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はげしく音をたてて降っていた雨が、ようやく止んだ。庭木の葉叢から大粒の雫が落ちている。山の上にある我家から下の通りは坂道なので、雨水が側溝を急流となって下り、坂下の曲り角では路上に溢れ出ることがある。 「雨は降る降る 人馬は濡れる・・・」と口ずさみながら、私は思い出していた。この歌、もちろん誰知らぬ者とてなかろうが、熊本県民謡『田原坂』である。明治10年(1877年)3月4日からはじまった西南の役の激戦地、田原坂をうたっている。田原坂は全長1,5kmほどの比較的ゆるやかな坂なのだが、西郷隆盛ひきいる薩摩軍と官軍との攻防の要地となった。激しい攻防戦は17日間におよび、3月20日に薩摩軍はついに壊滅的な敗走をした。数日来の寒雨が降りつづいていたという。 私が思い出していたのは、この歌を植木等さんが歌っていたことだ。ずいぶん昔のTV番組でのことで、植木等さんが吹き込んだレコードのなかに果たして『田原坂』があるかどうかは分らない。意外な曲を披露したので驚いた記憶があるが、それよりも、じつに素晴らしい歌唱だったので、私はそのことにびっくりしてしまったのである。と言えば失礼な言い方だけれども、私は後にも先にも『田原坂』をこのときの植木さんほどみごとに歌われたのを聞いたことがない。 歌の芸とは不思議なもので、どんなに名歌手といわれるような人でも、歌詞と曲とが一体となったその奥の真相・・・それが何かは分らないが、とにかく言葉や音を超越した何事か・・・を、開示する瞬間は、きわめて稀といってよい。歌手が自分の持ち歌を何万回何千回歌おうと、もしかすると自分自身が納得するのはそう多くはないのではあるまいかと推測するが、聞き手にとっても同様のことが言えるのである。たぶん私は、その稀な事として植木等さんのそのときの『田原坂』を聞いたのだ。 ・・・霙まじりの雨が降り、兵も軍馬も濡れて疲労し、あるいは深い草むらに倒れ伏す屍の山。馬上に立つ美少年兵の右手の血刀。・・・この悲愴なありさまを、だがこの歌は、馬子歌のリズムでつくられている。そこが問題だ。つまり悲愴さは、優雅ともいえるシャン・シャン・シャンというゆるりとした馬の歩みのなかに自ずと滲み出てくるのでなければならない。情緒的に相反するものがこの『田原坂』の身上(ねうち)だ。つまり、何と言ったらよいだろう。そう、無常感だ。 私が植木等さんの歌唱から聴き取ったのは、無常感だった。そしてそれを聞いたために、私の記憶のなかで歌の宝物のひとつになっているのである。植木等ファンは大勢いるだろう。どなたか『田原坂』を歌った植木等さんを御記憶だろうか。 また雨がはげしさを増して降りだした。
May 31, 2009
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先日詠んだ庭の茱萸(ぐみ)の俳句をひとまとめにして英語の詩を一篇つくった。Silverberry in My Gardenby Tadami YamadaSilverberry in my garden bore fruitsAs if like a lantern procession of festivalIn the shade of piled up green leavesTo hold one of the red fruit in my mouthIt tastes a little sweet and sourGone a lot of my old memories away!Trembling gently gently in the breezeThe dear friends of my infancy recurAh boys and girls with bright red cheeks!You'd passed away long ago, and I remainDo you know many years' sadness of my life?Silverberry bore fruits this year again【訳】『庭の茱萸(ぐみ)』私の庭の茱萸が実をつけたまるで祭の提灯行列のようにかさなりあった緑の葉かげに赤い実をひとつ口にふくめばほんのりと甘酸っぱい遠く過ぎ去った思い出の数々風にやさしくやさしく揺れながらよみがえる懐かしい幼なともだちああ、輝く赤い頬の少年少女たちきみたちは既に逝き私は残った人生積年の悲しみを君は知るや茱萸がことしもまた実をつけた-----------------------------------Copyright(C) 2009 Tadami Yamada. All Rights Reserved.
May 30, 2009
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きょうは老母が腹部大動脈瘤にセントグラフト施術が可能かどうか、最終的な結論が出る日。早朝から私は大忙しで雑事をかたづけ、母を病院へ連れてゆく。 結論。可能。 母の心臓は高年齢者にしては大変丈夫で、また、腎臓も正常に機能しているとのこと。右の腎臓の大動脈との分岐部にちいさな瘤ができているが、これは手術が不可能。ただし不安材料と考える必要はない。問題は、その右腎臓の位置が、左腎臓よりやや下方にあり、このためステントグラフトを挿入した場合、その上部のフレアー(ギザギザの波形になっている部分)が右腎臓に向う血管(瘤がみつかった血管)の入口をやや塞ぐことになる。つまり血流がこれまでよりやや阻害されることになる。もし、腎臓機能が左右ともに低下していたり、右のほうが左より機能的に良好な場合は、この手術はあまり好ましいとは言えないが、さいわい血流を阻害されない左腎臓が正常に機能しているので、ステントグラフト内挿はもっとも有効であろう、という結論だった。 手術を開始しても、途中でなんらかの支障がおこったときは、無理をせずに即座に撤退します、と医師は言明した。この言葉は、ステントグラフト内挿の可能性を告げられた当初、すでに医師は私に言っていたことだ。 母は、すこしためらう様子だったが、これは手術が不安なのではなく、私たち家族と離れてひとりで入院生活をおくらなければならないのが、寂しいからだった。たしかにこんどの大学病院は自宅とは距離があるので、私が毎日通って来ることはできない。しかし、可能性にかけることもせず、いつ大動脈瘤が破裂するかもわからない不安を家族もろとも潜在的にかかえることにくらべれば、そんな寂しさなど何程のことがあろう。 危険と不安はいつ何時、どこにでも存在する。それを最大限避けるために、綿密な事前検査をしてきた。であれば、もうためらっていても仕方がない。生きたいなら、扉を開けなければならないのだ。私はいつもそうしてきたし、母が私にまかせるというのだから、私は突き進む。 結局、手術してもらうことにした。 医師と相談してスケジュールを決定。来月の5日に入院。9日に最終打ち合わせ。11日、手術。 その間に母は90歳をむかえることになる。
May 29, 2009
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ことしも庭の茱萸(ぐみ)が大きくたくさん実った。摘み取って老母にもっていくと、喜んで、ひょいと亡父の仏壇のほうに一粒ささげるように掲げてから口にふくんだ。ほろ酸っぱい甘さを楽しむようだった。 昨年、幾つかの実を写真に撮ってこのブログに掲載した。それがつい先日のように思え、茱萸の実りにさへ時の経つ早さを感じるようになったことに、われながら呆れる。 茱萸は雨に打たれながら赤い色をますます濃くしている。 あかあかと灯りともして茱萸実る 青穹 緑陰に祭のごとき茱萸あかり 葉かさなりて重なりて茱萸赤し 茱萸明り懐かしき日のかずかずや
May 28, 2009
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どうでもいいことではあるのだが、以前からずっと気になっていたことがある。楽天市場の名称である。「STARVATIONS楽天市場店」と称しているでしょう? 楽天さん、これどういう意味で使っているの? STARVATIONという英語は、「飢餓」とか「生きていくことさえままならない状況」のこと。国際英語ニュースなどで、「アフリカの子供達の飢餓」などと言うときに使われている。そのほかに別の意味があるのかしら? 楽天市場は、そのような生きるにカツカツの人たちのための市場という意味なのかねー。ときどき星をたくさんあしらったデザインにしたりしているけれど。不思議だねー。なにか言葉の意味を勘違いしていないかしら。それとも私の勘違いかしら。 私はてっきり、楽天さんが楽天市場の収益の一部を世界の飢餓に苦しむ子供達のために寄附でもしているのかと思いましたよ。しかしどこを検索してみても、そのような善行をおこなっているという報告はみあたらない。なんだか気持がすっきりしないので、こうして注意をうながしてみることにしました。 楽天さん、「STARVATIONS楽天市場店」と名付けた、その真意を説明してくれませんか?
May 27, 2009
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お笑い3人組ネプチューンが司会する「ハモネプリーグ」というTV番組がある。一年に一度、あるいはそれさへも不定期的な、高校・大学生のグループを主体とした一般公募の音楽合戦番組である。ただしそこで競われるのは、ア・カペラとヴォイス・パーカッションの混成コーラスで、歌われる曲はJポップスからアニメ主題歌、あるいは民謡まで幅広い。そして、その曲のアレンジはみなチーム自身でおこなって出場してくる。地方戦があって、それを勝ち抜いたチームが本戦のステージに立つというルール。 ア・カペラとは言うまでもなかろうが無伴奏歌唱のこと。ヴォイス・パーカッションとは、ベースやドラムスなどの器楽音を声で表現するもので、きわめて高度な技術を必要とする新しい音楽パフォーマンスと理解すればよかろう。 私はこの番組が好きで、何年も前から、たぶん第一回から見ている。それというのも出場者の音楽センスと技巧は、しろうとを超えるほどの非常に完成度の高い演奏(コーラス)を聞かせるからだ。 そして、この演奏(この番組の主旨ということにもなるが)が、「絶対音感」の存在なくしては成立しないものなのだ。このような音楽合戦、音楽番組が、かつて在っただろうか。そのことに私は驚嘆する。 これを前置きにして、「絶対音感」とはいったい何であるかということに少し触れたい。 『The New Grove Dictionary of Music and Musicians(ニューグローブ音楽辞典)』は、次のように説明している。 「絶対音感とは、ランダムに提示された音の名称を言える能力。あるいは逆に、音名を提示されて正確に歌えたり器楽演奏ができる能力」 つまり、あなたがTVやラジオ、あるいは他の音楽メディアから流れてくる音楽を、ドレミ・・・の音名で即興的に歌えたとしたら、あなたは「絶対音感」の持主ということになる。 昨日、私は自分のヘタな演歌調の曲を、頭に浮かんでくる音を楽器を使わずに五線紙に書きとめた、と述べた。私にやや絶対音感らしき能力があるからだろうとは思うが、しかしこの程度ではとても「絶対音感」とは言えまい。 映画『アマデウス』で、モーツァルトが作曲している場面が2度ある。最初はビリヤード台を机がわりにワインを飲みながら五線紙に曲を書いている。書きながら、邪魔なビリヤード・ボールを転がす・・・。二番目は、高熱に苦しみながら、依頼主から約束の期限を迫られている『レクイエム』を、サリエリに口述筆記させながら作曲している場面。「ラクリモサ」の8小節目まで書き、ついに完成することなく絶筆となった、その当の場面(1791年11月4日の深夜)である。もっとも、映画は事実とは異なる。口述筆記していたのは弟子のジスマイヤーだというのが通説である。・・・それはともかくとして、これらの作曲の場面で、モーツァルトがまったく楽器に頼っていないことに注目する。実際、彼の直筆楽譜にはためらいや迷いが感じられない。書き直しがほとんどなく、長大なスコアが美しく流れるように一気に生まれているように見受けられる。まさにモーツァルトには絶対音感が存在したのだと思われる。 絶対音感の世界とはいったいどんな世界なのだろう。絶対音感という言葉を知ったときに誰しもが想うことにちがいない。 それを少しでも理解するのに恰好な著作がある。最相葉月(さいしょうはずき)著『絶対音感』(1998年、小学館)。著者は絶対音感という言葉を知り、「そもそも曖昧であるはずの人間の感覚が〈絶対〉とは何なのか」という疑問をいだき、そこから文献渉猟と数多くの音楽家へのインタヴューがはじまる。労作である。絶対音感に興味をもたれた方は是非一読をおすすめする。 絶対音感をもっている人は、日常の生活雑音さえもドレミの音名で認識するのだという。音という音が、周波数で明瞭に認識されているということだ。複数音さえも同時にドレミの音名で認識している。 私の小・中学生時代、音楽授業のなかで先生がピアノで和音を弾いて、それがどんな音の組合せであるかを言い当てることをしたものだ。学校教育程度の音楽で使用される和音は、数が限られているので、何度も繰り返し耳になじませていれば、これはドミソの和音だとか、レファラだとか、だんだん分るようになるものだ。しかし、たとえば赤ちゃんの泣き声を聞いて、その音程の音名を言い当てたり、救急車のサイレンの音がファソの組み合わせだなどと瞬間的に音名で認識している人がどのくらいいるだろうか。 絶対音感のもちぬしは、音と音名をきりはなすことができない。そのような聴覚は、生後3歳前後までに決定されるらしい。絶対音感のもちぬしたちが、音楽芸術との関わりでどのように自らの聴覚を認識しているのか。そしてそれは創造にどのように影響しているのか。彼等はその聴覚を誇っているのか、それとも苦しんでいるのか。最相葉月著『絶対音感』はそのようなこともふくめて、絶対音感の世界を明らかにしようとしているのである。まことに興味がつきない。 私の感想を述べれば、著者自身は絶対音感を持っていないので、じつは探究しても探究してもその世界があきらかに開かれてくるわけではない、という一種のもどかしさを感じる本なのだ。痒いところに手がとどかない、その感じだ。しかし、逆に言えば、だからこそ言語でときあかすことができない音楽の独自性を再認識することになる。 それと同じことは絵画芸術についても言えることで、絵画を象徴芸術として読み解くことはできるけれど、語っても語りつくせない、言語からはみでてしまうものが存在することが絵画の本質だ。私はフロマンタンの『オランダ・ベルギー絵画紀行』(岩波文庫)を絵画を言葉で語った最良の書物と考えている。一枚の絵の物語ではなく、色彩や光のぐあいや、厚みや、絵画を絵画たらしめているさまざまな要素を、フロマンタンほど真摯にみつめ語った人はいない、と私は思っている。しかし、それでもなお、そこに絵画が現出しているわけではない。絵画は言語を超えるところをもって絵画なのだ。 そのような意味で、私は最相葉月『絶対音感』にもどかしさを感じた。それでもなお、この著作が優れているのは、著者がインタヴューした多くの絶対音感をもった音楽家がこたえている「絶対音感より大事なものがある」という地点に、著者自身も到達しているということである。すなわち、創造の本質をしっかりつかまえているのだ。最終ページに至って、「創造の本質」から「絶対音感」が逆照射されてくるともいえる。 TV番組「ハモネプリーグ」を見ていて私がつくづく感じることは、出演者たちの音楽感覚が絶対音感につちかわれている一面は見のがせないにしても、彼等彼女たちは、日本の学校音楽教育をおおきくはみ出しているに違いないということだ。なんと豊かな感性であろう。その豊かな音楽的感性を育てたのは学校音楽教育ではない。それははっきりしている。 じつは日本の学校音楽教育史にはかつて絶対音感信仰が存在した。それは純然たる教育メソッドになっていた。その歴史的変遷をたどってみせる準備は私にはないが、私自身の小・中学生時代の音楽教育はまさに絶対音感信仰と一体になっていたのだ。 私が64歳になっても、聞こえてくる音の音程を楽器に頼らずにドレミの音名でとらえることができるのは、もしかすると昔の教育の成果なのかもしれない・・・。私の音楽教育は小・中学校で終わっているのだから、楽譜を記述する方法もふくめて義務教育課程の音楽教育は、一般人としての教養程度には役立っているだろう。でも、私の少年時代に、「ハモネプリーグ」に出場できるような高度な創造的な音楽感性をもってその表現活動がポピュラリティーを獲得していた子供達が、現在のようにごく普通のようにこんなに大勢いなかったことも事実なのである。
May 26, 2009
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先々週の土曜日、なんとなく憂欝な気分のままに、ふと七五調のことばが浮んできた。紙に書きとめて、『歌謡曲な土曜日』と題しこのサイトに掲載した。すると常連客のちゃれ3さんから「作曲」という言葉をふくむコメントを頂戴した。冗談からコマ、私の頭のなかに種々のメロディーが浮かんできた。口ずさんでいるうちに、次第にひとつの曲としてかたまってきたので、とうとう五線紙に書き写したのが以下に掲載する譜面である。と言っても、私は楽器はなにひとつ持っていない。すべてカンである。自前の「絶対音感」マイナスαの音感だけを頼りにして書き上げた。 しかし、書き取ったはいいけど、はたしてそれがイメージどおりの音の配列になっているのか。楽器がないのだから確かめることができない。そこで、「元兇」のちゃれ3さんへ楽譜を送信して、試し弾きしてもらった。なにしろ、ちゃれさん3はピアノを演奏されるので。 さきほど返信があった。どうやら合格したのである。 この曲、短調ではじまり長調で終わっている。教会音楽にはしばしばみかける記法なのだが、ちゃれさんは「アーメン終止」と言っておられる。私が、演歌調のこの曲にその終止を用いたことを指摘したうえで、ちゃれさんはしかし結局は納得してくれたようだ。 どうせならギター演奏でもできるようにと、コード進行をつけようとしているのだが、和音をカンだけで記述してゆくのはなかなか難しい。とりあえず、演歌を一曲どうぞ、というわけである。 『歌謡曲な土曜日』 作詞・作曲 山田維史なんとなく憂欝な土曜日はモーツァルトも ましてバッハは似合わないねェ、マスター もう一杯苦いコーヒーいれてくれそれを飲んだら演歌拾いに俺は出てゆく苦いコーヒーいれてくれなんとなく憂欝な土曜日は俺のこころの降りそで降らぬ雨なのかねェ、マスター聞いてくれ苦い思い出捨てられぬ泣くに泣けない昔の恋さ あんた笑うが苦いコーヒーもう一杯なんとなく憂鬱な土曜日はアルマーニーもまして薔薇など似合わないねェ、マスターもう行くよ愚痴になるからもうやめだ明日はきっと雨が降る あんた笑うがいつかのあの娘 薔薇の花
May 25, 2009
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雨が降りそうで降らない、どんよりと蒸し暑い日だったが、いましがた夜の8時半を過ぎてとうとう降出した。 昼間、土曜日のこととて、普段は静寂な住宅街も子供達の遊ぶにぎやかな歓声が、仕事場の開け放った窓から聞こえていた。幼い女の子が2,3人、「○○ちゃん、あそびましょー!」と声をそろえて呼びかける。 その呼びかけを、私は、オヤめずらしい、と思った。そう感じたのは私だけではなかったらしく、別な方角から、女の子たちより年上の男の子であろう、呼びかけを真似た「ピピピピピー、ピピピピピー」と口笛が聞こえてきた。おそらく口笛をおぼえたばかりにちがいない、すこし音程が不安定で、音に勢いもなく心もとない。そのことに少年自身も気が付いているらしく、3度4度、繰り返していた。「ピピピピピー、ピピピピピー」 が、それがいつしか「ホーホケキョ、ホーホケキョ」とウグイスの鳴声になってしまった。私は思わず声をたてて独り笑いをしてしまった。 少年は、「ホーホケキョ」と口笛で繰り返しながら遠ざかって行った。 姿が見えず、声だけを私は聞いているのだが、どこの誰とも知らない子供達の無邪気さが私を愉快にさせる。
May 23, 2009
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朝6時から多忙な1日の仕事を開始。きょうは老母の手術前のおそらく最後になるであろう精密検査の日。午前中に腎臓動態シンチの撮影と、その後、心臓超音波検査。 腎臓動態シンチというのは放射線医薬品を静脈注射しながらガンマカメラで身体背面から撮影しながら、時間毎の腎臓機能の様子をとらえ、コンピューター解析するもの。 腎臓シンチにはもう一種類、静態シンチがあり、これは腎臓の大きさや瘢痕等を調べるもので、使用される薬品が動態シンチとはことなる。 母は1週間前から海藻類とその製品(寒天ジェリーなど)を食べることを禁止された。それは海藻に含まれるヨードが、放射性同位元素(ラジオ・アイソトープ)を排出するからである。 撮影開始30分前に水を飲み排尿するように指示され、それが済んでから検査室に入った。 撮影後、検査室から車椅子で出て来た母は、手首の静脈注射痕に絆創膏を貼って、「ずっと眠ってしまっていたわ」と、なんとなく申訳無さそうに言った。「何にもすることないんだから、眠っていればいいんだよ」と私は笑った。 次ぎの超音波検査は、上半身裸になって左向きに横になって30分ほど。 私は本を持っていったので、待合室の椅子でそれを読んでいたが、途中で眠ってしまった。この検査室の待合室は、他の診療科とはちがって患者の数はひどく少ない。おまけに地下の離れた場所にあるので、静寂そのもの。眠るには好都合なのだった。 というわけで、きょうの検査は意外に早く終了した。巨大な大学病院のあちらこちらを往来するので、母はさすがに疲れた様子だった。が、帰りの車のなかで持参したチョコレートと煎餅を食べ、野菜ジュースを少し飲んだら人心地ついたようだった。 帰宅して間もなく、病院検査室から電話があり、母の体重と身長が検査の解析に是非必要なのだが、カルテにその記載がないとのこと。一旦電話をきり、体重計にのせ、ベッドに寝かせた状態で身長を計測して、折返し検査室に報告した。 さて、手術は可能なのかどうか。月末に主治医との面談がある。
May 22, 2009
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新型インフルエンザの感染者が東京にも出たという。マスクの品切れが報じられているが、午後、介護用品を購入するために大型薬品店に行ったところ、マスク完売の張り紙があり驚いた。私が住んでいる町では、薬屋のみならず雑貨として簡易マスクを常備している店も、どうやら完売してしまい、入荷のメドがつかないらしい。あるスーパー・マーケットでは社員全員がマスクをし、ビニール手袋をしていた。過剰反応かどうかの批判はおいて、1日に数千人にのぼるであろう客に直に接する店員としては、自らの身体をまもるためはもちろん、客の身体をもまもらなければならないだろう。スーパー・マーケットの客たちが一応安心している様子なのは、店員のものものしい姿に理解をしている証拠かもしれない。 おなじ店の食肉売場で、父子が豚肉を買うか買うまいか迷っていた。乗り気ではないのは父親のほうで、小学生の息子は、「75℃以上で加熱すれば危険はないんだって。肉からは感染しないんだよ」と、こう言っちゃ悪いが、息子のほうが知的な判断をしていた。 さて我家では、うがいなどは日常的な習慣で、それというのも体力の衰えている老母の保護をどのようにするかを常日頃考えているからだが、しかし、このところ病院通いがつづくので、マスクをさせるべきかどうか気になっている。先日、病院内で、強力な防塵マスクで顏をおおった男性の老人を目撃し、それが新型インフルエンザの予防のためかどうかは分らないが、なるほどあそこまで防護する人もいるんだなぁと、感心したりめんくらったりした。 巷ではマスクが品切れだが、幸いと言うべきか、私は絵を描く時にマスクが必要な作業もあるので、簡易マスクの買置きはたくさんあるのだ。 この感染騒ぎで、ひとつ私が「ヘーっ!」と思ったことは、感染源が高校生に多いこと。それというのも彼等の活動範囲は、一般よりかなり広く、かつクラブ活動などにおいて濃厚接触が多いという説明であった。説得力のある説明と思ったが、この事実からさらに別な、集団で行動しないではいられない年代ということ、ならびに社会心理の縮図的モデルがうかびあがってくるのではあるまいか。
May 21, 2009
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もう5,6年前のことだが、某出版社の親しい編集者と子供時代に読んだ本が同じだったので、ひとしきり当時の少年文学について語り合った。 私が〈物語〉を読むようになったのは長野県の川上第二小学校に入学して、備え付けの学級文庫にそろっていた講談社の絵本をすべて読破したことに始る。『百合若大臣』など、いまでも記憶に残っている。その後、カバヤキャラメルのカードを集めると貰えた〈カバヤ文庫〉が加わり、〈おもしろブック〉に連載された山川惣治『少年王者』、そして東京創元社の『世界少年少女文学全集』へとつづく。中学生になって会津若松第三中学校時代はもっぱら学校図書館を利用し、そのころから少年文学からいわゆる大人の文学作品へと関心が移っていった。 今日、調べることがあって学生時代の日記や活動資料が入っている箱を開けたところ、中学3年の日記に〈読書の記録〉とあった。 昭和35年9月1日と5日の日記にはさまれて、日本文学と外国文学とにわけて番号を振り、著者と書名が記されている。 この私のブログに中学生がアクセスしているとは思えないが、当時の一中学生の読書記録を掲載してみようと思う。アクセスしてくださるお客さんのなかに、御自分の中学時代の正確な読書記録をお持ちのかた、あるいはそれを記憶されているかたはおありだろうか。 某編集者とのはずんだ話を思い出しながら・・・【日本文学】1,古事記。2,竹取物語。3,今昔物語。4,堤中納言物語。5,お伽草子。6,雨月物語(上田秋成)。7,東海道中膝栗毛(十返舎一九)。8,南総里見八犬伝(滝沢馬琴)。9,山椒大夫(森鴎外)。10,坊っちゃん(夏目漱石)。11,鼻(芥川龍之介)。12,蜘蛛の糸(同)。13,杜子春(同)。14,羅生門(同)。15,清兵衛とひょうたん(志賀直哉)。16,小僧の神様(同)。17,城の崎にて(同)。18,雪の遠足(同)。19,暗夜行路(同)。20,セロ弾きのゴーシュ(宮沢賢治)。21,風の又三郎(同)。22,コッペルと象(同)。23,グスコーヴドリの伝記(同)。24,路傍の石(山本有三)。25,伊豆の踊子(川端康成)。26,二十四の瞳(壺井栄)。27,次郎物語(下村湖人)。28,ビルマの竪琴(竹山道雄)。29,父帰る(菊地寛)。30,出世(同)。31,悪魔の弟子(同)。32,ある敵討の話(同)。33,恩讐の彼方に(同)。34,笛吹川(深沢七郎)。35,駅(註・作者円地文子と記しているが、36の作品とともに幸田文の誤記。たぶん円地文子の作品が何か脱落しているのだ)。36,番茶菓子(幸田文)。37,寒い朝(石坂洋次郎).38,陽のあたる坂道(同)。39,猫は知っていた(二木悦子)。40,挽歌(原田康子)。41,輪唱(同)。42,コタンの口笛(石森延男)。43,忘れ霜(壺井栄)。44,あすなろ物語(井上靖)。【外国文学】1,千夜一夜物語。2,イソップ物語(イソップ)。3,リア王(シェイクスピア)。4,オセロ(同)。5,ベニスの商人(同)。6,ガリバー旅行記(スウィフト)。7,グリム童話(グリム兄弟)。8,モンテ・クリスト伯(デューマ)。9,三銃士物語(同)。10,アンデルセン童話(アンデルセン)。11,アンクル・トムス・ケビン(ストウ夫人)。12,昆虫記(ファーブル)。13,人形の家(イプセン)。14,風車小屋だより(ドーデ)。15,月曜物語(同)。16,クオレ(アミチス)。17,小公子(バーネット)。18,小公女(同)。19,どん底(ゴーリキー)。20,桜の園(チェホフ)。21,動物記(シートン)。22,隊商(ハウフ)。23,石の心臓(同)。24,クルイローフ童話(クルイローフ)。25,アファナーシェフ童話(アファナーシェフ)。26,宝島(スティーブンソン)。27,ジャングル・ブック(ラジャード・キプリング)。28,家なき子(エクトール・アンリ・マロー)。29,あしながおじさん(ウェブスター)。30,チボー家の人々(ロジェ・マルタン・デュガール)。31,飛ぶ教室(ケストナー)。32,エミールと軽業師(ケストナー)。33,にんじん(ルナール)。34,ライオンの眼鏡(ヴィルドラック)。35,ものをいうかしの木(ジョルジュ・サンド)。36,マテオ・ファルコーネ(メリメ)。37,せむしの小馬(エルショーフ)。38,黄金の川の王様(J・ラスキン)。39,十五少年漂流記(ジュウル・ヴェルヌ)。40,ピノッキオ(コロディ)。41,みつばちマーヤの冒険(ボンゼルス)。42,悪童物語(トーマ)。43,リップ・ヴァン・ウィンクル(ポー)。44,荒野に叫ぶ声(J・ロンドン)。45,森のほのお(オセーエワ)。46,人形つかいのポーレ(シュトルム)。47,三色菫(同)。48,赤と黒(スタンダール)。49,罪と罰(ドストエフスキー)。50,居酒屋(エミール・ゾラ)。 以上94册。 このうち、「好きな本」として赤い丸印がついているものがある。日本文学では「暗夜行路」「路傍の石」「次郎物語」「輪唱」「忘れ霜」。外国文学では「人形の家」「どん底」「あしながおじさん」「チボー家の人々」「にんじん」「マテオ・ファルコーネ」「悪童物語」「三色菫」「赤と黒」「罪と罰」「居酒屋」である。 この〈読書の記録〉が書かれたすぐ後日の昭和35年9月5日の日記は、「〈暗夜行路〉の後、スタンダールの〈赤と黒〉を読んでいる」と書き出し、主人公ジュリアン・ソレルについての考えを述べている。そんなことを書いていたなどすっかり忘れてしまっていたが、じつは私の文学熱に火がついたのは〈赤と黒〉に始るとはずっと思ってきた。50年ちかくも経って、はっきりその始りが確認できた。 この〈赤と黒〉は、学校図書館から借りた本で、文庫サイズ程度の、しかし厚さは5,6cmもある小豆色の布表紙の叢書だった。なんという出版社から刊行されたものだか。昔は古書店で見かけたおぼえがあるが、最近ではまったく見たことがない。私は高校生になってから、河出書房新社が昭和35年から刊行を開始していた原弘氏装丁のグリーンで統一した〈世界文学全集〉(全48巻別巻7巻;阿部知二・伊藤整・桑原武夫・手塚富雄・中島健蔵編集)を購入しはじめ、たしか一番最初に買ったのが〈赤と黒〉だった。この本は現在も所持している。 ちなみに上述した〈カバヤ文庫〉については、ずいぶん以前にこのブログに書いた。あらためて、私が所持していた書目をあげれば、次のとおり。 「ニルスのふしぎな旅」「隊長ブーリバ」「アンクル・トム」「鼻の小人」「オズの魔法つかい」「若草物語」「せむしの子馬」「イワンのばか」 この文庫は、現在、岡山県立図書館がほぼ完全に所蔵しているとか。戦後の児童図書、なかでも世界少年文学の普及におおきな影響があった大叢書である。
May 18, 2009
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きのう創った『歌謡曲な土曜日』の英語版。Popular balladish Saturdayby Tadami YamadaSomehowMelancholic SaturdayIt's not suitable for Mozartmuch less BachYou know, coffee-shop master!Make me another bitter coffeeAfter sipping it I'll go out to pick up popular balladsin the evening streetSo, make me bitter coffee pleaseSomehowMelancholic SaturdayIt's just my heartnot rain, but looks like rainYou know, coffe-shop master!Listen to my bitter memorywhich I can't abondon, want to shed tearsbut I can't, an old tale of my loveAlthough you are laughingMake me another bitter coffee pleaseSomehowMelancholic SaturdayIt's not suitable for Armanimuch less rosesYou know, coffee-shop master!I must be going now, I'll stop my storybecause of becoming to grumbleTomorrow, I'm sure, it'll rainAlthough you are laughingthat girl with you onceShe's fair as May rose, isn't she?------------------------------Copyright(c)2009 Tadami Yamada. All Rights Reserved.
May 17, 2009
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仕事場にとじこもっても仕事をするでなし、音楽を聞いても上の空。なんとなく憂鬱。そのうち次のような歌謡曲調のことばが浮かんできたので、手近な紙に書きとめた。『歌謡曲な土曜日』なんとなく憂欝な 土曜日はモーツァルトもましてバッハは似合わないねェ、マスターもう一杯苦いコーヒーいれてくれそれを飲んだら演歌拾いに俺は出てゆく苦いコーヒーいれてくれなんとなく憂欝な 土曜日は俺のこころの降りそで降らぬ雨なのかねェ、マスター聞いてくれ苦い思い出捨てられぬ泣くに泣けない昔の恋さあんた笑うが苦いコーヒーもう一杯なんとなく憂鬱な 土曜日はアルマーニーもまして薔薇など似合わないねェ、マスターもう行くよ愚痴になるからもうやめだ明日はきっと雨が降るあんた笑うがいつかのあの娘薔薇の花
May 16, 2009
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きょうはお客さんが老母の話相手に来宅してくださるというので、一緒にお昼御飯も召し上がっていただくことにした。日曜日の予定であったが、その日は雨になりそうなので、急遽変更してもらった。 母は朝から心待ちにして、気持が浮き立つらしくベッドに寝たまま小声で歌っていた。 門から玄関までのアプローチを掃き掃除していると、柚子の葉の茂みのなかからピンク色のバラが一輪咲いているのに気がついた。全滅したはずのバラなのに、一部残っていた枝が生きていたらしい。昨日までは花などなかったのだから、今朝になって咲いたのだ。 「バラが一輪咲いているよ」、歌っている母に言うと、「アラー!」 お客さんは午後5時までいてくださった。母はベッドに腰掛けて話していたが、こんなに長時間坐っていれたことはここ2年ばかりなかった。食欲もあった。御飯が茶碗に少し残っていたので、「もう、すんだの?」と聞くと、「まだ少し残っているから食べてしまう」。そして食後のデザートの桜桃も梅のゼリーもぺろりと平らげてしまった。いつも食事をきちんと食べさせることに苦労しているので、それだけでもお客さんが一緒に食事してくださったことに感謝である。 江戸湯島に生まれた俳人、服部嵐雪(1654-1707)に、「うめ一輪 一りんほどのあたゝかさ」という有名な句がある。湯島は白梅で有名。泉鏡花の『婦系図』、新派の水谷八重子のやや掠れた声でいう「別れろ切れろは、芸者のときに言うものヨ」の、あの湯島である。 ・・・それはともかく、嵐雪に倣って、きょうは、「バラ一輪 一りんほどのあたゝかさ」
May 15, 2009
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庭の地植のシンビジウムがただいま花盛りである。地植してからもう6年くらい経つが、毎年ちゃんと花を咲かせている。 以前は鉢植だった。亡くなった父が、あるとき何を思ったのか鉢から出して地植えしたのだ。一番驚いたのは母で、「あらあらたいへん。蘭を地植えするなんて、みすみす駄目にするようなものだわ。掘り起して、鉢に戻さなきゃ」 その母を、「好きにさせておきなさい」と私は制し、それから2年後に父は亡くなったのだが、冬に雪除けの覆いをしたり台風の時などに雨除けをしていたのは私で、当の父は気にも留めていなかったから、実際父が何を考えて地植にしたのかいまだに分らない。 ともかく私はそのような経緯のシンビジウムを、枯らすまい、消滅させまいとして、6年間ずっと気に掛けてきたのだった。我家の小庭はいろいろな植物があるにはあるが、だいたいが手を入れることもなく、不精をきめこんで放ったらかしにしている。残るものは残り、消えるものは消える。野草と入れ替わってしまうことも多々ある。そのなかでシンビジウムだけは、他の植物から見ればまるで依怙贔屓しているかのように、世話をしているのだ。 先日、母を病院から連れ帰ったとき、---力の強い私が母とむきあう恰好で母の腰のあたりの衣類をぎゅっと掴んで歩行の補助をするのだが---、腰を曲げて俯いて足元をたしかめながら歩く母に、「ほら、見て御覧、シンビジウムが咲いているよ」と促した。母は頭をあげて促されたほうを見やって、「あら、ほんとうだ。うれしい」と声をあげた。 昨年の秋、枯葉を掃きあつめたのをシンビジウムの根元に積み上げ、冬の寒さ除けにした。シンビジウムそのものの枯れた葉は丁寧に切り取りなどして、こまめに手入れをしたせいか、今年の花はいつになく強さがあり、元気が良い。蘭のなかでは比較的地味なのだが、地植にしてみるとその地味さが他の植物たちにほどよく溶け込んでいるのである。 ところで、玄関の棚の上にシクラメンの鉢がある。昨年のクリスマス前に弟がプレゼントしてくれたものだ。次から次と咲きつづけ、先日ようやく最後の花が一輪萎れたので根元近くで茎を切った。沢山の茎が密集していたのだが、5ヶ月も咲きつづけてさすがにいまでは10本程度の茎と葉を残すのみである。しかし、例年だと、シクラメンが花期を終わっても元気であったためしがない。花が終わると株そのものが針金のごとくに痩せ細って枯れてしまうのだった。ところが今年の株は、わずか10本程度の茎とはいえ、葉が活き活きとしてい、そればかりか新しい茎と葉がのびてきているのだ。 プレゼントしてくれた弟が見て、「シクラメンって何年草なの? これはまた花を咲かせるのだろうか」と言った。 「いま園芸店で売っている花は、たいてい特許物で、殖やせないような性質に加工されているからね。このシクラメンはどうだろう。元気がいいから処分せずに見守っているんだが」 さて、このシクラメン、これからどうすれば良いのだろう。土を替え、肥料をやれば、また花をつけるのだろうか? そして、どのような場所に置いたらよいのだろう? 園芸店ではやや寒冷の高地で育てていると聞いたおぼえがある。 経験のないことが出てきた。どなたか御存知ではあるまいか。
May 14, 2009
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きのうは放り出すように英語の詩を掲載したが、お訪ねくださったお客様のなかには私の不親切を感じられた方もおいでであったろう。どこか外国の方からはさっそく好意的なコメントをメールで頂戴したが、それでかえって不親切な掲載を反省した。で、日本語としては詩を意識せずに、散文調ではあるが直訳してあらためて掲載することにした。きのうのお客様、ごめんなさい。私の手のX線写真最近、私は左手をすこしケガしたたいしたこではない。が、念のために医者に診てもらった。医者は言った、「レントゲンを撮ってもらうべきですなみかけより重傷かもしれません、率直にもうしあげて」自分の手のレントゲン写真を見るのは初めてだった何と言ったらいい? 画家として、神の物真似芸人として手術によって手から作品が失われることを考えながら。黒の中の白い骨、死と生のイメージ写真の私の手は漠然とした予示をしているようだった暗い大洋に突然出現した幽霊のように。あるいはまた、荒海を乗り切る筏のように白い骨は緊密に組み立てられていた。病気もなく骨の白い筏は夢想の国を漂いいつもきっと人生の命数を確かめるために‘カンヴァス’に戻ってきた。数えきれないほどの漂流。困難にあえぎながら。ときどき私は泣きたいように感じた。あるいは人生の行路を発見したようにも。また、私は肉の暗闇の中の骨の森を想像したそれは私の肉体が腐敗した後に残されるもの。そのとき生と死との状況は逆転する。生命は誕生のときからそれ自身の内部の死に支えられているのだ私は自然の原理に到着した。宇宙の真理に。そうだ! 宇宙、そこに敵意の対立はなかった。医者は言った「気長に治療しましょう」。私はほっと息をつく。私は生と死との谷間で絵を描きつづけるのだ。(未完成)
May 14, 2009
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先日、未完成のままファイルしておいた英語の押韻詩のつづきを書いたが、まだ完成したとはいえない。しかし、ひとまず掲載して、考えが出てきたら補綴することにした。過日の左手のケガをめぐる絵描きとしての想いである。題して『私の手のX線写真』。もともと英語で考えたので、あらためて日本語に訳すことはしない。お客さまに対しては悪しからずと申さなければならない。The X-ray Photo of My Handby Tadami YamadaRecently my left hand was injured a little bitNothing serious, but I'd a doc to make sure of itThe doctor said, " You ought to have a X-ray takenFor a possibility heavier than it looks, plain-spoken"The X-ray photograph of my hand I saw first timeO what I say? as a painting artist, as a god's mime Thinking the fruits in hand to be lost under the knifeWhite bones in black, the image of death and life!My hand on photo was as if it showed adumbrationLike a ghost that suddenly appeared in dark oceanOr also like a raft steering through the rough seasWhite bones were constructed in closely; no diseaseThe white raft of bones drifting about dreamlandsSurely returned to "canvas" to check the life's sandsCountless drift any longer, panting under heavy loadSometimes I felt like crying, or finding life's roadOr I imagined woods of bones in the dark of fleshThat would be remained after my body would perishThen the situation of between life and death reverseLife's sustained by own internal death from the birthI came to the principal of nature, the truth of cosmosO yes! Cosmos, there was not any antagonism of animusThe doctor said,"Let's cure patiently". I cought my breathI'll go on to work picture in the valley of life-and-death(incompletion)---------------------------------Copyright(c)2009 Tadami Yamada. All Rights Reserved.
May 13, 2009
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ただいま午後5時ちょうど。老母を病院から連れ帰ったところ。着替えをさせて、私はコーヒーを飲みながらひと休み。 きょうは朝からだったので、某大学病院までの車での往復時間を含めて8時間、精力絶倫の私でもいささか疲れた。アハハ。 先月末に記したとおり、6月初めに90歳になる母は、腹部大動脈瘤に対するステントグラフトの施術にむけて、さまざまな精密検査をはじめた。今日は、そのひとつ、心臓機能を調べるために心臓シンチグラフィーを撮影したのである。 シンチグラフィーとは、核医学ラジオアイソトープ(RI)検査から得られる画像のことで、放射性同位元素を患部に注入し、放射するγ線をカメラでとらえ画像をコンピューター処理して目的の臓器の情報を得るのである。使用される放射性同位元素は寿命の短いもので、放射線量も微量、人体に影響はないとされている。注入する薬剤は、臓器の種類や治療目的によってことなり、薬剤を注入してから患部に到達するまで数時間ないし数日経ってから撮影がおこなわれる。 母は、検査開始2時間前までに朝食を終了しておき、昼をはさんで午後の撮影だったが、昼食は摂ってはいけないという条件だった。あまり食欲がないというのを、とにかく体力を維持するようにと、30分ほどかけて朝食をすませて出かけたのだった。 核医学RI検査室というのは他の診療科とは様子がちがう。付添人は待合室まで。検査棟との間には核施設で見かける万国共通の警告マークのある扉があり、そこから先、患者は係員の手にゆだねられる。患者は、扉の前で自分の履物をぬぎ、扉の内側の床に敷かれたスノコにあがり、備え付けの黄色い核マークのついたスリッパに履きかえる。ただしスノコの上でではなく、スリッパを検査棟側の床に置いて。おそらくこのスリッパは定期的に核廃棄物処理施設において処分されるのであろう。核廃棄物処理施設が附属していることも、核医学棟の特徴である。この履物の交換は、患者のみならずオペレーターや検査室係員も同様に厳重に実施されている。他の検査室棟や診療棟の待合室ではおこなわれていないことだ。 このようにして得られたコンピューター画像を主治医が分析する。母の検査はまだ今後もつづく。しばらく間を置いて、10日後に、こんどは腎臓機能を調べる腎シンチがある。こうしてステントグラフト内挿の実施が可能かどうかをさぐる綿密な検査がおこなわれるのである。ありがたいことだ。 長い待ち時間をもてあました私は、待合室の大ホールのソファに腰掛け、患者ばかりでなく付添人や見舞客がひっきりなしに往来するのを眺めながら、今度はスケッチブックを持ってこようかなどと考えていた。数千人の顔や姿を見ていたわけだが、しかし、失礼な話、美人美男というのはいないもんですなー(ゴメンゴメン)。
May 12, 2009
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暑い一日だった。我家の猫たちはそれぞれに涼しい場所をもとめて姿をみせない。食事時だけ何処からともなく現われ、一応挨拶だけはして、また姿を消す。 ふと本棚をみると、その上にのせてある資料をいれたダンボール箱と天井との間の30cmほどの空間にサチの前脚がのぞいていた。近くに積み上げた油彩画の山の上から跳びのったようだ。ほかの猫たちにも邪魔されない昼寝の恰好の場所をみつけたわけだ。 おやつに今年初めての西瓜を食べた。まだ味に深みはなかったが、初物には初物の旨さがある。せっかくだから、食後の皮は残った身を削ぎ、表皮を剥き、一度塩もみして水分を抜き味噌漬にした。胡瓜の味噌漬とは一味ちがったほんのり甘味のある味噌漬になる(味噌を少しからめて数時間寝かせる程度でよい)。丹精して収穫した作物を捨ててしまうのはもったいない。 「西瓜の季節になったか」と思いながら、『季寄せ』を繰ったところ、昔から秋の季語だと書いてあるので意外だった。西瓜を秋の作物だとは一度も思ったことがない。 炭太祇(たんたいぎ:1709-1771)の句に、 畠から西瓜くれたる庵主かな 寺の裏で西瓜をつくっているのであろう。「庵主さま、御精がでますのぅ」「ことしは豊作じゃぞ。ありがたいこっちゃ。ほれ、一つ持っていきなされ。味はいいぞい」「遠慮なくいただきますワ」「持ってけ、持ってけ」・・・と、そんな光景が見えてくる。 私は、怪我した左手の一件を英語詩につくってみようと、4行押韻を2連まではヒョイヒョイとできたが、そこから先がつまってしまった。未完成のままファイルして、まあ、ボチボチと。
May 10, 2009
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韻を踏んだユーモア英語詩。訓戒(人生の両面)。初めは全然別のことを考えていたのだが・・・ADMONITION(Both side of life)by Tadami YamadaComfort a small sumDon't say any prayerBecause of lonesomePut on other's concern airNow your turn comeNo time to spareDon't remain dumbAssert in openair【訳】訓戒(人生の両面)慰めはすくないのだ祈は口にするな孤独なのだから他人事のふりをせよ出番がやってきた余分な時間はない沈黙しつづけるな外へ出て主張せよ
May 8, 2009
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自分の生まれ月ということもあるが5月の季節が好きだ。しかし三日も雨が降りつづいていては、いいかげん嫌になる。雨の日はキャンバスを張るには適している。が、そんなことばかりやっていられない。晴耕雨読とシャレる気もないけれど、家のなかあちこちに置いてある本をウロウロ移動しながら読んでいた。 書棚のガラス扉越しに、若いころに買い集めた本を何気なくながめ、これら5000册以上の本をもう一度読み直す時間は残っていないかもしれないなぁと、ふと思った。『ロートレアモン全集』『アポリネール全集』『ボードレール全集』『アルベール・カミュ全集』『エドガー・アラン・ポー全集』『ジョルジュ・バタイユ全集』『新サド選集』『C.G.ユング著作集』・・・『藤原定家全歌集』『上田秋成全集』・・・『林達夫著作集』『澁澤龍彦著作集』・・・その他その他、一冊一冊の美しい書物たち。稀覯本の数々。 そういえば、あれは大学1年のときの英語の副読本だったかしら、その詳細は作者の名前もろともすっかり忘れてしまったが(たしかイギリスの文学者)、そのなかに「蔵書と言えるのは5000册以上」という一節があった。ここで5000册以上と言っている書籍は、一冊一冊を自家用に特別装丁した本のことである。それはヨーロッパの貴族階級の伝統的な装丁文化であるが、とにもかくにも私はその一節だけ記憶にとどめたのだった。あるいは同じころに、ヘンリー・ミラーの『北回帰線』だったか『南回帰線』だったか、それとも『冷房装置の悪夢』だったかに、「4万冊の本を読んではじめて必要なのは1册だとわかった」と書いてあるのを読んだ。 私は頑固なくせに、自分で言うのも何だがいたって素直なところがあり、上の二人の言葉は何の疑念もさしはさまずに「あっ、そう」という具合に、自分の読書の指針にしてしまった。特別意識的であったのではないが、たぶん、それが私の基準になったとは言える。 昔、ある人が、私が書籍購入につぎこんだ金額を聞いて、「ああ勿体ない。私ならそれだけの金があれば別のことに使いたい」と慨嘆したものだ。・・・さあ、どうでしょうね。私の人物観察に照らして、この人は、どれほどの金があろうと何かに役立てることはできないと思いましたが。 ・・・窓の外に降りつづく雨を見ながら、本のページを繰る手をやすめながら、長年の私の友(本)に思いをはせていたである。
May 7, 2009
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CHAMBERby Tadami YamadaDay light was thickly covered with curtainsAbsented chairs were four and five and six,turned away, tumbled down, appeared cobmwebby;Ah! this room was always locked on inside but no keyDid you ever hear birds singing? ---Might notDid you ever see flowers blooming? ---Might notMyself, to wear black clothes like an alchemist, the old, strolling with a sigh, only thought on making a stone to change into gold.As no any lights, to pull out not only my arms andmy thighs but my ribs and my skullI burnt them instead of candlelightWhen these my bones lighted as will-o'-wisps,huge shadows opened wings as ominous birds.That was an appalling and fearfull sceneI covered my face with the black skirt, andran about to make my escape from shadows of myself.Ah! how should I put it? My pale lips leaked a groanSleeping was not like a sleeping, ---howeverI dreamed of unnoticed violence and murderas making myself capricious pose in a chair.A stone in my hand changing a murderous weapon which I beat beat someone down by. And whenbeat more, the bloody face suddenly changed into myselfThat the first face, ---who was it?I could not forget that eyes of which.Last broken face of myself looked up me in powerlessThat the first face, ---who was it?Thinking the meaning of the dreamI gazed at the locked door in darknessThe following day, I saw the handle of door turningThe caller who was worm for a phantom,did not give me any fear for the actual.I saw the forehead, and its deep scar to be covered with fresh blood.O! the evidence of my crime in the dreamIt was the secret to put my brow over the otherAnd then, My dailies that was no ward to talk towere cleverly stolen. ---However, what did it mean to be stolen?Inside of curtains of my windowsit was raising dust as if my fool giggledI hurriedly ran up to the handle of doorwhich the one had got out from.But the inside had not any handle of door.'Nothing it would be to happen hereafter!'---Such my irrationally stolen dailies.My teeth like a vampire glittered, snarled at the airI should like to have to suck blood of that brow!It was repeated every day and nightSmelling of blood, flying, piteous pleasures.If I said 'Those days were just good!'it might be an old man, but to look backwith nostalgia to the past being never to returnI drew a distressing sigh as thin as a thread'Nothing it would be to happen hereafter!'Absented chairs were five and six in the chamber---------------------------------Copyright(c) 2009 Tadami Yamada. All Rights Reserved.
May 6, 2009
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連休もあと1日を残して、きょう端午の節句は、あいにく昼から雨が降り出した。ちょっと用事があって車を出したが、1時間ほどで戻って、3時のおやつは柏餅とアメリカン・チェリー。 先日、新聞に、柏餅の柏の葉が入手しがたく、じつは17種の植物で代用しているのだと書いてあった。やれやれまた食品擬装かと思うのは早とちり。兵庫県立大学の服部保教授らが国内文献や地方の古老から聴き取り調査をした結果わかったこと。柏の木は関西より西では自生がめずらしく、柏の葉の使用は昭和初期までは関東中心にとどまり、関西以西では柏餅といいながらも他の植物の葉が使われていたのだという(朝日新聞5月2日、竹石涼子記者)。その植物というのは、サルトリイバラを主として、コナラ、ホオノキ、ヤブツバキ、ミズナラ、マテバシイなど全部で17種類にのぼっている。 服部教授が代用頻度がもっとも多いというサルトリイバラは、別名ガンタチイバラ、九州地方ではカカラとも言われるユリ科の植物。牧野富太郎博士の『新日本植物圖鑑』にも「西日本地方で葉をモチを包む時に使い」と書かれている。 17種類の葉で包まれた餅がみなカシワ餅と呼ばれていたわけだが、しかし語源的にみれば、これは一向に問題ない。カシワという植物の日本名はもともと「炊葉(カシワ)」に由来し、炊葉というのは食物を盛った葉のことである。ホウノキが古くはホオガシワという名称であったのは、この葉に食物を盛ったからである。いつの頃よりか柏の木だけをカシワというようになったが、昔は食物を盛るために用いられた植物の葉はすべてカシワと言ったのだった。 柏餅に使う柏の葉が入手しがたくなって種々の葉を代用することで、語源的には本来の炊葉(カシワ)に戻ったというのは言い過ぎにしても、擬装食品などとメクジラたてることはないのである。 巣燕も軒端菖蒲の節句かな 青穹
May 5, 2009
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我家から比較的近所に、燕が軒端に巣をかける家が二軒ある。それらの家には燕にとってどのような好条件がそなわっているのか私は知らない。昔から、燕が来る家は栄えるといわれている。大春という名の俳人に、「巣燕に門口廣く商へり」という一句があるが、この句の背後にはその言い伝えが横たわっている。 4月半ば頃から、私は何度か燕の飛翔を見ている。空を截然とわけるように飛ぶ姿は美しい。 A swallow cuts the sky of sundown crosswise quickly Low flying --- Is it for livelihood? A swallow there!
May 4, 2009
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朝のめざめは小鳥の鳴声とともに、などと言うとロマンチックだが、実際はそのかまびすしさに無理矢理起されている。野鳥保護林が家の裏にひかえているために種々の鳥の鳴声が聞こえてくるのだ。いまごろの季節はヤマガラ、あるいはシジュウカラであろうツツピーツツピーという声。そして正体は知らないが、ピピチョピピチョ、ピュールリピピチョというひときわ賑やかな声。ヒョイヒョイピピヒョという声も聞こえる。 これらの小鳥たちの早朝の合唱は、賑やかではあるが、しかし、不思議なこと「騒音」ではないのだ。ときどきどこからか聞こえてくることがある電子音とは性質がまったくちがう。自動車の後退警報器のピッピッピという連続音や、「バックしますバックします」とか「曲ります曲ります」という人工的な女声の、あの耳障りな感じとは違う。小鳥たちの鳴声には不思議な「やさしさ」があるのである。 一定の時間を鳴いた小鳥たちが静まったころ、どこかの子供がピアニカの練習をはじめた。たしか文部省唱歌だが、なんという題名だろう。私が子供のころは学校で習ったことはない。 音を採ってみようか・・・。ハ長調(C major)だな・・・ ドレミファソーソー ラファ↑ドラソー ラファ↑ドラソー ソミミミ ファレレレ ソミファレ ミソソソ ソミミミ ファレレレ ソミレミドー こうして一日中、窓外から聞こえてくる音に耳をかたむけていると、まるで病床にある人のようだが、仕事場にとじこもっていると外部にひらいている感覚は聴覚だけなのだ。私はめったに仕事をしながら音楽を聴くことはしないので、窓からとびこんでくる音が楽しくもある。日曜日に子供達が元気に声高らかに遊んでいるのを何となく聞き流しているのが好きだ。
May 3, 2009
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きのう病院の待合室で母の車椅子に手をかけながら椅子にすわっていたとき、小さな音量で流れていた音楽にハッとして心がゆらめいた。それはドヴォルジャークの『ユモレスク』であったが、私は霞をわけて遥か昔に引き連れられてゆくような懐かしさをおぼえたのだった。 聞こえていた『ユモレスク』は、バックグラウンド・ミュージックとしてあらかじめ編曲編集しているようで、主題部とその後わずかな展開部のほかは別な曲に変わってしまった。しかし私の耳にはいつまでも聞こえていて、不思議なぐあいに気持をゆさぶりつづけた。『ユモレスク』の原曲は、たしかピアノ曲のはずだった。が、私が記憶の彼方からおもいだしていたのはヴァイオリン演奏なのだ。 私はいったい何に気持がゆさぶられているのかその正体を思い出したくて、しばらくの間、記憶におおいかぶさっている霞を心のなかで掻き分けていたが、正体はあらわれなかった。 一日経った今日も、その曲の冒頭で2度繰り返される主題を何度も口ずさんでは、子供のころの思い出のどこかに行きつきはしないかと考えていた。どこで聞いたのだろう? 誰が演奏していたのだろう? なぜ数十年も経って、・・・たぶん50年以上になるのではないか・・・不意に涙ぐみそうになるほど心がゆさぶられるのだろう? 私は、いつの頃かは分らないその時に、『ユモレスク』が聞こえていたその場の状況全体に心を動かされていたのだと思う。何だかは思い出せない。だが、何かに・・・
May 2, 2009
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長い一日が終わろうとしている。 以下の事実はこのブログに書かずにきたが、あるいは高齢者の同病の方の参考になるかもしれないので記すことにした。 まもなく90歳を迎える老母についてはしばしば書いて来た。じつは4年ほど前に腹部大動脈瘤が発見された。そのときすでに85歳という年齢で、高血圧症もかかえていたので手術に耐えられないかもしれないとのことで、本人に事実を知らせず、私の兄弟たちだけの胸のうちにたたんでおくことにした。周囲から母の耳に入ることを恐れて、一切口外しなかったのである。これには理由があって、もし母が事実を知ると、不安のため血圧の安定を得られず、それによって動脈瘤が破裂する可能性があった。それは一瞬にして死亡することを意味していた。 母の動脈瘤は直径55ミリという巨大なものだった。胴体部分を輪切りにしたCTスキャン画像で見ると、背骨のわきに背骨の太さとほぼ同じくらいの瘤があった。こんなものが腹部にあっては、もちろん母は手でおさえて「ほら、ここに瘤があるの」というほど、外部から触知できるのだった。私たち家族は内心ハラハラしながら、「わかっている、わかっている、お腹をおさないでね。心配するほどの瘤じゃないから」と、とりつくろっていた。 ところがここに思いもかけぬことが起った。それはブログにもほんの少し書いたが、昨年のクリスマス前に、母が家のなかで尻餅をつくように転んだのだ。その後、尻と腰が痛いというので、4日ほどの間、私が抱きかかえてトイレなどに運んでいたのだが、12月28日の朝、胸が痛く呼吸ができないと訴えるので、救急車を呼んで緊急入院した。 なんと、胸部肋骨2カ所と大腿骨てんし部が骨折していたのである。相当の痛みがつづいていたはずだが、母は家族に心配をかけまいとして我慢していたのだった。 医師の説明によると、肋骨の骨折は最下部で、肺を傷つけるおそれがないので自然治癒にまかせるが、大腿骨の方は、放置しておくと生涯歩行不能になるばかりか寝たきり状態により肺血栓閉塞症を併発して死亡する可能性がある、というのだった。しかし、その手術は、手術中の血圧変動によって大動脈瘤の破裂をひきおこす可能性があり、それもまた死に直結している、と。 私たち家族は、手術をするか否かの決断をせまられた。 「いずれにしろ死亡の可能性を避けられない以上、何もしないで手をこまねいていたくはありませんので、手術をお願いいたします」と、私は医師に告げた。 医師はレントゲン写真を示しながら、骨折部を接合するための金具をみせて、どのような手術をするかを説明した。 手術は年が明けてからだった。4時間の大手術となった。しかし母は良く耐え、大動脈瘤が破裂することなく、手術室から出て3時間ほどは麻酔のために譫妄(せんもう)状態にあったが、術後経過は順調で、1ヶ月半の入院で退院した。 以前ブログに書いたけれど、私の寝室や仕事場に無線の呼び出し装置を設置したのは、退院当日のことであった。手術が成功したとはいえ、介護なしでは歩行が困難になり、それは今後ずっとつづくことになった。 さて、この手術に耐えることができたということもあるだろう。腹部大動脈瘤を診てきた主治医が、先日あらためてCTスキャン画像を撮り、その結果、動脈瘤はさらに大きくなっていたので、手術をしないで治療する方法を私たち家族に提示したのである。私たち家族はその提案を受けることにした。 翌朝、主治医からバトン・タッチをされたと新たな専門医師から連絡があった。そして今日、5月1日、その専門医から詳しい説明をしてもらったのである。 それはステントグラフト内挿術といい、開腹手術をしないで、腿の付根に小さな穴をあけてカテテールによって人工血管を患部に挿入装着するというもの。ここ10年ばかりの間に研究と実用化が進んだ医療技術である。ステントグラフトいう、蛇腹状の金属のバネを編み込んだ人工血管を細く縮めた状態でカテテール先端に取り付け、それを動脈のなかに送りこみ、患部でバネを開くと血管に圧着する。動脈瘤はそのまま放置すれば、やがて内部の血液はそのまま固まってしまうか瘤そのものがしぼんでしまうのである。 もちろんこの方法がすべての動脈瘤の治療に可能なわけではなく、動脈瘤の両端の正常な血管が15ミリ以上の長さがあり、かつコレステロールで硬化していないこと。あるいは腎機能が正常、もしくは二つの腎臓のうちいずれかが健常であること。心臓病等の余病がないこと等々、条件がいろいろある。施術中に破裂しないという絶対的な保障もない。しかし、開腹手術にくらべて患者への負担が非常に軽く、年齢制限もないといってよい。 私はそのステントグラフトの実物を見せてもらった。そして、母に対してその施術をしてもらう方向で以後のスケジュールをたててもらうことに同意したのである。 同時に、その第一段階としての精密なCTスキャンをおこなってもらった。 「なんとか可能であろうと判断しました。手術を開始しても、途中で問題が発生したときは即座に撤退します」と医師は言った。「これから1ヶ月の間に、さらに綿密な調査をします。それにもとずいて、月末に最終的な打ち合わせをいたしましょう」と。 ・・・きょうは、母も家族もみんなで病院に行ったのだった。母は朝から食事抜きだったので、帰りにレストランに立ち寄って食事をした。母が介護なしでは外出できなくなり、そればかりか長い時間の外出が無理になっていたので、家族みんなでレストランへ出かけるのは久しぶりだった。 帰りの車のなかで、「きょうは楽しかった!」と、母は言った。
May 1, 2009
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