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3歳からいきなり24歳に話はとぶ。リクルートの就職情報誌のライター募集があり、応募してみたら採用になった。採用されたのは3人で、北大ジャズ研出身のSくん。Sくんとは以前から別の雑誌で同僚だったが、もうひとりがJICC出版局の名刺を持つ彼女。ここではYさんと呼ぶ。リクルートの担当者との打ち合わせのあと、初対面の3人で喫茶店へ行き小一時間話した。26年も前のこんなことをなぜおぼえているかというと、その時話したYさんに、強烈な憧れを感じたからだ。こちらは大学を留年した中途半端な状態。当時の恋人は遠くに就職したため遠距離になり、関係は風前の灯火。一方のYさんは、東京の風を感じさせる知的な女性。夫の転勤で札幌へ来たということらしかったが、そういう環境でありながら自分のテーマを持って仕事をしている。理想的な家庭を築いているように見えたのには自分の身と比べて軽い羨望もおぼえた。国際基督教大出身であること、キャンパスではまだ学生運動の名残があったという話を聞いたりした。その時思ったのは、「才長けて、見目麗しく情けあり」といった風情の彼女は便利屋ライターで終わらず、いつか著書をものする人だということ。24才から、またまたいきなり26年後に話はとぶ。数ヶ月前のこと。偶然に、快適なシニアライフ送るコツをテーマにした本を、古本屋で見つけた。著者はYさんと同姓同名。タイトルと著者名と見た瞬間、「あのYさんだ」と直感した。手にとってみると、プロフィールに国際キリスト教大出身とある。直感は確信に変わり、すぐレジの列に並んだ。そして出版元にメールを出した。80年代前半に札幌でライターをしていたYさんではないかと。そうなら、メールを転送してほしいと。返事を諦めかけたころ、おっかなびっくり、という感じのメールがYさんから来た。何でも、札幌にいたとき原稿料踏み倒しの詐欺にあったことがあり、その時の詐欺師が偽名でメールをくれたのではないかと思ったらしい。彼女はいま3つの雑誌に4本の連載を抱えているらしい。健康をテーマにした次の本をそろそろ書くつもりということも聞いた。仕事のじゃまにならない程度に、時々メールできればと思っているが、26年たって、どんなに素敵な女性になっているかを想像するのは楽しいし、会ってみたいような、みたくないような(笑)不思議な気がする。
July 19, 2007
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自信と慢心。似た言葉だが、反対の結果を生む。「才人、才におぼれる」という諺があるように、才能に恵まれた人は自分の才能を過信して努力を怠り、せっかくの才能を殺してしまうことが多い。逆に自信がなく、せっかくの才能を開花できずに終わってしまう人も少なくない。モーツァルトは自信家だった。彼の手紙を読むと、彼がどれほど自分の才能を確信していたかがわかる。しかし、よくいる天才児と彼が決定的にちがうのは、決して慢心しなかったということである。「君は聴衆の好みに迎合する傾向がある。もっと自分の内奥に耳を傾けて作曲すべきだ」とは、少年モーツァルトに音楽を教えたマルティーニ神父の言葉だが、もしモーツァルトが神父の言葉に耳を貸さないほど慢心していたら、果たしてこの作品のような奥行きと深みのある作品は生まれていただろうか。「ピアノと管楽器のための五重奏曲」は、モーツァルトがウィーンで人気の絶頂にあった時期の作品。小さな編成ながら、交響曲の風格と協奏曲の華やかさ、室内楽の繊細さをあわせもつ、きわめて充実した内容の曲。雄大さと優美さが見事に融合したさまが富士山のような高くて広い裾野をもった山を思わせる、モーツァルト作品中の独立峰的作品。モーツァルト自身「これまで書いたものの中で最良の作品」と語った自信作である。モーツァルトの考える優れた音楽。それは、悲しみではなく幸福感で人を感動させる音楽だったようだ。※1960年代のEMIの録音だったと思うが、メロス・アンサンブルの演奏がいい。イギリスには優れたモーツァルト演奏の伝統があるようだ。
July 15, 2007
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今年もパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMF)が始まった。1990年に始まったこの教育音楽祭は18回目になるが、一ヶ月近くの会期の最初に今年はいきなり大物が登場。今年66歳になるイタリアの指揮者リッカルド・ムーティである。ムーティは、札幌には1975年のウィーン・フィル来日公演に随行して来ているから、32年ぶり2度目ということになる。もちろん、聴くのは初めて。同じプログラムの二日続けての公演(9日・10日・札幌コンサートホール)を聴き、特に二日目はファサード席から「見」て、いまや数少なくなった「大指揮者」のひとりだと思った。ムーティは05年に内紛によって20年近くつとめたミラノ・スカラ座音楽監督を辞任しているが、小澤征爾、アバド、メータ、マゼール、バレンボイムといった同世代の指揮者に比べると、オペラ指揮者の性格が強く出ているのが最も印象に残った。だから、冒頭のヴェルディの歌劇「運命の力」序曲のようにドラマティックな展開の曲はムーティの独壇場。テンポの緩急と暗転する舞台を思わせる雰囲気の変化(というより転換)、コンサート指揮者ならここまでやらないと思われる速いテンポの設定やたたみかけるような展開は、これから始まるのはコンサートではなくオペラだと思わせるほどだった。続くモーツァルトのオーボエ協奏曲は、PMFの講師陣のひとりでもあるウィーン・フィルのマルティン・ガブリエルをソリストに、オーケストラはやや大きめの編成。モーツァルトにしてはもさっとした厚すぎる響きには違和感を持ったが、歌に満ちたすばらしいモーツァルトだったと思う。オーケストラのすべての声部が「歌って」いるのがモーツァルトの特徴だが、リズムを刻む目立たない楽器の音などすべてに配慮が行き届き、それでいて神経質にならないのはすごい。目をつぶって聴いていたら眠ってしまったのだが(笑)、目をつぶって聴いているとまるでウィーン・フィルのような響きがする。ただしムーティが要求する繊細な歌と気品は、にわか仕立ての学生オーケストラには荷が重かったようだ。シューベルトの交響曲第8番「ザ・グレート」の冒頭部分、ホルンのテーマが終わり、弦楽器に移っていく部分がこんなに美しいとは知らなかった。ムーティは、他の曲でもそうだが、メロディが異なる楽器に受け渡されていくときの、その音のつながり、フレーズを非常に大事にする。これは、お互いの音をよく聴きあっていないとできないことで、室内楽的な耳を必要とするが、この冒頭部分だけでなく、盛り上がったダイナミックな部分でも、同じようにフレーズや音のつながりを大事にしているのがわかる。それが、ムーティ・マジックと呼びたくなる、豊潤な音楽の時間と響きを生み出していることに気づかされる。盛り上がるとき、テンポも同時に速くなっていく演奏家は多い。しかしムーティはそういう煽られたような興奮を演奏に求めようとはしないようだ。そうではなく、音楽それ自体に語らせるように、あくまで楽譜に忠実に、しかし雰囲気のある音楽として楽譜を音化していく。終楽章など、もう少しスケール感がほしいし、大見得を切るような部分があってもいいと思うが、トスカニーニを思わせる即物的な表現がムーティの身上なのかもしれない。アンコールの「天体の音楽」のようなシュトラウス・ファミリーの作品の演奏は、たぶんムーティが世界ナンバーワンだと思う。好みでいうと小澤征爾のような、端正で機知に溢れた演奏がベストだと思うが、オーケストラを無理なく美しく響かせ、単調な音楽から多彩な色彩を引き出していく様は、マジックというよりミラクルの領域に入っている。純然たるヨーロッパの伝統、特にイタリアの伝統を感じさせるムーティの音楽は、じつは好みではない。もう少し甘かったり苦かったり、音楽には人間の直截な感情とか激情を聴きたい。しかし、これがヨーロッパなのだ。媚びない歌、誘わない官能、色を重ねない響き・・・18年間のPMFに来た指揮者ではレナード・バーンスタインに次ぐ巨匠だと思うし、現存する指揮者では5本の指に入る巨匠かもしれないと思う。好きではないが、ムーティの演奏ならどんな曲でもどんなオーケストラ聴いてみたい、なぜなら、非常に豊潤な音楽の時間が約束されていると思うからだ。
July 10, 2007
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たいていの男にとって、人生に最も大きく影響するのが、女性との出会いだろう。ふつう女性遍歴は、恋愛をして深く関わったり、ゆきずりでもベッドを共にした女性のことを書くものだ。だから、ここでは出会ったけど何もなくすれ違ってしまった女性、しかしなぜか心に残っている女性のことを書こう。 最も古い記憶は、3歳の時のものだ。1960年8月のこと。母に連れられて東京や箱根、日光を旅した帰り道、今はもうなくなった青森と函館を結ぶ青函連絡船に乗った。二等船室は、畳の広間になっている。椅子席もあるが、畳の方がくつろげるので人気があった。陣取った場所のすぐ近くに、やはり3歳くらいの娘を連れた父親がいた。沢木耕太郎「深夜特急」新潮文庫版の第6巻に、イタリアの乗り合いバスの中で、娘を連れた父親と息子を連れた母親が、バスの中で親しくなり、同じ停留所で降りて、まるで家族のように歩いていく情景を描いた部分があるが、まあそんな感じだったのかもしれない。その女の子と、一緒に駅弁を食べた。なぜそんなことをおぼえているかというと、その駅弁(というか船弁)に、塩ウニが入っていたからである。生まれて初めて食べるだいだい色のゲル状のもの。しかしそれは磯の香りがし、まるで海のエッセンスのような味わいで、しばらくあの同じものが食べたいと子ども心にも思ったものだ。子ども同士で一緒に遊んだり、駅弁を食べたりしたのだが、そういうことが無性に嬉しく、楽しかった。これが、相手が男の子だったらどうだったかというと、たぶん、つまらなかったにちがいない。つまり3歳で、正確に言えば3歳と6ヶ月で、すでにはっきりと異性を意識していたということだ。これが遅すぎるのか早すぎるのかはわからない。「3つ子の魂、百までも」というが、だいたいにおいて3歳には人間の個性は顕在化するものだし、多くの人の性のめざめも3歳くらいのころなのではないだろうか。3歳の男の子には3歳の女の子は「オンナ」だということだし、その逆もまた真なのだろう。昔ほど旅行はのんびりしたものだった。旅での出会いも多かった。ヨーロッパを鉄道で旅したときに知り合ったカナダ在住の日本人女性、三里塚闘争に参加する途中で知り合った横浜のOL、道をきかれたのがきっかけで知り合った神戸の女子大生・・・ほとんどはもう名前も忘れてしまった彼女たちのことも、いつか書くことがあるかもしれない。
July 6, 2007
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