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2019年07月31日
シュムネー・パルドゥビツェ(七月廿九日)
フラデツ・クラーロベーからラベ川を下ったところにあるのがパルドゥビツェである。ラベ川と支流の合流点を利用して水濠に囲まれた都市を建設した点で共通しているし、人口も大体同じぐらいで、両都市の間には強いライバル意識があるなんて話もある。それが現在のチェコの地方行政の単位であるクライが成立した際に、パルドビツェとフラデツ・クラーロベーを中心とする二つのクライに分かれた理由だともいう。二つの町をまとめて一つのクライに入れてしまった場合、どちらをクライの首都にするかで話し合いがつかないに決まっているのだとか。
パルドゥビツェの駅前に立っている銅像は、チェコの鉄道の父とも言うべきヤン・ペルネルという人物である。特にプラハからパルドゥビツェを経て、チェスカー・トシェボバー、オロモウツを結び、プシェロフでウィーンから北上してくる線につながる鉄道の敷設に貢献した人物だっただろうか。チェスカー・トシェボバーの駅前にも、かなりデフォルメされたこの人の像が置かれているし、かつてはチェコ鉄道の特急の名前にも使われていた。
駅前から右に延びる大通りをひたすらまっすぐ2kmほど歩くと、いつの間にか旧市街にぶつかる。駅前と旧市街の間には近代の建築物がないわけではないけれども、オロモウツやフラデツほどの風情はない。通りの左側がふくらんで広場になっているところでバスケットの大会が行なわれていて、背の高い人たちが闊歩していた。この前のフラデツの空手といい夏休みを利用してのスポーツ大会が各地で行われているということなのだろう。
ここでもまずはインフォメーションセンターに足を向ける。旧市街の入り口の塔の手前の建物にあるのがわかりやすい。お散歩コースがないのか確認すると、二つあるという。一つは、歴史的な建物を巡るコースで、パルドルビツェを領有し発展に大きく貢献したペルンシュテイン家のビレームの名前が付けられている。この人15世紀半ばに生まれた人なのだけど、巡る記念物はそれよりもずっと新しいものもあるようだ。
二つ目は、映画にもなったオペレーション・シルバーA、つまりナチスのボヘミア・モラビア保護領の総督ハイドリッヒ暗殺にかかわり、パルドルビツェで命を落としたアルフレート・バルトシュの最後の動きをたどるというもの。二つ目は旧市街の外のあまり魅力的ではないところを回るようだし、とりあえず一つ目のだけにしておこう。
最初のポイントは。旧市街に入る門とその上にそびえる塔。フラデツが白なら、こちらは緑で、緑の門と名付けられている。全体の高さは59メートルで上まで登れたけど、螺旋階段が狭くて登りづらい上に、料金を払う受付が下ではなくて上にあるようだったので、途中まで登って引き返してしまった。
このパルドルビツェの歴史的散歩コースで特筆しておくべきは二つだけ。本来ならペルンシュテイン広場にある壮大な市庁舎も対象になるのだろうけど、改修工事で外からも中からも、ちゃんと見ることができなかった。だから一つ目は、旧市街の一番奥にある城館で、二つ目はラベ川支流フルディムカ川の水流を利用した製粉所の巨大な建物である。
城館のほうは、残念ながらかつての内装が残っていないということで、お城としての見学ではなく、中に入っている博物館の展示を見るしかないのだが、建物そのもの、もしくは建物と旧市街、ラベ川との関係がなかなか見ものである。このお城、周囲に日本の河川の堤防のような土塁が築かれていて、その外側にラベ川から水を引き込んで、文字通り池の真ん中に浮かぶ城だったようなのだ。城に入るためには旧市街を抜けなければならず、しかも街と城の間に渡された橋を渡る必要があったらしい。
博物館の人の話によると、この城館と街を整備してパルドルビツェ発展の基礎を築いたのは、パルドビツェ家から街を購入したペルンシュテイン家の人々で、中でもビレームの功績が大きかったという。だから広場の名前もビールの名前もペルンシュテインなのである。ただ、ペルンシュテイン家は、その後財政難からパルドビツェを維持できなくなり、ハプスブルク家に売却することになったのだとか。
城館を出て、土塁に登って今は公園になっているかつて堀、もしくは池のあった部分を見下ろす。残念ながら土塁から公園に降りて行くことはできなかった。街との間になぜかテニスコートがあるのだけど、チェコだからなあ。四隅は円形に外側に突き出していて、砲台として使われていた時期もあるようだ。そのうちの一つは柵で囲まれてヤギの飼育が行なわれていたけど、時々放して草刈の手間を軽減させているのかな。
もう一つの見所は、「シュムネー・パルドルビツェ」に出てきた製粉所である。これも20世紀初めのゴチャール設計の建物なのだが、フラデツの水力発電所とは違って存在をすっかり忘れていたので、川の向こうに発見したときには、思わず声を上げてしまった。確か今でも現役で稼動しているとテレビでは言っていたような記憶がある。近くまで入ったけど、敷地の中には入れなかった。
パルドルビツェの全体的な印象は、悪くない。悪くないのだけど、隣のフラデツと比べたら劣る。ただ、オロモウツからの交通の便はこっちのほうがいいから、お城の改修工事が終わったころにもう一度という気がしなくもない。競馬好きなら障害レースのベルカー・パルドゥビツカーを見に行くということになるのだろうけどね。
2019年7月29日24時。
タグ: シュムナー・ムニェスタ
2019年07月30日
ありがたいコメント(七月廿八日)
この前コメントをいただいた方から、またありがたいコメントをもらうことができた。すでにチェコを離れバンコクということなので、南回りを使われたようだ。そういえば、以前もう十年以上前になるかな、オロモウツに留学に来た学生が、往復5万円のチケットで来たと自慢していたことがあったのだが、それが、台湾、バンコク、インド、中東のどこか、イスタンブール、ウィーンと乗り継ぐ便だった。時間がかかって大変じゃないのと言うと、一回あたりの飛行時間が短いから楽な面もあるなんてことを言っていた。確かに一度に十時間以上乗るのは辛いけど、2、3時間ずつだったら、耐えられそうな気もする。
最近はさすがにこんな何度も乗換えが必要な便で来る人はいないが、ドバイかどこかの中東で乗り換える南回りで来る人は一定数いる。以前はあまり聞かなかった中東の航空会社も意外と評判は悪くない。残念ながらチェコへは日本からの直行便が飛んでいないので、どこかで乗換えが必要になる。実際にどのくらいの時間がかかるのかは知らないが、プラハから一度西に行く、ロンドンやパリ、フランクフルトなんかで乗り換えるよりは、距離的には近そうな気がするんだけどどうなんだろう。
こちらの対応を丁寧と評価してくださるのは、ありがたいのだけど、実態はちょっと違う。実際はコメントを記事を書く際の参考にさせてもらっているというのが正しい。テーマを決めるのに使う場合もあるし、内容まで利用させてもらうこともあるが、初めて以来三年半もほぼ毎日書き続けていると、ネタに詰まることも多いのだ。だから、コメントをもらうと、まずどんな記事にできるだろうなんてことを考えてしまう。ありがたいやら、申し訳ないやら。
以前コメントをしたことのあるチェコサッカー関係のブログで、返事がもらえるとうれしかったので、コメントをもらったら返事をしようとは、ブログをはじめた時点で決めていた。ちゃんとしたコメントが来るまで、長い時間がかかったのだけど、それは置いておいて、問題は管理ページからどうやってコメントに返事をすればいいかわからなかったことだ。今でもわからないんだけどさ。
それで、関連しそうな内容の記事を書くことで返事の代わりにすることを思いついたのが、現在まで続いているというのが実際のところだ。一本の記事はできない場合でも。関連しそうな記事の冒頭で、文字数稼ぎがてらコメントをもらったことを書くようにしている。迷惑コメントすら記事のネタにしてしまったし、あんまりほめられるようなやり方でもないような気もする。
それはともかく、今回もコメントに出てきたブルノの本駅、もしくは中央駅の状況について説明しておこう。2018年の12月初めから、2019年の12月初めにかけて、ほぼ一年がかりで改修工事が行われており、一部の電車を除いて、停車することも通過することもない。そのため、南のほうに向かう場合のドルニー駅と、北に向かう場合のジデニツェ駅の二つが、主要な代替の駅として機能している。ドルニー駅は、歩いても10分ぐらいで連絡用のバスが出ているが、ジデニツェ駅のほうには中央駅から特別な電車が出て利用客を運んでいる。
ジデニツェ駅は始発終着の駅にできないぐらいの駅で、北の方に向かう電車の始発駅はクラーロボ・ポレ駅なのだが、ここはブルノの北のはずれともいうべき場所で、市内の中心部に向かうには交通の便が悪すぎる。それで、ジドニツェが実質的は始発の駅に選ばれたのだろうが、この駅もドルニー駅もそれほど大きい駅ではなく、切符の販売窓口なども少なく混雑する可能性もある。ブルノから電車に乗るなら、切符はネット上で購入するか、中央駅で購入してから移動するかした方がよさそうだ。
プラハからブルノを経てブラチスラバや、ウィーンのほうに向かう電車は、ジデニツェとドルニーの両方に停車するが。ブルノが目的地の場合は、中心部への近さを考えるとドルニー駅で降りたほうがよさそうである。ジデニツェでクラーロボ・ポレ発中央駅行きの特別電車に乗る手もあるが、接続がいいとは限らないし、ブルノ止まりの急行の中には中央駅まで行くものもあるにはあるが、時間が余計にかかって本数がそれほど多くない。
オロモウツから行く場合には、プロスチェヨフ経由の電車は、ジデニツェ駅を経てクラーロボ・ポレ駅に向かう。ブジェツラフ経由のものはドルニー駅どまりである。時間はブジェツラフ経由の方が30分ぐらい余計にかかり、運賃も倍近くになる。ただ車両の快適さはこちらの方が上なので、どちらを使うか悩むところではある。もっとも車内でPCを使うことを考えなければ、電車なんて使わないでレギオジェットのバスが一番いいのだけど。途中全く停車しないので、一時間以内に到着するし、運賃も安く、到着するのは中央駅近くのホテル・グラントのところのバスターミナルである。そう考えると、高速道路D1の渋滞さえなければ、プラハ−ブルノもバスの方が便利かもしれない。
最後に国際列車のことを書いておくと、レギオジェットのような私鉄を除くと、国際列車は他の国の鉄道会社と共同で運行されているため、便によって、同じ便でも日によって使用される車両が異なることがある。以前はどこの国の車両でも、特にスロバキアやポーランドに行く場合には大差なかったのだが、チェコ鉄道の客車が、新車の購入やオーストリア鉄道からの中古の購入によって、大部分新しいものに更新された結果、チェコ鉄道の車両であれば、快適な車両に乗れることが多くなった。
以前、真夏にプラハに行ったときに使った国際特急の車両がポーランドのもので、それが冷房はない、窓は開かない、音はうるさいという大はずれだったことがある。以来、ポーランド鉄道の車両が使われている電車には乗らないようにしている。スロバキア鉄道の車両も新しくなったものが増えて、快適は快適だったが、チェコの車両と違って冷房が効きすぎて、時に寒いのが問題だった。噴出す風の強さだけでも調整できるとよかったのだけど、そんなものはどこにもなかったし。
もちろん、今でも急行、特急で外れといいたくなるような古い車両に当たってしまうことはある。地方自治体や地方開発省が車両の購入と運行に助成金を出しているローカルな普通電車の車両の方が新しくて快適なこともある。この前もシュンペルクから乗った普通電車に、オロモウツからブジェツラフを経てブルノに向かう急行とほぼ同じ車両が使用されていて、急行だと思って乗ったら各駅停車だった。パルドルビツェとフラデツ・クラーロベーを結ぶ各駅停車も同じような車両だったか。各駅停車に一等の座席があるのは、おかしいはずなのだけど、二等の切符で乗れるのかなあ。
2019年7月29日24時。
タグ: 鉄道
2019年07月29日
シュムニー・フラデツ3(七月廿七日)
第二のコースの基点は、ラベ川の旧市街側の河畔に建っている東ボヘミア博物館である。本来はフラデツの町の博物館として建てられた、赤レンガと真ん中にそびえる塔もどきが特徴的なこの建物を設計したのはヤン・コチェラである。ここも入らずばなるまいと入り口に行ったら開いていなかった。改装中だったのか、別に入り口があったのか。後で見たら案内所でもらった冊子に、2018年から2019年にかけて改修工事が行われると書かれていた。
二つ目はラベ川にかかる橋を渡って対岸の建物を眺める。一番目に付くのは白いソコロブナの建物。ソコルというのは、チェコ語で鷹だか、隼だかの猛禽類を表す言葉だが、19世紀の後半に設立された体操団体の名称に採用された。健全な精神は健全な肉体に宿る的な理想を体現しようとした団体ではあるのだが、同時に肉体を鍛え上げた人々の集まりは容易に軍組織に転用可能で、チェコスロバキア独立前後には、半軍事組織としても活動していたようだ。
共産主義の時代には、共産党お手盛りのスパルタキアーダというほぼすべての子供たちが強制的に参加させられた集団体操に取って代わられ活動を停止していたが、ビロード革命後に復活しこの前、創立百何十年だかの世界大会を大々的に開催していた。チェコ系の移民のいるところにはたいていソコルの組織もあるのである。そのソコルの体育館などのはいっている活動拠点をソコロブナといいちょっと大きな町にはどこにでもある。
オロモウツのソコロブナは、川沿いにないのでちょっと雰囲気が違って見えるが、プシェロフのは川沿いにあって、対岸のコメンスキーの時代の学校の跡地から見た感じがフラデツのものによく似ている。地図を見たときには、ここに例の水力発電所があると思ったのだが、違っていた。水力発電所というのは、シュムナー・ムニェスタで紹介されていたのだが、第一次世界大戦前に建設されたものが今でも現役で発電をし続けているというものである。
ここでお散歩コースを外れてラベ川沿いに歩いて7番のポイントに向かう。発電所がありそうなラベ川沿いの建物は他になかったのである。この発電所を見るのもフラデツに来た目的の一つである。特徴的な輪郭の目に優しい色合いの建物が、川の向こう岸に建っていた。なぜかダムのように川をまたぐ形で建っていると思い込んでいただけに、ちょっと意外だった。水門があってその上を渡れたので、発電所のところまで行くことができた。
普段は発電所を所有管理している電気会社チェスのインフォメーションセンターのようになっていて、見学も可能であることを後から知って歯噛みした。ただフラデツの情報誌によると、去年から今年にかけて改修工事が行われているということなので、中には入れなかった可能性も高い。建物の前まで言っても何の表示もなかったし。来年なら工事も終わっているだろうということで、再訪する理由が一つ増えてしまった。
再度橋を渡って元の岸にもどると、その先に学校の建物がいくつか並んでいた。もっとも威容を誇るのは日本の中高一貫の学校に似ているギムナジウムで、入り口の前に立って校舎を見上げると、ちょっと入るのをためらってしまいそうである。こういう校舎で学ぶと母校に対する誇りを強く感じるのだろうなあなんてことを考えた。その隣の少しおとなしめの建物も学校の建物で、幼稚園から小学校まで入っているのかな。どちらもゴチャールの設計ということである。
その後は、順路を逆行する形で、ゴチャールの設計によって機能主義で建てられたフス派の流れをくむ教会、ゴチャールの都市計画の中で旧市街に対する新市街の中心の役割をになわされた広場を経て、最後のマサリク広場に向かう。この三角形というよりは扇形の広場には、中心にマサリク大統領の銅像が置かれ、背後の扇形の弦の部分に、まるで屏風のように横長の、正面の上部がMを思わせる形を繰り返す建物がある。もともと銀行の建物で、今も銀行が入っているのだが、緑と青のコントラストの強い色を看板や窓のロゴに使っていて場違いな感じだった。
旧市街の外側に、こんな落ち着いた佇まいの広場があるとは、さすがは共和国のサロンと呼ばれるだけのことはある。そして当然のことながらこの広場もゴチャールの作品で、フラデツの駅と旧市街の間に広がる新市街はゴチャール抜きには存在し得なかったと言える。新市街を貫いて旧市街に突き当たる重要な通りにゴチャールの名前が冠されるわけである。オロモウツにはゴチャールに当たる存在がいなかったから、旧市街の外側はフラデツほど魅力的ではないのだろう。
この時点で足も痛くなり始めていたし、三つ目の要塞のあとを巡る散歩は、これまでの二つよりも長そうだし、この日のフラデツ観光はここで終わりにすることにした。二つ目のコースのうちラベ側とオルリツェ川の合流するところに設置された公園ははしょってしまった。帰りの電車の中で小冊子を確認したら、散歩のコースは4つだけでなく、歴史的な建物に入った学校を巡るコース、塔を巡るコースなどいくつも設定されていて、フラデツを訪れた人がいろいろな形で楽しめるように工夫されている。
もう一つ感心したのは、街中にいくつも公衆トイレが設置されていることだ。夏場の街歩きでは水分補給をおろそかにはできないから、トイレをもとめてあちこちするなんてこともある。チェコ人ならその辺のレストランに入って、お金を払ってトイレを借りるなんてこともできるけど、外国人の観光客には難しい。ついでに食事したりコーヒーを飲んだりするという手もあるけど、トイレに行きたくなるたびにコーヒーを飲むというのもなんだかなあ。
きれいな街だということは知っていたし、期待もしていたのだけど、実際のフラデツはその上を行った。これまで訪れたチェコの町の中で一番気に入ったかもしれない。もちろんわがオロモウツは別格として番外にしての話だけど。なんだかんだで四時間ぐらい歩き回っただけでは足りず、是非にももう一度訪れたいと思った。その前にもう少しフラデツについて勉強しておこう。
ところで、フラデツ・クラーロベーという地名は、チェコ語を勉強している人間にとっては謎である。フラデツはいいのだけど、後ろにある形容詞っぽい「クラーロベー」がわからない。国王のという意味の形容詞は、普通はクラーロフスキーが名詞の前で使われる。他に考えられるとすれば、大統領の奥さんがプレジデントバーと呼ばれるから、国王の奥さんでクラーロバー、それを二格で後からかけたか。ただ王妃にはクラーロブナという言葉が存在する。
二語からなる地名は、普通は両方とも書く変化させる。それなのにフラデツだけ格変化させてクラーロベーは変わらないのも不思議である。うちのの話では、普通のチェコ語ではありえない形なので、方言かなんかじゃないかというのだけど、どうなのかな。
とまれかくまれ初めてのフラデツ行きは、帰りの電車で座れなかったのを除けば、大満足だった。何で、バラシュスキー・エクスプレスがスロバキアのジリナまで行くんだよ。そんでスロバキア鉄道の車両が使われているのも、クーラーが利き過ぎで寒いという意味で大変だった。翌日をどこにも行かない休息の日にしたのも風邪ぎみっぽく感じたからである。天気予報が雨だったというのもあるか。結局降らなかったけどさ。
2019年7月27日24時。
タグ: シュムナー・ムニェスタ
2019年07月28日
シュムニー・フラデツ2(七月廿六日)
オロモウツもそうだが、古い町の中心部の暦的な建造物が建ち並ぶ地区は「パマートコバー・レゼルバツェ」というものに指定されている。日本語にすると景観保護地区とか町並保護地区とか、そんな感じのものになるだろう。そのエリアの内側は新しく建物を建てるのも、既存の建物を改修するのも厳しく規制されているはずである。そのわりには、何でこんな建物が建っているんだとか、この改修は駄目だろうと言いたくなるようなことも多いのだが、それはチェコだから仕方がないのである。
フラデツの街は、この「建造物保護地区」が二重になっているという点で、他の街とは異なっている。内側は、丘の上に建設された大広場を中心とする旧市街が指定され、外側の保護地区は、旧市街の下を流れるラべ川から駅に方に向かっては、ゴチャールの都市計画に基づいて建設された新市街とでも言うべき地区と、それ以外の方角では19世紀の後半に廃止されるまで旧市街を守るために、その外側を囲んでいた要塞都市の防御施設の残っている部分である。
第一のお散歩コース歴史的フラデツは内側の保護地区内を回るもので、全長約2.5キロ、13のポイントが設定されている。最初のポイントは市庁舎になっているのだが、説明はその斜め後ろにある白い塔についてだった。この塔には砂岩が建材として使われており、漆喰が塗られているわけでもないのに外壁が白く見えることから、白い塔と呼ばれているらしい。旧市街のシンボルとなっていることから、フラデツでは白を強調した街づくりをしているのだと見た。
塔の入り口はガラス張りの現代的な建築になっており、降りてくるところは昔ながらの石造りの螺旋階段が見えたけど、中に入るのを躊躇してしまった。文化財としての建築物保護の観点から、こんな改修というよりは、改造は許されるのかね。塔の高さは40メートルだったかな。結局上らなかったのは前日、前々日であわせて三本の塔に登ったからまあいいやというのもあった。登ったらこの後の街歩きに響きそうなぐらい足が疲れてもいたし。
驚いたのは塔の奥、何とか聖堂の、恐らくもともとは教会関係の建物だったと思われるところに、フラデツの大学の学長の部署が置かれていたことだ。大学の学部の建物は周囲に見当たらなかったから、大学を代表する部署だけでも町の中心におこうということなのだろうか。ちなみにこの教会のある広場は、ポーランド出身のローマ法王ヨハネ・パウロ二世の名前がつけられている。
そこから一度、旧市街の外辺、かつては要塞を囲む水堀があったと思われるところに、降りていく。途中で気になる大きな建物があったので中庭に入ったら、フラデツ地方の役所として最近建てられたものだった。のっぺらぼうの直方体の建物の左右の両端に塔みたいに高くなった部分があり、その上に塔の鋭い屋根を模したと思われるものが突き出しているて、似非ザーメク様式と言いたくなる。建築の賞を取ったみたいで専門家の評価は高かったようだが、正直、フラデツで一番失望を感じさせられた建物だった。
かつてのビール醸造所のエリアに建てられたもので、旧市街の外側から見ると醸造所の外側の建物の外壁は保存されていて、ビールの王ガンブリヌスの肖像が描かれていた。近くのスタジアムで空手の世界大会が行われていて、このあたりジャージ姿の外国人をたくさん見かけた。中国人と思しき観光客の姿が多かったのは、最近どこでもなので空手とは関係ないかな。日本の選手が大会に出ていたかどうかはわからない。
コメンスキー通りを進んで、旧市街の丘の上に戻るための長いトンネルの中の階段を登ろうと思ったら、改修中だった。仕方なく地方の役所に登るための新しい階段で大広場に戻る。大広場の建物はどれもこれもきれいに改修されていて見ていて飽きないのだが、駐車場になっているため、車の出入りが多く、建物をのんびり見上げながら歩くというわけにもいかない。6番目のポイントとして、歴史的な建物のならびに調和している近代建築を発見。
これもまたシュムナー・ガレリエ( 美術館 )だった。展示されている美術品には興味はないのだが、内装は見てみたいので、散歩の間の一休みとして中に入った。入り口の手押し式の回転扉からして感動ものである。特徴的な壁や天井の装飾は二階から三階に上がる階段までだったが、建物の真ん中が吹き抜けになっていたり、最上階ではベランダに出られたり一番上まで登るだけのかいはあった。芸術作品は斜め見しかしていないのだが、画家のクビスタの名前が気になった。キュビズムの人と理解できるこの名前、本名なのだろうか。
大広場があれば、小広場がある道理で、大広場の一番奥、細くなっているところの先に、小さな広場がある。さらに進んでかつて旧市街に入るための門があったという坂を下る。そこから昔の堀の跡地の公園を歩くとポスピーシルという人物の銅像が建っていた。この人が、1866年のケーニッヒ・グレーツの戦いの後、フラデツの市壁の破壊を主導し、町の拡大に寄与したらしい。
この調子で書いているときりがないのではしょるが、美術館での予定外の時間も含めて2時間ちょっと。上り下りしなければならない場所も多く、三日連続で酷使した足は悲鳴を上げ始めていた。ということで次は共和国のサロンを巡るコースである。
2019年7月26日23時。
タグ: シュムナー・ムニェスタ
2019年07月27日
シュムニー・フラデツ1(七月廿五日)
このパルドゥビツェと並ぶ東ボヘミアの(チェコレベルでの)大都市にこれまで足を向けたことがないのは、フラデツ・クラーロベーがプラハとオロモウツを結ぶ鉄道の幹線から外れたところにあって行きにくい場所だからというのが一番大きい。パルドゥビツェも旧市街に入ったことはないが、それは途中下車したときに駅から2Kmも歩く気になれなかったからだ。
以前よりずっと鉄道の便もよくなったし、今回はついでに寄るのではなく、フラデツに行って帰るだけで一日という贅沢な時間の使い方をするつもりである。通いなれたオロモウツ−パルドゥビツェ間は、外の景色を見るまでもないから、旅行記もどきを書くのに使える。それにしても自宅で書くよりも電車の中のほうが筆が進むというのはどういうことなのだろう。
オロモウツを8時半にでて、予定より遅れて11時ごろに到着したフラデツ・クラーロベーの第一印象は白いだった。駅前のトロリーバスの乗り場になっている広場の敷石と駅の向かいの現代的なビルの壁が白くまぶしかった。これは意図的になされているようで、去年ぐらいにニュースで完成が報じられていたトロリーバスを走らせるためのロータリーに建てられている電線を保持するための柱もすべて真っ白だったし、城下庭園の歩道も白い砂が敷かれていた。
駅前の道をまっすぐ進んでも、カレル4世通りを経て旧市街にたどり着くのだが、ここはあえて右に曲がる。見事だけど金もものすごくかかったらしいトロリーバスのロータリーを経てゴチャール大通りに入る。ゴチャールというのは、チェコの近代建築において名前を覚えておいたほうがいい3人の一人で、第一共和国の時代にフラデツの都市計画を立て、いくつもの建築物を設計してその実現にも貢献した建築家である。
ゴチャールの名前は知らなくても、プラハの旧市街にある黒い聖母の家という建物は知っている人もいるだろう。あれを設計した、つまりはチェコでしかなしえなかったキュビズムの建築への導入を実現したのがゴチャールなのである。もちろん作風は時代によって変わっているので、フラデツがキュビズム建築の街になったわけではない。ちなみに覚えておいたほうがいい残りの二人は、ウィーンのオト・ワーグネルと、その弟子でゴチャールの師匠に当たるヤン・コチェラである。ワーグネルの場合には本人の作品ではなく、弟子たちの作品がチェコ中に残っているのだけど。
ゴチャール大通りはオロモウツの駅前と旧市街を結マサリク大通りに似た印象で、19世紀末から大戦間期に建てられたと思しき建物が建ち並んでいる。オロモウツだと建物の正面の一番上の部分に建築年が記されていることが多いのだけど、フラデツでは残念ながら見かけなかった。ゴチャール大通りを進むにつれて、正面にオロモウツよりも高い丘の上にある旧市街の建物が見えてくる。旧市街の下を流れる川にかかった橋のたもとに小さな円形の、かつては橋守がつめていたのではないかとも思われる建物があるのだが、そのうちの一つは下着かなんかの店になっていた。
途中でいくつか建築物の説明が書かれたプレートが設置されているのを見つけて、観光客向けにお勧めの散歩コースがいくつか設定されていることがわかったので、ここでもまず情報収集のためにインフォメーションセンターに向かう。えっちらおっちら坂を登ってたどり着いた大広場(ベルケー・ナームニェスティー)の一角の案内所でお散歩コースが記された地図と小冊子をもらう。
コースは全部で四つあって、一つ目は旧市街の歴史的建造物を巡るコース、二つ目はその外側の共和国のサロン、日本的に言うと奥座敷だろうか、と呼ばれる所以となった近代建築を巡るもの。三つ目はオロモウツと同様要塞都市であったフラデツの要塞の名残をめぐるもので、最後が現代建築、おそらく戦後の建築物をめぐるもの。
この四つのうち、最初の二つを回るのはすぐに決めた。フラデツに来る前に一番楽しみにしていたのは「シュムナー・ムニェスタ」で見た近代建築の数々だが、近代の街を抜けて旧市街のを見上げたときの感動も大きく、この二つを見ないというのは考えられることではなかった。最後の現代建築に関してはあまり興味がなく、要塞の名残に関しては、オロモウツもそうだし感心がないわけではないのだが、二つ回った後の疲れ次第ということにする。時間には余裕があるが、体力にはあまり余裕がない。
お散歩コースの説明のプレートは特別に設置された台座の上に見やすいように斜めに付けられているのだが、先に難点を挙げてしまうと、一つのプレートに複数の建物の説明があったりして、どの建物の説明なのかがよくわからないことが多く、混乱させられた。プレートを読む向きとは反対側の建物や、その位置からは見えない建物の説明があったりもして、個々の建物にプレートをはめ込んでくれたほうがわかりやすかった。
ところで、インフォメーションセンターでは、「共和国のサロン」と表紙に書かれた冊子の英語版とドイツ語版が置かれていたので、フラデツの近代建築についての冊子だろうと、これのチェコ語版ないのと聞いて、もらって帰ってきた。寝る前に開いてみたら、予想に反して、どちらかというとフラデツ市民のための情報紙みたいなもので、近代建築についての解説は最初の1ページだけで、後はイベントの情報が大半。英語版やドイツ語版だけでなく、簡略化されたものに見えたポーランド語版もあったから、観光客向けだと思ったのだが……。
2019年7月25日23時。
タグ: シュムナー・ムニェスタ
2019年07月26日
オロモウツで飲めるPIVO?Lホルバ(七月廿四日)
このシリーズを書いていることを忘れないように、ここらで一本まとめておく。フラデツの記事がまとまっていないからではない。
さて、PMSグループの掉尾を飾るのは、ハヌショビツェに工場のあるホルバである。イェセニーク山地の山間の小さな村で生産されているこのビールは、山のビールであることを売りにしていて、「ryzí pivo z hor(生粋の山育ちのビール)」というのをキャッチコピーにしている。ベスキディのラドホシュトの山頂に置かれた神の像から名前を取ったラデガストと並んで、山との関係の深いビールである。ちなみにラデガストのキャッチコピーは、「?ivot je ho?ký. Bohudík(人生は苦い。ありがたいことに)」で、CMでは、苦労して山に登って山頂の飲み屋でラデガストを飲んだ瞬間に使われるから、苦い人生は悪いことではなく、ラデガストが苦い=おいしいことを称揚しているのである。
ホルバのロゴは山の上からご来光がさしているさまを表したものだが、よく見ると上半分が旭日旗みたいになっているから、韓国には輸出できなさそうだなあ。韓国では、あるチェコのビール会社が進出して工場を立ち上げたけれども、あまりうまくいかず、工場を売却して撤退したという話も聞いたことがあるから、チェコのビールとは相性がよくないのかな。
ホルバの工場のあるハヌショビツェは、ビール工場と山以外には何もないところなのだが、数年前に、「ディーラ・ウ・ハヌショビツェ(ハヌショビツェの近くの穴)」という映画がヒットして大きく知名度を上げた。見ていないのでどんな話かは知らないのだけど、「とんでもない(strašný)」映画だったらしい。チェコの映画で、「とんでもない」と評価されるのは、「トルハーク」を筆頭に傑作であることが多いから、この映画もなかなかの出来なのだろう。
さて、オロモウツにおけるホルバだが、以前と比べると看板を見かけることが増えている。特に町の外辺をなしている住宅街の中にある小さな飲み屋に、ホルバを飲ませるところが増えている。この前も運動不足の解消のために、ラスツェの方からチェルノビールの方に歩いていたら、ハヌショビツカーという名前の飲み屋をはじめ何軒かホルバの店を見つけてしまった。ネット上に情報を上げているお店はほとんどないけど。
旧市街の中でホルバが飲める店というと、ホルニー広場からドラーパルに向かう通りにある キキリキ しか思いつかない。この鶏肉料理の専門店は、ネット上にあるのは料理のメニューだけで、飲み物のメニューはないのだけど、確かホルバの11度、シェラークという名前のビールが飲めたはずである。シェラークというのは、イェセニークの山の名前で、「ryzí pivo z hor」というコピーにふさわしい命名だといえる。
ホルバのHP で調べてみたら、もう一軒旧市街にホルバのお店が出てきた。意外や意外、ギネスを売り物にしているはずのアイリッシュ・パブでホルバが飲めるのである。別のアイリッシュ・パブでインド料理を出していたこともあるし、オロモウツのアイリッシュ・パブというのは謎めいた存在なのだ。
1テンプル・アイリッシュ・パブ
Adresa: Ostru?nická 27
Web: http://www.templepub.cz/
Piva: Holba premium 12°
Holba Šerák 11°
Holba polotmavá 11°
Holba Speciál 14°
Moritz Maisel 11°
※10度がないのが気になるけれども、安さには重きを置かないという店の方針だろうか。ホルバのビールだけで11度から14度まで4種類というのは、オロモウツでもここだけのはず。ズブルが飲めるお店に続いてモリツのビール発見である。
ギネスを売り物にしているとはいえ、一杯80コルナもするから、日本で飲むよりは安そうだけど、気軽にがぶがぶ飲むというわけにはいかないのだろう。ホルバなら一番高い14度でもギネスの半分の値段だから、こっちを飲む人も多そうである。最初の一杯だけギネスとかね。
Kudy: 市庁舎の天文時計の前に集合。一番近い角から、聖モリツ教会に向かう通りを左手に見ながら、上り坂になっているオストルジュニツカー通りに入る。真ん中を越えたあたりの通りの左側にあるのがこの店。あまり目立たないたたずまいなので、見逃さないように注意が必要かも。
旧市街の外のお店の代表としては例外的にネット上にビールの情報の上がっていたところを、挙げておく。
2Bistro my meal
Adresa: T?ída míru
Web: http://www.mymeal.cz/
Piva: Holba Keprník 12°
Holba Šerák 11°
Holba Kvasni?ák 11°
Litovel Gustav 13 °
※12度のケプルニークも、シェラークと同様イェセニークの山の名前。どちらもハヌショビツェからそれほど遠くないところにあるのかな。二つの山を比べると、度数の高いケプルニークのほうが標高も高い。これを当然と言うべきかどうか悩ましいところである。残念なのはシェラークが1300メートル台で、ケプルニークが1400メートル台の山であること。13度にシェラーク、14度にケプルニークだったら完璧だったのに。
11度のクバスニチャークは、他の会社でも同じような名前をつけているけれども、醸造後に熱処理を加えず酵母が生きたままの状態になっているビールだと思う。
Kudy: 旧市街から歩けない距離ではないけど、トラムに乗ってしまおう。ネジェジーン行きの2番か7番に乗って、ウ・コバールニの停留所で降りる。降りたらトムの進行方向に向かって通りの右側に渡って、旧市街のほうに少し戻ったところにあるのがこのビストロである。
次はロプコビッツ系かな。
2019年7月24日23時30分。
タグ: オロモウツ
2019年07月25日
シュムニー・シュンペルク続(七月廿三日)
承前
旧市街の入り口にある教会の建物は、現在では教会としては使われておらず、いろいろな展示や、学校の入学式などのイベントに使われているという。その事情にもカトリックとプロテスタントの争いがかかわっているのだが、それよりも大事なのは後で足を踏み入れて見たら、プラハの春に対するワルシャワ条約機構軍の侵攻に抗議して、焼身自殺を遂げた二人目のヤン、ヤン・ザイーツに関するパネル展示が行われていたことだ。
ザイーツの出身はビートコフという町だが、シュンペルクの工業高校に通っていた。その在学中にプラハの春の事件に際会し、1969年に抗議の焼身自殺を遂げたのだ。展示のところにいた女性に場所を教えてもらって工業高校を探したら、建物の正面にどこかで見たことのあるザイーツを悼むモニュメントが設置されていてた。もちろん「シュムナー・ムニェスタ」で見たのだ。
案内の途中でいくつか、魔女裁判の犠牲者たちの住んでいた家というのを教えてもらったのだが、一番衝撃的だったのは、シュンペルクのカトリック教会の大物だったラウトネルという人物(この人の役職、大学の学部長と同じ名称なんだけど日本語で何というかわからん)が、疑いをかけられ拷問の果てに容疑を認めて火刑に処されたという話だった。魔女裁判で男がというのはおくにしても、17世紀の後半に、カトリックの教会の高位の聖職者が、魔女裁判にかけられたというのは意外だった。最終的には領主のリヒテンシュテイン家と、オロモウツの大司教の許可が必要だったというから、カトリック内での権力争いの側面もあったのかもしれない。
ラウトネルは、捕えられた後、影響力を持つシュンペルクではなく、現在でも刑務所として使用されているミーロフの城館に監禁されて拷問を受け、モヘルニツェで火刑に処された。ブルノのシュピルベルク城がハプスブルクの時代に牢獄として使われたことで名高いが、ミーロフも17世紀から牢獄として使用されていたということなのだろう。
シュンペルクで魔女狩りを主導したのは、現在のポーランドとの国境近くズラテー・ホリ出身のフランティシェク・インドジフ・ボブリクという人物。ただし当時シュンペルク周辺の住民は圧倒的にドイツ系が多かったし、ズラテー・ホリというのは第二次世界大戦後につけられた名前だから、ドイツ語の地名を使ったほうがいいのだろうけど、覚えられない。人名はフランツ・ハインリッヒ・ボブリクかな?
ドイツでは猖獗を極めた魔女狩りだが、チェコでは16世紀にナーホットとプシェロフで起こっただけだった。それを、ドイツで発明された容疑者の資産を裁判費用に当てて処刑の後は資産を没収するという金稼ぎの方法を、ボブリクはまずジェロティーン家の本拠地のあったベルケー・ロシニで試したあと、より豊かなリヒテンシュテイン家のシュンペルクに、犠牲者、もしくは金ずるを求めて移ってきたらしい。
犠牲者の数は、二十人ちょっととドイツなんかと比べたら、たいした数ではないと言えるのだろうが、そのすべてをたった一人の人物ボブリクが主導し、自らの恣意で、もしくはカトリックの教会の上のほうからの声にしたがって、確実に火刑にまで導いたさまにはぞっとさせられる。裁判の途中で裁判を維持するだけの資産がないことがわかった女性を釈放したなんて話もあったなあ。どうにもこうにも救いのない話である。罪を認めずに獄死したのは一人だけ。その人の邸宅のあったところの地下室で魔女裁判に関する展示が行われている。
この魔女裁判の話を聞いていて、1948年に共産党がクーデターで政権を獲得した後の、政治裁判を思い出してしまった。あれも秘密警察の担当者が、上からの指示を疑うことなく、政治犯として指定された人物を、あらゆる手段を使って追い詰めていき、最終的には自らの罪を認めさせたのだった。その芸術的とまで言いたくなる手法は、魔女裁判につながるというと言いすぎだろうか。
実は案内付きの散歩に申し込んだときは、小ウィーンと呼ばれる理由となった近代建築を見て歩くものだと思い込んでいた。途中で違うことに気づいたけれども、話は面白かったし今まで知らなかった意外な事実をいくつも教えてもらえたから、満足、満足である。これでもうちょっと小ウィーンの建物の前に設置されている説明が詳しかったら完璧なのだけど。
最後にもう一点、書いておくとすれば、シュンペルクでシュンペラークを見たことだろうか。これは60年代だったか、70年代だったかに開発されたタイプの二階建ての住宅で、ベランダの側面の壁の形と丸い穴が特徴的である。屋根の上面が水平ではなく緩やかに傾斜しているのも特徴かな。シュンペルクで最初に建てられて、それがチェコスロバキア中に広がったから、シュンペラークだっただろうか。「シュムニー・シュンペルク」で復習せねばなるまい。
最初は、朝旧市街に向かいながら、駅前の住宅街で探したのだが、古い、邸宅と言いたくなるタイプの家が多く見つけることができなかった。それが、ザイーツの工業高校を探して、旧市街を出ようとしたら、典型的なシュンペラークが旧市街のすぐ外に建っていた。個人の家なので、中に入って見ることはできなかったけど、外から見られただけでも感動ものである。問題はこの感動を共有してくれそうな知り合いが、チェコ人の中にもいそうにないことか。
さあ、次はモラビアを離れてしまうけど、大戦間期に「共和国のサロン」とまで呼ばれた近代建築の宝庫、シュムニー・フラデツ・クラーロベーだ。シュンペラークを見るまでは、ウヘルスキー・ブロトが一番の候補だったのだけど、今年のテーマは、シュムニー、シュムネー、シュムナーになってしまった。
2019年7月23日22時20分
2019年07月24日
シュムニー・シュンペルク(七月廿二日)
ホドニーンで、「シュムナー・ムニェスタ」で紹介された場所を巡ろうと思いついた時点で、次の目的地はシュンペルクに決まったようなものだった。この町についてはすでに書いたことがあるのだが(実は昨日のホドニーンについてもすでに書いたことがあるのを忘れていた)、十数年ぶりになるのであれこれ変わっているはずである。当時は「小ウィーンの跡をたどって」なんて観光コースはなかったし、市庁舎の塔にも登れなかったはずである。
この日は九時ちょっと前のシュンペルク行きに乗った。ザーブジェフ経由なので、一時間かからない。ただ6両編成のうち、後半の三両はシュンペルクに行かず、ザーブジェフで切り離してイェセニーク行きになると、検札に来た車掌が言っていた。始発駅を出たときは同じ電車なのに一部の車両が目的地が違うというのもチェコ鉄道ではよくあることなので、チェコ語ができないとわけのわからないまま車掌に別の車両に追いやられることになる。
シュンペルクの「小ウィーンの散歩道」(訳が前と違うかも)は駅前から始まる。しかし、最初に向かうべきは インフォメーションセンター である。一時間ごとに解説付きのお散歩ツアーを行っているというので、最初にそれに申し込むのだ。人数が多すぎて次の回にまわされるのは避けたい。駅前の通りをまっすぐ進んで突き当たった大通りを左に折れる。その右の角にある建物も小ウィーンの名残のホテル・グラントなのだけど、手入れが行き届いておらず、うらびれた印象を与えていた。
インフォメーションセンターでガイド付きの散歩に申し込んだら、一緒に市庁舎の塔に登ることを勧められた。ブジェツラフでもホドニーンでも登ったし、毒を食らはば皿までではないけれども、お願いしてしまった。そして自分が「シュムナー・ムニェスタ」でドイツ民族主義的な様式で建てられたと言っていた劇場の建物にいることを知らされ、思わず驚きの声を上げたら、笑われてしまった。残念ながら劇場が夏季休暇に入って改修工事中だったために他の部分を診ることはできなかったけど。
お散歩ツアーまで時間があったので、それに含まれていない建物を見に行った。博物館の建物の前に噴水があるのだけど、以前はそこに日本人の芸術家の龍の像が置かれていたらしい。現在では別のよくわからないものに置き換えられているが、龍の像がどこに行ったのかについては説明が書かれていなかった。
時間になって案内所にもどると、今回は一人だけでなく全部で5人の集団だった。案内を担当するのはまだ若いアルバイトと思しきお姉ちゃん。大丈夫かなと思ったのだけど、あれこれ質問しても、答えに詰まることなく、場合によっては自分の考えを披露してくれて、単にガイド用のテキストを丸暗記しただけではないことが明らかだった。その町の出身でその町のことを愛している人に案内してもらうのはこれもまた楽しかるかなである。
まず、平和広場の市庁舎に向かう。古くからあった市庁舎を完全に破壊して、20世紀のはじめに新たに建設されたのが、この新市庁舎だという。19世紀末から20世紀はじめは、工業化に伴う町の再開発がチェコ各地で行われたのだが、その際に古い市庁舎と別に新しい市庁舎を建てたところもあれば、古いのは壊してしまって同じ場所に新しい市庁舎を建設したところもある。オロモウツのように新しい市庁舎を建てなかったところもあるけど。
最近全面的な改修工事が終わったばかりの市庁舎は、今でも市の役所として機能しているため、途中の階までは、邪魔にならないようにエレベーターを使った。ガラス張りのエレベーターで建物の中庭に突き出すような形で後付されていた。歴史的な建築物に対する配慮なのだろうか。階段もこれまでの二つとは違って快適に登ることができた。ただ一番上のフロアに出て、展望のために外に出ようとしたら、背中にしょっていたバッグが引っかかってしまった。
東西南北の四面に、遠景に見える山の形と名前が書いてあるのだけど、チェコの山は一体になだらかで、形に特徴がないものが多く、区別が付けにくい。山頂にテレビの電波塔のあるモラビアの最高峰プラデットだけは確認できたから文句はない。シュンペルクからなだらかな山の稜線が幾重にも重なってイェセニークの奥に連なっているのを見ると、シュンペルクが入り口であるというのもむべなるかなである。
塔を降りると他の見学者たちは消え、観光案内は一対一になった。一人でも希望者がいれば案内を実施してくれるというのはありがたい。多いほうの定員を超えることを心配したのが、少ないほうの定員を心配するべきだった。シュンペルクの街を歩いていると、観光客自体は多いようだったけど、ドイツ語やポーランド語と思しき言葉が聞こえてくることも多かったから、チェコ語での案内への需要はそれほど多くないのだろう。
出発点の広場では簡潔にシュンペルクの歴史について話してくれたのだが、この町もまたジェロティーン家のものだったのである。シュンペルクの城館を居城にしていたジェロティーン家は、経済的な問題から城館を市民に売却し、居城をちょっと北に行ったところにあるベルケー・ロシニに移した。そして三十年戦争のあと、シュンペルクはジェロティーン家の手を離れ、またまたリヒテンシュテイン家のものになる。
三十年戦争による社会の混乱と、フス派の流れをくむプロテスタントからカトリックという領主家の交代というのも、シュンペルクで魔女狩りが起こった原因になっているようだ。魔女狩りの犠牲になったのは当時から豊かな町だったシュンペルクの中でも資産家として知られた人たちが多く、宗教的な理由ではなく、経済的な理由で犠牲者として選ばれたのだとガイドさんは強調していた。また一方で、カトリックによる隠れプロテスタントのあぶり出しという側面もあったのだという。
広場には、前面にローマ人の女性の像を装飾にした建物があるのだが、それについては、以下のような伝説があるらしい。その家の主人が若いころイタリアに旅行して、イタリアで知り合った女性を妻として連れて帰ってきた。寒い北の国で無聊をかこつ妻のために、寂しさを和らげるために家の前に設置したのが、故郷のイタリアの女性の像だったという。ただし、後の調査によって、その伝説が伝説に過ぎないことが明らかになっているそうだ。
以下次号。
2019年7月22日22時。
タグ: シュムナー・ムニェスタ
2019年07月23日
ホドニーン、もしくはシュムナー美術館(七月廿日)
暑さで頭をやられて投稿する順番を間違えてしまった。いろいろ並行して書いているのがいけないのだよなあ。一日のお出かけを分割することもあるから、お出かけの日と名目上の日がずれてしまうし。それは、意図的なものではあるのだけど。
さて、ホドニーンは、マサリク大統領の生地として名高いのだが、これまで観光目的で訪れたことはない。一度自転車でスロバキアに行って戻ってきたときに通過し、ミニピボバルの流行り始めのころに、ホドニーンのミニピボバルまで飲みに行ったことがあるぐらいである。もちろんオロモウツからわざわざ飲むためだけに行ったわけではなく、バルティツェに行った帰りに、一緒に行った奴の勧めで途中下車したのである。
ホドニーンの駅でホームに降りて最初に目に入ってきたのは、油田の汲み上げ用の設備がカラフルに彩色されて駅裏の線路脇に設置されているさまだった。設置されてから長いのか色あせしているけれども、ホドニーンと油田には密接な関係があるのだ。あまり知られていないがチェコは産油国である。特に南モラビアのホドニーン周辺のモラビアのサハラと呼ばれる一帯で細々とながら石油の生産が続いている。
中学時代に世界地図のチェコスロバキアのところに油田のマークを見つけて、こんなところに油田があるんだと驚いたのを覚えているが、ホドニーンに本拠を置く石油会社は、この地の産油だけでなくいろいろな投資を通じて大企業になっているようで、近代的な本社ビルが「シュムナー・ムニェスタ」で、珍しくうまくいった現代建築の例として紹介されていた。
ホドニーンには残念ながら旧市街と呼ばれるようなものは残っていない。駅前からまっすぐ伸びている大通りの先に、教会と市庁舎のある広場があって、口の悪い言い方をすれば、それ以外に見るべきところはほとんどない。その広場までも交通量の多い道路で、建物を見上げながら歩くのには向いていない。
通りの左側に、この町に来た目的の一つ、民族的なモチーフで装飾された美術館の建物が見えてくる。ここは帰りによることにして、そのまま先に進む。同じく左側に一回がガラス張りになった大きな建物があって、インフォメーションセンターが入っていた。両隣のギャラリーみたいになっている部分と、市民向けのインターネットコーナーと一続きになっていた。
1904年に新しい市庁舎としてニュルブルク風セセッションで建てられたという広場の市庁舎の入り口には、塔に登れるようなことが書いてあった。チケットを買いに同じ広場の別の建物の二つ目のインフォメーションセンターに行ったら、勝手に入って登るのではなく、案内つきだった。わざわざ一人の客のために、一緒に塔に登ってあれこれ説明してくれた。塔の高さは、ブジェツラフの廃墟の塔と同じく32メートル、階段の数はこちらのほうが少し少なかったかな。最後の部分の木でできた階段がめちゃくちゃ急で一段一段の幅も狭く、特に降りるときは足を踏み外しそうで怖かった。
塔の上で案内の人が言っていたのは、ホドニーンにあるものはほとんどすべて「昔の」という形容詞がつくということだった。昔の製糖工場は、今ではショッピングセンターになり、ただ精糖設備の高い塔だけはなぜだか残されている。かつてのホドニーン城のあったところに設立されたタバコ工場は、70年代に倒産し、建物は今では私営企業のものになってしまっている。昔の発電所は、市内にパイプラインで供給する暖房のための熱湯を生産する製湯所(意味はわかるよね)になっている。いい点を挙げるとすれば、化石燃料ではなく、バイオマスを使用していることらしい。
塔に入る前の部分は市役所の一部として機能しているフロアを二つほど通ったのだが、二つ目のフロアにマサリクの胸像と並んで、マーラーの像も置かれていた。マーラーが生まれたのは、イフラバの近くだから、ホドニーン生まれということはありえないのだが、ホドニーンに滞在したことがあるらしい。そして、有名な「大地の歌」を最後の部分を書き上げて完成させたのだという。劇場で仕事をしていたというだけのオロモウツよりもマーラーとの縁が深そうである。
彫刻家のロダンが滞在したというのは、マサリク大統領の関係だろうか。こんなところにも、マサリク大統領、ひいては第一共和国とフランスの間の密接な関係が反映されているというと言いすぎになるだろうか。ロダンを介してマサリク大統領と、与謝野晶子がつながってしまった。歴史を勉強しただけでは、同時代の人だということはわかっても、それが実感を伴わないのだけど、こういう意外な場所でで意外な人名に出会うと、ドキッとさせられる。晶子とロダンを結び付けてしまうのはこちらの事情というか知識なのだけど。
マサリクの生家は残念ながら残っておらす、昔のタバコ工場の近くの小さな城館にマサリク博物館が入っているだけだというので、覗いてみたら、ちょうど案内をしているところらしく受付のドアには鍵がかかっていた。次の解説付きの見学時間まで時間がかなりあったのでマサリクはあきらめて、美術館に戻ることにした。「シュムナー・ムニェスタ」で取り上げられた建物を外から見るだけでなく、中も見られるというのはめったにないことである。マサリクよりも優先するのは当然だろう。
別名「芸術家の家」ともいう 美術館 に入り切符を買うときに受付の人に美術にはあんまり興味ないんだけど、この建物にはあると、ちょっと失礼なことをいったら、建物について解説してくれた。このあたりの田舎の普通の家に見られるような装飾が施されているので、この建物の建築様式を「田舎のセセッション」、もしくは「田舎風アールヌーボー」というらしい。
またこの建物を建設して所有していたのは、1907年に設立されたモラビアで最初のチェコ人芸術家の団体なのだが、自分たちの作品を展示する場がなかったので、作品展示会場を確保するために、作品でもあるこの美術館を建てたのだという。他の展示施設ではドイツ人の作品が優先されたとか時代的にはありそうである。建設が始まったのが1911年で完成したのが世界大戦前夜の1913年のことだった。設計はブルノの建築家ブラジェク。ホドニーンには他にもいくつかこの人の作品が残っているようだ。
現在でも地下にあった工芸用の工房を除けば、屋根の天辺から床の木組みまで、すべて建設当時の姿を保っているという。もちろんこれまでに何度か改修工事を受けていて、来年からまた改修が始まることになっているらしい。来年だと入れなかった可能性もあるわけだから、今年にしておいてよかった。芸術家の団体にはあのアルフォンス・ムハも入っていたらしく、小品ながらムハの作品を見かけたような気もする。
この美術館に入れただけでも、ハバニの陶器もあったし、この日、モラビアの南の端まで出かけた甲斐があったというものである。その結果、大モラバの遺跡を巡るはずが、「シュムナー・ムニェスタ」の後を巡ることになってしまった。これもまた「シュムネー・ストピ」という奴である。これをわかってくれる人が一人でもいたら嬉しいんだけど、美術館の人も「シュムナー・ムニェスタ」で見たと言ったら驚いていたからなあ……。
2019年7月20日22時50分。
タグ: シュムナー・ムニェスタ
2019年07月22日
言われてみれば(七月廿一日)
トリニティホテルに泊まられた方から追加のコメントをいただいた。確かにオロモウツの旧市街で、ここより交通の便のいいホテルは存在しない。駅から到着するのと、駅に向かうのと停留所が分かれていて、全部で三つ乗り場はあるけれども、ウ・ソウドゥの停留所からすぐ近くである。横断歩道を渡る必要はあっても、坂を登る必要はない。
旧市街の一番外側だけど、建物はまだ古いものを改修して使った感じだし、ここを起点に旧市街を一周して、すぐそばのドラーパルでピルスナー、もう少し先のPLAN Bでベルナルト、いやモリツまで足を伸ばしてもたいした距離じゃない。交通の便だけでなくビールを探すのにもいいロケーションなのか。
旧市街のほぼ真ん中にあるアリゴネは、タクシーを使うならともかく、共和国広場のトラム停から石畳の坂を登らなければならないし、交通の便という意味では一番の駅前のクラリオンホテルは、旧市街まで遠く建物も風情がない。昔からあるホテルフローラは、旧市街の外のビルだし、NHホテルはトラムでもバスでも行きにくい。そう考えると、トリニティホテルはオロモウツでも一番お勧めのホテルになりそうだ。
宿泊費に関しては、ウィーンと比べるのは無理があるとしか言いようがない。チェコでホテルに泊まったのは、十年程前が最後のことだし、自分でお金を払ってとなると更にさかのぼる。田舎の町の、当時町では一番の古いホテルで、数百コルナというのが、高かったのか安かったのかすらよくわからない。オストラバのインペリアルホテルだったか、すごく高そうなホテルに泊まったことはあるけど、あれは仕事関係だったので、自分ではお金を払っていないし。
プラハに出ても、以前は「プラハなんか遠いから行かない」だったのが、鉄道の高速化が済んでからは、「プラハ、日帰りできるね」になったから、宿泊することはない。二日がかりのイベントなんかは、初日だけ顔を出して、「二日連続オロモウツから出て来いなんて鬼みたいなこと言わないよね」と言って、二日目の参加を回避する。
リンクのあった「地球の歩き方」の口コミ情報も、いくつか読ませてもらって、はっとしたのがあった。鉄道に関する情報で、ホームと乗り場の番号の不統一については、その通り。でも以前は確かホームも番号が前後していたから、多分設置された順番に番号を振ったのだとは思うけど、改修工事を経てホームだけでも納得の番号になったから改善はされたのだよ。
オロモウツは1番ホームのAだけだが、長いホームが分割されて使われているところもあって、プラハの中央駅は北と南の二つに分けられているし、ブジェツラフは一番ホームが三つに分かれていた。プシェロフでは「フ・クセー・コレイ」というのを放送で聞いて、どこに乗り場があるのかわからなかったことがある。終着と始発用の乗り場で、プラットホームに食い込むような形で設置されていたのかな。プシェロフも大きな駅で改修で、かなり整理されて便利になったけど、以前は乗り場を探して右往左往させられることが多かった。こちらのチェコ語の問題もあるんだけどさ。
もう一つの電車の車両の番号が三桁の数字になっているというのは、そういえばそうだったである。国際線などの特別な電車だけだよねと思って確認したら、そんなことはなかった。プラハとスロバーツコ地方のいくつかの町を結んでいる、スロバーツキー・エクスプレスは全部300番台の番号だったし、オロモウツ発、ブジェツラフ経由、ブルノ行きは、二桁の車両番号でわけがわからない。
座席指定が必須の電車を除いては、指定席なんて取らないから、こんなことになっているとは思わなかった。ペンドリーノは七両編成で、素直に1号車から7号車だし、レギオジェットもレオエキスプレスも一桁のわかりやすい番号だったはずである。座席指定が必要な電車については間違えにくいように、乗客にわかりやすい番号を使って、それ以外はチェコ鉄道が管理しやすい番号を使用しているということか。利用客よりも自分たちの便宜を優先するという共産党時代の悪癖はまだ消えきってはいないのである。
こんなことを書いて思うのは、自分がチェコでの生活に慣れてしまって、本来不思議だとか、変だと思うべきことでも、あまりに気にしなくなっているということだ。最初のころは気にしていたのだが、気にしているとやっていられないというのもあって、すべては「チェコだから」というのを魔法の言葉にして乗り切ってきた。バビシュ氏が首相なのも、ゼマン氏が大統領なのも、チェコだからしかたがないのだ。緑の党が壊滅状態なのも、海賊党が意外とまともなのも、チェコだからと考えると悪いことばかりではない。
不思議の国チェコに慣れられずに苦労している人には、よきもあしきも「チェコだから」で受け流していくことをお勧めする。それが無駄なストレスを避ける秘訣である。チェコだから避けようのないのもあるんだけどさ。
2019年7月21日22時30分。