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77歳のロバート・レッドフォードがやってくれた。ほぼひとり芝居の106分だが、クレジットに登場するすべてのスタッフ、とりわけ監督のJ・C・チャンダーには拍手を。パニック映画に興味はないがサバイバル映画には興味がある。いつ似たような状況に自分が遭遇しないとも限らないからだ。ちょっとした知識や知恵で生と死の境界がわかれることは、多少とも自然とかかわったことのある人なら切実にわかるはずだ。登場人物はレッドフォードただひとり。だからセリフがない。字幕がなくても98%は理解できるにちがいない。吹き替えや字幕の必要のない映画の可能性を見せてくれた点でも特筆すべき作品だと思う。公式サイトのストーリーを転載。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ことの起こりは8日前。インド洋をヨットで単独航海中の男は水音で眠りから覚める。気が付けば、船室に浸水が。海上を漂流していたコンテナが激突し、ヨットに横穴が開いてしまったようだ。航法装置は故障し、無線もラップトップも水浸しで使い物にならない。しかし、この災難は始まりに過ぎなかった。雨雲が迫り、雷鳴がとどろき、やがて襲いかかる暴風雨。嵐が去った後に、男は過酷な現実に直面する。ヨットは決定的なダメージを受け、浸水はもはや止めようがない。ヨットを捨てることを決意した男は食糧とサバイバルキットを持って救命ボートに避難する。ここはいったいどこなのか? 助けはやってくるのか? ボートへの浸水、サメの襲撃に加え、飲み水や食糧は底を突き、危機的な状況は続く。ギリギリまで踏ん張ったものの、望みは確実に断たれようとしていた。運命に見放されようとしたとき、男は初めて自分自身の本当の気持ちと向き合う事になる。そして、一番大切な人に向けて読まれるかどうかもわからない手紙に、偽りのない気持ちをつづり始める……。 ・・・・・・・・・・・とまあ、感動的な映画のように紹介されているが、ほぼ全編が次々と襲いかかる災難、生じる課題、トラブル解決に立ち向かっていくシーンで構成されている。レッドフォードは、数々の危険を乗り越えてきた自信があるようで、穴のあいた船体や無線機を修理し、浸水を排水しと、まるであたりまえの仕事かのように淡々と「いまこの瞬間にするべきこと」をこなしていく。しかし危機は常に彼を先回りする。万策が尽き、救命ボートの上で紙を燃やして存在を知らせる。その火は救命ボートに引火し、文字通り、彼はすべてを失う。だが、すべてを、それも自分のミスによって失ったとき、逆説的なことに彼は助かる。このラストも寓話的かつ神話的であり、意味が深い。危機や危険に遭遇したとき、最も大事なのは感情を殺すことである。それさえできれば自ずと道が開けるというか「何をなすべきか」はわかってくる。わかれば、それをただクリアするだけのこと。やってだめだったら、つべこべ言わず諦めるしかない。なるほどこういうサバイバルキットがあり、天測航法という航法があり、海水から真水を得る方法があるのかなどと、教えられることも多い映画だ。海水から真水を作る方法などはよく知られているのかもしれないが、知らなかったし、この映画でもレッドフォードが思いついて発見したように描かれている。こうして自分自身で創意工夫する精神を、100均ショップの買い物に馴らされたほとんどの日本人は失っている。誰かに、何かを書いて瓶に入れ海へ流すシーンはたしかにある。しかしそれもこの老人がどんな人物でどんな人間関係があるのか背景はいっさいわからないので、想像したり感情移入したりすることはまったくできない。事故で炭鉱に生き埋めになった人たちが死ぬまでの間にツルハシで書いた遺書のようなものを読んだことがある。それは具体的な対象があるので感動的だった。しかしこの映画では、なるほど人間は死を覚悟したときこういう行動をとるものなのか、自分でもそうするかも、といった程度の共感しかできない。しかしそのことも含めて、いやそれだからこそこの映画には強いリアリティが生まれている。監督・脚本のチャンダーを高く評価するのはそのためだ。生命を左右する危機に際して人間はどう行動するべきかの規範がこの映画には示されている。そしてそれは、日常生活においての規範とほぼ共通であり一致している。この映画を観たあと、一刻もはやく帰宅し不要品の整理をしようという気になった。ところで、この映画の前に上映された「マイ・マザー」は満席だったのに、この映画は最終日というのにガラガラだった。このことは、観客が映画に求めるものは何かをよく示している。蠍座は日本一の映画館だと思うが、蠍座の客は必ずしも日本一の客ばかりではないということだ。
July 28, 2014
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地味なプログラムの割りに関心とお客を集めたコンサート。今年N響定期に客演して知られるようになった指揮者ガエタノ・デスピノーサとトランペット奏者セルゲイ・ナカリャコフの競演とくれば、前者はめざとい音楽ファン、後者は吹奏楽関係者をひきつける。しかしこの日の主役は、というか主役になってしまったのはナカリャコフ。「トランペットのパガニーニ」などと呼ばれているらしいが、パガニーニどころではない名人芸と気品の両立に新しい時代の幕開けすら感じた。前半の2曲目、日本初演だったヴィットマンのトランペット協奏曲「ad absurdum」が始まったとたん、1階中ほどの席に座ったことを後悔した。最前列で見ながらきくべきだったことを瞬時に悟った。ミニマル・ミュージックではないが、無窮動の急速音型が延々と続いていくこの音楽は、最近のヨーロッパ現代音楽のひとつの流行に沿った傾向の作品。ヨルグ(イェルク)・ヴィットマンはドイツのクラリネット奏者で作曲家だが、現代作曲家としては異例の人気を誇っているらしい。ナカリャコフ以外に演奏できる奏者が今後現れるだろうかと思えるほどの超絶技巧の曲。とはいえトランペットを慣習的な使い方で輝かしく鳴らしたりしない。弱い濁った音で終わるあたり、なかなか曲者作曲家と見たが、超絶技巧を超絶技巧と思わせない工夫に舌を巻く。それでも、たとえば循環呼吸を身につけていなくては絶対に不可能なパッセージをほとんど何の苦もなく演奏しているかに見えるナカリャコフは同じ人間とは思えないというか、脳がもうひとつ別についている新種の人類ではと思える彼を間近に見てみたかった。感嘆させられたのは超絶技巧ばかりではない。後半最初のモーツァルトのホルン協奏曲第4番のフリューゲルによる演奏でも明らかだったが、ナカリャコフは世のほとんどの「名手」たちのように名人芸を見せびらかしたりしない。むしろ演奏者としての自分の姿をできるだけ消そうとしているかのようにさえ感じる。だから音量は常に控えめで、ソリストとして君臨する部分がまったくない。あくまで音楽の一部になり切っている。これはすごいことで、演奏史的にもちょっと類例を見ない。ロシアはルネッサンスを経ていないがゆえに大芸術が生まれる可能性がある、とは故・吉田秀和の指摘だが、ナカリャコフはもしかしたら「トランペットのパガニーニ」などではなく、新たな大芸術の誕生を告げる旗手かもしれない。そういえばヴィオラのユーリ・バシュメットもロシア人だが、彼にもそんなところがある。ヴィットマン作品ではティンパニ奏者の名人芸にも圧倒された。高橋由紀という日本人で旧東ベルリンのアイスラー音楽大に留学中という。楽しみな人が現れたものである。この2曲の印象が鮮烈で冒頭の武満徹「弦楽のためのレクイエム」、トリのベートーヴェン「交響曲第4番」は印象が薄い。しかしデスピノーサの指揮は好感できるものだった。どちらの曲も休符が生きていなかったのが残念だが、ヨーロッパの指揮者に見られる過度な自己主張がなく、ヨーロッパの指揮者に特有の甘い香水が香るような気品がある。だから厳しさのない「レクイエム」にはなってしまったが、こういう演奏もあっていいと思えた。ベートーヴェンは、たとえば小澤征爾音楽塾オーケストラが演奏したらどうだろうかと思いながらきいた。実際、マンの指揮で8番をきいたことがあるが、整然かつストイックだった。それに比べるとずっと音楽の行間が語るものが豊かなのだ。それにしてもナカリャコフには驚いた。あまりに驚いたので、トランペットという楽器には何の興味もないが、無料だというしセミナーにも行くことにした。
July 27, 2014
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前日と同内容のコンサート。ただし収録のためか、前日の反省によるのか、後半のシベリウスでは木管セクションの首席がPMFアメリカ教授陣に変わっていた。男子3日見ずば刮目して見よという。平均年齢25歳前後と思われる若者オーケストラは、26時間見ないうちにものすごい成長を遂げていた。これが若さということなのだ。あらゆるものを吸収し、どんどん成長する。可能性の沃土。音楽的な内容それ自体はともかく、前日とは打って変わった密度の濃い演奏に腰がぬけるほど驚いた。前日の演奏があまりにひどかったので、この演奏会はキャンセルしようかと思っていた。しかし、このコンサートの前にはPMFアメリカの室内楽フリーコンサートがあり、せっかく会場まで来ているのだから、あまりネガティブにならずきいてみよう、そんな気になった。前日のコンサートが終わったのは17時。そのあとどういうリハーサルがどれだけ行われたかはわからない。しかし、ジョン・ネルソンも前日のような大振りは少なくなり、オーケストラは指揮者の意図を的確にくみ取り、十全な音にしている。オーケストラと指揮者の一体感が感じられたのは、今年のPMFオーケストラ演奏会でははじめてかもしれない。ただしネルソンの印象は変わらない。現場力の高い職人的指揮者。ティーレマンやエッシェンバッハのような異様な音楽を作る指揮者に比べればずっとマシだが、ぜひこの人の指揮でこれをききたい、というものが見当たらない。ベルリオーズを得意としているという世評だが、ベートーヴェンもシベリウスも、この人が他の曲をやればどうなるか、想像がついてしまう。最大公約数的な指揮者といえばいいかもしれない。オーケストラと聴衆のほとんどを納得させ、どんな曲でもその美点を損なわずに平均的以上の音楽を作る。だから喝采されるし歓迎される。ベートーヴェンの交響曲第7番でよかったのは両端楽章。特に内声部を重視しているのがわかる。終結部近くの低弦のユニゾン、サロネンがコントラバスに向かって大仰な指示を出していた部分だが、ネルソンはチェロに向かって指示を出していた。そのことで、非常に厚みのある響きが生まれていたのには刮目させられた。前日はおとなしかったティンパニもこの日は決まりまくっていて爽快そのもの。一方、第2楽章は流れはよいものの音量の増加が音楽的な迫力に結びついていかない。このあたりがネルソンがビッグ・ネームにならなかった理由にちがいない。力強い音楽の中にある無限の哀愁とか、音楽的な高揚が絶望を表すといった二律背反とこの指揮者は無縁なのだ。シベリウスではさらにそうしたマイナスがあらわになる。冒頭楽章で、弦楽のピチカートだけの経過句がある。はじめてきいたときはその異様さというか独創性に寒気を感じたが、こういう部分があっさりとイージーに流れてしまう。この曲は第2楽章が長く、異常に高揚することでも知られる。やはりピチカートで始まり、その伴奏に乗って陰鬱なメロディが繰り返されていく。しかしこの部分のテンポが均等でしかも速すぎるというか、ピチカートのひとつひとつの音に「意味」が感じられない。このピチカートは作曲家が何を言いたいかわからない、謎のような音楽なのだが、ネルソンの手にかかるとただの音階になってしまう。この部分の静謐さと謎があるからこそ、交響曲史上でも例を見ないほどの「高揚する緩徐楽章」に神秘な光を感じ、感動的な音楽になっていくのだが、ネルソンは音楽の前で立ち止まることをしない。楽譜を音にするのが指揮者の(最終的な)仕事だとかんちがいしている。フレーズの終わりがあっさりと切り上げられてしまうのは若者オーケストラのせいか指揮者のせいかはわからなかった。それでも音楽の見てくれのよさは前日とは比較にならないし、ホスクルドソンのフルートをマーク・J・イノウエのトランペットが受けつぎ、イゾトフのオーボエが応答していく「オールスター・オーケストラ」をきく醍醐味はPMFならではであり、これほどのゴージャスな体験をさせてくれる機会は人生にそう何度も訪れない。解釈不在の演奏にはネガティブな評価を下さざるを得ないが、それでもあらためて思うのは、「名曲」の力の偉大さである。純粋器楽交響曲としてはもしかしたらトップ10に入るかもしれない2曲を、実演でも録音でもこれまでに何度きいたかわからない。しかしそのたびに発見があり、はじめてこれらの音楽を知ったときの興奮や感動をも同時に思い出させてくれる。この2曲がなかったら人生がどれほど単調で平凡なものに感じられたかを想像すると、イスラエルのガザ侵攻を連想するほどおそろしい。
July 26, 2014
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ロリン・マゼールが降板~死去のため指揮者が変わった因縁のコンサート。代役はコスタリカ生まれのアメリカ人指揮者(名前からはイングランド系と思われる)、73歳のジョン・ネルソン。録音に恵まれていないため、またオペラ・ハウスでの仕事が多いせいか日本では知られていない指揮者。チケットをキャンセルした人も多かったようだが、マゼールの代役になるくらいならそれなりの人物だろうと考えて行くことにした。精力的な指揮ぶり。とても73歳には見えない。ちょっと老けて見える60代前半という感じ。キャリアと経験が相当な人であることはすぐわかった。オーケストラを短時間で仕込み、要所を決めていく能力に長けている現場力の高い人。こうした急場を安心してまかせられる、音楽プロデューサーにとっては頼りがいのある重宝な指揮者だろう。しかしそれと音楽が優れているかはまた別の話だ。プログラムはバーンスタインゆかりの2曲である。ベートーヴェンの交響曲第7番とシベリウスの交響曲第2番。前者はバーンスタインが生涯の最後に指揮した曲で、1990年の第一回PMFでもロンドン響を指揮して演奏した。シベリウスはバーンスタインが生涯をかけて取り組んだ作曲家で、たしかステレオ録音ではじめての全集を作ったのは彼だったはずだ。晩年、ウィーン・フィルとの録音は選集にとどまったが、その中の2番の演奏は「超」の付く名演奏だ。1番は第一回PMFでも彼の指揮で演奏されている。ベートーヴェンはPMFアカデミー生のみでの演奏。指揮者が変わるとオーケストラの音が変わるものだが、ネルソンが指揮するとオーケストラが大きな、しかしいい音で鳴る。これは大事なことで、音の大きさと音の美しさはトレードオフの関係になってしまうことが多いからだ。元気かつ開放的ないい音でオーケストラは鳴るし、急速部分ほどアカデミー生の高い能力とアンサンブル力がわかる演奏だが、全体としては粗雑の一言。凡ミスも多発するし、管楽器と弦楽器のバランスが悪い。練習不足で本番にのぞむとき、少し速めのテンポをとり、1ランクダイナミックな演奏をするとうまく行き喝采を得られることが多いが、この日の演奏はその典型。細部を磨くことよりも流れと勢いで押し切った。弦楽と金管には教授陣が首席で、木管には末席で加わった後半のシベリウスは、別のオーケストラのよう。目立ってすばらしかったのはホルンのウィリアム・カバレロ(ピッツバーグ響)、トランペットのマーク・J・イノウエ(サンフランシスコ響)、トロンボーンのデンソン・ポラード(メトロポリタン歌劇場管)といった金管メンバー。したがって、フィナーレ終結部分の高揚の輝かしさと迫力は圧倒的で、この部分だけでも来た甲斐があったというものだ。凡ミスは主に木管楽器で多発。シャープ記号の見落とし、メロディラインの無音、お互いの音を聞きあわないことからくるちょっとしたアンサンブルの乱れなど。弦楽器や金管でも飛び出しなどの事故が相次ぎ、ベートーヴェン同様、練習不足をうかがわせた。耳をそばだてるようなピアニッシモの不在、前へ前へと(前のめりなほど)進み休止符の意味を無にしてしまう演奏には疑問が多い。練習と演奏を重ねるうちに変わるのかもしれないが、ネルソンという人はPMFに来たことのある指揮者でいえばネーメ・ヤルヴィのようなタイプに近いと思う。エネルギッシュで豪放なネーメ・ヤルヴィといえば当たらずといえども遠からずというところか。こういう人がアメリカのビッグ5をはじめパリ管など一流のオーケストラを指揮しているのだから、やはり巨匠の時代は過去のものになったということか。
July 25, 2014
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岩波ホールを連日満員にしたという映画をやっと観ることができた。ドイツ系ユダヤ人の政治哲学者であるハンナ・アーレントを知ったのは偶然だ。1980年代後半、泊原発稼働反対運動の中心団体に「ほっけの会」というグループがあった。そのメンバーだった北大生の古賀徹がその後九大教授になり、アーレントについての論考を書いていたことから興味を持った。監督は「ローザ・ルクセンブルク」のマルガレーテ・フォン・トロッタ、アーレント役は「ローザ・ルクセンブルク」のローザと同じバルバラ・スコヴァだということを、映画を見終わったあとで知った。「ローザ~」から20年、バルバラ・スコヴァの容貌はすっかり変わっていて、気づかなかった。トロッタ監督が脚本に関わった「カタリーナ・ブルームの失われた名誉」は、これまでに観た数千本の映画のうち、ベスト10をあげろと言われたらそのうちの1本に入れる。ジャーナリズムそのものが本質的にはらむ「イエロー・ジャーナリズム性」を告発した空前絶後の映画であり、新聞記者をたんたんと射殺した「カタリーナ」(アンゲラ・ヴィンクラー)は、その容姿容貌も含めて、わたしにとって理想の女性像となった。トロッタ監督の作品すべてを観たわけではないが、常に「女性」を描いている。ローザ・ルクセンブルクはいわずもがな、ポーランド出身のドイツの女性革命家だ。「ローゼン・シュトラッセ」ではナチスとたたかうユダヤ人女性たちを、「もうひとりの女」では女性の2面性を描いた。そしてついに(長年、構想を温めていたと思われる)「ハンナ・アーレント」というわけだ。このところ、「考える」とはどういうことか、それこそ考えていた。「バカの壁」でしきりに強調されていたのは「知っている」ということの危うさである。実は、知っていると思っていることのほとんどのことは実は知らないのに、知っていると思いこんでいる。それが「バカの壁」だということだ。では考えるとはどういうことか。たとえば殺人事件が起きたとき、殺人犯は悪いヤツだ、つかまえて厳罰にしろ、という人は何も考えていない。何かを考えていれば、そんなあたりまえのことしかいえないはずがない。事件や事故が起きたとき、犯人・原因探しをする。そのことと「考える」ことの間には何も関係がない。推理や推測は思考ではないからだ。法的にどうかを参照するのも思考とは関係がない。参照は思考ではないからだ。多数派がどう判断するかも関係がない。多数派の判断は思考の結果ではないからだ。端的にいえば、考える=思考するとは、哲学することである。何かの価値基準に照らして判断することではない。価値基準、つまり善悪そのものを問題にし主題にして「考える」ことである。このあまりに単純なケースでいえば、殺人事件の被害者になるのは悪いことなのだ。家族は絶望のどん底に突き落とされるし、生きていればできたかもしれない人類社会への寄与も永遠に閉ざされる。こうした出発点の獲得なしに「思考」はない。この出発点を獲得できるからこそ、犯人の厳罰とか防犯カメラの増設といったパブロフの犬的条件反射ではなく、こうした犯罪を生む社会、制度、文化の批判へと視野が広がり、永山則夫の「無知の涙」に明らかなように、社会福祉や相互扶助を基礎とせず、機会の不平等を温存した上での競争原理を基軸とした社会こそが犯罪の根本原因であり、その社会の構成員すべてに責任があるという視点が獲得できる。もっと言えば、ドゥルーズ=ガタリの言うように、ああいった犯罪の原因は分裂病にあり、分裂病は資本主義から生まれたものだ。資本主義の解体と止揚がない限り、「理由なき殺人」や「理由なき自殺」は続いていく。たとえば、佐世保で「親友」を殺して解剖した徳勝もなみの行動を、マスコミは母の死や父の再婚などといった家庭環境の変化に原因と動機を見いだそうとしているが、これこそパブロフの犬的条件反射、ふつうの日本語でいえば「下衆の勘ぐり」でしかない。 そう「考えて」いくと、思考することのできる人間というのはほとんどいない。外部から植え付けられた価値観にパブロフの犬化している人間が過半を占める。民主主義、とりわけ多数決民主主義が最悪の政治体制のひとつである根拠がここにある。思考停止の民主主義こそが全体主義の母であると喝破したのがアーレントだが、この映画では、やはりというべきか、むしろアイヒマン裁判の傍聴記に対するユダヤ人たちの「思考停止」の「感情的な」反応に対する彼女の苦悩というか闘いを中心に描いている。長年の友情が失われてもそのことは彼女の思考には微塵の影響も与えない。思考とはこうでなければならない。映画は全体として地味で退屈だが、見落としてはいけない細部があるような独特の緊張感のうちにすすんでいく。ラスト近くに8分ほど、アーレントがこの問題に対する「回答・返答」として大学で講義をする場面がある。トロッタ監督はこの8分のために全体を用意したというか、この8分こそトロッタ監督が最も観客に訴えたかったというか、「思考」の最も優れた一例を提示したかったのではないかと思う。アーレントには一見、明快で勇ましい結論、政治的な思想はない。しかし、傍観者的な「評論」ではない「思考」の、人類が到達しうる「見本」がここに提示されている。この作品はDVDで所有し、8分間のシーンは朝の祈りのように毎日見たいと思った。
July 21, 2014
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PMF25回アニバーサリー・プログラムであるR・シュトラウスのオペラ「ナクソス島のアリアドネ」の2回目。シュトラウス生誕150年記念でもあり、今回の上演が北海道初演。1回目もすばらしかったが、2回目はさらに完成度が高かった。どこがとははっきり指摘できないが、演技は少し控えめになったのに逆に雄弁になり、歌唱の呼吸に自在さが加わった。37名のオーケストラもさらに精妙に響き、シュトラウスのオーケストレーションの妙味を存分に味わうことができた。一昨日はセリフを追うのと音楽をきくのと、指揮者の目指す方向を把握するのに忙しくて疲れたが、2回目ともなると余裕が出る。気を抜いていてもいい部分がわかってくるから、ドラマに集中できる。そうしてわかったのは、複雑に入り組んだと思われた内容が、実に単純なお話だったということ。後半、バッカスの登場が唐突なので戸惑わされるだけなのだ。そうした観点からのこの日のヒーローはバッカスの水口聡とプリマドンナの大村博美。幕切れの壮大な二重唱には1回目も圧倒されたが、大ホールを圧する美声の大声量はオペラを楽しむ醍醐味のひとつ。蓮っ葉女(ツェルビネッタ)も王女(アリアドネ)も、女という意味では同じ。100年も前に女性性を高らかに賛美したオペラがあったことに驚くが、よく考えてみればポッペアの戴冠以来、宮廷芸術オペラといえども、価値逆転的という意味で反体制的だった。これは芸能というものの本質に根ざしている。<不倫>がいまだにスキャンダルになる日本は同性愛者を死刑にする国を嗤えないし、あらかたの日本人はこのオペラを観ても作者(たち)の真意を理解することなどできないにちがいない。
July 20, 2014
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エル・システマから登場した指揮者ドミンゴ・インドヤンが振るというので注目したコンサート。第1回PMFでバーンスタインがPMFアカデミーを指揮した唯一の曲、シューマンの交響曲第2番をメーンに、ウズベキスタン出身の若手ピアニスト、ベフゾド・アブドゥライモフをソリストにチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番というプログラム。非欧米圏出身の若手二人が主役という、PMFならではの催しといえるかもしれない。コンサートに先立ち、追悼演奏。バーバー「弦楽のためのアダージョ」。インドヤンは、才能はあるのかもしれないが未知数なところがある。暗譜で指揮したシューマンの交響曲第2番は大振りな割には音が出てこないし、アインザッツの切れ味もいまひとつ。欧米の指揮者にしばしば感じる自己中な「エゴ」がないのには好感できるが、流れを大事にするあまりシューマンの音楽の神経症的な魅力が表出されてこない。とはいえ、エッシェンバッハがPMF20周年で指揮した同じ曲の演奏に比べるとはるかにバーンスタインのかつての演奏をしのばせるものだったのは確か。残念だったのは第3楽章のピークの弦楽器のトリル部分のディミニエンドがやはりというべきか早かったこと。バーンスタインがリハーサルで「フォルテ!」と絶叫していた部分で、これはDVDにも収録されている。また、フィナーレ終結部分で突然静かになり似たような音階の音型が5回繰り返されるところがある。シューマンの天才がはっきり表れている部分である。たとえば長い航海を終えた船があちこち傷つき、よれよれになりながらも最後の力をふりしぼって港に入港する、人一生にも似たドラマ、死を目前にした一瞬に一生を回想するような、音楽でしか表現できない時間と世界を表現している稀に見る十数秒。この部分の重要さに気づかずただの「音楽」として演奏してしまったような印象を受けたのが、この指揮者に疑問符をつける最大の理由だ。ほかはどうでもいいとは言わないが、こういう部分をどうするかであらかた決まる。アブドゥライモフのピアノは圧倒的。完璧なテクニックの自然な表現は非のうちどころがない。白熱しても音楽が走らず、すべての音符を把握して演奏されているのがわかるので生理的な快感がある。ロシア的な民俗性の強調はないが、やはり西欧や日本のピアニストとはどこかちがう。こういうピアニストを発掘して連れてきたのは大成功。その功労者が誰なのか知りたいくらいだ。第一楽章後半の退屈な部分に眠気を感じずきいたのははじめてかもしれない。
July 19, 2014
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PMF25回記念のアニバーサリーに選ばれたのは、精妙な音楽で知られるR・シュトラウスのオペラ「ナクソス島のアリアドネ」。よもや札幌でセミ・ステージ形式とはいえこのオペラを体験できるとは思ってもいなかった。しかも最低入場料は1000円。たとえ凡演に終始したとしても行く価値がある。ところが、日本の若手・中堅どころを配した歌手陣は演技も含めて万全と言っていい出来。これほどの上演はヨーロッパでもまれだろう。PMFアカデミー生たちの機敏な演奏に教授陣の風格と迫力ある音楽が加わった演奏はききものだった。今年のPMFは代役だらけだ。フルートのコベレンベルグはウィーン・フィルのシュッツの代役だし、PMFオーケストラ後半の指揮も変わった。このオペラも指揮が台湾のウェンピンから沼尻竜典に変わったが、この代役がむしろこの日の成功の最大の原因だったかもしれない。沼尻竜典は、これまで実演に接する機会がなかったが、N響デビューをテレビなどで見て、ポスト小澤征爾の最右翼ではないかと思っていた。「音楽が背中に乗っているのが見える」指揮者は多くないが、彼は間違いなくそのひとり。今回、このアンサンブルの至難なオペラの見事な統率と音楽表現を両立させた指揮を見て、その思いを強くした。先日、オスモ・ヴァンスカの気持ちの悪い指揮を見たばかりのせいもあるかもしれないが、ムダのない動きと的確な指示は、音楽の理解さえ助けるほどだ。現在、ウィーン国立歌劇場やメトロポリタン歌劇場の常連となっている指揮者の中に彼以上の指揮者はいるのだろうか、とさえ思う。弦楽のトップを固めたのはウィーン国立歌劇場管弦楽団の首席たちだが、彼らの推薦で沼尻竜典がウィーン国立歌劇場の舞台に登場する日も遠くないにちがいない。音楽は精妙で美しいし、ソプラノ最高音(fis、ただし今回は慣習版のeだったようだが)をきくことができその名人芸を堪能できるオペラではあるが、オペラの筋と音楽の両方を楽しむには経験値がなさすぎる。ドイツ語を母国語とする人間しかこのオペラをほんとうに理解することはできないのではないかと思うので、内容にわけいった批評は控えることにしよう。執事長のヨリア・バルジュ、ツェルビネッタの天羽明恵など歌手陣は今年2月の国立劇場公演メンバーとかなり重なる。ほぼ日本人だけでこれだけの上演ができるようになった日本の声楽界の水準、学芸会的にならない演技にも感嘆させられる。この上演の成功には何人ものヒーローがいる。だがあえて指揮の沼尻と強烈なリーダーシップを発揮したコンサート・マスターのライナー・キュッヒル、キャラクターにふさわしく軽快に演じた天羽明恵にグランプリを。さらに練られた上演が期待される20日が楽しみだ。
July 18, 2014
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奈井江から帰り、フルートのヘルマン・ヴァン・コゲレンベルグのことを調べていたら、なんと7月17日のコンサート告知を見つけた。PMF2014の当初の予定にはないコンサートで、直前になって追加されたものらしい。リーフレットその他にも載っていない。しかも無料コンサート。狂喜乱舞して開場1時間前に並び最前列を確保した(札幌コンサートホール・キタラ小ホール)。プログラムは14日とまったく同じ。奈井江公演ではすべてがはじめての曲だったため、演奏にひたりきれないところがあった。楽しむよりは批評的にきいていた。しかし二度目ともなると余裕が出る。曲だけでなく演奏を楽しむことができる。奈井江のホールも悪くないが、キタラ小ホールの響きのよさを楽しむゆとりもできてこのホールの響きの気品のようなものにも感銘を受けた。演奏はこの日の方が全体に呼吸が深く、特にピアソラのブエノスアイレスの四季は、この上をのぞみにくいほどの完成度。特に抒情的な部分の静謐な美しさは時間が止まったと思わせるほどだった。それにしても何と美しく感動的な音楽であることか。アルゼンチン・タンゴという外部の「血」を入れることで、ヨーロッパ芸術音楽は生きのびていける。これは音楽に限らない。壁をこわし、すべてをハイブリッドにしていくことで、人類はやっと生きのびていくことができる。それなのに、現実は反対の方向にすすんでいる。ピアソラの音楽は、そうした現実に対する美しく崇高なレジスタンスでもある。ピアソラの音楽を愛好するすべての人間は、ガザ空爆を見物するイスラエル人、嫌中排韓を叫ぶ日本人、排ロシアを叫ぶウクライナ人をぶち殺すのが論理的一貫性というものだ。この日はネタかもしれないが、アンコールでちょっとしたハプニングがあった。誰かホルン奏者はいないかというクティの呼びかけで私服のまま客席からステージに上がったのはベルリン・フィルのサラ・ウィリス。チャイコフスキーの「クルミ割り人形」からトレパックなど2曲を5人で演奏。コンサートならではの即興性に満ちた短いアンコールに、久しぶりに70年代のような熱狂をきいた。コンサートの客席にはサラ・ウィリス、会場を出るとウィーン・フィルのライナー・キュッヒルとでくわす。こうしたありえない日常と光景に出会うのがPMFのような催しの意義のひとつでもある。ミュンヘンの音楽家たちのおかげで、低迷しているかに見えるPMFがよみがえったかのような印象さえ受ける。第一回PMFのシューマンの交響曲第2番のように、この日のコンサートを決して忘れることはないだろう。
July 17, 2014
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前日の「第九」できいたミュンヘン・フィル木管セクション首席奏者たちの演奏があまりにすばらしかったので、自宅から75キロの距離にある奈井江文化ホールの公演にわざわざ行ってきた。会場の規模を調べてみると246席とある。これは室内楽をきくには理想的な大きさだ。しかも自由席。日本人はシャイな人間が多く、後ろの方から席が埋まる。室内楽をきくベストの席である前の方は空いていることが多い。千載一遇のチャンスと感じた。先日、「MORGEN」というタイトルのCDを手に入れた。N響のフルート奏者だった細川順三の2006年のアルバムである。それをきいて、細川順三こそ世界最高のフルーティストだという1973年以来の認識を再確認した。しかし、彼も定年退団し、最盛期は過ぎつつある。ほかに優れたフルーティストを探しても見当たらない。音は豊かで、指もよくまわるが音楽は不在。そんなエマニュエル・パユのようなフルート奏者ばかりになってしまったと、なかば絶望していた。そんなところで出会ったのが、ヘルマン・ヴァン・コゲレンベルグというオランダ生まれのフルート奏者。リエージュ・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウ、ロッテルダム・フィル(首席)を経て2013年からミュンヘン・フィルの首席をつとめている、という以上の情報はないのだが、1999年にリエージュ・フィルの首席になったときまだ学生だったというから、まだ30代か。どんな速いフレーズもていねいで、みずみずしい音楽性にあふれた音楽作りをする音楽家を見つけるのはフルートに限らなくても難しい。音色は美しいだけでなく細いのに輝きがあり、適度なビブラートもすばらしい。歌謡性と気品の両立をきくのは、ほとんど細川順三以来のことだ。なかばこのフルート奏者めあてで行ったが、すべての演奏者の技量と音楽性に圧倒された催し。しかも、会場に着いてみると後半のプログラムはピアソラの「ブエノスアイレスの四季」とある。木管とピアノの編成によるこの曲の演奏とは珍しい、と思って調べてみるとクラリネットのクティがサクソフォン四重奏版に注目し、その編曲を行った日本人があらたに編曲し直したもので世界初演という。この世界初演に立ち会えただけでも奇跡というべき幸運だったが、PMF事務局はもっとこういう経緯をアナウンスすべきだろう。前半はサン=サーンスのフルートとオーボエとクラリネットとピアノのための「デンマークとロシアの民謡によるカプリース」、グリンカのクラリネットとファゴットとピアノのための悲愴三重奏曲、ヴィラ=ロボスの四重奏曲。この中ではやはりヴィラ=ロボスの才気煥発たる四重奏曲がおもしろい。特に民族性の強調はなく、軽妙ながら陰影もある洒脱な音楽が続いていく。ピアノなしで木管の響きを楽しむという点では、数少ない貴重なレパートリーといえるかもしれない。丁々発止のやりとりに一瞬も飽きることがなかった。ファゴットのベンツェ・ボガーニはなんと99年のアカデミー生だというが、彼のソロをたっぷりきけたのもありがたい。啼鵬編曲の「ブエノスアイレスの四季」は、まるでオリジナルのような自然さ。そこはかとない哀愁と感傷に満ちた音楽が、よく知られたバージョンとは異なる表情を見せる。ピアノの使用も控えめかつ適切で、コンサートホールだけでなく酒場のようなところできいても雰囲気がたっぷりだと思う。実はピアソラの音楽はそれほど趣味ではないが、これほど美しい音楽だったのかと目がひらかれる想いだった。この編曲と演奏をCD化したら大ヒットするにちがいない。30代後半から40歳前後、と思われる彼らの世代が繰り広げる音楽にも感銘を受けた。若いが、若さの勢いをのこしつつも円熟の味わいが加わっている。音楽に対するみずみずしい新鮮な感性を持ち、音楽をめぐる状況全体や聴衆に対しても倦んでいない。恵まれた環境で育ったという育ちのよさを感じる一方で、幼稚さがない。これはもうそれだけで勝負があった。クラシック音楽の中心地は、これまでも、いまも、これからもヨーロッパであり続ける、そう確信した。ピアノは佐久間晃子という人。アンコールはこの人のソロで始まる「秋」の終結部分だったが、室内楽奏者として一流という印象。この日の成功の陰の功労者といっていい。
July 14, 2014
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4種類のプログラムによるPMFオーケストラ演奏会の第一弾は、シベリウスで有名なオスモ・ヴァンスカの指揮でオール・ベートーヴェンプログラム。「エグモント」序曲と交響曲第9番。「第九」は地元の大学と高校の合唱部によるPMF合唱団が担当。オスモ・ヴァンスカはラハティ響とのシベリウスの実演に感銘を受けた記憶がある。ベートーヴェンの交響曲も全曲を録音している。したがって期待したが、期待はずれどころか、これまでに聴いた最低の「第九」だった。期待はずれの理由はただひとつ、ヴァンスカの指揮及び解釈。ロボットのラジオ体操のような指揮は見た目に不快で美しくない。指揮のよく見える位置できいたが、打点もはっきりせず演奏しにくいのではないだろうか。頻発した主に金管のミス、急速部分でのアンサンブルの乱れは、100%指揮者の責任だろう。解釈もいただけない。速いテンポのベートーヴェンが悪いわけではないが、落ち着きがなく、推進力に富むというよりは力まかせ。だから、たとえば第一楽章最後の高揚に何の感動もない。最後部分の上行音型の品のなさ、ただ乱暴に大きいだけのティンパニも特筆されるひどさだ。フレーズの終わりを強くする終わり方はもちろんあっていい。しかし、ベートーヴェンの交響曲でいうと第6番第一楽章第一主題の前半の最後の音などは、強奏すると音楽から品格が失われる。ヤクザがすごんだような品のなさになる(パウル・クレツキやジョージ・セルがそういう演奏している。一方、最高に優美なのが小澤征爾だ)。第九のこの部分もそうだし、第二楽章のはねるリズムの3拍目もそうだ。ヴァンスカはティンパニを強打させていたが、品がないだけでなくうるさい。第二楽章はアンサンブルの難所がいくつもあるが、そういうことにおかまいなしの唯我独尊のテンポ設定とロボット指揮には、ウィーン・フィル首席をトップにそろえた弦楽セクションも破たんしていた。ヴァンスカには音楽をフレーズというか呼吸ではなく、どこか頭の中だけで作り上げているようなところがある。演奏者の呼吸や音楽の自然な生理にはまるで関心がないようで、それがこのイチコロにひどい演奏の最大の原因だろう。第3楽章はこれら2楽章に比べるとはるかにマシだった。それはテンポがゆっくりな楽章のため、ヴァンスカの欠点があらわになりにくく、演奏者がお互いを聴きあって演奏する余地が大きかったからだろうと思われる。だれない中庸のテンポ設定自体は悪くはないが、前二楽章が速すぎ、乱暴にすぎたので、中庸なテンポくらいではクスリにならない。とことん遅いテンポでやったら全体としてユニークな解釈という評価もできないことはないが、なんとも中途半端だ。神々しい美しさも、耳をひきつけるピアニシモもない、健康的に明るいだけの演奏。フィナーレも超絶のひどさ。冒頭のファンファーレからアンサンブルもバランスもめちゃくちゃ。よく解釈すればデジタルな美的感性に対するアナログ・レジスタンスのつもりなのかもしれないが、乱暴さと迫力の間には何の関係もない。主題以降の部分も、指揮のテクニックのない指揮者が速いテンポを採用するとどうなるかの見本のようなもので、前のめりの、まるで多動性障害の人間を見ているような演奏に終始した。特に行進曲以降の弦楽のフゲッタはさほどテンポが速くないのにアンサンブルがちぐはぐなのは、ロボットのラジオ体操のせいか。高音から大村博美、塩崎めぐみ、水口聡、大塚博章という日本の第一人者を集めたソリストは健闘。みなオンチじゃないの、という演奏に出くわすことがほとんどのこの曲だが、目立った不満はなかった。若者ばかりの合唱は、厚みや広がり、暗い迫力はないが、明るい声、ぶら下がらない音程のよさがすばらしく、まあこの曲にはマッチしている。こうして白々しさばかりが残った演奏だが、刮目すべき演奏者を見つけた。それは、木管の首席をかためたミュンヘン・フィルの4人である。最初はファゴット奏者のすごさに驚いたが、次にフルート奏者に感心させられた。そう思って注意を集中すると、オーボエとクラリネットも卓越したすばらしさなのだ。このパートはこの曲ではあまりソロ部分がないのだが、ときおりきかれる彼らの音楽のセンスによさには、ほかの音がじゃまに感じられたほど。断言するが、フルートのコゲレンベルグとファゴットのボガーニはオーケストラプレーヤーとしては世界一である。ナチ支持者のティーレマンが去ったミュンヘンにはこうした音楽家が結集しつつあるのだろう。翌日のミュンヘン・アンサンブル奈井江公演に行くことにしたが、彼らとの出会いが最高の収穫。前半の「エグモント」はひどい第九とすばらしいミュンヘンの印象が鮮烈すぎて忘れたが、この演奏にはミュンヘンのメンバーは参加していなかったので特に中間部分にしまりがなく、後半はやる気だけで突っ走った素人受けのする演奏だったように思う。
July 13, 2014
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25年目のPMFが始まった。PMFの参加資格は上限が29歳だから、参加者の大半が生まれたころ創設者バーンスタインはすでに世を去っていたことになる。バーンスタインの影響は1992年までは濃厚に残っていた。93年に薄くなり、5年目の94年にはほぼ消えた。その後もバーンスタインゆかりのオーケストラや音楽家が登場していたが、環太平洋作曲家会議→レジテントコンポーザーやレジデントオーケストラがなくなり、指揮者や歌手の養成コースもなくなった。この音楽祭がいつまで続くのかはわからないが、何が行われたかだけでなく、何が行われなくなったかを考える方が有意義だろう。今年は、PMF教授陣たちによる室内楽コンサートがなくなった。一方で、地元の若い音楽ファンを直接に獲得しようという戦略がうかがえる。地元の高校の合唱団を起用したり、中学や高校の吹奏楽部員をコンサートに招待したり。去年はカナディアン・ブラスが招かれたが、今年はベルリン・フィルハーモニー・ブラス・アンサンブル。彼らによるクリニックも行われている。こうした努力が実を結ぶかどうかはわからない。なぜなら合唱や吹奏楽といったジャンルは限界芸術であり、テニス趣味の人はテニスの試合を見るが野球はルールも知らない、といったことと同じで、楽器やジャンルを超えた興味を持つことはほとんどないからだ。日本では1980年代後半からアマチュアや学習者の多い楽器のコンサートしか興行的に成り立たなくなったが、テント演劇、小劇場演劇、フリー・ジャズ、自主上映の映画も激減した。このころから若者の多くが精神的価値ではなく、ファッションや食べ物や娯楽など動物的な快楽にしか価値を見いださなくなった。この長期的すう勢に変化はないと思われる。さて、プレ・コンサートとして行われたこの催しに行くつもりはなかった。行くことにしたのは、ミラノ・スカラ座ブラス・クインテットのコンサートが中止になったため、購入しておいたチケット引換証が余りそうだったからだ。しかし期待しないで行ったコンサートの方があたりが多いもので、このコンサートも例外ではなかった。その豊麗な響きと音程のよさに陶然とさせられただけでなく、「怖い」とすら感じた。それはトランペットのタマ―シュ・ヴェレンツェイ以下12人のメンバー全員が、ソリスト級の腕前であるだけでなく室内楽奏者として完璧だったからで、こんなオーケストラを指揮して注文をつけることのできる指揮者は皆無ではないだろうか。シュターツカペレ・ドレスデンを世界一のオーケストラとみなす人は多いが、それは彼らが室内楽の精神で、自分がスコアのどの部分を担当していて、そこは音楽的にどういう意味があるかを把握しながら演奏しているからだ。それと同じことを、この12人、特にトロンボーン以下の低音楽器6人に感じたのである。女性ホルン奏者、サラ・ウィリスが司会をつとめ場のムードメーカーとなっていたが、この人にも感嘆させられた。3・11以降、すばらしい女性と出会うことが多くなった。最近では、チェ・ゲバラの4女で小児科医のアレイダ・ゲバラと石川一雄氏の妻早智子さんとの出会いは衝撃的だった。観念や抽象に走らず、体験の深みに根ざしながらもそれにとらわれない。太陽のように明るく、木の根のように強い。言葉と肉体に分離・分裂がない、といえばいちばんわかりやすいかもしれない。サラ・ウィリスにも彼女たちと通じるものを感じる。音楽家からそういうものを感じることはほとんどないし、女性からは特にそうだ。しかし、彼女の司会だけでなくちょっとした仕草や合図、演奏中のリズムの取り方などすべてに「男前な女性性」を感じたのである。彼女が紅一点としてそこにいるだけで、どれほど舞台が明るく、軽く、華やいだものになるかは、たぶん映像で見てもわからないだろう。こういう女性はドイツ人ではありえないと思って調べたら、アメリカ生まれのイギリス人だという。それにしてもベルリン・フィルはすばらしい人物をホルン奏者に迎えたものである。カラヤン時代とはちがって民主的な運営がされるようになったがゆえにちがいない。曲目は前半がバロックもの(ヘンデル=ワーグマン編の組曲《王宮の花火の音楽》から「歓喜」ほか2曲、バッハの3つのコラール前奏曲、ダウランド=オット編の4つのトロンボーンのための歌曲集)とビゼー(ハーベイ編)カルメン組曲。後半がゴフ・リチャーズの高貴なる葡萄酒を讃えて、ヤコブ・ゲーゼ(ビシャル編)のタンゴ・ジェラシー、グレン・ミラー(オット編)のグレン・ミラー物語。前半は彼らの音楽的知性に感嘆させられ、人間にこんなことが可能かという恐怖さえ感じたが、後半は素直に楽しめた。特におもしろかったのは「高貴なる葡萄酒を讃えて」で、5曲にはシャンペン、シャブリ、キャンティなどといったタイトルが付けられている。ワインの性格などを音楽で描く、というアイデアがユーモラス。「ムーンライト・セレナーデ」や「イン・ザ・ムード」といったよく知られたナンバーを集めた「グレン・ミラー物語」は、音楽をきいて酒に酔う、というような体験。アンコール曲はショスタコーヴィチのワルツ、パウル・リンケのベルリンの風、ヘイゼルの組曲「3匹の猫」より「ミスター・ジャムス」。サラの「ラスト・ワン」という茶目っ気たっぷりな合図でビートルズナンバーでもやるのかと思っていたら演奏された「ミスター・ジャムズ」は、極上のデザートのよう。技術よりも音楽的な時間と雰囲気を作ることの大切さを、「世界一の金管セクション」は身をもって示していたが、会場を埋めた(といっても7割程度)吹奏楽関係者に理解した人がいたかどうかはきわめて疑わしい。ベルリン・フィルには何の興味も持っていなかったが、サラ・ウィリスがいるなら話が別だ。彼女の出るコンサートはすべてきく価値がある。
July 10, 2014
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ジャック・タチ映画祭の6作目。1953年の作品で、ユロ伯父さんがはじめて登場する。6本のうちどれか一本と言われたら、この「ユロ伯父さんデビュー作」をあげるかもしれない。それほどまでに、この映画は楽しい。ユロ伯父さんの登場シーンが非常に多く、その分滑稽なシーンが増える。避暑地におんぼろ車で出かけたユロ伯父さん。しかし、彼の行くところいつも騒動、それもかわいらしい出来事がのべつまくなしに起きていく。バカていねいで陽気だけど心配性。そんなユロ伯父さんのキャラクターの魅力をたっぷり味わえる。トラブルは起きるが、ここには悪意というものがひとつもない。避暑地という設定もいいが、大した事件も起きずに続いていく日常の細部が常にユーモラス。人生はこうありたい、というかこうあるべきだという感を深くする。ジャック・タチの映画は、文化と言語を異にする人でもみなが理屈ぬきに楽しめる。もっといえば、タチの映画を通じてわかりあえる、というようなところがある。戦争の不在が平和なのではない。タチのような笑いが反響しこだましていくような状態をこそ平和というべきだ、とつくづく思った。
July 2, 2014
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ジャック・タチ映画祭の5作目。タチのデビュー作で1949年の作品(モノクロ)。タチはこの作品ではユロ伯父さんではなく郵便配達人。ユロ伯父さんものとはちがってよくしゃべる。ドタバタコメディだが、この郵便配達人の造型がユニーク。どこかユロ伯父さんに通じるトラブルメーカーのキャラはすでにできているかのようだ。印象的なのは自転車を徹底的に使っていること。自転車を自分の身体の一部のように扱い、言ってみれば使い倒している。こんなコメディは空前絶後ではないだろうか。「アメリカ式郵便配達」に対するパロディ、批評精神は見逃せない。やはりタチはただのコメディアンではないということがわかる一本。
July 1, 2014
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