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2021年04月07日
ボヘミアの醜聞(四月四日)
昨日の夜、あまり大きな声では言えない方法で入手した「シャーロック・ホームズの冒険」のチェコ語吹き替え版「ボヘミアの醜聞」を見た。全体のストーリーにも興味はあるが、「ボヘミア」がどのように使われているかも興味の対象である。何せ、この作品を読んだり見たりしていたころは、まだチェコのことなどろくに知らず、ボヘミアはドイツの一部だとしか思っていなかったのである。現在の無駄にチェコに詳しくなった目で見ると、いろいろ言いたくなることが出てくるに違いない。
そういうと、まず、この回のチェコ語の題名からして、微妙なものを感じさせられてしまう。「Skandál v ?echách」がそれしかない訳だというのも、自分で訳してもそうするだろうというのも重々承知の上で、ドイツの印象の強い歴史上の「ボヘミア」をチェコ語で「?echy」と訳すのに慣れないのである。逆に、チェコ語の「?echy」を「ボヘミア」と日本語訳するのには慣れて違和感も感じなくなっているから不思議である。
作品中に最初に登場するチェコと関係のある物は、紙である。正体不明の依頼人が残して行った手紙の書かれた紙に刷りこまれた文字から、紙の生産地を確定して、差出人はボヘミアのドイツ人だと断定する。その生産地が「エグル」とかいう地名なのである。ボヘミアの地名で、ドイツ名「エグル」となると、日本では「エーガー」と書かれるヘプのことじゃないか。三十年戦争の英雄ワレンシュタイン将軍が暗殺されたことで知られるチェコの最西部の町である。
続いて、手紙の差出人でホームズに事件の解決を依頼するためにボヘミア王が登場する。昔は、ボヘミアという地名があるからには、そこに王がいるのは当然だと考えて不思議にも思わなかったのだが、チェコスロバキア独立以前のこの時期、ボヘミア王位はハプスブルク家のもので、オーストリア=ハンガリー二重帝国の皇帝が兼任していたはずである。仮面を取って名乗りを上げるときに、どんな名前を使うかと楽しみに待っていたら、長すぎて聞き取れなかった。ハプスブルクもオーストリアも出てこなかったことは確かだけど。
それで、原作ではどんな名乗りを使っているのか確認することにした。幸いなことに青空文庫に大久保ゆう訳「 ボヘミアの醜聞 」が上がっていて読めるようになっている。それによると、「ヴィルヘルム・ゴッツライヒ・ジギースモーント・フォン・オルムシュタイン、つまりカッセル=フェルシュタイン大公」と言ったようだ。貴族の正式な名前にありがちな、いくつも名前の連なるものだけど、「オルムシュタイン」ってどこだ? 架空の地名と考えるのがいいか。
コナン・ドイルの時代のイギリスの人たちにとっては、やはりボヘミアなんて名前だけしか知らない僻遠の地だったのだろうなあ。その点では、昔の自分も同じだし、こうやってボヘミア王の名前が云々なんてことが言えるのも、こちらに来てボヘミアの歴史というものを実感を以て知ることができたからに他ならない。これが他の国のことなら、気づきもしないで、そんなもんかという感想で終わったはずである。
そして、もう一つ、驚きが待っていた。この物語の主人公といってもいい女性の名前が、アイリーンではなかったのだ。かの『しゃべくり探偵』でも、「愛人アドラ」として、むりやり、「アイリーン・アドラー」に結び付けていたのに、チェコ語版では「イレーナ・アドレロバー」となっていた。やはり登場人物の名前の響きは、作品の印象と密接に結びついているのだなあ。同じ語源の名前が、英語では「アイリーン」となり、チェコ語では「イレーナ」になるのは、わかってはいるけど、ここは「アイリーン」で通してほしかったと考えるのは、外国人のわがままなのだろうか。
この時代は、名前も使用する言葉によって翻訳していた時代だ(と思う)から、アメリカ出身の「アイリーン」が、ボヘミア王とワルシャワで出会ったときには「イレーナ」と名乗っていたとしても不思議はないのだけど。そういえば青空文庫の「ボヘミアの醜聞」では、冒頭から「イレーナ」が使われていて、最後のホームズに宛てた手紙の署名だけが「アイリーン」になっていた。恐らく意図的に使い分けられているのだろうが、英語名とスラブ語での名前の事情を知らない人が読んだら混乱するかもしれない。
そんな細かいところを気にしながら見たとはいえ、満足満足。これは第二回の「踊る人形」も手にいれずばなるまい。そして、来週からは毎週土曜日の午前中に録画して、お昼時に見るという生活になりそうである。
2021年4月5日11時。
タグ: シャーロック・ホームズ
2021年04月06日
シャーロック・ホームズの冒険(四月三日)
自らをシャーロキアンというほどのめりこんではいないが、小学校の高学年から中学校にかけて推理小説の面白さに目覚めたころから、シャーロック・ホームズはお気に入りの探偵の一人で、あれこれ、パロディやらオマージュ作品やらの派生作品も含めて、読んできた。その手の派生作品で、一番のお気に入りは黒崎緑の「しゃべくり探偵」シリーズなのだけど、二冊で止まっていて、続編を待ち続けてウン十年である。
映像作品のほうは、最初に見た作品のインパクトが強すぎて、以後はどれを見ても、いまいちというか納得しきれないものが残る。完全に現代化を施したBBCの「シャーロック」は、あれはあれでありだと思ったけれども、他はどうしても記憶の中のシャーロック・ホームズと比べて、違うと思ってしまう。
こんな感情は、1980年代半ばから90年代にかけてNHKで放送されていた「シャーロック・ホームズの冒険」を見ていた人の多くが感じているに違いない。それほど、あのイギリスのグラナダTVが制作したドラマの完成度は高かった。日本語の吹き替えも悪くなかったし、珍しくまたいつか見てみたいと思えるテレビ番組だった。
だから、チェコに来て、あのジェレミー・ブレットがホームズを演じるテレビドラマが放送されるのを知ったときには、何のためらいもなく録画することを決めたのだった。しかし、残念ながら放送されたのは、同一のシリーズなのだろうけど、2時間物の長編ばかりで、かつてNHKで見た短編までは放送されなかった。長編の出来が悪いと言うつもりはないけど、冗長な感じは否めない。昼食時に見るにはちょっと長すぎるし。
それが、昨日だっただろうか。何気なくテレビの番組表を眺めていたら、「Dobrodru?ství Sherlocka Holmese」の文字が目に入ってきた。日本語に訳すと「シャーロック・ホームズの冒険」である。イギリスのドラマで、制作年は1984年となっていた。これまでも何度か期待してははずれということがあったので、念のためにチェコテレビのホームページで確認したら、大当たりだった。
大当たりだったのはいいのだけど、先週、先々週とすでに二回分の放送が済んでいて、今後の再放送の予定もないようだった。何だって、こんな名作を土曜日の午前十時からなんて中途半端な時間帯に放送するんだ。いや、それはまだいい。一体どうして、大々的に予告編を流さなかったのだろう。現代版の「シャーロック」のときには何度も予告編が流されて、第一回の放送を見逃すなんてありえないような状態だったのに。
一回目、二回目は見逃したとはいえ、三回目以降を見逃すわけにはいかない。休日とはいえ午前中からテレビをつける気にはなれないから、セット・トップ・ボックスで録画である。この時点で、全部放送された場合に備えて、録画して保存するためのUSBメモリーを新たに買うかなんてことを考え始めていた。ファイルの形式を変換するのには異常に長い時間がかかり、毎週一回一時間分なんてやりたくないから、DVDをMP4に変えたビデオ保存用のハードディスクに一緒にしたくはない。
それはともかく、昼食時に再生した「シャーロック・ホームズの冒険」は、本当に昔見たあれだった。オープニングの特徴的な音楽といい、ブレット演じるホームズのときに奇矯な振る舞いといい、長らく見たいと思っていたあのホームズだった。この回の題名は「námo?ní smlouva」、すぐには日本語題が思いつかなかったのだが、「海軍条約」である。小説も読んだし、このドラマも見たはずなのだけど、あまり覚えておらず、頓珍漢な推理をしながら最後まで見た。
そして、深い満足感を感じると共に、一回目の「ボヘミアの醜聞」と二回目の「踊る人形」が見られないことを残念に思う気持ちが改めて沸き起こった。特に「ボヘミアの醜聞」のほうは、チェコに関る話だけに、どのような形で出てくるのかが気になる。ということで、いかに見逃した二回分を手に入れるカを考えることにする。チェコテレビが再放送してくれればそんなことする必要はないのだけどねえ。
2021年4月4日21時。
タグ: シャーロック・ホームズ
2021年03月03日
チェコテレビ3(二月廿八日)
ほぼ一年前に、最初の非常事態宣言が出され、行動の自由が大きく制限されることになったときに、チェコテレビが始めたプロジェクトが二つある。一つは、子供向けのチャンネルであるチェコテレビDを使って、教育番組、直接小学校の授業内容とかかわる、学校に行けなくなった子供たちが自宅で勉強するための番組を制作放送することだった。いくつか見た限りでは、緊急で立ち上げたものにしては悪くないと評価できたけれども、チェコテレビが自画自賛するほど素晴らしいものだとは思えなかった。
二つ目は、感染すると重症化する可能性が高いとされ、自宅からでないことを強く求められていたお年寄り向けの専門チャンネル、チェコテレビ3を期間限定で開設することだった。お年寄りは、規制によって暇つぶしのためのお買い物、もしくはウィンドーショッピングなんかができなくなっていたから、テレビでお年寄り向けにかつての人気番組が再放送されるのはありがたかったに違いない。
うちでは、セットトップボックスは導入していたけれども、建物の集合アンテナが新しい電波のフォーマットに対応していなかったために、チェコテレビ3は見ることができず、実際にどんな番組が放送されているのかは確認できなかった。その後、9月に入ってうちでも新しいフォーマットの放送が見られるようになったころには、役割を終えたとしてチャンネルの終了がアナウンスされ、見る機会はないものだと思っていた。
それが、終了予定の時期から感染状況が急速に悪化したため、継続が決まったのか、一旦終了した後、再開したのかはわからないが、去年の10月ごろにはチャンネルのリストにチェコテレビ3も並んでいた。当時は放送時間が限定的で夕方には終了していたので、週末にあれこれチャンネルを替えているときに、ちらっと見るぐらいで、特に気になる番組があったわけではなかった。番組表を見れば番組の名前は書いてあるけど、有名な映画やドラマ以外はどんなものか、見ただけでわかるほどチェコの古いテレビ番組に詳しいわけではない。
もともとチェコテレビは、強迫観念的に常に新しい番組を粗製濫造的に制作しつづける日本のテレビ局とは違って、古い番組の再放送が多いから、チェコテレビ3でも、今までに見たことのある番組が放送されていることも多い。この前も子供向けのドラマ「Bylo nás p?t(我ら五人組)」が放送されていて、お年寄りが若かったころに子供と一緒に見ていたのかなあなんてことを考えた。
最近になって、放送時間が夜遅くまで延長されて、放送するものが足りなくなったのか、平日の夜なんかにチャンネルを替えていて、何これと言いたくなるような番組に突き当たることがある。そのうちの一つが、みょうちくりんな衣装を着た若い人たちが、いくつかのグループに分かれてプールの上に置かれた板の上を走ったり、馬の人形に乗ったり、壁をよじ登ったりする番組「Hry bez hranic(国境なきゲーム)」である。
この番組にチャンネルが合ったとき、うちのが思わず「ティ・ボレ」と言ってしまうようなとんでもない番組なのだが、簡単に言うと、かつてチェコでも人気を誇った「風雲たけし城」の国際版だと言ってよかろう。視聴者が参加してさまざまな「競技」を行うのである。違いは町の代表がチームで参加するということと、複数の国から各国1チームずつの参加だという点である。やっていることの馬鹿馬鹿しさは「たけし城」と大差ないが、公共放送のアナウンサーがまじめに、スポーツ番組のように中継しているのがおかしいと言えばおかしい。
チェコでは1990年代に放送された番組だというので、「たけし城」の影響がヨーロッパで国際大会が開かれるまでになっていたのかと思ったのだが、実際はこちらのヨーロッパ版のほうがはるかに前に始まっていた。チェコ語版のウィキペディアによると、何と最初の大会は1965年に開催されており、発案者は時のフランスの大統領シャルル・ド・ゴールだという。いやあ、「ティ・ボレ」を連発である。戦後の冷戦期にヨーロッパ、特に西側のヨーロッパ諸国の連帯感を養うことを目的として開催が始まったのだという。
この「大会」は断続的に冷戦後の1999年まで全部で30回開催されているが、参加国は年によって変わり、30回すべてに参加しているのはイタリアだけである。発案国のフランスと第一回の参加国のスイス、それにベルギーが20回を超えている以外は、多くとも半分ぐらいの参加である。一回の大会当たりの参加国は数か国にとどまると考えてよさそうだ。
チェコは、スロバキアと分離する前の1992年から参加をはじめ、4回出場している(冬の特別大会と合わせると5回になる)。そのうちチェコの代表チームは3回も優勝していて、優勝確率では参加国中一位だという。当時の東側として今以上に見下されていたチェコは、ヨーロッパ諸国の融和とか連帯感よりは、ひたすらに勝利を求め、西側に対する優越感を感じたがっていたのではないかなんてことも考えてしまう。
予選も含めると50ほどの町が代表を送り出しているが、残念ながらオロモウツの名前はない。あったからといってオロモウツのチームが出た回を見ようなんて気にはなれないけどさ。いかに過去を懐かしむお年寄りとはいえ、こんな番組を見ている人がどのぐらいいるのだろうか。この番組は知らず、チェコテレビ3自体は、放送が継続されていることを考えると、ある程度の高齢の視聴者を集めることに成功し、外出する人の数を減らしているのだろう。
日本でも、糞みたいなバラエティー番組や有害でしかないワイドショーなんかやめて、お年寄りが喜びそうな、テレビがまだ娯楽として魅力を持っていた時代の番組をどんどん再放送すれば、外出する高齢者を減らすことができそうである。個人的にも最近の日本のテレビ番組なんて見たいとも思わないけど、過去の自分の高校時代ぐらいまでの番組の中にはまた見てみたいと思うものはいくつかあるし、そんなのが昼間に放送されていたら外出しようとする足も止まろうというものである。
2021年3月1日22時。
2021年01月11日
録画、失敗? 成功?(正月八日)
先日紹介したコメンスキーのドラマが、水曜日の深夜に放送されたので、セットトップボックスのUSB録画機能を使って録画してみることにした。これならテレビはつけていなくても録画できるはずである。去年の九月に地上はデジタル放送の電波形式が変わって以来初めての試みなのだが、画面の解像度が上がってデータ量が増えていることが予想されたので、念のために夏にツィムルマンの録画をした時に使った容量32ギガのUSBメモリーを空にしてからタイマーをセットした。
翌日、USBメモリーの中の録画されたものをPCにコピーしてから、ファイル形式をコンバートするためのソフトに読み込ませてみるのだが、映像ファイルとして認識されず、音声ファイル扱いされているようだった。それでウィンドウズのメディアプレーヤーでも試してみたのだが、音が聞こえてくるだけで、映像は全く再生されなかった。
この時点では、録画に失敗したものと考え、いくつか思いつく理由の中で、ありえなさそうな容量が足りなかった説を除外するために、30分ほどの番組を同じ方法で録画してみた。今度はUSBから直接再生してみたのだが、再生できないというエラーが出た。これも失敗だと思ったのだが、ふと思いついて録画に使ったセットトップボックスで再生してみたら、何の問題もなく再生ができてしまった。録画には成功していたけれども、PCでの再生に問題があったのである。
ということはコメンスキーのドラマも録画はできているはずである。PCにコピーしたものを消さなくてよかった。後はどうやればこの映像ファイルを再生できるかである。「[TS]CT2」で始まる名前のフォルダの中に、「000.dvr」「000.ts」「info3.dvr」という三つのファイルがあるというのは、ツィムルマンを録画したときと全く同じ形式である。ただしツィムルマンのときと違って、拡張子が「ts」のファイルの表示がテレビの画面ではない。
同じ「ts」ファイルでも、新しい放送の様式に変わったことで再生できなくなってしまったようだ。使っているコンピューターが古くてウィンドウズ7だから、新しい形式に対応できていなくても仕方がないのかもしれない。職場に持っていって新しいウィンドウズで試そうかとも思ったのだが、それでは月曜日になってしまう。そこまで待ちたくはない。
ということで、ネットで検索したら こんなページ がでてきた。あれこれ書いてある説明の中にはよくわからないことも多かったけれども、「VLC Media Player」というソフトを使えば再生できるかもしれないことだけはわかった。このソフト職場のいくつかのPCには入っているはずだけど、自宅のには特に必要を感じておらず、入れていなかった。
「VLC Media Player」では再生できない「ts」ファイルもありそうなことも書かれているが、試して駄目なら削除すればいいだけである。ダウンロードしてインストールして起動して、コメンスキーの動画を開いてみたら、あっさりと言うには読み込みに時間がかかって駄目かなと思ったけど、最終的には問題なく再生することができた。フラー。
ファイルのコンバートができないので、不要な部分を切り捨てることはできないのだが、今回はわりと設定がうまくって前にちょっとついているだけなので満足しておこう。ファイルサイズも意外と小さくて3Gちょっとで済んでいるし。古い形式のツィムルマンの5割り増しぐらいである。
再放送があることを確認したとき、日本時間の午前8時からといういい時間帯だったので、日本の知り合いに伝えたのだけど、なぜかこのドラマは日本では見られなかったらしい。「ボジェナ」のほうは見られたというからよくわからない。レンブラントの絵を使った関係で、外国からは見られないように制限をかける必要があったのかもしれない。確かオリンピックのネット中継もチェコ国内からしか見られないようになっていたし。
知り合いも見たそうだったから、非常事態宣言が撤回されたら日本に送ろうかな。SDカードかUSBメモリーか媒体を買ってこなきゃいけないし、電器屋今休みだし、いつになることやらなんだけど。
2021年1月9日23時。
2020年12月23日
ファントマス(十二月廿日)
先日ネズバルの翻訳を刊行してくれたありがたい出版社である風濤社の出版物を検索したら『ファントマ』というフランスの怪盗を主人公にした作品の翻訳が出てきて驚いた。フランスの怪盗というと、日本ではアルセーヌ・ルパンの名前が最初に出てくるが、チェコでは誰がなんと言おうとファントマスなのである。フランス語での読み方は知らないが、チェコではチェコ語の発音の原則に基づいてファントマスと呼ばれる。
チェコでファントマスが有名なのは、残念ながら小説のおかげではなく、1960年代に制作された映画のおかげである。東西冷戦の時代というと、西側のブルジョワ映画は東側には入っていなかったと思ってしまうが、実はそんなことはなく、かなりの数のフランス映画が、世界最高とも言われる吹き替え技術を駆使して紹介され人気を博していた。映画のタイトルロールが今時の画面にチェコ語の字幕をつけたという形のものではなく、新たにチェコ語版(女性の名字にオバーがつき、吹き替え担当の役者名が併記される)を作っているところからも、力の入れようが見て取れる。
旧共産圏の吹き替えというのは、90年代に入っても、手抜きというか、技術不足というかで、不十分なものが多く、チェコスロバキアの片割れであるスロバキアのテレビの吹き替えは、台詞が入るときには、BGMなどの背景音が消えるというものだったし、ポーランドのは、一人の役者が出演者全員分の吹き替えをモノトーンな語りで担当するという代物だった。それに対して、チェコスロバキアの吹き替えは出演している俳優本人からも絶賛されるようなものだったらしい。
そんなチェコでフランスの映画俳優というと、ジャン=ポール・ベルモンドとルイ・ド・フィネスが双璧で、前者は亡命するまではヤン・トシースカ、後者はフランティシェク・フィリポフスキーという専属の吹き替え担当者が存在した。この二人の主演するさまざまな作品は今でも繰り返し、テレビで放映されているのだが、ルイ・ド・フィネスの出演作品の一つが、全部で三作あるけど「ファントマス」なのである。
つい、久しぶりに見たくなって昼食時に一作目の「ファントマス(Fantomas)」のDVDを引っ張り出した。見るたびに思うのだが、この映画、見ているうちに何が本当で、何がファントマスの仕組んだことなのかわけがわからなくなってしまう。すべてが仕掛けといえばそのとおりなのだろうけど、ルイ・ド・フィネス演じる捜査官と、ジャン・マレー演じる新聞記者もそれぞれファントマスを引っ掛けるためにあれこれ仕掛けるから、混乱が混乱を呼ぶ。謎は謎のまま、そのどたばた感を楽しむべき映画なのだろう。
日本でも知られているのかとウィキペディアで調べてみたら、日本でも公開されたらしく、日本語題は一作目から「ファントマ危機脱出」「ファントマ電光石火」「ファントマ ミサイル作戦」となっていて、一瞬目を疑った。ファントマスがファントマになっていることもあって、これじゃあ題名だけ見ても気づけなさそうだ。フランス語の原題は知らんけど、チェコ語だと二作目が「怒りのファントマス(Fantomas se zlobí)」、三作目が「ファントマス対スコットランドヤード(Fantomas kontra Scotland Yard)」。個人的にはこっちのほうが好みだなあ。外国映画の日本語題には、チェコ映画もそうだけど、見る気が失せるものが多い。
チェコにおけるファントマスの人気を象徴するのが、アイスホッケーの世界選手権の応援に、毎回駆けつけていたファントマスである。もちろん本物ではなくファントマスの被り物を被っているのだけど、名物ファンとして必ずニュースで取り上げられていた。最近は見かけなくなったから、本業が忙しくなって、引退したのかもしれない。
ところで、実はチェコでは、フランス映画以外にも、イタリアのいわゆるマカロニ・ウェスタンもかなりの知名度を誇っていて、今でも繰り返しテレビで放送されている。西側は西側でも共産党の強い国の映画は受け入れやすかったのだろうか。それとも内容を吟味した上で選んでいたのだろうか。ファントマスなら、ブルジョワ階級に鉄槌を下す、そんな設定はないけど労働者階級出身の怪盗を描いた作品という名目でチェコスロバキアでも公開されたなんて話があってもおかしくはなさそうだ。
2020年12月21日22時。
2020年09月12日
イジー・メンツル終(九月九日)
ビロード革命後は作品の数はそれほど多くない。チェコスロバキアが分離した直後の1994年には、なぜかロシア人作家の原作をもとにスビェラークが脚本を書き、ロシア人俳優を主役に据えた映画を作成している。チェコでも公開されたようだが、もともとはロシア語の映画で、チェコ語版は吹き替えだったという話もある。チェコとロシアだけではなく、イギリス、フランス、イタリアも制作に関わっている。
題名は「 ?ivot a neoby?ejná dobrodru?ství vojáka Ivana ?onkina (兵士イバン・チョンキンの人生と尋常ならざる冒険)」というもので、どことなく「シュベイク」を思わせる。シュベイクが第一次世界大戦なら、こちらは第二次世界大戦を舞台にした話で、ソ連万歳の戦争映画に対するパロディだという。テレビで放送されたのを見たことがないので、何とも言えないのだけど、第二次世界大戦中のロシアの村を舞台にしたソ連映画のパロディというのは、個人的にはあまり興味をひかれない。
その後、十年以上のときを経て、フラバル原作の「英国王給仕人に乾杯!」が2006年に制作される。待望のメンツルの新作、しかもフラバル原作ということで、前評判も高く、公開後の専門家の評価も高かった。チェコ版のアカデミー賞である「チェスキー・レフ」映画賞でも、同年の最優秀映画として表彰を受けている。
これでフラバル原作のメンツル作品は、短編を除けば五編ということになる。個人的には、最初の二作「厳重に監視された列車」と「つながれたヒバリ」の評価が一番高い。フラバル、メンツル、ネツカーシュの組み合わせは最高である。ただ、放送回数が多くて、放送されているとついつい見てしまうと言う意味では「剃髪式」が一番とも言える。饒舌な上に大声のペピンがうるさすぎてわけがわからなくなるのだけど、ペピンが静かになったらこの映画の魅力が減ってしまいそうなのが困りモノ。
メンツル最後の作品は2013年に制作された「ドンシャイニ」という作品。今回調べるまで存在すら知らなかった。当時ニュースや宣伝で見た可能性はあるけれども、記憶に残るほどのインパクトは残らなかったということだろう。
メンツルは、自作の映画に役者としてしばしば登場することでも知られているが、それとは別に、俳優としてもさまざまな映画に出演している。早くは、1964年の伝説的なミュージカル映画「Kdyby tisíc klarinet?(千のクラリネットがあったら)」に出ているようだ。この映画は、劇団信号のイジー・スヒーとイジー・シュリトルが書いた舞台ミュージカルを映画化したものらしい。今見ると出演者が、カレル・ゴット、バルデマル・マトゥシュカという二大歌手を筆頭に、ハナ・へゲロバー、エバ・ピラトバーなんかも出ていて驚きである。昔見たときにはモノクロの荒れた画面で、ゴット以外はよくわからなかったけどさ。メンツルがいたのにも気づかなかった。
多くはこの作品のように端役での出演だが、主役を演じた作品もある。一つはビェラ・ヒティロバーの1976年の作品「Hra o jablko(林檎ゲーム)」で、もう一つは、ユライ・ヘルツが、ヨゼフ・ネスバドバのSF短編「吸血鬼株式会社」を映画化した「フェラトゥの吸血鬼」という1981年の作品。どちらも「ノバー・ブルナ」に属する監督で、監督仲間から役者としても高く評価されていたことを示していると考えていいのだろうか。
監督としての作品の減った90年代も、役者としてはさまざまな作品に出演しているが、チェコ初の民放であるノバが制作した二作目のテレビドラマ「Hospoda(飲み屋)」に出ているのを見たときには、役者としても活躍していることを知らなかっただけに驚いた。この番組、最初に放送されたのは1996年から97年にかけてで、まだこちらには来ていなかったが、チェコのテレビ局は過去の作品を頻繁に再放送するので、目にする機会は結構ある。ノバ制作のコメディ・ドラマは集中して見たことはないけど。
ズデニェク・スビェラークは、メンツルの最晩年について、(恐らく闘病で)辛そうな様子が見ていられなかったと語り、死は苦しみからの解放という意味では一種の救いだったようにも思えると付け加えた。メンツルよりも二歳年上の自分についてはそろそろ順番が回ってくるんじゃないかと思うとスビェラークらしいことも言っていた。残酷な時間の流れの前には、人間というものはあまりにも無力であるなんてことを、訃報を聞くたびに考えてしまう。
2020年9月10日23時。
2020年09月11日
イジー・メンツル2(九月八日)
「つながれたヒバリ」以後、数年の沈黙を余儀なくされたメンツルは、1976年にスビェラーク、スモリャクのツィムルマン劇団と組んで「Na samot? u lesa(森のそばの一軒家)」を制作する。この映画がきっかけになったのか、メンツルは1977年から79年にかけて、ツィムルマン劇団の一員として活動している。ただし、映画の撮影の仕事が忙しくて出演できないことが多かったらしい。確か、この映画も出演したヤン・トシースカがアメリカに亡命したためテレビで放映できなかったという話を聞いたことがある。
77年には、ハベル大統領を中心とするグループが発表した「憲章77」に対抗して、共産党政権が準備したいわゆる「アンチ憲章」に署名を強要されている。当時、当局ににらまれながら仕事をしていた芸能関係者の大半が、強要に応じて署名したと言われる。多くはその事実については触らないようにしているようだが、メンツルは、自分は恥じることはない、恥じるべきは強制した奴らだとか語っていたという。ただ、後に母校のFAMUで教えていたときに、学生たちからボイコットを食らったという話の原因がこれだったのかもしれない。
この問題は、出世のために共産党に入党したと称するビロード革命後の政治家たちと、仕事を続けるために「アンチ憲章」に署名した芸術家たちと、どちらが非難されるべきかという話にもつながる。結局「憲章77」に署名もせず、活動の支援もしなかった人たちに「アンチ憲章」に強制的に署名させられた人たちを批判する権利はないということになるか。トシースカなど「アンチ憲章」に署名しながら、裏では「憲章77」関係者を支援していたともいう。同年のうちに亡命してしまうわけだが。
1980年には、再びフラバル原作の「剃髪式」を制作。メンツル追悼の第一作としてチェコテレビが亡くなったニュースが流れた日に放送したのが、このビール工場を舞台にした作品だった。フルシンスキーも登場するが、誰よりも強い印象を残すのは、イジー・シュミツル演じる主人公の、兄役(弟かも)のハンズリークで、なぜか「ペピン伯父さん」と呼ばれている。これは映画の最後で生まれることが予言された赤ちゃんが原作者のフラバルで、フラバルの伯父さんがペピンだということで、伯父さんと呼ばれると解釈していいのかな。映画の舞台となったニンブルクのビール工場ではこの作品にちなんだビールを生産していたとはずである。
83年にもフラバル原作の「Slavnosti sn??enek(福寿草の祝祭)」。「剃髪式」から引き続いて、フルシンスキー、シュミツル、ハンズリークの三人が主要な役を演じる。ウィキペディアによると、原作者のフラバルもちょい役で出ているらしいのだが、どの役で出ていたのか思い出せない、というか気づけなかった。スビェラークとブルックネルというツィムルマン関係者は、ちょい役だけど確かにいたのを思い出せる。
そして、85年には第三の代表作である「スイート・スイート・ビレッジ」が公開される。脚本はスビェラーク。この映画について語られるときには、主人公のオティークを演じたハンガリー人の俳優と、オティークとコンビを組むトラック運転手役のスロバキア人のラブダが取り上げられることが多いのだけど、しょっちゅう車をぶつけたり故障させたりしているお医者さんを演じたフルシンスキーも忘れてはいけない。あの村の雰囲気は、この医者の存在なしには考えられない。ちなみに同名の長男も出演しているが父親ほどの存在感はない。
ビロード革命の直前の1989年に公開されたのが、「Konec starých ?as?(古き時代の終わり)」で、バンチュラの原作を映画化したもの。第一次世界大戦後のチェコスロバキア独立後に、かつての貴族の邸宅を手に入れたなりあがり一家を描いたものだったと記憶する。一回目か二回目かのサマースクールで担当者が自分の一番好きな映画だと言って見せてくれたのだが、正直、こちらのチェコ語のせいもあって、話がいまいち理解できなかった。
最初に見たときには、気づかなかったと言うよりは、チェコの俳優のことを知らずに気づけなかったのだが、ルドルフ・フルシンスキーが、次男のヤンと親子の役で出演していた。長男のルドルフ若よりも、こちらのヤンのほうが役者としては成功している印象である。政治的な発言が多すぎるのはどうかと思うけど。
この話もう少し続く。
2020年9月9日22時
タグ: 映画
2020年09月10日
イジー・メンツル1(九月七日)
チェコを代表する映画監督のイジー・メンツルが亡くなった。日本では名字は「メンツェル」と音写されることが多いが、チェコ語の発音では「メンツル」である。「Z」が「ツ」になるのはドイツ語の影響だろうか。享年82歳。天寿を全うしたといってもいいのだろう。協力して数々の名作を送り出した盟友のボフミール・フラバルと享年を同じくするのは、運命というものだろうか。フラバルはチェコ最後の文豪といいたくなる存在だが、メンツルも最後の巨匠と言ってもいいのかもしれない。
ニュースでは、当然メンツルの人生を簡単に紹介していたのだが、一番驚いたのは、母校であるFAMU(芸術大学の映画学部。音楽関係者は大学の略称のAMUを使い。映画はFAMU、演劇はDAMUを使うことが多い)では、才能不足を理由に当初希望した映画監督の勉強が許可されず、テレビ関係の学科で勉強していたという話である。教官を務めていた映画監督のオタカル・バーブラに見出されて映画監督の道に進めたのは、メンツルの映画のファンにとっても幸いなことだった。以下主要な作品を簡単に紹介しておく。繰り返しもあるけど。
メンツルは大学卒業後の監督としての活動でいわゆる「ノバー・ブルナ」の創設者の一人とみなされている。きっかけと言えそうなのは、ビェラ・ヒティロバーに誘われて参加したらしい1965年の映画「Perli?ky na dn?(水底の真珠)」である。ボフミール・フラバルの同名の短編集を原作とする映画で、メンツル、ヒティロバー、ニェメツ、イレシュ、ショルムという、いずれも「ノバー・ブルナ」に属する5人の監督が、それぞれ一本ずつ短編映画を制作している。
メンツルにとってはこれが最初の商業映画だったらしい。同時にメンツルと原作者フラバルという、1960年代以降のチェコスロバキア映画の最高の組み合わせが誕生した瞬間でもあった。メンツルが担当した作品は「Smrt pana Baltazara(バルタザル氏の死)」で、原作とは人名が変わっているが、オートバイの世界選手権のチェコスロバキアGPでドイツ人選手が亡くなった事故がモチーフになっているという。残念ながらこの作品については現在まで見る機会を得ていない。
翌1966年にメンツルとフラバルが世に送ったのが、アメリカのアカデミー賞で外国語映画賞を取った「厳重に監視された列車」である。日本では「運命を乗せた列車」という題名でも知られている、この映画は、アイドル歌手だったバーツラフ・ネツカーシュの俳優としての才能を見出したという点でも、重要な作品である。メンツル自身も医者の役で登場している。
1968年には、フラバルの原作ではないが、戦前の作家ブラディスラフ・バンチュラの同名の作品を映画化した「Rozmarné léto(気まぐれな夏)」が公開される。重要なのは名優ルドルフ・フルシンスキーとブラスティミル・ブロツキーが主要な役で出演していることである。特にフルシンスキーは、以後のメンツル作品には欠かせない存在となる。
そして、「プラハの春」で規制緩和が頂点に達した1968年に制作され、完成後、正常化の始まる1969年に問題作としてお蔵入りになったのが「つながれたヒバリ」である。20年以上のときを経て、ビロード革命後に初めて一般公開され、1990年にベルリン映画祭で金熊賞を獲得した。この作品でも主役のバーツラフ・ネツカーシュだけでなく、ルドルフ・フルシンスキーとブラスティミル・ブロツキーも印象深い役を演じている。共産党には、思わず発した何気ない一言のせいでネツカーシュが炭鉱送りになる最後が許せなかったんだろうなあ。
ネツカーシュは、俳優としての出演作こそ少ないが、「厳重に監視された列車」と「つながれたヒバリ」というフラバル=メンツルの二作での演技だけで、20世紀後半のチェコを代表する俳優になったといっていい。その後は、秘密警察に脅迫されて、協力者としての仕事を強要されたストレスから、見違えるように太ってしまって、一時は表舞台から姿を消していたようだけど。
以下次号。
2020年9月8日20時。
2020年08月28日
ツィムルマンの夏最終回(八月廿五日)
14. Dobytí severního pólu
表題になっているのはツィムルマンの北極探検隊の活動を描いた戯曲である。「Dobytí」というと普通は戦争で街や城を陥落させることを言うのだが、困難を乗り越えて高山の山頂などに到達するのにも使われる。当然南極点や北極点への到達も同様で、チェコ人の一団が困難を乗り越えて北極点に到達するまでの様子が、日記を基にして書かれた戯曲として「再現」される。
チェコ人と北極と言うとザーブジェフ生まれのヤン・エスキモー・ベルツルの名前が思い浮かぶのだけど、この人は登場しないと思う。その代わりにと言うことでもないのだろうけど、リトベルと関係の深いレスリングのヨーロッパ王者のグスタフ・フリシュテンスキーの兄か弟が登場する。実際にいたのかどうかは知らんけど。
プラハの何かのグループで、北極探検隊を組織しようという話になって、家庭持ちがさまざまな理由で辞退したせいで、独身者だけで出かけることになった旅の発端から、これで北極まで行けるとは思えないシーンが続出するのだけど、ツィムルマンだから仕方がない。食料が足りなくなったときに、犬ぞりは使っていなのに犬の肉を食べようと言い出すのは、メンバーの一人にそりを引かせて犬ぞり扱いをしてからその犬を食べると言うことだと理解したのだが、間違っているかもしれない。
氷の柱を見つけて溶かしたら、前年北極探検に出かけて行方不明になっていたチェコ系アメリカ人(名前はそれっぽくなかったような気がしたけど)が出てきて、冷凍睡眠とか言っていたかなあ。話が予想外のほうに転がっていくので、自分の理解が正しいのかどうか確信が持てないシーンが多いのが困りものである。
前半の研究発表の部分で一番印象残るのは、「?ivý obraz」についての部分である。直訳すると「生きた絵」となるので、「活動する写真」と同じで映画のことかと思ったら、むしろ「動かない演劇」だった。生きた人間が何かの役を演じて静止した状態を「絵」に見立てているらしい。最後のプラハの保険会社のためのものだという集合写真のような「?ivý obraz」は、ツィムルマンの書いた演者への役柄の説明を読んでも演じようもないという役が多い。それを、観客席に座っている客を舞台に引っ張りあげてやらせるのである。いい思い出にはなるのだろうけどさ。
15. ?eské nebe
全部で15の作品のなかで、今回最後に放送された作品。放送する順番に何らかの基準があったのかどうかは不明。劇場の舞台での初演の順番というわけでもなさそうだし。とまれ題名は「チェコの天国」とでも訳せるもの。
前半の研究発表の部分では、どうしてと疑問に思うほどに、詳細にそしてまじめに、チェコ社会を揺るがした古文書偽造事件を扱うのだが、これが後半のツィムルマンの演劇の伏線になっていた。重要なのは、ゼレナー・ホラ手稿、ドゥブール・クラーロベー手稿と呼ばれる偽文書の作成者がハンカとリンダという名前であること、偽造であることを指摘した人たちが、民族の敵扱いされたことなどである。
もちろん笑えるシーンもあるのだけど日本語にできるかと言うと……。本当かどうかは知らないが、手稿をハンカの偽造だと見抜いた師匠も、実はロシアの古いとされる手稿の偽造の疑いがあるらしいのだが、怪しいのは発見された時期に発見された場所にいたチェコの「スラブ学者」と言った直後に、「スラビアファン(選手でも可)」じゃないからね、スラブ学者とスラビアファンが違うのはわかるよねとかいうコメントをはさむ。
日本語だと勘違いの使用もない二つの言葉だけど、チェコ語ではスラブ学者は「スラビスタ(slavista)」で、スラビアファンは「スラービスタ(slávista)」で、チャールカ一つ分の違いしかないので、混同したり言い間違えたりしても不思議はないのである。ツィムルマンの演劇や映画に出てくる冗談はこういう翻訳しようもないものが多い。
後半の劇のほうは、誰をチェコ天国に受け入れるかを決める天国評議会の様子を描いたものである。最初は、プラオテツ・チェフ、聖バーツラフ、コメンスキーという三人しかいない評議会のメンバーを増やそうというところから始まる。ヤン・フス、カレル・ハブリーチェク・ボロフスキーを加えた後、女性が必要だというコメンスキーの意見で、ボジェナ・ニェムツォバーではなく、なぜかニェムツォバーが書いたバビチカ(おばあさん)が選ばれる。その選択の過程で、ツィムルマンがまだ生きているのが残念だなんて言葉が漏れる。
その後、誰を天国に迎え入れるかという議論で、民族を騙した形になっているハンカとリンダをどうするかという話になって、バビチカが、その女の子たちは良かれと思ってやったんだからと弁護するのだが、ハンカとリンダというのは確かに女性の名前だけど、この二人の場合は男性の名字なのである。手稿だけでなくて名前でも騙すのかなんて話になるのかな。
ボロフスキーがパラツキーは駄目だと批判したり、フスがヤン・ジシカを高く評価してみせたり、チェコ出身のラデツキーがオーストリアの天国の代表としてチェコの天国を傘下に収める交渉に来たり、チェコの歴史を知っている人には嬉しいくすぐりに満ちている。戯曲が書かれたことになっている当時の状況を反映して、チェコを独立させてマサリクを国王にしようとか、もともとの名字マサーリクがスロバキア語っぽいからマサジークに変えさせようなんてシーンには、思わず納得しそうになってしまった。「Masa?ík」ならスロバキア語ではありえないし父親がスロバキア人であってもチェコの国王にふさわしい。
この作品、チェコの歴史的な知識があればあるほど理解が進みそうだから、ツィムルマン完全理解計画をはじめるには、一番よさそうではあるのだよなあ。
2020年8月26日11時。
タグ: ツィムルマン
2020年08月23日
ツィムルマンの夏5(八月廿日)
12. Cimrman v ?íši hudby
いつものスビェラークとスモリャクに、音楽の担当のクルサークを加えて、復元されたツィムルマンのオペラを題材とした作品。最初の研究発表の部分でも、音楽活動とか音楽教育について語られていたと思う。ただ、音楽家としてのツィムルマンについては、既に過去の作品でも取り上げられているのだけど、整合性が取れているのかどうか不安になる。細かいことにはこだわらずに、それぞれの作品に登場する冗談を楽しむのが正しいのだろうけど、どこが可笑しいのかわからなくて笑えないところが多いのが悲しい。
それはともかく、復元されたというオペラは外国人でも笑えるところが結構ある。そもそも「チェコの技術者のインドにおける成功」なんて題名からしてどこか可笑しい。この前はアフリカが舞台の戯曲だったけど、今度はインドでオペラである(実際の初演の順番は違うと思う)。ストーリーは、多分、スモリャク演じるチェコのエンジニアが、インドで正しいビールの製造法を教えるというか、事前に導入されたドイツ製の設備がうまく動かないのを、修理して使えるようにするというものだったと思う。
そういうあるものをうまく使って、もしくは機械に独自の改善を加えて使えるようにするというのは、チェコの人たちの得意技で、時には想定されていないような使い方で機械を動かして生産できてしまうのが、日系企業の悩みの種だったりもする。チェコの人たちは、それをチェコの「黄金の手」なんて言って誇っているのだが、それがそのまま歌詞になっている。「zlaté ru?i?ky」なんて歌いながらスモリャクが金色の手袋をはめた手をちらちらと見せるのには、笑ってしまった。
いや、オペラの歌詞に、「チェコの技術者」とか「チェコのボルト、ナット、釘」なんてのが並んでいるのはどうなんだろう。インドの荘園領主?もドイツから来ている(という設定の)技術者もチェコ語で歌うのはいいけど、ドイツ語で叫ぶまではドイツ人だとはわからなかった。インドの領主にチェコのビールを飲ませて感動させるというシーンもあったけど、スビェラークもいっしょになって感動していたけど、何の役だったんだろう。やっぱり、わかるようでわからないのである。
普通のオペラや演劇の舞台は、チェコ語で歌ったりしゃべったりしているのを聞いても、何を言っているのか聞き取れないことが多いのだけど、ツィムルマンの舞台は、オペラの歌詞も含めて、何を言っているのかは大体聞き取れる。問題は聞き取れても、意味が、特に隠された意味がわからないところにある。見るたびにわかるところは増えているとは思うのだけどねえ。あまりしていないけど、修行はまだまだ続く。
13. Dlouhý, Široký a Krátkozraký
チェコのことを知っている人なら、題名からチェコの有名な童話と関係があることがわかるだろう。本来は、「Dlouhý, Široký a Bystrozraký」で、確か背の高い男と、横に幅広い、つまり太った男と、目ざとい男の三人が登場してあれこれする話だったと思うけれども、あんまり覚えていない。内容は覚えてはいないけど、チェコでは最も有名な童話のひとつだということは覚えている。ツィムルマンバージョンは、目ざといのではなく近視の男が登場することになる。
研究発表の部分は、ツィムルマンの子供向けの童話についての考え方だったかなあ。童話劇のほうは……。いくつかの童話をごちゃ混ぜにしたような印象で、子供たちには受け入れられなかったという(ことになっている)のも納得である。大人の聴衆にとっては、そのごちゃ混ぜぶりも笑うべきところなのだろう。
一番の見所は、呪いかなんかで男性に変えられてしまった女性が、王子さまが魔法のリングを使うことで女性にもどるシーンで、袖に隠れたり幕を下ろしたりしないまま、舞台の上で、観客が見ている前で、男性から女性に変身するのは世界的に見ても稀有なことらしい。とはいっても、付け髭を上から釣り糸で引っ張って剥ぎ取ったり、上から鬘を頭の上に落としたりするだけだから、他の劇場でやらないのも当然というかなんというか。付け髭とっても髭生やしてたし。こういうのを世界初とか言って誇るのもツィムルマン的な笑いなんだろうなあ。
このシリーズも次で終わりかな。
2020年8月21日9時。