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生まれて初めて外国というものに行ったのは1992年のことだった。ドイツに留学した恋人に別れを告げるためのひとり旅。パリを起点に西ヨーロッパを3週間かけて東回りにまわったが、初めての外国はカルチャーショックの連続で、一冊の本が書けると思うほどエキサイティングだった。しかしここで書きたいのはその旅のことではない。とうとう行かずに終わった旅のことだ。外国を気ままに旅をするおもしろさにすっかり魅了された私は、母を連れていくことを考えた。目の不自由な父やペットを家に置いて出かけることに、母は躊躇した。数年かけて説得し、やっと3年後、母が68歳の時に4週間のイタリア・韓国の旅に連れ出すことに成功した。このときツァーでない旅行のおもしろさを知った母は、外国旅行に積極的になった。そこで計画を立てた。母が元気で旅行できるのは80歳までだろう。そうすると残りはあと約10年。1年に2回ずつとして20回。その20の旅のリストを作るため、「地球の歩き方」のほとんどすべてを図書館から借り出し、集中して研究した。雪と氷に閉じこめられる冬の半年は、たしかに父を置いて出かけるわけにはいかない。一方、春から秋にかけての北海道の気候はすばらしい。この時期は北半球の旅行のハイシーズンでもあり、旅費も高くつく上に人が多い。だから何も旅に出る必要はない。ゴールデンウィーク、旧正月やイースターの時期も混雑するので避けなければならない。こう考え、雪は消えたが肌寒さの残る4~5月と、雪が積もる前の11~12月の年2回、母を海外旅行に連れて行くことにした。「地球の歩き方」で研究した結果わかったのは、この時期、旅行にふさわしい気候なのは、地球広しといえどもさほど多くないということだった。母は都会よりも自然が好きで、しかも動物が好きだった。日本的にちまちましたせせこましい文化を嫌い、日本とは異なる文化を持った国ほど興味を示したが、芸術にみるべきものの多いヨーロッパも好きだった。それらをすべて考慮してできた旅の予定リストが、いまも手元にある。1,ギリシャ(エーゲ海の島々)2,南イタリアとシチリア・マルタ3,マレーシア鉄道(タイからシンガポール。南タイの島)4,パキスタン(フンザからクンジュラブ峠。カラコルム・トレッキング)5,東欧(プラハを拠点にチェコ、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア)6,ナミビア(ナミブ砂漠)とジンバブエ(ビクトリアの滝)7,ケニアとタンザニア(サファリ)8,スコットランド・ハイランド(エディンバラ)9,アラブ・アンダルシア(スペインとモロッコ)10,中米(コスタリカ~グアテマラを陸路で)11,ニュージーランド(ミルフォードサウンド)12,ボストン(小澤征爾指揮ボストン交響楽団)とカナダ(オーロラ)13,チベット(中国側からヒマラヤを見る)14,北イタリア(ドロミテ・トレッキング)15,ネパール(ヒマラヤ・トレッキング)16,中央アジア(天山山脈)17,北部タイ(チェンマイやチェンライ、イサーン)18,沖縄(離島)19,スイス(アルプス・トレッキング)20,アンデス(イグアスの滝、マチュピチュ)このほかにもインドのラダックやカシミール、ビルマ、南フランス、スペイン(ピレネー)、西オーストラリア、カンボジア(アンコール・ワット)なども検討した。計画した旅のうち、実行できたのはわずか五つ。去年の今ごろ母が死んだとき、何より悔やまれたのは、ツァーでいいからひとりでも旅に送り出せばよかったということだ。時間の融通はいくらでもついたのだから、全部はムリでもほとんどは行けたはず。年2回などと枠をはめて考えたのがまちがいの元だったのだ。人生なんてしょせん計画通りにはならない。だから、無計画かつ無分別に「できるときにやっておく」べきなのだ。5回しか行けなかった理由はいろいろだ。パキスタンはビザ申請でもたついている間に核実験をやったので行けなくなったが、親戚の病気とか身内の事情が多い。人助けをしている間に機会を失ってしまった年が多かった。冷血人間と思われようと、人助けは優先順位の下の方にもってくるべきだったのだ。母がくれた恩の、一万分の一も恩返しができなかった。ぼくの人生は失敗だった。
May 10, 2007
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モーツァルトが泣いている。冗談と悪ふざけが好きで、母の死に際してさえ明るくふるまったモーツァルト。悲しみを人に見せず、涙ぐんでも決して微笑みを絶やさなかったモーツァルト。まきを買うお金がなかったとき、ダンスで暖をとるほど陽気で楽天的だったモーツァルト。結婚式で感動のあまり泣いたとき以外、自分のためには一度も泣いたことのないモーツァルト。そのモーツァルトが泣いている。声も限りに、叫ぶばかりに泣いている。泣き叫ぶ自分の姿をかえりみる余裕もないほどの深い悲しみが、ほとんど怒りに近いほどの悲しみが、この曲に涙の雨を降らせている。その雨は荒々しく屋根をたたき、窓に打ちつける。モーツァルトの絶筆とされる大作「レクイエム」(死者のためのミサ曲)である。1791年12月5日、モーツァルトはこの曲を完成しないまま世を去った。自らの死を予感したかのような曲想はさまざまな憶測や伝説を生んだが、なぜ彼らしくない悲痛な音楽が生まれたかは永遠のなぞとした残った。ただひとつ明らかなのは、モーツァルトは初めてこの曲で感情を生のまま表したということである。この曲では作曲家モーツァルトではなく、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトというひとりの人間の魂が泣き、叫んでいる。生物に死という宿命を課した創造主をのろい、抗議するかのような激しい感情が、音楽の外へとあふれ出る。そして泣く。人間の罪を背負って死んだ聖者のように、地上の悲しみすべてを集めてモーツァルトが泣く。※カール・ベームが指揮したウィーン・フィルその他のグラモフォン盤を超える演奏はいまのところないが、最近復刻されたカール・リヒターの禁欲的で緊張感に満ちた解釈もすばらしい。
May 6, 2007
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『サハラに賭けた青春』と同時に出た本。出版された当時はずいぶんと話題になった記憶がある。前著が17歳から2年と少しの、一回目のアフリカ放浪の際の日記をまとめたものだったのに対し、この本は、サハラ砂漠の単独横断という明確な目的を持って旅立ったものの志果たせず砂漠に斃れるまでの日記に関係者による追悼文を添えたもの。二度目にアフリカの土を踏んだとき、「ラクダ君」こと上温湯隆は21歳になったばかりだった。その彼がマリの砂漠で渇死するまでの18ヶ月の苦闘は、一度でも砂漠を歩いたことのある人間なら無謀と紙一重の彼の勇敢さに圧倒されると思う。手に汗を握る冒険譚はひとつもない。しかし、砂漠で無一文になるほど乏しい資金で、アルジェリアのアルジェからマリまで、よくぞ3000キロも行けたものだと思う。アルバイトをしながらヒッチハイクで旅のできた欧米とは根本的に異なる世界なのだ。ラクダ一頭だけで、サハラを3000キロ歩いた。それだけで、じゅうぶん賞賛に値する「偉業」ではないだろうか。人里遠く離れた砂漠の真ん中で死んだと思っていたが、よく読むとそうではなかった。最初のラクダが死に、近くの町に戻って別のラクダを手に入れて、死んだラクダの骨を拾いに出かける途中で「ラクダ君」は死んでいる。その原因は、新しく買ったラクダが逃げたのだと思う。砂漠でラクダに逃げられることは死を意味する。彼が、もう少しラクダを選ぶ目を持っていたら、残り4000キロのサハラ横断をやりとげられたのではないかと思う。そうしたら、高校中退のひとりの「浪人」にすぎない上温湯隆は、聖なる冒険家の列に加わり、世界的な英雄として知られるようになっていたにちがいない。アフリカの大自然に触れ日本の「公害」を憂いていた彼は、社会に出たら公害をなくす仕事をしたいと思っていたそうだが、登山家の野口健のような活動をしていたかもしれない。たいていの人間は、歳をとると分別くさくなり、冒険を避けるようになる。歳をとると体力も衰えるから、それはある程度しかたのないことだ。しかし、何かに挑戦したり、自分の可能性を拡げることまでやめてしまうのは、精神的自殺と言っていい。自分の心に臆病心や保身が芽生えたときは、いつも上温湯隆のことを、彼の3000キロの砂漠の旅を思い出すことにしよう。
May 1, 2007
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