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モーツァルトの音楽が、二百年以上もたった現代の私たちの心に響くのはなぜだろうか?それは、モーツァルトの生きた時代と私たちの生きている現代が、本質的には同じ時代だからである。モーツァルト以前の時代、人間は神や宗教に従属していた。音楽も神をたたえるためのものだった。モーツァルトの時代は、人間が自分自身の価値に目覚め、生きる喜びを謳歌し始めた時代の入り口にあたる。モーツァルトはこの新しい時代の最先端の感性に共感し、それを音楽で表した。人間であることのすばらしさ、生きる楽しさを音楽で歌い上げていった。数世紀の時を超えてモーツァルトの音楽が現代の私たちに語りかけてくるのは、それが趣味のよい音の連なりである以上に、人間讃歌の音楽だからである。しかもモーツァルトが讃え音楽で表したのは貴族や王様、英雄ではない。不幸な人を見れば悲しくなり、幸せな人を見れば自分まで嬉しくなる、そんな普通の人々のあたりまえの感情だった。モーツァルトは自分もその一人である庶民として笑い、喜び、泣いた。普通の人と違うのは、それを音楽で行ったということだ。モーツァルトがクラリネットのために書いた二つの作品、「協奏曲」と「五重奏曲」は、優しく気立てのよい姉妹のようによく似ている。第二楽章では、生への別れの歌が静謐な声で歌われる。この歌は、限りある時間の中で刻まれるのではなく、永遠の時間の流れの中に溶けこんでゆく。※この二曲のカップリングではリチャード・ストルツマンと東京カルテットらのCD(BMG)がある。クラリネットのための名曲は少ないので、この2曲はたいていのソリストが録音している。ウィーン趣味たっぷりのウラッハから最近ではフランスのペイエまで選択肢は多くあまりハズレがない。
September 17, 2007
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高校の同級生三人と集まる機会があった。中でも楽しみだったのは、同じ学年の女子150人中、「お嫁さんにしたい」人気ランキングで常にダントツの一位だったゆきえさん(仮名)と約20年ぶりに会うことだった。巡り合わせは不思議なもので、本来であればわたしと彼女は恋仲になっていたはずだった。20歳の時のクラス会の帰り、なぜか彼女と二人になった。4月のはじめ、たまたま雪が降ってきた。「これがなごり雪というのかしら」と言いながら、彼女は腕をからめてきた。イルカの「なごり雪」がヒットしていたころ。あんなにロマンティックで心の浮き立つシーンに遭遇することは、長い人生といえどそうない。清楚で奥ゆかしく家庭的(なにしろ彼女は家庭科クラブに入っていた)な彼女の、思いがけず積極的なふるまいに驚いたが、その頃はもう大学に恋人がいたので、彼女に義理立てしてしまい何事もなく別れた。いま思えば何と愚かだったことか。疾風怒濤の20代が過ぎ、30歳で再会したとき、彼女は結婚したばかりだった。長い交際ののち結婚したらしく、とりたてて幸せそうというわけではなかったが、女っぽい艶が出てきて、みずみずしくてきれいだった。誘いたかったが、新婚の人妻を誘うのはためらわれた。いま思えば何と愚かだったことか。それから20年。「お嫁さんにしたい女の子」ナンバーワンの彼女は、見事に太り、休みなしにしゃべり続ける、どこにでもいるふつうのおばさんになってしまっていた。インド綿のような素材の、体型のわかりにくい服を着ていたが、脱いだらすごいことになっているだろう。体脂肪率30%台後半と見た。数年前にちらっと見かけたときはまだ若々しかったので、このわずか数年の間に大きく変化~生物学的には変態~したようだ。それでも二人だけで二次会をやった。どこでわたしが株をやっていることを聞きこんだのか、二人きりになると堰を切ったように株の話を始めた。何でも、ネットバブルで大儲けしたあと大損したらしい。収支はトントンだったらしいが、含み益をあてにして買い物をしまくったヤケドが大きかったようだ。ソニーや村田製作所を素高値でつかんで塩漬けにしていると苦り切っていた。そんなカネの亡者みたいな彼女を見たくなかった。時は人を変えるとはいえ、あんまりだ。リッチな家庭の三男坊と結婚した彼女が、なぜそんなにお金持ちになりたいと思ったのか、理由を知りたいものだ。それでも、人形作りを習いに月一度上京している、家族から離れて東京のホテルに荷を解いたときの解放感はたまらない、と話す彼女には昔の面影があった。長年の観察によれば、婚外恋愛をしない女性は早々とおばさん化する。ゆきえさん(仮名)のように美人で思慮深い、最もおばさん化しにくいと思われる古風な日本女性タイプでも、40代がリミットだということがわかった。70代でも魅力的な岸恵子さんのようになるには、やはりパリでフランス男と恋に落ちたりするようなことが不可欠なのだろう。それにしても、何の気負いも衒いもなく、地のままで気楽にふるまえ何でも話せるクラスメートたちとの時間は、思いがけず楽しかった。無条件で親身になってくれる、そういう関係は今ではもうほかにはないかもしれない。
September 10, 2007
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モーツァルトの楽器、それはピアノである。モーツァルトは作曲家としてより以上に、ピアニストとしての声価が高かった。彼が最新作を自らの演奏で発表するコンサートは、当時のウィーンを代表する名物のひとつだった。「ピアノ協奏曲」では、作曲家モーツァルトと演奏家モーツァルトがせめぎあっている。というのは、ピアニストとしての腕前を披露する名人芸に重点を置けば音楽は空虚になり、内容第一でいけば協奏曲としては地味になってしまう。どちらにころんでも失敗である。「協奏曲」はイタリア語の「コンチェルト」の訳語だが、この言葉はもともと「小競り合い」という意味。ソロとオーケストラだけでなく、作曲家と演奏家という対立する性格が「競り合う」モーツァルトのピアノ協奏曲は、二重の意味で協奏曲になっていると言っていいかもしれない。「ピアノ協奏曲第25番」は、27曲あるモーツァルトのピアノ協奏曲中、最も壮麗な作品で、フランス国家「ラ・マルセイエーズ」によく似たテーマの第一楽章は堂々とした風格がある。一方、第三楽章はきわめてチャーミング。中ほどで唐突に出てくるフレーズはモーツァルトの音楽の中でもとびきり美しく、メロディになる以前のモチーフを集めたようなフレーズは、舞踏会で一瞬、目の前に現れた清楚な貴婦人のように鮮烈な印象を残す。その美しさに気づいた時にはもう姿はなく、そして二度と現れない。「ピアノ協奏曲第13番」はこの「25番」を予告するような作品で、同じハ長調で書かれている。これらの作品は、やはり同じハ長調の「ジュピター交響曲」を暗示している。※この2曲のカップリングではワルシャワ室内管弦楽団をバックに岡田佳子が演奏したCD(ポニーキャニオン盤)がいい。内田光子だけでなく、神谷郁代など、日本人女性ピアニストには優れたモーツァルト演奏家が多い。
September 9, 2007
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1984年以来の友人でドキュメンタリー映像作家の佐藤真が9月4日に自殺した。元東大文学部自治会委員長の、ノンセクト学生運動の同志は斃れた。躁うつ病で入退院を繰り返していたというが、あの粘り強く芯の太い温厚なキャラクターからは想像もできない。突然の自殺は、薬の副作用を疑いたくなる。知り合ったのは彼が助監督をやった水俣の記録映画「無辜なる海」の全国キャラバンだった。弘前出身の彼は東北・北海道地区を担当することになり、記録映画の上映に関心を持っていたわたしのところに連絡があったのだった。この上映の北海道における失敗(という自己総括)は、わたしの人生を大きく変えるきっかけになった。1980年代のはじめは、反核運動のうねりが大きくなっていった時期だった。札幌では丸木夫妻の「原爆の図」展が数万人、映画「水俣の図・物語」も数千人規模の観客を集めた。元日大全共闘書記長の故田村正敏が始めた勝手連運動の力で「革新系」知事が誕生したり、何かが大きく変わるかもしれないと思われた時期だった。「無辜なる海」は、淡々とした地味な映画で話題性もなかったが、こうした熱気の余波を借りて、千人くらいは動員できるだろう、できなければ失敗だ。そう考え、「駅裏八号倉庫」を会場に選んで準備したのだった。結果は、わずか数百名の動員に終わった。「原爆の図」や「水俣の図」は、丸木夫妻というスターがいた。絵画という切り口もある。教職員組合を通じてチケットが流通し、教師がたくさんの生徒を引率する姿が見られたりした。結局のところ、当時まだ堅固だった労働組合を中核にした「労働運動」だったのだ。それを隠して、マスコミにコネクションがありマスコミ受けのする自然保護運動家や編集者などの個人が前面に出て草の根の市民運動ぶっていたのだ。それがとりたてて悪いわけではない。その成功したやり方を踏襲する手もあったが、映画を「運動」の目玉にするのではなく、映画として映画好きの人たちに見てもらいたい。もちろんふだんは映画など見ないが「社会問題」に関係のある映画なら見るという人たちにも見てもらいたい。そう考えた。その少なめに見積もった動員可能数が千人だったのである。来場した数百人の内訳は、どんな映画でも全部観る少数の映画フリークを除けば、安全な食べ物にこだわる消費者運動に参加している比較的若い主婦、職業的な関心のある看護学生や看護婦といった女性、身内と言っていい環境保護・障害者運動の活動家たちだった。 それもほとんど個人的な関係、クチコミの範囲にとどまった。社会問題に関心のない人に、この映画を通じて社会への眼を開いてもらいたいという気持ちと、社会問題に関心はあっても文化・芸術に関心のない人たちにこの映画を通じて文化・芸術の力に眼を開いてもらいたいという気持ち。そのどちらもが満たされず何も獲得することなく終わってしまった。映画ファンは、うさ晴らしにならないような映画には来ないし、「運動」の匂いがすると避ける。活動家たちは、カツ丼食べながらの運動にしか関心がなく、精神というか内面を豊かにし感性を磨く文化・芸術の重要性をほんとうのところでは理解していない。要するに、人寄せの手段くらいにしか考えていない。そういう状況全体に嫌気がさした。端的に言えばしらけてしまったのである。マスコミに売り込みの上手な人たちのようなやり方をとらなかったのは、小ぎれいな公共ホールではなく、ニューヨークのソーホーにあるような、石造倉庫の大きな壁面全体をスクリーンにして上映することで、非日常的な場所と空間で水俣の人と出会うような、そんな場を作りたかったからだ。市民社会の内側で、自分は安全なところに身を置きながら、社会問題に「関心」を持ち「運動」に参加している人たち。同時に、映画をあくまで映像作品ととらえ、自分の生き方にとらえかえすことなく教養主義的に「鑑賞」することしかしない人たち。その両方に、いささか危険な匂いのする場所に身をおき、その暗闇の中で水俣の海と人に出会ってもらうことで、ゴダールが「ヒアアンドゼア」で提起したような事柄に目覚め気づくきっかけにしてほしかったのだが、そのもくろみは完璧に失敗したのだった。そうした一連の経過があって、記録映画の上映という、ライフワークにしてもいいと思っていた事柄に見切りをつけると同時に、状況全体に倦んでしまったのだった。三里塚のパック野菜運動のように、水俣の無農薬甘夏みかんの共同購入といった方向にもつなげてみた。しかし、これは一部の農家が実はわずかだが農薬を使っていたことが判明し、混乱のあげく終焉してしまった。ふつう、こうしたイベントの終了時には、関係者全員で打ち上げを行う。収支報告をし、酒を酌み交わしお互いの労をたたえる中で、では次はこんなことをやろうというアイデアが飛び交い、自然と次にやることが決まっていくものだ。しかしわたしは打ち上げをやらなかった。活動家たちは、たとえば当時焦点化していた岩内原発反対運動に熱中していて地味な記録映画に関心を示さなかったし、興行的に成り立ちにくい記録映画の上映に協力的なはずの良心的な映画関係者たちも冷淡だった。それはたぶん主催者であったわたしが、そのどちらにも属さない、つまりそのどちらの「ムラ」の住人でもなかったことが原因だと思う。日本的「ムラ社会」思考は、こんなところまで浸食していたのだ。そうしたムラ社会とは訣別しよう。今後、こういうことには一切手を出すまい。そう考えて、打ち上げの代わりに、佐藤真と、当時付き合っていた彼女とその友だちと四人でディスコへ行ってただ遊んだ。反省や総括めいたことはいっさいやめ、一夜の宴と共に「夢」をすべて洗い流した。あの夜、いわゆる青春の日々に別れを告げたのだ。この映画の上映に使った自己所有の16ミリ映写機も笹日労(笹島日雇労働組合)に寄付してしまった。彼は興行的な不成功について一切言わず、いつものように穏やかに微笑みながら、オホーツク海で漁師になろうかなあ、などと言っていた。自分で撮りたい映画のテーマを探していたのかもしれない。お互い自分探しにもがいていた時期だった。しかし、それを話してはおしまいという気がしたし、プライドがゆるさなかったから、話さなかったし訊かなかった。東大文学部自治会委員長だった彼は、いままで会ったことのある東大出身者と決定的に異なる強烈な個性を持っていた。東大出身者には共通して専門外のことはしたくない、なるべく自分の手は汚したくないというエリート意識が感じられるものだ。また、どこか秀才特有の病的に神経質な部分を持った人も多い。しかし佐藤真にはそういうところが全くなかったし、学生活動家あがりの人間特有の屈折した観念性や先験的な正しさを誇る独善性からも完全に無縁だった。何より、公害被害者を救わなければ、被害の実態を伝えなければといった使命感ではなく、底辺で生きる人々、市民社会からはじき出された人々を強く愛したからこそ結果として作品ができた。底辺の人々と水平に交わることが彼の人生の規範と原則だったという点で、類例のない「元東大生」だった。彼の作品を東大学長の蓮見重彦が激賞したのには、東大出身者にこんなすごい映画が作ることができるというのかという驚きも入っていたのではないか。あんなに人間くさい東大出身者は小田実以来だったかもしれない。どんな世代のどんな境遇のどんな立場の人とでも腹を割り仲よくなって話すことができる。そんなキャラクターは、寡黙だがあたたかみのある、いかにも北国の人という感じではあった。これから追悼の催しが全国で開かれるにちがいない。陳腐な追悼の決まり文句が氾濫するだろう。残念なのは、世界最高のドキュメンタリー作家の新作が永遠に観られなくなったことではなく、10年ぶりに会ってもそのブランクなしに、いきなり物事の核心を話すことのできるほとんど唯一の友人を失ったことだ。 躁うつ病は、更年期など、いろいろな原因で起きる。撮る映画は内外で高く評価され、近年は大学教授の地位も得ていた。プライベートは満帆ではないにしても順風だったはずだ。だとすれば、この世の不幸をたくさん見過ぎたことが、長い年月の内に精神を傷つけてしまったのだろうか。それとも、世界の不幸に対してのあまりの無関心、繁栄を誇る享楽文化に浸りすぎ問題意識の欠落した狂人ばかりになってしまったこの世界への無意識の絶望が蓄積し臨界点を超えてしまったのか。7月に亡くなった小田実は、大阪大空襲の経験から、「殺される側」に身を置き、そこからすべての自分の思考を組み立てることを原則としていた。佐藤真の映画も、市民社会から排除され周辺においやられるマイノリティの側にほとんど同化した位置から撮られている。これは欧米の知識人や芸術家にはほとんど欠落している視点であり、それが彼らの思想や作品のかけがえのない価値となっている。さようなら、佐藤真。きみの得意料理だったバンバンジーはおいしかった。あれをつまみに、昔より少しはグレードアップしたバーボンを飲みながら、パレスチナについて、市民社会の腐朽について、記録映画について話したかったがそれはもうかなわない。いつかまた会う日まで、どうか元気で死んでいてくれ。
September 8, 2007
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