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2016年12月31日
話にならない童話映画(十二月廿八日)
クリスマスの時期は、童話映画の時期である。特に十二月廿四日は、ニュースの放送を中止してまで、午後七時から新作の童話映画を放送する。この風習のようなものは、おそらく1990年代から続いているのだと思うが、近年はチェコテレビで、毎年新しい童話映画を三作制作し、そのうち最も評価が高いものを廿四日に放送し、残りの二つは、廿五日と廿六日の八時から放送することになっているらしい。
ただし、その年の三作品の中で最も評価が高いからと言って、素晴らしい作品であるとは限らない。いや、どうしようもない作品であることが増えているような気がする。今年の奴もひどかったし。共産主義時代の古い童話映画が、うんざりするぐらい繰り返し、繰り返し放送されるのも、最近の童話映画が見るにたえないのが理由になっているのだろう。
今年、廿四日の七時から放送されたのは、「本物の騎士」という題名の作品で、基本的には魔法使いにさらわれたお姫様を、騎士の息子が救出に行くというある意味王道の物語のはずだったのだけど……。
生まれたときに贈られた品物に魔法使いの魔法が掛けられていて、成長したお姫様が手にとることで魔法が発動して、お姫様が炎に囲まれて姿を消すというのはいい。だけど、魔法使いがそんなことをした理由がわからない。後半でお姫様と結婚しようとするからそれが目的のようでもある。ただ、魔法使いの目的は全世界を支配することのはずなのに、どこともつかないお城のお姫様と結婚する意味があるのだろうか。
父親の騎士の命令で、息子がお姫様を救うために探索の旅に出るのもいい。それに父親の騎士がついていくというところまでは、まだ許してもいい。しかし、主人公であるべき息子よりも、父親の方が活躍し始めて、魔法使いを倒すのに決定的な役割を果たすのは、そこにどんな意味があるのか理解できない。
旅の途中で仲間になった二人組みのうち、若い方が裏切るのは、パターン通りと言ってもいい。でも、もう一人の男が途中から存在を忘れられて、全く出てこなくなるのには、最後に言い訳のように一瞬だけ登場するけれども、首をかしげるしかない。
多分、童話映画に繰り返し表れるパターンを活用しながら、それをずらす、あるいは外すことで新しさを出そうとしているのだろう。ただ、パターンを外すことにこだわるあまり、物語として成り立たせるために最低限必要な部分まで解体してしまって、ストーリーが崩壊してしまっている印象を受ける。気取った文章を書こうとしてぐちゃぐちゃになることが多いことを考えると、他山の石にする必要がありそうだ。
この新しい作品の直後に放送されたのが、古典的名作である「ポペルカ」だったのも、物語性のなさを印象付けるのに一役買っていたかもしれない。読書の対象としてなら、物語性を喪失した短いエピソードの積み重ねのような話も嫌いではないのだけど、それなら、わざわざ映像作品に、しかも子供向けの童話映画にする必要などない。
廿五日の「約束の姫」も、チェコには珍しく海が出てきて、制作に力が入れられているのはわかるのだけど……。うちのの母親が、お姫様という設定なのに、露出度の高い服を着ていて、これでは売春宿の売春婦だと。そうなのだよね。お姫様という存在が許される時代設定を、ある程度は守ってくれないと、見ていて興ざめである。パロディに撤してくれれば、それでもいいのだが、それでは子供向けにならない。
そんなこんなで廿六日の「奇跡の鼻」はチャンネルを合わせもしなかった。その代わりにノバで放送されたズデニェク・スビェラークが脚本を書いた「三人兄弟」を見ていた。2014年制作のこの映画も、古典的な童話映画のパターンを外しながら、作り上げられた作品ではあるけれども、最初から最後まで見させるだけの物語性は存在する。
簡単に言えば、「いばら姫」「赤ずきんちゃん」、それにチェコの作家ボジェナ・ニェムツォバーの童話「十二の月の男たち(仮訳)」を、農家の三人の息子達の嫁取り物語という枠に入れて、強引に一つにつなげてしまった作品である。同じスビェラークの傑作「ロトランドとズベイダ」(1997)に比べれば物語の焦点がぼけてしまっている嫌いはあるのだけど、近年の受信料返せと言いたくなるような作品の中では、出色の出来と言ってもいい。
現時点では、心の底から見てよかったと言えた童話映画は、「ロトランドとズベイダ」でロトランド役を演じたイジー・ストラフが監督となって制作した「アンデル・パーニェ」(2005)が最後である。現在、続編なのか「アンデル・パーニェ2」が映画館で公開中だというから、来年のクリスマスには久しぶりに、満足の行く童話映画が見られるのではないかと期待している。
12月28日23時30分。
2016年12月30日
チェコのクリスマス、もしくはバーノツェ(十二月廿七日)
クリスマス進行で廿六日の分の記事まで予約投稿したあと、やはり怠けてしまった。このまま放置すると、オロモウツに戻ってから、再度クリスマス進行並みの年末進行になりかねないので、毎年恒例の童話映画を背景に、執筆をというと大げさだけれども、よしなしごとを書き連ねることを再開しようと思う。
十二月廿四日の祝日は、チェコではシュテドリー・デンと呼ばれる。シュテドリーは、日本語で言うと、適当な言葉が出てこない。けちなの対義語の形容詞で、「気前がいい」に近い意味なのだが、ふさわしい言葉が、おそらく漢語の言葉が思い出せない。何だったっけ、何かあったはずなんだけど。この辺の語彙がすぐに出てこないのが、外国に長くいる弊害である。
とまれ、廿四日のチェコの家庭では昼食をとらない。日が落ちてから早めの夕食をとるまでの間に、空腹を感じた場合には、ツクロビーを食べるのである。ツクロビーというのはクリスマスの時期に、大量に作るお菓子で、クッキーのような焼き菓子が中心だが、語源がツクル(砂糖)であることからもわかるように、甘い、つまめるものなら何でもいいようだ。
早めの夕食に鯉を食べることは、知っている人も多いと思うが、これがどのくらい古くまでさかのぼる伝統なのかはよくわからない。鯉を食べること自体はともかく、それがクリスマスと結びついたのは意外と新しいという話も聞く。一説によると、確かチェコ語の師匠の話だったと思うが、大戦間期のいわゆる第一共和国の時代に、冬場の肉の不足しがちな時期のタンパク源として、漁食が推奨されたことが、始まりだともいう。師匠の話だからどこまで本当かは怪しいのだけど。
鯉は基本的にとんかつのような衣をつけて揚げるのだが、美味しいかと言われると、正直首を横に振るしかない。やはり泥臭さは否めないし、一切れ一切れが分厚すぎるせいか、揚がりきっていないことも多い。まあ最悪なのは骨の多さなのだけど。こちらに来て最初の数年は、がんばって鯉のフライに付き合っていたけれども、縁起物だしさ、最近は付け合せのポテトサラダだけで勘弁してもらっている。
夕食の後は、クリスマスツリーの下に持ち寄ったプレゼントの配布である。包み紙に書かれた名前を読み上げて渡していくわけだが、受け取ったら、その場で開けて、「ありがとう、イェジーシェク」と言うところまでが、伝統行事のようなものである。たくさんもらうと、家族のそれぞれからもらうことになるので、一つということはないから、面倒くさくなるかもしれないけど。とまれ、プレゼントをくれるのは家族でも、もちろんサンタクロースなんかでは絶対になく、イェージーシェクであるという建前は、とくに年配の人にとっては維持されるべきなのだろう。
近年は、もらったプレゼントが気に入らないからと返品したり取り替えてもらったりするために購入したお店に持ち込む人もいるようだし、プレゼントにもらった犬などを飼えないからと言って捨ててしまったり、犬や猫の収容所に連れて行ったりする人もいるようだ。お店にとっては書き入れ時だろうし、チェコに人にとってはかけがえのない伝統なのだろうけど、この手の無駄なプレゼントの話を聞くと、やめてもいいのかなとも思う。クリスマスプレゼントを買うために借金をする人がいるという話を聞くとなおさらである。
この日放送されたチェコ人が愛してやまない1968年のプラハの春とワルシャワ条約機構軍の侵攻を背景にした映画「ペリーシュキ(寝床)」では、主要登場人物の一人が、最高のクリスマスプレゼントは、店で買えるものではなく、あげる相手のために自分の手で作り上げたものだと言うけれども、そんな考えは、大半のチェコ人に忘れられて既に久しい。むしろ、日本と同じように、値段で価値を測るような風潮がある。
「ペリーシュキ」では、クリスマスの風習の一つとして、熱して溶かした鉛を、水の中に流し込んで、出来上がった形で来年のことを占うというのも出てくるのだが、実際にやっているのは見たことがない。チェコ語の師匠も風習としては存在するけど、自分ではやったことがないと言っていていたし。うちのの話では、会員制の出版社兼書店の「クニジュニー・クルプ」のカタログに、この鉛占い用のセットが載っていたというから、危険を顧みずに自宅でやってみる人もいないわけではないようだ。目を保護するためのゴーグルが必要な危険な行為に挑戦しようという気にはなれないけど。
師匠の話では、他にも、りんごを水平に切って芯のあたりに見られる形で占うとか、靴を頭越しに背後に投げて、落ちた位置と向きで占うとか、クリスマスにかかわる風習は結構たくさんあるらしい。いや、正確にはあったらしいというほうが正しいか。師匠自身も、大半は本で読んで知識として知っているだけだと言っていたから。
さて、プレゼントの後は、テレビで童話映画である。チェコテレビ第一では、毎日午後七時からニュースが放送されるのだが、この日だけは、例外的にニュースなしで新作の童話映画が放送される。廿五日、廿六日にも童話映画は放送されるが、ニュースの後、八時からの放送である。この童話映画については稿を改めよう。
名目上は廿五日と廿六日が、クリスマスの祝日ということになる。この二日に関しては特にこれと言って特筆するようなことはないのだけど、今年は、ミロシュ・ゼマン大統領が、第一共和国時代の、マサリクの伝統に戻ると主張して、これまで新年に行われてきた大統領の一年の総括と新年の抱負を述べる放送を廿六日に行ったのが特別と言えば言えるかもしれない。見はしなかったが、公共放送のチェコテレビだけでなく、民放のノバも放送するあたりチェコ人の政治好きを反映しているのかもしれない。
12月28日21時。
2016年12月29日
クリスマス進行(十二月廿六日)
かつて仕事をしていた出版業界には、年に三回通常よりも仕事の締め切りが早まる悪夢のような時期があった。ゴールデンウィーク前、お盆前、そして年末である。仕事をしていたのは雑誌でも、定期的に本を出すような部署でもなかったので、直接の被害は受けなかったけれども、話にはいろいろ聞いている。一番の被害者は編集者ではなく原稿を書く人かな。
うち部署では、刊行時期が近づけば、ゴールデンウイークもお盆も関係なく、休日出勤の山だったけれども、世間様のお休みに合わせるために、本来休み中に出るはずのものを休み前に出すために、残業してまで間に合わせる必要がなかったのは幸いだった。
とまれ、このブログも年末進行である。クリスマス、チェコ語のバーノツェの時期に、オロモウツを離れてうちのの実家に出かけるので、今までのように定期的な更新ができなくなる可能性が高い。今年の一月の六日(ブログ上は七日かも)から、せっかくここまで一日も欠かさず投稿をしてきたのである。せめて一周年記念日までは、連日投稿を崩したくないじゃないか。
ということで、予約投稿を利用することにした。本来の締め切りよりも早めに原稿を仕上げる必要があるので、クリスマス進行と呼ぶことにする。だから、ここ数日分の記事末の初稿が上がった時間はフィクションである。形式上当日の深夜に書き上げたことにしてある。雑誌や書籍の公式の発行年月日みたいなものである。
ここしばらく。ビール醸造所の話が延々と続くのも、とりあえずまとめて書いて、適当な長さに切り分けて投稿するためである。始めた以上は途中でやめられないと言うのもなくはないのだけど。最後のほうはねたが尽きてしまった上に、ホームページ上に情報が少ない醸造所が多くてめげそうになったけど。後悔しているのは、一回分をもう少し減らしておけばよかったということで、六回分ではなくて、七回分に分けておけば、もう少し楽になったのに。
消えたビールの話も、もう少し膨らませて二回分にしようかとも思ったのだけど、クリスマス進行で押せ押せで書いているので、膨らませるための時間が足りなかった。クトナー・ホラのビールの話も、あるんだけど、一本にするには短すぎ、「消えたビール」に付け加えるには長すぎた。帯に短したすきに長しというところである。もう一つ二つ、消えたビールを思い出したら、そのうちその2を書くことにする。
予約投稿をするに当たって、問題は何日分先行して投稿しておけばいいかがはっきりしないことである。最長でも一週間分ぐらいあれば何とかなるだろうと考えて、記事上の日付と、投稿日には二日の差があることを考え合わせると、最低でも五日から六日分ぐらいは、日付より進行して書き上げて、出発前に投稿しておきたいところである。
十月にコンピューターがいかれてから停滞していた『小右記』の記事のまとめも再開し、同時進行でやるべきこともほっぽり出して、ひたすらでもないけど、書き続けた。一日に書く量が増えると、誤字誤植もふえ、さらに内容も薄っぺらになっていくような気がするが、背に腹は変えられない。クリスマス進行に入る前に、ファンブログで自前の写真を使ってブログを冬景色にする方法を研究して、もう少しでできそうなところまで来ていたのも、後回しである。すべてに一年連続連日投稿が優先するのである。
出発の前何日かインターネットが不安定になったのには困った。何とか夜中の使える時間帯を見計らって投稿だけはしてきたけど、今日(いつ本稿を書いているかは秘密である)は、朝から全く使えず、おまけにテレビも映らず、暖房も切れるなど最悪の状況だった。今夜は、本稿が書きあがったら、機を見て折を見て連続投稿の予定である。
これからしばらくは、ファンブログの自分のページにもログインできないので、あれこれ数字を確認することもできなくなる。予約投稿するこの記事が、閲覧可能になるころ、今月の閲覧数はどのぐらいになるのだろうか。今のところは2000越えそうなのだけど、まあ蓋をあけてのお楽しみということにしておこう。
出発前日に書いている本稿が、予約投稿の最後の記事になるのは、これでクリスマス信仰はおしまいであることを告げるためである。オロモウツに不在の間も記事は書く予定だから、しばらくは日付に偽りありが続くかもしれないけど。
12月26日23時。
2016年12月28日
永観二年十月の実資〈下〉(十二月廿五日)
承前
廿一日には、中宮になって二年ほどで天皇が退位してしまった藤原遵子のところに出向いている。頼忠の主宰する定例の仏事が中宮のところで行われたのである。また中宮の滞在する四条宮(?)で、院の庁の仕事をしている。それとも書かれていないだけで院に参入しているのか。上皇と中宮が同じ邸宅に滞在している可能性もあるのか。この辺は『小右記』の記述だけで読み進めていくときの限界だな。調べる時間は、とりあえずないので放置して進もう。
伝聞で、内裏で競馬のようなものである左右近衛府の官人が馬を走らせる十列などの儀式が行われているが、天皇は紫宸殿には出御せず、仁寿殿からご覧になっている。実資がいないせいか、行事に不備があったようで、天皇が突然何か口を出したとか、左大臣源雅信の息子の時仲が余計な口を出したとか推測が述べられている。この十列は、賀茂の臨時祭に関係するものだろうか。
廿二日には、甲斐の国の牧場から献上されてきた馬を受け取りに粟田口に向かっている。一体にこの年の十月、十一月の記述には、馬に関するものが多い。天皇の即位を祝う意味での献上であろうか。普通は馬を連れてきた者たちに、褒美を渡すのであろうが、今回は天皇から贅沢を禁じる命令が出ているので与えていない。
内裏で馬を天皇の御覧に入れる儀式が行われている。詳細は省くが、右馬助藤原実正が和徳門までは出てきたものの体調不良を訴えているのが気になる。「忽ち胸病を煩」うってどういうことなのだろうか。実資が粟田口で受け取ってきた廿頭の馬は、上皇や皇太子、太政大臣などに分け与えられている。最後の「国の騎士」というのがよくわからないのだけど、馬をもらった人のうちの誰かを指しているのだろうか。
廿三日は、内裏を出て頼忠のところに行って、上皇のところに向かう。廿七日の村上天皇の陵墓への参拝の件をなまけずにちゃんとやれよと言われているけれども、実資が手を抜いていると、天皇は考えていたのだろうか。実資のことだから手は抜かないと思う。ただ、内裏でもあれこれ仕事させられているから、大変そうではある。
廿四日は、内裏で賀茂臨時祭のあれこれを決めてから、天皇の即位後に行われる射場始の儀式である。これは天皇が紫宸殿に出御する前には行えないので、この日になったと説明されている。簡単に言えば、天皇の御覧の許、官人たちが射場で次々に弓を射る儀式なのだが、その進行にまたまた問題があって、今回はどうも右大臣藤原兼家のせいらしい。花山天皇の仰せにもいろいろありそうな感じはするけれども、それはあまりあからさまには書けないのかな。とまれ小野宮流からは頼忠の息子の公任が参加している。
廿五日は、左大臣源雅信に手紙で呼び出されて、円融上皇の村上天皇陵墓参詣についての打ち合わせ。その後、頼忠のところに向かっている。
廿六日は、雨の中円融上皇の許に出向いて、翌日の準備である。伝聞で、本来は廿八日に行われるべき除目の召仰が行われたらしいことが記される。悪いのは藤原為光か。
廿七日は、いよいよ円融上皇の村上天皇陵墓への行幸である。道中の安全を記念してか、お寺で七日間にわたる読経を始めさせ、陰陽師の道光に反閇をさせてから出発である。左大臣と右大臣は牛車に乗ったようだが、それ以外の公卿はみな騎馬で、メンバーを見るとなかなかの行列になっていそうである。
参詣が終わると今度は円融上皇の御願寺である円融寺に場所を移して、今度は酒宴である。仁和寺、その後円融寺で読経を行わせ、その褒美に布を与えている。最後に僧の寛朝が粉熟というお菓子をふるまっている。穀物を粉にしてから作ったお菓子であろうけれども、どんなものかは知らない。
廿八日は、内裏で除目の準備として申文などの処理をしている。この日から除目の議が始まっている。今回の除目に関して、皇族などの御給で任官させるかどうか、先例を調べさせている。村上天皇が即位した天慶の例は、京官、地方官共に御給があり、円融天皇の即位した安和の例は京官のみに御給が認められていたようだ。
最後に賀茂の臨時祭の準備行事である調楽が行われたことが伝聞の形で記される。実資は亥の時に退出しているが、子の時に雨が降ったとの記述がある。これは帰り道に雨に降られたのか、自邸に帰って寝るまでの間に雨が降り出したのか、気になる。いやその前に、内裏から自邸まで、おそらく牛車でどのぐらいかかったのだろうか。
廿九日は前夜から引き続いて雨である。内裏に向かうと、公卿たちが天皇の呼び出しに応じて参内してくる。明日の巳の時に参入するように命令が下る。
前夜大納言の藤原為光の娘?子が、入内したことが記される。この女性は花山天皇にことのほか寵愛されたのだが、次の年の寛和元年に亡くなってしまう。これが花山天皇が出家し退位する原因のひとつだといわれている。?子は妊娠していたこともあって、皇子の誕生を願っていた為光にとっては、大きなショックであったに違いない。徒歩で内裏に参入しているのは、輦の使用を許されていなかったからだというのだが、夜だけにほかにやりようはなかったのかと思ってしまう。
卅日は、前日に巳の時と言われているにもかかわらず、公卿たちが参入したのは、午の時であった。それから亥の時まで、おそらく除目の儀式が続いているから、文字通り半日仕事である。結局円融上皇と皇太子には御給が認められたようだ。ただし、受領、つまり国司を兼任することは禁止され、他の人を任じたり、任官を停止したりしている。この辺が花山天皇即位後の新政策ということになろうか。珍しく細かいことを書いていない。中宮の許には候じているが、上皇のところには出向いていない。廿八日に犬が死ぬという穢があったからだという。
12月26日12時。
2016年12月27日
永観二年十月の実資〈中〉(十二月廿四日)
承前
八日も朝内裏を退出して昼ごろまた参内している。この日叙位の議が行われているが、これは花山天皇の即位に伴う臨時の叙位であろうか。
九日は円融上皇の元に出向いて、当初は十四日に行なわれるはずだった、村上天皇の陵墓参拝の日を改めて決めるために陰陽師に勘申させている。十四日は物忌だというのだが、最初に決めたときにはわかっていなかったのだろうか。
その後、参内して天皇の食事に奉仕し、太政大臣頼忠の奏上を伝えるが、天皇は許可を出さなかった。この夜天皇は虫歯の痛みに苦しんだようで加持祈祷が行われている。最後に叙位の後の文書に押印する儀式や、藤原氏と皇太后宮に与えられた年爵についての話が出てくるが、制度のことがよくわかっていないのでよくわからない。
十日はいよいよ、花山天皇即位の儀式が行われる。式次第を細かく書いても仕方がないのだが、普段はあまり出てこない宮中の女官がたくさん出てきて、状況を把握するのに苦労する。もちろん、男の官人もいつも以上に登場する。内裏だけではなく大極殿でも儀式が行なわれていること、所々儀式に不備があるとして実資が批判していることも目を引く。ただ、この日の記事を要約して記す気にはなれないので、これでお仕舞い。
小野宮流としては、もう少し円融天皇に天皇でいてほしかったところであろう。ただそうなっていたとしても、小野宮の血を引く皇子が生まれた保証はないのだけど。
十一日は、祭の後で特筆することもなく、藤原頼忠のもとに向かったことを記すのみである。
十二日は久しぶりに雨の記載がある。内裏に出かけた後、上皇の許に向かって朝食と夕食の給仕を務めたとあるのだが、内裏に向かったのは朝食の前ということだろうか。上皇のところでは、廿七日になった村上天皇の陵墓への参詣に関する指示を受けている。
十三日は、「空鳴る」というけれども、雷だろうか。また珍しく地震が起こっている。この日、解陣と開関が行なわれているが、これは天皇の即位に伴うものであろう。地震などで関所を閉じることはありえるけれども、この日の地震はそれほど大きなものではなかったようだ。ただ、即位直後に地震が起こる当たり、新天皇の今後を象徴しているのだろうか。
十四日からは、『源氏物語』にも登場する五節の舞姫についての記載が始まる。衣服などが過剰に豪華になっているのか、天皇の口から贅沢のし過ぎを禁止する言葉が出ている。その後は女官の叙位が行なわれ、年給の件についてあれこれ処理をしているが、これが女官の叙位に関るものなのか、普通の官人の叙位にかかわるものなのかよくわからない。実資も最後まで付き合わないで途中で帰っているし。
十五日は、実資が内裏に参上すると、藤原義懐が三位に叙されたお礼を申し上げている。義懐はこのとき花山天皇の生母藤原懐子の弟、つまり天皇の伯父であることから位階を進めたと見られている。その後、伝聞の型式で叙位が行われたことが語られ、左大将の藤原朝光が自分の昇進できる分を、息子の登朝に譲ったことが記される。
十六日には、円融上皇の許に出向いた後、頼忠のところに行った以外のことはないのだが、伝聞で、僧侶たちが、内裏の門のところまで即位の慶賀を申し上げにやってきたことが語られる。いろいろ問題があったようで、「例となすべからず」と言っているのだが、これは実資の言葉ではなく、情報を伝えた人のコメントのようだが、誰が情報を伝えたのかについては書かれていない。
十七日は、円融上皇の許で、院の役所である院庁の仕事が始まっている。実資は、この日花山天皇が即位以来初めて紫宸殿に出御し政治を見る万機の儀式に出席するために、院庁での自分の座にはつかずに、昼頃参内している。
その後は紫宸殿での儀式が事細かに知るされているが、ところどころに「前例を失す」「未だ此くの如きの儀有らず」「是れ未だ知らざる事なり」「奇と為す奇と為す」「大失なり」などと、儀式の次第を批判する言葉がちりばめられている。
十八日は、毎月恒例の清水寺参拝である。今月は馬に乗って出かけている。伝聞で、前日紫宸殿での儀式の裏で、東宮の護衛に当たる武官である帯刀試が、右近の馬場で行われている。
十九日は、左大臣から手紙で院に来いと言われて準備をしていたら、内裏からも招集がかかったので、まず院に向かって、それから内裏に向かっている。この日は、馬の話である。東国の牧から献上されてきた馬を天皇がご覧になる儀式が行われ、実資が諮問を受けたおかげか、特に大きな齟齬もなく実施されている。準拠となる先例なども記しているのは、実資が問い合わせに答えたということだろうか。怠け者という印象のある花山天皇がわざわざ紫宸殿に出御しているのが意外であった。それから、紫宸殿の南の庭を実際に馬を走らせているのも、意外な平安時代の姿の一つかもしれない。
廿日は特筆することもなく、頼忠のところに向かっただけである。
12月24日23時30分。
2016年12月26日
永観二年十月の実資〈上〉(十二月廿三日)
前回の最後、天元五年六月から二年三か月分の記事が欠けている。この間実資は、右少将から左中将に出世している。また地方官でも、備後介だったのが、美濃権守に転任している。いずれにしても名前だけの遙任ではあろうが。
政治的な状況としては、天元五年の時点で譲位の準備を始めていた円融天皇が、永観二年八月に譲位し花山天皇が誕生している。冷泉天皇の皇子だから、円融天皇は、甥に譲位したということになる。冷泉、花山の父子は、共に在位二年未満で退位しており、また奇行が多いことでも知られていた。一説によると藤原南家の出身で娘が村上天皇の後宮に入って産んだ第一皇子が、天皇になれなかったことに絶望して怨霊になった藤原元方の祟りによるものかとも言われる。
天元五年の時点では、円融天皇が関白藤原頼忠の娘遵子を立后したことに反発して、出仕しなくなっていた右大臣の兼家が、花山天皇の登極と共に再び出仕するようになり、儀式に手を出しては、やり方が間違っていると実資に日記で批判されることになる。
さて、十月は四月と並んで一日に「旬」と呼ばれる儀式の行なわれる月である。本来は毎月一日、十一日、十六日、廿一日に天皇が紫宸殿に出御して、政務をとり、その後祝宴が行なわれたらしいが、実資の時代には、四月の十月の一日にしか行なわれなくなっており、しかも天皇の出御のない平座という略儀が儀陽殿で行なわれることが多かった。この年の十月一日も天皇の出御はなく略儀である。天元五年時点ではほとんど登場していなかった右大臣の藤原兼家が儀式を挙行している。息子の道兼をして出席者の名簿を天皇に奏上させているが、前例に反するやり方をしたのか返されている。いや、返した天皇が前例を知らないということかもしれない。左近の官人が欠席しているのは、天皇の代替わりはしても官人の怠慢は変わらなかったということか。
実資個人としては、旧知の僧慶円の弟子を賀茂社に送って奉幣させている。神社への使いに僧の弟子を送るというのは、神仏習合ということでいいのかな。
二日は、早朝に内裏を退出して、譲位して上皇となったばかりの円融院の元に向かっている。円融上皇は、父の村上天皇の陵墓への参拝を計画していて、その予定を決めるために左大臣の源雅信を実資を連絡係として参入するように申し付けているが、雅信の答は明後日参上するというものであった。途中で太政大臣藤原頼忠のところに顔を出している。
外記の菅野忠輔の話で、一日に行なわれた旬の際の兼家の失敗が明らかになる。出席者の名簿を間違えて外記に渡してしまったあと、周囲の人に言われて取り返すという失態を犯したのである。
三日は、まず内裏に参り、退出した後、室町殿に向かっている。この邸宅が誰のものなのかが問題であるが保留にしておく。その後、円融上皇の元に向かっている。次の部分がいまいちよくわからないのだが、どうも右近衛府の官人である兼茂が何か失態を起こして円融上皇の勘気を蒙っていたらしい。それを今日になって許すというのである。兼茂についても何が起こったのかについても、九月の分が残っていないのが残念である。
そして、深夜頼忠の元に向かったところで、実資の身上に「奇驚すべき事」があったというのだが、詳細は不明。今後の記事に出てくるのだろうか。
東宮大夫の藤原為光が息子の誠信を遣わして馬を二匹献上している。献上先は行間注によれば円融上皇のようである。
四日は、円融院で御読経が始まり関係者が参入し、ついでに村上天皇の山陵を訪れる際のことをあれこれ決めている。この日は花山天皇が即位したことを、過去の天皇に報告するための使いが発遣されている。数は七だが、天智・桓武・嵯峨・仁明・光孝・醍醐・村上の七人の天皇の陵墓ということでいいのかな。
左大臣の源雅信が、息子の時通を遣わして車と馬を二匹献上しているが、謙譲先はこれも円融上皇であろう。
五日も、頼忠の元に出向いた後は、円融上皇のところに向う。その後、上皇が朱雀院の建物を見るために出かけるのに同行している。記述から考えると現時点で円融上皇が後院として暮らしているのは藤原基経の邸宅であった堀川院のようである。天皇在位中にも里内裏としたことがあるようだし。左右の近衛大将初め多くの臣下が同行しているが、左大臣は上皇が朱雀院の寝殿を見学している時に到着したようだ。どうも、急な仰せだったようで、椅子の準備が間に合っていない。また朱雀院で馬をご覧になる儀式が行なわれ、随身たちが馬を馳せさせている。すべてが終わって上皇が戻られたのは酉の刻であった。
六日は、久しぶりに上皇のところには出向かず参内している。この日は天皇が馬をご覧になる儀式である。従兄弟の公任が、剣を持つ役をしているのを不審がっている。犬狩というのが行なわれているが、内裏を囲む塀が崩れていることが多く、野良犬が入り込んで巣くっていたらしい。それを定期的に、狩りだしていたようだ。
七日は早朝に内裏を出て頼忠のところに向かう。頼忠の話しでは花山天皇が、公任を通じて頼忠に出仕するように求めたようだ。頼忠ももちろん参入すると答えている。また上皇のところで、四日に始まった御読経が結願するので、公卿たちが参入して宴会が行なわれている。みんな酔っ払って、歌を朗詠したり、歌ったりしている。その後、夕方になって再び参内する。太政大臣の頼忠も参内して天皇の御前に候じている。「晩景」と「秉燭」の時間的関係がよくわからない。
12月23日22時。
2016年12月25日
消えたビール(十二月廿二日)
以前、サマースクールに初めて参加したときに、オロモウツのビールを求めてあれこれ尋ねて回った話は書いたが、実はあれにはまだ続きがある。地図を見て、醸造所「pivovar」という名詞に関係しそうな名前の通りを発見して、当時は、はるか遠くと感じた旧市街の外、フローラの公園を越えた住宅街にまで足を伸ばしたのだ。サマースクールの会場からあるいてせいぜい十五分程度だったのだけど、知らない土地を地図を片手に、怪しい外国人として歩くのはなかなか精神衛生上よくなかったのを覚えている。
結局、その通りは完全に住宅地で醸造所は影も形もないことを確かめただけに終わったのだけど、近くに麦芽を生産する工場と思われる建物を発見することはできた。何故それがわかったかというと、日本にいたときに出入りしていたチェコ関係の商社でもらった、クロムニェジーシュの麦芽工場のパンフレットに出ていた写真とそっくりだったからだ。ただ、当時その工場が稼動していたのか、既に閉鎖されていたのかは覚えていない。現在は久しく残っていた建物も破壊されて跡地の一画にはホテルが建っている。
もちろん、一度の失敗でめげるほど諦めがよくはない。今度はオロモウツから南に向かう電車が駅を出てすぐのところから見えてくる建物に、「pivovar」と書いてあるのを発見した。サマースクールの先生のところに出かけたときのことだったかもしれない。駅からは旧市街に向かう方向にしか行ったことがなかったので、それまで気づけなかったのだろう。
えっちらおっちら跨線橋を超えて、バスターミナルのほうに向かった。バスターミナル側からの道が通じていなかったのか、なんだったのか、駅からもバスターミナルからもそれほど離れていないはずなのに、えらく遠回りをしてやっとのことで醸造所の正面にたどり着いた。適当に歩いていたから道に迷っていた可能性もある。
工場の中には入れなかったけれども入り口の脇に屋台みたいなのが出ていて、椅子とテーブルも置いてあった。誰がこんなところにビールを飲みに来るのだろうと不思議だったけれども、とりあえず、オロモウツのビールはありそうだったので頼んでみた。もちろん瓶ビールで、昔飲んだ記憶のある12度のバーツラフではなく、10度のホランだったかな。
確か、そこでいろいろ話して、オロモウツのビールは瓶ビールだけになってしまっているという話を聞いたんじゃなかったかな。それから、自転車でビールを飲みに来たおっさんに、声をかけられてこちらが日本人だとわかると、昔はカワサキのバイクに乗ってたんだよ。今じゃこの自転車が俺のカワサキだけどななんて話をされて、二本目をおごってもらったのだった。
まだチェコ語を勉強していた十五年ほど前に、知り合いに高校時代の友達と集まって騒ぐからと誘われてオパバに行ったことがある。もちろん、チェコ語が話せる日本人というパンダ並みの珍獣の役割を果たすためである。あの時は町の郊外のキャンプ場のようなところに行って、お酒を飲みながらソーセージなんかをみんなで焼いて食べたんだったか。日本の国歌ということで君が代を歌わされたんだった。音痴に歌わせるなよと思いつつ歌って見せたのだった。自分のサービス精神が嫌になる。
そして、翌朝、いや昼ぐらいだったかな。オパバの醸造所に付属している飲み屋に連れて行かれたのだった。ズラトバルという名前のその醸造所では、普通のビールと黒ビールの中間ぐらいの暗い色のビールが一番おいしいというので、それを頼んだ。正直前日のアルコールが残った状態で、迎え酒のような飲み方だったので、味がどうこう言えるような状態ではなかったのだが、シレジアの紋章の黒い鳥、多分鷲をあしらったラベルなどのデザインがすごくかっこよく見えたのは覚えている。
それなのに、今、 ホームページ で確認したらあのチェコ領シレジアの首都だったオパバのビールにふさわしいロゴは影も形もなく、シュベイクみたいな太ったおっさんがビルを片手に握った、これもチェコのビールに似合わないとはいわないけど、かつてのかっこよさはどこにもない。ここのホームページ、クリックするたびにオパバのビールの歴史についての本の宣伝みたいなのが出てきてうざったいったらねえや。
さらに歴史のところを見ると、ビールの醸造所があったところは、解体されて、今では新しいショッピングセンターになっているというではないか。では、どこでズラトバルのビールは生産されているのだろうか。そういえば、以前、どこかでズラトバルを、ウヘルスキー・ブロトの醸造所ヤナーチェクで生産しているという話を読んだことがある。
ヤナーチェクは、ロプコビツの傘下に入った醸造所のひとつであるが、ロプコビツがズラトバルを傘下に収めていると言っていないことからすると、委託生産ということになるのだろうか。シレジアのオパバの名をつけたビールが、東モラビアの奥地で生産されているなんてのは、正直やめてほしい。これならオロモウツのように、完全に消えてしまった方がマシだ。
救いは、新しくできたショッピングセンターにミニ醸造所つきの レストラン が入っていることか。ただ、ラベルのデザインとか、ビールの名称とかが……。かつてのロゴが使われているのもあるけど小さすぎて……。今後も、オパバのビールを口にすることはなさそうだ。
12月22日23時。
2016年12月24日
チェコのビール醸造所独立系?6(十二月廿一日)
承前
ヘロルト・ブジェズニツェ (Herold B?eznice)
このビールの名前には記憶がある。ただ地名がわからない。いろいろなビール会社でブジェズニャークという名前のビールを出しているけど、それと関係があるのだろうか(関係はなさそう)。とまれ、地図で確認してみると、中央ボヘミアの南西の外れプシーブラムの近くにある町だった。かなり大きな城館が残されているので、有力貴族の居住地だったのかもしれない。
ホームページの歴史の項によれば、80年代末に廃止がほぼ決まりかけていたものを、プラハの国立ビール研究所の所有になることで廃止を免れ、90年代の民営化によって、我が世の春を迎え、1990年代の半ばには、チェコでも三番目の生産量を誇っていたという。旧東欧を中心に多くの国に輸出していたようだが、特に注目すべきは、当時世界で唯一キューバに樽入りのビールを輸出していたことだ。いや、すごいのかな、これ。
ただ、経営危機の足音は確実に迫っており、醸造所は賃貸に出されることになる。一つ目の醸造の施設を借りた会社が、1997-98年ぐらいに日本にもビールを輸出していたというのだけど、気づかなかったなあ。
その後、1998年に醸造所を借りる会社がアメリカの会社に代わり、一年後には新しい会社を設立して醸造所の権利を買い取った。この会社はアメリカへの輸出を中心にした企業戦略をとっていたようだが、2008年のアメリカの経済危機でドルが暴落したこともあって、醸造所では生産が停止し、関税の未払いによって、税関によって醸造所の施設が差し押さえられる事態となった。こんなことまで書いてしまうのはすごいね。
同じ2008年にチェコ人の企業家が買い取って、生産を再開し現在に至るということのようだ。ヘロルトのラベルには、1506という数字が入っているが、ヘロルト自体は1990年に民営化で再出発するときに選ばれた名前らしい。この醸造所の歴史は、民営化以後だけでも波乱の歴史だね。ここまで振幅が激しかったとは思ってもみなかった。
コウト・ナ・シュマビェ (Kout na Šumav?)
この醸造所に関しては情報がほとんどない。1736年の創設でどうもこの地を領有していた貴族の一族の資産の一つだったようだ。その後の、国有化、民営化を経て現在に到る経緯についてはホームページにも記載はない。ビールの写真もないし……。
所在地のコウト・ナ・シュマビェは、西ボヘミア地方のドマジュリツェにも近い小さな町のようだけど、町の紋章に槍で貫かれたドラゴンが使われているのが気になる。竜退治の伝説があったりするのだろうか。
エゲンベルク (Eggenberg)
これは知っている。チェスキー・クルムロフのビールである。今から廿年以上も前に、チェスキー・クルムロフに行ったときに、地元のビールを飲もうと思って入ったお店で、注文したら瓶ビールが出てきてがっかりしたのを覚えている。
もともとは、このクルムロフを領地としていたロジュンベルク家が、城内に醸造所を設置したのが、チェスキー・クルムロフのビール醸造の始まりらしい。ロジュンベルク家が断絶した後は、チェスキー・クルムロフはエゲンベルク家のものとなった。そのエゲンベルク家から現在の醸造所の名称も、ビールのブランド名も取られているわけだ。その後、クルムロフがシュバルツェンベルク家のものになると、醸造所もシュバルツ剣ベルク家の醸造所となる。ロプコビツよりこっちの方が貴族のビールにふさわしそうだ。
ビロード革命後の民営化ではいの一番に民営化されたらしいのだけど、その後の情報があまり出てこない。2008年には一度倒産しているのだけど、誰が、もしくはどの会社が倒産した醸造所を買収してビールの生産を再開したのかがわからない。
ポトコバーニュ (Podková?)
中央ボヘミアのムラダー・ボレスラフの近くにある醸造所らしい。地図によるとコバーニュとコバネツという村の間にある。コバーニュの下にあるから、ポトコバーニュなのかな。
ビロード革命後は、ボヘミア・プラハ醸造所の一工場になったらしいけれども、2003年に倒産。2007年から設備の近代化が始まって2011年に生産が再開されたのだとか。
ブジェツラフ (B?eclav)
南モラビアのスロバキア、オーストリアとの国境の町、ブジェツラフに醸造所があることは知らなかった。それも当然といえば当然で、この町でのビールの生産が復活したのは、2013年のことだという。ビロード革命後の1996年に生産が停止されてからほぼ廿年のときを経て生産が再開されたことになる。地理的な条件からかつてはスロバキア向けに生産したビールの多くを送り出していたらしいのだが、1993年の分離により関税がかかるようになってしまった結果、販売価格の上昇と売り上げの減少が起こり経営が悪化したということのようだ。
醸造所の名前には、ザーメツキーという形容詞が入っているから、ブジェツラフにある城館にあった醸造所が起源として意識されているのだろう。ロゴに入っている1522は、城館でのビール醸造が始まった年ということか。そうすると、ここも貴族領主の醸造所だったのだな。
ウーニェティツェ (Ún?tice)
この醸造所も長い沈黙を経て復活したもののようだ。既に第二次世界大戦直後の1949年にはウーニェティツェの醸造所でのビールの生産は終了している。その60余年後、2011年に生産が再開されたという。現在の醸造所がかつてと同じ場所にあるのかどうかはよくわからない。
ウーニェティツェというのは、同名の自治体がいくつかあるようだが、醸造所があるのはプラハ西郊の小さな村である。そうすると主要な出荷先はプラハだと考えていいのかな。
いやあ、さすがに最後のほうはほとんど書くことがなかった。途中でやめようかとも思ったのだけど、意地で最後まで書いてしまった。年末進行、いやクリスマス進行に対する対策という意味もあったので、ちょうどよかったのだ。内容に統一感がないのは半分意図的、半分は醸造所のホームページで得られたデータの多寡による。
あとは、飲んだことがあるけど消えてしまった醸造所について書いてこのシリーズはおしまいかな。
12月21日22時30分
ネットであれこれ検索していたら、2012年に広島の飲み屋で、チェコビールフェアの一環としてヘロルトの樽から注ぐ生ビールを飲ませるなんて記事が出てきた。世界は狭くなったものだ。12月23日追記。
2016年12月23日
チェコのビール醸造所独立系?5(十二月廿日)
承前
カーツォフ (Kácov)
この中央ボヘミアのクトナー・ホラの近くの町カーツォフで造られているフベルトゥスというビールが有名なのは、その品質でも味の良さでも伝統でもなく、2011年に起こった詐欺事件で、ガンブリヌス、スタロプラメンとして販売されたことによる。当時の新聞記事によると全部で33000リットルのビールが、ビール卸会社を通じてガンブリヌスか、スタロプラメンとして販売され、醸造所の関係者も逮捕されたという。会社の社長はそんなことになっていたなんて知らなかったとコメントしているけれどもどうなのかなあ。
その手口としては、飲み屋で使う樽というかタンクというかの蓋の部分だけ取り替えることで、フベルトゥスの入った樽を、売価の高いガンブリヌス、もしくはスタロプラメンとして流通させていたという。確かにあの樽は会社によって、ブランドによってデザインが違うなんてことはないから、識別のためにビールの名称が書かれている蓋を取り替えてしまえば気づくのは難しいだろう。瓶ビールだと貼り付けるラベルの数と値段を考えると割に合わなさそうだし、缶はもっと大変そうだ。こういう事件があると、変なところには飲みにいけないよなあと思ってしまう。
この醸造所も一度閉鎖されて、後に復活したようだが、他とは違って既に共産主義の時代の1950年代に閉鎖されたものが、90年代に一度短期間だけ生産を再開し、再び閉鎖されて2000年代の初めに改めて生産が再開されたものらしい。再開後も業績が上がらなかったのが、詐欺手を出した理由だろうか。
ホテボシュ (Chot?bo?) http://pivovarchotebor.cz/
ホテボシュはビソチナ地方の北部ハブリーチクーフ・ブロトの近くの町である。ホームページによると、原則として外に出荷しないミニ醸造所を除けば、チェコで一番新しく創業したビール醸造所だという。2009年に、チェコスロバキア時代に最後にオープンした醸造所から33年ぶりに設立され、生産を開始したらしい。
ロゴに赤地に白であしらわれている動物は、犬かとも思ったのだが、どうも町の紋章に使われている獅子をモチーフにしているようだ。町の紋章に王冠を被った二尾の獅子というのは、ホテボシュがかつてチェコの国王にとって大きな意味を持っていたことを表すのだとは思うのだが、詳細は知らない。ビールのラベルの解説をするために、チェコの歴史を勉強するというのは、間違ってはいないか。今のところはまだ踏み出せていないけれども。
ブロウモフ (Broumov)
ブロウモフというのは、北東ボヘミアのナーホットにも近いチェコの領土がポーランドに突き出した部分にある町である。この町にあるベネディクト会の修道院は、大量の蔵書を誇る図書室と、17世紀半ばに製作されたトリノの聖骸布のコピーがあることで知られている。「悪魔の罠」というオカルト系の推理ドラマの重要な舞台の一つとなっていたのではなかったか。
それはともかく、修道院長を意味するオパトという名前のビールは、オロモウツで飲んだことがある。このはげたおっさんがビールを突き出したマークは、忘れようにも忘れられない。もう十五年以上も前の話になるが、普段はガンブリヌスを飲ませるレストランに行ったら、試しに置いてあるので飲んでみないかと言われたのだ。勧められたときには修道士と思われる男の絵にあまり気は進まなかったのだけど、飲んでみたらへんな言い方だけど普通に美味しかった。
当時、積極的な売込みを図っていたようで、その店だけでなく何軒かの店で見かけた記憶がある。ただ定着した店はほとんどなかったかな。実はこのときベルギーに多い修道院で造っているビールなんじゃないかと想像したのだけど、実は全くそんなことはなかった。看板に偽りありじゃねえか。
ビシュコフ (Vyškov) http://www.pivovyskov.cz/
オロモウツからブルノに向かう途中のビシュコフのビールは、昔何かの用があってこの町に出かけたときに飲んだことがある。その後、数年前だっただろうか、ここの醸造所でのビールの生産が停止され、売りに出されたという新聞の記事を読んだ。工場の前まで行ったら閉鎖されていたなんてこともあったかな。
だから、ビシュコフのビールはもう飲めないものだと思っていたのだが、昨年だったか、一昨年だったかに、広島の高校生たちが、なんだかよくわからない日本とチェコの高校生たちの交流プログラムの一環でチェコに来たときに、見学につれてこられたのがビシュコフのビール工場だったという話を聞いて二重の意味で驚いた。
一つは、ビシュコフのビール工場が復活していたこと。世界的に有名なピルスナー・ウルクエルでも、ブドバルでもなくビシュコフが選ばれた理由が気になる。ビシュコフなら他に見学者がいなくてちょうどいいとかだったのだろうか。
もう一つは、飲酒ができない高校生にビール工場の見学をさせたことである。チェコと言えばビールだから、ビール工場を見せようとチェコ側が考えたのは理解できるのだけど、日本側がそれに文句を言わなかったことにおどろいた。高校生だから試飲なんてさせられないよなあ。ノンアルコールのビールを飲んでも、チェコビールを飲んだことにはならないし。引率の先生が試飲をして、印象を高校生たちに伝えたとかいう落ちなのかな。
それから、ここのビールに関して、もう一つ覚えているのが、チェコの飲み屋では、しばしばジェザネーという普通のビールと黒ビールを半分ずつ注いだものが飲め、上手な店では本当に半分ずつに分かれて出てくるのだけど、以前行ったビシュコフのビールを出していた飲み屋では、普通のビールをサーバーから注ぎながら、黒ビールを瓶でどばどばと注ぐという荒業をやっていたことだ。もちろん、完全に混ざってちょっと色の濃いビールになっていたが、これにはびっくりした。しかも使っている黒ビールはビシュコフのビールじゃなくてコゼルだったし。
ビシュコフには恐竜公園もあるらしいのだけど、ここらで恐竜の化石が発見されたと言う話は、あるのかもしれないけど、聞いたことはない。
12月20日22時30分。
2016年12月22日
チェコのビール醸造所独立系?4(十二月十九日)
承前
ノバー・ペカ (Nová Paka)
この醸造所はすでに廃工場になったものだと思っていた。チェコのテレビドラマ史上最高傑作である「チェトニツケー・フモレスキ」のエンドロールに名前が出てきたはずで、このビール工場で憲兵隊、もしくは軍警察の駐屯地の撮影が行われたのだと思い込んでいた(正しいかどうかは不明)。だから、ビールの醸造所としてのノバー・ペカには、全く思い入れはないのだけど、撮影現場としてなら思い入れがあるということになる。
北ボヘミアのクルコノシェ山地のふもとの町ノバー・ペカでも周辺の多くの醸造所と同じく、第二次世界大戦後の国営化と企業の合弁、ビロード革命後の企業の分割と民営化に苦しめられ、2000年前後には倒産、もしくは会社が清算される可能性もあったようだ。
ラコブニーク (Rakovník)
この中央ボヘミア西部の町ではすでに十五世紀にビールの醸造が始まっていたらしい。それラベルに入った数字の由来である。
ホームページの歴史の項によると、現在の醸造所の前身に当たる醸造所は、ビロード革命の後の民営化で、ボヘミア・プラハ醸造所の工場の一つになったが、会社の業績は悪化の一方をたどり1997年には生産停止で工場も閉鎖されたらしい。2001年にインターナショナル・ブリュワリー・カンパニーとかいう会社が、工場を買い取って2004年に生産の再開にこぎつけたというのだが、この会社がチェコの会社なのか、外国の会社なのかははっきりしない。
その後、モスクワ出身のロシア人メドベデフ氏に買収されたり、WILLGRADE INGENERRING LIMITED(読み方がわからん)という多分外資に買収されたりした後、2010年にビールを扱う多国籍企業に買収されたと書かれているのだけど、その会社の名前が見つからない。この手の小さなビール会社にしては珍しく、外国の資本の間で売買されているようだ。
中心となるビールのブランドはバカラーシュ、つまりは学士様というわけだ。だから、ラベルにあしらわれた絵がビール片手に本を読んでいる男なのか。輸出用のブランドとしてプラジャチカ(プラハ娘)と、チェルノバルというのがあって、日本にも輸出されているようなのだけど、聞いたことがないなあ。
ジャテツ (?atec)
ホップの生産で世界的に有名なチェコだが、その中心になるのが北西ボヘミアのジャテツである。ジャテツのホップは質もいいということで、共産主義時代のチェコスロバキアにとっては外貨獲得の有力な手段の一つだったらしい。そしてジャテツ・ホップという名称は地名起源の商標として認められているという。日本のビール会社が最大の輸出先だという話を聞いたことがあるのだけど、ジャテツのホップを使って……。余計なことは言うまい。日本では、ドイツ語風にザーツホップといわれることが多いようだ。
歴史的にホップの生産の中心だったこともあって、かつてジャテツ近辺には多くの醸造所があったらしい。現在のジャテツの醸造所は、1801年にジャテツで創立された醸造所の系譜を引くことになっているが、町には他の醸造所もあって競争は激しかったようだ。それが、現在ではジャテツ地方の醸造所はここしかないんじゃなかろうか。
2014年の経済新聞の記事によると、デンマークのビール会社カールスバーグが、ジャテツの醸造所を買収、正確には51パーセントの株式を購入することになったらしい。契約ではビールの生産方法は変えないと言うことになっているようだが、続報がないし、醸造所のホームページにも何も触れられていないので、どうなったのかはわからない。
ポウトニーク (Poutník)
巡礼者という名前のこのビールは、ビソチナ地方の西部にあるペルフジモフという町で生産されている。町の紋章の門の中に描かれている人物が巡礼者なのだろうか。知り合いに、この町出身の人がいたような記憶はあるのだが、ビールについては特に何も言っていなかった。
ビロード革命後に、かつて町でビールを醸造する権利を持っていた人たちの子孫が、醸造所を返すように交渉したらしいが認められず、続けて起こした裁判でも十年近く続いた挙句にまたまた認められず、民営化が行われたらしい。子孫たちに権利が戻ってきた醸造所と、戻ってこなかった醸造所の違いは何だったのだろうか。
ホームページで確認すると、民営化の際にこの醸造所を買収し現在も所有しているのは、DUPという名前の共同組合であるようだ。芸術性のある工業製品を生産する人の協同組合で、ビールの生産を行っているということは、ビールにも芸術性があるということなのだろうか。この組合では他にも革製品、金属製品の生産と販売をしている。こっちは芸術性のある工業製品と言われて納得だなあ。
フェルディナンド (Ferdinand)
これは確か、中欧ボヘミアのベネショフのビールのはずである。ベネショフの近くには、チェコでも有名なコノピシュテの城があり、この城は第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件で暗殺された、オーストリア=ハンガリー二重帝国の帝位を継ぐはずだったフェルディナンド・デステの最後の居城だったのである。だから、ベネショフのビールがフェルディナンドと名付けられたのは、縁起はあまりよくなさそうだが、当然のことなのである。
このビールの写真を見て思い出したのだが、チェコのスーパーマーケットで、ときどき七種類、八種類のビールを一つのパッケージにして販売していることがある。これは、プレゼント用だと思うが、いろいろな醸造所のビールを集めて一つの箱に入れたもので、普段はそのスーパーで販売されていないビールが入っていることが多い。たしか一度それを買ったときに入っていたのが、このフェルディナンドのビールだった。だから、ラベルだけは覚えているのだ。
12月19日22時。
だんだん苦しくなってきた。ところで、うちの近くのうら寂れた飲み屋に、ポウトニークの看板が出ていることに気づいた。入ったこともないし、入りたいとも思わないけど。12月21日追記。