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一昨々日、28日、戦後日本のグラフィック・デザイナーの草分けとして、また現代グラフィック界の最長老として尊敬をあつめていた早川良雄氏が亡くなられた。享年92歳。 早川良雄氏について、いまさら私が語るべき必要はない。私自身は、残念ながら教えを請うて謦咳(けいがい)に接する機会はなかったが、氏の肉筆原画1点を頂戴して宝物として所蔵している。 1982年に氏が紫綬褒章を受章され、1985年には初めての作品集だという『早川良雄の世界 ―その情感と形状―』を講談社から刊行され、その記念祝賀会に招待された。そのとき私は初めて氏にお目にかかった。そして、たしか籤引きでだったと記憶するが、3,4人に氏の肉筆原画がプレゼントされたのである。まさか私が頂戴するとは思ってもいなかったので、まさに望外の喜びだった。早川良雄のイラストレーションといえば、日本的なやわらかな情感のモダンな女性像が広く知られるところである。私が頂戴した作品も、ピンクの鍔広の帽子をかぶった女性がストローでジュースを飲んでいる姿を描いている。銀座の八咫屋(やたや)であつらえたライトグレーの額におさめられ、裏に「御礼 早川良雄」と直筆でしたためたカードが貼られている。 私はその後、今日まで27年間、氏の原画を身辺に置いて、自らの仕事に励んできた。早川良雄氏の御冥福を心より御祈りする。
Mar 31, 2009
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きのうの夢の中の絵について、あえて夢分析を書かなかったけれど、この夢に謎はなにもない。私の無意識の表徴にしろ、ごく単純なものだ。私はたちまち連想をくりひろげ、夢が象徴している無意識の実体に行きついてしまった。 〈有翼の人たちが天空の高みで格闘しているのを、私が下から見上げている〉というのは、左手をケガしている私が、仕事からしりぞいて、自由自在に飛びまわって活躍している人たちをただ見ているだけという、私の現状を表わしている。 〈島のように空中に浮かんでいる地層〉というのは、種々の分野(専門的な職業分野や社会的な状況等)があるという意味。きのう詳しく書かなかったが、この各々の地層を支え、連結しているのは、棍棒のような細い柱なのだったが、これは形状から明らかに「骨」である。つまり、私は病院でレントゲン撮影をして、自分の手の骨格を実際に見ていた。それが空中楼閣を支える柱として表現されているのである。 のみならず、事実として、私はこのレントゲン・フィルムを絵画製作のための資料として病院から貰えないものだろうかと、内心でずっと考えているのである。このことが、映画のカメラがパンしながら次第に後退してロング・ショットの映像をつくりだすように、私が巨大な絵を見ていることの意味である。すなわち、私は作品を描きたいか、あるいはそう思いながらも他人事のように「絵」を眺めているのである。 これがいわば無意識の大筋である。しかし、私はここにもう一皮かぶさっているものの存在にも気がついている。それは夢の中の絵の細部にあらわれていた。しかし、そのことについてはここに書く必要はなかろう。私が自分の無意識に存在することとして意識化すればそれでよい。 夢分析はときに週刊誌ネタになったり、ハウツー読本にしたてられたりする。あるいは「あなたの夢を分析します」などと言う人もいるし、逆に、「ねえねえ、私の夢を分析してよ」などと言い出す人も少なくはない。 が、夢分析というのは、他人がすることではない。分析家という人たちがすることでもない、と言うと奇異に思われるかもしれないが、夢分析というのは、夢を見た当人がその夢から連想することを次々にくりひろげてゆき、八幡の薮知らずのように錯綜した無意識のなかに一筋の緒をみつける作業なのである。分析家はその静かで寡黙な立会人にすぎない。本人が連想をストップしてしまえば、分析は失敗なのだ。たとえてみれば、こんぐらかった巨大な毛糸玉を、ゆっくりゆっくり丁寧にときほぐしてゆき、糸のはしっこを見つけだすことに似ている。 「ねえねえ、私の夢を分析してよ」などと言うのは、たしかに分析すべき人格なのかもしれない。ナルシストで、他人に関心をもってもらいたくて、恥ずかしげもなく自己の無意識をばらまいているのだから。 こういう人たちには、自分の見た夢は「おもしろい」という固定観念がある。じつは、夢の話ほど他人にとってつまらない話はないのだということに気が付いていないのだ。夢の一見しての荒唐無稽さは、本人の無意識とつながっているだけに、当人にはきわめて「おもしろい」のである。荒唐無稽さに、自分の意識から遠ざけておきたい重要な謎が秘められているからだ。しかし、他人にとっては単なる荒唐無稽なバカ話にすぎない。文学性もなにもありはしないのだ。 漱石の『夢十夜』や、吉行淳之介の夢を素材にしたといわれる諸短篇がおもしろく、すぐれて文学的なのは、文学とすべくある巧妙な操作がなされているからである。それらの小説は、すでに夢の記述からは遠いのだと言ってよかろう。フロイトの『夢判断』にはフロイトの患者の症例としてのたくさんの夢が記載されている。しかし、それさえも、夢の諸相をつたえてはいない、と私は思っている。世に「夢日記」と称するものは数多いが、たぶん、夢のエクリチュール(記述法)は、いまだ確立されてはいないのだ。 私は夢を自己分析し、無意識として在ることを表面に出してしまう。私にとって自分が謎ではないのだ。そのてん精神的にはいたって健康なのだが、さて、絵描きとしてはどうか。自分を謎の塊だとして創作のモチベーションにする芸術家は多いはずだから。
Mar 30, 2009
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あいかわらず家族との接触もほとんど拒んで寝室でひとりぽつねんとして本を読んで過している。今朝方ふたたび手が腫れていたので、まだ完治までは遠いかとガッカリしたが、痛みがあるのでもないから仕事をすればいいものを、活動のモチベーションは低下したままだ。いままでだってケガくらいはしてきたので、自分の肉体的なダメージがどの程度かぐらいは分るつもりだし、ケガで活動を休止した憶えはない。モチベーションの低下、・・・「気」の低下を感じることが、やりきれない。 本を胸に置いて、うとうとしながら夢を見た。 有翼の人間が天空の高みで格闘しているのを、私は下方から見上げていた。あらゆる細部が明瞭に見え、空中楼閣の構造もはっきり見えた。そのうちに、私の視点は、映画のカメラがパンしながら後退してゆくように次第にもっと広い範囲を視界におさめるほどに後退していった。空中楼閣を支えている空中の地層、それが他の島のような地層とどのように結合しているか、その構造が明らかになり、やがて地上の建造物も見えてきた。いまや有翼人の闘いは遥か遥か彼方である。・・・と、そのとき、私が見ているのは一枚の巨大な絵画であることに気が付いたのだ。「絵だ!」・・・そう思ったとたんに目がさめた。 夢からさめても、その「絵」の細部はありありと思い浮かんだ。絵描きの私は、絵そのものを夢の中でみたことはこれまでなかったように思う。何の絵かはしらないが絵具を一生懸命に塗っている夢はみたことがあるけれども、完成した作品としての絵を夢にみたことはなかった。 いま見た夢の絵は、いったい誰の作品だろう。実在の作品とは思えなかった。夢のなかで私がつくりあげた作品なのだろう。それは実際に私が現在描いているものとは異なる種類の作品だったが、そしてもし今後、私がこの夢の作品を実際に描くことになれば、それは私のこれまでの作品発想の方法としてはありえなかったものとなる。 小説家が自分の見た夢から作品を発想することがあることは良く知られている。夏目漱石の『夢十夜』や、吉行淳之介の『鞄の中身』『目』、その他その他。 音楽家はどうなのだろう。知り合いの作曲家・新実徳英氏は、以前私に、「夢で音楽が聴こえることはありますが、それを楽譜に写しとることは、音楽の高等教育を受けた者にも非常に困難なことです」と言っていたけれど。 画家はどうか。他人はいざしらず、少なくとも私自身は夢から作品を発想したことはない。私の作品はむしろ夢から非常に遠い。夢が無意識の表徴だとしたら、私の作品は無意識の対極にあるからだ。(ということは、シュルレアリスムからも遠いということである) さて、肉体的にも精神的にもあまりかんばしくない状況でみた夢のなかで、私は初めて絵画作品そのものを明瞭に見た。この夢のなかで見た作品を、今後実際に私が描いたとしたら、それは「盗作」なのかしら。ウフフ。 描いてみようかな。
Mar 29, 2009
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お見舞いありがとうございます。毎日通院してますが、医師によれば「予想通りの経過をたどって」回復に向っているとのこと。まもなく全快することでしょう。きょう土曜日は病院の休診日なのですが、主治医が特別に治療してくれるとのことで、午後行ってきます。 毎日、点滴注射をするのですが、たぶんこの薬のせいでしょう、夕方近くになると憂鬱になり、誰とも話をしたくない、話しかけられたくない、という状態になります。吐き気がするような気持の悪さでは全然ないのですが。病院から帰ると、誰にも会わないようにさっさと寝室に入ってしまいます。 この年まで病気をしたことがないので、病院という所をあまり知らなかったのですが、これさいわいと待合室で人々の観察をしています。上手に年齢を重ねてきたらしいことがたたずまいに滲み出ている人もいれば、介護の若者に自分の人生を語らずにはおられない人、あるいは何とも醜く年をとった人・・・まあ、さまざまですわ。あたりまえですがね。 70年80年生きて来て、たかが注射ごときに、「痛いよ! 死んじゃうよ! やめてよ! そんなことやったって治りャしないよ! 帰るよ! もう、やだよ!」と、のべつまくなく言い散らす老婆。かたわらでその夫が、「この人は機嫌が悪いと何言い出すか分らない人だから、気にしないでください」と、看護婦さんに謝っていました。見れば、なるほど、ナルシズムが知性の涵養をはばんでしまった、わがままなだけの肉厚だけど薄っぺらな顔をしていました。こういう妻に耐えてきた夫のほうは、苦労が他人への寛容さとなったと思える丸さのある人柄。 私は処置室という部屋で点滴注射をしてもらうのですが、その部屋はみな同様の患者ばかり。30分ほどもかかる点滴なので、私は本を読んでいるのですが、他のひとたちは看護婦さんをまじえてWBCの日本チームの活躍の話に花をさかせていました。あの日、待合室ホールに備え付けのテレビの前は黒山の人だかりになって、みな一喜一憂、手をたたいたり歓声をあげたり、いっとき、病人であることを忘れていたようだと、看護婦さんが笑ってました。ある婦人が、「こんどは、私、マオちゃんだわ!」と言うと、「マオちゃん?」「そうよ、アサダマオよ!」だって! スポーツって、こういうところがスゴイですねー。速効といってもよい効果は、絵描きの及ばないところかもしれない・・・そう思いながら、やがて襲ってくるであろう薬による憂鬱の前触れを感じていました。
Mar 28, 2009
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昨夕のこと、左手の甲におもわぬケガを負った。瞬間的に「ギャッ」と声をあげたけれど、瑕は2箇所、いずれも小さかったので、常備の消毒薬で洗ってバンソウコウを貼った。 ところが就寝中に寝苦しくなり、手をみるとひどく腫れ上がっていた。瑕の周囲5cmほどは皮膚が赤くなって半球状に盛り上がっている。 で、左手ではあるけれど一応商売道具なので、きょうの午前中に病院に行った。気軽な気持だったのだが、これが意外な大事になったのである。 レントゲン撮影はする、点滴やら、何やらの注射やら、血液採取やら。10時に出かけて、帰宅したのが午後3時を過ぎていた。化膿止めの錠剤を1週間分出してくれたが、経過を観察しながら薬剤を変えてゆくとかで、しばらく通院しなければならなくなった。 「手を下ろしていると浮腫(むくみ)が一層ひどくなりますから、なるべく心臓より上に保っていてください」と言われた。たしかに手をあげていると楽なのだ。しかしその状態を保っていることもできない。 さきほど夕食をすませ、薬を服用した。しかしなんとなく気分はすぐれない。微熱があるのかもしれない。あしたは朝早くに病院に行くので、もう寝ることにする。ここ一両日、早寝がつづく。
Mar 25, 2009
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WBCは日本チームが優勝! 2連覇を飾った。 抜かれつ抜きつ、ハラハラドキドキのおもしろいゲーム。 日本、3対2で韓国を引き離しての9回裏、韓国はもちまえの粘り強さが効を奏して3対3の同点にし、WBC史上2度目という延長戦になった。10回表、日本は1、3塁に走者をだして打席はイチロー選手。今日、イチロー選手は初回にタイムリー・ヒットで1点獲得に貢献していたが、その後はセカンド・ゴロがつづいていたので、(私としては)期待なかば。しかし、そこはスターのすごさなのか、みごとにヒットを飛ばして二人の走者をホームに帰した。5対3。 9回から登板したダルビッシュ選手は、四球で走者を出すなど制球に苦しんでいるようでもあったが、キャッチャー城島選手のリードも良く、三振三振でピチリト抑えてきた。10回裏、三たび四球で走者を出し、しかも盗塁して2塁まで進む、が、ダルビッシュ選手、動揺せずにみごとに抑えきって勝利をものにした。 勝利がいよいよ実現しそうになると、ベンチは早くもソワソワ。片岡選手などはいまにも飛び出しそうに足踏み、武者震い。一番に飛び出してやろうと言うかのように・・・ この試合、なんといっても先発ピッチャー岩隅選手のすばらしい投球。そしてレフト内川選手のナイス・プレーを私はあげたい。もちろんイチロー選手の守備と3点獲得に貢献したタイムリー・ヒッティングもある。彼はチーム・リーダーとしての重責のなかで、全試合を通じてあまり好調とはいえなかったので、勝利の瞬間の気取りを忘れた破顔一笑は、私の印象に強く美しく残った。 日本チーム、おめでとう!
Mar 24, 2009
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東京西部は朝から強風が吹いていた。 成田空港近辺でも同様だったらしく、WBCをテレビ観戦している途中で入ったニュースで、米貨物航空機の着陸失敗・炎上の映像がうつしだされた。 空港に据え付けられた定点カメラがとらえた映像らしかったが、滑走路に着陸体勢で入ってきた飛行機が、突然バランスを崩して尾部が接地、はじかれたように浮き上がって機首が平行にたもたれたと思った瞬間、今度はガクリと機首が下がって左翼が接地、そのまま機体は胴体で地を滑りながら横転、同時に機体から大きな炎があがった。胴体は大きく裂け、なにか無数の書類のようなものが空中に舞った。この間、およそ15秒。・・・それは、事故の一部始終をとらえた映像だった。そしてまた、テレビ・ニュースだからこその映像である。 「強風の影響か?」と、夕刊は書いているが、乗っていた二人(機長と副操縦士)が死亡し、成田空港開港以来の航空機死亡事故だそうである。 春嵐の窓たたきゆく悲しさや 青穹 春嵐や破れてありぬ旅衣 さあれ、我家の小庭の白桃はこの一両日中にすっかり蕾がふくらみ、ひとつふたつ五分咲きほどに開いている。まもなく何百という数の純白の花が咲くだろう。 その隣の椿も、例年だともっと早い時期に開花していたが、ことしは今が盛りである。美しい紅色の花が、咲いては散って、毎朝、石畳のうえに一輪二輪と落ちている。桜草も一輪が二輪、二輪が四輪と、種が飛び散ったままにあちこちで殖えて咲き、富貴草や紫蘇、ナズナも小さな花をつけ、寂しかった庭にようやく彩りがでてきた。 一つづゝ名草の芽や鉢の中 高浜虚子
Mar 23, 2009
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WBC準決勝、日本対アメリカは、9対4で日本が勝利、決勝進出を決めた。日本球史における念願のアメリカ・チーム制覇、とTV解説者は言っている。 立ち上がり、松坂投手は先頭打者ロバーツに2球目でホームランを浴びせられて1点を先取された。つづく2回にも、ふたたびあわやホームランかというところを逆風にボールが押し返されたところをセンター青木選手がキャッチして難をのがれた。しかしその後、1点を追加される。 2点を先取された日本チームは、2回裏、稲葉選手が四球で出塁、つづく小笠原選手のヒットエンドランで1、3塁とし、城島選手の犠牲打で同点に追いつく。 松坂投手は5回の2/3で投球数98に達し、WBC規則の投球数制限・・・「1投手100球まで(ただし打撃が継続中はそれを越えても可)」・・・によって降板。しかしリリーフ投手陣の好投もあり、後半、日本チームは岩村選手が3塁打を放つと川崎、中島の両選手もタイムリー・ヒットと好調が加速。6対4と主導に立った。8回裏には不調のイチロー選手がヒットを放って川崎選手をホームに返した。結局この回までに3点を追加、9対4と、ほぼ勝利を手中にする。9回に登場したダルビッシュ選手が、四球で走者を出して2塁まで進ませたものの、以後はみごとに三振に打ち取って試合を決した。 決勝戦は、これで5回目の対戦となる韓国。今回の韓国チームは、強いぞー! 日本時間、明日午前10時開始。楽しみ楽しみ。
Mar 23, 2009
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日曜日だというのに天気図は全国的に雨となっている。東京も、もちろん終日の雨。私は手当たりしだいに本のページを繰り、読書ですごした。新作のための考えがまとまらず、胸のなかが生煮えの鍋のようだ。 さて、WBCの準決勝、一方の組、韓国対ベネズエラは10対2で韓国チームが圧勝した。ベネズエラの選手は全員がメジャー・リーガーだったけれど、韓国チームの力はそんなことをものともしなかった。 明日、日本チームはアメリカと対戦するが、アメリカ・チームも全員がメジャー・リーガー。はたして我が日本チームは、彼等を下すことができるかどうか。私の見るところでは、YESともNOとも言いがたい。圧倒的に強いというわけではないし、選手個人としてはともかくチームとしての圧倒的な技量にも欠ける。特に打線がね。 でも、やはり期待はしますよ、当然。 午前8時半に開始ということだから、朝の日課はさっさとすませなくちゃ。午後は外出の予定があるし、もう寝ちゃおうかな。
Mar 22, 2009
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家族でテレビの前に座りこんでWBC(World Baseball Classic)の準々決勝、対韓国戦を観た。韓国チームとは今回4度目の試合である。 初戦の日本チーム(サムライ・ジャパンという私にとってはむず痒くなるような呼び方をしている)は、WBCの特別ルールに則ってのコールド勝ちをしたが、その喜びもたちまち潰えて、過去3回は1勝2敗。その後の対キューバ戦で思わぬ勝利をして、今日、韓国との4度目の対決となったわけだ。 日本は2点先取したものの同点に追いつかれ、恃みのイチロー選手はこの大会、打撃はまったくふるわず、過去13打席のうちヒットはただ1度だけ。ライトの守備ではメジャー・リーグでお馴染みの目ざましいジャンピング・キャッチを見せてくれていたが、とにかく成行きはまったく楽観をゆるさず、我が家の一同はハラハラドキドキ。ごひいきの城島選手は、前回、審判から退場宣告され、今日のキャッチャーは阿部慎之助選手。阿部選手も私はご贔屓だし、いままでベンチを温めていただけなので、出番がまわってきたことは嬉しい。城島さんは一番バッター。これも途中から稲葉さんが代打となった。しかし、原監督のこの采配はみごとに図に当り、稲葉さんは活躍。そして小笠原道大選手の活躍。「ドウダイ!」てなもんで、なんと6対2で快勝した。 準決勝はアメリカ・チームとの対戦。月曜日(23日)、ロスアンゼルスで。 韓国はベネズエラと対戦するが、ここでもし韓国が勝利し、わが日本チームも勝利したとすると(それを願っているけれども)、優勝決定戦はまたまた韓国とぶつかることになる。テレビ解説者は対韓国戦をしばしば「因縁の対決」と言ってきた。まさにそんな様相を呈しているこのWBCである。そうなると面白いんのだが・・・ 日本チームは連覇をかけているし、韓国チームは初戦のコールド負けを「恥辱の日」と呼んでいるとかいないとか。
Mar 20, 2009
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読みかけの本のページを何気なく摩り、「おや?」と思った。紙面がザラついていたのだ。で、老眼の眼鏡をはずして目をちかづけた。 「やはり・・・!」 現在ではすでに無い活版印刷だった。活字がしっかりと紙をとらえ、紙面に文字の凹凸をつくっている。文字が、・・・言霊が、・・・そこに存在している、顕在している、という感じがまざまざとする。あらためて奥付を見ると昭和49年(1974)の発行である。 そうか、この頃はまだ書籍印刷は、主流といわないまでも活版印刷がおこなわれていたのだ。1980年代にはいると活版印刷や凸版印刷はオフセット印刷にとって変わられた。活字から写植になり、次いで90年代にはパーソナル・コンピューターの大衆化と軌を一にしてコンピューターのワード・プロセッサーによる出版システムの全面的な変革へと進んだ。凸版は、書籍の標題の箔押あるいは空押の金型としてかろうじて残ってはいるけれど。 つまり書籍の文字は、紙の上にのっけられているだけで、紙面は、触ってもツルリとしている。このなんとなくひ弱な感じは、分厚い大型の学術書などで昔の同種の書籍と比較したときにつくづく実感することだ。 私は少年時代、自分の唯一の扉付きの書棚に身をちぢめてもぐりこみ、集めた本の一冊一冊のページに顔をうずめてインクの匂いをかぎ、凹凸のある字面を撫でて陶然としたものだ。文字(言葉)が紙にめりこむようにガッシリと存在し、メッセージを発信していることに、・・・たぶん、・・・敬意を感じていたのだと思う。 「字面」ということ、紙に配された文字列の美(それは漢字とカナの混ざりぐあい、白と黒の配分であったり、活字そのものの美しさである)について教えられたのは、谷崎潤一郎の刊行本からであった。この作家の本は、文字面がじつに美しかった。活版印刷の美が、字面を考慮した原稿の書き方を一層雄弁に実現していると思ったものだ。 活版印刷の文化は、おそらく今後復活することはないだろう。 そう思うと、私の少年時代のあの感覚は、・・・いま、読みかけの本のページをさすりながら詠嘆を噛み殺して目を宙に泳がせてしまうけれど、・・・なんだかルキノ・ヴィスコンティ監督の映画『家族の肖像』の感覚に重なるかのような気になってくる。すなわち、激しい川の流れのなかに突っ立つ棒杙のように、時の潮流のなかで古い美学を心身にまとったまま水底に沈んでゆくものたち。そのものたちの、滅びゆく美への愛惜。
Mar 18, 2009
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朝、野鳥の声に目がさめた。まだ起きるきにもならず、枕元の読みかけの本のページを繰りながら床のなかで鳥の声に耳をかたむけた。・・・そういえば、ことしは鶯の鳴き音を聞いていない。まだなのか、それともすでに時を過ぎたのか・・・。 中村草田男の句にこんなのがある。 鶯の声あれ心応ずべし 野沢凡兆(生年不明~1741年)は医者として京に在り、芭蕉に師事したことのある俳人だが、こんな句を詠んでいる。 鶯や下駄の歯につく小田の土 早春。鶯の鳴き音を聞きながら雪解けのあとの柔らかい土のうえを歩くと、下駄の歯に土がつく。そのことを詠んでいるのだ。私はこういう句に出会うと嬉しくなる。子供のころの記憶にも同じような映像がある。 聞こえている鳥の声は3,4種。ピーョーピーョーと鳴くのはヒヨドリだろう。ヒーヒョーというのはトラツグミか。カラスも朝食の餌をさがして鳴き交わしている。デデッポッポーデデッポッポーと鳴いているのはキジバトである。 我家の裏手は山林公園で東京都の野鳥保護区にもなっているので、家のなかにいても、耳をすますとさまざまな野鳥の声が聞こえるのだ。しかし、のべつ鳴いているかというと、そうでもない。早朝と夕方である。キジバトの野太いデデッポッポーは、聞いていると私には何か郷愁のような感情がわいてくるのだが、朝5時半ごろから8時まで鳴きつづけ、その後はぴたりと熄む。時間に厳格、というような感じがするほどである。 野鳥観察の趣味があるわけではない。いたって不精に寝床のなかで春の野鳥のさまざまな声を聞いていた。
Mar 18, 2009
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前回の日記で新発見のシェイクスピアの肖像画について書いた。そして今日になって私は、すっかり忘れていた三年半前の新聞報道をふいに思い出した。メモが残っていたので、あらためてその記事にもとづいて書くことにする。 2005年10月31日の朝日新聞夕刊はAP時事のつたえるところとして「若きシェークスピア 別人かも」という見出を掲げた。 その記事は、映画『恋におちたシェイクスピア』が製作されるきっかけとなった若き日のシェイクスピアの有名な肖像画が、じつは本人ではない可能性があることが判明した、というのである。 この年、英国の国立肖像画美術館は2006年に控えた展覧会のためにその肖像画を9ヶ月かけて鑑定した。長らくシェイクスピアの肖像として多くの書籍の表紙にもなっている有名な絵であるが、作者は不明だった。絹かサテンにレースの襟が付いた豪華な服を着ている若い男性が描かれている。右上に「1588」、左上に「24」と書き込まれている。シェイクスピアは1564年に生まれ、1616年に死去しているので、1588年はたしかに彼が24歳のときである。 鑑定は、シェイクスピアの24歳時はちょうど双子の赤ん坊の父親になったばかりで、しかも劇団に入る直前であった。金銭的な余裕はなく、この絵のような豪華な服装はできなかったはず。したがって、この肖像がシェイクスピアであることを示す証拠はない、と断定したのである。 その肖像画を掲げよう。 さて、そこで私の意見である。 鑑定は同美術館の威信をかけてのもので、判断材料は報道された以外にもたくさんあったのであろう。しかし、もし主たる判断材料が「豪華な服装」にかかっているのだとしたら、私は即座には納得できない。 金銭的に余裕がなかった人物が、あえて肖像画を描かせることを想像してみよう。肖像を描くことじたいに何等かの理由が考えられるし、そうだとしたら、貧しい平素の衣服でモデルとなるだろうか? 現代の気軽な「お絵かき」風がまかりとおる社会状況では全然あるまい。貸し衣裳を着たかもしれないし、画家が用意したかもしれないではないか。前回の肖像画でもちょっと言及したが、画家がシェイクスピアと親しい間柄だったらなおのこと、これから世に出たいと願っている友人を着飾らせてやろうと思わないだろうか。 もちろんそれは私の想像にすぎない。が、画家としての経験からこう述べることはできる。私はかつて依頼を受けてただ1点の肖像画を製作している。そのとき、私は、本人が着ている衣服と異なるものを画面に描いた。依頼主がどのような気持で私に描いてもらいたかったか、それを忖度して、その気持を表現する衣服に変えたのである。モデルに着せたのではない。衣装の部分だけは想像である。・・・それも一つの肖像画を描くうえでの例とはいえないだろうか。 ところで、私の思うところはもう一点ある。上掲の英国国立肖像画美術館が否定した肖像画の青年と、昨日紹介した新発見のシェイクスピアの肖像とは、顔の骨格(輪郭)が非常に良く似ているのである。むしろ同一といってもよいくらいで、頭髪の生え際さえ似ている。顔と上半身の向き、両眼の位置、・・・視線さえ同一なのだ。たしかに新発見の肖像は、中年になった人気劇作家の自信と威厳さえただよう。衣装はその24歳の青年が着ているものよりさらに豪華だ。けれども、その後者の絵は前者を年齢と衣装を変えただけでそっくり写し取ったといってよいほどなのである。 この私の観察に関するシェイクスピア生誕地協会のコメントは何も見出せないが、当然、両者は比較研究されていなければならないはず。その研究内容を発表してもらいたいものである。 絵の場合は、写実画といえども、どこかに画家の裁量があるから何ともいえないのだが、これが写真ならば、同一人かどうかは「耳」の形状で判断できる。耳の形は微妙に個人差があり、しかも年齢によって変化しない。どんなソックリさんでも、耳の形まで似せることはできないのである。余談ですがね。
Mar 15, 2009
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シェイクスピアの肖像画といわれるものが数点ある。もっとも馴染みの深い絵といえば、おそらく次に掲げる銅版画による肖像ではあるまいか。 それら数点の肖像画のうち、実際にシェイクスピアの肖像と認められているのは2点だけだそうだ。しかし、その2点すら、シェイクスピアの死後に記憶にもとづいて描かれたのだという。 きょう、朝日新聞朝刊がロイターの配信として、シェイクスピア生誕地協会が、新たなシェイクスピアの肖像画が発見されて、今月9日にロンドンで披露したとカラー写真付きで報じた。同協会によると、この肖像画はシェイクスピアの生前、すなわち死去する6年前の1610年に描かれたものだという。生前に描かれた肖像画としては現存する唯一のものであるとも述べている。 その絵の写真をここに掲載できないのが残念だが、なかなかのハンサムで、なるほど劇作家になる前は俳優だったという経歴を納得させるのである。このとき46歳ということになる。 新聞写真に目をこらせば、肖像の上方に文字が書かれている。‘Principum amicitias!’と読める。ラテン語だ。英語に訳せば‘Rule friendship!’。「友情を信条として」、あるいは「友誼に篤い人物」というような意味であろうか。この絵を描いた画家は、シェイクスピアと友情で結ばれていたのかもしれない。・・・この書き込みをもとにして、この肖像画についてさらに新しい研究がはじまるかもしれない。おもしろい肖像画である。
Mar 11, 2009
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夜中に降りつづいていた雨は朝方にあがり、昼前には気持の良い日射しとなった。しかし青空のなかに、まるで大海の浮島のように黒雲がある。上空には風があるのだろう。北から南に雲が動き、午後になって黒雲が通過するたびにポツリポツリと雨が降った。天気雨である。 猫のトイレ用の砂の買置きがなくなったので、運動を兼ねて自転車をひっぱりだした。途中で黒雲の下にはいると、雨がおちてくる。それを子供のようにおもしろがって走るのだが、薄いベージュ色のコートは雨染みで黒く汚れた。数日前にクリーニングしたばかりなのに・・・。美術家の某女史であるまいに、水玉模様のコートになってしまった。きっと空気中に春埃が舞っているのであろう。 梅もそろそろ盛をすぎた。かわって橘が咲きはじめている。五分咲きくらいか。その香りが住宅街の小路にただよう。タンポポも咲いている。 いつもの通り道に梅の大木がある。白い雲の靉靆(あいたい)とするごとく沢山の花をつけているが、この梅もすでに盛をすぎ、木の下はハラハラと花弁が散って、香は薄い。しかしあまり見事なので、自転車をとめて見上げた。そして奇妙なことに気がついた。茂りに茂った枝のなかに、ひときは白い花をつけているものがところどころにある。よく見ると、この木そのものは花弁が一重の梅なのだが、その枝からわかれている枝のなかに八重の花がまじっているのだ。つまり、大枝からいくつもの枝が出ているけれど、そのなかに花弁が一重の枝と八重の枝が混在しているのである。八重の花をつけている小枝は、花の重なりが厚いだけにポッテリと白さが濃いのである。 これはいったいどうしたことだろう。幹に別の種類を継ぎ木したというのなら理解できる。が、一つの幹から出ている何十何百という枝の、その一枝のなかの小枝のなかに違う種類の花を咲かせているものがあり、しかもそのような枝がいくつもあることを、私は植物学的にちょっと理解できない。 花弁が一重であることと八重であることは、遺伝子レベルの問題ではなく、多岐にわかれた小枝の何等かの環境条件によるものなのだろうか。 ・・・とにかく、私はとても不思議な梅を見てしまったのである。さてこの問題、解けるかしら?
Mar 10, 2009
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BSフジでロバート・オルドリッチ監督の『何がジェーンに起ったか?』(1962)を観た。過去にもテレヴィ放映されているけれども、私はずいぶん久しぶりだ。主演はベティ・デイヴィス、ジョーン・クロフォード、アンナ・リー、ヴィクター・ブオノ。 物語。・・・ブランチ・ハドソンとジェーン・ハドソン姉妹は、父親とともに芸人一家として幼い頃より舞台に立ってきた。殊に妹のジェーンは、〈ベビー・ジェーン〉の愛称で人気スター。彼女の稼ぎが一家を支えていた。姉のブランチは父親からも粗略にあつかわれ、いわば「冷や飯食い」に甘んじながら妹ジェーンに対する嫉妬は憎悪に変わってゆく。「この恨みは死ぬまで忘れない!」と。 しかし、成長とともに姉妹に対する世間の評価は逆転する。ブランチは映画女優としてスターになった。そしてある日、姉妹の運転する車が自邸の門扉に激突し、ブランチは背骨を折って半身不髄の障害者となる。 妹ジェーンは、運転をしていたのは自分だったと、悔恨と憎悪とを胸に、しかし姉の蓄財によって生計をたてる我身なれば、酒浸りになりながら、長い年月、姉の介護をしている。ふたりは世間から忘れられ、昔の面影もなく、醜悪に老いている。たぎりたつ憎しみで、ジェーンは半身不髄の姉ブランチを虐めぬく。そのすさまじさ! そして殺人。 虐待のすえに瀕死の状態となった姉から聞かされる、あの自動車〈事故〉の真相。 物語のすべてを明かすわけにもゆくまいからこのへんで止めにするが、これから御覧になる方は、醜悪なジェーンの顔が最後にフワーッと天使のような顔になるところを見のがさないでいただきたい。 ベティ・デイヴィスは、私が好きな女優のひとりだ。彼女が79歳のときの作品で、91歳のリリアン・ギッシュと共演したリンゼイ・アンダーソン監督の『八月の鯨』(1987)は、私のベスト・フィルムの一本。とにかく、ウマイ! このジェーン役でも、子供の頃からスターとしてスポイルされてきた人間の、傲慢さと弱さ、世間知らずの一方で世故にたけている面もあったり、精神の未熟で不安定な人間をみごとに表現している。そのような人格はセリフで説明されているわけではないので、私たち観客はベティ・デイヴィスの肉体からそれをはっきり感じとるのである。女優というのはこういう人のことを指すんですなー。相反する二面性を同時に表現できる女優というと、我が日本には原節子がいたけれど・・・ ついでだから言うが、ブランチ役を演じたジョーン・クロフォードとベティ・デイヴィスは実際に犬猿の仲だったそうだ。その仲の悪いふたりが、殴る蹴る(殴られる蹴られる)の映画での共演をひきうけるのだから、エライもんです。 ところで、ベティ・デイヴィスとカタカナで書いているが、正しくはBette Davisである。なぜこんなことを言うかといえば、淀川長治・蓮見重彦・山田宏一著『映画千夜一夜』のなかで淀川氏が、ベティ・デイヴィスがアカデミー賞の授賞式のときに「アイ・アム・ベッテ・デイヴス」と言ったのでびっくりした、と言っているからだ。 私は『何がジェーンに起ったか?』のクレジットを見て「Bette Davis」という綴りを確認したのだが、この芸名はルース・エリザベス・デイヴィスという本名に由来している。エリザベス(Elizabeth)の愛称は一般にはBabette, Bess, Bet, Beth, Betsy, Bettina, Betty, Eliza, Elsa, Elsie, Lisa, Lisette,Lizである。エリザベス・テイラーがリズと呼ばれるように。 Betteと綴るのは、むしろめずらしいのではないだろうか。のみならず、Betteを「ベッテ」と発音するのは、ただしいのではないかとも思う。淀川氏は、彼女が「ベッテ」とわざわざ発音したことを、やや彼女の人格に対する批評として述べているふしがある。しかしそれは、我々が勝手に「ベティ」と読んで通念としていただけで、その通念に対して「ベッテ」という正しい読みが耳慣れなかったのではあるまいか。 さらに淀川氏は、「デイヴス」と傍点をふっているDavisの発音は、これも彼女は下唇を噛んで「V」を発音したために、日本人である淀川氏の耳にはわざわざ傍点をふらなければならない「デイヴス」と聞こえたのではないか。 まあ、私は、このことをクスクス笑いながら書いているのだけれど。 ところでところで、もうひとつ。 シカゴ・トリビューン紙やエスクァイア誌で活躍するアメリカの人気コラムニスト、ボブ・グリーンがベティ・デイヴィスについてちょっといい話を書いていた。原本がみつからないので引用ができないのが残念だが、彼女はニューヨークのプラザ・ホテルでランチをとるのが習慣なのだそうだ。プラザ・ホテルは映画『ホーム・アローン』にも登場する高級ホテル。セントラル・パークに面し、5番街と78丁目とが交差する角にちょっと奥まってある。 あるひのこと、彼女はいつものようにひとりでランチをとっていると、見覚えのある男がはいってきた。ウイリアム・ワイラーだった。(ベティ.デイヴィスはウイリアム・ワイラー監督によって大女優になったといてもよいだろう。また彼女はワイラーと愛しあい、結婚を望んだといわれている。監督にはすでに夫人がいたために、この恋はおわったとか。) ベティ・デイヴィスはどうしようか、挨拶しようか、それとも気付かなかったことにしようかと、昔のことを思い出しながら逡巡する。すると向こうの席でワイラーが立ち上がった。彼はまっすぐこちらに向って来て、ベティ・デイヴィスの前に立った。 「あいかわらず、きれいだね」 ウイリアム・ワイラーは言った。 と、そういう話です。 プラザ・ホテルのダイニング・ルームに行ってごらんなさい。ふたりの美しい亡霊を見かけますよ。
Mar 9, 2009
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冷たい雨がふっている。きのうの朝、夜中の雪がやんで、「ようやく晴れましたね」とお隣さんと挨拶をかわしたのだったが・・・。 久保田万太郎は昔の浅草のふぜいを「石畳の上にふる糸のような春雨の音」と懐かしんで書いた。 しかし今日の雨は、春雨というにはふてぶてしい。甍を叩く音、窓ガラスに吹きつける音、屋根から落ちて地面に水たまりをつくる音、庭木を叩く音、・・・さまざまな雨音がザワザワと入り乱れて聞こえている。 不精さやかき起されし春の雨 松尾芭蕉 芭蕉翁も春の雨をのんびり眺めてはいない。寒くて寝床にもぐりこんで不精をきめこんでいる。「わななかれて、いとうつくしき御膚つきも、そぞろ寒げにおぼし」とは、なまめく源氏物語の若紫の一節。芭蕉翁の皺膚にしみる春雨の寒さには垢蒲団のにおいがする。 私も、外出する予定なのだが、どうしよう、止めにしようか。そぞろ吾が不精さがかき起されるのである。
Mar 6, 2009
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雛祭だというのに、めっきり冷えこんだ。東京も夕方から雪になるかもしれないと予報が出ている。 小林一茶(1763-1827)にこんな句がある。 手のひらに飾ってみるや市の雛 雛市に行き、どの人形にしよう、あれかこれかと迷いながら、店先の人形を掌にのせて見ている。そんな光景を詠んでいる。 百貨店で雛人形を売るようになってから廃れたらしいが、日本橋十軒店(じゅっけんだな:現在の日本橋室町3~4丁目)は正月の羽子板市をはじめに、雛祭や五月の菖蒲の節句が近づくと雛の市がたった。各々の店は幔幕を張り巡らし、高張提灯を掲げ、雛壇をしつらい、華やかに人形を陳列した。 江戸で雛人形の段飾りが始ったは享保(1716-35)年間。日本橋十軒店の雛市は、当時すでに有名であった。享保の雛人形については過日少し述べたことがあるが、それは丈1尺(約33cm)を越すおおきな人形である。それがあまりに贅沢だったので、奢侈禁止令(享保の改革)によって25cm以下にするよう規定された。物の本によれば、町奉行所の役人が雛市の前に、見回りをしたとある。 雛人形を売る店のほかに、その附属の雛道具類・・・屏風や燭台、菱餅台等を売る露店もあった。これを中店(なかみせ)といった。 菱餅を飾る風習は現在でもおこなわれているが、もともとの出所は小笠原家である。小笠原の家紋をかたどったものだ。 小笠原家で餅を供えるようになったのは、おそらく同じ3月3日に宮中で行われた曲水宴(ごくすいのえん)に発するのではあるまいか。曲水宴は、古代中国の三国西晋の時代にはすでに盛んにおこなわれていたようだが、水の流れに酒を入れた杯をうかべて、詩歌を詠みながらこれを飲むといもの。日本に渡来して、平安時代、宮中の清涼殿の東庭で御溝水(みかわみず)に杯をうかべて、文人に詩歌をつくらせた。 この曲水宴の故事に、周幽王が曲水宴を設けたときに、ハハコグサと蜜を粉にまぜ込んで草餅をつくり献上した者がいた。周幽王はこれを廟に供えたところ、世が大いに治まった。これが吉例となって、曲水宴には草餅をつくるようになり、平安朝にもハハコグサで草餅をつくっていたのである。いつのころよりか、ハハコグサに代ってヨモギがつかわれるようになり、草餅といえばヨモギ餅をさす。 小笠原家の菱餅は、この草餅に由来すると推測される。菱餅は、紅白の餅に緑色の餅を重ねた三段重ねであるが、元来の草餅の由来をとどめているのであろう。 作者不明の昔の句に、「桃林で蛤の鳴くのどやかさ」というのがある。 さて、現代の若い諸君は、この句の意味がおわかりだろうか。 じつは、雛壇飾りそのものを詠んでいるのである。「桃林」とは、雛壇のことである。桃の花をたくさん飾っていることから出た言葉。・・・むずかしいのは「蛤の鳴く」である。もし、江戸時代からの風習を今にのこしている地方、あるいは個人のお宅があれば、なんということもないのだが。 雛壇に白酒を供えることは現在でもおこなう。昔は、ほかに、沙魚(はぜ)、煎り豆、栄螺(さざえ)、そして蛤を供物としたらしい。「蛤の鳴く」は、雛壇に供えた生きた蛤が、潮を吹きながらキュッキュと鳴いているというわけだ。 ただネ、ここだけの大人の話ですが、事実の裏にすこ~しエロチックな意味を含ませているのではないでしょうかね。 そうそう、黒澤明監督『夢』のなかの一挿話「桃の節句」に、雛たちが、桃の林に居並んでいるシーンがあった。このシーンは、まさに桃の林を雛壇とするきわめて語源的な映像ということができる。黒澤明のイメージがどのように発生してきているか、そのヒントになるかもしれない。 最後にふたたび作者不詳の川柳を。 どういう気だかと赤子に雛を見せ 初節句の赤ん坊をのこして、ウチのヤドロクはどこをほっつき歩いてるんだか。なにがチョイト寄り合いがあってだよ、あたしが知らないとでも思ってんのかい、一丁目のスナックのママに、ヤニ下がった色目なんか使ってさ。どういう気なんだか。
Mar 3, 2009
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あしたは桃の節句だけれど、我家の白桃はまだ蕾が固い。 この木は私の庭のもっとも華やかなもので、直径3cmほどの純白の花を万朶(ばんだ)に咲かせる。いまは、その根方に、小さな緋木瓜(ヒボケ)が真紅の蕾をつけている。 一昨年まで、小庭は春から秋まで色とりどりの種々の花々があふれるように咲いていた。それは老母の楽しみのために丹精してつくっていたようなものだ。しかし、老母はもう庭に出ることさへ困難になってしまったので、一切の園芸種は枯れるがまま、ただ私の好みの野草のみが茂るにまかせている。アイルランド歌曲『庭の千草』の、「庭の千草も 虫の音も 枯れてわびしく なりにけり」という詞の千草(ちぐさ)とは秋の野草のことで、昨年来の我家の庭はまさにその歌のごとくである。隣家の夫人は、何も言わないが、この様子を不思議に思っていられるかもしれない。雑草のなかに、夫人から頂戴した桜草ばかりが、いやに目立っている。そのそばにクロッカスが5cmほど伸びているが、咲くにはまだ早い。 雑草も花を咲かせるけれども、それらはほとんど気がつかないほど地味で小さい。私は、たとえばガーベラのような大振りで派手な花も好きだが、地味で目立たない雑草の花々も好きだ。 きょうは一日中、よく陽がさしていた。家々の物干場に洗濯物がひらめいていた。風が強かったのだ。春、何番だろう? 高台にある我家の私の仕事場の一方の窓は、下方に家並をのぞむ位置にひらいている。下から風が吹きあげて、窓を揺する。まるで凩(こがらし)のようにピューピューと音をたてて軒下を吹き抜ける。しかし、テレビの天気情報は、「少しづつ春らしい温かさになっています」と言っていた。つまり、凩のようなという喩えは、ふさわしくないわけだ。せめてボッティチェリの『春』のなかの薔薇の花をまき散らすゼフィル(風の精)の、いささか強すぎる息、とでも言えばよかったか。ハハハ。
Mar 2, 2009
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うすぐもりただ一輪の桜草 青穹
Mar 1, 2009
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