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2016年05月26日
気持ちが疲れたとき・・・思考を解き放つ方法を考えてみた
私は自分のことを、思い詰めやすい性格だと思っています。
例えば 何か一つのことが気になると、他のことを考えようとしても思考が勝手にどんどんと膨らんで次第にその事しか考えられなくなる・・・そんな事が時々あります。
こんな時には、私自身の自覚症状として次のようなことが起こりがちです。
・目先の作業に集中できない。
・特定の事柄への思考の執着が強くなっていく。
・寝ようとしても意識が明瞭化してなかなか眠りにつけない。
こうなるとどうなるか?
疲れます。
いやいや、もう少し具体的な状態の説明も出来ますけれど、とりあえずの総論としては「疲れます」。
とにかく疲れる訳です。
これはやっぱり、嫌ですよね。
では、疲れないようにするにはどうしたらいいか。
頭の中に張り付いて離れない”思考”をどうやって解き放ち、そこから自分自身を自由にして、楽な状態になるにはどうしたらいいか。
このことに、方法論としての考察を、本やテレビ等から得た知識を繋ぎあわせて行ってみたいと思います。
第1のヒントは、 サッカー代表・本田圭佑選手の言葉から得たものです。
それはNHKの番組「プロフェッショナル」の中で、本田圭佑選手が話していたことです。
大きな怪我をして試合から遠ざかっている時、プロデューサーが「挫けないんですか?」的な内容を聞いたときのことだったと思いますが、本田選手は次のように話しました。
「信じることで力が生まれる。そのために『自分は出来る』と信じる努力をする」
これを聞いた時に、えっ、と驚きを覚えました。
「信じている」
ではない。
「信じる 努力をする 」のかと。
これ、似ているようで、実は全然違います。
どこが違うかというと、 能動的な意識をもって「信じる」という行動を起こしているどうか、という点 です。
前者はこのあたりが不明確です。ひょっとしたら能動的な意識を持って「信じる」という行為を起こした結果として「信じている」のかもしれませんが、この言葉だけではちょっと分かりません。どちらかというと、意識しない状態として「信じている」という印象を受けます。
言い換えると、その人固有の”性格”として「信じている」のかなという印象です。
ところが後者は、”性格”として信じる・信じないということは問題にしていません。
力を得るための行為として「信じる」という思考を持つことを自分自身で選択しているからです。
本田選手は、自分自身の行為・努力によって意識的に「信じる」という思考を行っているのです。
ここからのヒントは、思考はその人個人特有の”性格”ではなく、技術によって身に付ける事ができるものではないか、という事です。
身体の動かし方と同じように、思考の行い方も訓練によってコントロール出来るという仮説です。
「私は◯◯な性格だから・・・」
は、いかにも説得力がありそうな台詞かもしれません。
ですが、本田選手のエピソードを踏まえたとき、これは「思考に対する努力を投げ出してしまっている」状態のように見えてきます。
もし思考=努力だとしたら、ちょっと見方は変わってきますよね。
例えば、
「今は◯◯な考え方だけど、それだと対応が難しいから、次は△△な考えかたを身に付けよう」
というように。
つまり、思考を技術と捉えることで、努力によってどのようにも変えられるという考えを持つことができるのです。
ということで、第1のヒントです。
「思考は性格ではない、技術なのだ」
第2のヒントは、ちょっと話が飛びますが、仏教の”火渡り”の話から得たものです。
ネタ元は、 玄侑宗久さんの”般若の知 もう一つの知のあり方”というCDです。
このCDの中で、 大般若祈祷 のエピソードが紹介されています。
大般若祈祷とは、600巻に渡るものすごい量のお経(大般若経)が書かれたものを、お経を唱えながらパタパタとめくっていくという修行なのだそうです。なんでも、お経の量がとんでもなく膨大で読むのにあまりにも時間がかかるために編み出された効率的な方法だとか。
さて、この大般若祈祷を行う際に、お坊さんは「手が動き続け、そのパタパタという音を聞き、目は文字を見て、口では呪文を唱える。その呪文も自分の耳に聞こえてくる」という状態になるそうです。
そして玄侑宗久さんは、 「感覚を総動員している。この中で何かを思うということは不可能」 と続けます。
この「感覚が手一杯」になる状態を強制的に作り出すことを仏教の行ではするそうです。
その代表的な例として、火渡りのことを玄侑さんはあげています。
火渡りとは、真っ赤に焼けた木の上を裸足で歩いて渡るという行だそうですが、これは足の裏から伝わってくる熱さを我慢しているのではなくて、熱さを感じていないのだとか。
(ニュース映像を見たことがありますが、てっきり気合で熱さを我慢する修行だと思っていました)
この熱さを感じなくするための方法として、先ほどの大般若祈祷の話に出てきた「感覚を総動員して脳を手一杯にする」という手段を使うそうです。
頭の中で覚えているお経を呼び起こし、それを唱え、耳で聞く、これを一心に行うことで脳を手一杯にするのだと。
そうして脳を”感覚で手一杯にする”ことで、”熱い”という感覚が脳の”知覚”へと至らず、その結果として熱さを感じられなくなる。
これが玄侑宗久さんの言う火渡りのカラクリです。
(勿論「脳が熱さを感じない」ということと、「熱さによって火傷する」ということは別物だと説明します。立ち止まったら火傷しますよと・・・。そりゃそうですよね。)
他にも、「音声を聞きながら、絵を思い浮かべる」という行為も、脳の感覚を手一杯にする効果があるそうです。
「脳の隙を突く」とも表現していますが、ここで注目したいのは、「脳が感覚で手一杯になったとき、何かを思うということは不可能になる」という事です。
思い出してください。
最初に疲れる原因として書いていたことです。
”例えば何か一つのことが気になると、他のことを考えようとしても思考が勝手にどんどんと膨らんで次第にその事しか考えられなくなる・・・”
これは脳が勝手に何かを思っている状態です。
そして、これを止めたい!思考を解き放ちたい!というのが今回のやりたいことです。
ということは、玄侑さんの話を応用して
「脳を感覚で手一杯にすれば、思考を止めることが出来る」
ということになるんじゃないでしょうか?
脳の処理能力の限界を逆手に取って、別のことで脳の処理能力を大きく使い、それで思考を間接的に止めてしまうという手法です。
何かいけそうじゃないですか?
よし、それなら大般若祈祷を・・・という訳にはいかないので、もっと手近な方法で近似するということを考えてみたいと思います。
これが第2のヒントです。
「脳の処理能力の限界を逆手に取り、思考を間接的に止める」
これは第1のヒント、第2のヒントから展開させた理屈です。
第1のヒントでは、思考は性格ではなく、技術だという気付きを得ました。
第2のヒントでは、脳の処理能力の限界を逆手に取り、思考を止めるという可能性を知りました。
どちらにも共通することは、自分自身の思考という意識することが難しい精神作用を、自分自身の行動によってコントロールすることが出来るということです。
思考そのものを技術と考え、努力と訓練によってつくり上げる方法。
別の行動によって思考を止めるという方法。
アプローチとその目的も異なりますが、共通するのは 「自分の思考に、主体的に介入していく」 という行為であるということです。
つまり、思考は自分でコントロール出来るものだという考えです。
これに気付くことが、まずスタートではないのかと思いました。
私自身を振り返れば、自分の思考について
「自分はこういう人間だ・・・」
「生まれついての性格だからどうしようもない・・・」
とまるで固定されているものかのような認識を持っていたところがあったと思います。
でもそれは単なる思い込みではないか?
自分自身でコントロールすることが可能なんじゃないか?
少なくとも、世の中にはそう考えて実践している人がいる。その具体的な手段の例もある・・・。
このような認識を経ることで、 自分自身の思考を「生まれつき持った性格で変えられないもの」という決めつけから解き放ち、「自分自身でコントロールできるもの」という意識を持つことが出来るようになる のではないでしょうか。
という訳で第3のヒントです。
「思考は自分でコントロールできる意識を持つ」
ここまで読んでいただいたとしたら、もうその手段の形は見えていることと思います。
第1のヒント:思考は性格ではなく、技術だ。
第2のヒント:脳の処理能力の限界を逆手に取り、思考を止める。
第3のヒント:思考は自分でコントロールできる意識を持つ。
自分自身でコントロールできるという意識を持ち、自分自身の思考に積極的に介入していくこと。
その介入の手段として、技術を磨くこと、あるいは処理能力の限界を利用すること。
これらを使えば良い、ということになります。
その具体的な手法については長くなりますので、また別の記事でまとめようと思いますが、後者の「処理能力の限界を利用する」方法として自分で試していることを最後に書いておきます。
それは、 「身体的な感覚で脳を一杯にする」という事です。
しかも出来るだけ健康的に。
酒やタバコなどの外部刺激で脳を一杯にするという方法もあると思いますが、これは別の中毒症状を起こす可能性があるのですんなりとはオススメできません。
もっと簡単な、かつ健康的な方法として取り組んでいるのは、「身体的な感覚で脳を一杯にする」という言葉を文字通りに実践する方法です。
それは自分自身の身体の状態を詳細にモニターすることです。
例えば、右手、左手、右足、左足の状態が今どうなっているか。
関節は伸びているか、曲がっているか。指はどうか。
どんな形をしているか。
呼吸はどうなっているか。肺は膨らんでいるか、縮んでいるか。
呼吸はどこを通っているか。鼻を空気が通り抜ける感覚はどのようなものか。
・・・と、イメージしていけばきりがありません。
とにかく身体の思いつく限りの箇所の状態を意識でモニターするんです。
これらのことは普段の意識活動の中ではかなり大雑把なレベルでしか把握されていないでしょう。
だから「モニターする」と一口に言っても、それってかなり難しいことなんですよね。
自分の場合は、とにかく感じることで実現をしようとしています。
認識することが難しければ、ほんのわずかずつ動かしてみる。動かしてみた時の感じ方で状態を把握する指標にするんですね。
それこそ神経を使う作業です。
普段意識しない身体の細部に少しずつ「意識」という神経細胞を通していくような作業を行うわけです。
これ、結構難しいんですよ。
でもこれを続けて、 かなり広範囲な部分の身体感覚を認識することが出来たような感覚を覚えたとき、ふと気がつくことがあるんです。
今、何も考えてなかったな、ということに。
これこそが、思考を解き放った瞬間なんじゃないでしょうか。
誰にでも簡単に出来る、お金も手間もかからない、とても簡単な方法です。
ひょっとしたら、いわゆる”瞑想”というものに近いのかもしれません。
思い悩む思考を上手く解き放てない時に、是非試してみて下さい。
私も訓練でもっと上手に、自由自在に出来るようになりたいと思います。
いやあ、このことをちょっと書きたいだけだったのですが、思いの外長い記事になってしまいました。
最後まで読んでいただいた方、お付き合いいただき本当にありがとうございました!
例えば 何か一つのことが気になると、他のことを考えようとしても思考が勝手にどんどんと膨らんで次第にその事しか考えられなくなる・・・そんな事が時々あります。
こんな時には、私自身の自覚症状として次のようなことが起こりがちです。
・目先の作業に集中できない。
・特定の事柄への思考の執着が強くなっていく。
・寝ようとしても意識が明瞭化してなかなか眠りにつけない。
こうなるとどうなるか?
疲れます。
いやいや、もう少し具体的な状態の説明も出来ますけれど、とりあえずの総論としては「疲れます」。
とにかく疲れる訳です。
これはやっぱり、嫌ですよね。
では、疲れないようにするにはどうしたらいいか。
頭の中に張り付いて離れない”思考”をどうやって解き放ち、そこから自分自身を自由にして、楽な状態になるにはどうしたらいいか。
このことに、方法論としての考察を、本やテレビ等から得た知識を繋ぎあわせて行ってみたいと思います。
◯第1のヒント:思考は性格ではない、技術なのだ
第1のヒントは、 サッカー代表・本田圭佑選手の言葉から得たものです。
それはNHKの番組「プロフェッショナル」の中で、本田圭佑選手が話していたことです。
大きな怪我をして試合から遠ざかっている時、プロデューサーが「挫けないんですか?」的な内容を聞いたときのことだったと思いますが、本田選手は次のように話しました。
「信じることで力が生まれる。そのために『自分は出来る』と信じる努力をする」
これを聞いた時に、えっ、と驚きを覚えました。
「信じている」
ではない。
「信じる 努力をする 」のかと。
これ、似ているようで、実は全然違います。
どこが違うかというと、 能動的な意識をもって「信じる」という行動を起こしているどうか、という点 です。
前者はこのあたりが不明確です。ひょっとしたら能動的な意識を持って「信じる」という行為を起こした結果として「信じている」のかもしれませんが、この言葉だけではちょっと分かりません。どちらかというと、意識しない状態として「信じている」という印象を受けます。
言い換えると、その人固有の”性格”として「信じている」のかなという印象です。
ところが後者は、”性格”として信じる・信じないということは問題にしていません。
力を得るための行為として「信じる」という思考を持つことを自分自身で選択しているからです。
本田選手は、自分自身の行為・努力によって意識的に「信じる」という思考を行っているのです。
ここからのヒントは、思考はその人個人特有の”性格”ではなく、技術によって身に付ける事ができるものではないか、という事です。
身体の動かし方と同じように、思考の行い方も訓練によってコントロール出来るという仮説です。
「私は◯◯な性格だから・・・」
は、いかにも説得力がありそうな台詞かもしれません。
ですが、本田選手のエピソードを踏まえたとき、これは「思考に対する努力を投げ出してしまっている」状態のように見えてきます。
もし思考=努力だとしたら、ちょっと見方は変わってきますよね。
例えば、
「今は◯◯な考え方だけど、それだと対応が難しいから、次は△△な考えかたを身に付けよう」
というように。
つまり、思考を技術と捉えることで、努力によってどのようにも変えられるという考えを持つことができるのです。
ということで、第1のヒントです。
「思考は性格ではない、技術なのだ」
◯第2のヒント:仏教の”火渡り”から考える脳の限界
第2のヒントは、ちょっと話が飛びますが、仏教の”火渡り”の話から得たものです。
ネタ元は、 玄侑宗久さんの”般若の知 もう一つの知のあり方”というCDです。
このCDの中で、 大般若祈祷 のエピソードが紹介されています。
大般若祈祷とは、600巻に渡るものすごい量のお経(大般若経)が書かれたものを、お経を唱えながらパタパタとめくっていくという修行なのだそうです。なんでも、お経の量がとんでもなく膨大で読むのにあまりにも時間がかかるために編み出された効率的な方法だとか。
さて、この大般若祈祷を行う際に、お坊さんは「手が動き続け、そのパタパタという音を聞き、目は文字を見て、口では呪文を唱える。その呪文も自分の耳に聞こえてくる」という状態になるそうです。
そして玄侑宗久さんは、 「感覚を総動員している。この中で何かを思うということは不可能」 と続けます。
この「感覚が手一杯」になる状態を強制的に作り出すことを仏教の行ではするそうです。
その代表的な例として、火渡りのことを玄侑さんはあげています。
火渡りとは、真っ赤に焼けた木の上を裸足で歩いて渡るという行だそうですが、これは足の裏から伝わってくる熱さを我慢しているのではなくて、熱さを感じていないのだとか。
(ニュース映像を見たことがありますが、てっきり気合で熱さを我慢する修行だと思っていました)
この熱さを感じなくするための方法として、先ほどの大般若祈祷の話に出てきた「感覚を総動員して脳を手一杯にする」という手段を使うそうです。
頭の中で覚えているお経を呼び起こし、それを唱え、耳で聞く、これを一心に行うことで脳を手一杯にするのだと。
そうして脳を”感覚で手一杯にする”ことで、”熱い”という感覚が脳の”知覚”へと至らず、その結果として熱さを感じられなくなる。
これが玄侑宗久さんの言う火渡りのカラクリです。
(勿論「脳が熱さを感じない」ということと、「熱さによって火傷する」ということは別物だと説明します。立ち止まったら火傷しますよと・・・。そりゃそうですよね。)
他にも、「音声を聞きながら、絵を思い浮かべる」という行為も、脳の感覚を手一杯にする効果があるそうです。
「脳の隙を突く」とも表現していますが、ここで注目したいのは、「脳が感覚で手一杯になったとき、何かを思うということは不可能になる」という事です。
思い出してください。
最初に疲れる原因として書いていたことです。
”例えば何か一つのことが気になると、他のことを考えようとしても思考が勝手にどんどんと膨らんで次第にその事しか考えられなくなる・・・”
これは脳が勝手に何かを思っている状態です。
そして、これを止めたい!思考を解き放ちたい!というのが今回のやりたいことです。
ということは、玄侑さんの話を応用して
「脳を感覚で手一杯にすれば、思考を止めることが出来る」
ということになるんじゃないでしょうか?
脳の処理能力の限界を逆手に取って、別のことで脳の処理能力を大きく使い、それで思考を間接的に止めてしまうという手法です。
何かいけそうじゃないですか?
よし、それなら大般若祈祷を・・・という訳にはいかないので、もっと手近な方法で近似するということを考えてみたいと思います。
これが第2のヒントです。
「脳の処理能力の限界を逆手に取り、思考を間接的に止める」
◯第3のヒント:思考を自分でコントロールする意識を持つ
これは第1のヒント、第2のヒントから展開させた理屈です。
第1のヒントでは、思考は性格ではなく、技術だという気付きを得ました。
第2のヒントでは、脳の処理能力の限界を逆手に取り、思考を止めるという可能性を知りました。
どちらにも共通することは、自分自身の思考という意識することが難しい精神作用を、自分自身の行動によってコントロールすることが出来るということです。
思考そのものを技術と考え、努力と訓練によってつくり上げる方法。
別の行動によって思考を止めるという方法。
アプローチとその目的も異なりますが、共通するのは 「自分の思考に、主体的に介入していく」 という行為であるということです。
つまり、思考は自分でコントロール出来るものだという考えです。
これに気付くことが、まずスタートではないのかと思いました。
私自身を振り返れば、自分の思考について
「自分はこういう人間だ・・・」
「生まれついての性格だからどうしようもない・・・」
とまるで固定されているものかのような認識を持っていたところがあったと思います。
でもそれは単なる思い込みではないか?
自分自身でコントロールすることが可能なんじゃないか?
少なくとも、世の中にはそう考えて実践している人がいる。その具体的な手段の例もある・・・。
このような認識を経ることで、 自分自身の思考を「生まれつき持った性格で変えられないもの」という決めつけから解き放ち、「自分自身でコントロールできるもの」という意識を持つことが出来るようになる のではないでしょうか。
という訳で第3のヒントです。
「思考は自分でコントロールできる意識を持つ」
◯方法論:思考を解き放つ手段
ここまで読んでいただいたとしたら、もうその手段の形は見えていることと思います。
第1のヒント:思考は性格ではなく、技術だ。
第2のヒント:脳の処理能力の限界を逆手に取り、思考を止める。
第3のヒント:思考は自分でコントロールできる意識を持つ。
自分自身でコントロールできるという意識を持ち、自分自身の思考に積極的に介入していくこと。
その介入の手段として、技術を磨くこと、あるいは処理能力の限界を利用すること。
これらを使えば良い、ということになります。
その具体的な手法については長くなりますので、また別の記事でまとめようと思いますが、後者の「処理能力の限界を利用する」方法として自分で試していることを最後に書いておきます。
それは、 「身体的な感覚で脳を一杯にする」という事です。
しかも出来るだけ健康的に。
酒やタバコなどの外部刺激で脳を一杯にするという方法もあると思いますが、これは別の中毒症状を起こす可能性があるのですんなりとはオススメできません。
もっと簡単な、かつ健康的な方法として取り組んでいるのは、「身体的な感覚で脳を一杯にする」という言葉を文字通りに実践する方法です。
それは自分自身の身体の状態を詳細にモニターすることです。
例えば、右手、左手、右足、左足の状態が今どうなっているか。
関節は伸びているか、曲がっているか。指はどうか。
どんな形をしているか。
呼吸はどうなっているか。肺は膨らんでいるか、縮んでいるか。
呼吸はどこを通っているか。鼻を空気が通り抜ける感覚はどのようなものか。
・・・と、イメージしていけばきりがありません。
とにかく身体の思いつく限りの箇所の状態を意識でモニターするんです。
これらのことは普段の意識活動の中ではかなり大雑把なレベルでしか把握されていないでしょう。
だから「モニターする」と一口に言っても、それってかなり難しいことなんですよね。
自分の場合は、とにかく感じることで実現をしようとしています。
認識することが難しければ、ほんのわずかずつ動かしてみる。動かしてみた時の感じ方で状態を把握する指標にするんですね。
それこそ神経を使う作業です。
普段意識しない身体の細部に少しずつ「意識」という神経細胞を通していくような作業を行うわけです。
これ、結構難しいんですよ。
でもこれを続けて、 かなり広範囲な部分の身体感覚を認識することが出来たような感覚を覚えたとき、ふと気がつくことがあるんです。
今、何も考えてなかったな、ということに。
これこそが、思考を解き放った瞬間なんじゃないでしょうか。
誰にでも簡単に出来る、お金も手間もかからない、とても簡単な方法です。
ひょっとしたら、いわゆる”瞑想”というものに近いのかもしれません。
思い悩む思考を上手く解き放てない時に、是非試してみて下さい。
私も訓練でもっと上手に、自由自在に出来るようになりたいと思います。
いやあ、このことをちょっと書きたいだけだったのですが、思いの外長い記事になってしまいました。
最後まで読んでいただいた方、お付き合いいただき本当にありがとうございました!
2016年05月11日
疲れた・・・と半日の間に20回も呟いてしまったときに思い出した荒木香織さんの教え
少し前に、前ラグビー日本代表メンタルコーチ・ 荒木香織さん の著書 ”ラグビー代表を変えた「心の鍛え方」” の記事を書きました。
近頃はちょっと疲れることが続いていて、ふとした瞬間に
「疲れた・・・」
とため息混じりで呟いてしまい、「今、自分で疲れたって言った?」とはっとさせられるという、そんな状態です。
これはストレスが溜まっているなあ 、と思ったとき、ふと脳裏によみがえったのが荒木香織さんが本に書いていた次のことでした。
・ストレスはたまらない
・ストレスを「挑戦」と受け止める
・ミスを引きずらず、次を考える
荒木さんは、 ”理論的にはストレスは「たまる」ものではない。いくつかのストレスが並行して生じている状態を「たまる」と表現しているのだと思う”という趣旨をこれらの項目の中で書いています。
ここで書かれていた「いくつかのストレスが並行して生じている」という表現、これがまさに今の自分の状態に近いかもしれないと思いついたのですが、なるほどこれは疲れを感じます。
「ストレスが溜まっているんですよ」と思わず呟きたくなるくらいです。
これに対して、抱えている複数の問題がごちゃごちゃになり、頭の中で絡まりあって訳が分からない状態を、一般的な表現として「ストレスがたまっている」という言葉を使っているのではないか、というのが荒木さんの推測です。
なるほど、そう言われてみれば、 溜まるというよりも「絡まり合って訳が分からない」という表現の方が自分の状態に近いなという感覚があります。
もしそうだとすれば、まず
”何がストレスになっているのか解きほぐし、その原因を探すことが肝心”
と考えるのが荒木さんのメソッドです。
原因を探して、じゃあ次にどういった対処をしていくかという方法論についても、荒木さんは本の中で紹介しています。
ということで、次にはストレスの原因への対処法を考えようということで、少し前に読んだばかりの本ではありますが早速もう一度読み返してみたいと思います。
こう考えたとき、ストレスを感じる状態ではありますが、
「本で読んだことが早速活用できるかもしれない!」
と無邪気に喜ぶ自分をふと見付けてしまい、ちょっと可笑しく思えてしまいました。
2016年04月25日
依存というものについてふと考えてみた。
ふと 「依存」 という言葉が私のセンサーに引っかかりました。
かつてこの「依存」という言葉に関連して大変な経験をしたことがあり、嫌なものとして忌避していた言葉でした。
ですが「その忌避しようという考え方は正しかったのか?」と、不意に疑問に感じる感覚を覚えましたので、今日はちょっと、この「依存」について、自分が持っている材料の中から考察してみたいと思います。
依存とは?
依存という言葉を耳にしたとき、どんな印象を受けますか?
私は依存と聞くと、どうしても「危険なもの」「不安定なもの」というマイナスのイメージを思い浮かべてしまいます。
異性への依存。
親への依存。
ギャンブル依存。
このほか、酒やタバコ、マイナスなものの例を上げればキリがありません。
これらの言葉との組み合わせで使われる時、依存という言葉は「中毒」という意味合いを強く放つ印象があります。
だからマイナスイメージに繋がるのでしょう。
これらの危険なものが無ければ生きていけない状態・・・
だから危ない、正常ではない・・・
ざわ・・・ ざわ・・・
依存は悪いことなのか?
ですが、「依存」はそんなに悪いものでしょうか??
先ほどの例などから考えると「依存」とは、「自分以外の何か特定のものの存在がなければ、自分自身の安定を保つことが出来ない状態」だといえます。
禁断症状などはその最たるものですよね。
でも落ち着いて考えてみると、そういうモノ、「それが無ければ自分自身の安定を保つことが出来ないモノ」って身の回りに溢れています。
例えば水。
空気。
食べ物。
これらが無ければ、人間はたちまち死んでしまいます。安定を保つどころの話ではありません。
ということは、次のように言えると思います。
水依存。
空気依存。
食べ物依存。
「いやいや何ゆうてんの。それ、当たり前でしょ!」 というツッコミを入れたい気持ちが湧いてくることと思います。
そうなんです。
当たり前なんです。
つまり私たちは、生命体として生まれたその瞬間から、自分以外の何かに依存して生命を保っている存在だということですよね。
ということは依存とはごく当たり前の状態であって、善でも、悪でも無いわけです。
「水依存」という言葉、どこか悪いイメージがありますか?
悪いメージは湧きませんよね。どちらかというと、当たり前というイメージが強いと思います。
では元に戻り、「ギャンブル依存」はどうでしょうか。
これはたちまち悪いイメージですよね。
家庭崩壊、借金地獄、そんな連想が続いてきそうです。
これらのことから類推されるのは、「依存」という行為そのものではなく、「依存」する対象によってその評価が変わるということです。
例えばギャンブル依存が問題になるのは、それが多額の金銭を失う行為に繋がるからです。
薬物依存が問題になるのは、多額の金銭を失う行為であるとともに、強い中毒症状及び禁断症状の発生を伴い、またそもそも薬物の種類によっては違法行為にあたるからです。
コーヒー依存だとそれほど問題にならないのは、必要な金銭が限られているとともに、合法だからです。
また、よほど大量に飲み続けない限りは特別な副作用が無いからでしょう。
依存するのは弱い人間だ、という考え方は何か違っているような気がします。
依存を断ち切るために強い意思を持ちましょう、これも間違っている訳ではありませんが、依存を断ち切ろうという人に対しては「依存していた自分自身の否定」からのスタートになるため、ちょっと受け入れるのに抵抗があるかもしれませんね。
そこで考えたいのは、
「依存するのはごく当たり前のこと。
ただ、その依存する対象が良くないので、せっかくならもっと良いものに依存してはどうでしょうか」
という依存を肯定しつつ、その対象を選びましょうという考え方です。
ということで依存についてとりあえずまとめてみます。
まとめると次のとおりです。
・依存はそもそも当たり前のこと。
・生命の存在自体が単独では成り立たない。
・依存が問題になるとしたら、依存という行為そのものではなく、その対象に問題がある。
・依存することでリスクがあるものは避けましょう。
・より良いものに依存しましょう。
「依存は悪い」と、何となくの正しさ(または正しいという雰囲気)で決めつけるのではなく、 マギ27巻 で白龍が言った 「アラジン殿、堕天はそんなに悪いことですか?」というように一端自分の価値観を真っ白な状態にして考えてみると、物事の本質に近づけるような気がしました。
今日のまとめ
・依存とは生命としてごく当たり前の行為、状態。
・人間社会で依存が問題になるのは、その対象が危険かどうか。
・依存する行為そのものが悪いことではない。
・リスクのある依存先は避けて、出来るだけ良い影響の対象を選びましょう。
2016年02月13日
自分自身の笑顔に涙を流した理由
自分の顔を写真で見るのが苦手でした。
更に言えば嫌いでした。
旅行の時などは、極力写真に入らないようにするため、積極的に写真を撮る側のポジションを確保するということもやっていました。
今日、とある飲み会に参加した時の記念写真が送られてきました。
そこに写っていたのは、酒に酔い顔を少し赤らめながら、見たことがないような楽しそうな表情を見せていた自分自身でした。
「えっ、俺って、こんな綺麗な表情をすることがあるんだ・・・」
自分の顔を写真で見るのが嫌いだったのは、「どんな表情をつくればいいか分からない」という気持ちがそのまま表れたような、仮面のような笑顔をしていることが多かったからです。
「笑ってくださーい。はい、チーズ。イチ足すイチはニ〜」と言われても、何故かその状態を冷めた感情で捉えてしまい、上手に笑えなかったからです。
そんな私でした。
でも今日見たその写真は、そこに写っている自分の顔は、そんないびつさは微塵も感じられない、 心の底からその場を楽しんでいることが表れたかのような笑顔をしていました。
不覚にも、素敵とすら思ってしまいました。
その時不意に眼の奥から涙が溢れてきました。
自分でも良く分かりません。なぜ自分の嬉しい、楽しそうな表情を見て、泣いてしまうのか。
でも次の瞬間、涙の理由を不意に理解しました。
「そうか、自分は、こうやって楽しみたかったんだ・・・」
いつも楽しんでいるつもりでも、どこかで他人の目線を意識してしまい、自分自身はそこまで楽しめていなかったんだと思います。そのギャップの中で溜め込んできたひずみが、歪曲が、目一杯楽しんだ事実によって解き放たれ、複雑な涙となって表れたのだと。
少しですが、自分の中の何かを解放できたのかもしれません。
そのことを教えてくれた写真に、その場にいた周囲の人達に、静かに感謝したいと思います。
人の表情には何らかの形で心が表れていると言われます。
時には自分の写真を、恥ずかしがらず、正面から見つめてみたいと思いました。
2015年11月07日
他人(ひと)に何かを言われると気になる理由。
よく
「他人(ひと)に何かを言われても気にするな」
「他人が何と言おうと関係ない」
というような言葉を聞くことがあります。
でも私のような臆病な人間は、なかなかそうは行かないのが実情だと思います。
実際には、他人の何気ない一言に深く傷ついたり、自分の意見と反対の事を言われると嫌な思いをしたり、ということが多いのではないかと思います。
それを当たり前の事だと思っていました。
ところがある日、ふと、疑問に思ったのです。
「他人に何かを言われても物理的に何かが変わる訳ではないのに、なぜ自分の中に負の感情が生まれるのだろう?」
不思議に思いました。
嫌な感情は、他人から直接自分自身の感情に打ち込まれる訳ではありません。
届けられるのは言葉だけです。それを受け取った自分自身の中で、嫌な感情が生まれてくる。
そうすると、嫌な感情を作り出しているのは自分自身という事になります。
どうしてわざわざ、嫌な感情を作る必要があるのでしょうか?
一つは、やはり人間が社会性を本能的に持つ動物であるからだろうということです。
他人の評価=属する社会からの評価であり、群れで行動しようとする動物であれば、必然的に社会からの離脱は死を招く行為でありますから、それを何とか補正しようとすることはまた本能の活動として納得できる話です。
あるいは、自分の評価を社会から貶めようとする第三者を排除するという行動を引き起こすための引き金として負の感情を引き起こす、という原理かもしれません。これも何となく理解できる話です。
ですが、自分の感情をよく観察してみると、どうもこれだけでは説明できない気がしました。
何か他の大きな原因があるのではないだろうか・・・
その時ふと、一つの考えが浮かびました。
それは、「世の中には一つの正しいことがある」という無意識な思い込みが原因ではないか?という考えです。
そのきっかけは、「他人が自信たっぷりに正しそうなことを言っていた時、自分自身に大きな引け目を感じていた」という心理的事象が自分の中で観察された事です。
これは自分自信が否定された訳ではなく、勿論誹謗中傷を受けた訳でもありません。
でも不思議と自分の感情の中では、何か自分が否定された時と同じような機能が働き、負の感情を生み出していると思える訳です。
それはなぜだろう・・・と考えたときに思いついた理由は、
「世の中には一つの正しいことがある」 という思い込みにより、
「他人が正しい=自分が間違っている」ことの二元論で世界を捉えているからということでした。
どういうことかというと、
目の前の人間と自分と、どちらかが正しい。
どうも目の前の人間が言っていることが正しそうだ。だとすると自分は間違っている。
自分は劣っている・・・
という論法で物事を捉えていたということです。
これを踏まえてこれまでの事を思い返してみると、多くの場面でこの論法が働いていたと思い当たることがかなり多くありました。
正しいのは、自分か、相手か。
「正しいこと」とは何かー。
そういうように物事を捉えるのは間違いではないのかもしれません。
正解を求めるのは誰しもが抱える根源的な欲求なのでしょう。特に科学の世界においては、世界の真理を探し当てる、解き明かすということに全ての力を注ぐ訳ですから、それは顕著に表れてくることだと思います。
かつて、私もその科学の門の前に立っていた者の一人ですから、それは実感として分かります。
しかしその考えを、無意識のうちに拡張し、この「人間社会」に当てはめてしまっていたのではないかと思うのです。
正しいのは、自分か、相手か。
「正しいこと」とは何かー。きっとそれはあるはすだ。
誰か、「正しいこと」を全て教えて欲しい・・・絶対に正しい事を・・・
こう考えたとき、どんな人間であっても、「正しい」という絶対の前に裁かれる存在でしかなくなります。
突き詰めていくと、全ての人間の存在の根本が「正しい」という事象の中に存在することになり、人間全ての存在価値が消えてしまう。
だとすると、そんな状況の中で、誰が一体自分に自信を持ち、誇りを持ち、大事に思うことが出来るのでしょうか。
出来るはずがありません。
(ひょっとすると、この思い込みこそが、自分自身からあらゆる「自信」を奪っていた原因なのかもしれません)
億を超える人間が存在する中、万人が理解しえる「正しいこと」などこの社会には存在しないというのが今の考えです。
社会とは所詮人間が形作るもの。
物理法則が支配する科学の世界とは根本的に異なるもの。
たとえ大多数の人間が「正しい」と考えたとしても、たった一人の人間が「間違っている」と考えた時点で、その「正しいこと」は絶対ではなく、ただの相対になってしまうのです。
つまり”人間社会において”、「正しい」ということはあくまで相対的なものでしかなく、絶対的なものではないということです。
人間それぞれが、「正しいと思っている」事があるのに過ぎません。
だから例え誰が何を言おうと、それはその人間が正しいと思っていることに過ぎず、その意見をまるで世界の意思の表明であるかのように真正面から受け止め、自分の考えとどちらが正しいのかを考えつくす必要はないのです。
一言で言うと、
「誰が何を言おうがいちいち気にしない」
という事です。
勿論参考にするのは大事だと思いますけれど。
副次的に、自分が何かを言おうとする時に「本当にそれは正しいことなのか?100%の保証はあるのか?」と付き纏うサイドブレーキのような感覚も、消失することになると思います。
以上が、私が考える「他人(ひと)に何かを言われると気になる理由」であり、それを気にする必要はないという理由です。
ここまで書いて、自分の中で浮かび上がってきたのは、またしても漫画「天」の赤木の一言。
「さあ、漕ぎ出そう・・・いわゆる『まとも』から放たれた人生に・・・・・・」
※関連して、少し前に書いた記事です。
ほぼ日手帳の「今日の一言」・・・正解病について
「他人(ひと)に何かを言われても気にするな」
「他人が何と言おうと関係ない」
というような言葉を聞くことがあります。
でも私のような臆病な人間は、なかなかそうは行かないのが実情だと思います。
実際には、他人の何気ない一言に深く傷ついたり、自分の意見と反対の事を言われると嫌な思いをしたり、ということが多いのではないかと思います。
それを当たり前の事だと思っていました。
ところがある日、ふと、疑問に思ったのです。
「他人に何かを言われても物理的に何かが変わる訳ではないのに、なぜ自分の中に負の感情が生まれるのだろう?」
不思議に思いました。
嫌な感情は、他人から直接自分自身の感情に打ち込まれる訳ではありません。
届けられるのは言葉だけです。それを受け取った自分自身の中で、嫌な感情が生まれてくる。
そうすると、嫌な感情を作り出しているのは自分自身という事になります。
どうしてわざわざ、嫌な感情を作る必要があるのでしょうか?
一つは、やはり人間が社会性を本能的に持つ動物であるからだろうということです。
他人の評価=属する社会からの評価であり、群れで行動しようとする動物であれば、必然的に社会からの離脱は死を招く行為でありますから、それを何とか補正しようとすることはまた本能の活動として納得できる話です。
あるいは、自分の評価を社会から貶めようとする第三者を排除するという行動を引き起こすための引き金として負の感情を引き起こす、という原理かもしれません。これも何となく理解できる話です。
ですが、自分の感情をよく観察してみると、どうもこれだけでは説明できない気がしました。
何か他の大きな原因があるのではないだろうか・・・
その時ふと、一つの考えが浮かびました。
それは、「世の中には一つの正しいことがある」という無意識な思い込みが原因ではないか?という考えです。
そのきっかけは、「他人が自信たっぷりに正しそうなことを言っていた時、自分自身に大きな引け目を感じていた」という心理的事象が自分の中で観察された事です。
これは自分自信が否定された訳ではなく、勿論誹謗中傷を受けた訳でもありません。
でも不思議と自分の感情の中では、何か自分が否定された時と同じような機能が働き、負の感情を生み出していると思える訳です。
それはなぜだろう・・・と考えたときに思いついた理由は、
「世の中には一つの正しいことがある」 という思い込みにより、
「他人が正しい=自分が間違っている」ことの二元論で世界を捉えているからということでした。
どういうことかというと、
目の前の人間と自分と、どちらかが正しい。
どうも目の前の人間が言っていることが正しそうだ。だとすると自分は間違っている。
自分は劣っている・・・
という論法で物事を捉えていたということです。
これを踏まえてこれまでの事を思い返してみると、多くの場面でこの論法が働いていたと思い当たることがかなり多くありました。
正しいのは、自分か、相手か。
「正しいこと」とは何かー。
そういうように物事を捉えるのは間違いではないのかもしれません。
正解を求めるのは誰しもが抱える根源的な欲求なのでしょう。特に科学の世界においては、世界の真理を探し当てる、解き明かすということに全ての力を注ぐ訳ですから、それは顕著に表れてくることだと思います。
かつて、私もその科学の門の前に立っていた者の一人ですから、それは実感として分かります。
しかしその考えを、無意識のうちに拡張し、この「人間社会」に当てはめてしまっていたのではないかと思うのです。
正しいのは、自分か、相手か。
「正しいこと」とは何かー。きっとそれはあるはすだ。
誰か、「正しいこと」を全て教えて欲しい・・・絶対に正しい事を・・・
こう考えたとき、どんな人間であっても、「正しい」という絶対の前に裁かれる存在でしかなくなります。
突き詰めていくと、全ての人間の存在の根本が「正しい」という事象の中に存在することになり、人間全ての存在価値が消えてしまう。
だとすると、そんな状況の中で、誰が一体自分に自信を持ち、誇りを持ち、大事に思うことが出来るのでしょうか。
出来るはずがありません。
(ひょっとすると、この思い込みこそが、自分自身からあらゆる「自信」を奪っていた原因なのかもしれません)
億を超える人間が存在する中、万人が理解しえる「正しいこと」などこの社会には存在しないというのが今の考えです。
社会とは所詮人間が形作るもの。
物理法則が支配する科学の世界とは根本的に異なるもの。
たとえ大多数の人間が「正しい」と考えたとしても、たった一人の人間が「間違っている」と考えた時点で、その「正しいこと」は絶対ではなく、ただの相対になってしまうのです。
つまり”人間社会において”、「正しい」ということはあくまで相対的なものでしかなく、絶対的なものではないということです。
人間それぞれが、「正しいと思っている」事があるのに過ぎません。
だから例え誰が何を言おうと、それはその人間が正しいと思っていることに過ぎず、その意見をまるで世界の意思の表明であるかのように真正面から受け止め、自分の考えとどちらが正しいのかを考えつくす必要はないのです。
一言で言うと、
「誰が何を言おうがいちいち気にしない」
という事です。
勿論参考にするのは大事だと思いますけれど。
副次的に、自分が何かを言おうとする時に「本当にそれは正しいことなのか?100%の保証はあるのか?」と付き纏うサイドブレーキのような感覚も、消失することになると思います。
以上が、私が考える「他人(ひと)に何かを言われると気になる理由」であり、それを気にする必要はないという理由です。
ここまで書いて、自分の中で浮かび上がってきたのは、またしても漫画「天」の赤木の一言。
「さあ、漕ぎ出そう・・・いわゆる『まとも』から放たれた人生に・・・・・・」
※関連して、少し前に書いた記事です。
ほぼ日手帳の「今日の一言」・・・正解病について
2015年10月11日
景色を変えるのは自分の心。
この季節はコスモスが綺麗です。
そんなわけで毎年、とある場所にコスモスを見に行っている訳なんですけれど、
今年はいつもと違って見えました。
光の加減もあったかもしれませんが、不思議と、例年になく綺麗に映って見えたのです。
幻想的なコントラストの中、景色の中に花の鮮やかな色だけが浮かび上がってきたような感覚を覚えました。
その美しい光景の中、心に浮かんだのは、数日まえに体験したとてもとても悲しい出来事でした。
悲しみの感情が、その対局にある美しい景色を、きっと浮かび上がらせて見せたのだと思います。
ああ、景色は受け取り手である自分の心次第で色々に見えるのだなあということを、痛いくらいに体感しました。
目に飛び込んでくる光景はどこまでも綺麗で、出来ることならば、こんな残酷な美しさは見えないで欲しかった・・・。
そんなわけで毎年、とある場所にコスモスを見に行っている訳なんですけれど、
今年はいつもと違って見えました。
光の加減もあったかもしれませんが、不思議と、例年になく綺麗に映って見えたのです。
幻想的なコントラストの中、景色の中に花の鮮やかな色だけが浮かび上がってきたような感覚を覚えました。
その美しい光景の中、心に浮かんだのは、数日まえに体験したとてもとても悲しい出来事でした。
悲しみの感情が、その対局にある美しい景色を、きっと浮かび上がらせて見せたのだと思います。
ああ、景色は受け取り手である自分の心次第で色々に見えるのだなあということを、痛いくらいに体感しました。
目に飛び込んでくる光景はどこまでも綺麗で、出来ることならば、こんな残酷な美しさは見えないで欲しかった・・・。
2015年10月05日
ほぼ日手帳の「今日の一言」・・・正解病について
ほぼ日手帳 は1日分が1ページで構成されていて、その一番下に「今日の一言」が書かれています。
このような一言がありました。
「たくさんの人のとても多くの時間が「正解」を探すことに費やされているように思えます。
遠慮なく言えば、「正解」探しばかりで人生終わっちゃう人ばかりじゃない?
(中略)
「正解」病は、いまの時代病のような気がする。」
ふと心に留まりました。
自分にも当てはまるのではないか?と感じたからです。
いつも考えています。
「何が正しいのだろう」
「何が正解なのだろう」
そして正解を見いだせないまま、動くことができない、そんな毎日を送っている気がします。
改めて指摘されると、「正解」とは何なのでしょう。
誰が「正解」を決めるのでしょう。
世の中には絶対者がいて、世の中のあらゆることに「正解」を出してくれるのでしょうか。
漫画「天」 の中で、人生を停滞させていた「ひろゆき」に対して赤木は確かこう指摘していました。
「まるで正解を出してからでないと動けない、詰将棋のようだ」
「それはこの世の有り様と違う」
「まずは動くこと・・・」
「乱戦よ・・・勝負事は大抵・・・」
正解があると思うから、それ以外は間違いという考えに囚われて、結局行動がとらわれる。
それが赤木のメッセージでした。
だとすれば、正解がないと思えば、何でも出来るのかもしれません。
そして最近気がついたことがあります。
「この世界に正解はない」という事実と、
「この世界に正解は必ずある」という自分自身を縛り付ける無意識下の思い込みです。
世界とは、今の人間が創りだした世の中のことを指しています。
もっと大きな世界、つまり宇宙とか存在そのものといった科学的な世界には、きっと大きな「正解」があることは間違いない事だと思います。少なくとも、今までの歴史の中で様々な定理が発見され、今も生きています。もしこれらの正解が無いのであれば、世界そのものはあっという間にバランスを崩し、崩壊してしまうでしょう。
しかし、この「人間の創りだした世界」すなわち社会には正解はないんです。
それはなぜかというと、人によって考えることは違い、前提が違い、思考過程が違い、結果の解釈すら違ってしまう。
各々がそれぞれの「正解」を持ち、それが正解だと言い合っているのがこの世の中なのですから。
正解なんて後からついてくる解釈の話であり、他人の「正解」を予測しつつ、自分が考える「正解」がどこまで押し通るかを試してみるしかないのがこの世の中なんでしょう。
しかしこの正解病、自分は長い間この病に浸かりすぎていました。
理屈では分かっても、本当に理解して自分の思考ルーチンの中に組み込まれるまでにはまだまだ時間がかかりそうです。
訓練、訓練・・・
2015年07月09日
忙しさが増してくると・・・
忙しさが増してくると、思考がまとまらなくなってくる気がしています。
以前は、ある程度忙しさが増してくると、処理能力が一時的に向上していた気もしていたんですが、それはすっかり影を潜めてしまいました。
忙しいといっても質が違うからでしょうか。
以前は「自分が把握している事について処理する量があまりにも多く忙しい」という内容だったように思います。
今はどちらかというと「自分が把握していない事について、次々と舞い込んできて、かつ量が多い」という感じです。
そりゃまあ、思考はなかなかまとまらないですよね。
把握するために思考を組み立てて、処理。次の事に移ったらまた思考を組み立てて、処理。。。の繰り返し。
効率悪いなあ。。。
とりあえず目の前の事を一つ一つやっつけていくしか解決策が見い出せないのでしょうがない。
何かパターン化が出来れば・・・と思うのですが・・・力不足。
ただのボヤキ記事でした。失礼しました!!
以前は、ある程度忙しさが増してくると、処理能力が一時的に向上していた気もしていたんですが、それはすっかり影を潜めてしまいました。
忙しいといっても質が違うからでしょうか。
以前は「自分が把握している事について処理する量があまりにも多く忙しい」という内容だったように思います。
今はどちらかというと「自分が把握していない事について、次々と舞い込んできて、かつ量が多い」という感じです。
そりゃまあ、思考はなかなかまとまらないですよね。
把握するために思考を組み立てて、処理。次の事に移ったらまた思考を組み立てて、処理。。。の繰り返し。
効率悪いなあ。。。
とりあえず目の前の事を一つ一つやっつけていくしか解決策が見い出せないのでしょうがない。
何かパターン化が出来れば・・・と思うのですが・・・力不足。
ただのボヤキ記事でした。失礼しました!!
2015年07月03日
信頼関係・・・?
人と人との信頼関係を作るためには、段階を踏んでいくことが必要なのだそうです。
その一番最初の段階として、
「挨拶をする」
「名前を呼ぶ」
ということが挙げられる、という話を聞きました。
理由はよく分かりませんが、納得できる話だと思います。
挨拶をしない、会釈をしない、名前を呼ばないという人に対して、自分が信頼を置くことができるかどうかを少し考えてみると感覚的に分かる気がします。
逆に、挨拶をしてくる人に対しては、特に根拠もないのに「挨拶ができていい人だ」というような印象を持ってしまうのではないでしょうか。
このことを考えているときに、はっとすることがありました。
実は、私の苦手な行動の一つに「人の名前を呼ぶのが苦手」という事があります。
恥ずかしい・・・という訳ではありません。
良く知らない人に対して、名前を呼ぶ直前に、名前を忘れてしまうことが多いのです。
または、名前を覚えていても、急に「本当にこの名前で合っていただろうか??」と不安になってしまうことがあります。
その結果、名前を呼べない→苦手意識が植えつけられる、という状態になっています。
これは記憶力の問題なのかと思っていましたが、ひょっとすると、人間に対しての無意識下の信頼のなさが、自分自身に他人の名前を呼ぶことを避けさせているのではないか、と思ったのです。
まずは他人を信頼するよう努めることが、自分自身の第一歩なのかもしれません。
少し面白い気付きでした。正解なのかどうかは分かりませんが・・・。
無意識のうちに他人への不信感を積み上げていき、気が付けば自分自身を縛る鎖にしてしまっているのかもしれません。
その一番最初の段階として、
「挨拶をする」
「名前を呼ぶ」
ということが挙げられる、という話を聞きました。
理由はよく分かりませんが、納得できる話だと思います。
挨拶をしない、会釈をしない、名前を呼ばないという人に対して、自分が信頼を置くことができるかどうかを少し考えてみると感覚的に分かる気がします。
逆に、挨拶をしてくる人に対しては、特に根拠もないのに「挨拶ができていい人だ」というような印象を持ってしまうのではないでしょうか。
このことを考えているときに、はっとすることがありました。
実は、私の苦手な行動の一つに「人の名前を呼ぶのが苦手」という事があります。
恥ずかしい・・・という訳ではありません。
良く知らない人に対して、名前を呼ぶ直前に、名前を忘れてしまうことが多いのです。
または、名前を覚えていても、急に「本当にこの名前で合っていただろうか??」と不安になってしまうことがあります。
その結果、名前を呼べない→苦手意識が植えつけられる、という状態になっています。
これは記憶力の問題なのかと思っていましたが、ひょっとすると、人間に対しての無意識下の信頼のなさが、自分自身に他人の名前を呼ぶことを避けさせているのではないか、と思ったのです。
まずは他人を信頼するよう努めることが、自分自身の第一歩なのかもしれません。
少し面白い気付きでした。正解なのかどうかは分かりませんが・・・。
無意識のうちに他人への不信感を積み上げていき、気が付けば自分自身を縛る鎖にしてしまっているのかもしれません。
2015年05月14日
体に無理が来ているのかどうかが気になる今日この頃
最近体がちょっとおかしい気がします。
例えるなら、
「今年の夏は異常気象じゃないの??」
というくらいでしょうか。
・・・わかりにくいですね。
具体例を挙げると、
・手足に猛烈なかゆみが出る
・時折耳鳴りがする
・肩こりがいつもにも増してひどい
・喉の調子が悪く、半日ほど経つと少しずつしゃがれてくる
・風邪っぽい症状(せき・たん)が半月程度続いている
うーん。
どうみても体に無理が来ているような。。。
そういえば、この異常気象って言葉、毎年聞いているような気がします。
でも何をもって「異常」と言うのでしょうか?
冷静に考えるとずっと同じ天気が毎年繰り返すことなんてありえないと思います。
太陽の活動も刻々と変わっているし・・・。
常じゃないことが常である。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、ですかね。
例えるなら、
「今年の夏は異常気象じゃないの??」
というくらいでしょうか。
・・・わかりにくいですね。
具体例を挙げると、
・手足に猛烈なかゆみが出る
・時折耳鳴りがする
・肩こりがいつもにも増してひどい
・喉の調子が悪く、半日ほど経つと少しずつしゃがれてくる
・風邪っぽい症状(せき・たん)が半月程度続いている
うーん。
どうみても体に無理が来ているような。。。
そういえば、この異常気象って言葉、毎年聞いているような気がします。
でも何をもって「異常」と言うのでしょうか?
冷静に考えるとずっと同じ天気が毎年繰り返すことなんてありえないと思います。
太陽の活動も刻々と変わっているし・・・。
常じゃないことが常である。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず、ですかね。