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中国にいた時、食べる量がだんだん増えていることが気になっていた。 学生食堂で食べると、これでもか! ってほどの量が出てくるし、 それを残さず食べていたので、きっと体重が増えているだろうなと心配していた。 日本に帰って来て、早速、体重を量ってみたら、 なんと1年前に中国に行く前とまったく同じ体重だった。 これでまずは一安心。 日本では、私が食事を作るから、栄養やカロリーのコントロールが自分でできる。 それでも毎晩、食後に奥さんと一緒に1時間余り散歩をしたり、 ロデオボーイに乗って揺られながらエキスパンダーやブルワーカーをしている。 体重は、2キロ増やすことは簡単だが、2キロ減らすことは容易ではない。 今日は休みということもあって、 近くの国立公園、大山に行って、僧兵コースを2時間ほど歩いた。 木々の中は風が爽やかで、直射日光も当たらず、酸素が濃い感じで、 その中を坂道を登ったり下ったりした。 年々、体が軽くなって、体力や筋力がついている気がする。 数年前、苦労しながら歩いた僧兵コースが、今日は物足りなく感じた。 大学では毎日、2時間以上歩いているから、そのおかげかな。 山を歩いた後はBOOK OFFで本を10冊ほど買い、 食べ放題の焼肉を、これでもか、というほど味わった。 「山歩き」「本を買う」「焼肉を腹一杯食べる」 これは、中国にいた時から、日本に帰ったらやろうと思っていたことばかり。 充実した一日だった。。
2009年06月28日
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日本に帰ってきて明日で1週間。 昨日は学生からのメールが届いた。 「先生の写真を送ってください。先生のことを忘れたくないから」だと。 私はもともと写真嫌いで、自分が被写体になった写真は本当に少ない。 それにしても、こんなメールを読むと、中国と日本という距離を越えて、 気持ちはすぐ近くにいるような気がする。 彼女のメールによれば、 先日、日本の大学から友好提携を希望する訪問団がやって来たそうで、 その日本人訪問団との食事会に2年生の彼女ら3人が招待されたという。 いわば大学の学生代表のようなものらしい。 その3人とも2年生で、しかもみんな私のクラス。 誰がどういう基準で選考したのか知らないが、 学生代表として2年生を選んだということはすごいことだと思う。 そしてその一方で、彼女らなら選ばれて当たり前だとも思う。 そのメールを読んで、私も誇らしい気持ちになった。 日本からの訪問団の人たちも、彼女らの日本語を聞いてさぞ驚いたことだろう。 そして、これが一番大事なことなのだが、 彼女らと話をして、きっと楽しい気持ちになったはずだ。 日本語が上手というだけでなく、 聞く人を楽しい気分にさせる話術を彼女らは身につけているからだ。 メールを読みながら、その食事会の場面が目に浮かぶようだった。
2009年06月25日
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中国から日本に帰ってきてはや4日。 関空に到着した日とその翌日は、迎えに来てくれた奥さんと大阪観光。 といっても、ただぶらぶら遊んでいたわけではなくて、 博物館・美術館めぐりをしていました。 仁徳天皇陵を見に行った時、「堺市博物館」に入り、 大阪市内では法善寺の「浮世絵美術館」と千日前の「ワッハ上方」 そしてNHKの隣の「大阪歴史博物館」の合計4箇所。 そして重要なことは、これらすべてが無料だということ。 博物館や美術館を見るのは好きだけど、 いつも気になるのが入館料の高さ。 今回は「堺市博物館」の中で売っていた、博物館ガイドブックを1000円で買って、 そこについている無料券や割引券を使って、博物館をした。 大阪府、京都府、奈良県、神戸付近の多くの博物館や美術館が網羅されていて、 そのガイドブックを見ながら、歩き回れば、安くてしかも楽しく時間を過ごせる。 中には思わぬ意外な展示物もあって、知識を増やすこともできるから、 一石二鳥、一石三鳥といったところ。 1000円の出費は3箇所を回ったところで元が取れた。 8月終わりには、今度は奈良や京都に足を伸ばして、博物館を巡った後で、 4年目の中国赴任に旅立とうかなと思っている。
2009年06月23日
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日本に帰って来ました! 以前は朝、大学を出発して北京へ行き、午後の飛行機で北京空港から 夜、関空へ、そしてそこから大阪市内という帰国パターンだったのですが、 今回は前日の夜、北京で泊まり、朝の飛行機で帰国というパターンに変えました。 関空着が午後1時。 久々の日本、大阪で遊ぶのにちょうどいい時間です。 というわけで、今回の帰国後、初の食事は、 『餃子の王将』で餃子定食でした。 中国では餃子は水餃子がメインで、 王将の餃子は、完全に日本の餃子です。 食べた~! おいしかった~! 私は好き嫌いがなく、中国でも日本料理を恋しいと思ったことはほとんどないのですが、 でもやっぱり、日本で食べる日本料理はまた格別です。 多分、日本に帰って来たという精神的な面が味覚に影響を与えているのでしょうが。 翌日は朝マック、昼は讃岐うどん、そして夜はお好み焼きでした。 家に帰ってからは、当初の決意どおり、私が食事係です。 今晩は、蓮根とにんにくの芽の炒めもの(酸辣味)がメインでした。 魚料理にする予定でしたが、大雨で魚の水揚げが期待できなかったので、 延期にしました。 しばらくは、あれを作ろう、これを作ろうかな、と メニューを考える日が続くでしょう。 そのメニューの中に、時々、中国の食堂や学生の家で食べた料理を、 自分なりにアレンジしたものを入れるのが楽しみ。 中国家庭料理を我が家で作るというのも、 中国生活者ならではのことでしょう。
2009年06月22日
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今日、日本に向けて出発します。 と言っても、午後1時に駅から列車に乗って、今日は北京に着くまで。 明日の朝の飛行機で、北京空港から関西空港へ帰るという二日がかりの旅程です。 日本に帰ったら……。 まず、DVDで映画やドラマをたくさん見たいですね。 プロ野球やJリーグなどのスポーツ中継も見たいです。 市場に行って、魚を買って、刺身や煮魚などを作って、 新しい料理にも挑戦するのもいいな。 毎日、図書館に行って、面白そうな本をたくさん借りて読んだり、 買い物に行って、日本の物価の高さに驚いたりもしたいです。 でもまあしばらくは、父の遺産(そんなにないけど)相続などの手続きや 宗教的な儀式が残っているから、そっちをやってしまわなければ。 寂しいのは、これまで「お帰り」と言ってくれた父が、今回はいないということ。 後はやっぱり、新学期に備えて、資料作りをしたり、 新しいアイディアを考えたりして、 結局、学生たちのことばかり考えているだろうな。 では、いざ、日本へ!
2009年06月19日
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明後日、日本に帰ります。 試験も終わったし、卒業式などのイベントも終わって、 今は2年生の作文の「文集」を作っているところです。 去年は、自分にできることは何でもやろうと思って、中国にやってきた。 そして、自分の時間は学生たちのために使おうとも思っていた。 この一年を振り返って、やるべきことはすべてやったという気持ちはある。 1、2年生たちとカレーライスを一緒に作って食べた。 2、日本語能力1級試験の練習として、2年生と日本語能力2級試験をやった。 3、桜日本語交流協会などの課外活動に参加して、日本人として授業をした。 4、学生たちの故郷を訪ねて、家族たちと交流をした。 5、会話が好きになるような高いレベルの授業をした。 6、日本語ドラマ発表会は今年で3年目を迎え、しかも2年生たちとやった。 7、スピーチコンテストでは参加者の70%に当たる原稿を添削し、発音も指導した。 8、1年生だけのスピーチコンテストを行なった。 9、他の学部の学生たちに日本語を教えた。 10、毎日、毎日、朝から夜まで学生たちの会話の練習相手をやった。 11、学生との交流イベント「日本語島」は皆勤した。 12、他の先生が来なくなってから「1人日本語島」をやった。 すべてが満足いったかどうかは、自分でもよくわからないが、 できることはやったという自負はある。 それらのことは、中国人の先生方からも高く評価していただいて、 何度も感謝の言葉をもらった。 何よりも学生たちが喜んでくれた。 それが一番嬉しい。 しかし、残念なこともあった。 当初、学年ごとに何かやるのではなく、日本語学部全体をレベルアップさせたいと 思ってやってきたのだが、 それがいつの間にか、学年と学年の間に大きな壁ができてしまった、ということだ。 私のクラスの学生を、他の先生が避けるようになったり、 私の部屋に来る自分のクラスの学生を「○○派」と糾弾したり、授業中差別したりして 無理やり壁をお作りになってしまったり、 4月のスピーチコンテストの際には、私が2年生をひいきしたという噂が 3年生たちの間に広まったりもした。 そのことで、ずっと心を痛めていた。 というわけで、当初は今年が最後、 やれることをやり尽くして、心置きなくこの学校を後にしようと思っていたのだけど、 今、辞めてしまえば、後悔を残すのではないか、と思うようになった。 大学側からは「ずっと、永遠にここにいてください」と (社交辞令ながらも)言ってもらったし、 ある中国人の先生からは「会話が上手い学生は、みんな先生のクラスですよ」との、 ありがたい言葉もいただいた。 散々迷って、自分一人では決めることができず、 家族と相談したところ、応援するからもう一年、頑張れ! と言ってもらい、その声に背中を押されるように、 来年もこの学校に残ることにした。 ただ、来年は、日本人教師は自分のクラスだけでなく、学部全体の教師であってほしい。 自分のクラスの学生以外を敵視するようなことだけはしないでほしい。 それだけは願っている。
2009年06月17日
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先週の土曜日の夜は、私のクラスの学生たちが謝恩会を開いてくれた。 大学に入ったばかりの時から、今年2年生が終わるまで2年間ずっと一緒に頑張ってきた 学生たちだから、「学生」というより「友達」「同士」「仲間」「戦友」という感じがする。 彼女たちのために、できることはすべてやり尽くしたという自負は持っている。 いつも学生たちのことだけを考えて、自分の時間は学生たちのためだけに使ってきた。 楽しかったことはたくさんある。 辛かったこともあった。 特に他の学年や、他の学年の日本人教師から「生意気だ」と言われた時は傷ついた。 それでも、授業の時はいつも笑顔と真剣さが溢れていたし、 試験の成績も他のクラスより断然高かった。 1年生の時から、日本人教師と積極的に交流していたおかげで、 会話は流暢だし、発音もきれいで、何よりも日本語を話すことを好きになってくれた。 私のジャンパーに「HAPPY」と刺繍してくれたのも彼女たちだし、 私が疲れた時に、随分と気を遣ってくれたのも彼女たち。 謝恩会は「回転火鍋」。 回転寿司のように回っている皿を自由に取って、火鍋に入れるというもの。 みんな若いだけあって、よく食べた。 火鍋の具だけではなくて、ケーキや果物、アイスクリームまで、 どんだけ食べれば気が済むんだい! と言いたいぐらい食べた。 こんな学生たちと2年間一緒に過ごせたことは、私の人生の中でも 最高の幸せだったと思う。 来年は、新しい先生にその幸せを分けてあげてください。 そして、何よりあなたたちがもっと幸せになってください。 いよいよ飲み食いスタート。 これは序盤戦。 いつも感心させられるのは、私の学生たちは、中国語を話さないということ。 友達同士の間でもずっと日本語で話をしている。 こんなクラス、上級生の中にもないだろうと思う。
2009年06月15日
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今年度のすべての授業は、今週で終わった。 そしてプラスαとして、ゆうべは「1年生だけのスピーチコンテスト」を開いた。 本来、1年生の「発音」授業の試験として3分間スピーチを行なうことにしていたのだが、 今年の1年生は私が担当しているクラスが多く、学生の数も84人に達していることから、 14人ずつ6つのクラスに分かれて予選を行い、 それぞれ3人の優秀者(全18人)による決勝大会を昨日開いたのだった。 予選も決勝も、審査員はすべて学生(4年生、3年生、2年生)に任せた。 狙いは、大勢の人の前で話すチャンスを1年生たちに与えたかったこと。 そして学年ごとの壁を取り払って、学部全体の連帯感を醸成したかったこと。 審査をした上級生たちに、過去の自分を振り返って、今の課題を見つけてもらいたかったこと。 まあ、そんな狙いがあった。 結果として、盛大なイベントになった。 1年生のほかのクラスの学生も、コンテストを聞きに来てくれたし、 4年生から2年生まで、たくさんの学生が興味を持って会場に来てくれた。 そして、そういう場で、1年生たちは緊張しながらも、 堂々と、上級生を唸らせるようなスピーチを繰り広げた。 私は実は、日本語が上手か下手かなどということは、 この時点では重要視していない。 大事なことは、日本語で話すということ。 日本語で話すことに慣れて、それを楽しく感じるようになること、 これが一番重要だ。 決勝大会に参加できなかった学生たちも、たくさん会場に来て、友達を応援していた。 自分を卑下するではなく、次に頑張ろうという姿勢も、見ていて嬉しかった。 来年、この1年生たちは2年生になる。 今、いろいろなアイディアを考えているが、真っ先にやりたいのは、 「日本語ミニ・ドラマ・コンテスト」 1人で話すだけのスピーチではなく、2人か3人で、演技を交えながらのミニ・ドラマを、 悲劇部門、喜劇部門、驚き部門などに分けて行い、優秀チームには即興ドラマも課したい。 まあ、それも学生の意見を聞いてからのことだが、 私のクラスの学生なら、きっと乗り気になってくれるだろう。
2009年06月13日
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今年度のすべての授業は、今週で終わった。 そしてプラスαとして、ゆうべは「1年生だけのスピーチコンテスト」を開いた。 本来、1年生の「発音」授業の試験として3分間スピーチを行なうことにしていたのだが、 今年の1年生は私が担当しているクラスが多く、学生の数も84人に達していることから、 14人ずつ6つのクラスに分かれて予選を行い、 それぞれ3人の優秀者(全18人)による決勝大会を昨日開いたのだった。 予選も決勝も、審査員はすべて学生(4年生、3年生、2年生)に任せた。 狙いは、大勢の人の前で話すチャンスを1年生たちに与えたかったこと。 そして学年ごとの壁を取り払って、学部全体の連帯感を醸成したかったこと。 審査をした上級生たちに、過去の自分を振り返って、今の課題を見つけてもらいたかったこと。 まあ、そんな狙いがあった。 結果として、盛大なイベントになった。 1年生のほかのクラスの学生も、コンテストを聞きに来てくれたし、 4年生から2年生まで、たくさんの学生が興味を持って会場に来てくれた。 そして、そういう場で、1年生たちは緊張しながらも、 堂々と、上級生を唸らせるようなスピーチを繰り広げた。 私は実は、日本語が上手か下手かなどということは、 この時点では重要視していない。 大事なことは、日本語で話すということ。 日本語で話すことに慣れて、それを楽しく感じるようになること、 これが一番重要だ。 決勝大会に参加できなかった学生たちも、たくさん会場に来て、友達を応援していた。 自分を卑下するではなく、次に頑張ろうという姿勢も、見ていて嬉しかった。 来年、この1年生たちは2年生になる。 今、いろいろなアイディアを考えているが、真っ先にやりたいのは、 「日本語ミニ・ドラマ・コンテスト」 1人で話すだけのスピーチではなく、2人か3人で、演技を交えながらのミニ・ドラマを、 悲劇部門、喜劇部門、驚き部門などに分けて行い、優秀チームには即興ドラマも課したい。 まあ、それも学生の意見を聞いてからのことだが、 私のクラスの学生なら、きっと乗り気になってくれるだろう。
2009年06月13日
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昨夜は外国語学部の4年生たちによる『卒業パーティ』が開かれた。 中国では9月からが新年度だから、この時期が卒業シーズンになる。 卒業パーティを見るのは今年が3回目。 今年の卒業生たちは、去年、彼女らが3年生の時に「会話」と「作文」を担当した。 それ以前、2年生の時は授業をしたことはなかったが、 「日本語島」などの課外活動を通じて、多くの学生と交流があったし、 今年も、担当ではないが、多くの学生が部屋に遊びに来てくれた。 自分が担当しているクラスや学年の学生と交流することは大事だ。 中国の学生と日本の学生は、どこが違うか、とよく質問されるが、 勉強の面では、中国の学生たちは非常に熱心、真剣だということ。 これは多分、日本の比ではない。 生活の面では、中国ではほとんどが寮生活だということ。 1年生の時から卒業するまで4年間、寮の同じ部屋で8人が寝起きしている。 だからお互いのことを理解し合って、友情が深まり、連帯感が強くなる。 その点では、「卒業」に対する感慨も、日本より強いはずだ。 これまでの2回、卒業パーティを見て泣きそうになったことはないが、 昨夜はステージを見ていて、涙が出そうになった。 学生たち一人ひとりに対する思い出が多くて、時の速さも同時に感じてしまった。 今年の卒業生は、世界的な経済不況のせいで、とても苦労している。 就職がままならないことから、院生への進学を目指す者が多くて、 院生試験の競争率が高騰し、非常に狭き門になった。 院生試験に失敗して、仕事を探すにも、職がなかなか見つからない。 学生たちのそんな苦労を聞いていたことも、 涙が出そうになった理由かもしれない。 卒業生たちは、たくさんの学生が私を慕ってくれた。 私も彼ら、彼女らに会えば、気持ちが明るくなった。 卒業後の社会では、困難や失敗は必ずあるだろうが、 持ち前の明るさで、挫けることなく、自分の道を歩んでほしい。 ありがとう! 私はあなたたちに会えて、とても嬉しかった。 あなたたちとやった授業は、私の心の財産です。 またいつか、中国か日本のどこかで会いましょう! 扇子を使った舞踊。 こういうのが実に中国らしい。 踊っているのは、私のクラスの1年生たち。 中国の伝統楽器の演奏。 済んだ音色で、心が洗われるような気がする。 ウクライナから赴任している教師と学生によるロシア語の歌の披露。 右側の女性がウクライナ人で、旦那さんも、この大学のピアノ教師。 こちらは韓国語の歌。 外国語学部だけあって、この日はロシア語、韓国語、フランス語、英語、 そして勿論、日本語と、異国の言葉が飛び交っていた。 場内の爆笑を誘っていた寸劇。 こういうのを見て、2年生の日本語発表会でミニ・ドラマを採用することにした。 日本語学部4年生の有志たちによる合唱「夢をあきらめないで」。 去年の会話の授業に教えた歌だが、それをこういう場で合唱してくれたことに感謝。 そして場内が感涙にむせんだフィナーレ。 この他にもたくさんのプログラムがあり、 7時半から10時半までの3時間、素晴らしいパーティでした。
2009年06月10日
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昨日は夕方、突然に電話があって、院生たちから呼び出された。 卒業記念写真を一緒に撮って、その後、食事をしようという誘いだった。 院生3年生たちは、私が初めてこの大学に赴任した時に、週3回授業をした人たち。 当時は院生1年生だったが、その彼らがもう卒業を迎えた。 月日の流れの速さはこういうところにも感じる。 当時、院生1年生だったが、ほとんどは現役の日本語教師で、 制度改革にによって、院生を卒業した者でなければ大学で日本語の教師にはなれない、 と規定されたことから、院生に入り直した人ばかり。 1週間に3回の授業は「日本の新聞を読んで議論をする」「作文」「近代文学精読」の3つ。 毎週、準備がたいへんだったが、あの時の経験があるからこそ、今の自分がある。 その彼らが、一緒に卒業写真を撮ろうと、私を誘ってくれた。 何枚も何十枚も写真を撮った後は、一緒に食事。 時間が経つのも忘れて、夜の11時半まで、いろいろなことを話した。 院生だけでなく、彼らの指導教師も来ていたので、 日本語学部のあり方について、話をたくさんした。 ある日本人教師が、校内スピーチコンテストに1年生や2年生が参加することについて、 「時間の無駄」と言ったこと、 「邪魔だから帰れ」と言って、原稿を直してもらいに来た学生を追い返したこと、 校内で挨拶をしてくれた学生に「あなたは私の学生ではない」と言って、無視したこと、 3年生の学生が私の部屋に来た時、それをチェックして、 授業中に、私の部屋に来た学生の名前を挙げて、 「この人たちは○○(私の名前)派だ!」と吊るし上げたこと、 などなど、この1年間で、学年ごとの間に大きな壁ができてしまった。 それらのことは、中国人教師の耳にも入っていて、話題になっているという。 1人か2人の日本人教師の言動のために、日本人の評価が下がるということはないが、 決して多くない日本人教師なのだから、 学年を超えて、たくさんの学生と交流した方がいい。 自分ができなくても、学生と他の教師との交流を制限することは良くない。 まして自由に交流している学生たちを「○○派」だなんて糾弾するなんて、 どう考えても学生のためにはならない。 教師の側の事情で物事を考えるのではなく、 学生の視点で物事を考えるようにすれば、この大学はきっと良くなっていく。 そのための日本人教師でありたい。。 来年は、学年間の風通しを良くして、学部全体が向上するようにしようと、 中国人の先生たちと誓い合った。
2009年06月08日
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父の葬儀で一時帰国したために、私は残念ながら見ることができなかったが、 2年生たちによる日本語発表会『日本語大好き』が先週の月曜日に行なわれた。 日本語ドラマの喜劇では、会場中を爆笑の渦に包み、 悲劇では会場が感涙で包まれた。 当日は1年生たちも、夜の授業をサボって2年生たちの熱演を見に来ていた。 その日、翌日、早朝の飛行機に乗るために北京にいた私の元へ、 その1年生たちから次々にメールが届いた。 「2年生たちは素晴らしいです!」「来年は私たちもやりたいです!」 そういう内容ばかりだった。 去年の1年生たち(現2年生)も、同じことを言っていた。 後輩が先輩の日本語を聞いて、自分のやる気を高める。 いい循環になっている。 残念だったのは、日本人の教師は一人も、見に来てくれなかったということ。 以下は、『日本語大好き』の熱演風景です。 オープニングは学生たちによるダンス。 これで会場が盛り上がった。 こちらは喜劇『結婚させてよ』。 外国人嫌いの父親と、その子供たちとの間に起こる大騒動を描いたドラマ。 父親役の彼の演技が大絶賛を受けた。 外国人嫌いの父親が、娘の彼氏(アメリカ人)に酒を勧められて、 アメリカ人に負けたくない一心で、酒を飲み、倒れてしまったという場面。 出演者一同。 みんなの笑顔が、ドラマの出来をすべて物語っている。 こちらは中国の古典的な民族楽器の演奏。 女子学生たちによる踊り。 太極拳と扇子の踊りを融合させたもの。 学生たちの自作によるミニ・ドラマ。 笑いのつぼを心得ていて、しかも会話のテンポが絶妙だった。 会場中を感動で包んだ悲劇『涙そうそう』の出演者一同。 悲劇の一場面。 日本語の勉強を始めて1年半。 本番こそ、見ることはできなかったが、練習には何度も立ち会って、 そのたびに彼らが上手になっていくのが手に取るようにわかった。 ただ重要なことは、上手かどうかではなく、 学生たちが楽しそうに日本語を話しているということ。 ある学生は「以前の消極的だった自分を変えるために出演を申し込んだ」と言っていた。 そういう気持ちがとても嬉しい。 彼らの熱演、できるだけたくさんの人に見てもらいたいと思った。 勿論、日本人の教師にも。
2009年06月05日
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今はまた中国にいます。 私の故郷から、夜11時に深夜バスに乗って大阪難波へ(早朝5時着)、 難波からはシャトルバスで関空へ(午前6時着)、 空港でチェックインして、9時半の飛行機で北京へ(午前11時半着) そこからタクシーで北京西部駅へ(所要時間1時間)、 北京西駅から新郷駅へは動車(新幹線のようなもの)で4時間半。 大学の私の部屋に帰ってきたのが、昨日の夜10時でした。 葬儀は何度か経験したが、毎度のことながら、やり方がよくわかりませんでした。 あれやこれやと指図をしてくれる人がいてくれるのは嬉しいのですが、 それぞれの言うことが違っていたり、指図が強要に変わったり、 「あの時はこうだったのに、何で今回は……?」 など、親切心で言ってくれていることはわかるのですが、 混乱したり、相手に気を遣いすぎたりで、 特に田舎は「この地域のしきたり」というものが厳然として残っていて、 私たち家族の意向と「しきたり」との狭間でうろうろしたこともありました。 体より、むしろそちらのほうが疲れたかもしれません。 父とは、話をすることが少なく、 特に近年は、私がこの仕事を選んだせいで、 一緒に暮らすことさえ珍しいほどになってしまいましたが、 日本に帰った時は、食事の準備はいつも私がしていたので、 そのことを近所の人に誇らしそうに話していたそうです。 私の仕事について、近所の人や親戚の人が、意外にも詳しく知っていたのも、 父があれこれと、近所の人に吹聴していたからだと思います。 先週、突然の訃報で、日本に帰らなければならなくなった時は、 学生たちがいろいろなことを手伝ってくれました。 ある学生は銀行に行って人民元を日本円に交換してくれたり、 連絡網を使って、私が日本に帰ること、授業を1週間ほど休むことを、 学生たちに知らせてくれたり、北京行きの電車の切符を用意してくれたり、 そしてたくさんの学生たちが、メールをくれたりしました。 「先生、悲しまないでね。体に気をつけて!」 「私たちはずっと先生を好きだよ」 「何かあった時は、私たちが先生を助けます」 「先生が帰ってくるのを、ずっと待っています」 などなど。 日本でも中国でも、温かい眼差しに囲まれています。 また新たな気持ちで頑張ります。。
2009年06月01日
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