2026
2025
2024
2023
2022
2021
2020
全31件 (31件中 1-31件目)
1
![]()
昭和天皇・マッカーサー会見私:日中戦争の頃から終戦に至るまでの天皇の主張を記録したものとして、有名な「昭和天皇独白録」があるね。 これは、1946年の3月から4月にかけて、松平慶民宮内大臣、木下道雄侍従次長、寺崎集成御用係など5人の側近が4日間で5回にわたり、天皇から直接聞き取りをしたものをまとめたものだね。 これによると、太平洋戦争の開戦について「東条内閣の開戦の決定を天皇が裁可したのは、立憲政治の下では、やむを得ぬことで、もし、好むところは裁可し、好まないところは裁可しないとなると専制君主となってしまう」というようなことがあるという。 しかし、「木下幸一日記」によれば、日米開戦決定の御前会議前日の1941年11月30日、海軍の厭戦気分を聞いた天皇は「予定通り(開戦を)進めるように東条首相に伝えよ」との下命をしている。 木戸はそれにより、東条首相に電話連絡する。A氏:「忠臣」東条首相はその通りにするね。 翌12月1日の御前会議の「表舞台」では天皇は無言だった。 「表舞台」では立憲君主だが、「裏舞台」では専制君主的な動きをしていることになるね。私:天皇は「独白録」では、例外的に「専制的」に指示したのは、二・二六事件の反乱軍対応と、終戦の「聖断」の2つだけだというが、著者は、「独白録」をよく読むとそれ以外の例があることを指摘しているね。 「独白録」には、天皇の軍隊への統帥権のことが抜けているという。 統帥権により軍事問題でも指示がある例をあげているね。 著者は、「能動的君主」と「受動的君主」を天皇は使い分けている、としているね。A氏:ところで終戦の天皇の御聖断についてだが、君のブログで劇作家の井上ひさし氏が、やはり「日記」を発掘して、次のように、「ホワイトハウスから徒歩5分」の本で興味あることを書いているね。 以下に、再録する。 「木戸日記」と「細川護貞の日記」の併読でわかったことで、大正天皇は早くなくなり、貞明皇后は皇太后となるが、そのボーイフレンドが長谷川清という海軍大将で昭和天皇の特使だ。 長谷川は天皇の命を受け、本土決戦がどうなるか探るが、その結果を最初に貞明皇太后に伝える。 貞明皇太后はこの話を聞いて、宮中で、このまま戦争を継続すると皇室がなくなり、国民に否定されると息子の昭和天皇を一喝したという。 これが終戦の年の6月で昭和天皇は3日間寝込んで考えて、和平に本気に乗り出す。私:実は、終戦の御聖断に至る経過をこの本で詳しく書いているが、比べてみるとよく背景が分かるね。 07年に発掘された「小倉庫次侍従日記」によると、1945年6月22日に「最高戦争指導者会議」が、天皇の招集で開かれた。 この会議で、天皇は「戦争終結」方針を打ち出した。 ここでも「能動的君主」が登場するね。A氏:考えがガラリと変ったのだね。 何があったのかね?私:2週間ほど前の6月6日の御前会議では、あくまで「徹底抗戦」で決まっていたのだから、これがガラリと変わる。 この2週間の間に何かあったんだね。 その謎を上記の井上ひさし氏が「木戸日記」と「細川護貞の日記」の併読が解いている。 「小倉日記」にも、6日の御前会議から5日目の6月14日に急に体調を崩して病床に伏したとあるという。 これが、貞明皇后が「息子の昭和天皇を一喝した」時期で、「天皇が3日寝込んだ」ときだね。 「おっかさんの一喝」の影響があったんだね。 そして、6月22日に天皇主催で「最高戦争指導者会議」が開催され、「戦争終結」方針が打ち出されたことになる。A氏:天皇と言っても普通の人の子だね。 立場上、悩み、試行錯誤することはあるね。 特に万世一系の天皇制と、三種の神器を守るためにーーーー。 「能動的君主」になったり、「受動的君主」になったりする。 それはそれとして、歴史の事実は明確にすべきだがね。私:そういう意味で、知的興味をひいた文庫本だね。 ただ、もう、ちょっと、内容を時系列で、きちんとまとめて欲しかったね。 そうすると、読むほうも楽だったがね。 まぁ、俺なりにエキスはまとめたつもりだがね。
2008.10.31
コメント(2)
![]()
昭和天皇・マッカーサー会見私:マッカーサーとの会見は1950年の第10回会見以降行われず、朝鮮戦争でマッカーサーが解任され、帰米する前日が最後の両者の会見となった。 この会見の記録で、東京裁判が東条らに全責任を負わせる一方で、天皇の不訴追に終わるという「日米合作の政治裁判」であったことが、この最後の会見で当事者同士の会話によって確認される。 次に昭和天皇にとって共産主義の脅威から天皇制を守りきるためには、無条件に米軍依存するしかなかった。A氏:天皇にとって「安保体制」こそが、戦後の「国体」として位置づけられたわけか。 ところで、朝鮮戦争でアメリカが日本に再軍備を要求するね。 そして、吉田首相が「無理な要求だ」としてうまく立ち回るね。私:ところが、著者はダレスの交渉の狙いは日本軍の再編成でなく、米軍基地の継続利用だったという。 朝鮮戦争でアメリカも日本に基地がほしいから、日米で「五分五分の論理」を展開できる外交カードを日本は持っている状況にあった。 途中、したたかな吉田はそのカードを使い出そうとしたようだね。 ところが、51年1月30日に日米交渉の最初の段階で、吉田はそのカードを切らず、基地提供の意向を早々と表明してしまう。A氏:吉田外交は稚拙だったことになるね。私:著者は、その原因は昭和天皇の「二重外交」にあるという。 それは天皇が直接ダレスに「口頭メッセージ」で安全保障の諮問会議設置を伝えていることだね。 さらに、アメリカ側の要請で、「口頭メッセージ」でなく「文書メッセージ」を送る。 ここには外交カードを使う吉田批判も含まれていたという。 そして、1951年2月、第1次交渉がほぼ決着がついた2月10日、天皇・ダレス会談となる。 天皇の安保条約への関与は吉田首相が日米交渉の節目ごとに「内奏」に行っていることで明らかだという。 その「内奏」の記録を見ると、「あたかも外相が首相に交渉の詳細を報告しているかのようなもの」であったという。A氏:「内奏」自体が新憲法では政治介入だね。私:ところで、俺はこの本で知ったのだが、意外なことに、吉田首相がサンフランシスコ講和条約に出席することを、最後の最後まで執拗に固辞したことだね。 ついにダレスまで、吉田以外の代表では「不十分」だと督促し出す。A氏:吉田首相は、何故、そこまで頑強に抵抗したのかね。私:著者は、講和条約そのものは、吉田は高く評価していた。 しかし、問題は、同時に締結される予定の「安保条約」だ。 これは、吉田の「自尊心」を傷つけた「不平等条約」だ。A氏:それが、ワンマンと言われた吉田首相が折れて、結局、最後はサンフランシスコ講和条約に行くようになったのは何故なの?私:ダレスの督促が来た3日後に、吉田は昭和天皇の「拝謁」に行く。 この後に、吉田は態度をガラリと百八十度変える。 天皇から「御詰問」か「お叱り」があったのではと推測される。 そして、吉田の全権就任問題が解決すると、ダレス側が「日本の全権委任状に天皇の認証あることを明示すること」「全権は天皇の拝謁式で公表のこと」という要請が来る。 その根拠は、「今度の平和条約が天皇陛下によって嘉納されていることを世界に明らかにするため」であるという。A氏:アメリカ占領期には、ワンマンの吉田首相の上に、もう1人ワンマンがいたことになるね。私:著者は、その観点から戦後史を再評価すべきとしているね。 いろいろな手記も公表されてきたからね。 著者は、天皇の政治介入は戦争中から一貫しているという。 明日は、最後の話題として戦争中の政治介入問題に話しを移そう。
2008.10.30
コメント(0)
![]()
昭和天皇・マッカーサー会見私:戦後、日本人はマッカーサーを「天皇」のごとく思っていたが、実は、「天皇・マッカーサー第1回会見」の頃、マッカーサーの地位も不安定であった。 まず、マッカーサーとトルーマン大統領の関係だね。 これは、マッカーサーがワシントンの指示に従わないで勝手な行動をとることが多いということから来ているね。 トルーマンの帰国命令に対しても従わない。A氏:マッカーサーが朝鮮戦争で、原爆攻撃を言い出して、解任されるが、それ以前から両者の確執があったわけだね。私:国際的には、占領後の各国の政治体制は、連合国の協議によることになっていたが、占領地に共産主義体制を拡大しようとするソ連と米英との間には対立が始まる。 日本占領も、極東委員会ができて、占領終了後の日本の治体制に介入しようとしだす。 天皇制廃止論も出ていた。 これをマッカーサーは嫌い、極東委員会が動き出す前に既成事実を作り出すね。A氏:天皇象徴制の日本の新憲法が緊急で作られた背景だね。私:それはマッカーサーの「権限」と天皇の「権威」の一体化政策だね。 新憲法は押し付けというよりも、天皇制維持は、マッカーサーも安定した占領政策上、必要だったわけだね。A氏:その意味からすると第9条より天皇制の維持が重要だったわけか。私:新憲法は、1947年5月3日に施行された。 天皇・マッカーサー会見の第4回会見は、その3日後の5月6日に行われる。 この会見の内容も、当時、極秘であったが、1978年になって、児島氏が公表した通訳の奥村氏の「手記」で明らかになっているね。 この会見では、新憲法で「象徴天皇」になったはずの天皇が、マッカーサーと冒頭から、新憲法の9条問題に集中して会話する。 この頃は、天皇には東京裁判の行方に脅えていたころの気配は微塵もない。A氏:9条問題とは非武装のことだね。私:天皇は安全保障上、軍隊がないと、国連に頼らないといけないが、その国連があてにできない。 アメリカによる安全保障が好ましいという論を提起するが、マッカーサーは、国連も強化されるし、非武装の日本を侵略する国家はないと反論する。 実は、この会見の奥村手記は、ここで終わり、後半が廃棄されているという。 奥村は、会見後、オフレコを条件に記者クラブに会見の内容を説明したという。 ところが、何故か、翌7日のAP電で「マッカーサーは、天皇との会見で、日本防衛への広範囲な保証を与えた」と報じた。 それが「カリフォルニア州を守るように日本を守る」と天皇に言ったという噂をよぶ。 マッカーサーは、翌7日に直ちに否定の声明を発表する。 このせいか、奥村氏は、通訳をクビになる。 奥村氏のオフレコは、むしろ、日本の安全保障問題をクローズアップしたいための意図があったのではないかという。A氏:しかし、この会見では新憲法が施行されたのに「象徴天皇」は、政府や外務省の「頭越し」に明らかにマッカーサーと政治的活動をしているね。私:天皇の発言は、この第4回会見後、沖縄における米軍の占領が「25年から50年、あるいはそれ以上にわたる長期の貸与というフィクション」もとで継続を望むという、有名な「沖縄メッセージ」として、マッカーサーの政治顧問シーボルトによって覚書にまとめられている。 このメッセージが天皇自身の意思で出されたことは、「入江相政日記」で明らかであるという。A氏:しかし、マッカーサーは国連主義だったのかね。私:「日本は極東のスイスたれ」という主張だったようだ。 1950年の第10回会見以降、天皇が安全保障をめぐり、具体的な外交に動き出す。 この年の6月に来日したダレスに対し、天皇は口頭及び文書で基地提供を日本が自主的にオファする旨を伝える。 基地問題で消極的な姿勢であった吉田首相に対する不信任だね。 天皇には、無防備の場合、共産勢力による天皇制の崩壊という強い危機感があった。A氏:あいまいなマッカーサーと吉田をバイパスしてしまったんだね。 天皇とダレス側近との間の直接の外交チャンネルが生まれる。私:明日は、そのチャンネルを使った安保条約をめぐる天皇の活動に移ろう。
2008.10.29
コメント(2)
![]()
昭和天皇・マッカーサー会見私:天皇・マッカーサー第1回会見の通訳の奥村勝蔵氏の「手記」は1975年11月号の「文藝春秋」で作家児島襄氏によって公表される。 児島氏は「手記」の入手先を明らかにしていない。 この「手記」には「全責任を負う」とか天皇が「自分を処刑してもらいたい」いう発言はない。 A氏:何故、そのような「手記」が1975年のタイミングで出たのかね。私:著者は、外務省の意図的なリークではないかという。 というのは、「手記」の発表と天皇・皇后の訪米とが時期的に一致しているからだ。 そうなると「手記」自体も「脚色」、「削除」があるのではないかと疑う余地がある。 実は、昭和天皇は1946年1月29日に、英国王にあてた「親書」で「東条」にふれているという。 2002年10月に外務省が重い腰をあげ、昭和天皇・マッカーサー第1回会見記録を公開する。 しかし、内容的には、先の「文藝春秋」で作家児島襄氏によって公表されたものとほぼ同じで、「東条発言」の記録はない。A氏:60年近くなっているのに、だんだん、いろいろな記録が出てくるね。私:さらに、1945年の9月25日の「ニューヨーク・タイムズ」のクルックホーン特派員の質問に対する天皇の回答の正式文書の控えが、2006年7月に宮内省で見つかった。 この中で、「東条発言」を裏付けるような内容があったという。 これによって、著者は、奥田「手記」に「東条発言」がないのは、削除されたとみなすことになるとしている。A氏:東条は天皇の言うことに対して忠実な「忠臣」で、天皇も信頼していたのではなかったのかね。私:著者は、昭和天皇の「東条非難」は、皇室を守り抜く天皇の徹底したリアリズムの表現であったとみているわけだね。 2002年8月には、昭和天皇・マッカーサー会見の第8回から、リッジウエイが去るまで通訳をした松井明氏のメモである「松井文書」を「朝日新聞」が入手して、紙上で特集掲載され、ベールがはがれた。 「東条非難」という面からみると、「松井文書」では、マッカーサーとの最後の会見となる11回会見の内容が明らかになっているが、そこで天皇は東京裁判に対して「謝意」を表明している。A氏:2006年7月に「富田メモ」が出るね。 A級戦犯が靖国神社に合祀されて以来、昭和天皇は靖国参拝をやめる。 この理由をめぐって、議論が生まれ、メモの「捏造」、「歪曲」説も出たね。私:そこへ、翌2007年に、元侍従・卜部亮吉の日記が公刊される。 ここに「直接的にはA級戦犯合祀が御意に召さず」とあった。 この新資料で、御厨貴氏や半藤一利氏らが、長年議論されてきた天皇の靖国不参拝の理由が証明されたとしているね。A氏:昭和天皇は、サンフランシスコの講和条約を絶賛し、リッジウエイにそのメッセージを託した。 これで、敗戦直後からの天皇戦犯訴追の危機を「全ての責任を東条にしょっかぶせるがよい」という基本路線にそって、天皇制を守ったことになるね。私:敗戦で危機に瀕した世一系の天皇制を守る義務が昭和天皇にはあった。 天皇制を守るためには、天皇を戦争責任者として裁こうとする東京裁判と、後、2つ解決すべき問題があった。 1つは、憲法改正だね。 連合国のなかには天皇制廃止論が強くあった。 もう1つは、アメリカの占領終了後の日本防衛をどうするかだね。 天皇は共産主義勢力の侵略を恐れた。 共産主義は当然、天皇制廃止だからね。 明日は、その憲法改正問題に話しを移そう。
2008.10.28
コメント(0)
![]()
昭和天皇・マッカーサー会見私:文庫本だが、カバーの裏に次のようにあるように、衝撃的な研究成果が書かれているね。 「戦後レジーム形成に天皇が極めて能動的に関与した衝撃の事実を描き出し、従来の昭和天皇像、戦後史観を根底から覆す」A氏:昭和天皇がなくなってから、天皇の側近の侍従などのメモ、日誌、マッカーサーとの会見時の通訳のメモなどが多数公表されたりして、実態が明らかになってきたからね。私:ただ、この文庫本には著者が過去に逐次、雑誌などに掲載されたものを収録しているので、内容的に重複している部分があってまとめるのに苦労したよ。A氏:天皇は、新憲法では「象徴的存在」なんだから、政治に直接関与していないのではないの? 戦中だって、立憲君主制だしね。私:著者の資料では、それは逆で、戦中、戦後も積極的な政治・外交介入があるね。 マッカーサーとの会見も、6年間の間に実に11回あったんだね。 まず、1945年9月27日に天皇がマッカーサーを初めて訪問したときの内容だね。A氏:天皇は「戦争の責任はすべて私にあり、一身はどうなってもいい。 私の運命は貴下の判断にまかせる」というようなことを言ったということだね。私:実はこれは「マッカーサー回想録」に書いてあるものを新聞などが引用したものだという。 この回想録は歴史的な事実と照らし合わせると間違いが多く、それを1964年に「文藝春秋」編集部で指摘しているという。 だから、著者は、「回顧録」で、漏れている重要な天皇発言があることを仮定する。 それは「戦争は天皇の意思に反して、東条が開始した」という「東条発言」だ。A氏:どこから、そういう仮説が出てくるのかね。私:敗戦後、天皇の戦争責任を追及する海外の声は大きく、天皇が何らかのメッセージを出す必要があり、9月27日のマッカーサーとの会見の2日前に、「ニューヨーク・タイムズ」特派員のクルックホーンとの会見がセットされる。 これは、あらかじめ出された質問に対する文書回答によるものだった。 9月25日付けの「ニューヨーク・タイムズ」の一面トップに掲載されたクルックホーンの記事に「ヒロヒト、インタビューで奇襲の責任を東条におしつける」という大見出しがついていたという。 また、マッカーサーの政治顧問のジョージ・アチソンが、当日、マッカーサー本人が彼に語ったとされる「東条が私をだました」という天皇発言のメモもあるという。A氏:では、何故、「マッカーサー回顧録」には「すべての責任は私にある」となっていて「東条発言」はなかったのかね。私:クルックホーンの記事が日本国内紙に掲載されるのを内務省は抑えた。 日本国民は天皇自身が東条を非難したと考えたら、大きな騒動になるかもしれないことを危惧したという。 この頃のマッカーサーとの会見内容の報道は、当時はGHQの検閲があるから、政治的な配慮がされている。 要するに、マッカーサーは、占領政策を問題なく行うためには、天皇の利用が必要だったので、天皇の責任追及をできるだけ免れるようなキャンペーンをする。 そのためには、東条が開戦を天皇におしつけたという説明が分かりやすいね。 これがマッカーサーの東京裁判対策の「表舞台」だね。 「裏舞台」は逆で、東京裁判のキーナン検事はマッカーサーから天皇が、「責任は全部自分にあるから私だけ処罰してくれと言った」と言われ、それでは裁判は成立しないから、天皇を無罪にしたいとして、東京裁判で証人となった田中隆吉元陸軍少将に言ったという。 田中は、天皇の全責任ということに感激して、天皇無罪のために証言することを誓ったという。A氏:マッカーサーとの会見における「天皇発言」は政治的な道具として使い分けられたんだね。私:この第1回の天皇・マッカーサー会談の通訳をしていた奥村勝蔵氏の「手記」が1975年に出る。 明日はその話からいこう。
2008.10.27
コメント(2)
私:テレビ朝日の毎月末の金曜夜による「朝までテレビ」を久しぶりに見たよ。 録画しておいたものだがね。 金融危機という百年に1回という大問題だけに、それぞれの専門家の意見を集約して知りたかった。A氏:俺も見たよ。 これだけの大問題だけに、司会の田原総一郎氏も大変だったね。 それに論議が過熱してくると、専門用語がポンポン出てくるね。私:論議の進め方が、もっと大きく分けたほうがいいと思ったね。 3段階くらいに分かれるだろうね。 第1段階は、まず、実際に経済的にどういう問題が起きているのかということだ。 株価の急激な低落、円高、実体経済への影響、庶民生活への影響だね。 第2段階は、こうなった原因だね。 貪欲な金儲けに走った金融資本、それを規制しないで放置した政治、その背景にある「小さな政府」の理念などだね。 原因が明らかでないと、効果的な対策が打てない。 第3段階は、対策だね。 対策は2つある。 当座の緊急対策と根本対策だね。 当座の対策の中心は震源地であるアメリカの救済だね。A氏:日本は10年前にバブルで経験しているから、その経験が生かせるといっているが、どうも違うようだね。私:日本はバブル崩壊のときは、世界最大の債権国だね。 カネは持っていた。 しかし、アメリカは最大の債務国だ。 すぐに税金投入というわけにいかない。 当座、国債を出すにしても、外国に買ってもらわないといけない。 日本は買うのかとなる。 この話は、第3段階の話なのに、田原氏は、第1段階や第2段階で持ち出すので混乱していたね。A氏:日本の不良債権解決で金融機関に投入したカネは、ゼロ金利政策で、庶民がもらう金利のカネを投入したという解説もあったね。私:基本的な対策としては、サルコジ・フランス大統領が提唱する「秩序ある資本主義」体制が、国際協調でできるのかということだね。 タイミングよくアメリカは大統領選挙で、政権交代で大きな変化を期待できそうだ。A氏:第3段階では、いろいろ考え方が違う出席者も、大体、基本的な対策としては「秩序ある資本主義」という同じ方向を向いていたようだね。私:田原総一郎氏が、「秩序ある資本主義」というのは「社会民主主義」のことかといっていたが、出席者からは明確な答えはなかったね。 「小さな政府」から「中間的な政府」になるのかね。 それは、フリードマンなどの市場原理主義の否定なのは確かだろうがね。A氏:その点が、与党側はあいまいだね。 小泉・竹中路線を否定することになるからね。 バブル崩壊で不良債権を解決したことは功績として認めているがね。 しかし、これも見方を変えれば、庶民が受け取るべき金利を奪って銀行へ投入しただけだね。私:要するに、市場原理主義というのは、市場に任せれば、市場は神様で、合理的な解決をしてくれるという理念だね。A氏:しかし、市場原理理念の経済学の落とし穴は、それに関わる人間の心理を見落としていることだと、伊藤忠会長の丹羽氏が指摘していたね。 人間は、必ずしも、全体の経済合理性を考えて行動しない。 放任すれば、貪欲に自分のカネ儲けだけに走る。 市場は、放任すれば、神様でなく、悪魔にもなる。 派遣労働の規制緩和でグッドウイルの折口会長のような金持ちができる。私:この「朝までテレビ」でもウォール街の投資家のすさまじい貪欲さの発言があったね。 今度の恐慌は、1930年代の恐慌にこりているから、拡大しないだろうというけれど、人間は放任すれば、過激な行動に移るという本性にはこりていないようだね。
2008.10.26
コメント(0)
A氏:連日、新聞では、世界経済の崩壊を報じているね。 最初は、金融危機だけだと言っていたのが、どんどん、実体経済の危機が報じられ出したね。 市場原理主義に対する批判がほとんどで、これを擁護する論調がほとんどないね。 今朝の朝日新聞では、朝日川柳で「資本主義、君はそんなにもろいのか」というのがあったね。私:「自己責任」のアメリカでは、米議会の公聴会でFRBの前議長のグリーンスパン氏が集中砲火を浴びたと報じているね。 前議長の在任中の責任が追及され、規制緩和や自由競争を推し進めたことについて一部の誤りを認めたという。A氏:前議長は「銀行などが利益を追求すれば、結果的に株主や会社の資産が守られると思っていたが間違いだった」、「自由競争主義に欠陥があった」と認めたというね。 貪欲になった資本はやはり「檻」に入れて飼うべきだったね。私:朝日新聞の経済欄に「経済気象台」という囲み記事があるが、日本のバブル崩壊時に比べて、アメリカの打つ手は早いという。 そして、市場原理主義が跋扈するはずの国で、その哲学に反する行動が次々にとられているという。A氏:アメリカは現実的なプラグマティズムが徹底していると見ているね。 ジョンソン大統領時代に政府の肥大化が行き過ぎたときに市場原理主義が登場し、今度、その市場の破綻が見えたときには、逆に政府の介入も辞さないと行動するとみているね。私:「経済気象台」は「市場原理主義の終焉とは言いすぎだろうが、その始まり、と言っても過言でない」としてまとめているね。A氏:今朝の朝日新聞で有名は経済学者のポール・サミュエルソン氏のインタビューが載っていたが、今回の経済危機は、規制緩和と金融工学が元凶としているね。私:アイスランドが大変らしいね。 80年代以降、経済の規制緩和を積極に行い、特に資本の移動の自由化など、金融部門の規制緩和をして、経済成長をとげたね。 06年には1人あたりのGDPは世界トップクラスで、日本を上回った。 07年には国民の幸福度を示す人間開発指数で第1位。 その陰で経済は「規制緩和が産みだした巨大な怪物」と化していたという。A氏:そして、今回の金融危機で崩壊。 アイスランドは、今、世界に救済を求めているね。私:市場原理主義の崩壊で、最近、竹中平蔵氏の影が薄いね。 以前、外資に対してブルドックソースが保守的だとか、あるいは、空港に外資が入るのを日本政府が規制したのを竹中平蔵氏と木村剛氏がテレビで批判していたね。 もっと、外資を積極的に入れて、経済を活性化すべきだとしてね。 木村氏は、アメリカの株価を問題にするより、日本の株価を心配すべきだと言っていたね。 もっと規制を緩和すべきだと言うわけかね。 ブルドックソースも外資乗っ取りを防衛したので、今回の金融危機から救われたのではないのかね。 外資に積極的に依存した不動産業者なども、外資引き揚げ、外資倒産で、その被害を直接受けているね。A氏:昨日のテレビ朝日で、アメリカ市民がカードローンでどんどん消費してきたのが、大きく変わっていることを取材していたね。 アメリカ人の浪費が世界経済を引っ張ってきただけに、根本的な変化だね。 経済的な危機がどこまで広がるかは分からないが、市場原理の崩壊で、世界中の市民生活に急速に大きな変化が来ていることは確かだね。
2008.10.25
コメント(2)
![]()
ルポ“正社員”の若者たち 私:この本で明るいルポは、富山県の「14歳の挑戦」という県の事業だね。 この本のテーマとずれているがね。 俺は知的興味がわいたね。 富山県は新卒フリーターが全国で一番低い県だという。 著者は、その原因をさぐって「14歳の挑戦」という事業を知る。A氏:14歳というと中学2年生だね。私:1999年度から国立公立中学校を対象に中学2年生に職場体験を義務付けているのが「14歳の挑戦」事業だね。 これは、もとは、いじめ、不登校、少年犯罪の解決のためにスタートしたという。 しかし、職場で働く大人の姿を見たり、実際に仕事を体験したりしてみると、人間関係の重要さや、苦しさに負けない勤勉の重要性を実感するようになる。 助け合い、「おかげさま」で自分たちは生きているということを学び取るという。A:仕事というものは、大変だが、やると生きがいを感ずるものだと知るのかね。 そういう子は、生活の厳しさとともに、助け合いの重要性を身につけているので、成長してから、簡単に「生きるのが嫌になった」などと言って自殺や無差別殺人なんかしないだろうね。 無差別殺人というのは一種の自殺行為だからね。私:著者は、富山市の中心にある芝園中学校を密着取材する。 この中学はノーベル化学賞をもらった田中耕一氏が出た中学校だという。 中学生をいろいろな希望した職場に分散するので、企業側の協力も必要だね。 ある小さなラーメン屋さんが応募したが、1名しか受入れられないので断ろうかとしたら、ある中学生が「せっかく、協力してくれるのにがっかりして失礼だ。 私が行く」 と言って、応募したそうだ。A氏:「一人ぼっちの挑戦」だね。私:彼は、がんばり、最終日には自分で作ったラーメンを食べたという。 この話を聞いた地元の非協力だった企業も、あわてて参加するようになったという。 中学で進路を決めるときに、親は「お前の好きなようにしろ」というのがよくないという。 しかし、この「14歳の挑戦」で親子の対話ができるようになったという。A氏:小中の学力テストでトップの秋田県も、子どもと地域社会の大人との接触を重視しているね。 「子どもの教育の効果は、かかわる大人の質、量、多様性で決まる」というのが、民間から東京の和田中学校長になった藤原和博氏の持論だね。 これが、ニートとフリーター防止に関係あるとはね。 孤立した派遣社員が起した「秋葉原通り魔事件」は予防できたかもね。私:秋田県は自殺件数が、一時、日本一だったが、コミュニティ強化を見直して、効果をあげ、汚名を返上しているという。 後、この本で知ったのだが、政府のニートやフリーター支援のカネの行く先だね。 この支援のため04年度は495億円が投じられた。 どうもそのカネの使い方が不明朗で、効果もあやしいという。 政府のカネにすぐにたかる企業など、もう倫理が崩壊しているね。A氏:アフリカの貧困者に国際支援しても、カネはその貧困者に届かず、途中で吸い取られるのと似ているね。私:日本の企業は、「失われた10年」で、徹底的に「儲けはするが、従業員を切り捨ててきた」わけだが、この倫理が変らない限り、政府のカネはまた、どこかに消えるかもね。 やはり、基本は「働きがいのある会社」を増やすことが、豊かな日本になる基礎だろうね。 政権を狙う民主党も政策として出さないかね。
2008.10.24
コメント(0)
![]()
ルポ“正社員”の若者たち私:昨日の新聞によると、政府は追加経済対策に、就職氷河期の年長フリーターに一人50万円から100万円の助成金を出す計画だという。 打つ手が遅いね。A氏:小泉改革時代に並行して手を打つべきものだね。 小泉首相は、「格差」ということをなかなか認めようとしなかったからね。 打つ手が遅れたね。私:就職氷河期世代というのは、1970年代から80年代に生まれた世代をいう。 1993年度の大卒就職率が76.2パーセントという高い数値だが、翌1994年度から、次第に下がりだす。 2000年では55.8パーセントになる。 約10年経って、2006年でようやく、63.7、2007年で67.9パーセントと上がり出し、回復する。A氏:その中間の1998年は、自殺者年間2万人台が一挙に3万人台となる「自殺増元年」だね。 そして回復したかに見えた就職率も、今起きたアメリカ発の金融危機でまた、危なくなってきているね。私:この本は、氷河期世代で正社員となっても、コストカットで人員を減らすので、その分、正社員に仕事が押し付けられる。 自然に、長時間労働になる。A氏:コンビニなどの店長は残業代が出ないことが多いようだね。 一時、ファーストフッドチェーンの店長の残業代が出ないことが問題になったね。私:長時間労働は、個人の時間をとれない。 生活の質が低下するね。 若者は異性と付き合う時間もない。 結婚しても、家族との時間がとれない。A氏:長時間労働は、肉体的に問題になってくるね。 過労死の原因となるね。私:この本では、低賃金での労働強化で健康を害したり、「うつ」になったりして男女を取材してルポしている。 もう、こういうレポはワーキングプアとかネット難民と同じで、マスコミで皆、よく知るようになったんで、あまり新しいことはなかったね。 現代「蟹工船」ルポだね。 ただ、取材がサービス業に偏しているのが残念だね。A氏:最近は、「蟹工船」とちがって、職場で孤立しているね。私:かって、トヨタ生産方式が世界的に有名になったとき、トヨタに入社すると、一人最低8つの個人的なコミュニティに参加するという。 県人会、同期入社会、同窓会、趣味の会などだね。 当時、欧米人は、これでは個人のプライベイト時間が持てないのではと批判している人もいたが、これが一種のコミュニティを形成していたんだね。 日本の伝統的な家族や村落コミュニティが戦後崩壊し、企業内コミュニティがそれを補ってきた。 その企業内コミュニティが派遣労働の増大、正規社員の減少と、その長時間労働などで崩壊しているね。A氏:カネも貧乏だが、ココロも貧乏になったということだね。私:憂鬱な話ばかりだね。 明日は、この本のメインテーマと外れるが少し明るい話に移ろう。
2008.10.23
コメント(0)
![]()
反自殺クラブ 私:著者の石田衣良氏の本は、俺のブログで「非正規レジスタンス」の書評から知的興味をもち、、「東京DOLL」、昨日の「アキハバラ@DEEP」と続いた。 石田衣良街道だね。 この「反自殺クラブ」の単行本は、他に3つの中篇小説があるが、俺はこの「反自殺クラブ」だけ読んだ。 2004年の「オール読物」8月号に掲載されたものだね。A氏:自殺を扱ったものかね。私:この当時、ネットで知り合った若者の集団自殺が連続発生したね。 密閉した車の中で、練炭を使って一酸化ガスを発生させ、その中毒で自殺するというものだね。 一酸化炭素中毒集団自殺事件だね。 この小説は、その当時の社会現象をもとにした小説だね。A氏:この本が出た後の昨年あたりから、今年の春あたりにかけて、硫化水素による自殺が流行のように集中したね。 この自殺方法もネット情報からのようだね。 ところで、自殺は君のブログの「働きがいのある会社」にあるように、1998年は、日本人の年間の自殺者数が一挙に3万人を突破して、3万5千人になろうとした年だね。 それまでは2万人の前半くらいの人数で推移していた。 あっという間に、1年で1万人増えた。 そして、それ以降、3万人台を高止まりだね。 そのまま、10年たっても減らない。私:だから、1998年は「自殺急増元年」というわけだね。 社会的にそういう背景があるのだろうか。 この小説は、ネットで連絡しあって、集団自殺するグループをさがし、その一人になり、実行寸前で、自殺から救うという3人の若者のストーリーだね。 この3人が「反自殺クラブ」だね。 主人公は、その3人に参加する。 3人とも、親が自殺している。 親が自殺すると、その子どもも自殺するケースが多いという。 A氏:自殺は本人だけですまないだね。私:この3人は、何人かの自殺志望者を救うのだが、自殺者の数は多く、焼け石に水だという。 しかし、それでも3人は活動する。 悲劇もあるが、主人公は、なんとか頑張るというわけだね。 よい解決案がない問題だけに、著者は、結末を明るくしめようとしているが、重いね。A氏:この「一酸化炭素ガス集団自殺」が流行した後、それが減って、次は「硫化水素による自殺」が集中した。 次に出るのは何かね。 底流に、社会的に何かのきっかけで、自殺が集中する危険性は変わっていないと思うね。私:俺は最近、電車に乗ることが多いんだが、人身事故による交通機関の乱れが多いように思うね。 統計的には飛び込み自殺は、あまり多くないようだが、何かやりきれなさを感じるね。 支えあうコミュニティを失って孤独で、生きる価値を見出せない人が増えているのかね。 それとも、GPTWのような経営理念なき人をコストと思っている企業経営の犠牲かね。
2008.10.22
コメント(0)
![]()
【古本】アキハバラ@deep/石田衣良私:著者の石田衣良氏は「非正規レジスタンス」の書評から、知的興味が湧いた作家だね。 図書館の棚に「東京DOLL」とこの「アキハバラ@DEEP」があったんで、予約なしで借りられるので、借りた。 先月、「東京DOLL」は読んだ。 今日は、「アキハバラ@DEEP」を読んだ感想だね。A氏:「アキハバラ」という国際的な用語となったイメージが、例の今年6月8日の「秋葉原通り魔事件」でガラリと変わったようだね。 君のブログ(1.2)でもとりあげたね。私:俺が、特にこの本に知的興味が湧いたのも、通り魔事件があったからだね。 著者はこの事件で変わる前の秋葉原をどう捉えているか、を知りたかったね。 この小説は2002年から2004年まで、別冊文芸春秋に連載され、2004年に単行本になった長編だね。 市場では古本しかないようだが、アニメ本が出ているね。 これを読むと、俺たちが電気製品を買いに行った頃とかなり違うね。A氏:俺は、家電製品は、近くの量販店で買うようになったんで、秋葉原には、とんとご無沙汰だね。私:俺は、ソニーのウォークマン第1号を秋葉原で買ったね。 カセットテープ時代で、子どもの弁当箱くらい大きかったね。 2万円くらいしたのではないかね。 俺は、昔、ビデオはソニーのベータだったんで、テープは安い秋葉原で出張帰りにまとめて買っていたね。 しかし、量販店が近くにできてからは、足が遠くなったね。 この本を読んで、その後の若者の町になった秋葉原の新しい変化が分かったね。 興味があったのは、文庫本の「解説」で森川嘉一郎という人が「『秋葉原』と『おたく』をつなぐ絆」というタイトルで書いてる記事だね。 秋葉原が家電からパソコン、そしてアニメなどから若者の町になってきた経過をうまくまとめているね。 この「解説」の最後で、森川氏は、若者の町、秋葉原から、新しい文化が生まれることを期待しているね。 かって、ベトナム戦争突入に失望してヒッピーとなったアメリカ西海岸の青年たちが、「パーソナル・コンピュータ」という革命的な装置を作り出したように---。A氏:しかし、2年後には、期待された若者の場でなく、秋葉原は、若者の「無差別殺人」の象徴の場になってしまったね。私:日曜日の若者の歩行者天国は中止になってしまったね。 石田氏に是非、この現在のアキハバラの変化を書いてもらいたいね。
2008.10.21
コメント(0)
A氏:「反貧困ネットワーク」が19日に東京・明治公園で集会を開き、派遣労働者・フリーターら約2千名が参加したと今朝の新聞で報じているね。私:「反貧困ネットワーク」は1年前、市民団体や法律家、労働組合などが集まり設立。 今年、7月から3ヶ月余りをかけて「反貧困全国キャラバン」が全国を回り、各地で無料相談などを開き、昨日、19日の日曜日に東京の集会にゴールインしたという。A氏:総選挙を控えて、貧困問題を選挙の争点にしようという動きだね。 これから、不況になって行くときに、従来と同じ経営者や政治のやり方では、貧困や格差はさらに拡大すると考えられるね。 すでにアメリカではホームレスが増加してきているという。私:「反貧困ネットワーク」の湯浅事務局長は、今まで、貧困問題が選挙の争点にならなかった理由として、「自助努力の足らない一部の人の話として切り捨ててきたからだ」という。 例の教育に市場原理を導入しようとしている渡邊美樹氏もそう言っていたね。A氏:「自己責任」だね。 「小さい政府・市場原理主義」理念の大前提だね。私:その市場原理主義、自己責任主義のアメリカが、大儲けした金融資本家の失敗の尻拭いに政府が動き出しているね。 ヨーロッパは早期に「公的資金」の投入を政府が打ち出した。 ところが、今度の金融恐慌の元凶のアメリカがもたもたして、遅れて公的資金投入を打ち出したね。A氏:その遅れの原因に、アメリカ人の根強い「自己責任論」があるという。私:19日のテレビ朝日のサンディープロジェクトでは、今回の金融危機の座談会があったが、中川大臣、榊原氏、水野氏、そして久しぶりに、リチャード・クー氏が登場したね。 クー氏は麻生首相のブレーンと言われているね。 市場原理主義の竹中氏はお呼びでなかったようだ。A氏:俺もこの座談会は見たよ。 この座談会の途中でレギュラーコメンテイターの財部氏が、最近、アメリカに行ってきた感想ということで口をはさんだね。 それによると、アメリカ人はあまり、今回の金融危機を日本ほど、深刻に考えていない、という。 それは、今回の問題は、金融資本家の「自己責任」だからだという。 他国に迷惑をかけながら、平気でいる姿勢に怒りを覚えた、と財部氏は言う。A氏:その「自己責任論」があるので、アメリカは貧困格差の先進国なのに、政治的な問題としてあまりとりあげられなかったのだろうね。私:今週の「日経ビジネス」(10月20日号)は、「恐慌の足音」というタイトルで緊急特集を組んでいるね。 1929年の恐慌と似ている点の比較をしている。 最初、1930年代の恐慌のときのアメリカの社会現象の写真と最近の写真を並べているね。 写真は2つあって、1つは、現在のカリフォルニア州オンタリオの「テントシティー」と1930年の頃の貧困層の小屋の集団写真。 もう1つは、1930年代の若者の路上ホームレスと、現在のニューヨーク・マンハッタンの路上ホームレス。A氏:金融資本家の「自己責任」というけれど、ポールソン財務長官のように、ゴールドマン・サックス社退職時に数百億円の退職金をもらった人は、悠々たるものだが、これらの写真に登場する貧困者は、今度の「金融危機」になんの責任もないではないかね。私:「自己責任論」や「市場原理主義」は、現実的には実にインチキな論理であることを今度の金融危機は世界的に示したね。 大統領候補のオバマがその論理を攻撃し出したようだね。 マケインはアメリカンヒーローの否定だと言っているがね。
2008.10.20
コメント(0)
![]()
ベルリン・オリンピック1936 私:ドイツと国際スポーツ社会との橋渡し役だった、半分ユダヤ人のドイツIOC会長のレーヴァルトはその座を降ろされた。 ベルリン・オリンピックで好成績をあげたので、ドイツは国中、スポーツ熱に浮かされた。 IOCはナチ体制がオリンピックをヒトラーナチの宣伝のために使ったことに嫌悪感を抱くどころか、オリンピック理念の偉大な守り手だと言い続けた。A氏:ベルリン・オリンピックの次の1940年のオリンピックを日本は辞退し、慌てて選んだヘルシンキ・オリンピックも戦争で中止となるね。私:勢力を広げだしたドイツは、ドイツの考えにそったオリンピックを提唱し、1944年に予定されていたロンドン大会をベルリンかローマにすべきだと言い出した。 並行して深刻化する第2次世界大戦は、次第にドイツに不利になる。A氏:1945年4月25日、ソ連軍は遂にベルリン・オリンピックスタジアムに突入するね。私:ナチ・ドイツのオリンピック指導者は、敗戦後も西ドイツのオリンピック組織で重要な役割を持つようになった。 半分ユダヤ人のベルリン・オリンピックのドイツIOC会長のレーヴァルトは辞めさせられてからは、静かな引退生活をしていた。 そして再び活動するには年をとりすぎていた。 彼は1947年4月、87歳でなくなった。A氏:もう一人のディームはどうなったの?私:彼はナチとの関係を否定し、ナチ党の党員でないことを明言した。 1947年ケルンのドイツ体育大学の学長になり、1962年に死ぬまで、学長の職にあった。A氏:ドイツが敗戦後、西ドイツだけだが、はじめてオリンピックに参加するのは1952年のヘルシンキ大会ときからだね。私:そのとき、ディームは選手団の団長として参加する。 1956年のメルボルン大会にも参加する。 1957年、IOCは最高の栄誉であるオリンピック賞をディームに与える。 しかし、著者は、このベルリン・オリンピックの中心人物であった、レーヴァルトもディームもその役割について反省したようには見えないという。 逆に、ヒトラーには影響を受けていないというようなことを言っていたという。A氏:あいまいな、日本の戦争責任と似ているね。私:1951年8月22日、ベルリン・オリンピックの百メートル競走の英雄だったジェシー・オーエンスがヨーロッパ巡業中に、ベルリンに立ち寄った。 スタジアムにヘリコプターで降り、7万5千人の観衆の歓呼の中を、グランドを一周した。 そして「全能の神のもとに、われわれと一緒に自由と民主主義のために頑張ろう」と短いスピーチをする。 オーエンスが1980年に死ぬと西ベルリン当局はスタジアムに通ずる通りを「ジェシー・オーエンス通り」ト名付けたという。A氏:人種差別の国、アメリカでは、ベルリンの英雄オーエンスは幸福でなかったのだね。 マラソンで優勝した韓国の孫選手も同様だね。 「政治臭」はオリンピックの選手までからむ。私:オーエンスが、このスタジアムに来たとき、一人の少年がサインを求めに来た。 そのとき、わかったことは、その少年の父親は、ベルリン・オリンピックの走り幅跳びで最後までオーエンスと金メダルを争ったドイツの名選手ルッツ・ロングだということだ。 ロングは第2次大戦中にシシリー島で戦死したという。A氏:感動的な出来事だね。私:4年ごとに、各国を回る近代オリンピックの歴史は、ある意味で近代世界政治の裏面史だね。 アメリカの1980年のモスクワ・オリンピックボイコット、そのしっぺ返しにソ連など東側の1984年のアメリカのロス・オリンピックボイコット。 オリンピックの「政治臭」のハイライトだね。 もっとも、偶然、重なる4年後とのアメリカ大統領選は、まさに政治の場面だがね。 北京オリンピックの後、アメリカ発の世界恐慌が拡大し出す。 ベルリン・オリンピックの後、第2次大戦で世界が巻き込まれたように。 そして、アメリカはルーズベルト大統領だった。 そのアメリカは、今度、初の黒人大統領を選ぶだろうか。
2008.10.19
コメント(0)
![]()
”鬼才”リーフェンシュタールによる1936年ベルリンオリンピック大会ドキュメント第1部!第1部となる本作では陸上競技を中心に、勝利の喜びと敗北の悔しさを克明に記録!■民族の祭典■ベルリン・オリンピック1936 私:ベルリン・オリンピックが画期的な成功を収めたとして記憶されているなら、それはその映画「オリンピア」のおかげであろうと著者は言う。A氏:監督は女性のレニ・リーフェンシュタールだね。 1932年のアメリカでのロスアンゼルス大会の映画は、近くにハリウッドがありながら、大会の映画は作られていないんだね。私:最初、彼女は映画女優としてスタートするが、次第に映画監督もするようになる。 ヒトラーは彼女のファンで、ナチ党大会の第1回ドキュメンタリー映画の監督に彼女を依頼する。 これは失敗作だったというが、ヒトラーは翌年の党大会の映画監督も依頼する。 これは成功作となり、これにより、ヒトラーからベルリン・オリンピックの映画作成の要請が来る。A氏:この映画を一部見たが、苦痛に歪む選手の顔、力を込めた際に盛り上がる筋肉などの近接撮影が多いね。私:これはエキスパートの写真家が600ミリ望遠レンズ付きの巨大カメラを使い、スタジアムの半分向こうから選手の汗まみれの顔を捉えることができたという。 しかし、当時の撮影、現像技術の制約で、いくつかの選手の競技シーンは、競技が終わってから明るいときに取り直したものもあるという。A氏:棒高跳では12時間の死闘を、アメリカのアール・メドーズ、西田修平、大江季雄の3人でくりひろげて、夜10時半になってしまうね。 メドーズが4.35メートルをクレアするが、西田、大江はクレアできず、銀と銅とのメダルを半分に切断して分け合ったということがあったね。私:映画「オリンピア」の最初の公開は、オリンピックの2年後に、ヒトラーの49回目の誕生日である1938年4月20日に行われ、好評であった。 そしてドイツの映画館で上映されたが、毎夜満員であったという。 映画の発表が遅れたのは、その膨大な記録フィルムの編集に時間がかかったことだね。 映画は第1部「民族の祭典」、第2部「美の祭典」の2本だ。 この映画は、政治的、イデオロギー的メッセージを持たない、純粋な芸術映画だと、リーフェンシュタールは主張しているが、実際には評価しにくいという。 というのは、いろいろな版があるからだという。 オリジナル版は戦後、アメリカに没収されている。 ドイツ語版を著者が見ているが、「中立」的だし、オーエンスなど黒人選手も描かれているという。 しかし、いくつかの問題点も指摘されるようだ。 ヒトラーが実に頻繁に登場するが、英雄としてでなく、ごく普通のスポーツ愛好家、自国のチームが勝つと元気づき、負けると悲しがる、腹の出たドイツ人として描かれているという。A氏:ヒトラーはスポーツをしないから、運動不足で、今で言うメタボだね。私:ところが「オリンピア」の英語版では、ヒトラーは時々しか現われず、唯一のクローズアップショットは開会式で開会の辞を述べるときだけだという。A氏:外国での評価はどうだったんだね。私:パリではナチの鉤十字やヒトラーが写っている場面をいくつか削除したせいか、批判はなかったようだね。 問題はアメリカだね。 ユダヤ人の反対があった。 1938年11月にリーフェンシュタールは個人的な旅行という名目で、アメリカに渡る。 悪いことに、その頃、「ミュンヘン協定」の問題で、アメリカは政治的にドイツに反感を持つようになっていた。 リーフェンシュタールのアメリカ滞在中に、「水晶の夜」のユダヤ人迫害事件が起きる。 しかし、1939年6月、彼女はIOCから「オリンピック賞状」をもらっているがね。 こうして、この映画はアメリカでは上映されず、イギリスでも戦後まで上映されなかった。 映画まで「政治臭い」ね。 明日は、ベルリン・オリンピックのその後を追ってみよう。 その「政治臭い」足あとを--。
2008.10.18
コメント(0)
![]()
ベルリン・オリンピック1936私:近代オリンピック創始者のクーベルタンは、普通のスポーツ選手権とオリンピックの違いは、近代オリンピックは荘厳な儀式が行われることだとした。 その点で、ベルリン・オリンピックは非の打ち所がなかったという。A氏:1936年8月1日に開会しているね。私:10万人を超すベルリンの学童が市内の校庭で行進しながら集合し、団体体操、障害物競走、団体バトン・トワーリングをした。 それは、きわめて組織化され軍事化された児童の姿だったという。A氏:独裁国家の一種のマスゲームに近いね。私:8月1日の正式な開会式は午後4時から予定通りにヒトラーが出席して行われた。 ヒトラーの姿を見た観衆は耳を聾するような歓声をあげたという。 世界各国の入場式があって、次にヒトラーの短い開会宣言があった。 それを合図のように、すごい勢いで式典と儀式が開始された。 ヒトラー・ユーゲントの団員が鳥かごを開けて2万羽の鳩を放した。A氏:しかし、ヒトラーの警備も厳しかったようだね。 2週間にわたる大会開催中、警備上の最大の心配は誰かがヒトラーを襲うかもしれないということだった。 40人の特別警備隊が編成され、必要なときには150人の刑事警察官を追加できるようになっていたという。 スタジアムの貴賓席は防弾ガラスで保護されていた。 しかし、この防弾ガラスの高さは胸までで、ヒトラーが喝采しようとして立ち上がるたびに危険な状態だったという。 水泳スタジアムでは、アメリカの老女がヒトラーが素敵だというので、彼のサインを求めに彼に近づき頬にキスしたという。 ヒトラーは後で護衛の数人を解任した。A氏:この警戒のひどさの反動で、後の1972年のドイツのミュンヘン・オリンピックのとき、ベルリン・オリンピックのときのイメージを全面的否定した運営となる。 このため、選手村も警備をきびしくしなかったね。 それが選手村をテロリストが簡単に襲う原因となったようだね。私:競技初日の8月2日には、オリンピック史上最大の11万人の観衆が集まった。 最初の競技は男子百メートル競争の予選で、アメリカのジェシー・オーエンスが出た。 彼はすでに世界的に有名な選手で、次々と世界新記録を塗り替え、「世界最速の男」として皆に知られていた。 ヒトラーは初日の優勝者を自分の貴賓席に招き、一人一人と握手して自ら祝った。 しかし、その後、オーエンスも含め、アメリカの黒人選手とは握手をしなかった。 ヒトラーは、ユダヤ人に我慢できなかったと同様に、黒人にも我慢できず、肉体を接触することを嫌った。A氏:しかし、オーエンスはヒトラーの悪口を言っていなかったそうだね。私:著者は、それはオーエンスが、アメリカでの黒人差別から、アメリカを嫌い、ヒトラーをむしろ尊敬していたからだという。 ところで、ベルリン・オリンピックのマスコミ活動で革新的なことはラジオ放送だね。 テレビ放送も実験されていた。A氏:ラジオ放送と言えば、例の「前畑頑張れ」という放送だね。私:この本では前畑のことは出てこないが、男子日本は水泳で圧勝するね。 そして、オリンピックのハイライトの男子マラソンは、日本の孫基禎選手が優勝するが、孫は韓国人で、優勝の後、反日的な発言で、その後、日本政府は、陸上競技に出ることを禁じた。 戦後、韓国のスポーツ界で活躍し、88年のソウル・オリンピックでは聖火リレーの最終ランナーとなるね。A氏:3位も韓国人の南昇竜だね。私:8月16日に、最後の競技が終わると、各国のメダル獲得数が明らかになった。 ドイツが33個の金メダルなどをとり1位、アメリカ2位、イタリア3位となった。 大会の閉会式は、平和と国際親善を讃えるものというよりも、ナチの党大会にそっくりに見えたという。 それは、この3年後、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第2次大戦ヘと拡大するのを暗示しているようだね。 明日は、ベルリン・オリンピックの今でも残る名映画といわれる「オリンピア」の話だ。
2008.10.17
コメント(0)
![]()
ベルリン・オリンピック1936私:実は、一度、IOCは1912年に1916年のオリンピックはベルリンで行うことを決定している。 当時、ドイツは実質的に皇帝政治体制だね。 この準備にとりかかったドイツの役員のうち、カール・ディーム(ドイツ帝国オリンピック委員会事務総長)と、政府の高官で政界にコネを持ち、後に36年のベルリン・オリンピックの委員長になったテーオドール・レーヴァルトの2人がベルリン・オリンピックで重要な役割を果たすことになる。 ディームは聖火リレーのアイデアを出した人だね。 しかし、レーヴァルトは半分ユダヤ人だった。A氏:ナチ政権下では問題だね。私:しかし、逆に、彼を重用したことで、反ユダヤ主義体制は、表面上は公明正大だという宣伝に使えることになった。 ところで、1916年のベルリン・オリンピックは、1914年に起きた第1次世界大戦で流れる。 特に、ドイツが毒ガスを使ったということで、反対が拡大し、IOCは1915年にオリンピックを中止することになる。A氏:近代オリンピックは、まさに「政治臭まみれ」だね。 だから、戦争後の1920年のアントワープ・オリンピックのときは、ドイツなどの戦敗国は参加できず、革命直後のソ連も不参加なのも「政治臭まみれ」だね。 1924年のパリ大会でもドイツは参加できなかったね。私:ドイツが参加できたのは、1928年のアムステルダム大会のときからだね。 カール・ディームはアムステルダムの大会参加をドイツ国民に呼びかける。 そして、アメリカについでメダル獲得数が2位となる。 当時、アメリカのオリンピック委員会の会長は、マッカーサー将軍であった。 マッカーサーはオリンピックを「武器なき戦争」と考えていたという。 しかし、獲得メダル数は1位とはいえ、華々しい戦果は得られなかった。 しかし、ドイツは、その活躍が認められ、さらに、テーオドール・レーヴァルトの招致活動が成功して、1931年にIOCが、ベルリンでのオリンピック開催を認めるまでこぎつけることができた。A氏:1932年のオリンピックはロスアンゼルスだね。私:この大会は、経済恐慌にかかわらず、今までにない広大な競技施設や「オリンピック村」の建設など斬新なものを生み出した。 ディームとレーヴァルトはこれらを見て、感心するとともに、ベルリンはもっとそれ以上のものにしようと決心する。 しかし、最大の問題は、その年に登場したナチ政権だった。A氏:ナチは民族差別がひどいから、理念として民族の祭典の意味など認めていなかっただろうね。 特に1932年のロスのオリンピックにはアメリカの黒人選手が大活躍したので、ナチは黒人と競うのを嫌っただろうね。私:それをディームとレーヴァルトはいろいろなテクニックを使って、ヒトラーに協力を頼むようにする。 次第に、ヒトラーは、それがナチの宣伝に使えるという点に価値を見出し、積極的になるんだね。A氏:しかし、一方で1933年、政権をとったヒトラーは反ユダヤ人運動を開始するね。私:これがアメリカでのベルリン・オリンピックのボイコット騒動まで拡大する。 この本によると、そのボイコット運動はすごいね。 しかし、ユダヤ人の差別を問題にしているアメリカが、黒人を差別しているではないかという議論もあったようだね。A氏:民族問題は北京オリンピックのチベット騒動と似ているね。私:だから、ドイツのギリシャからの聖火リレーも途中でいろいろな国を通過するのでいろいろトラブルもあった。 しかし、幸いなことに、ベルリン・オリンピックの前にドイツで開かれた冬季オリンピックでは、反ユダヤの表向きの姿は消えたし、ナチは報道統制をして一応成功した。 これが、夏のオリンピックのボイコットは最小限に抑えることができる一因となったようだね。 ヒトラーは冬季オリンピックには、開会式と閉会式に出席しているね。 夏のオリンピックには、ヒトラーは陸上競技場の設計まで口を出し、強力にオリンピックを推進して行くね。 明日は、そのオリンピックの話に移ろう。
2008.10.16
コメント(0)
![]()
ベルリン・オリンピック1936私:北京オリンピックは一応、トラブルなく、終わったね。 しかし、終わる頃から、去年から始まっていた金融恐慌が急速に深まったね。 この翻訳本は、北京オリンピック直前の刊行なんだが、図書館で借りたんで、待ちが多く、北京オリンピックが終わってから読むことになった。 原書の題名は 「NAZI GAMES THE OLYMPICS OF 1936」とあるので、直訳すると「ナチの競技 1936年オリンピック」とうことになるかね。 著者は、ドイツ史専門のアメリカの大学教授だね。 原書は昨年刊行されている。 A氏:1936年のナチのベルリン・オリンピックについては、すでに多くの本が出ていると思うが、ここで、また、出版され、翻訳されるというのは、一党独裁下の北京オリンピックがナチの独裁政権下でのベルリン・オリンピックを連想させるからかね。私:その通りだね。 著者は、北京オリンピック決定ともに、いろいろ論議を呼んだので、それに対して出版社の依頼で、この本をまとめたようだね。A氏:今月の文藝春秋(11月号)のトップの短編エッセイのはじめに毎回登場する阿川弘之氏の「北京五輪私感」では、氏はこのエッセイの冒頭で次のような趣旨を書いているね。 「中国がその威信を内外に誇示し、昔年の屈辱(阿片戦争、日清戦争以降度々経験済)から立ち直るための極めて政治的な祭典、そう感じていたので見たいという気が起こらなかった」私:そういう見方でヒトラーのオリンピックを見直すのも知的興味があるね。A氏:阿川氏は、この短いエッセイの最後で、イギリスのオリンピック担当大臣が「ロンドン五輪を国威発揚型の大会にはしない」と産経が報じているのを評価しているね。 そして、「ロンドン大会は北京五輪と正反対の政治臭のない、地味で落ち着いた『昔ながらの』オリンピックになるだろうと心が晴れた」とあるね。私:しかし、この本を読むとオリンピックの歴史は政治臭まみれだね。 『昔ながらの』オリンピックはほとんどないね。 この本は、500頁を越える大著だが、単に、近代オリンピックだけでなく、その裏にあった政治情勢、関係者の駆け引き、1900年代から、2000年代にかけての1世紀にわたる歴史的な変化、スポーツの変化など、多様な内容であきないね。 まず、トップは聖リレーから始まるね。A氏:ベルリン・オリンピックまでは、聖火リレーはなかったそうだね。私:実は、ナチの思想には古代ギリシャ人はドイツ系だというものがあったようで、ヒトラー自身、古代ギリシャの熱烈な崇拝者で、北からギリシャに移住したドーリス族こそ、ドイツ人の血を引いていると言い張ったという。A氏:そこから、ギリシャから聖火リレーをするというのは自然に生まれる発想だね。 その後、オリンピックで行われる聖火リレーとは趣旨が違うわけだね。 漢民族がギリシャ民族とは血縁関係はないだろうからね。 形だけ、引き継がれたのだね。私:ベルリン・オリンピックの次の1940年オリンピックの予定地は東京だった。 しかし、日本政府は軍の圧力で、1938年7月12日に1940年にオリンピック招致地になることを放棄する。 もう、政治臭いね。A氏:1938年というと例の「国民政府を対手とせず」の「近衛声明」が出た年だね。 5月には広田弘毅が外相を辞めさせられているね。私:当時の、オリンピック委員会は慌てて、開催地をヘルシンキに変更したが、1939年9月1日にドイツのポーランド侵攻で、第2次大戦へと走り出し、開催されなかったね。A氏:しかし、国際オリンピック委員会(IOC)はヒトラーのドイツのベルリンでオリンピックをやることに最初から問題を感じていなかったのかね。私:ベルリンでのオリンピック開催は1931年にIOCで決まっていた。 ナチが権力を握るのは1933年だね。 ナチは、最初、オリンピック運動の理念を軽蔑していた。 それがどう変わるのか、それは明日の話題にしよう。
2008.10.15
コメント(0)
A氏:今日の夕刊で、今年度のノーベル経済学賞をアメリカのポール・クルーグマン氏に贈ると昨日、発表があったと報じているね。 昨日は朝刊が休みなんで、1日遅れのニュースだね。私:氏は数年前に「嘘つき大統領のデタラメ経済」という本を出しているね。 これはニューヨークタイムズのコラムのものを集めて本にしたものだね。 その本で、ブッシュ政権はどんな屁理屈を弄して、金持ち減税、関連企業優遇、イラク侵攻を可能にし、9.11テロ事件はどのようにブッシュ政権に利用されたのか、ブッシュ政権の真実を暴露しているという。A氏:この「嘘つき大統領のデタラメ経済」から1年後に、「嘘つき大統領のアブない最終目標」を出しているね。 政治的な発言が多いね。 それだけに、ブッシュ政権や共和党にはこの受賞は強烈なパンチだね。 来月の大統領選にも影響があるかもしれないね。私:氏は、やはりイラクで大量破壊兵器は発見されなかったと言っているね。 しかも、国内のテロ対策はいまだ不十分で、アフガンではタリバンが息を吹きかえし、イラク戦争も泥沼と化している。 結局、テロとの戦いという大義は、嘘っぱち以外の何物でもなかった。 一方、歴史的に類を見ない戦時下の減税、しかも巨額の財政赤字を抱えての減税は着々と実施されており、その根拠と実施方法は虚偽の統計数字とデタラメなレトリックにカモフラージュされているという。 そしてスキャンダルまみれのブッシュ政権は脅迫や情報操作を用いて批判者を追い落とすことに必死だ。 しかし、それはこの国が長年培ってきた民主主義を脅かす暴挙に他ならないと経済学的分析と類稀な洞察で鋭く指摘しているという。A氏:新聞では、レーガン政権以降の米共和党政権が、高所得者への減税を拡大する一方で福祉を削減し、格差を広げたと指摘しているという。 今度の金融崩壊は、そのレーガノミックスの崩壊だね。 イギリスはサッチャーリズムの金融崩壊で、不況に突入だね。私:小泉改革は市場原理主義のレーガン政策を真似たので、日本でも格差は拡大したね。 氏は、すでに今の世界中の金融恐慌を予言していたね。A氏:氏は「自分が生きている間に世界恐慌に類似するような事態に直面するとは思っていなかった」と話しているという。私:氏は今年、55歳だから、後、30年くらいは大丈夫と思っていたのかね。 急速な金融危機だね。 バブルは崩壊も早いね。 氏は、国家の崩壊は回避できるが、不況は長期化するだろうという。 アメリカは、大統領選まで、後、1ヶ月ない。 どういう手が打たれるだろうかね。 麻生政権も選挙をするのだろうか。 民主党も戦略を変えるのかね。 急速な変化のために、対応が難しくなっているようだね。
2008.10.14
コメント(0)
私:今日も、すばらしい秋晴れだね。 昨日、日曜日は、孫の運動会なんで、行ってきたよ。A氏:土曜ではなかったの?私:金曜夜に雨が降って、大丈夫かなと思っていたら、早朝に幼稚園は、決断し、1日延ばしたね。 まぁ、土曜でもできることはできただろうが、グランドが朝はまだ乾いていないかもね。 いずれにせよ、日曜は天気予報通りの晴天となった。 秋日和で、涼しい風が吹いていたね。 絶好の運動会日和だね。A氏:どこかのグランドを借りてやったの?私:いや、幼稚園のグランドだね。 父兄もグランドの隅にシートを敷いて観戦するので、ややせまい感じもする。 しかし、幼稚園側としては、幼稚園児がふだん遊んでいるグランドでゲームや競争をやったほうが、ストレスを感じないから、無理に他の大きなグランドを借りることをしていないという。 親子競争ゲームあり、親同士の綱引きありで、面白かったが、やはり、ハイライトはカケッコだね。 オリンピックのマラソンみたいなものだね。A氏:そういえば、皇太子の子どもの愛子ちゃんも、昨日は運動会だったね。 楽しそうにカケッコをして、トップで笑顔でゴールインした姿をテレビニュースで流していたね。私:この運動会も、最後のハイライトは、年長の園児のリレー競争だね。 俺の孫は年長組だから、これが幼稚園最後の運動会だ。 年長は2クラスあるので、クラス対抗リレーとなったね。 人数の関係か、2組に分かれて、2レースとなった。 だから、10人くらいのリレーだね。 俺の孫は、後の組で最後から2番目を走る。 最初の組合せのリレーでは、俺の孫のクラスが、負けた。 俺の孫の組のレースでは、孫の前の走者はすでに勝って走っていて、孫はそのバトンを受けた。 孫は必死に走り、リードを保ち、最終走者にきれいにバトンタッチした。 最終走者は、必死に走り、わずかなリードを保ってゴールした。 勝った。A氏:喜んだだろうね。私:孫は、両手を挙げ、飛び上がって喜んでいたね。 友だちと抱き合ってもいたね。 勝ってよかったね。 負けたほうの子はショックかもしれないね。 先生も気を聞かして頑張ったチームにも拍手をと言っていたね。 2時頃終わり、夕飯は、親子を含めて皆で食べようということになり、一旦、それぞれ家に帰った。 それまで時間があったので、孫は俺の家によって、Wiiのマリオカーとのゲームで競争をしたが、これは、俺はかなわないね。 数ゲームやったが、ほとんど俺の負けだよ。 この子たちには、これから、グローバル化した競争社会が待っているね。 今の暴走した資本主義が、反省期に入り、改善されていることを望みたいね。
2008.10.13
コメント(0)
私:こところ、マスコミは、株価の暴落で大騒ぎだね。 10月13日号の「日経ビジネス」ではフィナンシャルタイムスの「米国流自由主義の落日」という記事を報じているね。 こここでクリントン大統領時代に商務長官だったロスコフ氏は 「これは25年に及ぶレーガン・サッチャー主義の終焉だ。 『すべてを市場に委ねよう。小さい政府こそ望ましい』とする考え方に終止符を打たれることになる」 と語っているという。 A氏:アメリカは自由に競争して、敗者は自己責任と言いながら、公的資金(税金)をその尻拭いに使うことになったね。 理念の崩壊でもあるね私:同じ「日経ビジネス」でその公的資金投入で政治的に中心になって活動している財務長官ポールソンの素顔を紹介している。 これもフィナンシャルタイムスの記事だね。 公的資金投入では、納税者の怒りを買っている。 しかし、最大の障害は共和党の右派の反発だ。 それも理念的なもので「大企業優先の共産主義」と非難する声もあるという。A氏:ポールソン財務長官は、アメリカのゴールドマン・サックスのCEOだったのだろう?私:ゴールドマン退職時に約7億ドルの退職金を手にしているという。 彼自身が、自由主義の勝者を謳歌して来ただけに、今回の彼のそれに反する行動は、成功すれば最強の財務長官として名を残すだろうが、自由市場と自由化の信奉者にとって、複雑な感慨を抱く遺産となるかもしれないという。A氏:そういえば、市場に任せるという関係で、今朝の朝日新聞の教育欄で、「どうする学校選択制」という特集が載っているね。 学校選択も規制緩和理念の一貫だね。 教育への市場原理導入の一つだね。 東京都江東区は02年から導入したが、小学校に限り、徒歩通学圏内に学校選択を規制するように戻すという。私:前橋市は04年に導入したが、10年度に小中両方で選択制を廃止するという。 自由にしたために、格差拡大も自由になったというアメリカで先行して発生していた問題があるようだね。 教育に市場原理主義を導入するのは、国力の問題にもつながるね。私:郵政の民営化も手直しが検討されているね。A氏:アメリカの問題は金融問題で実体経済はそれほど悪くないという経済アナリストもいたが、米大手自動車ビッグスリーも不振で世界を巻き込んだ再編成が朝刊の一面に載っているね。私:三浦和義の自殺どころではないね。 「レーガン・サッチャー主義」を真似して、「民にできることは民へ」と言って「小さな政府」を目指した小泉改革の負の遺産が、アメリカの嵐とともに、ジリジリとわれわれの身の回りに押し寄せて来ているね。
2008.10.12
コメント(0)
![]()
広田弘毅 私:1937年12月2日、日本軍が南京に迫ろうとしているとき、蒋介石は日本の和平条件を基礎として交渉に入る用意があるとトラウトマン大使に伝えてきた。 これに対して、陸軍が南京に成功裡に進行しているので広田は、蒋介石に提示した和平条件を厳しくつり上げ出す。A氏:南京陥落の前に世論はわきあがるね。私:1937年12月13日、南京は陥落する。 東京では市民40万人もの行進がはじまる。 戦勝気分に酔いしれた国民の多くは、これで蒋介石との戦いは終わったと錯覚したろうね。A氏:しかし、これは、日中戦争の泥沼化、太平洋戦争突入、そして大量の死者、原爆投下という敗戦への道とつながる序曲だったんだね。私:南京陥落に気を強くして、広田は蒋介石との交渉条件を厳しくする。 蒋介石の回答が遅れているうちに、世論の高揚を背景に、1937年12月24日に、近衛内閣は、南京政府との交渉に期待せず、華北に傀儡政権を成立させる方向に転換し出す。 その頃、南京事件の情報が外務省に入った。 これを何故か、広田外相は閣議に提起しなかった。 これが後に東京裁判で問題なる。 広田の死刑判決の一因とも言われているね。A氏:蒋介石の回答が遅れているうちに、ついに、日本側はトラウトマン工作を打ち切る。私:それは1938年の1月16日で、同時に、「今後、国民政府を対手とせず」という有名な「近衛声明」となる。 ここで注意すべきは、「『相手』とせず」は「対手」となっていることだね。 これはあいまいな官僚用語だったが、後で内閣は、「相手」もよりも否定の意味が強いと説明を付け加える。A氏:このような強気は、南京陥落のせいかね。私:この本ではそういう説明だね。 しかし、「満州事変から日中戦争へ」1、2では、違った見方をしているね。 あまり、トラウトマン工作に日本がこだわると、海外から日本は弱腰だと思われ、対外為替相場と公債消化率に悪影響を及ぼすという見方だね。 戦争継続に欠かせない海外からの経済的補給の安定が必要だったという。 養老氏・竹村氏のいう、歴史を下部構造から上部構造を見る見方だね。 スパイ・ゾルゲも日中戦争を通じて、日本には近代的な戦力が強化されてきたことに気づいていたという。 今の北朝鮮のように、国民は苦しんでも軍備には莫大なカネをかけていたんだね。A氏:1938年6月には駐日中国大使館員が全て引き揚げ、日中間は断絶する。 近衛は「対手とせず」の脅かしが失敗だったことを知る。 そして戦争も泥沼化し出す。私:1938年5月に近衛に勇退を迫られ、広田はあっさりと外相を辞任する。 後任の外相となる宇垣一成は、広田を「無為無策」と酷評する。 後に政治学者猪木政道はその著書で 「ドイツに条件を示して和平のあっせんを頼みながら、南京占領後、真っ先に条件のつりあげをするなど、無定見、無責任である。 城山三郎の『落日燃ゆ』は広田のよい点が強調されているが、1936年のはじめころから、広田は決断力を失っていたのではないかと思う」 と述べているという。 これは後の話だが、1986年(昭和61年)に昭和天皇は「猪木の書いたものは非常に正確である。特に近衛と広田についてはそうだ」と宮内庁を介して当時の中曽根首相に伝えていたという。A氏:東京裁判での広田に死刑判決は、11人の判事で6対5の僅差だった。 他の死刑判決は7対4であるのと比較すると、すれすれだね。私:南京事件を知りながら、閣議に出さなかったというのが、特に判事の心証を害したのではないかという。 ところで、話は現時点にもどるが、麻生首相が決まったとき、中曽根さんが「首相になることは、後世の歴史にさらされることになることだ」と言っていたが、首相広田弘毅もそうだし、外相としても「後世の歴史にさらされた」ことになったね。A氏:東京裁判があったからね。私:昨日は、株価が8千円台に暴落。 麻生さんも、アメリカの金融危機で多事多難のときの首相だが、どうなるかね。 この本を読みながら、広田弘毅を連想したね。
2008.10.11
コメント(2)
![]()
広田弘毅 私:広田を首相にと重臣たちが推したのは、その頃、ソ連との関係に不安があったので、広田なら安心だという読みがあったようだね。 しかし、広田内閣は1936年11月、ドイツとの間で日独防共協定を締結する。 大義名分は、共産インターナショナルの破壊活動に対する防衛で協力するというものであった。 広田は、この防共協定に中国を参加させ、日中関係を改善しようとしたと考えられるという。 また、広田は軍事同盟にすると英米を敵に回すことになるので、軍事同盟にならないように強調したという。A氏:しかし、結果的には後の日独伊軍事同盟への道を開くことになるね。 広田はそのとき、閣外にあり反対したがね。私:蒋介石は、日独防共協定に不参加を表明し、ソ連は当然反発する。A氏:1ヵ月後に、張学良の「西安事件」で、蒋介石が中国共産党との内戦を停止して、抗日に転ずる。 広田が描いた防共を名目とする「日中提携」は完全に期待できなくなるね。私:日本国内は軍事費の増税で、農村の疲弊は進む。 1936年11月末には広田暗殺予備事件が起こるなど、広田内閣は内外で行き詰まってきた。 1937年1月の国会で、政友会の浜田国松議員と寺内寿一陸相との間に激論があり、「腹切り問答」に発展し、寺内が怒り、国会の解散を広田に要求する。 広田は抵抗して解散を選択せず、1月23日、内閣総辞職をする。A氏:在職10ヶ月半だね。私:紆余曲折があって、1937年6月、国民待望の近衛内閣が誕生。 近衛文麿は45歳。 近衛内閣の外相に広田の名前があがるが、広田は最初断る。 しかし、強く説得されて、引き受ける。 これが、この人の運命の岐路になったね。A氏:近衛内閣の誕生の翌月の7月7日、盧溝橋事件が起きる。 偶発的なトラブルだったので、現地では7月11日に停戦協定が成立した。 ところが、日本陸軍中央は、中国への派兵を主張し、近衛と広田は、これを簡単に認めてしまう。 停戦協定が成立する数時間前であったという。 陸相が近衛をひきずり、そこに広田も引きずられた。A氏:一方で、近衛は陸軍に対して、後手にならないように、華北への派兵を声明して、新聞、財界人に協力を要請するね。 俗に「先手論」というものだね。 近衛流ポピュリズムだね。私:7月20日の閣議で内地3個師団の派兵が決まる。 当初は反対だった広田も最後は賛成にまわる。 この広田の甘い態度に外務省の部下2人は、広田に辞表を叩きつける。 一方、戦線は華北だけでなく南に拡大して行く。A氏:8月15日に近衛内閣は、南京政府の反省を促すため、「断固たる措置をとる」という声明を出す。 8月17日に近衛内閣は「不拡大方針」を放棄することを決定するね。 11月12日に日本軍は上海を占領し、南京に向かい出す。私:この日本の動きに対して、国際社会は日本への批判を強める。 外相である広田は、なんとか日中交渉を行うように、個人的に親しかったドイツ駐日大使ディルクセンに日中の仲介を依頼する。 この広田の意向がトラウトマン駐華ドイツ大使に伝わり、日中の和平工作が始まる。A氏:これが有名な「トラウトマン工作」だね。私:明日はその話題から始めよう。
2008.10.10
コメント(2)
![]()
広田弘毅 私:広田の描く「日中提携」とは、日本陸軍とは一線を画しながら、汪兆銘らの親日派と連携し、政治と経済の両面から緊密な関係を構築しようというものだったという。 しかし、アジア主義ではなかった。 広田はケースバイケースの柔軟外交であって、特定の主義や理念によるものではない。 それだけに時代の波に流されやすい。A氏:幣原外交は対米英協調という基軸がしっかりしているし、重光は理詰めであるのと異なっているわけだね。私:広田外交のおかげで1935年の上半期は満州事変から太平洋戦争に至る間で、おそらく日中関係で最も明るいきざしがみえていた時期だという。 その象徴が1935年5月の駐華公使館から大使館への昇格で、これも広田の功績だね。 しかも、イギリス、アメリカ、ドイツにも駐華大使館への格上げを勧めた。 これにより、中国の国際的な地位は引き上げられた。A氏:対米英関係の改善と「日中提携」を同時に進める広田構想が結実した瞬間だね。私:汪兆銘は泣いて喜んだという。 しかし、これは広田が直接活動したもので、かねてから昇格に反対だった陸軍軍人は先に根回しがなかったとして、激怒する。 これが広田の中国政策の転落のはじまりとなる。A氏:広田は「対中国政策、すなわち対陸軍政策」であることを思い知ることになるわけだね。私:陸軍の反発は華北分離工作を始め出す。 満州だけでなく、中国北部を中国の国民政府から切り離して、勢力下に置こうとする陸軍の工作だね。A氏:広田対中外交の後退だね。私:汪兆銘らの親日派も没落する。 1936年になると広田外交に明るいきざしはみえなくなる。 広田が行き詰ったとき、2.26事件が起きる。 これがまた、広田の運命を大きく変えるね。A氏:この事件で岡田内閣は総辞職。 次期首相として、近衛文麿が推薦されるが、彼は健康上の理由で断る。私:そこで白羽の矢が広田弘毅に向けられた。 近衛は広田と外務省同期の吉田茂を広田の説得に行かせる。 こうして、1936年3月5日、天皇から組閣の大命を受ける。A氏:しかし、近衛が断ったほどの内外で難題をかかえているときに、首相の座をなんで広田は受けたのだろうね。 「火中の栗を拾う」ことになるのは明らかなのにね。私:東京裁判の記録によると、それは2.26事件を起すような陸軍に対する怒りであったという。 しかし、組閣人事に陸軍が介入し出す。 吉田茂を外相にしようとしたら、親米派だということで陸軍が反対。 これは諦める。 なんとか、妥協しながらも押し切って一応組閣を終える。 2.26事件による政治的な空白を12日で埋めた広田の功績は大きい。 広田内閣の活動がどうであったかは明日の話題にしよう。
2008.10.09
コメント(2)
![]()
広田弘毅私:この新書版は何かの書評を見て、図書館に予約してかなり待って借りたよ。 広田弘毅は、作家城山三郎氏の「落日燃ゆ」で有名だね。A氏:東京裁判で、絞首刑を宣告された7名のうち、広田弘毅だけが文官で、後は東条英機を始め全部陸軍軍人だね。 その広田弘毅の高潔な生き様を描いたのが「落日燃ゆ」だね。私:「落日燃ゆ」が出たのが、1974年で、毎日出版文化賞を受賞しているね。 ところで、この新書版の著者の服部氏は、1968年生まれだが、この本を高校時代に読んで、広田弘毅に感銘を受けたという。 しかし、日本外交史など、自らの研究が進むと、違和感を覚えるようになり、やがて、「落日燃ゆ」ヘの畏敬の念は薄らいだという。 俺は「落日燃ゆ」は読んでいないのだが、高潔な昭和の人物の代表例としてよくあげられえることが多いので、興味をもったね。A氏:城山氏は昨年3月になくなっているが、生きていて、今、この本を見たら驚くかもね。私:この本は、著者の研究成果として広田弘毅の生まれから、絞首刑になるまでの歴史的な事実を詳細にまとめ、広田弘毅のいわば、虚像と実像を明らかにしているね。 広田弘毅は、昭和の外交に深く関わっていたので、この本はある意味で昭和の日本の姿が国際的な視野で知ることができるね。 昭和外交史だね。 特に日中関係のところは詳しいね。A氏:広田弘毅は、福岡県の石屋の長男として生まれたね。 極貧だったそうだね。私:ところが、著者は資料をもとにそれほど貧困でなかったのではとしているね。 1895年、三国干渉が起き、これが軍人志望だった広田を軍事よりも外交が強くないとダメだと感じさせて、外交官志望に変わった転機となる。 福岡には国家主義的な団体で右翼の草分けと言われた「玄洋社」があったが、高校時代は、この柔道道場に通った。 外交官になるには大学に行かなくてはならない。 その学資を玄洋社の平岡浩太郎からの援助で得る。 後に外交官となって、名家との縁談を断り、この玄洋社の月成功太郎の次女静子と結婚する。A氏:敗戦の翌年、東京裁判開始とともに、妻は自害するね。私:外務省の系譜からすると、広田は傍系であり、満州事変がなければ、外務大臣にすらなっていなかっただろうという。 時代の波が彼を押し流したのだろうかね。A氏:1932年(昭和7年)に5.15事件が起こり、犬養首相が射殺される。 これが政党内閣の最後となった。 次の首相は斉藤実海軍大将で外務大臣は内田康哉。 内田大臣のときに満州国を承認し、国連を脱退する。私:老齢の内田大臣は、過労気味だったので、当時、外務次官の重光葵に適切な後任に誰かいないか質問したら、広田弘毅の名前が出た。 そこで、内田は、斉藤首相に辞意を表し、広田を後任の外相に推した。 別に有力な候補がいたが、広田が主流の幣原派の系譜でなかったから推薦したという。 親米派の幣原派と距離を置いていたことが幸いして外務大臣となったとみられる。 こうして、広田は1933年、昭和の日本の政界の中心に登場することになった。A氏:1934年、斉藤内閣は帝人事件という汚職で総辞職し、岡田啓介海軍大将内閣となるね。私:広田は留任。 1935年、ソ連から北満鉄道を買い取ることに成功して、満州国の鉄道が満鉄で一元化する。 これは広田の外交による功績だね。 次に功績があったのは、「日中親善」だね。 これは明日にしよう。
2008.10.08
コメント(0)
A氏:君は、朝日新聞の月曜夕刊の「池上彰の新聞ななめ読み」の欄のファンだというが、昨日のこの欄を俺は読んだよ。 問題になっている「補正予算」の中身についてだが、麻生総理は、今の経済の停滞を救う「経済対策」のために、解散を急ぐよりは、「補正予算」を通すべきだとしているね。私:新聞を含めてマスコミは「補正予算を通すのか」、それとも「解散」か、というテーマばかりで、池上氏の言うように、補正予算の中身が本当に「経済対策」に効果的な中身なのか、詳細の報道がないね。A氏:池上氏は、日本の新聞の「政治記事」は「政界人事記事」にすぎない。 政策の中身を詳しく伝えて解説することこそが、「政治記事」ではないかと、今週は厳しいコメントだね。私:ある新聞記事では、「財源の一部3950億円は建設国債の追加発行でまかなう」とあり、「これが成立すると08年度まで4年連続で新規国債発行額を減らす政府の計画は未達成となる」という。A氏:新聞はそこで終わり。 政府は、景気対策のために、計画を変更か放棄したのか、明確でないね。 中川大臣の兼任の任命など、麻生首相の考えは、首相になる前から「財政再建は後回し」という考えだから、計画変更が明らかだが、明言していないね。 選挙をすれば、負けるかもしれない。 麻生首相は、首相でいる今の間に、自分の思った通りにカネを使いたいだろうね。私:池上氏は、どこに補正予算のカネが行くかを列挙しているね。 災害復旧・防災 中小企業向けの信用保証 高齢者医療の負担軽減 学校などの耐震化 農業・漁業向けの物価対策 ガソリン税の暫定税率失効に伴なう自治体の減収穴埋めなど 池上氏が言うように、これがサブプライムローン問題に対応する「経済対策」になるのか、またまた、「公共事業」の追加ということなのか、はっきりしないね。A氏:国会の予算委員会の中継をテレビで見るとすでに選挙戦の宣伝に入っているようだね。私:総論が多くて、具体的な中身が乏しいね。 中身が乏しいのは新聞だけではないようだね。
2008.10.07
コメント(2)
A氏:昨日の朝日新聞の国際経済面では、アメリカ政府と議会が、金融業界に対する規制や監督を強化する方針であることを報じているね。 「金融救済法」が成立したのを受けているね。 オバマ、マケイン両大統領候補も同じ考えだね。 君は、「ドル帝国の黄昏が始まった」のブログで、「先週のサンディーモーニングをちらと見たが、コメンテーターの田中秀政氏が、『これらのカネには檻が必要だ』と言っていた」とあったね。 「2008マネー潮流」でも榊原氏が同じことを言っていたね。 自分勝手な動きをしていた「マネー」をアメリカは檻に入れるようだね。 私:ついに「檻」に入れないとダメか。 この「檻」の話が出たのは昨年の11月だから、どんどん、アメリカの金融危機は悪化して、ついに政府が乗り出すまでになったね。 昨日の朝日新聞の一面で、朝日新聞の主筆の船橋洋一氏が長い論評を書いているが、今回の金融危機の問題点がよくまとまっていると思うよ。A氏:俺も読んだが、出だしが「これは明らかに何かの終わりと1つの時代の終わりを告げている」と始まっているね。 見出しが、「無極化する世界」とあるように、アメリカの「一極」時代から、「無極」化時代に入ったと言うことだね。 君のこの知的街道は一昨年の非正社員の拡大、派遣社員の増大など「賃金格差の背景」から始まったね。 その源流に「市場原理主義」があることにたどり着いて、そこから「グローバリゼーション新自由主義批判事典」、「悪夢のサイクル」、「国家の堕落」、「働くということ」などとつながる。 榊原氏はこの「市場原理主義」の行き詰りが出たと言っているね。 共産主義が失敗したと同様だね。私:船橋主筆は、減税と規制緩和を2本柱とする1980年代のレーガノミックス(新保守主義経済政策)は根本から見直しを迫られるだろうと言っているね。 今、アメリカはイラク・アフガニスタンの泥沼と「レーガノミックスの崩壊」を前にぼうぜんと立ちすくんでいるという。A氏:すぐ11月は大統領選挙だね。私:アメリカがどういう選択をするかは分からないが、大きな時代の転換の舵取りをする大統領になるだろうね。
2008.10.06
コメント(2)
A氏:福田内閣は、安倍内閣のときの経済財政諮問会議の民間議員4名をそのまま再任したが、麻生首相は見直しを命じたね。 民間議員は首相ともに入れ替わるのが通例だというから、麻生首相は通例にしたがったわけだね。 私:昨日の新聞では、張富士夫トヨタ自動車会長、三村明夫新日本製鉄会長、岩田一政内閣府経済社会総合研究所所長、吉川洋東大大学院教授の4人となったと報じている。A氏:キャノン会長の御手洗氏、丹羽伊藤忠会長、伊藤東大教授、八代国際基督教大教授の4人はその役割を終えたね。 キャノン会長の御手洗氏は、キャノンの派遣社員の国会での証言、社員の過労自殺問題でいろいろ言われたね。 八代教授は、自民党の加藤紘一議員から、秋葉原無差別殺人事件の真犯人だと名指しされ、加藤議員は民間議員を総入れ替えすべだと言っていたね。 このブログでも「経済・財政諮問委員会のメンバー総入れ替え」とあり、さらに「加藤紘一議員、矢代氏を名指し」とあったね。 キャノンの御手洗氏も、これだけ製造業の派遣労働が問題になっているのに、さらに一層の規制緩和を叫んでいたね。 今は、政府の動きは逆で、日雇い労働の規制に動いているね。私:今回、「麻生色」が強くなると思われたが、吉川氏は小泉時代に民間議員をしたことがあるので、再登板だということだ。 これで、新メンバーの「麻生色」はそれほど強くないと新聞は報じている。A氏:しかし、最近、小泉改革の「暗」の部分をいろいろな人が言っているのが報道されているね。 元自民党幹部で、小泉首相に反旗をかかげて政界を引退した野中広務氏は、こないだTBSテレビのインタビューで「小泉氏は、自民党を壊したばかりでなく、日本も壊した」と言っているね。 郵政の民営化も1年経過しているが、問題が多いらしい。 第一、郵便料金が下がっていない。 タクシー同様、値上げになるのではないの?私:その小泉氏は次の選挙には出ず、次男を自分の選挙区から出馬させるという。 自分で「親バカ」だと言っていたが、日本の政界で世襲議員が多いという「構造改革」も放棄した「親バカ」だね。 自民党から老害を除くため、中曽根氏や宮沢氏も切った人が、「世襲構造」は「ぶっこわせなかった」ね。A氏:ある評論家は、「構造改革」は小泉氏の個人的な信念かと思ったが、この世襲を認めたことで、「構造改革」は本人の信念でなく一部の学者に踊らされた結果だと言っていたね。私:本来、首相を降りたときに、議員も辞めるつもりでいたが、任期があるので、辞任しなかったと言っているが、なんで解散が決まってから公表せず、麻生首相決定とともに公表したのかね。 同じ改革路線をともにした竹中平蔵氏は、参議議員だが、こっちは任期を全うしないで辞めている。A氏:昨日の朝日新聞の土曜版の付録には、新たに丹羽伊藤忠会長の連載エッセイ欄が生まれた。 この欄で、丹羽氏は北京オリンピックの開会式に招待され、そこで強く印象に残ったのは、世界中の若者たちの「負けてたまるか」というギラギラしたまなざしだったという。 それに対して、日本選手は根性がないと嘆いているね。 人に頼り切って、政治家や企業のトップになったら、自らの手で努力してその立場を闘いとっていないから、すぐにひっくり返ると丹羽氏は書いているね。私:それが福田首相であり、4代目の小泉青年の姿ではないのかね。 丹羽氏はいいことを言っているが、自分の周囲がそれにともなっていないね。 丹羽氏は、小泉世襲をどう思っているのかね。A氏:しかし、世襲でも、立派な人物なら、いいのではないの?私:「立派な人物」だと誰が評価するの? 丹羽氏のいうように、苦労して這い上がってきた者が立派なのではないのかね。 小泉氏が「抵抗勢力」となった日本世襲政治自体の「構造改革」が必要だね。
2008.10.05
コメント(0)
![]()
働きがいのある会社私:1998年はアメリカの「働きがい元年」だという。 ヨーロッパでは、2000年にポルとガルで「働きがいのある会社」のリストが発表されてから拡大し、現在、15カ国で毎年リストが発表されている。 2003年から毎年5月に「フィナンシャルタイムズ」でヨーロッパ全体のベスト100が発表されている。 各国のベスト100から、さらに100を選んだのだから、このベスト100の価値は高い。A氏:各国のベスト100からだから、1000くらいのベストカンパニーからのベスト100だからね。私:この本では、さらに中南米のGPTW(働きがいのある会社)を紹介している。 2004年から中南米のベストカンパニーが発表されている。 最新の2007年では、9ヶ国から選ばれた100社が発表されている。 これも1100社以上から選ばれているので、約47万4000人の従業員がGPTWのアンケートに参加した計算になるという。 世界的に拡大しているね。A氏:1998年はアメリカの「働きがいのある会社・元年」だというのに、日本は逆だね。 日本の1998年と言えば、年間の自殺者数がそれまで2万人の前半くらいで推移していたのが、一挙に3万人を突破して、3万5千人になろうとした年だね。 「自殺急増元年」だね。 そして現在まで3万人の高いまま推移している。 欧米は高齢者の自殺が多いが、日本は働き盛りの40代、50代に多い。 日本は「働きがいのない職場」が激増したのだろうね。 「うつ病」も増加している。 「過労死」もそうだね。 小泉・竹中改革での派遣労働の規制緩和や成果主義で見事に崩壊したね。 そして、ネットカフェ難民や秋葉原無差別殺人事件に象徴されるような、「働く人の使い捨て」が蔓延する。A氏:最近の大阪の個室ビデオの火災では15人の死者を出したが、この個室を宿にしていて、なかなか身元が分からない、ワーキングプアの人がいたね。私:著者は、日本も国際競争力をつけるには、従業員が「働きがいのある」企業にしなければならないとして、GPTW(働きがいのある会社)の日本への導入を推進している。 2007年2月の「日経ビジネス」で「第1回 日本における働きがいのある会社・20社」が掲載された。 これから、毎年、掲載が始まる。 この本では、2008年のベスト25社が載っている。 今まで、「一生懸命働く時代」から「頭を使って働く時代」だったのが、グローバル経済時代になると「みんなで力を合わせて働く時代」となってきたのかね。 働く人の人間関係の見直しが始まったというところかね。 この本では、アメリカ、ヨーロッパ、中南米や日本など、GPTW(働きがいのある会社)が優れている会社例が豊富で、分かりやすいね。 著者は、GPTWの日本導入に、今、熱心に取り組んでいるが成功を期待したいね。
2008.10.04
コメント(0)
![]()
働きがいのある会社私:多くの日本人が誤解しているようだが、アメリカでは株主や顧客以上に従業員を大事にする企業が増えていると著者は言う。A氏:会社は株主のもので、株価をあげることが経営者の役割だというのと全く違うね。 会社の価値は、株価総額でなく、従業員だというわけだね。 ホリエモンなどが言っていた考えと逆で、日本が、かっては得意としたものではなかったのかね。私:このアメリカ発の「働きがいのある会社」という言葉は、もとはアメリカの従業員を大事にする考えを英語でGreat Place to Workというのを訳した言葉だね。 略してGPTWという。 GPTWの誕生は1980年代からだね。 アメリカはランクをつけることが好きな国で、ロバート・レベリングというジャーナリストが1980年頃に、「従業員の視点」から、会社のランク評価を考えた。 多くの企業と従業員へのインタビューから、1984年に「100ベストカンパニー・ツー・ワーク・フォー」を出版。 日本では「アメリカン・ベスト・カンパニー100」として1986年に光文社で発行された。A氏:もう、20年ほど前だね。私:こうして、多くの企業や従業員のデータから、「働きがいのある会社」を評価するテクニックが体系化されてきた。A氏:それがGPTWというわけか。私:これをアメリカの経済誌「フォーチュン」がとりあげ、毎年、「最も働きがいのある会社100」を1998年から掲載しており、この「働きがい」を高める競争が始まったという。 だから、1998年は「アメリカのGPTW元年」だ。A氏:どういう内容の会社がGPTWですぐれているのかね?私:調査項目は5項目ある。 まず、マネジメントと従業員の信頼関係として次の3つがある。 1.信用:マネジメントと従業員相互のコミュニケーションがとれている。 2.尊敬:従業員に対してマネジメントが敬意をもっている。 3.公正:昇進、報酬が公平で差別がない。 次に、従業員個人と周囲の関係として次の2つがある。 4.誇り:自分の仕事と役割に誇りを持てる。 5:連帯感:仲間と「家族」や「チーム」といった連帯感が育てられている。A氏:なるほど、これで大体、GPTWが目指す経営が分かるね。 「蟹工船」ではグローバル経済の競争には勝てないわけか。私:明日は、アメリカ以外の国の動きと、日本のことにふれよう。
2008.10.03
コメント(2)
私:丹羽氏の講演の後、パネル討議などがあり、夕方近く、最後に養老氏の特別講演となった。 この丹羽氏と養老氏。 両氏の講演のスタイルは、全く逆だね。 丹羽氏は、机の上のマイクに向かって、終始、同じ姿勢で立ったまま、ときどき、原稿を見ながらしゃべる。 養老氏は、手にマイクを持って、机に向かうこともなく、演壇を歩き回って原稿なしで、終始、聴衆に向かってしゃべる。A氏:演歌歌手とロックバンドの違いのようだね。私:養老氏の演題は「理系の壁・文系の壁」というものだね。 養老氏が東大医学部の解剖学科の教授でいた頃、学生にある変化があったという。 物理や化学に強い学生が増加してきたという。 それは、入試のときに、試験科目を選択できるので、満点を取りにくいといわれる生物を避けるからだという。A氏:その学生の傾向と、解剖学とはどういう関係があるの?私:物理学はある法則があり、それで自然を説明するね。 ところが解剖は、個人の体ごとに個性がある。 事実に謙虚でなくてはならない。A氏:だから、「この遺体はおかしい。テキスト通りでない」という学生が出るわけか。私:イギリスの有名な小説家のサマセット・モームは若いとき、医学生だった。 彼は、死体解剖の実習で、教科書通りの遺体が稀であることを知る。 その経験が彼の小説に登場する人間観の根底を貫いているね。 同じ「死体解剖」という事実体験から、その事実を「受け止める態度」が、東大学生と違うね。A氏:それが昨日のブログのいう「現実は多様で、『正しい受け取り方』しかない」という意味かね。 「正しい遺体」は存在しない。私:養老氏は、現代は、情報は高級であるという発想を持っているという。 個別の五感は下等だとなる。A氏:東大の医学生のように、教科書が高級で、死体は下等だというわけだね。 しかし、本当は個々の死体が高級で、教科書が下等な「過去の遺物」なわけだ。私:養老氏は、演壇上で後向きに後ずさりして「過去の情報」を見るふりをして解決を探すと言う。 次に、くるりと前を向き、「前には何も情報がないので慌て出す」と言う。 聴衆はドット笑ったね。A氏:素晴らしい動作による説明だね。私:養老氏は、NHKテレビの報道カメラの情報は、「あるカメラマンの目を通した映像であるから、公立性などあり得ない」という。 毎日のNHKニュースの最後で、アナウンサーはいうべきことがあるが言っていないという。A氏:どういうこと?私:「--とはいえ、今、ニュースで言ったことはすんでしまったことです」と言うことだという。 聴衆はドット笑った。A氏:なるほど、ニュースとは言え、「過去の遺物」だね。 明日はどうなるかは別物だね。 あっという間に、アメリカは恐慌だからね。私:情報と五感のバランスがこの情報化時代には特に必要だということだね。 五感を得るには「行動」すること、「体を動かす」ことだね。 それは、丹羽氏の「努力」「汗を流す」ことの重視につながるのかね。 それは今後の日本の人材を育てる学校教育にもいえることだね。
2008.10.02
コメント(0)
私:丹羽氏は、最近の企業不祥事を問題にしており、人間というものは、ウソをつき、ごまかすというものだとしている。 そして、従来の経済学者がしばしば、間違いを起すのは、人間というのは合理的な判断で行動するものだという、現実と異なった前提に立っているからだという。 2002年にノーベル経済学賞をもらったのが、ダニエル・カーネマンで、彼はこういう人間の非合理的な行動と経済の関係を論じて賞をもらったという。A氏:人は、ウソを言ったり、人をだましたりするのが本能でもあるね。 小泉改革で、市場に任せば正しい判断をするという市場原理主義から規制を緩和したら、ゴマカシでもうける「利に聡い」人が増加して、慌てて規制を追加しているね。私:そういう人間を相手に、経営者は経営をしなくてはならないというわけだね。 そこで経営で必要とする人間は、専門的な知識も必要だが、もっと重要なことは、勇気、決断力、対人能力などをもった人どだという。 丹羽氏は、過去の歴史を引用している。 後のアレキサンドリア大王の若い頃の家庭教師をしたアリストテレスの例だね。 アリストテレスは、専門の自然科学をアレキサンドリア大王に教えなかったという。 勇気、誇り、リーダーシップ、人の活用法などに関することを教えたという。A氏:人というものが、いかなるものかを教えたことになるのかね。 君がブログで、「壊れゆくアメリカ」をとりあげているが、ここでこの本の著者はアメリカの崩壊を次の5つにまとめていたね。1.コミュニティと家族の崩壊2.高等教育のベルトコンベヤー化3.科学的精神の喪失によるテクノロジーの効果的な実践の崩壊4.税と政府の力、中央集権に固執し、地方分権を拒否する政府のための地方の崩壊5.自己規制を忘れた知的プロフェッショナルの堕落 これを眺めてみると、人としての志、勇気、誇り、尊敬などの倫理の崩壊という点が共通しているね。私:28日の新聞では、アメリカ大統領選で、マケイン、オバマの両候補が、今のアメリカの金融危機に対して、金融界の利益優先主義をそろって批判しているね。 もともと、規制緩和主義者のマケイン候補までも、「(金融業界を)監督するさまざまな政府機関を再編し、より厳しくする」と言っているという。 オバマ氏も「これまでの政策が尊重してきたものはウォール街であって庶民ではなかった。 21世紀型の監督システムを構築してこなかったのは『規制はつねに悪いもの』という考え方が影響している。」と言ったという。 オバマ氏は、かねてから「ウォール街の貪欲と無責任さがアメリカ経済を危険に陥れた。 政府内に無責任主義が浸透していたことも原因だ」と述べてきたという。A氏:カネで倫理観が麻痺した現象としては世界共通だね。 しかし、「自己責任」の市場原理主義のご本家アメリカで、ブッシュ大統領は、無責任な金融機関の大金持ちの失敗の尻拭いを、国民の税金で救おうとするのだから、道徳は地に落ちたね。私:丹羽氏は、このようなグローバル化時代を乗り切るには、しっかりした人間を企業が育成することが必要だとしているね。 英語は必要だが、尊敬される人でないと、英語はペラペラでも尊敬されない。 そして、最後に、努力を要求しているね。A氏:辛抱だね。私:企業で成功している人間は、丹羽氏の見るところでは、頭の良し悪し、知識の豊富さよりも、苦難を切り抜ける努力家であるかどうかだという。A氏:福田首相のように投げ出してはダメというわけか。私:丹羽氏は、講演で聴衆が頭に残るのは、話の1割にもならないと、言いながら、この努力の重要性だけは、重視するように強調していたね。 明日は、養老氏の講演の話に移ろう。
2008.10.01
コメント(0)
全31件 (31件中 1-31件目)
1