映画『永遠のマリア・カラス』のなかの「トレアドル行進曲」を聞きながら、思いがけず45年前の高校生時代を思い出しながら、うかんでくる学校歌をくちずさんだのだった。
Apr 13, 2009
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英語俳句の試み(5シラブル、7シラブル、5シラブル)。Oh forget-me-notJust thing that it comes outA burden of love by Tadami Yamada
Apr 13, 2009
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午後ほんのしばらく外出したが、汗だくになって帰宅した。シャツだけの薄着だというのに。もう初夏なのだ。 ここ数日のうちに山の木々の葉叢の色が変わってきている。白緑(びゃくろく)に煙ったようなのは、山桜が散って葉桜になったのかもしれない。あるいは、櫟(くぬぎ)や栗が早くも花穂をだしているのか。 躑躅(つつじ)が咲き、と或家の庭には花梨が咲いていた。薄紅色の五辨の花が、新緑の枝先各々にひとつづつ。花形ははっきりしていて、まだ出たばかりの小さな黄緑の若葉のなかで人目をひきつける美しさ。花梨の実はあんなに大きいのに、花時の全体の姿はあっさりして上品だ。 我家の庭では、勿忘草(わすれなぐさ)が小さな水色の花を咲かせた。桜草の茂みの陰に、ようよう日溜まりをみつけて、それこそ忘れてしまいそうなほどの可憐な花が四つ五つ。
Apr 12, 2009
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さきほどまでテレビでフランコ・ゼフィレッリ監督の映画『永遠のマリア・カラス』(2002年)を観ていた(AXN;21時~23時)。 『永遠のマリア・カラス(原題:Callas Forever)』 監督・脚本フランコ・ゼフィッレリ、脚本マーティン・シャーマン、撮影エンニオ・グァルニエリ、音楽監修ユージン・コーン。 出演ファニー・アルダン(マリア・カラス)、ジェレミーアイアンズ、ジョーン・プローライト、ジェイ・ローダン、ガブリエル・ガルコ。 フランコ・ゼフィッレリは、ルキノ・ヴィスコンティが主宰する劇団を経て、エリザベス・テイラーとリチャード・バートン主演の『じゃじゃ馬馴し』(1967)、オリヴィア・ハッシーとレナード・ホワイティング主演の『ロミオとジュリエット』(1968)で映画監督として注目された。いずれも、言うまでもないが、シェイクスピアの戯曲の映画化。その後、宗教的な題材の作品を撮るが、80年代に入るとオペラを映画化した作品をつづけざまに撮っている。『トラヴィアータ』(82)、『オテロ』(85)、『トスカニーニ』(88)などである。 ヴィスコンティ監督もオペラを数多く演出しているが、ゼフィレッリ監督も舞台劇やオペラを抜きにしては語れない映画作家なのであろう。彼はマリア・カラスと長い交際があり、『永遠のマリア・カラス』は彼女の思い出に空想をまじえて創作したものだと、映画の終わりにことわっている。映画のなかでの歌声はマリア・カラス自身のもので、音楽映画としてたいへんおもしろい作品になっていた。 マリア・カラスは1977年9月に亡くなっているが、映画の物語はその死の数カ月前という設定である。当時カラスは53歳、オペラ舞台から身を引き、パリで隠遁生活をしていた。それ以前に日本公演をしていて、日本の聴衆には絶賛されたが、カラス自身は自分の声がもはや歌うに値しないほどに衰えていることを自覚し、日本公演を恥じて隠遁を決意したのだった。絶世のソプラノ歌手としてのカラスは、すでに伝説の存在になろうとしていたのである。 その彼女の邸宅に昔なじみのプロモーターが企画を携えてたずねてくる。現在のカラスが演じるオペラを映像に撮り、そこに22年前の絶頂期のカラスの歌声の録音を重ねるというのだ。いわゆる「くちパク」である。 カラスは反撥するが、やがて『カルメン』なら・・・と思いはじめる。カルメンは、昔、歌を録音したことがあるが、舞台で実際に演じたことがなっかったのだ。オペラにおける最も重要な役どころであるカルメンをどうしても自分のものにしたい。それは芸術家としての炎のような欲望だった。 映画はこの『カルメン』製作の様子と、その映像をすばらしい迫力でみせる。マリア・カラスを演じているファニー・アルダンがみごとだ。マリア・カラス本人の歌声が圧倒的で、「くちパク」企画の物語が、映画そのものの「くちパク」と重なって、魔術的なおもしろさである。 さて、物語はその後どのように進展し、どのように終結するか・・・これは書くわけにはゆくまい。 しかしこのままこの日記を終わるのも芸がない。で、2,3気がついたことを後日の検証のためにメモとして書いておく。 (1)ロバート・ワイズとジェローム・ロビンスの共同監督作品『ウエスト・サイド物語』(1961)のなかの有名なナンバー「アメリカ」とそのシーンは、オペラ『カルメン』(ビゼー作曲)のなかの楽曲を引用しているのではあるまいか。 (2)映画のなかで、カラスのパリの邸宅にいる老嬢の召使のイメージと、バルテュスの絵画『キャッシーの化粧』(パリ、ポンピドー・センター国立現代美術館蔵)および『ジョルジェットの化粧』(ニューヨーク、ルコン・ギャラリー蔵)等の一連の化粧シリーズに登場する召使のイメージとの共通性。 (3)映画のなかの『カルメン』の1シーン。カルメンがドン・ホセを初めて迎える場面で、カルメンがベッドに両手を頭の後ろにまわし、足をやや開きぎみに投げ出す姿は、ゴヤの『マハ』その他版画にあるイメージを連想させる。
Apr 11, 2009
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できたてのホヤホヤ、ひさしぶりに創った英語詩。A Spring's Nightby Tadami YamadaThe star-filled skies rushed greet to meVirgo-cluster, Eta-carina, in the April night.Gentle breeze made leaves to twinkle brightWith familiar smells of spring in the lee.I strolled there hearing a nightingale to cheepO beautiful night; it's a waste of time to sleepVirgo that is the star revives spirits of allEta-carina containes all disasters of peopleTo look up at the stars I stood beside a peepul"A happy happy night"; the bird came at my callAgain I strolled there raising my head with hopeO beautiful life, I'll sing songs within my scope【訳】満天の星空がどっと私に挨拶する四月の夜の乙女座星雲、竜骨座のイータ。そよ風が葉叢をキラリと輝かせ風下のなつかしい春の匂い。私はそこらぢゅうを歩きまわる、夜鳴鶯の鳴声を聞きながら。おお、眠るには惜しい、美しい夜よ乙女座はすべての魂を蘇らせる竜骨座のイータは人々のあらゆる災いを封じこめる私は星を見上げて菩提樹のそばにたたずむ「ハッピーハッピーナイト」私の呼声に鳥がやってくる。私はふたたび歩きまわる、希望をもって頭をあげて。おお、私は力のかぎり歌おう、美しい人生よ------------------------------------------Copyright (c) 2009 Tadami Yamada. All Rights Reserved.
Apr 9, 2009
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病院への往復にバスを使っていることについては先日の日記に書いた。車窓から見る街のなかの花や木々は、楽しみのひとつである。じつにさまざまな花木が植えられていて感心する。生垣のイヌツゲや紅カナメやコノテカシワ、梅、桜、花桃、椿は言うにおよばず、ドウダンツツジ、ツツジ、サザンカ、エニシダ、レンギョウ、シャクナゲ、サンシュユ、コブシ、モクレン、カイドウ、コデマリ、ハナミズキ、ボケ、トサミズキ・・・。個人の庭の植栽は、もちろんその人の趣味によるだろう。つまりは趣味が千差万別ということだが、そのあまりの違いに驚くのである。 ところで、ある畑地の二か所に枝垂桜、ないしは枝垂桃があって、両方ともに今が盛と咲き誇っている。しかし私が気にとめたのは、そのうちの一本の木の花が紅白いりまじっているからだ。 以前、我家の近所の梅が一重と八重が一本の木のなかでいりまじっていることを書いた。どうしてそんなことが起るのか、私は不思議でならないのだった。この枝垂桜(桃)の場合は、花の色が一本の木のなかで紅白いりまじっているのである。もう一本の木は白一色の花である。ということは、この入り混じっている木は、異種交配によるか突然変異種と考えられるが、それにしても、花色が別々のまま各々の枝がいりみだれているのだから、まことに珍なる光景だ。桃や桜は異種交配が起りやすいのだろうか。桜が自然種・園芸種あわせて160種ほどにもなるのはそのためかもしれない。 バスの車窓からその異様な枝垂桜をながめながら、「こういう華やかさは、しかし、嫌いじゃないな」と思い、ふと、「歌舞伎桜」と呼んでみたくなった。異装に身をやつすことを「かぶく」といい、そうして闊歩する男たちを「かぶき者」と称した。歌舞伎の語源である。いかがであろう、「歌舞伎桜」。
Apr 8, 2009
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朝、9時30分の予約で左手の最終診察。握りこぶしをつくったり開いたりして、「大丈夫のようですね。万一、腫れるようなことがあったら、また診せてください」と、ものの5分ほどで終了した。結局、全治2週間のケガだったわけだ。 診察の順番を待ちながら、ポケットにつっこんで携えていった本を、待合室の長椅子に座って読んでいた。前の椅子にいた兄弟らしい幼い子が、後ろ向きになって椅子にひざまづき、にこにこ笑いながら私の様子を見ていた。私は本から目をあげ、笑いながら、「ママの注射がおわるのを待っているの?」と聞くと、満面の笑みをうかべてコックリうなづき「そうなんです」と、きちんとした言葉づかいでこたえる。そして、「赤ちゃんが生まれるんです」。あどけない顔に利発な目がかがやく。 「じゃあ、赤ちゃんが生まれるのが楽しみだね」 「はい」 「こちらは、弟?」 「そうです」 「お兄ちゃんが面倒をみているんだね。えらいねー」 「幼稚園に行くんです」 「いいねー。楽しみがたくさんあるね」 「そうなんです」 臙脂色のクルーネックの鹿の子のTシャツの背中に、同系色の変り糸でちいさな天使の翼が刺繍されている。弟はグレーで、胸にどこか外国の1800年代に創設されたクラブ名がプリントされている。 ふたりの顔をみていると、とても良い育てられかたをしていることが自ずと知れた。 やがてお母さんが診療を終わってやってきた。子供たちがすっかり後ろ向きになって私に話しかけているので、「おさわがせいたしました」と挨拶した。子供たちは駆け寄り、それからふたりして私に「バイバイ」と手をふった。 「さようなら」・・・天使クン。
Apr 8, 2009
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桜が満開になったと思ったら、今日はもう初夏のようだ。庭の柿の木も黄緑色の若葉を出してきた。仕事場の窓をあけると、気持のよいそよ風が入ってくる。 しかし老母はしきりに「寒い、寒い」を繰り返している。エアコンデショナーも暖房のまま、ベッドのマットレスの下にも電気敷毛布をいれている。要するに血液が冷えてきているのだ。生物として、老いるとはそういうことだ。 さきほどスーパーマーケットに行ってきた。レジで支払いをしていると、すぐ背後でなにやら機械音が「ウィーン」と鳴り響いた。私を担当していたレジ係が、「あぶない!」と驚きの声をあげた。ふりむくと、学齢前の男の子が梱包結索機のスイッチ・ボタンを押したらしく、ビニール紐が空中に輪を描いて「ガチャリ」と台のスリットに絞り込まれていった。男の子は一瞬のうちに後ずさったので、何事もなかった。 「ああ、びっくりした!」と、レジ係は言った。「機械をいじらないでくださいね」 男の子はお祖父さんと一緒だった。買い物袋を提げたお祖父さんが、「ちょこちょこするんじゃない」と軽く叱った。すると男の子は、「お祖父ちゃんは、楽しさを知らないんだよ」と言った。 「ちょこちょこするのと、楽しさはちがうだろう」 「ちょこちょこするから、楽しいことがわかる」 「なに言ってんだよ」 「お祖父ちゃんは、もう分らないんでしょ?」 アッハッハッハ。この勝負、はたして軍配はどちらにあげようか。 教育的には、お祖父さんは指摘すべきポイントが違うと言えましょう。とかく大人(教師もふくめて)は感覚的な言葉で対処するばあいが多いが、これはいけませんでしょうね。子供だからこそ、大人は幅広い視野に立って、幅広い視野を与えるための理屈を日常的におしえてゆくことが必要なわけです。めんどうくさいんです、子供は。 まあ、それはともかく、私は男の子(たぶん5,6歳)とお祖父さんとのやりとりをおもしろく聞いていたのだ。そして、なるほど行動範囲がせばまること、ないしは自らせばめて行くことも、老化のあらわれなのだと思ったのである。ちょこちょこするほどの好奇心も失われ(あるいは見方を変えれば、「見るほどのことは見た。すべきほどのことは為した」とも言える)、ちょこちょこするほどの生命力も身体機能も衰えてきているというわけだ。
Apr 7, 2009
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裏山にのぼって森林公園の桜を見てきた。まだ満開にはなっていず、八分咲きの木もあれば固い蕾の木もあり、おそらく数百本にのぼるであろう桜樹が一様ではない。山の上なので、人間の感覚ではごく近い隣同士と思っても、地勢や温度差があるのかもしれない。しかし心配した雨にもならず、おおぜいの家族連れが敷物をひろげて楽しそうに食べたり飲んだりしていた。 展望台ふうにしつらえた頂上の一画から、遥か赤城山、武甲山、伊豆山、高尾山、そして空気が澄んでいる早朝などには富士山、丹沢山系から大山にいたる山並が見える。 ウグイスが鳴いていた。もうしばらくすると、コナラ、アカカシ、アカマツ、ムラサキシキブ、ハンノキなどの新緑によって光景が一変するだろう。タチツボスミレやアケボノスミレが咲き、タンポポが山の斜面に満天の星空のようにひろがり、ヤマブキ、レンジの黄色があちこちに立体的にちらばっている。 桜はソメイヨシノだけではないようだ。ヤマザクラもある。保護林のため、林のなかに踏み入ることはできないので、近くに寄って確認できないのが残念。もっとも私は、日本にある160種にものぼるらしい桜を見分ける植物学の知識はないけれども。 このブログを読んでくださる方は、何種類くらいの桜を御存知だろう。 ちなみに以下にいくつか列挙してみましょうか。 玉藻前桜、玉桜、旗桜、嵐山桜、越後緋桜、暁桜、紅姫傘桜、西行桜、小塩桜、敦盛桜、雪の曙桜、熊ヶ谷桜、白単辨枝垂彼岸桜、彼岸桜、蘭奢待桜、八重単桜、筑波根桜、常盤桜、手羽夜桜、朝桜、布引桜、下水桜、八重山桜、山花王桜、秋山桜、老ノ波桜、浅黄桜、桐ヶ谷桜、玉緒桜、左近桜、衣笠桜、薄墨桜、若木桜、小翠桜、初瀬山桜、舞姫桜、元日桜、天の川桜、寧楽花王桜、牧西桜、雪山桜、楊貴妃単辨桜、楊貴妃八重桜、千本桜、百枝桜、山桜、伊勢桜、御園桜、普賢象桜、シテ桜、南殿桜、芝山桜、爪紅桜、入相桜、芙蓉峯桜、大膳桜、西府桜、鞍馬桜、児桜、大江戸桜、乙女桜、薫芳桜、兼好桜、地主桜、法輪寺桜、九重桜、白桜、東桜、緋桜、業平桜、御衣黄桜、泰山府君桜、吉水桜、真桜、黄縮緬桜、月栄桜、小町桜、芳野桜、艶桜、樺桜、毬桜、一文字桜、黄金桜、白妙桜、鳳来寺桜、松月桜、夜ノ雪桜、墨水八重桜、欝金桜、牡丹桜、塩竈桜、有明桜、漣桜、夕栄桜、小桜、愛耶桜、三芳野桜、香桜、虎尾桜、小督桜・・・・・ これで100種。まだまだ60種以上あるらしいのです。 アレ? 染井吉野桜がはいっていませんね。これを入れて101種。染井吉野は江戸彼岸桜と大島桜とのかけあわせらしいので、その親木をいれて103種。 ちなみに染井吉野桜は、江戸の染井の植木屋が売りに出した桜だったのでこの名称で呼ばれた。染井というのは現在の豊島区駒込六丁目から三丁目あたりである。染井という地名はなくなったが、ちょうどこのあたりが坂道になっていて染井坂と呼ばれて、わずかに江戸のにおいを残している。江戸時代、このあたりに林田藩主の建部屋敷があり、邸内に名泉があった。それを染井と称したことが地名の起こりだという。また、その当時から花木の栽培地で、植木屋が多かった。菊人形も染井が発祥の地といわれている。 我家の裏山への登り口は、3,4年前までは道といっても人が歩いているうちにおのずと道となったぐあいのむきだしの土の小道だった。ごく近年になって、おそらく東京都が公園として整備したのであろう、コンクリート・タイルが階段状に山頂まで敷きつめられた。その登り口にあるK氏邸の門際に、大人がようよう一抱えできるかどうかという大木の染井吉野があり、きょう、その桜が満開に咲き誇りすばらしい景観となっていた。私はその花の雲の下をくぐりぬけて山へ登った。のぼりながらK氏邸を振り返り振り返りし、ここまで見事になるにはどれほどの年月を必要としたのだろうと思いながら、ちょっと羨ましくなったのだった。
Apr 5, 2009
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筍が出はじめた。朝掘りのものを一本買ってきて、さきほど糠を入れた湯水で下茹をした。初物である。初めての筍は、私の好きな筍御飯にする。恒例のようなことだ。若筍煮もつくろう。今日の夕飯はそれに、スルメイカと甘エビの刺身、菜の花のおひたし、茶碗蒸し(トリササミ、椎茸、ミツバ)、建長寺汁(人参、牛蒡、豆腐)。デザートは苺。 朝も昼間もよく晴れ上がった気持のよい天気だったのに、夕方になって何だか空気にどんよりした湿気が含まれはじめた。夜には雨になるかもしれない。 買い物ついでに山際の道を自転車で通ると、山桜があちこちに咲いていた。我家の裏手の森林公園にも山桜がある。きっと咲いていることだろう。リュックサックを背負った何組かの夫婦連れに行き会ったが、たぶん山頂の公園に行ってきたのであろう。この人たちが降りてきた道とはほんの少し離れた別の道を通れば、山頂に近いところにひらけた大きな住宅街をまわり込むように公園に行けるのだが、そこにはみごとな染井吉野の桜並木がつづいている。・・・行き会った夫婦連れは知らなかったかもしれないなー。 母の生家である円通寺には、昔、浅黄桜(薄墨桜)があった。薄緑がかった色の花が咲く。いつのまにか失われて、すでに長い長い年月が経つ。その桜を老母がふと思い出して、先日、昔語りに私に話していた。 同じ薄墨桜を、私も母も、JR高尾駅(八王子市の高尾山口)に程近い寺院の境内で見ている。たいへん立派な大木で、満開に咲くと、ぼーっと薄緑色の雲がかかったように靉靆としてみごとだ。老母の記憶のなかでは、生家の桜と高尾の桜とが混然となって、ただひとつの薄墨桜の妖しいまでの美しさの思い出となっているようだ。 薄墨桜といえば、宇野千代さんの小説『薄墨の桜』も同時に私は思い出すのだが、いまからちょうど20年前に毎日新聞社が主催した〈日本の美術にみる 展覧会「桜」〉も思い出さずにはいられない。それはすばらしい展覧会で、また、意表を衝く企画であった。 その展覧会図録の「ごあいさつ」には、こう書かれている。どのような企画であったかが分るので、一部分を引用してみよう。 〈本展では、今に残された名品より、第一部「桜を観る」で桜花を描いた古今の絵画を、第二部「桜のデザイン」では桃山より江戸期の漆工・陶磁・染織・金工の各分野にわたる華麗な意匠の数々を、第三部「桜に遊ぶ」では貴賎を問わず桜下に集い遊宴する人々の姿を総覧し、さらに第四部「桜を知る」として、桜の研究者であり画桜の写生の名手と知られた人々の桜花譜をとり上げました。〉 こうしていずれ劣らぬ名品が144点、一堂に会したのであった。 桜を描いた美術品のコレクションといえば西宮市の〈笹部桜コレクション〉が、つとに有名である。このコレクションは同市の白鹿記念酒造博物館に寄託展示されていたけれど、現在はどうなのか。上述の展覧会では、もちろん笹部桜コレクションからのものも出ていた。 さて、夕飯のメニュー、菜の花のおひたしは桜の絵柄の器があるので、それに盛ってみよう。そして、あした、ちょっと裏山に登って山桜をみてこよう。
Apr 4, 2009
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庭の白桃が花盛りである。丈3メートルほど。さほど大きな木ではないのだが、何千もの純白の花をつけるので、毎年、この花が咲くのを楽しみにしている。 今年は種々の草木がいっせいに開花した。紅椿、ぼけ、富貴草、桜草、紫蘇、小手鞠、そしてグミも細長い釣鐘状の花を咲かせている。この後、クロッカスが咲き、タンポポも咲くはずだ。 おととし、芝桜をあたりに這わせようと植えつけをしたが、土が合わなかったか、たちまち全滅してしまった。病院の行き帰りのバスの車窓から、小公園の街路との見切り土手に植えられた芝桜が、みごとに咲きそろっているのが見える。1週間のうちにグングン成長しているのがはっきり見てとれ、感心しているのだが、自分の庭での失敗に忸怩たる思いがわきあがってくるのだ。我家の庭では雑草はよく育つのだが・・・ 白桃の一千の花ありがたき 青穹
Apr 3, 2009
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このことはすでにどなたかが書いているかもしれないし、私があえて書くべきことでもないかもしれない。2日ばかり迷って、私が直接聞いたことでもあり、おおぜいに披露された話なので、やはり書くことにした。それは、「作家(芸術家)の決断」という意味で、いまもなお私のこころに刻みつけられていることだからである。 早川良雄氏の肉筆原画を氏の紫綬褒章受章・作品集出版記念祝賀会のおりにプレゼントされて私が所蔵していることは、一昨日、氏の逝去の報とともに書いた。このとき、数人の人が、籤引きでプレゼントされたのだったが、パーティのいわばアトラクションのような場面を司会されたのは、グラフィック界の長老格のおひとり灘本唯人氏であった。灘本氏は、肉筆原画をプレゼントすることになった経緯を述べられ、その話がこれから書こうとすることなのである。 ある日、灘本氏は、早川良雄デザイン事務所の外にたくさんのショッピング・バッグが積まれているのを見つけ、それは廃棄処分にするゴミのようであった。念のために中身を見て氏は驚く。早川良雄氏のイラストレーションの厖大な量の原画だったからだ。灘本氏が早川氏に問うと、「これまでの作品原画を処分して捨てるところだ」という応え。灘本氏は仰天し、そんなことをすべきではないと説得にかかった。その熱心な言葉に早川氏はようやく決意を翻し、その後、灘本氏は部下とともにそれら原画の記録を作成したのだという。祝賀会の席でプレゼントされた作品は、そうしてあわや廃棄される寸前から救いだされたものだ、と。 灘本氏は、もちろん早川氏の心の内にたちいる話はされなかったが、私は若く、イラストレーターとして出発して何ほどの年月でもなかったので、功成り名を遂げた作家がそれまでの作品原画をすべて廃棄してしまおうという決心に、ひどく衝撃を受けたのだった。旧いものを捨てて再び新しい創造へ向おうとしていらしたのかもしれないが、私はそのお気持を忖度することさへ憚られ、胸のなかに鉄の空箱を埋め込まれたような感じで、プレゼントされた原画を手にしていたのだった。 グラフィック・アーティストにとっては印刷されたものが作品なのだという考えもあるかもしれない。たしかにアドヴァタイジング用の原画や雑誌の口絵や表紙絵は、文字が入ることを計算して構図をつくるので、原画はある意味で間が抜けたものではある。完成の一歩手前と、言って言えないこともない。したがって、早川氏のような本物のグラフィック・アーティストは、純然たる絵画作家とは自分の作品についてのイメージなり態度がことなるのかもしれない。 それにしても、と、私は思うのだ。肉筆原画には、他人が測り知れない苦闘と歓喜とがしみついている。人生のすべてとは言わないまでも、やはり人生そのものでしかないものなのだ。その半生の証しをすべて廃棄してしまおうとしていた早川氏の決断に、たとえそれが灘本氏によって止められたとはいえ、私は言葉をうしなったのだ。おそらく、私は今後もなんどとなくこのことを思い出すだろう。そしてそのたびに、ひとりの偉大な行跡を残したグラフィック・アーティストのこころの奥に想いをいたすにちがいない。
Apr 2, 2009
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左手のケガも今日でようやく毎日の通院を終了した。手術が必要かどうか様子をみていたのだが、その必要もなく、あとは念のために飲み薬をつづけ、1週間後にもういちど診察する。やれやれである。 通院はバスを使っていた。朝、晴れて空気が澄んでいると、遠くに富士山が見える。手前に高尾山から大山にいたる山並が連なる。富士はまだ雪を戴き、朝陽に黄金色にかがやいて意外な近さに見えるのである。 東京には富士見町という名称が八つ。ほかに富士見台が2か所、富士見平、富士本、あるいは瑞穂町の富士山栗原など、現在は見えなくとも昔は富士山が見えたであろう地名が残っている。私の母校、法政大学も千代田区富士見であるが、40年以上昔、通い慣れた少し高い外堀堤からも富士山は望めなかった。 富士見坂という坂道の名称は、石川悌二著『東京の坂道』やその他の書物によれば13か所ある。昔昔の江戸の町は、家康が入城した当時は坂と谷、そして沼や湿地のひどい土地であった。そこを、あっちを削ってこっちを埋め立てして整地していったわけで、現在でもかなりでこぼこしている。法政大学の裏手は靖国神社で、歌にうたわれてもいる九段坂は、明治の初めころまでは現在よりよほど急な坂で、坂下には銭をとって大八車などの後押しをする人たちがいたという。坂の上からは江戸湾が見渡せたとも物の本に書いてある。つまり、その坂の上を削って、現在のわれわれに見慣れた九段坂になったのである。 おそらく明治のころまでは、東京のいたるところから富士山が見えたのであろう。 バスに乗ることはめったになかったので、私は、車窓から富士山を眺めるのを楽しみに通院していたのだった。 今日はあいにく曇り空。富士は見えないし、いたるところで桜が3分4分に咲いているが、花曇りというより、バスに乗っていた御老人たちが「なんだか寒いわねェ」と囁きかわすような天候である。こういう曇り空の下で見る桜は、華やかさより返って侘びしさが感じられる。賑わえば賑わうほど淋しくなってくるような、そんな感じである。花の薄々とした色のせいであろうか。 しかし、この週末は花見客がくりだすことだろう。こればかりはどうも私の趣味に合わないのだけれど。
Apr 1, 2009
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