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おばさんだけど、挑戦することを放棄したくない。 この年だから広い視野で物事をとらえられる。 少々からだはポンコツで、記憶力もときどき怪しい時があるけれど、いろいろなことにチャレンジしていきたい。悪あがき?でも等身大の私のジャーナルです。

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2019年09月29日

アメリカでのボランティア経験 ウエストバージニア州 その3

 毎日朝食を食べ、昼食のサンドイッチを作ってから、駐車場に集まってボランティアに出発していた。
初日は、いったい何をしに、どこにいくのかもわからず(おそらく他の人は説明されていたのだと思うけど、
私は聞き取れなかったのだと思う)細い山道を車で揺られ30分ぐらいドライブしていたと思う。小さな家(トレーラーハウスのような)に到着した。
 5歳の女の子がいるおうちで、太っちょリーダーがお母さんらしき人に挨拶をしてから、家の修理を始めた。ボランティアとは家の修繕だったのだ。「えーーーーー」と思ったが、数日たってその理由がわかりはじめた。

 私は主にコーキングの仕事をしていた。指定された場所をひたすらグルーガンのようなもので隙間をうめていく。冬に寒い風が入って来ないように、全ての板と板の間の隙間を埋めていった。リーダーといえば、雨漏りがするとのことで、屋根に上ってひたすらトントンと屋根を打ち付けていた。リクエストからウッドデッキをつくっているチームもいたし、裏庭の積みあがったタイヤを移動させている人たちもいた。
トイレ用の穴を掘っているグループもいた。そう、トイレは家の中になく、家から一番遠い場所の地面に穴をあけ、板を三辺にたて、簡単な板をその上に乗せた野外トイレしかない。今のトイレの穴がいっぱいになったら、そこを土で埋めて、新しいトイレに移るためだ。野外のトイレは何か事情があったからじゃないかと思っていたが、そうではなかったわけだ。下水道が整備されていない場所に住んでいたわけだ。確かに山の中だからそういうこともあるのかと後から考えたが。
 5歳の女の子の顔はいつも何となく汚れていてお風呂にも入ってないような気がした。髪の毛もぼさぼさだし服もなんとなく汚らしい。でも彼女は自分の宝物を私たちに見せては、お話をしてくれる。初日に私たちが昼食用に持ってきたサンドイッチを食べ終わった時、5歳の女の子が、使わなかった白い紙ナプキンを自分にくれないかといい始めた。私は「いいよ」といって彼女に渡した。他の子にも聞いて使っていないナプキンをもらってその子にあげた。すごく喜んでいた。絵でも描くのかな?と思っていたが、ある時聞いてみたら、トイレットペーパーにしたいということだった。なんとトイレットペーパーが買えないというのだ。その後、サンドイッチを入れていっている茶色の紙袋も欲しいといったので、近くの他のボランティアにも声をかけて集めて渡してあげた。あまり住人とは話さないようにいわれていたので秘密裏に。リーダーもその様子を見ていたけど、そこは見逃してくれていた。子どもだったからかな。
 四日目あたりでは、自分たちがサンドイッチを食べているとき、5歳の子どもは食べるものがない。何をたべられない彼女を目の前にして自分がサンドイッチを食べることができない。だからグループの子と相談してサンドイッチを作るときに、少し多めに作るようにして彼女の分を持っていくことにした。本人にも内緒だよと言って渡した。最後の日は、彼女と別れるのが淋しかった。この子はこの後どんな人生を送るんだろうとか、ちゃんと学校に行って仕事に就けるのかななど、彼女の人生がどうなるのか心配し、涙した。

 その女の子が「お父さんがお酒を飲むから、ごはんが食べられない」とか「たばこはすっちゃいけないのに、やめないんだ」など家庭内の話をしてくることがあった。何とも言えないやるせない気持ちになった。5日間つづいたボランティアだったが、生活保護で就労していない地域の家の修繕をしていたということが、最後のほうになってわかってきた。確かにウエストバージニア州は貧しい州だし、ケンタッキー、オハイオ州あたりはRusty beltと呼ばれている地域で、ちゃんとした就労ができない人の多い地域も抱えている州であることは、最近知った。30年以上前から、そういった地域への支援を、教会がボランティアキャンプを企画し、全米から教会単位でのチームを募り、人助けをしていたわけだ。

 アメリカにおける教会の役割が、地域における(町の中での)ボランティア活動、コミュニティーの形成(寝たきりの老人への支援 ランチサポートなどは当番を決めて教会単位で手助や教会の後のケーキやコーヒーでの茶話会など)子どもへの道徳教育(バイブルスタディーとか日曜学校とか)など多岐にわたり地域の中で役割を担っているのをそこで生活して目の当たりにしたが、町を超えて別の州でも慈善活動もするんだということを知った。それも移動のガソリン代、ボランティアへの参加費を捻出するために、自分たちで不用品を販売したり、冷凍ピザを売ったりしてお金を貯めていく。そして参加者は自分の時間と肉体を提供する。ボランティアの神髄に触れたきがした。

 あれから34年、あの5歳の女の子は40歳ぐらいだろうか。ちゃんと幸せなんだろうかと ふと心によぎるときがある。


2019年09月28日

アメリカでのボランティア経験 ウエストバージニア その2 

 寝袋を持って、同じ高校に通っている人たちが乗っているバンに乗り込む。
いつもはカソリック教会に属している高校3年生の友達と一緒に遊んでいることが多かった
でもこのキャンプは、1〜2つ年下のプロテスタント教会に通っている友達と一緒に行くことになったようだ

 そもそも誰が行くのかも把握していなかった。ただ一週間、ウエストバージニアでボランティアをするキャンプに参加するんだとしか理解していなかった。

 彼らは10年生が中心のグループだったと思う。フットボール選手やチアリーディングをしている人たちで、学校でも花形の生徒たちだった。だからだろうか、日本からの留学生の私にも優しく仲間に入れて接してくれた。スポーツだけやってたり、勉強だけじゃなくて、ちゃんとボランティア活動のような社会貢献についてもアメリカは大事にしているんだなと思った。子どものころからそういう体験をしているから、大人になっても気軽にボランティアをするようになるんだろうなと思う。

 さてミネソタ州からシカゴ経由でオハイオ州へ、そしてケンタッキー州へ入ったところで、教会の集会場で一泊した。長い間車に揺られて移動していたので、すぐに寝てしまった。床の上に寝袋で寝た。これが初めての寝袋体験だった。床は硬くて初めは眠れるか心配だったけど、疲れていたためすぐに落ちた。

 道中一番印象に残っているのは、シカゴの街を通り抜けた時のことだ。ハイウェーを通っているから町の中をドライブしたわけではなかったが、走り抜けているときに大きな家やプール、公園、ビル、など、1時間以上たっても街が終わらないことに感動した。なぜなら、人口2000人、メインストリートは車で2分で走り抜けることができる小さい町に1年間暮らしていたからだ。飛行機で夜にシカゴオヘア空港に着陸したときも、街がキラキラとネオンで光っていて、大きい町だとおもったけど、本当に大きい街だった。

 さて話は戻って、ケンタッキー州で夕飯にピザを食べるためにレストランに入った。ウエイトレスがテーブルに来て話しかけてきたとき、私は「???」と違和感を覚えた。あれー英語が聞き取れないよ〜
本当にところどころ何を言っているのかわからないことがあった。発音も少し違うし、イントネーションも若干違うような・・・・。ピザを食べながら隣に座っている友達に、「なんか何を言っているかわからない」と伝えると、「彼らは少し訛りがある」と教えてくれた。「アメリカなのに英語が違うんだ〜」初めて知った瞬間だった。新鮮な驚き、アメリカが広いことはわかったけど、言葉も違うんだ。実感として腑に落ちた感じを覚えている。

 2日目の夕方、山の中の道をくねくねと登っていき、ところどころ石油をくみ上げるポンプを目にしながら、細い道を進んで行った。しばらくするとベースとなる公立高校の建物へ到着した。小さな町の小さな公立高校の建物で、全米からそのプロテスタント教会の人たちが集まって、キャンプをしながら、ボランティアをするという企画らしい。
一緒にバンで旅してきた友達とは分かれ、それぞれが別々のグループに配属された。自分も10名からなるグループに入った。リーダーは太っちょの男の人、大学生の女の人、カンザス州から来た高校生など、それぞれ別々の場所からこのボランティアに参加するためにはるばるやってきた人たちだった。自己紹介をしたけど、ちゃんとやっていけるかこの時は少し不安になった。でも基本教会が母体のボランティア集団なので、愛があふれている感じがした。

 その日の夕食は、その高校のカフェテリアで食べた。そして、自分の寝る部屋を教えられて、寝袋をしいて寝た。おしゃべりをしている人もいたけれど、緊張していて寝たふりでもしているほうが気が楽だった。そうしているうちに、部屋の電気を消しにくるスタッフが「もう寝てください」と言って電気を消していった。そこはまじめなキリスト教徒たちは、明日に備えてすぐに眠りについた。

 朝はみんなシャワーを浴びたり朝食を食べたりして、最後にその日のサンドイッチを作り、茶色の紙袋に入れて集合場所に集まった。サンドイッチと言ってもアメリカの定番のハムとチーズをパンで挟んだもの、ジャムとピーナッツバターを挟んだもの、そしてバナナとナプキンを持たされただけだった。それから毎日5日間、ほぼ同じメニューを食べたような気がする。確か3日後ぐらい、さすがのキリスト教徒たちも、「このお昼のメニューは飽きたな〜」とつぶやいたのを聞いて、本音はそうだよね〜と安心した。





アメリカでのボランティア経験 ウエストバージニア その1 

 1985年の夏、約一年のアメリカ留学が終わる少し前、
プロテスタント教会が主催するボランティアツアーに参加した
ホストマザーが「良い経験になるだろう」と参加を申し込んでいてくれた

文化的背景がわからなかったことと、英語力のなさで、当初はまったっく理解できていなかった
その活動は約半年かけて行っていた

ホストマザーがある日冷凍ピザを10枚私に渡して「あなたがこれを一枚20ドルで売りなさい」
と私に言った。そして「本当は1枚15ドルの冷凍ピザだけど、1枚につき5ドル教会に寄付されるから」と。
はじめにその話を聴いたときは、十枚で50ドル寄付することになるんだな〜 と思っただけだった

ホストマザーの協力もあり、なんとか10枚売り切った。もちろん夕食に食べたこともあった

さて、ホストマザーはカソリックなので別のプロテスタントの教会の情報がそれほど頻繁に入ってきていた
わけではなかっただろうと思うけど、ある日「目標金額がたまったらしいわよ」と町の新聞の写真を見せられて教えられた。新聞には、この1年間、教会のバザーやピザの販売、寄付を募って、ウエストバージニアへのボランティアへ行くための資金を貯めてきたが、目標金額に達したというようなことが書かれていた。

あの冷凍ピザはこの資金の1部になっていたんだなとその時理解した。
そしてホストマザーは学校が5月末に終わって6月の2週目に、あなたはこの教会のみんなと一緒に
キャンプに行ってきなさいと伝えられた。
ま、帰国まで1か月以上あるし、学校もないし、そのキャンプとやらにいくのも悪くないなと思って
快諾した。今思えば、ホストマザーも家を空けることができないから、私のことを旅行へ連れて行くこと
などができない状況だったため、そうやっていろいろなアメリカを見せてあげようという親心から
自分の教会ではないけれど、知り合いに頼んでメンバーに入れてくれるように計画をしてくれていたんだ
と理解した。ありたがき幸せ。

それにしても、ミネソタ州からウエストバージニア州までボランティアで出かけるというプランは
驚いた。自分の町でボランティアではないわけだし。恐るべしキリスト教会のボランティアの行動力。
そして30年以上たった今でも、あの1週間の出来事は記憶の残るものとなる・・・・つづく

2018年10月27日

Acoma Pueblo

Acoma Pueblo は 断崖絶壁のきりたった岩山に住んでいる
平原が広がり遠くまで見渡せるそんな大地に円柱に近い岩山が出現する
周りを一周したらきっと1時間ぐらいでまわれるんじゃないかと思えるような山

その聖地には、ガイドつきでないと観光できなかった
だから、一人のネイティブアメリカンが付き添って観光をした
車で山のふもとまで行き、そこから徒歩で頂上の村まで行く
頂上にはスペイン人がもたらしたカソリックの教会が建っていた
彼らは自分たちの宗教とメキシコから北上してきたスペイン人たちからの攻撃に耐え
融合した形をとり、生き延びてきた種族とのこと
複雑な気持ちでその美しい教会を眺めていたことを覚えている

青い空と白色に塗られた教会の壁のアドべーが、澄んだ空気とまざりあって本当に心が静まった気がした
虐殺された多くのAcoma Puebloたちの魂が同じように静まっていることを願った

彼らの工芸品は、他のネイティブアメリカンたちのものとは少し異なっていた
長い間、外部との融合を避けて独自の文化を守りぬくことに適した場所に住んでいたからだろうか
彼らの陶器の模様は周囲のものとは明らかに異なる。それゆえに歴史を感じ心が惹きつけられる工芸品となっている。どうしても1つ欲しくて、割れてしまうかもしれないと思いつつ、買って帰ってきた。

この旅ではこのAcomaの小さな陶器と、Taosで購入したそこの土で焼いた素焼きのコップが私の宝物の一つとして寝室に飾られている
ちなみに、他には、ホピインディアンのつくったココペリのキーホルダー、ナバホの網目の細かい小さいラグ、魔よけの音のなる棒など、インディアングッズが我が家にはたくさん置いてある。
もっとちゃんとディスプレイすればいいのに、片づけられない私は、価値あるものなのにそこらへんに、おいてあるだけだったりもする←これは片づけをいつかして、ちゃんとディスプレイしたいと思っている、ホント。

さて、Acoma Puebloの居住地に入られないように、帰りは行きとは違った道を下ることになっていた
行きは登りで広い道を上ってきたが、帰りは崖のくねくねした道を降りてくることになった。しかもガイドは「この道から、帰ってくださいね」とだけいってさよならしてしまった。登ってくるときには本当に親切でいい娘だなと思ってたけど、帰りはあっさりでした。商売だからね。でもその日は私たちだけしか観光客がいなかったので、写真を撮るのも人影を気にしないでとれていたのを思い出しました。

特殊な地形に住んでいたからこそ、継承されてきた彼らの文化、歴史に触れることができて本当によかった。たった数時間の滞在なのに、今でも自分の記憶に残っているほど印象深かったということなんだと思います

タグ: Acoma Pueblo

2018年10月26日

Taos Pueblo 

Acoma Pueblo
Santa Crala、
Taos Pueblo


の3つの居留地を巡ったのは、Montana州でCrow Indian reservationを見学して、ネイティブアメリカンの歌とダンスに魅せられた翌年だった


Oklahoma州のTalsaで3日間のホームステイをした
白人のお宅にホームステイしているのかと思いきや、16分の1でネイティブアメリカンの血が入っているという家族だった。3人兄弟がいるが、長男はブロンドの白人顔、次男はブルーネットの白人顔、そして三男が黒髪のネイティブアメリカン顔の本物の兄弟だった

滞在していた家庭は、ミネソタ州でお世話になっていた家庭や友達の家よりも裕福そうに見えた
ダブルシンクだし、プールが庭にある。あれーネイティブアメリカンは豊かなんだっけ????

失業率が高く、アルコール依存症率が高く、自殺率も高い、いわゆる3高だと聞いていたのに、ここは普通の白人宅よりもグレードのよい家に住んでいる

理由を聞いてみたら、Oklahoma州のネイティブアメリカンたちは比較的裕福なんだそうだ
なぜならば、彼らの土地から石油が出てくるから
でも石油がなくなってしまったら、他の地域の?人たちの苦しみを味わうことになるんだろうか

また、Oklahomaの白人のほとんどが、ネイティブアメリカ人の血が入っているとのこと。歴史的になんだったのか忘れてしまったが、他の州の白人たちとは異なり、混血率は高いそうだ

だから白人のなりをして、インディアンのダンスを踊れる人の姿も見られるそうだ。あいにく、時期が悪くてフェスティバルの時期ではなかったので見ることはできなかったが、ときどき、見た白人顔なのに、インティアンの衣装を着た男性が、リズムに合わせて伝統的な舞を踊っているのを見たことがあるので、妙に納得がいった。

さて、3日間のホームステイの後、車で Iー40を西に走らせ、New Mexico州で3つのリザベーションめぐりをした。

Taos Puebloは観光地化されていて、安心して見学をすることができた。アドべ(土を固めて乾燥させた様式の家)様式のまさにニューメキシコを代表するネイティブアメリカンの居留地。英語も上手に話すし、外国人観光客にも慣れていた

Taosの町時代も、土壁の家が立ち並び、町を歩いているだけでとてもよい気分になれた
もともとメキシコ料理も大好きだったので、ピリ辛のタコスを食べ、ビールを堪能し、ちょっとお高い滞在費だったが、よい滞在だった

Santa Clara Puebloは、たまたま8月12日に祭りをやっていたので、直前に決めて立ち寄った居留地だ
田舎にあって、インターステートからは外れているから、そこへわざわざ訪れないと見ることはできない
しかし当日の11時過ぎにそこへ訪れると、広場にはたくさんの見学客がにぎわい、すでに、カメラの許可証はすべて売り切れていた。
だから写真をとることができなかった
しかし、未だに忘れられないことがある

夏の暑い日の昼過ぎに、長老の家の前に老若男女が輪になってたち、祈りをささげてから、踊りだした
いままでの踊りのときは、ドラムの音が鳴り響き、複数の人の歌が聞こえていたが、一人が歌のようなストーリーのような歌を歌い、それに合わせて円の形で動きながら踊っていた。20分ぐらい踊っていたときだったろうか、中から、長老が家のドアを開けて、「カーカーカー」とカラスの鳴き声みたいな声を出し、またドアを閉めてしまった

ダンサーたちはまた1から踊り始めたように見えた
また20分ぐらい静かに踊りっていたとき、
ドアが開いて「カーカー」と鳴き声が聞こえた

そしてまたダンサーたちは踊り始めた

私の目には、暑い中ずっと踊らされているダンサーがかわいそうで、長老が意地悪に見えたが、
3度目にドアが開いて、「言葉みたいなもの」を発し、ダンサーたちは全員長老宅に入っていった

何かの儀式 豊作なのか、雨ごいなのか、であるようで、神聖な気分が漂っていたし、空気が張りつめていたのを覚えている。咳払いもできないような雰囲気だったから
だから、カメラの許可証が必要だったわけだ。パシャパシャと写真を取ったら、音に邪魔されるだろうし、雰囲気が台無しになるから

長老を中心としたプエブロのヒエラルキーをみたように思った
そして本物のネイティブアメリカンの儀式を見たように思った



タグ: Taos Pueblo

2018年10月25日

プリティーウーマンの映画のワンシーンの意味がわかった日

1989年 ロスアンジェルスにあるアルマーニのお店でのこと
ロデオドライブだったのか、デパートの中にあるお店だったのか覚えてないけれど
アルマーニの店だということは覚えている

友だちがフランドものが好きで、1日買い物の日を作ったのだった
ノールカロライナに留学していた女二人と男一人がバスでフロリダ、メンフィス、ミシシッピー、ニューオリンズ、テキサス、ニューメキシコ、アリゾナ、カリフォルニアと移動してきて最後のロスだった。

バスに乗るのも、学生だったしやすかったから選んだんだけど、今思えば危ない移動だったと思う。マリファナのにおいが後部座席から漂ってきて、そのまま警察署の前までバスで連れて行かれ、突然逮捕されたのを目の当たりにしたり、乗っている乗客はやはり低所得者層の人がおおいように見えた
もちろん自分たちも学生だし、そんなによい格好をしているわけではないので、相手からしても貧乏なアジア人がバスで移動しているぐらいにしか思われていなかったと思う

さて、そんな恰好で、ロデオドライブを歩き出した私たちは、お目当てのアルマーニに入った
いつもなら「May I help you?]と言って店員がやってきて、探し物を手伝ってくれるのに、
誰も私に近づかない
店を1周してもだ・・・・・・
だから、値段を尋ねたり、別のものはないか聞くこともできなかった

結局彼氏に買おうと思っていたお土産(ネクタイ)もアルマーニの店では買うことができなかった

数年後
自分は、プリティーウーマンの映画を見た
高級ブティックで、ジュリアロバーツが下品な格好をしていたので誰一人店員が相手をしなくてくやしい思いをしてブティックから飛び出してきたシーンを見た時に、
あーーーこれこれ。私もこれをやられたんだわ・・・と初めて気が付いた

歩合制なんだと思う
たくさん買う客かどうかを見定める目はきっと持っているんだと思う
だから小銭しか落とさない観光客相手はしないんだと思う
または、身なりがきちんとしてないと、やはり小銭しか使わないということを経験から学んでいるのかもしれない
同じようにあまりよい格好をしてなくても、サイパンやオーストラリアではちゃんと相手にしてくれるブランドショップはあったが、ロスはあまりフレンドリーではなかった
本当にセレブがいる地域なので、小魚は相手にしないんだと思った

ニューヨークへも行ったが、この時はサックスフィフスアベニューとかバーニーズニューヨークとかに行った記憶があるが、ロス程侮辱された記憶はない

人種の問題というより、経済格差というか、足元を見られた対応だったように思う

あれからおよそ30年、今なら少しは丁重に扱ってもらえるものなのか試してみたい
きっと同じなんじゃないかな???ははは

2018年10月20日

アメリカでの車の運転 怖かった思い出

確か1993年〜だったと思うんだけど、
その前年にモンタナ州のCrow Indian reservation を訪れてすっかりネイティブアメリカンの文化に魅せられた私は、文化人類学が好きな友達と一緒に数年間かけていろいろな居留地を車で訪れることにした

初めはナバホインディアンの住んでいるアリゾナ州あたりを旅した
ウィンドウズロックから入り、Hopiインディアンの居留地まで車で移動した
彼女は高校時代にアメリカに留学していて、そのときに車の免許をアメリカで取っていた
そして同じ大学に交換留学していたときに、私も免許を取った
しかし、私は車の運転には本当に自信がなかった
だから、絶対に車の往来の激しくない場所しか運転しなかった
しかし、Interstateは車のスピードが半端なく早い
センマイトラックに四方を囲まれていやがらせ(私はそうだと思ってる)をされたこともある
Hopiの居留地に夜日が暮れてから車ではいったのだが、そのときは後ろから車があおってきて本当にこわかった
一番テンパったのは、ニューメキシコ州の田舎道を走っていたとき、激しい雨が降ってきて、バケツをひっくり返したような雨で、ワイパーでは前が見えないといった中で運転しなければならなかったこと。
あの時はかろうじて見ることができるセンターラインと右側の白い線を何とか見ながら、道から外れないように運転していた

ノースカロライナでは、右折したかったとき、道から出てくる車と危うくぶつかりそうになったり、ウィスコンシン州では、トラックが突然センターラインを越えてきて、車に突進してきたときには、生きた心地がしなかった。本当に車の運転は苦手だ

文化人類学好きの彼女は車の運転が好きだったので、彼女に運転はほぼ任せていた。でも疲れてくるので時々私が運転した。スーツケースを運ぶのを自分がやったり、別のところでなんとか運転しない分を埋め合わせしようとしていた
つい最近も一緒にノースカロライナ州を一緒に旅した
ワイナリーを訪れたり、アシュビルまで足を延ばした
本当に気の合う友達だ

コロラド州を旅したときは、一緒に3時間の乗馬をして、馬で素敵な風景の場所を散策し、軽めのランチを参加者みんなで食べたり、ロッキー山脈を越えたこともあった。富士山よりも高い場所に道路があってそこを車で走った。そのときは、道に鹿がいたり、自然を堪能しながら、夏なのにキーンと冷えた空気を胸いっぱいに吸いながら、無事に下山できることを祈っていた
遠くから救急車の音がずっとしていた。きっと空気の薄いところで動き回ってしまったからだろう、体調悪くなった人が出たようだった。でも、救急車は有料だから、こんな山奥まで救急車を要請するとは、相当お金がかかるだろうなといったことを考えていたことを覚えている。結構どうでもいいことを覚えていたりするもんなんだな〜

テキサス州のアマリロ近辺を走っているとき、夕食を取るために近くのレストランへ寄ったことがある。
そのときは、ダンスのコンテストでもあったようで、レストランの客がみんな衣装を着ていて、驚いたことがある。ある場所は、とにかく窓を開けて走ることができなかった。それは、牛のふんのにおいが風に乗ってひどかったから。

そういえば、カリフォルニアのある町は、にんにく工場があるようで、町の中を通り過ぎるだけでも、にんにくのにおいがすごかったことがあった

グランドキャニオンでは、一方通行のところでUターンをして、警察官に車を止められた。警官に車を止められたら、素早く動くことは禁止されている。武器を取り出すと思われるからだ。それは知っていたので、ゆっくりと窓を開け、免許証と車の証明書を見せろと言われたとき、いちいち口に出して説明した。「証明書はダッシュボードの中です。取り出します。免許書はカバンの中です。今出します」など。でも、まあUターンだけだったので、見逃してくれた。生きた心地がしなかったなぁ〜


でも、結構何度もアメリカ旅行で運転しているので、少しずつ慣れてきたように思う
今度行くときには、自分も運転できそう。だって向こうではおじいちゃんやおばあちゃんが運転してるから私ができないはずがない。

今は文化人類学が好きな彼女と、ハワイ好きの通訳をしている友達と一緒に世界旅行にいく計画をたてている2030年だったかな?  
でもそのころはもう60を超えているからどうなるかな?
お金も貯めておかないと。貯まるのかな????

忙しい毎日だけど、先に目標があると頑張れるかも

タグ: 車の運転

2018年10月17日

セックスを科学する

幸福の科学のことはよくわからないが、
幸福を科学的にとらえなおすということなのか????

アメリカではセックスを科学的な学問として扱っていた
アメリカの大学では,Human Sexuality という学科があった
ナイトクラスで一般の人も大学で単位をとることができるコースであったが、
タイトルに惹かれて、授業をとることにした

やっている内容は生物学の人間版みたいなことや、社会学と心理学、アダルト話が合わさってような教科だった。人間のパーツ(性器、脳、ホルモンなど)の名前を覚えるのが大変で、途中から単位はいらないから、とりあえず授業に出ようという形に目的を変えてしまったが、面白かった

オーガズムは体にどういったことを及ぼすか、体はどう反応するか

自分の考えをいいなさいという宿題がでた
さすがに友達には聞けないし、かといってそのころまだオーガズムいったいどういうことなのかわからなかった私は、

雲の上を歩いているような気持

と全く見当違いの答えを言った気がする

今ならば、インターネットで調べればすぐに答えはわかるけれど、当時はフロッピーディスクだって紙でできている入れ物に入っている10センチ×10センチの大きさの時代だったから、そんなことはできなかった
図書館へいって調べればよかったのだろうけれど、でもどうやって司書に聞けばいいの???恥ずかしい話題だよね

教授の答えは、

オーガズムとは、筋肉の収縮とその弛緩であり、云々カンヌン。
そうなんだー。でも確かに一人エッチのときは、そうかもなー。あーそういうことか〜。

と説明を聞いて、妙に納得した

マルチプルオーガズムについて
女性が全員オーガズムを毎回のセックスで持つわけではない
年とともに変化する、夫婦の関係について
オーガズムに至る、プラトゥーとピークエクスペリエンス
体位によって得られる快感の度合い
マスターベーションのおすすめ(自分の性感帯がわからなければ、相手に伝えることができないから)
Gスポット
同性愛など
女性と男性の性器の名称(隠語含む)→将来カウンセラーになったときに、さまざまな社会的な立場、バックグランドにある人を相手に仕事をするときに、知らないでは済まないので、みんなでさまざなま呼び名を言い合ったりもした(笑)

女性の教授なのに人目のはばからず、言いにくい言葉をポンポンと言っていく
筋金入りのリベラルな女性だなあと思った

日本では週刊誌には乗る話題かもしれないが、アメリカではそれが学科として成り立つ
性生活の重要性は今の年になればよくわかるが、大学生のころには理解できなかった
夫婦として、寄り添って生きているときに、親密な行為であり、それが学問として成り立つアメリカは
すごいなあと思った。発想がね

授業は確か木曜日の夜だったと思うが、授業が終わるたびに誰かに話をしたくて、隣の町の大学院に留学していた男の先輩に電話をかけて、授業の内容を事細かに話をしていた
どうしちゃってたんでしょうね。まあ彼も、日本語を話す相手もいないし、しょうもない後輩として面倒をみてくれていたんだろうと思うけど

でもある日、そんな話を話始める前に、
「日本は大変なことになってるけど知ってる??」
と聞かれた
どうも天皇陛下が崩御したというニュースがアメリカのTVで流れていて、彼は日本に確認を取っていたようだった。私は全くニュースもみてなかったし、知らなかった
「日本はデパートの店員がみんな黒い服を着て仕事していて、お祭りムードを自粛しているって話だよ」
と言われた
日本人として、みんなが経験している歴史的な瞬間を共有できないことは若干の不安はあるが、実感としてどんな様子だったのかはわからない

でも、ベルリンの壁が崩壊したときのニュースは連日連夜TVに食い入るようにして見ていた。歴史的な瞬間だと思った。この瞬間を同じ地球上で目撃することができてうれしいなと思った

セックスを科学するの話に戻るが
女性で5%はセックスの度にオーガズムを感じることができるが、
多くの女性は、毎回感じるわけではない
中にはプラトゥ—でとまってしまい、ピークエクスペリエンスを持つことがない女性もいる

というデータを覚えている
夜のお勤めという言葉の意味はその頃はわからなかったが、
データから考えると、納得のいく話だなと思う

結局授業には毎週通い出席したが、レポートを書くことが途中からできなくなり、単位は落とした
でも、十分勉強になったし、日本にはそのころには存在していなかった教科なので、先取りをひた気分だったけれど、これを知ってからと言って、誰かに教えたりすることってほぼない
こんな話をしょっちゅうしてたら、ただの好きものになっちゃうからね




2018年10月16日

モンタナと私 その3

モンタナ州にはロッキー山脈が位置している
カナダのすぐ下の、西部の地域に、グレイシャーパークという氷河が残っている山の公演がある
夏なのに、空気は冷たく、コロラドで登ったロッキー山脈の風景に似ているのを思い出しながら、ある湖にやってきた

彼は私に一言 「ちょっと僕に時間をください。この場所は自分にとっては思い出の場所なので」 といって私から立ち去り、一人歩き始めた
そういわれたら、邪魔するわけにはいかない。自分の足を止め、半分息も止めて、座れる石を見つけて、キラキラ光る湖の水面をじーっと見つめていた
15分ぐらいたったころだろうか、彼がやってきて 、「もう自分は気が済んだ」 といって私の脇に立った
彼は、この場所で若いころ、死んでしまいたくなるような出来事があった時、服を着たまま入水し、死のうかどうしようか迷っていた場所だと話し始めた
いつも明るくエネルギッシュな彼が、まさかのカミングアウト
何と返事をしようかと、考えをめぐらせて、無言の私
彼はさらに 、「あの山を見ているときに、はははは、と笑ったから、死ぬのを止めた」 と続けた
????ますますなんと答えていいかわからなかった私
「山が笑ってくれてよかった。じゃなきゃ、私はあなたに出会っていなかったから」 と伝えた(つもり)

ちょっとだけ感傷的に、その湖の岸辺で二人熱い抱擁・・・・・・・・・
誰もその場所にいなかったから、小鳥がさえずっているだけ・・・・・
そして彼は「もうここに来ることはないだろうな」とつぶやいて、車の方へ歩いて行った

その湖の水は冷たかった。グレーシャーから流れてきた水だかららしい
あんな冷たい水に飛び込んだ彼にいったい何があったのか?未だにその理由は聞いていない
きいちゃいけないような気がして・・・・

ちょっとだけ彼の闇の部分をのぞき見したみたいな気分だった
そしてその闇の部分を私とシェアーしてくれたことは、少しうれしかった
ありのままの自分でいる彼のそばでは、自分もありのまま、感じたままのことを言葉にできたから
あのとき、本気で彼の魂と自分の魂は溶け合っていたかもしれないと思っている
人生の中での貴重な1日だったと思っている

モンタナと私 その2

1週間の予定で、その人とはモンタナ州を旅する予定になっていた
3日間はCrow Indian reservationに滞在したが、あと4日は一緒に車でトライブをしながら
いろいろな話をしながら、一生忘れることのない旅をした

彼は40代後半のアメリカ人
今だに彼との付き合いはある
毎日連絡を取り合うような関係ではなく、
離れていても、いつでも、一瞬にして気が合うソウルメイトに近い存在である(私にとっては)
彼にとっても私は少しだけは特別なようで、最近自主出版した詩集を先日いただいた

Crow Indian reservationでの見学を終えたのち、私たちはルートを北上し、BlackFeet Indian Reservationへと向かった。Billingsはちょっとした町だが、一歩外をでるとそこはまるで別の惑星を車という宇宙船に乗って移動しているような感覚に陥ったことを覚えている

対向車はほとんど通らない道を1日走り、エンストでも起こしたら、いったい誰が助けに来てくれるんだろう?という心細さと、荒涼とした草原を走り、自分の責任でもって行きたい場所へ行く自由、を感じたことを覚えている

町の人口が400人未満の町や、あまり気を遣っていないトレーラーハウスのサイトがあったり、ガソリンスタンド以外のお店が見当たらない集落があり、少し寂しさと感じたのも覚えている
産業がないというのは福祉政策で生活せざる得ない状況もあり、Middle of No where においては、外から人々が流入してくるわけもなく、狭い地域で縛られて生きていく人々もいるんだろうな〜と思いをはせるときネガティブな気持ちにもなる反面、人々とのつながりも強固でしっかりしたものなんだろうなと想像しながら流れる風景を車の中から眺めていた

バッファローの保護区を車で走り抜けた時、バッファローの塊を見て、昔はこの群れを集団で狩っていたんだなと思った。 バッファローバーガー なるものを食べたが、ゴム草履を食べているような気分になるほど、筋筋がいっぱいあって食べにくかった
純血バッファローは今は存在せず、牛との掛け合わせであるというような記憶がある
それでもバッファローは大きかった

満天の星が点灯のない荒野の中ではよく見えた
あの当時はまだ目がそれほど悪くなかったので、ゆっくり流れる時間尾中で、キラキラ光る星をただ見つめお互いに無言でその場にただ存在していることに感謝する時間を過ごした
彼は「沈黙が苦じゃない相手はそんなにいない。君は特別だ」というようなことを言った
私も彼の存在は、尊敬と共感と羨望といった感情をもって受け止めていた
今でも彼は人生のメンターである


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