<< 2023年03月 >>
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
検索
リンク集
最新コメント
チェコの銀行1(十二月二日) by ルイ ヴィトン 時計 レディース hウォッチ (03/20)
メンチンスキ神父の謎(四月卅日) by にっしやん (12/30)
メンチンスキ神父の謎(四月卅日) by にっしゃん (12/30)
メンチンスキ神父考再び(七月卅日) by にっしゃん (12/30)
カレル・チャペクの戯曲残り(二月朔日) by K (08/16)
最新記事
カテゴリーアーカイブ
記事ランキング
ファン
タグクラウド










ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

広告

この広告は30日以上更新がないブログに表示されております。
新規記事の投稿を行うことで、非表示にすることが可能です。
posted by fanblog

2023年03月22日

iPadで『古事記』を読む



 古典の読書を始める前にしたことは、一度の充電でできるだけ長く読み続けられるように、設定を変更することだった。最近のPCも含めたこの手の機械は、作り手だけが便利だと考えている機能が山のようについていて、しかも購入時点でオンになっているのが困り物である。それで設定画面を開いて、オンになっているのを片っ端からオフにしていった。ネット閲覧ソフトが動いて、ジャパンナレッジの「日本古典文学全集」さえ表示できればどうでもいいし、必要なものが出てきたら後からオンにすればいいだけである。余計な親切大きなお世話を喜ぶ人が増えてきたのかなあ。

 古典文学に関して、昔のことを思い返すと、全集派ではなく、大系派だった。これは古典文学を読んだり、資料に引用したりするときに、現代語訳のない岩波書店の「日本古典文学大系」と、現代語訳付きの小学館の「日本古典文学全集」のどちらを優先して使うかという話で、大学に入ったばかりの頃は、小学館というのは漫画の出版社だというイメージがあって、岩波文庫の岩波書店を優先するようになってしまったのだ。大学で古典文学を勉強する以上は、現代語訳なしでも読めたほうがいいなんてことも考えたかもしれない。
 その後、岩波のあこぎな商売の実態を知り、実害を被るに至って岩波に対する幻想は消えたけど、大学時代を通じて大系優先は変わらなかった記憶がある。実は原文を読むだけだったら新潮社の「日本古典集成」のほうが、わかりにくい言葉には行間中の形で現代語での意味が書かれていて読みやすいというのには気づいてはいたが、古典文学の作品を現代の作品と同じような形で読書の対象にしようという発想はなかなか持てなかったのである。原文を最初から最後まで通読した作品も少しはあるけれども、意識は調査資料で読書じゃなかったよなあ。

 今回は、細かいことは考えないでの読書なので、「日本古典文学全集」に現代語訳がついているのはありがたい。しかもiPADを縦にして表示のしかたを調整すれば、原文と現代語訳、頭注と原文というパターンで同時に表示できるのである。原文を読んでいてわかりにくいと思ったら下の現代語訳を読めるし、説明が足りないと思えば、上にずらして頭注を表示させればいい。ということで最初の作品として選んだのは、第一巻の『古事記』である。
 実は、この『古事記』、大学時代に原文(正確には書下し文かな)で通読したことがあると思っていたのだが、今回読んでみて、通読ではなくて、部分的に少しずつ資料として読んでいった結果として、ほぼ全部読んだというのが正しいような気がしてきた。昔は、神名、人名を必死に覚えこみながら読もうとして、結構覚えていたはずなんだけど、万葉仮名風表記表記の固有名詞は結構辛かった。まあ、今回は気楽に、読めないなら読めない、忘れたら忘れたで、誰だったっけで放置しながら、ストーリーを追う形で読み進めたんだけど、その結果、古事記自体にはストーリーというか物語性を感じさせる部分はそれほど多くないということを改めて感じさせられた。神話とかいろいろな形で読んでいるから、話が膨らまされた形で覚えていて、『古事記』の時点ですでにその形だったのだと思い込んでいたものもあるのである。

 思い込みと言えば、これ自体も誤解かもしれんけど、「やまとごころ」重視の本居宣長の影響で、『古事記』は万葉仮名風の一字一音表記を使った和文も結構あるのだろうと思っていたら、ほぼ原文は漢文だった。なんとも恥ずかしい話である。漢文の部分は読んでいないから、どこまで、いわゆる和製漢文になっているのかは確認していないが、この思い込みに気づけたのもまた以前は一度に通読しなかったのだろうなと思う理由の一つである。考えてみれば、万葉仮名の名のもとになった『万葉集』だって左注は漢文で書かれていたし、当時の人々が歌ではなく、文章を書く場合に漢文を選ぶのは当然だったのだろう。
 こんなしょうもないことを考えながら『古事記』を読んでいたのだが、予想以上に面白かったし、内容をほとんど覚えているおかげか、古文だけで意味不明なところもほとんどなく、自分もまだ捨てたもんじゃないななんてことも考えた。本当に古文の読解能力が残っているかどうかが問われるのは、江戸期の作品に手をだしてからだろうけど。ということで次は平安時代の『日本霊異記』を読むことにした。






2023年03月20日

iPadで古典を読む(設定)



 昨年の11月末だったか、12月初めだったかに届けられたiPadは、大きな箱に入れられていた。パッケージも、本体と充電のためのアダプターしか入っていないのを考えると、ちょっと厚すぎないかと言いたくなるもので、ちゃんとしたマニュアルが入っているんじゃないかと探してしまった。アップルの製品にそんなもの期待するのが間違いだったけど。

 実際に手にしたiPadは、思っていたより大きく、そして重かった。これではリーダーとは違って片手で持って操作するというのは無理そうだ。この時点で自分で使う気はほぼなくなっていたのだが、一応最初の設定だけはしておこうと考えて、充電してスイッチを入れてみた。スイッチを押して起動させるまでもよくわからなくて大変だったのだが、起動してから使えるようにするまでも、よくわからない設定の連続でうんざりさせられた。
 指紋認証とか、何とかIDとか、登録した人以外には使えないようにしようというのだろう。しかし、これが追加で設定する方式であれば、セキュリティーにも配慮していると高く評価したところだが、最初から設定することが前提になっていると、そこまでしないと安全を確保できないのかと心配になってしまう。自分で使うかどうかも決めかねていたので、できればどれも設定したくない。チェコ語のメニューだったからか(アップルのことだから日本語でも苦労したにちがいない)、すべてキャンセルして、初期設定が一応終わって使用できるところまでたどりついたときには、もうお腹いっぱいで、うちのに押し付けようと思ったけど要らないと言われたので、しばらく使わないままに放置されることになった。

 年末の休みに入って、ネットやPDFファイルなんかの閲覧専用の端末としてなら使えるんじゃないかと思いついた。その第一弾としてチェコ語日本語辞典を入れようと思ったのだが、iPadには、充電に使うコネクタしかない。もしかしたら、USBのタイプCならさせるかと試してみたけど駄目。調べてみたら、アップルの独自規格だった。そういえば、昔マック使いの知り合いが、独自規格ばかりで、所謂サードパーティの製品もほとんどないため、本体だけでなく周辺機器もすべて高いアップル社製を買わなきゃいけないんだと言っていたのを思い出した。純正品であっても不具合が出ることが多いのも含めて、一度落ちたら抜け出せないマック地獄と言うんだなんて冗談も聞いた気がする。

 それで、使えるかどうかもわからないものに投資をする気にはなれなかったのもあって、しかたなく最初は、ネット閲覧ソフトでジャパンナレッジを試してみることにした。当然、アドレスを入力することになるのだが、タッチパネル上に出てきたキーボードは、さすがアップルと言いたくなるほどに使いにくかった。その後、アドレスを覚えていない別のサイトを探すために使った日本語入力用のに比べたらはるかにましだったけど、いまどき五十音配列のキーボードなんて何を考えているんだ。ローマ字入力の機能もあるのかも知れないけど、時間がもったいないので探してもいない。
 ジャパンナレッジは、iPadで辞書、事典として使うのは、探す言葉の入力が面倒そうだけど、本棚という部分があって、「東洋文庫」や「文庫クセジュ」なんかが読めるようになっている。これなら文字入力の必要はないから、ストレスはそれほど感じないはずだ。PCだと次ページを表示するのに時間がかかったり、表示に失敗したりして、読んでいられなくなってやめてしまうことが多いのだけど、iPadではどうなるだろう。

 折角なら久々に日本の古典文学を読もうということで、訳文だけの「東洋文庫」ではなく、原文で読める「日本古典文学全集」を試してみたのだが、これが予想以上にうまく行った。細かな問題はあれこれあったけど、ソファーで半分横になって読んでいたから、懸念していたページめくりのストレスもそれほど大きくはなかった。ということで、年末年始はiPadで古典三昧(と言うほどたくさんは読めていないけど)ということになったのである。







2023年03月07日

iPadで古典を読む(前史)



 個人用のコンピューター、つまりパソコンの一般への普及の黎明期ともいえる1980年代に中高生だった我々の世代にとって、アップル社のパソコン、マッキントッシュは憧れの対象だった。あのころ実際に目で見て触ったことのあるパソコンは、せいぜい友人の持っていた会社は忘れたけどMSXとかいう規格のものだけで、NECの98、88シリーズも存在は知っていたけど、テレビでしか見たことはなかったと思う。電器屋で見たかもしれないけど。田舎の電器屋においてあったかは怪しいところである。

 その代わりといっては何だけど、物書きに特化したコンピューターであるワープロのほうは、いえでは父親が購入したNECの文豪、どこのか忘れたけど今や懐かしいラップトップと呼ばれていた形のものを高校の生徒会で何台か使っていた。だから、フロッピーディスクに関しては、3.5インチの物を最初に使ったため、80年代の末年に理系に進んだ先輩のうちで、NECの98に触らせてもらったときに、5インチのディスクのペラペラ具合に驚くことになる。バイト先でさわったオフコン用の8インチには、存在すら知らなかっただけにさらに驚いたし、昔のMSXのカセットテープというのも今考えるとあれだけど。
 その先輩の使っていた98は、まだハードディスクの付いたものではなく、ワープロソフトの一太郎を使うのに、フロッピーを抜き差ししながら操作する必要があるという代物で、理系がデータ処理なんかに使うならともかく、文系の人間が文章を書くのには使えそうもないと思わされた。それで、それまでは、ちょっとかっこつけてPCをワープロ代わりに使いたいなんて色気もあったのだけど、諦めてワープロ専用機を買うことにしたのだった。当時のパソコンは本体だけでも高いのに、使おうと思ったらディスプレイ、プリンターなどを追加で買わなければならないという仕様だったので、経済的にも手が出せなかったというのもある。それどころかOSなどのソフトも全部別売で馬鹿高かった。

 アップル社のマッキントッシュ、マックと呼んでたかな、を実際に使ったことのある人の話を聞いたのもその先輩が最初だった。当時、理系の大学では、割安での優遇販売があって、研究室にもマックが置かれているところが結構多かったらしい。それで実際に使ってみての感想は、デザインは凄くかっこいいんだけど、不具合が起こることも多くて使いにくいというものだっただろうか。同時に、同じ値段だったらマック買ったかもと言っていたかな。
 その後、90年代の後半になって、職場で本物のマック使いに、あれこれ話を聞かされたのだけど、圧倒的に愚痴が多かった。ただ、OSのアップデートに一晩かけた挙句に失敗したとか、何度再起動してもフリーズして一日仕事にならなかったとか、日本語変換ソフトが使い物にならないとか、内容とは裏腹に、口調は非常に楽しげで、この人は、そんな不具合も含めて、もしくは不具合があるからこそ、マックを愛用しているのだろうと思わされた。そんなソニーマニアや、イタリア製バイクに対する森雅裕のような精神性は持ち合わせていないので、結局自分では職場でも使っていたウィンドウズのパソコンを、値段も落ちていたし、購入することにした。

 そんな過去もあって、パソコンじゃなくてもアップルの製品を使うことはないだろうと思っていた。世間で流行った、今も流行っている? スマート何チャラというのも、全く魅力を感じなかったから、アップル製品云々以前に購入検討の対象にすらならなかった。その意味では、タブレットというのも、自分には必要ないと思っていたのだが、ひょんなことからiPADが手に入ってしまった。さて、どうしようというのが本題である。



※この文章を書いたのは昨年(2022年)末のことである。
posted by olomou?an at 07:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 本関係
Build a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: