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きょうは老母のための訪問診察の日。夜7時半過ぎに医師来訪。母は調子がおもわしくないので、点滴をしてもらう。また念のために、酸素吸入装置をレンタルで入れることにした。 ついでにと言うわけで、母といっしょに私も季節インフルエンザの予防接種をしてもらう。「もうすぐ品切になるところです」と先生。ことしは製薬会社が新型インフルエンザの製造に追われているため、季節インフルエンザの予防薬の製造が減少しているらしい。先生の病院でも数が限られているのだそうだ。 じつは、私は予防接種は初めての経験。いままで病気をしたことがないのを幸い、インフルエンザの予防接種さへしてこなかった。今回接種したのは、もちろん自分の為ではあるが、母の看護をしているのでもしも私が罹患しても困るし、それが母に感染することになればなお大変。老人にとって肺炎が一番おそろしい。 夜10時半、酸素吸入装置設置の為に技術者が来訪。これは通常の部屋の空気から水分や窒素を取り除き濃縮酸素とする装置で、酸素ボンベを使用するものではない。ただし、外出時のために携帯用の酸素ボンベも準備してくれた。 一両日中には、喉につまった痰や食物を取り除くための吸引装置も設置される。窒息状態が5分つづくと脳にダメージを与える。 ものものしい感じだが、準備を万全にしておくに越したことはあるまい。
Oct 31, 2009
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きのうのTVの天気予報によると、今日明日にも所によって凩が吹きはじめ、防寒コートやマフラーは今週中に準備しておくことを勧めていた。しかし今日は秋晴れのすがすがしい一日だった。 第2次酢酸醗酵させている柿酢の瓶を二階のベランダに置いて、陽を浴びさせている。和紙で口をおおっているので、そこに陽が当たって白々と輝き、なんとも言えないおだやかさを感じる。 俳句の季寄せには、10月の季語として「酢造る」をあげている。昔の農家では年中行事として早稲の新米で酢をつくったのだという。軒下などに壷を置いて、秋の陽をかんかん当てたのだ、と。 我家の初めての柿酢造りは、いまのところ上手くいっているようなのだが・・・。11月の末ころには漉し布で漉して、澄んだ味のよい酢ができあがる。そう期待しているのだ。 さて、東京創元社から出るカーター・ディクスン(ディクスン・カー)『一角獣の殺人』の表紙絵の原稿が完成した。締めきり日より随分早くあがった。もう手を入れる必要はないか、3,4日手元に置いておくことにする。
Oct 30, 2009
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映画美術家の村木与四郎氏が亡くなられた。黒澤明監督『生きものの記録』以後、『デルス・ウザーラ』を除くすべての黒澤作品の美術監督を務められた。映画ファンの私は、こうやってコンピューターのキーボードを叩いているだけで泣きたい気持だ。 思い出せば12歳のとき、『蜘蛛の巣城』で映画制作ということに目覚め、なかんずくあの圧倒的な美術に打ちのめされたような感じがして以来、黒澤作品のなかで村木氏の美術に目を凝らして来た。 制作年度順に追ってみると、『生きものの記録』(55年)の中島鉄工所の焼跡のセット、バスが通るガード下のセット。 『蜘蛛の巣城』(57年)の荒野の中の城、その巨大な門、妖婆が糸車を繰る森のなかの小屋、三船敏郎と山田五十鈴が狂乱する城内の開かずの間。そして武将たちの武具甲冑。 『どん底』(57年)の傾いた汚らしい安宿、それが建っている奇妙な窪地。 『隠し砦の三悪人』(58年)の岩山の底の隠し砦。 『悪い奴ほどよく眠る』(60年)のビルの形をしたウエディング・ケーキ。 『用心棒』(61年)の馬目宿の目を見張るようなオープン・セット。そこに砂埃をあげて吹き荒れる空っ風。すばらしい火の見櫓。死体の腕を銜えて走る犬。造り酒屋の巨大な酒樽が並んだ蔵。ヤクザ同士のチャンバラで酒樽に穴が開いて酒が噴き出す光景。 『椿三十郎』(62年)の二つの武家屋敷を貫く泉水の流れのアイデア、その椿屋敷のセット。 『天国と地獄』(63年)の横浜の高台の権藤邸、その対極にあるドブ川べりの安アパート、大衆酒場のセット、横浜黄金町の麻薬街のセット。 『赤ひげ』(65年)の小石川養生所のオープン・セット。その内部、三船演じる新出去定の居室の薬箪笥や所内の家具、病床の蒲団干しの光景、炊事場。 『どですかでん』(70年)の裏ぶれた人たちの住む原色の家。 『影武者』(80年)の信玄の寝室、織田信長の行列の衣装や供回りの持つ道具類。 『乱』(85年)の山城、その天守閣の内部。根津甚八演じる一文字次郎に原田三枝子演じる楓の方が馬乗りになって懐剣で次郎の喉に傷をつけると懐剣に血が流れる・・・その懐剣の美術。 そして『夢』。黒澤映画最後の作品『まあだだよ』の先生夫妻のちいさな家の魅力的なたたずまいまで、私はそのすべてを今思い出した。なんと素晴らしかったことか。 そうそう、黒澤監督亡きあと、その残された脚本を映画化した小泉尭史監督第1作『雨あがる』の村木氏の美術について、特に城主に御目通りするシーンで「鷹図屏風」を使用している秀逸さについては、このブログの別館〈山田維史の画像倉庫〉の「映画の中の絵画」において詳述した。 お年を召して第一線から退いておいでのようだった村木与四郎氏だが、その人がいるだけで再びすばらしい映画美術に出会えるような希望があった。先に黒澤監督は亡くなったが、いまもうひとつの巨星が墜ちた。 村木与四郎氏の御冥福を祈る。
Oct 27, 2009
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柿は千種類もあるということだが(NHK・TV)、現在市場に出回っている品種にどんなものがあるだろう。ちょっと調べてみた。かならずしも近所の果物屋で売っているものではないが、全国宅配してくれるようだ。まだまだあるのかも知れないが、とりあえずということである。 私は子供のころは柿が大嫌いだった。いつの頃よりか気付かないうちに大好きになってしまった。そうなると、以下に並べた品種を全部食べてみたくなった。みなさんはどれくらい御存知で、また、どれくらい食べたことがおありだろう。 では、ずらずらと行きますよ!庄内柿(平核無柿)(山形県)蔵王柿(平核無柿)(山形県)紅柿(関根柿)(山形県上山市)身不知柿(福島県会津地方)身不知柿吉美人(福島県会津地方)おけさ柿(八珍柿、平核無柿)(新潟県)市田柿(長野県伊那谷・高森町市田地区)やま柿(長野県)甲州百目柿(山梨県)四ツ溝柿(静岡県愛鷹山麓)伊豆柿(静岡県)次郎柿(治郎柿)(静岡県森町、宮崎県、その他)北浜次郎柿(静岡県)平たねなし柿(平核無柿)(和歌山県、奈良県)紀ノ川柿(大平核無柿、黒甘核無柿)(和歌山県)高野柿(和歌山県)新秋柿(興津1号と興津20号との交配新種)(和歌山県)蓮台寺柿(三重県伊勢市天然記念物)豊野柿(愛知県)筆柿(珍宝柿、盆柿)(愛知県)愛秋豊柿(次郎柿の新品種)(愛知県)刀根柿(平核無柿早生種)(奈良県、その他)五條柿(奈良県)本富有柿(奈良県西吉野)蜂屋柿(岐阜県美濃加茂,長野県)早秋柿(岐阜県、その他)代白柿(京都)御所柿(現在市場に出回っていない)越前柿(富有柿)(福井県)富有柿(御所柿の改良品種)(岐阜県、和歌山県、山梨県、他多数)花御所柿(鳥取県)西条柿(島根県東出雲町)愛宕柿(岡山県)横野柿(貴重種)(山口県)富士柿(愛媛県)キヨタ柿(愛媛県)こいひめ柿(福岡県)西村早生柿(ごま柿)(福岡県)熊本柿(熊本県)太秋柿(熊本県)ばってん甘柿(熊本県)松本早生柿(宮崎県) 保存食品としての干し柿は、地方によって、また作り方によって、いろいろな名称がある。あんぽ柿(天干し柿)(福島県、その他)枯露柿(ころがき)(山梨県、その他)吊るし柿(山形県)ふくふく柿(富山県医王山麓)紅干し柿(山形県)市田干し柿(長野県) また、「樽柿」というのは、本来、空いた酒樽に柿を詰めて残っている酒精で渋抜きしたものをいう。最近ではパッケージとして小樽に詰め、贈答品用に販売されている。
Oct 26, 2009
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きのう午後、会津若松の恩師清水先生から会津名産「みしらず柿」が送られて来た。 懐かしい味である。と言っても「渋抜き中なので開け日が来てから開けてください」として、「開け日10月27日」と書いてある。 「みしらず柿」は本来渋柿で、柿農家では焼酎をふりかけて渋を抜く。一昨年の11月に会津若松市を訪問した折、ホテルの斜向かいに「みしらず柿」を販売している店があった。普通一般の果物屋と様子がことなるのは、柿が箱詰状態でまるで倉庫のように積み上げられていた。それらの箱には上記のような注意書が貼られていた。 八総鉱山小学校の6年生のとき、作曲コンクールに参加しての帰途、担任の星孝男先生の下郷町の御実家に寄らせてもらった。日当りの良い廊下に柿を詰めた大樽がならんでいた。焼酎をふりかけて渋抜きをしているのだと教えられた。初めて見る光景だったので、めずらしく、いまだにその光景が思い出される。 「みしらず柿」は、たぶん「身不知柿」と書くのだろう。「身の程知らず」という意味であろうが、これはいささか反語的な名称ではないか。こんなに美味しくなるのに渋柿だなんて、なんと身の程知らずなことよ、というような。 実際、品の良い甘さが身上なのだ。 ところで、先日NHK・TVが柿の渋抜きについての番組を放送していた。日本に柿の品種は千種ほどもあって、そのうち甘柿はたった13種だとか。他は全部渋柿だというから、店頭で購入する柿のほとんどすべてが渋抜きした渋柿だということだ。これは私は知らなかった。 念のため牧野富太郎博士の『新日本植物圖鑑』を繰ってみると、「かきのき科」として上げられているのは4種であった。「かき」「しなのがき(ぶどうがき)」「ときわがき(ときわまめがき、くろかき)」「こくたん」(後註)である。つまり千種におよぶ栽培品種の原種は「かき(Diospyros Kaki Thhunb.)」で、元来、日本の西南部の山中に自生していたものらしい。 気の遠くなるような長い年月をかけてその原種に改良をくわえて来たのであろう。そしてそれが千種にもなった。しかし、そのほとんどが渋柿だったというところが面白い。 なぜ、甘柿に改良できなかったのだろう。甘柿に改良できなかったけれども、渋抜きの方法を発見した。それも面白い。同じ地方でも渋抜き方法はさまざまであると、例のTV番組の調査結果である。要するに渋の正体であるタンニンが、柿の内部でどのように変化するかということだが、番組はなかなか興味深い実験と結果を発表していた。 我家の庭の渋柿は、今年は目下、柿酢に醸されている。家のなかがそこはかとなく、いやかなり濃密に、酢の香がただよっている。仕込んだ瓶二つはキッチンに置いているのだが、お客さんが来る日は二階に運んでいる。 というわけで、明日は清水先生から届いた「みしらず柿」の箱を開ける。 届いた後で先生にお礼の電話をし、しばらくぶりでお声を聞いたのだった。【註】牧野富太郎博士によると、「こくたん」(黒檀)は唐木と呼ばれて建築材・家具材として優れたものだが、生きた木を日本で栽培したという記録は見つかっていないという。
Oct 26, 2009
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仕事をしながら音楽を聴くことはほとんどない。しかし今日は雨降り。頭も重い感じ。仕事場にとじこもったが、めずらしくバックグラウンド・ミュージックがほしくなり、何か適当なものをとディアンジェロ(D'Angelo)のアルバムを選んだ。 デビューアルバムで代表作の“BROWN SUGAR”や“LIVE AT THE JAZZ CAFE, LONDON”等。ちょっと危険な詞がついている。いわゆるR指定のような曲。このアルバム、日本版(東芝EMI)は、BROWN SUGARのラジオ・バージョンとTVバージョン、そしてインスツルメント・バージョンが特別附録になっている。 D'Angeloは、日本では話題になっていないようだが、たしかに好き嫌いがはっきりわかれるかもしれない。私は、ブラック・ミュージックの芯が一本きっちりとおっていると思っているのだが・・・ さてその次は、ガラリとムードを変えて日本の伝統音楽に添うものをと、鬼太鼓座のアルバムを流す。執筆に勢いをつけんがため。ハハハハ。「八丈」や「屋台囃子」が好きだ。和太鼓の勇壮な音に血湧き肉踊るワイ。ハハハハ。
Oct 25, 2009
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午後の老母の看護を家人にまかせて、私は仕事場にとじこもる。『一角獣の殺人』は執筆3日目にして5割かたまで進む。順調といって良いだろう。 このところ立続けに新聞紙上で、高齢者が重度の病気になった場合、延命をせずに自然死する(させる)方向を主張する意見が目につく。自分自身の生き死にについてそのように望むなら、それもよかろう。勝手になさるがよろしい。私の知ったことではない。 ただ昨日は、看護士がそのような考えを述べるべく活動している話が掲載されていた。これには驚くというより、不快を感じた。むしろ看護士という職業倫理に悖(もと)るのではないかとさえ思った。 心の底に「延命をすべきではない」という思いをもって、どうして命の瀬戸際にある他人の看護が誠心誠意できるだろう。一番身近な家族だって、精神的にも肉体的にも疲労困憊しながら看護しているはずだ。在宅看護(介護)者による尊属殺人事件が起ったり自殺事件が起ったりするのを見聞きすれば、その大変さが分ろう。しかし、それはみな「できることなら生き続けてくれよ」という願いがあるからだ。死んでくれよと思って看護をしているはずがない。 看護士はそのような家族を支援するための職業でもあろう。その人が、「延命をするな」と考えていたとしたら、家族はいったいどう思うだろう。 介護保険による看護士や介護士を依頼する場合、現在の一般的なシステムでは、まず直接彼等に依頼することはできず、窓口ともいうべき複数の人たちを介さなければならない。地方自治体の高齢者福祉課に介護申請をし、調査員が病院と本人を訪ねて来て、ときに無礼ともいえるような質問をマニュアルに従っておこなう。その調査にもとづいて介護度の認定委員会が開かれ、申請後1ヶ月から1ヶ月半後に被保険者に通知される。 この申請とは別に、地域の支援センターに連絡し、相談員が本人と家族に面談にやってくる。介護保険によってどのようなサービスを受けることができるかを説明するためだ。家族はその提示されたサービスから必要度や費用などを考えて選択する。相談員は、各サービスを提供している地方自治体が認可した事業所に連絡する。そのとき相談員から事業者に本人(被保険者)のすべての情報が伝えられ、一応契約が成立する。つまり、この手続きによって初めて保険が適用されることになる。 こうした煩雑ともいえる、そして病者である本人にとってもその家族にとっても随分時間と手間のかかるシステムは、もちろん保険の不正利用をふせぐためであるが、考え方を変えると、人員や業者がたくさん介入してくるのだから砂糖に群がる蟻のように保険の無駄使いのような現行システムなのだ。 それはともかく、このようなシステムだから、利用者が看護士を自由に選べるわけではない。つまり端的に言えば当たり外れがあるだろう。延命をしないなどと考えている看護士に当らないとも限らない。そのような思想の人が看護士をしているのだから、当然、どこかの利用者のもとへ出向いているわけだ。 思想というものはその人の心のなかの檻に囲われているわけではない。必ずやその人の行為を律している。看護士であろうと医師であろうと、また病者の家族であろうと、「延命をしない」と考えている人はそれなりの行いを病者に対してするのだ。 さまざまな考えがある。どの考えが良いとも悪いとも言えない事体がある。 私は、老母が入院治療を受けていたとき、主治医に言った。「90歳でいつまで生きるかは分りませんが、今は、先生、母を見捨てないでください」・・・こういう言葉で言ったのであった。
Oct 24, 2009
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若い詩人の摩耶さんから、メール、電話、ファックスと種々の媒体を使ってしばらくぶりの連絡あり。第2詩集を制作中とのこと。ついては表紙に使う自作イラストレーションに対して意見を聞かせてほしいと、4作品が送信されてきた。 私はちょうど執筆中だったので、仕事が一段落してから拝見すると伝える。 午後4時、電話をして2,3のアドヴァイス。彼女がイメージしている色彩の印刷インクの特性についてもお教えする。良い詩集ができることを願って。
Oct 22, 2009
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小説家の原田康子氏が20日亡くなられたそうだ。 私が過日(2009.5.18)このブログに掲載した私自身の〈中学生読書記録〉の40番目に氏の『挽歌』が記載されている。原田氏のたしか最初の本で代表作である『挽歌』は、昭和31年12月に刊行された。発売と同時に70万部というベストセラーになった。私が現在も所蔵している本は翌年32年8月1日の日付けがある第113版であるから、大変な売れ行きだったことがわかる。私は13歳でこの小説を読んだわけだ。ずいぶんマセタ中学生だった。 小説のほぼ冒頭に「ピジャマ」という言葉が出てくる。pyjama。フランス語の発音になっているが、英語でもつづりは同じ。つまり「パジャマ」のことである。中学生の私はこのフランス語読みがいたく気にいり、かなり頻繁に自分の書く日記などで「ピジャマ」を連発したものだ。 また、ヒロイン兵藤怜子の年上の愛人の桂木という名前も、これは無意識の借用なのだが、ずっと後に自作の小説のなかに使っている。『挽歌』の登場人物の名前であることに気がついたのは、さらに後になってからだった。桂木にとっては不倫の相手である怜子に、妻と別れて結婚すると言うと、怜子は「アミー」のままでよいと応える。「アミー」すなわちamiである。これもフランス語。愛人とか情人という意味がある。・・・この言葉もマセタ中学生のお気に入りになった。 実のところを申せば、原田康子氏の作品はこの『挽歌』一冊しか読んでいない。そして現在の私なら、上に述べたようなフランス語をところどころに使う文体は、それをオシャレと考える若書きなのであって、人生の深さには到達していない、と辛口に言うところだ。しかし、中学生の感受性に何事かを印象づけたことは間違いない。わたしにとっては大事な読書体験だったのだ。 ちなみに『挽歌』は1957年に松竹で映画化されていて、私はその映画も八総鉱山小学校の映画館で観ている。 監督:五所平之助、脚色:八住利雄・由起しげ子、撮影:瀬川順一、音楽:芥川也寸志、美術:久保一雄。 出演:久我美子・森雅之・高峰三枝子・石浜朗・斎藤達雄。 原田康子氏の御冥福を祈る。 東都書房刊 昭和32年8月1日発行 第113版 最終頁に著者肖像写真(昭和31年11月、北海道釧路市にて) 題字:伊藤整、装丁・カット:岩佐清 【註】題字を文芸評論家の伊藤整(著書に『日本文壇史』等)が書き、新人作家の門出を祝しているのが注目される。
Oct 21, 2009
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美しい夕焼けだ。飛行機が行く。非常な高さなので旅客機だろう。飛行機の窓から見る夕焼けはきっと素晴らしいにちがいない。私は飛行機旅行が好きだ。旅行が好きというより、飛行機に乗ることが好き。ものすごい近眼なので諦めたが、パイロット・ライセンスが取りたかった・・・。『一角獣の殺人』に飛行機が登場する。私の表紙絵にも小さく小さく飛行機を描く。「小さくて、もったいないですね」と、昨日、担当編集者の古市氏が電話で言った。まあ、しかし・・・である。 さて、・・・ 昨日午前7時半ころ、老母が呼吸が苦しいと訴えた。先日訪問医療(往診)を依頼しておいた医師に電話をいれると、すぐに駆けつけてくれた。体内酸素量92%だが、問題にするほどでもなさそう。80%台が危険領域で、即刻酸素吸入をする必要がある。胸の音を聴いて、痰がからまっているかもしれないと、マッサージをする。痰は出なかったが、酸素量は95%に回復。 今後のことを考えて酸素吸入装置の設置を検討してもよいかもしれないとのこと。 また、寝たきり状態は肺に決して好ましくないので、座居をしやすくするため、介護サービスで在宅介護および医療用の電動式ベッドをレンタルするようにすすめられる。それがリハビリテーションにもなるから、と。 さっそく地域包括支援センターに連絡した。 午後2時、相談員来訪。母の状態を見てもらい、すぐにスリー・モーターの電動式ベッドを運び込む手筈をととのえてもらう。同時にベッドのそばで排泄ができるよう、ポータブル・トイレを購入。それも一緒に持ってきてもらうことにした。 午後5時、ベッドが家に運び込まれた。寝ている母のベッドを電動式ベッドの横にくっつけ、4人がかりでシーツごと母を移乗する。 ポータブル・トイレは家具調のなかなか立派な物だ。知らない人が見れば、便器とは思わないだろう。 午後7時過ぎ、訪問薬局が医師の処方箋と指示による薬と栄養補助食品を届けてくれる。 こうしたことが母の介護のためのネットワークなのだが、今後も多方面に拡げなければならないだろう。
Oct 20, 2009
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毎日我ながら朝から良く働く。朝7時に母の最初の貼薬を替えなければならないので、私の一日もそこから始る。 母の食事は流動食が主体。これを栄養バランスを考えてつくるのがなかなか大変。流動食に調理できる食材をさがすことから始めなければならない。ミキサーで液状にすれば良いというものでもないからだ。病前と味覚が変化してしまっているので、私たちが美味しいと感じる物も、まったく受けつけないことがほとんどである。それが1日3度なのだから・・・ 午後からは仕事場にはいって、『一角獣の殺人』の表紙絵の構想を練る。夜9時、ラフスケッチができあがったので、すぐにメールに添付して担当編集者古市氏に送った。明日出社して御覧になれるように。
Oct 18, 2009
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これから仕事にとりかかろうとコンピューターを起動させ、そのごく短い間にふと思い出したことがある。そして初めの思い出はもう一つの思い出を誘いだした。 1989年の秋口だからもう20年も前のことだが、依頼された作品制作の準備のため山梨県の笛吹川上流に取材にでかけた。車の運転を弟にしてもらい、登山口で車を捨て、その後は徒歩で川沿いを山中に分け入った。私はカメラをたずさえて川や滝にレンズを向けてシャッターを切りつづけた。しかし間もなく雨が降り始めた。登山者たちが引返してくるのに出会った。台風が近づいていると言うのである。取材はまだ不十分だし、「どうしようか?」と迷うのを、弟は「引返した方がいい」と言う。本当は滝壷へ降りて行きたかったのだが、危険は目に見えていた。 車にもどって、東京をめざして出発した。雨は次第にはげしくなり、道路が水没しているところもあった。 が、ある地点に来たころから雨があがりだした。しばらくして弟が、「このまま川上村へゆかないか」と言った。長野県南佐久郡川上村のことである。昔、私たち一家が2年間暮らし、私が小学校に入学した地である。 川上村での暮らしについては、このブログの2005年Oct.21~26日の日記に書き、27日には前述した再訪の経緯についても書いている。 その日記の中に次のように書いている部分がある。 〈ふたたび我家のあった場所にもどってきた。辺りはすっかり変り、こぎれいな住宅が建っている。バスの発着所だった広場はなくなり、そこにも住宅があった。川上村はいまでは高原レタスの生産で名を馳せている。その成功が、建ち並ぶ住宅の外観にうかがえた。千曲川の、昔よく遊んだ川原のあるとおぼしきあたり、かつては遠くに見えていた山が、いまは手入れをしないのか鬱蒼としてすぐ目近に迫っていた。子供の身体と大人の身体の差かもしれないが、村がいやに狭く感じられるのだった。〉 昔幼なじみの場所や物等が、今になってみると、記憶のなかで感じていたよりもずっと狭かったり小さかったりするのだということを、私はこのときの再訪でつくづく気がついたのである。このときは37年間の時間のへだたりがあった。7,8歳と45歳過ぎとの間の37年間だ。体格も違えば視点の位置も大きく違う。歩いてあんなに遠かったのに、こんなに近かったのだ。目で見て遥かかなただと思っていたのに、意外な近さだ。・・・当然といえば当然なのだが、記憶の感覚はまるで訂正されずに身体に残っている。 さて、このとき味わった感覚的な動揺について、ずっと後になって私は、故湯浅泰雄博士と並んで歩きながらいろいろなお話をうかがっているときに、先生にお聞かせしたことがあった。 すると先生は、「それは、私も同じような経験をしました」とおっしゃった。 たまたま旅行する機会があって、福岡の昔子供のころに住んでいた場所をお訪ねになった。遊び場だった神社へ行ってみると、そこの石段が意外に低かったのでひどく驚いたのだと。 「子供の視線でとらえた感覚が、おとなに成長してからも、記憶としては、子供の感覚のままなんですね。そしてその感覚は、成長後の現実によって訂正されないのでしょう」 ・・・ごくごく短い思い出がつながって思い出されたのだけれど、なぜこんなことを思い出したかというと、老母を介護するなかで一昨日、次のようなことがあった。 ベッドに寝たきりの状態で、ほとんど身動きができないので、下の世話をしていると、 「父親が娘のこんな世話をするなんて思ってもいなかったでしょうね」と母が言ったのだ。 私は一瞬、何を言っているのかわからないままオムツを取り替えていたが、すぐに気がついた。母は、赤ん坊の感覚になっているのだ。そして私は、母の〈父親〉になっているのだ、と。 こんなことは初めてだった。そして、このときただ一度のことだったが・・・ 私は衝撃を受けたわけではまったくない。そんな錯誤は私には何程のことでもない。 私は、感覚の記憶と、その再生について考えていたのだった。
Oct 17, 2009
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老母が退院して2日目の13日、杏林大学病院水野医師の紹介状を携えて近所のクリニックを訪ねた。在宅での定期的および危急の場合の訪問医療を依頼するためである。杏林大学病院の福祉アドヴァイザーがみつけてくれた開業医で、365日24時間対応してくれるという。これは、私たちではできない医療行為をともなう事体に対処するためであるが、日常的・経過的に母の状態を診察してもらうための契約である。 私はこれまでの母のすべての病状や家族による看護や介護について説明した。医師は熱心に耳をかたむけ、一両日中に我家をおとずれて今後のプランをつくることを約束した。 退院して自宅にもどった母は、ベッドに寝たまま、あちらこちらを眺めながら自分のいる場所を確認しているようだ。また、入院していたときのように時間になると私がどこかへ行ってしまうのではないかと、不安げに何度も何度も尋ねる。私は、心配しなくてもいい、自分の家にもどったんだよと、繰り返して言う。 やや多弁である。元気がすこしづつもどっているのか。 「もう少しで死ぬのだろうか?」とも聞くので、私は笑いながら、「いまにも死にそうな人は、そんなにおしゃべりはしないよ。死にそうな人は虫の息というでしょ? そんなに大きな鼻の穴をしてたくさん息をしている人が死ぬわけないよ。だいじょうぶ、だいじょうぶ。」 母は、「そうだねー」と笑った。 「つまらないこと考えないの。いいね。楽しいことを考えなさい。」 「だって、なんだか寂しいんだもの。」 「何が寂しいことなどあるの。だめだめ。笑って笑って。」 「兄ちゃんは、いつも明るくて元気な人だねー。」 「そうだよ、僕は、考えてもしょうがないことは考えない。無駄なことは考えないんだ。」 「兄ちゃんがいると安心だね。」 「安心安心。」
Oct 14, 2009
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他人が母の状況をみたなら、おそらく老人性痴呆症か認知症(アルツハイマー)と思ったかもしれない。しかし私や弟は、母の不安心理とその状態における思考の回路を察することができ、加えて老化によって記憶脳の記銘力(あたらしい事柄を記憶する能力)が格段に劣ってきていることを承知していたので、いわゆるボケだとはおもわなかった。 記憶について考察している私には、夢の記憶が記銘力よりはるかに優勢であると知ったことは新しい発見であり、驚きであった。この「夢」は、フロイト精神分析学における「夢」とは性質がちがうのではないか、と思った。 それはともかく、医師も看護士も母が認知症だとは考えていなかったはずだ。彼等に対する母の対応は終始、礼節あるしっかりしたものだったからだ。 しかしながら、主治医は、母の心理状態の安定が確実に血圧のコントロールに影響することから、私と弟が介助に加わり傍につきそっていることが良い結果をもたらすだろうと言った。わたしたちは付添う時間を分担することにした。弟が午前中から昼食の世話をして2時ころまで。私は午後4時半から6時の夕食の世話をして8時まで。8時に病院の面会時間が終了するのである。 こうして私たちは休むことなく退院の日まで通院した。主治医はじめ大勢の看護士たちにとって、それは驚きだったらしい。「私は御兄弟のような方にいままで遭ったことがありません」と水野医師は言った。 お粥などの食事がとれるようになるまで、点滴だけだったので、おそらく胃は小さくなり味覚が鈍磨してしまったのではあるまいか。食事が苦痛になっていた。「御飯がおいしいから幸せだ」と日頃言っていたひとだった。 投薬による治療といっても、こちらを立てればこちらが立たずという状態で、医師も使いたい薬(効果が期待される薬)が使用できないでいた。母の自力によって回復することが期待されていた。ということは栄養摂取が肝心で、水野先生は何度か「もう少し様子をみて、場合によっては管を通します」とか「点滴をします」と告げた。私たちは内心必死で母に食事をさせた。それでも頑固に摂食拒否されると、私のこころのなかに〈生きたいのなら、なぜ努力をしないのだ〉という怒りがおこってきた。そのたびに、〈いけない、いけない〉と自制した。けれども隠しても現われることがあるのであろう、母は「やさしい兄ちゃんの顔が、鬼のようだ」と言った。そして「食べると苦しいんだもの。それが分らないんでしょう?」と。 食物を持ち込んで与えることは厳しく禁止されていた。それは理由があってのことなので、私たちは水を飲ませるのさえ医師の了解をとっていた。 が、入院4週間目くらいに、血中のヘモグロビンの値が低下していて輸血を検討している、と告げられた。その予定日まで1週間くらいあり、その頃は制限付きながら食物の持ち込みが許されていたので、即刻、鉄分含有食品を食べさせはじめた。アサリの佃煮をみじん切りにして、あるいは海苔佃煮、鉄分添加牛乳、ココア等々。・・・それが効をそうしたのか、輸血をしなくてすんだ。 塩分が減少していると告げられたときも、練り梅干や焼き鮭のそぼろ、練り雲丹などを食べさせた。 もちろん病院の栄養部も母にあったメニューを提供してくれた。必要な栄養素とカロリー不足をおぎなうために、150mlで200kカロリーが摂取できるジュース状の飲みもの(コーヒー味、麦茶味、バナナ味等がある)などである。この飲みものは母の場合、なかなか全量を飲みきることが困難なのだが、私は看護士さんが定時の薬を飲ませるときにジェリー状の水を使うのをやめて、この栄養ドリンクを使うことにした。 母が食事の量が割合に多かった日(7割程度)は、看護士さんも手をたたいて喜んでくれた。 入院が5週目を終わるころ、水野医師は私たちに患部のCT画像を示して、「解離はほぼ治癒してきています。胸水もほとんど吸収されています。」と言った。 私たちが顔をほころばせたのはもちろんである。「ほんとうにありがとうございます。母も命拾いしたようです。見捨てずにいてくださったおかげです。」 「動脈解離は病名はハデですが、治らない病気ではないんです。再解離がないとはまったく言い切れませんが、血圧コントロールをしっかりしてゆけば大丈夫でしょう。」 18号台風が過ぎた翌日、私は医師の許可を得て、母を車椅子に乗せて夕暮れの戸外に出た。母はエレベーター内の鏡に写った自分の姿を見て、「痩せてしまった」と弱々しく言った。実際、病室で付き添いながら見るよりそうして鏡に写して見る母の顔は白っぽくてゲッソリと痩せこけていた。私は、何を言ったか忘れてしまったが何か冗談を言い、「さあ、しばらくぶりに外の空気を吸おうね」と、まだ台風の名残りの風が吹く病院の周囲の道に母を押し出したのだった。
Oct 13, 2009
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母は1週間の高度救命集中治療後、血圧が高めとはいえやや安定し、体内酸素量も良好ということで、8月28日に循環器内科病棟に移った。そして水野宜英主治医の指揮するチームによる治療が始った。 最初に水野先生から告知されたことは、救命集中治療を受けるにあたっての説明と危険度において変りはなかった。しかしできるだけ手術をしないですませるため投薬によって血圧のコントロールをしてゆくとのこと。血圧の最高値は100~110Hgにもってゆくことが理想であるけれども、母の場合、そこまで下げると腎臓機能に障害がでてくる恐れがあり、120~130Hgをめざす。安静を保つことが大切で、感情の振幅は好ましくない、と。入院期間はおよそ6週間は必要であるという。 私と弟は相談のうえ、母の感情を抑えるため東京に在住しない末弟夫婦にも、また、最も身近な親戚にも知らせないことにした。病院側から、見舞いは、できるなら私と弟だけにしてくれと暗に告げられたことでもあった。 このことは私と弟とでひとつの確信となった。というのは、一般病棟に移って2日目のこと、病室を訪ねると母のベッドがなかった。ナース・ステーションに尋ねると、前の晩に叫び声をあげたのでナース・ステーション内の処置室という常時監視できる部屋に移したというのである。処置室は危急の場合に応急処置ができるよう無影灯などが設備されている。叫ぶことによって、血圧が急激に変動し、薄皮一枚で保っている解離状態が増悪、もしくは完全に裂けてしまう恐れもあったからだ。 この叫びには心理的原因があって、母は自分に起ったことも知らずに、私にその晩に見た恐ろしい夢の話をしたのである。・・・牢獄のような暗い部屋に閉じ込められた母は、ようやく脱出に成功して中野で地下鉄に乗って逃走した。しかし〈此処〉でまたもや掴まり、恐怖の叫びをあげた・・・と。 母がこの恐夢を見たのは、意識がはっきりしないまま病院に運ばれてつぎつぎと場所を移動し、ついに窓ひとつないノッペラボーの部屋でさまざまな機械につながれて、自分がどこにいるか分らなくなっていたこと。さらに私には思い当たるふしがあった。母は最初、差額ベッドの個室に入ったのだが、このベッド代金は1日8,000円だった。6週間以上もこの部屋にいることは、治療費用(いくら必要かまったく分らなかったので)のことも考えると経済的に負担が大き過ぎた。病院費用というのは退院時に即金で支払わなければならないからだ。で、さいわい4人用の大部屋が空いたというので移ったのである。すぐに一人が退院、もしくは他の病棟に移り、他の二人も2,3日のうちに退院とのことだった。 で、夢を見た日の夕方のこと。退院予定の二人が仕切られたカーテン越しに大声で退院の喜びを話しはじめた。ちょうど私がいるときで、退院後の介護してもらうための施設等々の情報交換もまじえての話。絶対安静の母の存在などおかまいなしに、なんと同じことを何度も何度も繰替えしながら1時間半もつづいたのだ。母は耳をとじることもできず、疲労し、挙句の果てが、自分だけが取り残されてしまうのだという孤独の不安におちいった。・・・このことが、おそらく恐ろしい夢を見るひきがねになったのではないか。私はそう推測した。 この夢がまた、母の別な状況をつくりだしてしまった。死にまつわる夢が二六時中、母の頭を占領するようになったのだ。しかも夢が現実を凌駕していた。つまり、あまりの不安のために、それは夢なのだと現実にもどって訂正しがたくなっていったのである。それでなくとも、母は目が不自由になっていたし、壁に囲まれて寝たきり状態では、情報は耳からだけである。見えないのだから、物音が何であるかを事実にもとづいて判断することができずいわば空想によって判断するのである。つまり錯誤の認識なのだが、それを錯誤として記憶から消去してしまうには脳の機能がおとろえている。しかも物音は、すべてが負のイメージに転換してしまうのである。 たいへんなことになった、と私は思った。(以下、次回につづく)
Oct 12, 2009
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良く晴れて暑いぐらいの一日だった。そして私にとってはひどく長い一日でもあった。 このブログに書かないできたが、90歳の老母が51日間という長期の入院治療から死線を越えて、きょう退院した。げっそり痩せこけ、立つことも座ることも覚束ない状態で、今後も予断を許さないけれども、ともかく彼女はまたもや一命を取り留めて我家に帰宅した。またもやと言うのは、今年になってから一月に大腿骨骨折による金具挿入手術、六月に腹部大動脈瘤のステントグラフト手術、そして今回とである。 事の次第はこうだ。 8月22日の午後5時ころだった、ベッドに寝ていた母が突然左胸下と背中の激痛をうったえて七転八倒しはじめた。家には私と弟がいたのだが、何事が起ったのか判断がつかず、心臓近辺の痛みらしいので取り敢えず常備の薬「救心」を二粒飲ませて救急車を呼んだ。 救急隊はかかりつけの三鷹市の杏林大学附属病院に連絡し、高速道路をすっとばして同病院の高度救命救急センターに母を搬送した。即座にCT撮影をして調べたところ、「急性大動脈解離」だった。つまり血圧の急激な変動により大動脈が裂けてしまったのである。 「いつ死んでもおかしくない重病です」と医師は私に告げた。「石原裕次郎さんが亡くなられたのと同じ病気です。ただし、血管は3層の壁でできていますが、内側の2層が裂け、外側の壁が薄皮一枚で保っています。これからさらに詳細に調べて集中治療を行いますが、まったく予断を許しません。また、この病気の患者さんは暴れることがありますので、場合によっては拘束します。よろしいでしょうか。」 その後、厳重に清潔管理されている高度救命集中治療室で私が母の姿を見ることを許されたのは、夜の10時を過ぎるころだった。母は縛られてこそいなかったが、様々な計器に繋がれ両手には卓球のラケット状のミットをはめられていた。 治療計画としては、まず血圧のコントロール。解離が急速に進んだ場合、どうしても切開手術をしなければならないが、超高齢なので非常に危険をともなう。発熱により胸水がたまってきて、それにより呼吸不全におちいる可能性がある。胸水を胸に穴をあけて管を挿入して排出することもできるが、その場合、管をずっと入れた状態になる。また、栄養摂取のため首ないしは腹部から管によって注入しなければならない可能性がある。等々。・・・そしてそれらの処置はいずれも、母の場合、死に接しているというのだった。 「家族はみな覚悟をしております。しかし、私たちは為すべきことを為さずに手をこまねいて彼女を死なせたくありません。どうぞ医学的にできると思われることはすべてやってください」 こう、私は医師に告げ、書類に署名した。 こうして老母の闘病が始った。それは私と弟にとっても長い、看護と介護の始りだった。(以下、次回につづく)
Oct 11, 2009
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夜、東京・調布市の深大寺のそばを通ると、隣の青渭神社(あおいじんじゃ)の祭礼だった。明日が本祭(10月第2日曜日)で、今日は宵宮であろう。境内には屋台店が立ち並び、提灯の明りに照らされて賑わっていた。 この神社、私は以前からその名称が気になっていた。青渭の「渭」は、河という意味であるから、水の神であろうと見当をつけていた。事実そのとおりで、この神社は古来、深大寺町の総鎮守、その神域は5町歩に及び、境内には大池があったそうだ。この池の主ともいうべきは大蛇で、蛇は水神の使いといわれている。かつては青波天神社とも称していたらしい。祭神青渭大神は二神の総称で、水波能売大神と青波押比売命である。 深大寺の「深大」とはそもそも水の神、竜神深沙大王(じんじゃだいおう)の名を冠している。つまり往古、武蔵野のこのあたりは湧き水の豊かな所だったのだ。『江戸名所図会』(斎藤市左衛門幸雄・文、長谷川雪旦・画)に〈深大寺蕎麦〉として描かれている風景も、遠く近くに水の流れが見える。 青渭神社境内には神木の大欅がいまでも聳えていて、車で走っていても通りから見えるが、これも『江戸名所図会』に描かれている。現在は調布市天然記念物に指定されている。 思いがけず祭礼の宵宮に出会ったのだけれど、境内の提灯のあかりの下に行き交うひとびとのたのしげな姿を見ていると、ずいぶん昔にタイム・スリップしたような感じだった。ヨーヨー釣りや、あんず飴の屋台が出、お好み焼きのソースの匂いがただよっていた。
Oct 10, 2009
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あッそうだ! と、きのうの日記を書いたあとで思い出した。1週間前、東京の郊外から都心へ向う電車でのこと。 我家の最寄り駅で私はプラットホームのベンチに腰掛けて電車の到着を待っていた。隣のベンチでは、たぶん法事帰りと思われる喪服の70代半ばの3人が座って何やら話している。二人は婦人で、一人は男性である。 5,6分して電車が到着した。3人は立ち上がり、お互いに「それでは・・・」とかなんとか別れの挨拶をした。このとき私は頭の片隅に「うん?」という思いが走った。電車はこれ1本しかないのになー、と。 ドアが開き、私は乗込み、そして・・・喪服の3人も。一人の婦人は前の車輌に、もう一人の婦人と男性は私と同じ車輌に。ただし、二人はそれぞれ10メートルも離れた別々の座席に座ったのである。 またもや私は、「うん?」となった。この3人の老人たちはどういう関係なのだろう? たしかに、法事に集まった人たちがみな知り合いとは限らない。が、さきほどまで、親しくとはいわないまでも間断無く会話をしていたではないか。しかも帰る方向はこの電車を使うしかない、その意味では同じ方向なのだ。電車に乗ったとたんに、まったくバラバラに離れてしまった。 まあ、世の中にはお座なりのつきあいはある。喧嘩しているわけではないが、これ以上話しをつづけるのは鬱陶しい。・・・たぶんこの3人の老人たちはそんな関係だろう。 それにしても70半ばの年齢にしてはコナレテいない、と私は思った。どうせお座なりの社交なら、最後まで、つまり完全に別々の道になるまで道連れしてもたいした気持の負担にはならないであろうに、と。旅は道連れ、世は情けである。私はなんとなく嫌な感じがした。 ところが一駅過ぎたころ、おもしろいことが起った。 10メートル離れて座っていた婦人の方が立ち上がって、私の前を通り過ぎ、男性の席に向ったのだ。私はまたもや「うん?」となって、婦人を目で追った。 婦人は男性の隣に腰をおろした。いや、正確に言えば、男性の隣ふたつ分の間を置いて座ったのである。 私はこころのなかで「フーん」と溜息のような、驚きのような、小さな声をもらした。この婦人の心理や如何に、である。 ふたりはそのままついに会話はしなかった。
Oct 10, 2009
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勤め帰りの人たちで混雑する電車。 私はちょうど座席を立った人のあとに座ることができた。3人掛けの座席に男3人が座ることとなった。一番年輩と思われる私を真中に、左が50代、右が30代前半でやや肥っている。 3人掛けといっても男3人は少し窮屈だ。左の人は手摺にもたれてうとうとしている。右の人は一心にゲームをやっている。私は身をすくめながらバッグから原稿を取出して読み始めた。 ここまではごく普通の電車内の光景だ。なんの代わり映えもしない東京の通勤電車。 電車は一駅ごとに停車し、やがて最初のターミナル駅についたとたんに思いも掛けなかった光景になった。私たち3人を残してガラ空きになってしまったのだ。 想像してごらんなさい、一両の車内に私たち3人以外には誰も乗客はいないのだ。しかも見知らぬ者同士が、窮屈に身を寄せあって座っているのである。 私は思った。空いている他の席に移ろうか、と。しかし何だか嫌味ではないかな。隣のどちらかが移ってくれないかな。等々。 ところが、二人は知らぬ顔をしている。ガラ空きの車内で、なぜ見知らぬ男3人が窮屈に身を寄せあって座っていなけりゃならないか、とんと分らないが、とにかく3人は次の駅までそのまま座りつづけていたのだ。 私は原稿を読みながら、頭の隅で、行動心理学的な分析をはじめていた。私の心のなかでの逡巡についてはすでに述べたが、他の二人の心のなかは如何なものだったろうか。案外私と同じ逡巡があったかも知れない。それとも、どうせ今移ってもまたすぐに混雑してくるにきまっているから、わざわざ移ることもない、と思ったか。あるいは、まったく無頓着だったか。 さて、この記事を読んでいるアナタならどうしますか? 移る? 移らない?
Oct 9, 2009
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暴風はまだ私の腹の中にとどまっていたらしい。午後、地元の郵便局でのことである。 局に入ると、客は私の前に2人だけ。しかし窓口で応対されているのはお年寄りの婦人ただひとりで、もうひとりの客は通帳とむき出しの現金を片手に、待合室の椅子に掛けるでもなく窓口のほうを見ている。他の窓口は「ただいまこの窓口はお取り扱いしていません」と書いたボードを立ててある。私は備え付けの書式に記入しながら、他の事務員は何をしているのかと、ちらと目をやった。郵便局そのものが小さいうえに、事務室は丸見えだ。男性職員が、仕事をやっているようないないような、やっているのだが一向にキビキビした動きもせずに、なんだか傍から見ていると無駄な動きが多い。 「やれやれ、やはり隣町の郵便局に行くのだった」と私はこころのなかで思った。ずっと以前からこの我が地元の郵便局は、私に言わせれば仕事ぶりがだらけていたのである。じつは今日、私は久しぶりにこの郵便局に来たのだ。おそらく2年ぶりくらいだろう。その間、ずっと隣町まで出向いていた。 局長らしい男も、客が待ちくたびれているのも知らぬげに、タラタラ歩き回っている。そのうちに私の後にも客がたまりはじめた。 私はもう20分以上待っている。私の前の通帳をもった人も相変わらず立ったまま待っている。窓口で接客している事務員は、老人がなかなか説明をのみこめない四方山話につきあうはで、20分間、仕事はちっとも進まないらしい。丁寧に説明するのも大切な仕事だが、この際一つしか窓口を開けないというのも客に対して無礼というものだろう。 そこで私の腹の中の暴風が噴き出したのだ。 待合室の椅子から立ち上がって、事務室に向って大声で言った。 「もっとテキパキと仕事ができないのか。もう20分以上待っているんだ。客をほったらかして、チンタラチンタラしているんじゃないよ!」 そのとたんに局長らしい男がやってきて、鈍そうな面(ツラ)で「お待たせしました」。 わずか2分で済む仕事だ。 「まったく教育がなっていない!」 私の最後ッペに間抜けた顔をあげたが、公共サービスの場でこういう仕事ができない奴らにつきあわされては、時間がいくらあっても足りない。郵政改革だって? 笑わせるな! 「3分間待つのだよ」とは、昔、カップ麺が初めて世に出たころのTVCMだったように憶えている。 客が順番なり注文の品をその場で待つ忍耐時間は、いったいどのくらいなのか。レストラン系では10分が限度だと聞いたことがある。それ以上だと、客の食欲は怒りに変わってしまうそうだ。 私が郵便局で怒鳴りつけたのは、たった一つの窓口しか開けず20分以上待たせたからだ。これとて、もし事務員がせっせと仕事に忙殺されていたなら、私はイライラしながらも、しかしじっと待っただろう。本局の集配係が、何千通であろうと何万通であろうと、制限された時間内に郵便物を配達するために、汗みずくになって働いていることを私は知っている。 また、もしも彼等が取るべき休憩時間だったなら、客の目の前から姿をかくすべきだ。それは接客業の絶対的な掟であろう。仕事をしていないのに如何にもしているように時間を潰す人たちは、どんな仕事場にもいるものだが、それは同僚達への姑息なみせかけだろう。仲間内、社内関係者間でのそんな行為は、私(客)の知ったことではない。しかし、客の目の前でやられたとなると、ワタシャ黙ってはいない。下の事務員にはカマサないが、上に立つ者にはそれがどんな人間であろうと一発カマシてやらないではすまない。 なにしろ私の父方の祖先は剣術者なので、「皮を斬らして肉を斬り、肉を斬らして骨を断つ」という精神がDNAに組み込まれている。しかも母方の祖先は僧侶なのだから、私の精神はややっこしいのだ。成仏しろと言いながら斬りまくるところが私にはある。 まあ、我が地元郵便局のチンタラはちっとやそっとで改まりはしないだろう。仕事のベース・ラインが低い者に自分自身の現状を見直すことはできない。自滅したって、分らない者は分らないままだ。私はいままでどおり隣町まで行くしかあるまい。アーアだ!
Oct 8, 2009
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朝のテレビは台風による各地の被害状況と交通機関の遅延遅滞、そして今後の台風の進路について繰り返している。東京はすでに青空がひろがり、気持のよい日射し。しかし雲は北に向って流れ、我家の裏山からコーコーという山鳴りが聞こえている。二階の窓から見ると、山の木々の梢が大きく揺れ、晴れている空中に水滴が飛散っている。木の葉に降った雨が、木の揺れで飛散っているのだ。 ずっと家の中にとじこめられていた猫たちは、うるさくせがんで外に飛び出して行った。そしてベランダや物置屋根や塀の上で陽をあびている。お向かいの家の猫、大助ちゃんも我家に遊びに来て、塀の上にいる。彼も閉じ込められていたのだろう。 と、とつぜんフクの悲鳴。あまりの大声に、窓をあけて覗いてみると、見知らぬ虎猫が塀の下からフクのいる場所に跳びあがろうとしている。首輪をしているから飼い猫だ。迷い猫ではあるまいけれど、私が首を出したので驚いて後ずさり。その間にフクは物置屋根に移った。 我家には5匹もいるので、他家の猫たちが友達をもとめてなのか、ちょいちょいやって来る。類は類を呼ぶ。おもしろいことだと私は思っている。が、我家の猫たちにしてみれば縄張りを荒されるのだろう。フクは意外に気前がいいのだが、なかには相性のあわないものもいるらしい。・・・台風一過の我家の光景である。
Oct 8, 2009
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夜の8時、都内某所で知人と歓談していると、館内放送が車の持主に呼びかけ始めた。水没のおそれがあるから移動するように、と言うのである。 台風18号が日本列島を縦断すると予想されている。しかも近年にない暴風雨だという。私は電車をつかったのでさしあたり車の水没を心配する必要がなかったが、知人と互に注意をうながしながら、そそくさと歓談を切り上げた。 分かれたとき雨はたいした降りでもなかった。しかし今、帰宅して11時を少し過ぎ、雨音が強くなってきた。玄関先に置いてある植木鉢のトウジュロを屋内に入れた。ほかにも吹き飛ばされそうなものを片付け、雨戸を点検した。 5匹の猫たちは気配を察知しておとなしくそれぞれの場所にちじこまっている。 私は知人から頂戴した日本橋屋長兵衛の団子を食べながら、今朝とどいたディクスン・カー『一角獣の殺人』のゲラを読み始める。雨音はいよいよ激しい。
Oct 7, 2009
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東京創元社版のディクスン・カー叢書に久々に新しい一冊が加わる。『一角獣の殺人』。初の文庫化だ。発売は12月。ディクスン・カーのファンには待望の新刊となるはず。もちろん私がカバー絵を描く。 40作品以上のディクスン・カーを読んできたが、じつはこの『一角獣の殺人』は未読である。明日、編集部から本文ゲラが届くことになっている。締めきりまでに日にちがないが、読者よりお先に楽しんで読む。構想はそれからである。どんな絵を描こうかな。ディクスン・カーのファンのみなさんお楽しみに!
Oct 6, 2009
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まぼろしか老いたる耳に秋の雨 青穹 秋雨やシグナルの赤滲みたる 今日も雨あすも雨なれ残り柿 冬瓜を煮含めて聞く雨の音 瓶の酢のひそかに醸す秋の暮
Oct 5, 2009
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昨夜は仲秋の名月・・・のはずが、東京はあいにく雨後の曇り空、星ひとつ見えなかった。かわって今夜は、皓々と輝いている。 名月は我家のまうえ愉快なり 青穹 月を見上げていたら、米軍の飛行機が轟音をあげて厚木方面へ飛んでいった。 軍用機月を左に切り裂いて 青穹
Oct 4, 2009
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先日、見るともなくテレビをつけたら、ちょうど昔の映画『馬喰一代』が始るところだった。懐かしかったので、そのまま見ることにした。 1951年(昭和26年)の映画だから私は6歳になるかならず。しかし、ほぼリアルタイムで見ているのである。見ているには見ているのだが、映像の記憶がない一本なのだ。ただ「馬喰」という言葉をこの映画でおぼえた。長野県川上村の公民館でのことである。 私は長年この作品について知りたくて調べていたのだが、たしかな記録を見出せないでいた(現在ではネットで検索できる。ただし記述に誤りもある)。 猪俣勝人『日本映画名作全史・戦後編』にも載っていない。猪俣氏にとってこの作品は「名作」に値しなかったのだろう。まあ、映画というものは「名作」をならべてみても、良い資料にはなりにくいものだ。日本の映画界の記録資料はどうも「名作」にこだわるらしく、多くの映画が記録されないまま忘れ去られ捨て去られているようだ。どうせ記録するなら、とことん「記録の魔」に徹することこそ後の役にたつのだけれど。 私の記憶から映像がまったく抜け落ちている映画というのはたぶんそう多くはないと思っているのだが、たとえば同じころ見た小津安二郎監督の『お茶漬の味』もストーリーはまったく忘れているのに、たった一つのシーンだけは記憶にある。佐分利信の夫と木暮実千代の妻が夜中に台所でお茶漬を食べている映像である。このシーンが存在することを、私は後年、ビデオで見て確認した。 『馬喰一代』は木村恵吾監督の第2作。前年(1950)に黒澤明の『羅生門』で主演した三船敏郎と京マチ子のコンビがこの作品でも主演している。志村喬も出ている。この俳優陣だけでも、映画史の一連の流れ(あるいは大映の商機をのがすまいとする姿勢)をうかがえるだろう。のみならず、今回、それこそほぼ60年ぶりに再見して、荷馬車や群馬が駆ける長いシークエンスは明らかにジョン・フォード『駅馬車』を下敷きにしていると知った。あるいはストーリーや、父子の描きかたに稲垣浩監督、阪東妻三郎主演『無法松の一生』(昭和18年作)の影をみる。『無法松の一生』のリメーク版では三船敏郎が主演しているという因縁めいたものさえうかがえる。 あるいは私が「おや!」と思った映像に、雪のシーンがある。この作品、物語の場所は昭和5年ころの北海道北見町(現・北見市)である。積った雪を掻きわけて道をつくっているのだが、その雪の山のなかに氷雪の大きな結晶がいくつもキラめいていた。これに私は注目したのだ。白黒映画だし、雪が純白に撮れているわけではないけれど、この氷雪の結晶の星のようなキラめきで雪は雪になった。ほんものの雪をそのまま撮影したからといって、雪の冷たさがフィルムに定着するわけでもない。いや、観客が雪を冷たく感じるわけでもない、と言うべきか。・・・とにかく私は、『馬喰一代』の雪はあらためていま記憶しておこうと思ったのだった。『馬喰一代』(1951年、大映作品)監督:木村恵吾、原作:中山正男、脚本:成澤昌茂、木村恵吾、撮影:峰重義、美術:柴田篤二、音楽:早坂文雄。出演:三船敏郎、京マチ子、伊庭輝夫、市川春代、杉狂児、志村喬、小杉義男、菅井一郎。
Oct 3, 2009
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