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5分遅れで始まったコンサートが、20分の休憩を挟んで終わったのは午後9時40分。正味1時間程度のことも少なくないクラシックコンサートだが、たっぷり2時間20分。79歳と80歳の二人のピアニストの紡ぐ音楽世界は、途方もなく豊かで、2時間があっという間に過ぎた。我に返って時計を見たときあっと驚いた。戦前に生まれ、主に戦後に活躍を始めたウィーン出身の3人のピアニストがいる。フリードリヒ・グルダ、イェルク・デームス、パウル・パドゥラ・スコダである。グルダは残念ながら亡くなってしまったが、デームスとスコダは現役。スコダなど80歳を記念して世界ツァーを行っている。前半はシューベルト。冒頭、デームスが弾「4つの即興曲集」を聴いていて、小澤征爾がバックハウスについて書いていた文章を思い出した。たしか、自分の家で暖炉にあたるように、孫に語りかけるような演奏で、音楽以外のものがいっさいな純粋なものだったと。デームスの演奏はまさにそのようなもので、それ以外に付け加えることはない。こんな音楽を聴いたのは生まれて初めてだ。次は連弾で「幻想曲ヘ短調」。サロン音楽としてはかなり充実した、シリアスな内容の作品だが、サロン音楽の軽さに陥らず、必要以上にシリアスにもなることもない演奏。明と暗の間を行き来する音楽の微妙な陰影がすばらしかった。マーラーはシューベルトの音楽にかなり影響されているのがわかる演奏だった。後半はモーツァルト。スコダのソロでソナタの15番。スコダの方が1歳上だが、演奏はスコダの方が「若い」。とても80歳の人の音楽とは思えないほど、音がキラキラと輝き、音楽も軽々と弾む。次の「2台のピアノのためのラルゲットとアレグロ」(スコダ編)は、冒頭のシューベルトと並んでこの日の白眉。まるでさっき作曲されたばかりでインクも乾いていないのに演奏されているように新鮮で、同時に熟成されたウィスキーのような味わいの気品ある演奏。音楽はどこまでも流麗で、この時間が永遠に続いてくれたらと願った。「2台のピアノのためのソナタ」を聴きながら思ったのは、「速度」についてだ。時速300キロのTGVに乗ったことがあるが、時速150キロのクルマより遅く感じた。その150キロのクルマより、時速80キロのオートバイの方が速く感じる。バンコクの小さな運河で乗ったボートバスは最高時速30キロ程度だと思うが、80キロのバイクよりエキサイティングだった。しかしそれらのどの体験よりも「スピード感」を感じるのがモーツァルトの作品、とりわけこのソナタの第1楽章である。このスピード感ある乗り物に永遠にゆられていたい、そう思ったころ、曲は終わってしまった。長く熱い拍手に応えてアンコールはシューベルトの連弾曲が2曲。「ロンド」と「軍隊行進曲」。純粋な音が「遊ぶ」さまが目に見えるような、かけがえのないアンコールだった。クラシック音楽を聴き始めたころ、ジョージ・セルの最後の演奏会をうっかり聞き逃してしまった。彼は札幌公演のあと帰国してまもなく亡くなった。そんなことがあったので、デームスやスコダのような人たちを一度聞いておきたいと思っていたが、その願いがやっとかなった。この二人は、このあと香川や大阪、新潟など各地で演奏するようだ。もしわたしがピアノ専攻の音楽学生だったら、追っかけをやっていただろう。ある年齢に達しないとできない類の音楽というのはある。しかし、多くの音楽家は80歳を待たずに世を去ってしまう。ウィーンの巨匠二人が偶然にも長生きで、しかも演奏活動ができるほど健康であるという奇跡と、その音楽が年齢にふさわしく見事に熟成したという奇跡。この二つが巡り合うこと自体が奇跡とも言える。人生とは何とすばらしいものだろう。こんなすばらしい音楽がまだ生き残っていて、それと遭遇できるとは。
October 29, 2007
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岡嶋晋という人のバイオリンを聴いてきた。札幌も音楽会が増えた。10年前に比べて倍、30年前に比べると10倍以上になっているのは確かだと思う。秋のこの時期には3つも4つも重なることが珍しくない。人口は30年で倍程度だが、それ以上に音楽愛好家が増えたのか。元が少なかっただけかもしれないが、クラシックやジャズを聴く人は、それ以外の音楽を好む人に比べて頻繁にコンサートに行く傾向がある。そんな中で、ほとんど無名のこの人のコンサートに出かけたのは、20世紀イタリアの作曲家ピツェッティ、イギリスのウォルトンなどの珍しい作品、それに「イヴリーのために」という、イタリアの前衛作曲家ブルーノ・マデルナがバイオリニストのイブリー・ギトリスのために書いた作品がプログラムに組まれていたからである。札幌出身で、北大医学部、ロンドン王立音楽院で学び、現在はロンドンで開業医をしながらコンサートも開いている、という経歴もおもしろいと思った。会場の渡辺淳一文学館にも興味があった。渡辺文学には何の興味もなく、渡辺文学のファンには軽蔑の感情しかないが、こんな機会でもなければ入ることはないので、割と趣味のいいこの建物に入るちょうどいいチャンスかと思った。際立って優れた人というのは、何も言わなくても、何もしなくてもオーラを発しているものである。歳のころ40代なかばと思われる(実際は30代に見える)この人はまさにそうで、ステージに現れた瞬間にもう勝負あったという感じ。80~100人ほどの小さなホールは、ステージがいちばん低くなっている。音響効果はさほど良くないが、小さいし、そういう形状なので演奏の細部がよくわかるというか、アラが聞こえやすい。この人のバイオリンの腕を評するなら、ソリストとして立っていくのは難しいが、日本のプロのオーケストラならコンマスは無理としても、かなり前列の方に座ることのできるレベルだと思う。外国生活が長いせいか、洗練された物腰、人をそらさない話術には感銘を受けた。曲目の解説を交えながら進行したのだが、その簡にして要を得た解説には感心した。実際、この人のバイオリン演奏をそうたびたび聴きたいとは思わないが、病気になったとき、この人の診療なら全幅の信頼がおけるのではないかと思う。自身のHPを見ると、10年ほど前には乳がん専門医の認定も受けている。そうと知っていれば、母を診察してもらったのにと、残念に思った。演奏者の呼吸が間近に感じられるような、アットホームな小さな規模のコンサートというのはいいものである。そうしたコンサートは、せいぜい100人くらいの会場で行われることが多いが、演奏者が一流ではなくても、この日のコンサートのように心の奥に深い印象となって残ることが多い。この人の全身から発せられる知性のオーラが、音楽のオーラに転化すればすごいことになるだろうが、必ずしもそうはいかないところがクラシック音楽演奏の難しさだ。この人は毎年札幌でリサイタルを開いていて、今年で15回目になる。最近はロンドンでもリサイタルを開いているようだ。来年、16回目のリサイタルにはぜひ行って、ついでに今回参加しなかった打ち上げにも出て、いろいろと話を聞いてみたいと思っている。
October 26, 2007
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札響の定期演奏会を第1回から全部聴いている知人がいる。そういえば最近見かけないが、まだ生きているだろうか?わたしが初めて札響定期を聴いたのは38年前。定期演奏会で言うと100回台だったと思う。そのころは中学生だったが、その年に22歳、つまり大学新卒だった人は今年定年になる。オーケストラは学歴は関係なく、高校中退の人もいたが、約半年ぶりに札響定期に出かけてみて、38年前の楽員がとうとうひとりもいなくなっているのに気づいた。札響の独特のトーンを築きあげたのは初代指揮者の荒谷正雄と二代目のペーター・シュバルツだった。このトーンを愛した人は武満徹など少なくないが、シュバルツが去ってからも30年以上の歳月がたち、この時代を知る楽員もほんの一握りになってしまった。いわゆる「札響トーン」は部分的には健在だが、すっかり変質してしまった・・・というのが約半年ぶりに札響を聴いての感想だ。一週間前にサントリーホールでベルリン・シュターツカペレを聴いたばかりの耳でキタラホールで札響を聴く。まず驚いたのはサントリーホールと比べての音響のよさであり、日本のオーケストラの中では抜群にきれいな音だった札響のトーンの変化だった。オーケストラは指揮者次第で音が変わる。しかし、ネヴィル・マリナーは老練な指揮者らしく無理なく鳴らしていたと思うので、これはやはり札響の音が変わった~それも凡庸な日本のオーケストラのようにと思わざるをえない。まあたった一回か二回の印象で即断するのは控え、もう少し聴いてから判断しようと思う。曲目はベートーヴェンのバイオリン協奏曲とメンデルスゾーンの交響曲第3番「スコットランド」。独奏のアラベラ・美保・シュタインバッハーは今年26歳とは思えないおとなびた風貌そのままの、堂々とした風格のある演奏で大器の器を感じる。アンネ・ゾフィー・ムターに支援されているそうで、なるほどと思う。ムターもまた、どこかの国の美少女バイオリニストなどとは違って他の誰にもないオリジナルな音楽を創造している。この、そこらの「美女」が束になってもかなわない美人バイオリニストは、決してその容姿容貌に負けていない。アンコールで演奏されたイザイの無伴奏ソナタ(「怒りの日」をテーマにした曲)の鮮烈な演奏、多彩な表現力には圧倒された。ベートーヴェンはこれからまだ「深み」と「流麗さ」を両立させた演奏が可能だろうが、こうした技巧的に高度な曲を音楽的に、しかも余裕さえ感じさせての演奏には呆然としてしまった。天は二物を与えずというが、ウソだ。天は二物も三物も与える。ネヴィル・マリナーは、一度実演で聴いておきたい指揮者のひとりだった。その願いはかなったが、熟達で老練だという以外、どうしてもマリナーの指揮でこれを聴きたい、というものがなかったのも事実で、聴いたあとも同じ印象だけが残った。たぶん、この人は大編成のエキサイティングな曲より、室内楽のような音楽に向くのだろうと思う。札響定期は2日あるので、2日目は、この美人バイオリニストの美貌そのものを「鑑賞」することと、ファサード席でマリナーの指揮を「観察」することにした。
October 19, 2007
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東京へ行ってきた。佐藤真が自殺した場所の近くに宿をとった。東京と埼玉の県境近く。12日には、改装なったサントリーホールで、ダニエル・バレンボイム指揮ベルリン・シュターツカペレのコンサートを聴いた。死ぬまでに実演で、それも一流の指揮者とオーケストラで聴いておきたいと思っている曲がいくつかあるが、マーラーの「交響曲第9番」もその一つ。オペラ公演のため来日している彼らのたった3回のオーケストラ・コンサートのうちの1回がこの曲で、タイミングよくこのコンビでこの曲を聴けたのは幸運だった。ベルリン・フィルはもちろん、ウィーン・フィルからさえ聴けない、ビロードを思わせる感触の、しかし木質の素朴さをのこした弦の響きがこのオーケストラの最大の魅力。オーケストラ全体としては、同じ旧東ドイツのドレスデン・シュターツカペレに一歩を譲るが、機能性にも不足のないビルトゥオーゾ・オーケストラである。レナード・バーンスタインと同じく、ロシア系ユダヤ人の血をひくバレンボイムのマーラーには過剰な期待をしていた。悪くはなかったのだが、過剰な期待の分、というかバーンスタインのような没入のマーラーを期待していた分、やや期待はずれの演奏だった。バレンボイムは、伝統あるこのオーケストラの美点を生かそうとしているように思う。自然な響き、自然な流れを重んじ、流線型のマーラーを造型していたと思う。どこまでも美しく、バランスのとれたマーラーで、決して悪い演奏ではなかった。しかし、と思う。これはマーラー、しかもあの9番なのだ。バレンボイムはユダヤ人でありながらイスラエルのパレスチナ占領政策に反対している先鋭な知識人のひとりだが、たとえば中間2楽章では、こんにちのパレスチナの悲劇をもたらした人間の愚かさの全体をあざけり、弾劾するような怒りを聴きたい。グロテスクな楽想はもっとグロテスクに、バランスを欠くほどに暴走し、妖怪の叫び声や笑い声のような「下品で醜い」表現を聴きたかったと思う。音の美しさを犠牲にしても、たとえば強いアタックで多少音がひび割れてしまっても、「表現」を優先するべきではないだろうか。終楽章もそう。テンポがやや速めであることもあって、予定調和的に円満な終結を迎えることになってしまったと思う。不条理な死を強制される人々への、静かな怒りを隠した切実な祈りのような感情は、とうとう聴くことができなかったと思う。連日のオペラ公演、その合間のオーケストラ・コンサートという性格もあったかもしれない。そういうコンサートでは、どうしても破たんなく演奏しようという安全運転の意識が指揮者にもオーケストラにも働き、表現までは至らないことが多い。しかしバレンボイムとベルリン・シュターツカペレである。どんな条件下のコンサートであれっても他のどんなコンビも創造しえない音楽の時間を作ることができると思うし、またそうすべきだ。改装したサントリーホールは音響効果が改善されたというが、それはあまり感じなかった。このホールは、音のいい席が非常に少ない。
October 13, 2007
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