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小鴨鉱山のウランを世にだした東善作氏。もしも鳥取のウランが残土問題の不評ばかりが残ってる今だが、もしもこのウランが品位がよく、平和利用に寄与していたならば、さぞ今では、歴史上の英雄でもてはやされているでしょう。 明治26年石川県羽昨郡生まれ、苦学シテアメリカの航空学校をでて国際飛行士のライセンス取得、ロサンジェルスで昼は遊覧飛行、夜は中華料理を営業、関東大震災の時には、HELP JAPANと大書きした飛行機でロス上空をとび、800ドルを集め日本に送ったとの英雄。日本のリンドバーグの異名をもち、第1次戦でのアメリカ空軍従事。翁のハガキの消印の関金をめぐり、関金はどこか?と資質調査所が血眼で探したという逸話も楽しいもの。東善作と東京号かほく物語
2018年07月31日
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昨日曜日、朝6時から神社掃除だというので、早くおきたので、まあいいかと出かけたら、車置き場には置けないくらいの車、藪の中にいれ参加した。もう神社の中は、草刈りマシンの音がうなり、草を引く人、箒を動かす人、もう真っ最中です。 地震の後遺症はまだ至る処にあり、鳥居は勿論、灯籠、玉垣は草のなかです。 社殿の一部が手直しされており、寄付をつのり本格的な工事が計画されてるところです。 巷では、いろいろの沙汰がなされてるようですが、この作業のなかには活気リンリンです。 どこの誰がきていないとか、誰が来てるとかお構いなし。これがいいです。 境内に残る杉の切り株の年輪には、400の齢を察せさせ、里見の殿様が社殿構築された古を忍ばせる秘所でもあります。
2018年07月26日
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「忘却とは忘れ去ることなり、 忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」 戦後、菊田一夫の有名なラジオドラマ「君の名は」の冒頭の言葉です。多分、8時頃だったと思いますが、この時間には銭湯は、誰も来ず空になると言われたくらいのものでした。 有楽町の数寄屋橋で、空襲に合った二人が、再開を約して別れてその後の苦難の物語でした。 子供ながら、すれ違いのシーンには、胸を痛め、雨がふっては、濡れて来ぬかと気にし、「有楽町であいましょう」の合言葉が甘くのこっています。 先日、シニアの会なる老人会がありましたが、前線で、学徒で従軍した方は、ほとんどおられなくなり、昭和一桁も珍しい存在となる中、「君の名は」が話題になりました。 驚くに、大半が「君の名は」でも、最近の新しい作品のことで時の流れを感じました。 平成も最終の年と定まり、新年号の出発を次に待つ今、遠ざかる戦争に負けた昭和の記憶も遠ざかります。 その中で、忘却してはならぬ事があります。 昭和の(国民学校)学童が、戦争に負けて受けた仕打ちです。 大東亜戦争敗戦後、学校では、教科書を持ってきて、硯に墨をすり、先生の指示で「何頁の何行から、何行まで塗りなさい」と教えてはいけない所を墨をぬりました。 未学習のところならまだしも、1学期に習った所もぬるんです。 終戦が8月15日だから、1学期分は、済んでるわけです。 正と教えたものが邪だったと、同じ先生に墨ぬらされるんだから大変。先生の気持ちは辛かったでしょう。 負けるってことはこんなことです。仕方ないです。。 次に来た新しい教科書は、新聞紙のような印刷で、これを切って、本にして使用するものでした。 天皇陛下の写真を奉納する奉安殿に敬礼して学校に入り、芋畑になった運動場、在郷軍人の権威活動をうけ、そして子供ながらの軍人、特攻隊へのあこがれを胸に欲しがりません勝まではでがんばりました。。 が、終戦を期して、翼戦活動してる方方の落胆と権威失墜の有様を銃後の小国民として観察し、失望したのは、忘却できません。
2018年07月05日
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