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朝からの小雨が、昼過ぎに霙(みぞれ)になった。二階の仕事場の窓から見ると、「降り注ぐ」と言いたいほどの勢いをもっている。時に空中で、ヒラリと白い雪片に変わる。甍は、掻き氷(フラッペ)を食べたあとのグラスの底のように、いささかだらしない水気の多い氷におおわれてゆく。 童謡のとおりだと、炬燵にまるくなっているはずの我家の猫たちは、さすがに外に出るのをひかえ、電気カーペットに横たわっている。それでも時々やおら起上がって二階に駆け上がり、勝手にベランダへ出る戸を開けて、雪の様子を見ているのだ。何がおもしろいのだろう。何が気にかかるのだろう。 我家の猫たちは、とにかく好奇心が旺盛。過日、母のベッドを介護しやすいようにリクライニング式に変えたけれど、それが気になるようだ。ついにサチが母の足元にとびのって、「ナルホド、ナルホド、イイカンジダ!」とそこに蹲った。それを他の猫が、「ウン!?」というような表情で一心に見ていた。そしてサチがいなくなると、次にはマスクが飛び乗った。おとなしいマリも羨ましそうに見ていた。 母はそうした猫のふるまいが満更でもなさそうで、むしろなにかホット安心するようだ。猫たちはそれぞれの自由なやりかたで、老母の心のケアをしているのである。
Feb 27, 2009
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2月も終わろうとしているのに、私の製作はパタリと滞ったままだ。老母の介助に明け暮れる日々が、私の長い年月の一日の過ごし方の習慣を否応なく変え、そのことにさしたる苦痛は感じないのだけれど、睡眠時間が2時間毎に断たれることによるヴァイオリズムの変調を、肉体そのものがなかなかそれを常態として受け入れないのだ。しかし、この状況は今後永続することだけに、なんとか肉体を馴さなければならない。そこへもってきての、やや風邪気味。 肉体が不調なときに絵を描くと、絵が弱くなる。それは経験からよくよく知ったことである。 ずいぶん昔のことだが、約束の時間に迫られて、不調にもかかわらず製作しなければならなかった。それは小品だったけれど、しばらく後にその作品は画廊が顧客に販売してしまった。そういう約束だったから、売れたことを私は喜ばなければいけなかったのだが、作品が人手にわたってしまった以上、もう手を入れて直すことができない。他人は気が付かないかもしれないけれど、描いた本人の私には、その絵の一部が弱いことに気が付いていた。描きながらも分っていたのだ。しかし、肉体の不調が、修整するという気力を萎えさせたのだった。「しまった!」と思ったときには、すでに遅しで、私は後悔ばかりが苦々しく残っているのである。 そんなわけで、このところ製作を中止している。 しかし一方で、このときとばかり、たまった本をつぎつぎに読んでいる。そしてそれらに深い感銘を受けながら、私の心身に熱い血がたぎってくるのを感じている。 読書といえば、老母はかなりの読書家で、私が選んで買い与えたものを、年間、200册ほども読んでいた時期があった。しかし一昨年ごろからそれがパタリと熄んだ。もともと片目だけの、それも非常に狭い視野で読んでいたのであるが、その気力も失せてしまったらしい。 「脳を働かせなさい!」と、私は叱咤激励するのだが、萎えてゆく気力を回復することはできないようだ。 その老母の様子をみながら、ふと思い出す人がいる。その若い女性に会ったのは、さる方のホーム・パーティーに招かれて出席したとき。30人ばかりが入れ替わり立ち代わり訪れて、しまいには、ホストもホステスも互を紹介するのをやめてしまった。そんなときに、私はお互いに名乗りあうこともなくその女性と話しをはじめた。後に、その人はある高名な文学者のお嬢さんということを知ったが、私はそれを知らずに自分が読んだばかりの、不思議な偶然ながら彼女の父上の本について話したのである。 彼女は内心で微苦笑していたかもしれない。しかしまた、それで一層打解けたのかもしれず、自分は癌の手術をしたばかりなのだが、病院のベッドに横たわりながら、いままでこんなに本を読んだことがないというくらい本を読んだ、と言ったのだ。限りある命と知ったら、読まずにはいられなくなったんです、と。 私は返す言葉もなく、ただ耳を傾けていた。 私は、その思い出を、あえて感想も述べずに、今日ここに記しておこう。
Feb 26, 2009
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20世紀の絵画をそれ以前の絵画と截然と分つのは、抽象画の登場である。そして、その新しい創造の扉を開いたいわば先駆者といえば、私は、パブロ・ピカソ、ジョルジュ・ブラック、そしてピエト・モンドリアンの3人をあげる。 私は昔、中学生のころ、モンドリアンに心酔し、自分でも黄金比率の研究やその実践的な作品を、純粋色彩によって描いていたものだ。後付けの分析的な言い方をすれば、私は両親家族から離れて孤独な生活にはいっていたので、内心に不安をいだきながら、しかし持前の楽観的な性格もあって、その折り合いをなかなかつけることができずにいた。モンドリアンの幾何学的な作品は、私に、なにか清清しい潔さと安定感を感じさせたのだと思う。私の精神に幾何学への嗜好があったことも確かだった。いや、むしろそのような嗜好があることを、モンドリアンの作品が気付かせてくれた、といったほうが正確かもしれない。 ともあれ、モンドリアン作品に対する心酔は、高校生になってもつづき、私はとうとう自分が着るためのニットセーターをデザインし、母にそれを編んでくれるように頼んだ。そのデザインは黒のなかに、Vネックの襟元の片側と、ウエスト部分の襟とは反対側の片側に、1cm幅ほどの赤い長方形が帯状にはいっているというものだった。単純なデザインなのだが、長方形が乱れずにきっちり編み込まれていることを私は主張して譲らなかったので、母は相当苦労して編み上げたようだった。私はそれを糊のきいた白いワイシャツに重ね着して得意になっていた。10年くらい前、現在の住居に引越しするさいの大整理の最中に、その40年も昔のセーターが出てきて、私はあらためて自分の過去の作品のひとつとして紙袋にいれて保存しているのである。 話が逸れてしまった。もとに戻そう。 上にあげた3人の抽象画の先駆者たちは、しかし、いずれも初めから抽象画を志していたわけではない。身近な物を写生風に描きながら、おそらく、「時代の要請」を敏感に察知したのであろう、しだいに対象を解体する作業をはじめるのである。抽象画が美術史のなかで、あるいは画家個人の歴史のなかで、どのように創造され成立してゆくかについては、ここで述べるつもりはない。私の任でもない。 私がこれから述べようとすることは、ひとつの推論である。それをまず断って、モンドリアンの自画像について気がついたことを書いておく。 まず、3点の作品を掲げる。いずれもモンドリアンが描いた自画像(Self-Portrait / Zelfportret)である。 左から、1900年頃に製作された作品、1912ないし13年の作品、1918年の作品、である。 最初の自画像が描かれた時期、モンドリアンの作品全体がまだ写生的なものである。やがて、対象の解体への模索がはじまる。その対象は、樹木であったり花であったり、自分自身であったり。 2番目の自画像は、その時代のものだ。 そしてモンドリアンの対象解体はさらに進化し、いよいよ黄金比率の幾何学的な作品へと向ってゆく。 これを「解体の進化、ないし深化」と呼ぶか、あるいは全然別な思考が入ってきたのか、議論があるかもしれない。しかしそのようにモンドリアンの独自な領域が開花しつつある時期に、その自画像はなぜかフォビズムの痕跡さえとどめているような、むしろオーソドックスな具象表現なのである。まるで、元に戻ってしまったのような。 この自画像の三様の流れに、私は注目するのである。 じつは、詳しく述べなかったが、最初の自画像は、現在、ワシントンDCのザ・フィリップス・コレクションが所蔵するのだが、私があえて問題にしたいのはこの作品の支持体についてだ。 支持体というのは、絵が何に描かれているかという、その絵具(顔料や塗料など、その彩色材)を支えている材料のこと。 モンドリアンのこの自画像は、キャンヴァスに油絵の具で描かれている。だが、そのキャンヴァスは、思いもかけない物に貼付けられているのである。「石」である。 自画像を石に貼付けたキャンヴァスに描くということは、作者としての何か特別な意図があるとみなければなるまい。普通では行わないようなことをしているのは、そこにすでに重大な創造がおこなわれていることを意味する。しかも鑑賞者にはなかなか見えないところで。 モンドリアンは、ここで何を意図したのであろう? 彼はその後、例示したように、自分自身の解体を試みる。直線の集積によって、自分の顔を、アイデンティティを認めるに足るギリギリまで分解し、要素だけを抽出しようとしているかのようだ。この方法は、ブラックやピカソのキュビスム(立方体主義)と近似的なものといってよかろう。 そして、さらに5年後、斜方向からの視点は前作と同じながら、自己解体はやめてしまっている。背景に、何かレリーフ(半立体の浮き彫り)のような矩形を集合した壁があり、そこにわずかにモンドリアンの追求している幾何学図形のような作品世界のおもかげが窺える。しかし、自己の姿は、いわば20世紀的具象である。 ・・・この流れのなかで、私はようやく、石に貼付けたキャンヴァスに自画像を描いたモンドリアンの意図が理解できそうな気がするのだ。強い自我、強い自己執着。解体すべき対象から超越した存在としての自分自身である。 おそらく彼は、そのような自己への執着を断ち切ろうとするかのように、自分の姿を解体分割しはじめたのだろう。あるいは、ほとんど何の気なしに。しかし、たちまち、単純に「要素」などに分解できないことに気がついたのだ。それは、痛みだったかもしれない。「世界」のようには、自己を割り切れなかったのかもしれない。自己は、「世界」よりもっと、内容ある存在だと、思ったかもしれない。あるいは、・・・意地悪な言い方をすれば・・・芸術家として重要視されるにしたがって、「普通の人」ではないという自己確信ができてきたのかもしれない。それが3番目に例示した自画像から窺えることだ。 この3番目の自画像に、私は、ムンクの晩年と共通の自意識を見る。絵も似ていなくもない。世間と闘ってきた人の、頑固で、皮肉で、確信にみちた傲然なまでの自意識。 最初の自画像には、まだ繊細さと気の弱そうな一面がうかがえた。それだからこそ、石に貼付けなければならなかったのではないか。その石の支持体は、モンドリアンのナルシスムの支持体でもあるのである。 冒頭で私は、抽象画の先駆者としてピカソをあげた。しかし、ピカソ自身は「抽象には近づかない」ことを信条としてい、事実、ピカソの作品はモンドリアンの幾何学的作品と比較すると具象以外ではありえないことは確かだ。 それはさておき、ピカソは、日付けを明確に記した作品を日記のように描き、かつ、自己を作品のなかに閉じ込め、作品として昇華したと言えよう。しかし、私は、このたびモンドリアンに関して、その自画像の変遷に則して作品を瞥見してみて、彼は、自分の創造した抽象画の世界に、ついに自己を閉じ込めることができなかったのではないか、と思った。私はこれまで、モンドリアンの作品群について、そのような見方をしたことはなかった。それは自画像によって、彼の画歴をたどるという試みをしたことがなかったからであり、初期の自画像が石に貼付けたキャンヴァスに描かれているという事実も見過ごしにしてきたからである。そして、そのような事実を論じた論文も浅学ながら知らない。 というわけで、とりあえず推論として、私の考えを述べておく。
Feb 25, 2009
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あいにくの雨となった一日。午後から、社交上の、とある式典に出席。私は2時間余りで、途中で失礼して退場した。風邪気味なのか、身体が熱っぽかった。私が風邪をひくのもめずらしいが、こういうのを鬼の霍乱(かくらん)というのだろう。ハハハ、自分で言うのだから世話ないな。 23時40分過ぎか、今夜は、もうやすむことにしよう。
Feb 23, 2009
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桜が咲いている。木によっては八分、すでに満開のものもあった。買い物のため外出した。電車をつかったので、帰りに途中下車して、ちょっと寄り道をした。そこで満開の桜をみつけたのである。東京にしては少し早くはないか? しかし、いずれにしろ桜を見て心がはずんだ。 買い物は老母のための入浴用品。入浴に介助が必要になって、浴槽内や、縁や、洗い場に、滑り止めをとりつけた。そして、バスタブからの出入りがなかなか困難なので、いっそのことと、欧米式に浴槽内にリッキドソープを入れて、浴槽の中で洗ってもらうことにした。そのリキッドソープがなくなったというので、私が買いに出たというわけだ。日頃愛用しているのは、フランス製のSavon de Marseille(マルセイユ・リキッドソープ)、イクストラ・ピュア・シリーズのチェリーブロッサム1,000mlボトルである。ほのかな桜の香りは、まるでこの季節のためのようだ。 その石鹸が入ったショッピング・バッグをぶらさげて、ぶらぶら歩いていたら、桜が咲いているのに出会ったのであった。
Feb 22, 2009
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経済不況が、ああ、こんなところにも、と思った。近所の大型古書店が閉店するのだという。 ミケランジェロが書いた302篇の詩をイタリア語原典で読みたくて、イタリア語辞典がほしくなった。まずは古書店を探してみようと出かけた。すると店内は、商品をダンボール箱に詰め込む作業と、すでに詰め終わったダンボール箱が山のようになっていた。張り紙に、今月末をもって閉店する、とあった。店内改装による一時的な閉店ではなく、全面的な廃業のようであった。 「長年の御愛顧、ありがとうございました」と店内放送があったが、私も利用客の一人ではあった。もっぱら100円均一本から優れた作品を発掘してきたが、それでも、たぶん500册はこの店で買っている。普段はなんとも思わなかったが、なくなればなくなったで楽しみが減る。 あいにくイタリア語辞典はなかった。張り紙に「105円(税込み)の本は、どれでも3册で105円にいたします」と書いてあるので、しばらく物色してみた。 辞書のならんだ棚から次の4册を抜き出した。 『全訳漢辞海』(三省堂) 『新明解古語辞典』(三省堂) 『ライトハウス和英辞典』(研究社) 『改訂版英和・和英コンピュータ用語辞典』(富士書房) さらに、次の2册。 田宮俊作『田宮模型の仕事 ― 木製モデルからミニ四駆まで』(ネスコ発行、文藝春秋発売) 大江健三郎『静かな生活』(講談社) 以上、210円也。 それからDVDコーナーで、1937年のワーナー映画、ウィリアム・ディターレ監督・ポール・ムニ主演の『ゾラの生涯』を買った。こちらは1,000円。 不景気風が吹いていても、街を自転車で走っていると、馥郁として梅の香がただよっている。四季はめぐるのだ。 そんなこと知らぬ存ぜぬでもあるまいに、バカタレ総理大臣や、そのお友達のこれもバカタレ前財務大臣が、国政にしがみついている。昔なら「国賊」と言われてもさしつかえないふるまいをしている奴等を、選んだ国民が一番バカなのを承知で言うが、しかしこいつらを祭り上げた与党の責任は重大であろう。また、それを追放も追究もできない野党も、どっちもどっち。日本は政治制度を根底から見直す必要がありはすまいか。
Feb 21, 2009
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地方によってはまだ雪が降っているところもあるようだが、東京は春らしい気持の良い日射しだ。我家の5匹の猫たちがベランダに勢ぞろいして、日光浴をしている。歌舞伎「白浪五人男」の連ねのように・・・。テレビの動物番組で、マダカスカル島のミーアキャットが、立ち上がって一斉に陽をあびている映像をみかける。低体温のため、血液を温めてから一日の活動をはじめるわけだ。我家の猫たちは、寒さのなかでもいたって活発なのだが、やはり「春が来た!」と陽を浴びるのだろう。気持よさそうに、うっとりした表情をしている。抱き取ると、毛のなかにふっくらした温もりが溜っていた。 食卓にも、春の兆しがある。農産物にしろ海産物にしろ、四季を感じなくなっているが、それでもその時季にしか穫れないものがある。きのうの夕食に、帆立稚貝の味噌汁と新物の鰊の塩焼きがのった。鰊を捌くときに、包丁の峯で鱗をとる。キラキラと飛散るその様が、やはり、春なのだった。
Feb 18, 2009
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昨夜は一晩中、強風が吹き荒れていた。軒端を音をたてて渡ってゆく。遠くで猫が哭いていた。 春嵐や深夜寝覚めの睦み言 青穹 老いの身に春に嵐の喩えとや
Feb 17, 2009
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室町時代後期の画僧・雪舟(1420-1506)の幼少のころの逸話に、いたずらをして和尚さんに叱られ、柱に縛り付けられた。泣いた泪を足指にひたして、鼠の絵を床板に描いた。するとその絵の鼠が、生き生きと動きだし、戒めの縄を齧って雪舟少年を解放してくれた、と。 なぜこんな話をもちだしたかというと、昨日雛人形のことを書いてから、その雪舟の逸話を題材にした博多人形が、私がまだ小学校に入学する以前に我家にあったことを、ふいに思い出したからだ。 その人形は、小僧さんが木魚によりかかって眠っている。泣きつかれてしまったのだ。足元に鼠がいて、小僧さんの周囲に、解けた縄が落ちている。・・・そんな姿かたちで、博多人形特有の柔らかい霞むような色彩の上品な人形だった。 その小僧さんが、後に画聖雪舟となる人であることを私におしえてくれたのは母だった。 雪舟は、1420年に備前岡山に生まれ、早くから京都の足利将軍家菩提寺である相国寺に入り、周文について絵画修行をした。1467年、47歳のときに明に渡って本格的な水墨画の技法を学んだ。1469年帰国。その後は、周防山口に雲谷庵(うんこくあん)をむすび、生涯を送った。国宝「秋冬山水図」、同じく「天橋立図」は、教科書にも載って、よく知られるところである。日本絵画史において、はじめて個人様式を打ち立てた画家である。 我家の「雪舟と鼠」は、度重なった引っ越しの際に失われてしまった。子供時代の品なので、私の記憶からもいつのまにか消えていた。それが、55年以上も経って、ふいに思い出した。色も形も、まざまざと思い出したのだ。そして、まさか、その55年の間に、自分が絵描きのはしくれになっていようとは・・・。
Feb 16, 2009
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午後、所用で外出。春がいっきに訪れたような陽気である。街行くひとたちも顔が明るい。梅はもうどこでも満開だ。 デパートのショーウィンドーに雛人形が飾ってあった。年輩の男性がひとり、その前にたたずんで見入っていた。お孫さんへのプレゼントを考えていたのだろうか。それともその美しさに魅了されたのであろうか。 私は、現代の雛人形にはまったく関心が向わない。かつて享保雛を実際に見てしまってからは、その圧倒的な存在感に魅了され、他へ関心が向わなくなってしまった。享保雛は江戸時代中期(1716-1736)に流行した坐り雛の典型で、顔は面長、装束は様式化されている。 アンティークの雛人形は、次郎左衛門雛とか高倉雛、また江戸後期の上野池之端の人形師七澤屋専助の手になる七澤屋芥子雛、あるいは同じ頃に今の埼玉県鴻ノ巣近辺でつくられていた鴻ノ巣雛などが知られている。いずれも時代がついて味わいがある。しかし現在では古美術店でもなかなか見かけない。 もう30年も前のこと。ある人形師のアトリエで開かれたパーティーに招かれた。帰りがけに、玄関脇の小部屋のドアが開いていたので、なにげなく覗くと、暗がりに丈50cm程もあるかという大型のアンティークの雛人形が無造作に置いてあった。享保雛にまちがいなかった。装束に縫い込まれた錦糸が、ほのかな明かりに妖しくきらめいた。 そしてそれよりもさらに昔、私が8歳のころ、向いのTさんの家で見た雛人形も、おそらく江戸時代のものだった。縁側から座敷をふと見やると、大きな段飾りの雛人形がならんでいた。アンティークという言葉はもちろん知らなかったが、私がアンティークを意識した初めが、T家の雛人形だった。 黒澤明監督の映画『夢』に、桃の節句の章がある。あの挿話を見るたびに、私はT家の雛人形や人形師のアトリエの小部屋の雛人形を思い出す。 ・・・デパートのショーウィンドーの前にじっとたたずむ老人の姿を、私はなんとなく気にしながら、ふと、私が出会った雛人形のことを思い出したのだった。
Feb 15, 2009
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昨夜、就寝中に私の名前を呼ばれて、おどろいてガバッと起上がった。寝室は暗く、誰もいない。「夢か」と思ったが、夢を見ていたというふうでもなかった。夢におどろいて起きるというのも、初めてのことだった。 しかし、考えてみると、そのような精神状態が形成されていたとは言えるだろう。老母の危急の介護のために、ワイヤレスの呼び出し装置を、私の仕事場と寝室に設置した。ちょうど1週間になる。すでに毎日毎夜、それは使用されていた。私の睡眠は断続的になり、この1週間は、そのような状態を私の肉体的生理的な習慣とすべく無意識に努めていたのだった。バイオリズムの変化と、危急の呼び出しという常態化する日常に対応しようという私の意識が、おそらく夢のなかで私の名前を呼ばれるということに表現されたのであろう。 その声は、だれのものとも分らなかったが、いきなり、はっきり、私を呼んだのだった。私は反射的に床の上に半身を起したのだった。
Feb 14, 2009
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三寒四温というけれど、今日の東京西部は、雲におおわれた寒い一日となった。仕事場にとじこもって、あいかわらず50号の新作を描きつづけている。絵柄の入り組んだ作品だが、すこしづつ全体が見えて来ている。しかし、完成までにはほど遠い。騎手の武豊氏の座右の銘は「そのうちなんとかなる」だそうだが、私も、そういう気持だ。春もそのうちやってくるだろう。必ず。 春寒く咳きひとつする曇り空 青穹(山田維史) 空くもり春だんだんも気の鬱ぎ
Feb 13, 2009
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(昨日のつづき:講談社児童書ドラゴンブックスをめぐって) オカルティズム(隠秘学)とその周辺美術は、主としてキリスト教異端(反キリストと狂信的キリスト教)として、ヨーロッパの地下水脈の滔々たる流れのなかで咲いた妖花であった。それはまた無意識の深い井戸をのぞきこみ、そこから宗教的な弾圧と抑圧によって乾き切った心の大地に、水を汲み上げ、与えていた。 この地下水脈が地表にあらわれたのは、おおざっぱに言えば、19世紀末に出現し20世紀の大思想を築いたジグムント・フロイトが創始した精神分析によると言ってもよいだろう。その思想を受け継ぎ、C.G.ユングは、一方でフロイトと激しく反目しながら、驚くべき広汎厖大な古文献を渉猟して、オカルティズムにれっきとした地位を与えた。ユングはそれを人間の共有の無意識だとした(ユングは元型と言う)。 フロイトは、精神分析を科学的医療とすべく既存の思想と闘っていた。それゆえ、あいまいな事柄、いまだ検証されない不確定な現象を慎重に拒否していたので、自分の後継者とも考えていたC.G.ユングがオカルティズムへ接近する志向をあやぶんだのだった。 フランスに起ったシュルレアリスム運動は、このような精神医学・心理学の勃興と歩みをそろえた。アンドレ・ブルトンを中心とした美術による無意識の探究。ブルトンは、ユングと同様に、古今東西の人間の営みの図像から、硬直した社会意識をひっくり返すような「魔術的な芸術」を発掘して紹介することにつとめた。シュルレアリスムはきわめて文学に近い美術運動である。ブルトン自身は美術家でなかったので、著作によって旗頭となっていた。『シュルレアリスム宣言』『魔術的芸術について』『石の言葉』『絶対の隔離』等々である。 さて、講談社ドラゴンブックスは、そのような正統的なオカルティズム研究や美術運動とは異なる。しかしながら、古くから日本の文化的底流にあった異界との接触・・・日本のあらゆる宗教のなかにある「穢れ」思想から生まれた「甦り」の考え方は、異界との接触のイメージを抜きにしては語れない。ドラゴンブックスは、日本の土俗信仰や伝説が、場合によっては危険なほどの妄信もふくめて、ヨーロッパのオカルティズムと並列または共振するありさまを、おもちゃ箱をひっくり返したように数多くの図像で子供たちの不可思議への好奇心の扉をひらく先鞭をつけたのだった。 ときに日本では、テレビ番組も好んでオカルティズムを弄び、その一つの帰結として20年後にオーム真理教事件も起った。経済のバブル期に向って、日本社会は何か不安定に揺れていた。そしてテレビというメディアは、ある種の幼児性を本質的にかかえているかもしれない。オカルティズムが格好の素材であることは、現在も、占い番組が堂々とゴールデンタイムに座をしめているのでも分ろう。 子供の視覚認識とはおもしろいもの。大人が見のがしがちな極端な細部への好奇心が特徴である。細部によって差違を認識し、また差違化をはかって分類する。 そのような子供の視覚をことのほか理解していたのが児童物出版界では大伴昌司氏であり、表現方式を共有した佐藤有文氏であった。 昨日述べた大伴昌司氏が好んで採用した「腹割り図解」というのは、たとえば理科図鑑などにある土中の蟻の巣のようすを解説する図。あるいは豪華客船やタンカーの全体の内部を示す断面図。・・・さしずめMRIスキャン画像のようなものである。この内部はどうなっているのだろう?という子供の好奇心に対して、ストレートに応えるのが「腹割り図解」である。ただし、大伴氏や佐藤氏は、その図解方式を、吸血鬼ドラキュラの城とか魔女の館などに、空想の翼をはばたかせ、画家に依頼した。 ドラゴンブックスの視覚デザインの特徴は、「腹割り図解」や古今東西の怪奇絵や写真を出所の明示もなく、ページ全体、本全体にぎっしり詰めこんだことだ。佐藤有文氏は著者として文章を書いているが、それは長くて250~300字程度のごく短いものを図版にそえているだけ。ほとんどが私たち画家が描いた大小数百点の絵や写真で一本が埋め尽くされていた。子供達は怖いもの見たさでそれら数百点の図版に目をこらしたことだろう。 それらの挿画は、洗練されているとはとても言えない。特に私は、冷や汗がでる思いだ。想を練っている時間も、デッサンをしている時間も、技術的な修正をほどこす時間もない、実際、未熟な新人イラストレーターだった。とはいえ、他人の感覚はわからないもので、四苦八苦悪戦苦闘のドロドロ絵が、奇妙なエネルギーをかもしていると評されたりしたのだから。 駆け出しの私のほかは、石原豪人氏も柳柊二氏も秋吉巒氏も大ベテランだった。その絵は、言いうべくは、一時代前の大衆小説の挿し絵風で、私は自分とは違う世代、違う美意識と見ていて心服することはなかった。それでもこの方々は、日本の挿し絵史においては大正・昭和初期に活躍した樺島勝一(1888-1965)や高畠華宵(1888-1966)、山口将吉郎(1896-1972)、伊藤彦造(1903-2004)のいわば正統的な挿し絵の系譜を引き継いでいるといってよい。おそらく御三方とも少年時代にそれらのロマンチックな挿し絵に胸をおどらせたに違いない。そしてその絵は、人間の個性を描出しているのではなく、すべての顔が類型的なのだが、しかしその類型性に各々の画家の見誤りようのない個性と流麗な筆捌きがあった。石原氏や柳氏には別名で描かれた挿画があるけれど、私には一目で分る両氏それぞれの描き様があった。いずれにしろ、新人の私としては目をみはらずにはいられなかった。 土屋氏が最初に連れていってくれたのは、たしか、松原の柳柊二氏の自邸だった。日本風家屋の玄関を入って最初の部屋に通された。そこは応接室らしく、洋風にしつらえてあったが10畳から12畳ほどのおちついた部屋だった。なかほどに長く大きな銘木のテーブルがあったと記憶する。土屋氏と私はその前に座るように案内にでた方にすすめられた。私は、画家の家を訪ねたのは初めてだった。 しばらくして応接室の奥の戸口から柳氏があらわれた。それまで挿画の執筆をしていたのだと言われた。土屋氏が私を紹介すると、柳氏は少し相好をくずして「ホーッ」というような顔をした。それから、私たちは何を話しただろう。柳氏が水彩筆のことを話された。そして私は、印刷のカラーの仕上りを原画の上で調整する方法はないでしょうか、と質問したと思う。すると柳氏は、「補色」ということを言った。補色というのは、通常は色環上の反対関係にある2色のことで、補色対比という。しかしこのとき柳氏が使った「補色」というのは、文字通り、色を補うことだった。柳氏は水彩絵具を使用されていたが、出来上った絵をふたたび水彩絵具で修整することはできない。そこで柳氏はパステル等で色を補い、修整しているのだと言った。 柳氏にとってはそれは秘密でもなんでもない技法だったかもしれないが、若かった私は、大ベテランの秘密を聞いたような感動をおぼえた。・・・たぶん、その話をしっかり記憶しようと胆に命じたためか、あとの四方山話はいまではすっかり忘れてしまったのである。 次に訪問したのは秋吉巒氏の御自宅だった。 マンションの玄関扉をあけると、正面の壁龕ふうな飾り棚に8号ほどの自作が掛けられていた。グレーがかったライトブルーの色彩を主として、ほとんどその色に沈み込みそうに赤や黒の色彩がちりばめられた妖しげな魔女の宴のような光景が描かれていた。まさしく秋吉巒の世界がそこにあった。通されたのは6畳と4.5畳の部屋の境のしきりを開放した4.5畳のほうの部屋で。突き当たりの壁際の棚のうえに、やはり自作の小品が2,3点並んでいた。氏は、時にその部屋で執筆もするらしかった。 夫人があらためて御挨拶に出てこられ、そのまま6畳間のほうに座って、ひかえめに私たちの話に加わった。私は夫人のお顔を拝見して驚いたのだが、秋吉氏の作品に登場する女にそっくりなのだった。 作品のなかでは裸体姿もなまめかしく、魔女や、悪鬼どもに虐げられる女に変身してはいるものの、ひとたび夫人のお顔を拝見してしまうと、もうモデルが誰であるか間違いようがなかった。実際に夫人をキャンバスの前に立たせたかどうかは分らないが、おそらく夫人は秋吉氏の理想の女性であったのだろう。・・・だとすれば、秋吉巒の世界としてファンに知悉されている魔女の厨の釜開きのような光景は、いったい氏のいかなる心の状態を反映しているのだろう? 私は言葉をえらびながら遠回しにその点を質問した。 「戦時中に、中国で地獄図を経験したんですよ」と秋吉氏は言った。 それが事実であるか否か、私は知らない。追究する資格が、初対面の若造にあるはずがない。そして、私には、秋吉氏のその応えだけで充分であった。 氏は、既刊のドラゴンブックスで私の描いた挿画を見知ってくださっていた。それは私にはちょっと驚きであった。というのも、年輩の高名な画家は、無名の新人の絵などを記憶にとどめることなどほとんどないからだ。 そしてもっと驚いたのは、私の絵をめぐって、当時日本に紹介されたばかりのウィーン幻想派の話をはじめたことだ。ドラゴンブックスに描いていた私の絵は、注文に無理矢理応じた未熟でまったくへたくそなものだったのだが、秋吉氏は私の資質を見抜いていた。 「ウィーン幻想派をいちど研究してみてもいいかもしれない」 「はい。そういたします」 ・・・それから氏は、自分はこうして作品を身の回りにおいて気がつくと筆をいれるので、作品がどんどん変わってゆく。完成しないんですよ、と言った。私は、その言葉を聞いて、いますぐに私自身の答は出せないけれども、何か、作者と作品との関係性のある重要な問題を頭のかたすみで考えはじめていた。 石原豪人氏の仕事場を訪れたとき、氏は雑誌の挿画を執筆中であった。大きな窓から明かりがさしこむマンションの3DKを仕事場にしており、大きな机に向って水彩筆を休むことなく走らせながら氏は、土屋氏と私に応対した。といっても、私はほとんど無言で二人の話の聞き手にまわり、土屋氏が水を向けた艶話にのって、石原氏は最近の冒険を話しはじめた。その内容はここに書くわけにはゆかないが、土屋氏が、「先生はもてるでしょう」と言うと、氏はまんざらでも無さそうに、「寄ってはくるけどさぁ・・・」と笑った。 筆を止めることができない様子だったので、私たちが辞去しようとすると、「夕方までには上げてしまうから、どこかで待っていてよ。山田さんも一緒に飲もうよ」と石原氏は言った。土屋氏は「いいですねー」とか何とか言って、私に「いいでしょう?」と聞いた。私が「はい」と応えると、「編集部のみんなも呼ぼう。山田くんの帰りはHに送らせるから」 それから私たちは、たしか池袋だったと思うが、講談社の編集者たちの馴染みの店らしいこじんまりした酒場で石原氏の到着を待った。ドラゴンブックス担当の編集者たち、相澤氏やH氏が到着し、私は石原氏がやってきたときにはすでに相当酔いがまわっていた。それでも、石原氏がベージュのジャンバーを若々しく着込んでいたのを覚えている。 土屋氏は私を気づかって、Hさんに、「山田くん送ってやってよ。石原先生は俺が面倒みるからさ」と言った。酔って記憶をなくす人があるようだが、私はどうやら記憶ははっきりしているタイプらしい。 私はHさんにつきそわれて帰宅した。・・・ということは、石原豪人氏とはきわめて淡い接触だったわけだ。しかし石原氏の仕事振りを傍近くで見ていたのだから、めったにできない経験をしたのかもしれない。少なくとも、おしゃべりをしながらスイスイと描いてゆくような真似は、とても私にはできないことだと思ったのだった。 土屋氏は、私の家にくるたびに、「山田くんが描いているところを一度見せてよ」というのだったが、私は「だめです。いくら土屋さんの頼みでも、絶対見せません」と。すると、「きちがいじみて描いているんだろうなー」というので、「そんなロマンチックなものではありませんよ」と私は笑った。
Feb 11, 2009
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1974年の11月からおよそ1年間をかけて刊行され、子供たちに「怪奇魔界」の扉をおおきく開くきっかけになった講談社ドラゴン・ブックスは、あれから35年経った現在、古書市場ではきわめて入手困難な高価な怪奇系児童書として、いまだに多くの特異なファンがいるようだ。私はこのシリーズ全11巻のうち9巻に挿画を執筆している。 この企画に参加した挿絵画家・石原豪人(1923-98)、秋吉巒(1922-81)、柳柊二(1927-2003)の各氏は、当時、みな50歳代で、最年少の私より20歳以上年長のベテランだった。その御三方も今は亡く、全巻の半分の5册を執筆した佐藤有文氏(1939-99)も亡くなった。私はそれら各氏の御自宅や仕事場を訪問している。他にもこの企画に参加した若手イラストレーターや執筆者はいたはずだが、たぶんこの4氏全員に会っているのは私だけではないかと思う。佐藤氏をのぞけば、三人の画家と深く知り合ったわけではないが、スナップ写真のような思い出を語ってみようかと思うのである。 まったくの駆け出しのイラストレーターだった私は、じつのところ印刷原稿の執筆の仕方も、イラストレーターを職業としてやってゆけるかどうかも覚束なかった。このドラゴン・ブックスの過酷な執筆によって鍛えられたという気がしている。 それは奇妙なめぐりあわせだったと言ってよいかもしれない。1971年2月に私が銀座で開いた初めてのグループ展が終了して間もなくのこと、自宅に一本の電話がはいった。講談社の編集者を名乗る土屋氏で、展覧会を見たというのである。私の作品に、これまで見たことがない何か「異常」なものを感じた、と。そして、「どうです、講談社で仕事をしませんか? いずれ企画がたったときにお電話します」 思いもかけないことであった。私は「よろしくお願いいたします」と返事するのが精一杯だった。 1,2ヶ月経って、土屋氏はほんとうに執筆を依頼してきた。当時、講談社は少年週刊誌を2册発行していた。『少年マガジン』と、それよりやや低年齢向けの『ぼくらマガジン』である。土屋氏の依頼は『ぼくらマガジン』への執筆で、それは大伴昌司氏が企画構成するグラビア・ページだった。 大伴昌司氏といえば知る人ぞ知る、児童の視覚認識を知りつくしたところで考案された「腹割り」図解で、『少年マガジン』等でいわば一世を風靡していた。といっても、正直に申せば、私は少年物・児童物の刊行物も知らなければいわんやその有名企画構成者も知らなかったのであったが・・・。 私の依頼されたイラストレーションもその「腹割り」図解だった。原画が手元に残っていないので、何を図解したか、いまではすっかり忘れてしまったが、ともかく私は必死になって描いた。そして締切日に社に持参した。すると、編集室の様子がなんだか異様な雰囲気だった。土屋氏が私に頭をさげて言った。「申訳ありません。たったいま、『ぼくらマガジン』の休刊が社命で決定したのです。一応、休刊とは言っていますが、廃刊ということになるでしょう。我々編集部もいま、何も手につかない状態なんです。せっかく御執筆くださった山田さんには御迷惑をおかけしますが、もちろん原稿料はお支払いいたしますし、この埋め合わせは後日なんらかのかたちで必ずいたします」 私のプロフェッショナル・イラストレーターとしてのデビューは、あえなく潰えてしまったのだ。そのときの気持はもう忘れてしまったが、しかしその事があって、頭のどこかには、「雑誌に描く」という一つのはっきりした目標ができた。 翌年の春頃、『少年マガジン』がイラストレーションの懸賞公募をした。私は江戸川乱歩の『人でなしの恋』に材をとった絵を描いて応募し、それが入選した。それがきっかけだったのかどうか、事情は不明だが、2ヶ月後に『別冊少年マガジン』から執筆依頼がきた。それが、私が初めて原稿料というものを受け取った仕事となった。しかし、これは土屋氏とは無関係だった。依頼は翌月もあり、婦人雑誌『婦人倶楽部』や『週刊ヤングレディ』、そして三たび四たびと『少年マガジン』に執筆するようになった。他社からの依頼も来始めた。『奇想天外』誌や『幻想と怪奇』誌に執筆しはじめたのもこの時期である。 そして『ぼくらマガジン』のあの陽の目をみなかった仕事から3年後の6月、土屋氏は「お約束どおり描いてもらいますよ」と自宅にやって来たのである。それがドラゴンブックスの第1巻、佐藤有文著『吸血鬼百科』。カラー頁の「吸血鬼バーニ」だった。 「これからどんどんやってもらいますからね。忙しくなるよ」 その土屋氏の言葉が、まだいちいちを模索しながら描いている駆け出しのイラストレーターにとって、実際、どれほど過酷な仕事になるかなど分るはずもなかった。しかし、ともかくドラゴンブックスの企画はそのように着手されたのだ。 その頃の私の執筆記録を見ると、ドラゴンブックスは次のようである。 『吸血鬼百科』 カラーイラスト(バーニー)1点、油彩、6月21日~24日。 2色イラスト12点、モノクロ18点、6月26日~7月30日。 『ミイラ百科』 カラー・カットイラスト4点、2色イラスト7点、モノクロ17点、8月1日~9月9日。 『悪魔全書』 カラー5点、2色12点、モノクロ12点、9月6日~10月22日。 『生き残り術入門』 カラー1、2色10点、10月23~11月20日。 『四次元ミステリー』 カラー1点、2色10点、モノクロ20点、1月2日~2月13日。 『秘密結社』 2色6点、モノクロ11点、2月6日~終了日不明。 『スパイ大作戦』 2色45点、モノクロ39点、レタリング5点、3月3日~25日。 『霊魂ミステリー』 カラー1点、2色18点、モノクロ10点、レタリング2点、4月10日~6月16日。 『日本の幽霊』 詳細不明、9月1日~終了日不明。 これらの製作の合間に他社からの依頼等の36点の作品を描いている。 これらの日々の日常は、36時間ぶっつづけに執筆して2時間ほど眠るという繰り返しで、食事は握り飯をつくって傍におき、眠る時はそのままバダンと倒れる。私はその頃、座卓でないと執筆できなかったのだ。 私の原稿を取りに来たり新しい仕事を取次ぐのは、比較的近所に住まっていた講談社嘱託編集者のHさんだった。私はほとんど自宅から外に出なかったのである。私の顔は青ざめたのを通り越して土気色になっていた。 その私の顔色を思い出すと、おのずと思い出すのが佐藤有文氏のことである。初めて御会いしたのはいつだったか・・・。 土屋氏はとても私をひきたててくれて、ときどき講談社を訪問すると帰りは私を送りがてら土屋氏の車に乗せて、先にのべた方々のもとへ連れていってくれた。佐藤氏の御自宅を訪問したときもそうで、佐藤氏が石神井に新築成ったばかりの家だった。なんとなくなく不思議な造作で、表からは極普通の大きな立派な家と見えたが、私を「おや?」と思わせたのは玄関に入るといきなり横長のだだっぴろい部屋だったからだ。障子戸もなにもなく、玄関にむかって開いていた。後に私は、佐藤氏が秋田県の農家の出身だと聞いて、なるほどあの自宅は農家の土間と居間のイメージなのだと推測した。もっとも佐藤氏自身は、大勢の編集者が待機する場所と考えていたかもしれない。 土屋氏と私は、そのだだっぴろい部屋の奥に招かれた。初めて見る佐藤氏の顔は、なんと言ったらよいか、・・・ひょろひょろした骸骨のようだった。まるで起き抜けの頭のようなザンバラ髪に指をつっこんで掻きむしりながら、段ボウル箱のなかに乱雑に投込んだかのような写真資料の山をさぐっていた。雑誌の切り抜きやイラストレーションの原画のようなものも混じっていた。みな幽霊や怪奇現象のたぐいであった。たぶん今度使用する図解資料を土屋氏にわたす手筈だったのだろう。 私が佐藤邸を訪問したのはこのときだけであるが、その後、佐藤氏がワールドフォトプレス社で雑誌『トワイライトゾーン』に関わるようになってから、私は佐藤氏から直接のお声がかりで挿画の一部を担当するよう依頼されて、大久保の仕事場へしょっちゅう訪問するようになった。そして企画・構成・割り付け・文章執筆とオールマイティーにこなしていた佐藤有文氏の仕事ぶりをまのあたりにした。その頃の佐藤氏はまるで幽鬼のようだった。仕事場はマンションの3DKで、執筆室は座卓で、隣室は窓を暗く閉じた寝室で、蒲団が敷きっぱなしになっていた。疲れると寝る。醒めると仕事をするというぐあいらしかった。執筆室の手前の4.5畳ほどの部屋の壁際に本棚が据えられ、内外の魔術関係やオカルトや怪異現象等の本がならんでいた。しばらくしてその本のなかに、私が所持していた魔法円に関する研究の洋書が1册、ぶんどられるように紛れこむのだが・・・。 佐藤有文氏は生前も死後も、毀誉褒貶の激しい人物ではないだろうか。ご自身は何と称していたかは知らないが、怪奇作家といわれることもあれば、その研究者といわれることもあった。しかしまた、研究者というにはいささかならず珍説奇説怪説が横溢し、得体が知れないともいわれた。氏の著作・監修本は出せば売れるというぐあいだったから、出版社にしてみれば、肩書などはどうでもよかっただろうけれど。 私は、自分がオカルトや怪異現象、なかんずくそれらの関係書をイメージの宝庫と思っていたので、佐藤氏の素性などにはまったく関心がなかった。いろいろな人間がいろいろな考えをする、・・・それがオカルトの基底にあることだからだ。ただしいて私の人物評を言うなら、佐藤有文は蒐集家なのだということ、切手やミニカーやメンコを夢中になって集める、集めることが目的になりかねない子供のような蒐集家なのだ。研究者?・・・学術的な研究者ではまったくない。学術的な素養もなかった。作家?・・・それはまちがいない。厖大な文章を書き、著作本をものし、冗談ではなく立派な「家」を「作った」。しかし、オリジナルな創造家ではない。その作物は、剽窃ではないが、蒐集物からのコラージュである。おもしろいことに、学術的研究から逸脱しているところに佐藤有文の創作性がある。人はそれを、眉唾な珍説と言うにしても。 話に熱中して、幽鬼のような痩せこけた顔の目が笑うとき、私はそこに普通なら二律背反ともいうべき性格を見た。やり手の仕事師と子供の顔である。 氏が雑誌の企画で、ロスアンゼルスだかサンフランシスコからだったか、魔女バベットを来日させたとき、私の自宅に電話してきて、「魔女バベットのサイン会を企画したんだ。山田くん、行ってよ。頼むよ」。その言い方には、御自身が信じているともまったく信じていないとも受け取れる、しかし、したたかなイヴェント企画者と、なにか駄々っ子のようなヘンな大人があった。 私を電話インタビューしたあげく、翌日にはカメラマンを派遣してよこす、すばやい行動力もあった。 最後に電話があったのは、「ネパールのタンカにいいものがみつかってね、それを売る店を開いた」というものだった。 挿絵画家・石原豪人、秋吉巒、柳柊二の各氏にお会いした話はまた明日にしよう。
Feb 10, 2009
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きょうから家のなかでの老母のエクササイズを開始する。そのメニューと方法については、過日、私が理学療法士に講習を受けてきた。 (1)脚の筋肉マッサージと軽いキック。寝た状態で介助者は臑と踵をささえ、少し抵抗をあたえながら、膝を曲げて押し出すようにさせる。介助者は蹴り過ぎないように抑制してやる。蹴りあげるのではない。10回を1セットとして、初めは1セットだけ。後には様子を見ながら、少しづつセット数を増やしてゆく。90歳の母は、3セットが限度だろう。これは血流を良くして、肺血栓塞栓症に陥るのを予防するため。運動不足によって血流が悪くなり血の塊ができると、それが肺に運ばれて血管をつまらせてしまうのである。肺血栓塞栓症は呼吸困難から死につながるおそれがあるので、高齢者のみならず病床に寝たきりの人はじゅうぶん注意しなければならない。 (2)歩行訓練。介助者と向き合い、介助者の両肘を外側からしっかり掴まらせ、介助者は当事者の上腕を掴まえるかたちでゆっくり歩行する。当事者は下を向いて足元を見がちなので、できるだけ腰をのばさせ、頭をまっすぐ立てるようにする。介助者は当事者の能力にみあった限度を見極めることが大切。疲れてくると膝が突然ガクリとなって身体が沈み、危険である。なお、足は滑り止めのある室内履かズック製の上履靴、あるいは滑り止めのほどこされた靴下で。スリッパは不可。家庭内で行うときは足廻りに余計な物品はおかないように注意する。---母は今日、30歩で一度椅子に腰掛け1分間ほど休憩、ふたたび30歩。ここですでに膝に疲れが見えたので終了した。若者や健常者から見るととてもエクササイズとは思えないようなことなのだが、高齢者や病者にはこれで充分なのである。あとは毎日の積み重ねだ。休んで寝たきり状態になると、2,3日で筋肉はおちてしまう。 このようなエクササイズのメニューは個人の健康状態によってことなるので、実行前に専門医に相談すると良いでしょう。 また、エクササイズ終了後は、血圧が高くなっている場合が多いので、家庭用血圧計を用意して計ること。脈拍も計ることをおすすめします。すべて専門医や理学療法士の指示にしたがってください。しろうと判断は絶対禁物です。念のため申しそえます。
Feb 8, 2009
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きょうは朝から大忙し。一日中外出して、つぎつぎと5か処を移動した。そのなかの一つが、老母の介護をしやすくするため、ベッドを6段切換えリクライニング式の低反撥マットレスのものに買い替え。それから専用の安定性のよい肘掛け椅子とオットマン(足掛け小椅子)を購入。また、母にワイヤレスのボタン・スイッチを持たせて、いざというときに私の仕事場や寝室でチャイムが鳴る装置を設置した。家の中を少しずつバリアフリーに改造していくつもりなので、その勉強のための下見もした。画材店にも行った。その他その他、なんだかあちこちの街を走り回っていた。絵の執筆は休み。
Feb 7, 2009
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縦横四つの升目で構成する正方形の同一線に並列する数の合計が、どの並列でもすべて同一数であるという魔法陣は、すでに紀元前2500年代の古代中国の金属や石に刻まれた御守や魔除けとして見い出される。ヨーロッパへはずっと遅く、14世紀初頭にギリシャ人のマニュエル・モショポウロスによってもたらされたと言われている。この魔法陣は占星術にも関係があるとされ、木星の象徴となっている。 アルブレヒト・デューラーの三大銅版画のなかで最も謎にみちた作品である『メランコリア 1』には、昨日の日記で触れたように、魔法陣が描きこまれている。メランコリア、すなわち「憂鬱」は、描かれた有翼の天使が物思いに耽っている様を表わしているので、この作品の解説にあたって従来は中世以来の四気質説による無為の病的な状態ととらえてきた。しかし憂鬱は、瞑想的・創造的・知性的な人間のおちいいりやすい傾向と考えるアリストテレスの説まで遡って、四気質説による解釈を否定する考えが有力になってきた。これはアリストテレス説にもとずくマルシリオ・フィッチーノの著作の影響によるものである。 憂鬱(メランコリア)の占星術における象徴は土星である。それに対抗するのが木星である。デューラーは魔法陣(木星)を土星に対抗させるかのように天使の背後に描いているのだ。さらに天使の頭にはテウクリウムという薬草の冠があり、これによって土星の影響力を抑制しているのである。石臼のうえで書き物に熱中する幼児は、天使の分身といってよいだろう。天使の周囲には乱雑なほどにさまざまな器物がころがっている。これらは芸術家や建築家や数学者や、そのた諸々の職人に関係している。要するにデューラーは、この『メランコリア 1』によって知の営みを描いていると言ってよかろう。【メランコリア 1】【魔法陣の部分を拡大】 上の魔法陣をあらためて示すと次のようになる。縦横斜の同一線上に並列する数の合計は34となる。 16 3 2 13 5 10 11 8 9 6 7 12 4 15 14 1 もう一例をかかげる。数の合計は264である。 96 11 89 68 88 69 91 16 61 86 18 99 19 98 66 81
Feb 6, 2009
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亡くなった泡坂妻夫氏の長篇推理小説『喜劇悲喜劇』というタイトルが回文であると、昨日私は書いた。そこで今日は、回文について少し述べてみよう。 回文、あるいは「廻文」とも書くが、つまり頭から読んでも後ろから読んでも同じ文になるものを言う。「喜劇悲喜劇」が「キゲキヒキゲキ」であるがごとくである。「トマト」や「新聞紙(シンブンシ)」、あるいは「竹やぶ焼けた(タケヤブヤケタ)」などは誰でも知っているにちがいない。 昔、知り合いの雑誌編集者が、看板などの文字を見ると無意識のうちに逆さに読んでみるんですよ、と笑っていた。回文を自作することを趣味にして、それが嵩じて逆さ読みにとりつかれていたのであった。 ちょうどその頃、アート・ディレクターの某氏が自作回文を一冊の本にして刊行し、ちょっとした話題になっていた。一冊まるまんま回文という本は、あるいはこの一本しかないかもしれない。そうだとしたら、けだし奇書というべき。 ただ、世間は広いもので、江戸時代、1600年代中頃の刊行と推定される松江重頼著『毛吹草』の終巻に、回文俳諧がずらりとならぶ。正保2年9月6日に廻文百韵を催し、4人でそれぞれ25句ずつ、みごとに100の回文俳句をつくっている。さらに正保3年2月中旬にも3人で百韵をつくった。ほかに回文発句8句、回文狂歌10首、短歌(春・秋・恋)。 そして、この松江重頼、よほどマメで几帳面な性格だったようで、〈賦物之廻文字〉として発句にあらわれる言葉に添える言葉が廻文になっているものを、単語小辞典のように付け加えているのである。たとえば、「野」「山」「祭」「龍神」とくれば「春日(カスガ)」。「窓」「屏風」「表具」とくれば「色紙(シキシ)」。「硯」とくれば「高田(タカダ)」。すなわち現在の岡山県真庭市勝山産の名硯を連想しているわけである。「兄弟」には「親子(シンシ)」。「経」には「功徳(クドク)」というぐあいだ。 松江重頼は序文で、その当時、廻文俳諧が流行していたのだと言っている。「キワモノのようで、そのように誹る人もあるけれど、昔をたずねれば武蔵鐙という人が廻文をすでにやっているし、唐詩にもその趣向はある。とくに若蘭錦字詩(じゃくらんきんじし)が200首作って夫に贈った例は、徳が無いとは言えない。ともかく自然の景色に良材をもとめて技巧をこらし、100句をつくってみよう」と。 そうして松江重頼は、たぶん息子たちあるいは高弟であろう他の3人と一句ずつ次のように詠む。 交野(かたの)見つ鳥と小鳥とつみの鷹 重頼 今朝うたふ飲めかや瓶(かめ)の葡萄酒 重方 縄垣(なはがき)は鹿よき良かし萩が花 重貞 品(しな)もろい白菊切らじ色もなし 重供 ところが、どうもあまり出来がよくない。さんざん議論するうちに時刻が過ぎて、重頼の作はまあまあ良いではないかということでこの日はおひらきになった。この巻き返しが、正保2年9月6日におこなわれた句会だった。 この巻き句は、初句に重頼の「交野(かたの)見つ鳥と小鳥とつみの鷹 」を置き、つぎのようにつづけられている。 冷えの気(け)さむく酌む酒の酔(えひ) 重方 照(てり)て来つ西に真西にてりて 重貞 友はよき人問(とひ)き夜(よ)はもと 重供 爪琴(つまごと)をむかひてひかん男松 重方 巣(す)低う懸けた竹か鶯 重頼 日の南雪や早(はや)消ゆ南の日 重供 ・・・以下、えんえんと100句つくられてゆく。 私が、これは良くできていると思ったのは重方の発句。 遠(とを)のくか鶯ひくう楽(がく)の音 ところで回文は外国文化史のなかでも花ひらいている。〈魔法陣〉などもその系列にはいる。魔法陣は、数字のものがよく知られているかもしれない。アルブレヒト・デューラーの有名な銅版画『メランコリア』のなかで天使の背後の壁に書かれている数字列がそれである。それは縦横斜、いずれからの数字も合計すると同じになるもので、『メランコリア』の場合は34になる。 魔法陣やアナグラムはカバラ思想とともにひろまったようだ。 言葉によるものはあまり知られていないかもしれないので、次に示してみよう。 SATOR AREPO TENET OPERA ROTAS 四方どこから読んでも、右からでも左からでも、下からでも、すべてSATOR - AREPO - TENET - OPERA - ROTASとなる。 ラテン語なのだが、AREPOの意味が私には解らない。他は、SATOR(父、創造者)- AREPO - TENET(保持、知る、理解) - OPERA(仕事、労働、痛み) - ROTAS(円、輪)。 ドイツ語で「無料のビールだよ!」を「freibier!」という。この言葉を繰り返すと回文になる。 freibier! freibier! freibier! freibier! f・・・・ あるいは「ビール煮込み」という意味の「bierbrei」も同様の回文になる。 bierbrei bierbrei bierbrei bierbrei b・・・・ 次は、ある古代の石柱レリーフに刻まれた文章。 Roma tibi subito motibus ibit amor. 意味は、・・・正確に訳せるかどうか心もとないが・・・、「ローマから、愛はあなたのためにすぐさまやって来るだろう」。 外国語の回文は円形にすると良くわかる。めまいがするような感覚で、無限に回転しつづけるのである。 おもしろいのは、音楽にも回文があるのである。頭から演奏しても、楽譜をひっくり返して後ろから演奏しても、まったく同じメロディーである。以下にその楽譜を掲載して、回文の簡単な説明を終わろう。L.シュレジンゲラウスという人が1832年に作曲したスケルッツオである。
Feb 5, 2009
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ミステリー作家の泡坂妻夫氏が昨日3日に亡くなられた。享年75歳。 泡坂妻夫氏は、1975年に処女作『DL2号機事件』が雑誌『幻影城』主宰の第1回幻影城新人賞に佳作入選して推理小説作家としてデビューした。『幻影城』は、あまり長くはつづかなかった雑誌だが、その道では名うての編集者・島崎博氏が編集長として創刊された。ちなみに島崎氏は三島由紀夫亡きあとに未亡人と共に『三島由紀夫書誌』を編纂している。 泡坂妻夫氏はその後、精緻な技巧的トリックによる作品でたちまち寵児となり、1978年『乱れからくり』で日本推理作家協会賞、88年に『折鶴』で第10回泉鏡花賞、90年に『陰桔梗』で直木賞を受賞した。 私は新人イラストレーター時代に、神田猿楽町の今にも倒れそうな木造二階の幻影城社屋で島崎氏にお会いし、氏の取り立てで、『幻影城』に挿画を描いていた。なかなか癖の強い人で、若かった私はなんとなく一時代前の編集者と話しているような気持になったものだ。担当した小説家はおもに滝原満氏であった。 雑誌に泡坂妻夫氏の小説が発表されると、その凝りにこった遊戯性あふれる奇想に魅了され、口はばったい言い方だが私自身の質のなかにある職人的な凝り性がウズいた。滝原氏と泡坂妻夫氏と、おふたりの挿画を担当できないものかしらと夢想したものだ。 それは『幻影城』では実現しなかったが、夢想もあながち無駄ではないもので、1983年になって講談社が泡坂妻夫氏の新書判単行本の表紙絵を依頼してきたのである。それは後に泡坂妻夫氏のいくつかあるシリーズ作品のひとつとなる美人探偵・曾我佳城シリーズの単行本第一冊目『天井のトランプ』である。 しかし、正直に告白してしまえば、私にとっては失敗作となってしまった。気負いすぎて、何をやっているか方向を見失ってしまったのだった。「ああ、泡坂妻夫氏との出会いはこれでおしまいか・・・」と思った。 ところが1985年、こんどは角川書店が、やはり新書判の『喜劇悲喜劇』の表紙および挿画を依頼してきた。この小説こそ私好み、その凝りようはタイトルを一読しただけで胸が高鳴った。頭から読んで「キゲキヒキゲキ」は、後ろから読んでも「キゲキヒキゲキ」。すなわち回文になっているのである。 そして1990年、ふたたび講談社の創立50周年記念書下ろし出版の『毒薬の輪舞』の依頼があった。この仕事は締めきり日まで比較的余裕があったので、私としては当時持ち合わせていた力を注ぎ込むことができた。そして、この表紙絵は、その年のチェコスロヴァキアのブルノで開催されたブルノ・グラフィック・ビエンナーレで選定され展覧された。 私が担当した泡坂妻夫作品の表紙絵は以上3作にすぎないのだが、それらはこのブログのフリーページに画像を掲載している。 いつごろのことだったろう。ある大きなパーティーで泡坂妻夫氏にお目にかかった。その折り、10人ばかりが氏を取り囲み、マジックの披露をおねだりした。泡坂妻夫氏は知る人ぞ知るマジシャンなのである。1968年に優秀な奇術師に贈られる石田天海賞を受賞している。 マジシャンという人たちは、どんな時でもかならずネタを仕込んでいるものである。氏を取り囲んだ私たちは、ちゃんとそれを知っていた。・・・案の定、泡坂氏はおもむろにコインを取出し、みごとな手さばきで真近で注視する私たちの目をくらましてくれた。3,4回とコイン・マジックを披露し、つぎにタバコとティッシュ・ペーパーを取出して、ティッシュ・ペーパーの燃え上がる炎とともに、持っていたタバコは空中に消失した。そうして泡坂氏は何事もなかったように少し頬をゆるめ、一場の終わりとしたのだった。 昨日、氏は自らをこの世から消してしまわれた。私の記憶の目裏に、あの日の赤く燃え上がった炎がよみがえる。さようなら泡坂妻夫氏。
Feb 4, 2009
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節分である。用意しておいた豆を口のなかに撒いた。 口福(こうふく)という言葉がある。おいしい物を食べる幸福のこと。あるいは、物を食べることができる幸福のことである。ちかごろ・・・いやいやもう何十年も前から、この言葉を使う人もいなければ聞くこともなくなった。食べられないからではなく、食べ飽いているからかもしれない。 近所のコンビニエンス・ストアーの前に「恵方巻」の幟が立っていた。恵方とは、その年の縁起の良い方角のことで、ことしは東北東らしい。節分にその方角に向って巻寿司を一本まるかじりするのだそうだ。どうも関西の習慣のようだが、近頃では東京のコンビニエンス・ストアーやスーパーマーケットでも出来合いの「恵方巻」を売るようになった。我家にはない習慣だ。 「恵方巻」は、山海の食材を太海苔巻にする。おそらくその起源は豊饒祈願、・・・すなわち今年も食べ物に恵まれますようにという願いを込めてまる齧りしたのであろう。食べ物が充分食べられるのは、なんといっても人間の、いや、ありとある生物の究極の幸福なのである。 東京の上野公園などでおこなわれている給食サービスに長い行列ができている。私は150メーターにもなる長い長い列を見てきた。世界は飽食と飢餓とが背中合わせである。世界に目を向けずとも、今、この日本のなかでそのような状況が起きている。その窮状は「祈り」で解決はできないのだけれど、口福という言葉を噛み締めないではいられない。 八方を塞げる厄を拂いけり 休山
Feb 3, 2009
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降りに降った雨があがった昨日は、一転して、強い風が吹いた。空は晴れているが、おもわず身をすくめるような冷たい風だった。 こういう日の夜は、雲が吹き払われているので、夜空が深い。東京は満天の星空などのぞみようがないが、しかし、金星がひときわ輝いて見えるのである。 このところよんどころない用事があって、しばしば夜の外出がつづいた。ふと気付くと、宵闇のなかに紅梅白梅が咲きそろっている。寒さに身をちぢめてはいても、春はそこまでやって来ていた。風は春一番なのだろうか。 こんな句を思い出した。 つやつやと梅ちる夜の瓦かな 栗田樗堂(ちょどう:1749-1814) 栗田樗堂は伊予松山のひと。小林一茶と親交があった。一茶は西国行脚のおり、四国で樗堂にあたたかく迎えられている。松山は正岡子規(1867-1902)を産み、高浜虚子(1874-1959)を産んでいるが、幕末期に四国俳壇の雄であった栗田樗堂による豊かで充分な下地が松山にはあったといえよう。 上の句。幕末期の夜は現代よりずっと暗い。おそらく月明かりがあったのだろう。梅のはなびらがちらりほらりと散っている。そのはなびらが月明かりにつやつやと光る。そして屋根の瓦もまた闇のなかでつやつやと光っているのである。なんともいえない情緒が漂う、みごとな一句。 さまざまの草木にさきがけて咲く梅は、「花の兄」の別称がある。桜は「花の弟」。 花の兄に恋慕やつもる雪女 薩摩衆 花の兄始めて見るはなんし哉 利貞
Feb 2, 2009
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