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人間が作ったものでこれほど完全なものがあるだろうか。そもそも人間は、これほど完全なものを作れるのだろうか。モーツァルト最後の交響曲、「ジュピター」の愛称で呼ばれる第41番、そのフィナーレである。この交響曲は全体としてギリシャの神殿のように壮麗だ。調和のとれた純白の建築物が、紺碧の空を背景に建っているような印象がある。壮麗な建築物といっても、重々しく不動の姿勢をとり続けているわけではない。モーツァルトの音楽はどんな場合でも威圧的なものとは無縁。堂々とした風格のある第一楽章でも、力強い音楽のすきをうかがい、それが終わるのを待ちかねるように軽やかな歌が流れ出す。この楽章はフィナーレとの対称もよく、神殿を支える太い柱の役目を果たす。それらを柱とすれば、優美な第二楽章は神殿の細部に施された精妙な装飾だろうか。近寄るほどに美しい。壮麗な建築物にも遊びは必要。第三楽章「メヌエット」は天窓や中庭のようなゆとりの空間。続くフィナーレを絶妙に暗示する。しかしこの交響曲のフィナーレは別次元にある。これ以上の単純化は不可能な四つの音で始まった音楽は、重力を断ち切って飛翔していく。熱せられた金属のようにそれ自体が輝かしい光を放つ。光速を超えたところでわれわれの視界からは消え、異なる世界へ旅立っていく。※ブルックナー指揮者として知られるギュンター・ヴァントは、実は20世紀の最も優れたモーツァルト指揮者のひとりだった。晩年(78歳)の北ドイツ放送交響楽団とのライブ録音がすばらしい。素朴な温かさと高貴な気品に満ちた名演。
April 29, 2007
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この本は30年以上前に出た本。たしか高校生のころ、パラパラと流し読みしたことがあった。そのときはほとんど何も感じなかったが、偶然、図書館で見つけて読み返してみて、アタマを殴られたような衝撃を受けた。自分よりたった3歳だけ年長の人が、「大学を出てからでは遅すぎる」と高校を中退し、情報の乏しさといったら今とは比較にならない1970年代はじめに、無銭旅行でアフリカを中心に外国を2年も旅をした。まず、その事実というか、わずか17歳でそういう決断をした上温湯隆という人の行動力や実行力、生活者としてのたくましさに感銘を受けた。自分のこれまでの人生を対比すると恥ずかしささえ感じてしまった。現在でさえ旅の困難な中央アフリカや西アフリカを、ライオンに襲われそうになったり、マラリアになったり、横暴な警察官とケンカをして監獄に入れられたり、見込まれて小学校の教師をしたりしながらの旅(というよりほとんど冒険)の日記から伝わるのは、腐敗したおとなになりたくない、若いときには若いときにしかできないことをやっておきたいという、尾崎豊の叫びにも似た純粋さであり、純粋さへの情熱だ。歳をとることで得るものと失うものがあるが、いちばん脆く失いやすいのはこうした情熱だろうと思う。たしか1970年代の中頃までは、ドルの持ち出し制限があった。そのため、よほど裕福で日本からの送金が可能な人以外は、ヒッチハイクや野宿を駆使し、アルバイトで旅費を稼ぎながらのいわゆる無銭旅行があたりまえだった。高校の社会科の教師も、1960年代に無銭旅行で外国を放浪した経験があり、授業をつぶしてしてくれたその話は手に汗握るおもしろさだったが、今から想像するような悲壮感に満ちたものではなかった。この本は、日本を出発して9ヶ月後、最初のアフリカであるエジプトでの、ピラミッドのわきでの野宿から記述が始まっている。その見事な書き出しや構成といい、しっかりした文章はとても20歳前の若者のものとは思えない。もし彼が生きていたら、星野道夫のようなビッグネームになっていたにちがいないが、こういう若者がいたということを、日本人はもっと誇りにしていいと思う。
April 24, 2007
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一口にヨーロッパというが、西欧と東欧ではいろいろな点でちがう。西欧では、音楽を含めた芸術文化は、人間の最も神聖な営みのひとつとされる。そこでは芸術も芸術家も愛されるよりは尊重され尊敬される。一方、東欧では文化は生活の一部であり、より身近なものとしてある。「劇場」も特別な場所ではなく、公園のように人々の生活の中に溶けこんでいる。モーツァルトの時代に彼の音楽を最も愛したのはボヘミアの首都プラハの人々だった。ウィーンで不人気だったオペラ「フィガロの結婚」はプラハでは大ヒットした。この地を訪れたモーツァルトはこう記している。「ここでは人々は〈フィガロ〉のことしか話さない。〈フィガロ〉しか演奏しないし、歌ったり口笛で吹かない・・・〈フィガロ〉以外は何もない」プラハで初演されたことから「プラハ」の愛称で呼ばれる「交響曲第38番」は、プラハ訪問を予期して作られた作品ではないことが明らかになっている。にもかかわらず、この交響曲はモーツァルトが自分の音楽を愛してくれるプラハの人々への感謝の気持ちを込めているかのよに温かく響く。美しいもの美しさを素直に受け取る人々、その素朴さや飾り気のなさへの讃歌であるかのように響く。オペラの響きもこだましている。「フィガロの結婚」や「魔笛」のモチーフが明滅し、木管楽器が活躍する様には「オペラ交響曲」のおもむきがある。オペラの序曲のような第一楽章、静かな第二楽章のあと、飛び跳ねるようなリズムの快活なフィナーレが続く。※「交響曲第36番〈リンツ〉」を併録したサー・チャールズ・マッケラス指揮プラハ室内管弦楽団のテラーク盤が、響きの豊かさと快活さを両立した名演。
April 22, 2007
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母の元同級生が、孫の結婚式のために岩手から来るというので会うことになった。母とは家も近くで、小学校から女学校までずっと一緒だった人らしい。80歳。腰が少し曲がってきていて、ゆっくりしか歩けない。持病がいくつかあるが、目も耳も、頭もはっきりしていて、日程に余裕さえあれば長距離の旅行もできそうだ。母に比べれば自分たちは劣等生で、だから惜しい人をなくしたと繰り返し話す。母は成績は一番で、卒業まで総代だったという。声がきれいで歌が上手で、絵もうまかった、小説家になるのではないか、どこかへ出て行くことで成功する人だと思っていたと話してくれた。ニューギニアから奇跡的に生還した亡夫の話から、戦争の話、いちばん危険な前線に送られた岩手や北海道の部隊の話になる。朝鮮や中国で日本は悪いことをした。日本が悪かった。80歳の、女学校しか出ていない老婆のこの認識は健全そのものだ。この人(Sさん)はずっと故郷に留まり、結婚し、子供をもうけ、孫が結婚する年齢になった。いや、もうひ孫がいるのかもしれない。母とはあまりに対照的な人生だが、どちらが幸福だったかはわからない。怒ったことなどないのではないかと思うようなSさんの穏やかな顔を見ていると、日の出と共に働く農家の生活はいいものなのかもしれないという気がしてくる。Sさんの息子は札幌の大学で教えている。高山植物の研究者で、新種の発見などの功績で大きな賞をもらったこともあるらしい。母の生家のあるあたりは宮澤賢治の世界。昭和30年代まではネコバスが走り、トトロがいた。昭和10年までは狐の嫁入りもあった。それでいて秋田や山形のような因習は少なく、青森や宮城のようにはしっこい人間は少ない。同じ東北でも県民気質というのはずいぶんと異なるものだが、その違いがどこから生まれるのかを考えてみるのは面白いかもしれない。
April 21, 2007
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ひとつ、なかったものを思い出した。音楽系の学校に行き、一時は音楽を生業としたこともあるわたしだが、音楽的環境はまったくなかった。自由だった大正時代や昭和初期に比べ、戦後も20年以上、いや30年近く戦前・戦中的価値観をひきずった人は多かったと思う。男子厨房に入らずという言葉があるが、音楽も料理と同じで、男子一生の仕事にあらずという偏見が支配的だった。料理をする男がかっこいいという感じは「料理の鉄人」以降に生まれたものだ。それ以前は、実家に泊まりに来た女子大生3人をコンチネンタル・ブレックファストでもてなしたら大もてしたくらい、料理をする男は稀だった。料理どころか、だいたいにおいてスーパーマーケットに男の姿はなかった。1960年代末まではギターなど持って歩いていると不良と見られたものだし、70年代に入ってからも、音楽をやっているということが知れて硬派の男にからまれたことがあった。ほんの少し前のことをたいていの人はもう忘れているが、戦中的価値観が戦後的価値観と激突し、日本社会の雰囲気が大きく変わったのが、高度成長末期だったと思う。音楽的環境はなかったが、小学校の教師だった母からオルガンを習ったことはある。あれは小学校へ入るまでの2年くらいだっただろうか。しかし小学校へ入ってまもなくやめてしまった。外で遊ぶ方がおもしろかったからだ。大声で歌を歌うのは好きだった。しかし音楽の授業は嫌いだった。なぜなら先生がどんな歌でも和音二つで伴奏するからだ。メロディと合わない和音を聞かせられることほどの苦痛はめったにない。音楽嫌いが決定的になったのは小学校2年のとき。遠足で出かけた先が自衛隊の駐屯地で、その食堂で自衛隊のブラスバンドを聞かせられたのだった。そこで聞いたのは、音楽というより、汚らしく大きな音の洪水だった。その洪水に、もう少しで窒息させられるかと思って恐怖さえ覚えた。これが音楽というものなら、音楽は嫌いだ。そう思ってしまったのである。いま美しい小さな音の繊細な音楽が好きなのは、40年以上前のあの体験があるにちがいない。子どもには、音楽に限らず、なるべく一流のものが与えられるべきだと思うのは、この時の体験による。オルガンも朝礼のときがさつな和音を鳴らすピアノも、ブラスバンドも嫌いだったが、歌は好きだった。あれはやはり小学校2年か3年のときだったと思う。クリスマスイブの夜に、ケーキと、いま思えばささやかなごちそうを前に、母がクリスマスにちなむいろいろな歌を歌ってくれたことがあった。「きよしこの夜」などはハーモニーをつけて歌った記憶がある。肉をかたまりで食べることがまだ贅沢だったころ。特別な夜の、特別な料理を前にしての家族のコーラスは、この時間が永遠に続けばいいと思うほど楽しかったし、ハーモニーの快感は忘れられない。あの時のような快感を、コンサートにいくと、いつもではないが、10回に1回くらいは味わうことができる。そう思っていたら、同じようなことを、指揮者の佐渡裕が「ぼくはいかにして指揮者になったか」の中で書いていた。昭和30年代の千歳は、よく停電した。夕食時に停電になり、ろうそくの光で食事をし、暗くて何もできないので歌を歌ったりした。そのとき、音楽は太陽であり月であり、何より光だった。
April 19, 2007
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モーツァルトに、パリ旅行がきっかけで生まれた一連の作品がある。モーツァルトの音楽自体もこの旅行を機に変わり始める。明るさには華やかさが加わるようになる。優しさはいっそう深い色に染まっていく。モーツァルトの音楽についてよく言われる特徴、すなわち悲しさを隠した明るさや、明るいがゆえに悲しいという魅力が表れてくる。パリで作られた二つの作品、4つの管楽器のための「協奏交響曲」と「フルートとハープのための協奏曲」にはこうした魅力がはっきりと表れている。冒頭楽章はどちらもフランス風の、典雅で華やかな音楽。明るく軽やかなテーマとやや哀愁を帯びたテーマ。この二つのテーマが、愛し合っているのにまたお互いの気持ちを打ち明けていない恋人たちの会話のように絡み合いつつ進む。恥じらい、ためらい、そして意を決したように気持ちを告げる。第二楽章も、恋愛初期の恋人たちの気持ちがそのまま音の動きになったような音楽。奪う愛ではなく与える愛、無私の愛が淡い光を放ち、かすかな風を起こす。これらが恋の音楽、恋人たちの音楽だとすれば、第三楽章は恋人たちの踊り。「フルートとハープ」では手に手をとった上品なロンドが、「協奏~」ではオペラの舞踏会の場面を思わせる活気ある踊りが繰り広げられていく。これらの曲を書いている時、モーツァルトは初恋の真っ最中。フランス革命直前の混乱し荒れたパリも、恋する青年には美しく輝いて見えたのだろうか。※この2曲をカップリングしたCDには、ローラ指揮フランツ・リスト室内管弦楽団によるソニー盤、エドリンガー指揮カペラ・イストロポリターナによるナクソス盤などがある。「フルートとハープ~」は後者が、数あるこの曲の録音でナンバーワン。
April 15, 2007
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知人が入院中の病室は4人部屋。入院患者の出入りは激しいが、知人以外の3人がみなケガで入院していた患者の時期があった。慢性の病気に比べ、骨折などのケガは治り始めると早い。すぐに元気になり、気が合ったのか面会や付き添いの常連をまじえて全員が親しく話すようになった。3人のうち、いちばん年長なのはIさんだろうか。50代なかばくらいに見える。痩せていて小柄。勤め帰りに雪道で滑って転び、ひざをついたところがコンクリート。右膝の皿が割れ、ワイヤーでつなぐ手術をした。そろそろ車イスを卒業して松葉杖になるところだが、同じようなケガをした人に比べると治りは遅い。それはたぶん、ケガをしたのにすぐ病院に行かなかったためだ。痛みをこらえて自宅に帰った、その我慢強さがあだになった。幸運だったのは、仕事場からまっすぐ帰る途中の事故だったこと。労災扱いになり自己負担はほとんどない。この人が不機嫌な顔をしているのを見たことがない。何でも、生まれてこのかた一度も怒ったことがないらしい。この人が話しているのを聞いていると、さもありなんという気がしてくる。無欲に、他人をうらやむこともなく、淡々とした人生を生きてきたのだろう。スーパーの青果売り場の仕事を一ヶ月前に始めたばかりだったという。入ったばかりの長期欠勤は解雇の理由になりそうだが、その心配をしている様子はまったくない。考えてもどうしようもないことは考えない、という知恵だろうか。50代でフリーターのような立場だとすると決して裕福ではないと思うが、人生になんの不安も持っていないように見える。せっかく覚えたバーコードの読み方も、入院中にすっかり忘れてしまったそうだが、復帰にそなえて勉強する気配もない。社会復帰も焦らないIさんのような人の方が、単調な入院生活を苦痛に思わず逆にエンジョイできてしまうのかもしれない。人生に対するこういう態度には、学ぶべきところが、ほんの少しだけだが、あるような気がする。
April 11, 2007
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イヤな上司のいる会社をやめた次の朝はどんな気持ちだろうか。当面の生活の心配がないとすれば、解放感で世の中が輝いて見えるにちがいない。25歳のモーツァルトはこの道を選んだ。彼の才能に理解のない狭量な領主と衝突、「背中をけられて」職場を追われる。史上初の「フリー音楽家」誕生の一コマである。不安的な身分とひきかえに自由を得たモーツァルトは、その才能を一気に開花させる。覇気と野心に満ちた作品が次々と作られていく。明るさと優しさに解放感が加わり、音楽はいっそう自由にはばたくようになっていく。「13管楽器のセレナード」と呼ばれることもある「セレナード第10番」は、そうした時期の最も充実した作品のひとつ。セレナードとは「夕べの音楽」を意味し、祝典やイベントのための軽い娯楽的な作品が多いが、この曲は編成もユニークなら規模も破格。モーツァルトの、作曲家としての自信と余裕を誇示するかのように創意豊かな、深みのある作品になっている。曲はのびやかな和音の吹奏で始まる。何のへんてつもない和音の連続が空気を幸福感で満たしてゆくその頂点で、快活な音楽が遠足の日の子どものように楽しげに飛び出し、駆けてゆく。第三楽章「アダージョ」は映画「アマデウス」でも使われた、モーツァルトが書いた最も美しい音楽のひとつ。素朴な和音の上を優美なメロディーがゆっくり舞い続ける。美しい女神が微笑みながら流す涙のような音楽。※フルートの神様と言われたマルセル・モイーズが最晩年に指揮したCDがある。カザルスやゼルキンらが主宰していたマールボロ音楽祭のライブ(たぶん1972年)で、クラリネットに無名時代のリチャード・ストルツマンが参加したりしている。たおやかな、音楽を慈しむかのような演奏。ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラの楷書を思わせる凛としたたたずまいの演奏も秀逸。
April 8, 2007
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統一地方選挙が近づいた。ふつう、選挙というと地縁が重視される。国会議員は地元への貢献、地方議員は中央へのパイプの太さを強調して票を得ようとする。特に地方議員の政策など似たりよったりで陳腐な公約ばかりだ。選挙に関しては原則を立てている。政権党とその同調者、宗教政党、泡沫候補には投票しない。国政選挙、知事や市長選では、何も考える必要はなくこれでほぼ自動的に決まる。全党相乗りなんて時は断固として棄権すればいいだけだ。地方議員レベルでは、かなり迷うことがある。その場合どうするか。基本的には、顔で選ぶべきだ。人柄や人間性は顔に出るものだからだ。しかし、政見放送でも見られればともかく、選挙公報の小さな写真一枚では判断しかねることもある。その場合、「男より女」「年長者より年少者」「地縁の多い人より少ない人」を選ぶことにしている。わたしの住んでいる地域では市議の定数が多い。14人の立候補者中、9人は自動的に×だが、5人の中から選ぶ必要がある。5人の中には、有望そうな民主党の30代新人、同じ中学・高校の同窓生である50代無所属がいる。しかしこの二人は地元出身だ。そこで、地元には何の縁もゆかりもない岡山出身の女性に投票することにした。顔のよさでピカ一だったが、年齢が50代なので若い人の方がといったん迷った。出身地の遠さが決め手となった。これが「唯一絶対の正しい」候補者を選ぶ方法だと確信している。東北地方の一部のように、地縁候補者しかいない地域の人間は棄権するか、そんな土地はさっさと捨てて過疎化させてしまうのが大事だ。
April 5, 2007
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農耕民族の名残の強い日本人は、会計年度に明らかなように、春に行動を起こす人が多い。春に株を買って秋に損切りする、そんな人は多いが、春はやはり何か習い事やお稽古事を始める人は多い。そこで、他人の逆を行くにはどうしたらいいかを3日ほど考え、いくつかのことをやめることにした。ひとつは、自宅での飲酒をやめること。お酒そのものをやめることはできないし、病気にでもなればともかく、やめるべきではない。美酒に酔うのは人生を最も豊かにする楽しみのひとつなのだから。量や機会が問題なのだ。楽しく会話しながら飲むのが大事なのであって、どうしても飲み過ぎてしまうひとり酒は不健全だ。ふたつめは、夕食をとらないこと。とらないと言っても、何も食べないわけではない。野菜や果物、豆腐などは食べる。要するに炭水化物の摂取を控えるということで、これだと食事の準備やあとかたづけがほとんど必要なくなる。通常の夕食をとらなくなって3日目だが、体重が1キロ減っただけでなく、なにしろ朝が快適になった。空腹で目覚めた子どものころを思い出した。そして朝食のおいしいこと。それと関連するが、昼食を家でとるのをやめることにした。外食が多いといろいろ危険も増えるが、一日に一食くらいはぜいたくをしたい。夕食を控える分、都心にどんどん増えているこじゃれた店のランチを試したい。母が元気なころは、毎日のように外食に連れ出したが、こういう楽しみを何も奥さん連中に独占させておく手はないと思ったものだった。みっつめは、クルマに乗るのをやめること。もちろん、必要なときにはクルマを使う。手では持ち運べない荷物を運ぶとき、急ぐとき、交通の不便な場所に行くとき・・・しかし、原則としてクルマに乗らないことにしたのである。街中の移動なら、少しだけ時間にゆとりを持たせれば、歩いたり自転車でじゅうぶんだ。70代にもなれば、どうせクルマには乗れなくなるのだから、クルマのない不便に今から慣れておく必要がある。あるいは、そのことでクルマのありがたみがいっそうわかる部分もあるだろう。地球温暖化防止にも役立つ。春といえば、大学浪人して行った予備校を思い出す。4月には満員だった教室が、GW明けには半分に減り、秋にはガラガラになった。何か新しいことを始めるなら秋だ。秋が近づいたら、それを考えることにしよう。
April 3, 2007
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ある日突然、思いがけない事故で車いす生活になったらどうだろうか。たいていの人はうちひしがれ、絶望してしまうにちがいない。この本の著者はちがった。首から下が麻痺するという重度障害者になりながら、リハビリを重ね、さまざまな困難を克服して、約1年にわたって車いすでアジアを旅したのだった。23歳での事故から7年半後、主治医に「一生寝たきりだ」と言われた著者は、「ガンジス河と対面する」ことをリハビリの最終目的として据える。旅程はネパールから南インドを経てタイ、そこから陸路を北上しチベット経由で再びネパールへという、バックパッカーなら一度はやってみたい、健常者でもかなりの忍耐と努力が要求されるルート。この本では、その旅に至るまでと、旅での出来事が、きわめて率直な言葉で綴られている。何よりその率直さに好感を持ったし打たれた。突然、重度障害者になって体験した差別や偏見に対しても「腹は立つが、自分も健常者のときはそうだったから」と人を責めない前向きな姿勢が潔い。旅をサポートしてくれた介護者とのあつれきなども包み隠さず書くのはつらかったかもしれないが、あえて自分の弱さをさらけだしているのはさらに潔い。車いすでアジアを旅するなんて想像もできなかったが、やればできるのだ。「ソンナコトハデキナイ」というのは、やってみもしないで、そう思いこんでいることがほとんどだということをあらためて思い知らされる本だった。飛行機での不便さとか、列車やバスに乗るときのコツとか、実際に体験してみないとわからないことは非常に参考になる。電動車いすは重いので故障したときに大変。それでふつうの車いすにしたというが、体温調節用霧吹き、エアーマット、シャワー用カバーなど、持ち物を軽くする工夫にも感嘆させられた。人間、だれでもいずれいつかは障害者になる。そんなこと考えたこともないひとには何の興味もひかず、そう考えるひとには宝のような本。
April 2, 2007
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モーツァルトの夢はオペラ作曲家になることだった。そんな彼にとって、オペラ以外の作曲は、オペラを作曲するための練習のようなものだった。一方、この時代の作曲家の仕事は、靴や服の職人と同じように、注文主の依頼でその目的にふさわしい音楽をサイズ通り「仕立てる」ことだった。主な依頼主は貴族、裕福なアマチュア音楽家、楽譜出版者、友人の演奏家・・・モーツァルトの作品のほとんどはこうした人々の注文から生まれた。おもしろいのは、友人の演奏家のための作品に優れたものが多いこと。彼らの優れた演奏が刺激になったことは想像に難くない。が、そうした音楽的な面にとどまらず、友人たちの人柄の中の愛すべき部分、いわば人間そのものが音楽に反映しているようにさえきこえる。オペラでの的確な心理描写、深い人間洞察に明らかなように、モーツァルトには人間の良い部分を直観的に見抜く力があったのだろう。こうして、美術など静止した芸術では表現できない、音楽による依頼主の「心の肖像」が描かれていった。「ホルン五重奏曲」は、友人のホルン奏者ロイトゲープのために作られた作品。20代のモーツァルト特有の明るさと優しさに満ちた曲で、短い序奏のあとホルンがしみじみと歌い出す第1楽章、安らかな雰囲気の第2楽章、活発な第3楽章からなっている。友情のあかしてあるかのような温かい音楽が、ホルンのおおらかな響きにのってのびやかにひろがっていく。※オリジナル楽器アンサンブル、ラルキブデッリの演奏が秀逸。
April 1, 2007
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