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2023年02月24日

黒板博士のプラハ滞在記2



承前


 プラーハは百塔の都とも称せられて居る。ゴチック式の尖塔高く林立したる盛観は他の欧州に於ける都府で多く見らるるものでない。夫が皆中古の面影を存して基督教の勢力を振った当時を追憶せしむるのである。大詩人ゲーテはプラーハを都市のディヤデムにある真珠なりと激称し、ウィレム・リッターは歴史と建築学の最も貴重な書籍であるといい、フムボルトは中欧に於ける最も美しい都なりと称揚した。


ディヤデム 王冠のことか。
フムボルト 有名なフンボルトというと、アレクサンダーとヴィルヘルムという二人のフンボルトがいるのだけど、ウィキペディアによると兄弟らしい。弟のアレクサンダーの方にゲーテとの交友について書かれているからこっちかな。兄ヴィルヘルムはフンボルト大学の創設者だという。



 カールスホーフ寺院、サンクト・ペテル及びサンクト・パウルの寺院、マリエン寺院、マリヤ・シュネー寺院と数え来るもいずれか皆壮麗ならぬはなく、モルダウ河の中流に架せる長さ五百五十ヤードのカール橋、また基督磔刑の像を安んじ、その前を過ぐるものが皆礼拝せる虔敬の様も嬉しきに、ヨハン・ネポミュクの奇蹟がこの橋上にあって今も順礼者の参拝絶えぬ床しさ。


カールスホーフ寺院 カールスホーフはプラハ新市街の一地区であるカルロフのドイツ語名。この地区にある大きな教会と言うと、アウグスティヌス派の修道院に付属していた教会の昇天せし聖母マリア・カール大帝教会であろうか。ウィキペディアによると修道院自体は18世紀に廃止されており、現在は 警察博物館 として使われている。
サンクト・ペテル及びサンクト・パウルの寺院 ビシェフラットにある 聖ペトル・聖パベル教会 。19世紀末から20世紀初頭にかけて現在のネオゴシック様式に改築された。
マリエン寺院 新市街の聖マリア教会か。14世紀創建。 https://cs.wikipedia.org/wiki/Kostel_Panny_Marie_na_Slovanech#/media/Soubor:Emauzy_katedr%C3%A1la_PM.jpg
マリヤ・シュネー寺院 チェコ語を直訳すると雪をかぶりし聖母マリア教会。聖母マリアを記念した教会は数が多いせいか、区別のために形容詞がつけられることが多い。名前にどんないわれがあるのかまではキリスト教徒でもなし、調べようという気にはなれない。
カール橋 言わずとしれたカレル橋。ここまで並べられた名所を見ると、黒板氏は新市街に宿を取り、市庁舎のある旧市街広場には足を伸ばしていないように思われる。
基督磔刑の像 カレル橋上に設置されている全部で30ある像のうちの一つ。まん中あたりにあるのかな。
ヨハン・ネポミュク チェコ語ではヤン・ネポムツキーと呼ばれる。後に列聖され、チェコ各地に像が残っている。



 この橋を渡ってモルダウの左岸に出て、サンクト・ニコラス寺院から東北に折るれば、やがてワルレンスタインの広場に当って三十年戦争の猛将ワルレンスタインの旧邸が立って居る。今もその子孫の伯爵家に属し当時の観を改めぬ内部の室々、刺を通じて之を縦覧すれば、シラーの名著を読む心地せられ、徐ろにその雄風を偲ぶことが出来る。


サンクト・ニコラス寺院 マラー・ストラナの 聖ミクラーシュ教会
ワルレンスタインの旧邸 ワレンシュタイン宮殿(チェコ語ではバルトシュテイン、もしくはバルチュテインと聞こえる)と呼ばれることが多い。現在はチェコの国会の 上院 の所在地となっている。この建物の正面にあるのがワレンシュタイン広場で、建物に沿うように走っているのがワレンシュタイン通りである。付属する庭園と厩舎も知られている。
シラーの名著 『ワレンシュタイン』と題された戯曲があって、これを読んで感動してドイツ語の勉強を始めたなんて人もいるらしい。



 フェルステンベルク侯爵邸を過ぎ、爪先き上りの路を辿れば、プラーハのキャピトルたるフラッヂンは巍然として一部をなし全市に臨んで居る。古王宮は嘗て皇帝カール四世以来マリヤ・テレサに至つて完成せられたるところで、ゴチック式の大寺院と共に華麗と荘厳とに打たれつつ北の方ベルベドルに出づれば、ルネイスサンス風の広壮なる別荘には神話を浮彫りにしたる廻廊を廻らして居る。ここから全市を瞰下すれば、モルダウ河は迂曲してプラーハの市を囲めるところ、所謂百塔の尖頂が林の如く立てる間に緑りの森が之を縫うて居るのに、見渡す限り平和なる空気が全部を蔽うて居る。そしてその下には人種的軋轢も、言語的反抗も包まれておるとは思われぬ。


フェルステンベルク侯爵邸 これはワレンシュタイン宮殿とワレンシュタイン通りを挟んで隣接するフュルステンベルク宮殿のことであろう。現在はポーランドの大使館になっているようだ。近くには小のつくフュルステンベルク宮殿もあって、こちらは上院の建物の一部として使われている。
フラッヂン プラハ城を中心とする地区、チェコ語でフラッチャニのことであろう。この地名も日本語での表記がばらついていて解読に苦労することがある。
ベルベドル 一般にはベルベデールと呼ばれる夏の離宮のこと。ワレンシュタイン宮殿から見るとプラハ城の裏側に広がる庭園の中の建物である。


 こうしてあれこれ比定してみると、黒板博士のプラハ散歩の経路が見えてくる。新市街にある教会をいくつか訪ねた後、カレル橋を渡ってまっすぐ行ったところにある聖ミクラーシュ教会の前で、右に折れて、最初の交差点を直進して、ワレンシュタイン広場に出て、右手にワレンシュタイン宮殿を見ながら宮殿沿いに進む。今度は左手にフュルステンベルク宮殿が見えてくる。ワレンシュタイン宮殿の厩舎を越えたところで、左に曲がって、道なりに坂を上って、プラハ城の裏手に出て庭園に入ってベルベデールを望む。といったところである。
 聖ビート教会などのあるプラハ城と言われたときに最初に思い浮かべる建物が並んでいる部分には入らなかったのか、入れなかったのか。旧市街広場にかんする言及がないのも含めて、気になる所ではある。これ以上は調べようがないけどさ。




一度失った習慣というものは、なかなか取り戻せないものである。

2023年02月15日

黒板博士のプラハ滞在記1



 諸戸博士のモラビア・シレジア紀行に続いて、歴史学者の黒板勝美氏が世界周遊旅行の途中でプラハに立ち寄った際の記録を紹介する。『西遊二年欧米文明記』(1911年刊)については、すでに ここ で簡単に紹介したが、今回は記事を引用しながら、解説を加えてみる。黒板博士がこの世界旅行に旅立たれたのは1908年で、翌年に帰国しているから、諸戸博士のモラビア旅行よりも早いのだが、活字になったのは同年だし、モラビア在住の日本人としてはプラハを後回しにするのは当然なので、この順番となった。例によって表記は読みやすく新かなに改めてある。



 ドレスデンから南の方索遜瑞西(ゼツクスシユワイツ)の勝景を過ぎて墺国の境に入り、やがてボヘミヤの首都プラーハに到れば、まず物寂びた古建築が目につく。その過去の湿っぽい空気に何となく床しい心地がする。しかも清きモルダウ河は絵の如き川中島を横えてプラーハの全市を紆余索回して居るのに、余は京都に遊んで鴨川のあたりにあるのではないかと夢のように疑わるる。


索遜瑞西(ゼツクスシユワイツ) チェコ語のサスケー・シュビツァルスコ、つまりザクセンのスイスと呼ばれる地域のこと。国境を越えてチェコ側のチェコのスイスと呼ばれる地域に続いている。エルベ(ラベ)川の右岸で、チェコ側にもドイツ側にも奇岩のそびえる景勝地が多いらしい。昨年の夏この辺りで森林火災が起こった際に、外国のメディアの中には、チェコとドイツとスイスで火事が起こったと報道したところもあったらしい。
川中島 ブルタバ川右岸の新市街と、左岸のマラー・ストラナとその南のスミーホフ地区の間に浮かぶ三つの島であろうか。



 一千四百二十四年のフッシット戦争にも、有名なる三十年戦争にも、墺太利王位継承戦争にも、第二シレシヤ戦争にも、はた一千八百六十六年の普墺戦争にも、このプラーハは包囲せられ、陥落せられた修羅場となった。北独逸と南独逸の政治的兵略的要衝に当って、いつも戦陣の衢となって居る。そして嘗ては皇帝カール四世の下に最も繁華を極めたこの市も何時となく、古色蒼然たる都府となって仕舞ったが、その政治的兵略的の要地たるに至っては、今も昔とかわらぬ。のみならず、その市民が主としてスラーブ人の一派チェヒ族たるがために、墺国に於ける反独逸思想の最も盛なるところで、社会的運動の中堅たる観がある。


フッシット戦争 フス戦争。普通は宗教改革者ヤン・フスの処刑(1415)を契機に起こったフス派の反乱全体(1419〜1436)のことを言うが、黒板博士が、なぜ1424年という年号を使ったのかは不明。
三十年戦争 この戦争のきっかけとなったのが、1618年にプラハの王宮で起こった窓外投擲事件で、最初の大きな軍事的衝突が、1620年のビーラー・ホラの戦いだと言われる。
墺太利王位継承戦争 オーストリア継承戦争中にプラハが包囲され陥落したのは一回目が1741年のことで、二回目がオーストリア継承戦争の一部をなす第二次シレジア戦争中の1744年のことである。どちらも、オーストリア軍によって、短期間で解放されている。継承戦争自体はその後も1748まで継続した。
皇帝カール四世 言わずと知れたルクセンブルク家の神聖ローマ帝国皇帝のカレル4世。ボヘミア王としてはカレル1世なのだが、チェコでもチェコの君主として取り上げる場合でも、慣例的にカレル4世と呼ばれている。ちなみに最近即位した英国王は、即位までは、チェコ語でも「チャールズ」皇太子と呼ばれていたが、即位したとたんに「カレル」三世と名前の呼び方が変わってしまった。



 人種の軋轢なるものは長い歴史といえどまた如何ともすることが出来ぬ例証をこの都に示して居る。宗教の力も猶お之を和ぐることが六ヶしい事実を証明して居るのはこのプラーハである。しかもその歴史はますます軋轢の度を増さしむることがある。その宗教は更にその反目を劇しくすることがある。プラーハの現状は之を説明して居るのではあるまいか。
 人種の相違は従って言語の相違である。言語の相違が、もし根底に於て国民の親密一致を阻害するものならば、その間に起る誤解から延ひて反目、軋轢となりて現今のプラーハを二分したのである。全市人口の五分一を有する独逸人がその四倍の人口を有するチェヒ人と対抗し得るは政治的関係と商業的勢力に存する。一方は多数を以て他を圧せんとし、一方は勢力を以て他に対して居る。プラーハには到るところ言語人種の相異れるより生じた結果を見ることが出来るのである。
 彼等はただ社交上に軋轢して交通するも好まぬという有様ばかりでなく、互に他の言語を了解しながら、自ら語ることを欲せぬ。独逸人の開けるカフェーにはチェヒ人の遊ぶものなく、チェヒ人の商店には独逸人の顧客を有することは出来ぬ。独逸語の大学とチェヒ語の大学と相対する。劇場も同様相分れて、一方に独逸の歌劇を興行すれば、一方にはボヘミヤの国民劇で喝采を博するのである。チェヒ人が毎年独逸人を諷したお祭り騒ぎをやるなどということを聞いたが、そんなデモンストレーションは必ずしもお祭り騒ぎばかりではないように思う。これは人種や言語が容易に同化し難い最も有力な一例として、余は非常に興味を感じぜざるを得なかつた。それに国民の自覚というものがこの問題と結合すれば、その解決がますます困難なるを想わしめたのである。プラーハの博物館や美術館では予想通りの結果を得なかったけれど、この現状を観て余はプラーハに遊んだ甲斐があったと思った。そしてその風光の明媚なるに於て、はた歴史的の都府たるに於て、宗教的の市たるに於て、このプラーハに遊んだことを更に喜ぶのであった。




 このあたりは特に解説することもないのだが、黒板博士の観察眼が優れているだけではなく、案内人に人を得たのであろう。言葉の違いは、ある程度耳で聞いてわかるにしても、見ただけで人種の違い宗教の違いが見て取れるとわけではない。名前や名字もそれだけでは、チェコ系か、ドイツ系なのか判別できないことも多いし、この20世紀初頭はよくわからないが、以前は必要に応じてチェコ名とドイツ名を使い分けている人もいたらしいし、本来ドイツ語話者として育った人がチェコ人意識に目覚めて、チェコ語を使い始めるなんてこともあったようだ。
 むしろ興味を引くのは、黒板博士は、なぜ人種問題、言語問題、宗教問題と、「国民の自覚」(言い換えれば国民意識とか民族意識となるだろうか)の結びつきに興味を抱いていたかで、当時の日本が日清、日露戦争の勝利に浮かれて、海外進出を進めていたのと関係するなどと妄想してしまう。恐らく、多くの日本人が海外領土を手に入れることを単純に喜んでいた時代に、黒板博士は現実に多民族、多言語、多宗教の雑居するプラハの現実を見て、日本の今後に思いを馳せていたのだろうか。
 もう一つ気になるのは、プラハの博物館や美術館にどんなことを期待していたのかだけど、流石にこれまでは憶測のしようもない。現在ではあちこちにいろいろな博物館、美術館が存在するプラハだけど、当時どのぐらいあったのかも、わからない。全くなかったということはないと思うけど、展示内容がいまいちだったのかな。




本来一年ほど前に準備してあったものだが、すっかり忘れていた。今回多少手を入れて掲載。


2022年02月22日

諸戸博士のモラビア・シレジア紀行 最終日



 この日は、最終日とあって、ウーソフの城館にあったリヒテンシュテイン家の博物館を訪れた後は、チェルベンカから鉄道を使ってウィーンに向かうだけである。



 六月十二日、月曜日、晴天。午前七時、馬車にて出立。同八時、アウスゼー(Aussee)に着す。


アウスゼー ウーソフ(Úsov)のドイツ名。以前ここの城館に行ったときは、オロモウツからの直通のバスがなく、モヘルニツェで乗り換えた。本数が少なく、帰りはちょうどいい時間のバスがなかったので、モヘルニツェまで歩いてしまったような気もする。こんな交通の便の悪いところまで足を運んだ日本人なんていないだろうと思ったのだが、とっくの昔にいたのである。



 博物館を縦覧す。此の博物館は、古代の城を利用したる物にて、一時山林学校を設けられたるが、其の後博物館となし、リツヒテンスタイン侯爵家所有地にて得たる総の産物を此の館に陳列せり。故に森林動物標本、昆虫黴菌材鑑等多し。正午、料理店にて午餐を喫し、午後二時、馬車にて出立。途中しなのき、しで類の倭林を喬林に変更する場所に就て、主任の説明あり。しなのきの価格は一立方米突層積に付き二円なりと。又た苗圃を視察し、午後四時半、シユワルツバツハ(Schwarzbach)駅に着し、午後四時四十九分発の列車に乗込み、同午後五時二十分にオルミツツ駅に着し、リツヒテンスタイン侯爵家の森林官に分れ、同五時五十八分発の列車に乗込み、同六時三十分プレラウ駅に着し、同七時五分発の急行列車の一等室に乗込み、出発す。数日来の疲労の為め、一睡すれば列車は維納北停車場に着せり。時に午後九時五十五分。之れより市有鉄道に乗換、同十一時、帰宅す。


シユワルツバツハ チェルベンカ(?ervenka)のドイツ名。オロモウツとプラハを結ぶ幹線上にある。ここからリトベルに向かう路線が出ているところから、この辺りでは重要な駅の一つとなっている。ただし、街からは遠く離れていて便はあまりよくない。ウーソフからなら、モヘルニツェのほうが近いのだが、どうしてこちらに向かったのかは不明。鉄道の時間の関係であろうか。



 以下、林学上の知見が述べられるのだが、こちらの興味から完全に外れるので省略させてもらう。
 最後まで地名の解読をしながら驚いたのは、諸戸博士の時代と現在とで、鉄道の路線に愕くほど違いがないことである。文中に登場した森林鉄道の類は、チェコ全体でも殆ど残っておらず、諸戸博士が見学したものも既に廃止されているが、19世紀後半の鉄道網が急速に発達した時代に敷設された鉄道は、特に山間部を縫うように走る路線は、明らかな赤字であっても、国や地方公共団体の補助もあって営業が続いているのである。
 それから、諸戸博士が留学していたウィーンのドイツ語は、とくに台所関係の言葉にチェコ語から入った言葉が多いという話だから、諸戸博士もそんなチェコ、もしくはモラビア起源のドイツ語を使っていたのだろうかなんて益体もない想像をしてしまう。また、ウィーンで知遇を得たオーストリア国籍の人の中には、場合によってはこの文章に登場している人のなかに、現在のチェコの領域出身の人、自らをチェコ人だと考えていた人もいるかもしれない。
 とまれ、新型コロナウイルスの三回目のワクチン接種の後遺症で間が開いてしまったけれども、これで諸戸博士のモラビア・シレジア紀行はお仕舞いである。
2022年2月21日







2022年02月10日

諸戸博士のモラビア・シレジア紀行 七日目



 この日は、最初は山歩き。山越えをしてノベー・ロシニに到着した後は、鉄道でウニチョフに向かい、宿泊。最初「メーレンのノイスツタト」という地名表記を見たときには、ノベー・ムニェストかと思ったのだが、ウィンター・スポーツで有名なノベー・ムニェスト・ナ・モラビェは、ボヘミアとの境界近くにあって、鉄道一本でいけるような場所ではない。改めて調べてみたら、なんとウニチョフであった。市庁舎などの屋根の色合いから、オロモウツの近くでは北方の香りを漂わせた町である。



 六月十一日、日曜日、晴天。午前七時出発。バイエル氏及び小林区署長シエーン(Schön)氏の案内にて、とうひ撰伐林、及びはい松林を視察し、午前十一時海抜千三百五十一米突の無立木地ホツホシヤール(Hochschar)に達す。山上の料理店にて午餐を喫す。


ホツホシヤール シェラーク山のドイツ名。歴史的なモラビアとシレジアの境界をなす山で、標高は1351メートル。山頂付近には19世紀末に設置された山荘がある。近くのハヌショビツェのビール工場では、この山から名前をとったビールを生産している。



 午後二時出立。とうひの天然林、及び人工造林地を視察して、午後四時、ノイウルレスドルフ(Neu-ullesdorf)村に達す。此の造林地は西暦千八百五十六年にツアイレル(Zeiler)氏の考案に依り、トウヒで植栽し成効したるものにして、海抜面積千二百米突の高地なり。高山造林成効者として、墺国皇帝陛下より第二等賞を得たりと云う。


ノイウルレスドルフ ノベー・ロシニ(Nové Losiny)のドイツ名。現在ではインドジホフという村の一部となっている。シュンペルクからイェセニークに向かう路線沿いの村。この路線は、現在ではイェセニーク以降も伸びており、一度ポーランドに出てからクルノフに向かっている。



 此所に於て、森林鉄道、及び傾斜地鉄道の制動装置を視察す。軌条は五キログラムにして、建設費一米突に附き一円六十銭なりしと言う。之より森林鉄道にて走ること、凡そ二十分、距離一里半、徒歩二十分にして、午後五時二十分、ノイウレスドルフ鉄道停車場に達す。
 午後五時二十八分発の列車に乗込み、午後八時三十四分、メーレンのノイスツタト(Nähr-Neustadt)市に着す。旅館スタツト(Stadt)に投ず。


メーレンのノイスツタト ウニチョフ(Uni?ov)。オロモウツからシュテルンベルクを経てシュンペルクに向かう路線沿いにある町。オロモウツからシュテルンベルクまでの開業は1870年、その三年後、1873年にシュンペルクまで路線が延長された。



 午後十時、晩餐を喫し、十一時半より舞踏に招待され、十二時半、帰宿就寝。此の日は日曜日にて、此の市は大祭日なりしを以て、舞踏場には土地の男女集合舞踏盛なりし。一行の学生も之に混じて舞踏を始む。此の如き事は、到底我国の風俗より見れば、常識とは思へず。半狂の有様なり。学生は午前四時に帰宿せりと。


2022年2月9日




2022年02月09日

諸戸博士のモラビア・シレジア紀行 六日目



 この日もまた山歩きである。カルロバ・ストゥダーンカからチェルベノホルスケー・セドロに向かったところまでは確実だが、宿泊した山小屋の場所がチェルベノホルスケー・セドロなのか、「シユーデツラン山合」という別の場所なのかは、判別できなかった。



六月十日、土曜日、晴天。午前六時半、出発、徒歩。旧牧羊所を経て、ガーベル(Gabel)に出で、此処にて侯爵僧領地ブレスラウ(Breslau)の森林主任バイエル(Bayer)氏、小林区署長ポール(Pohl)氏の出迎を受け、其の案内にてトウヒの撰伐林、及び小父山の無立木地、はい松造林地を視察し、午後一時養牛所に達し、午餐を喫す。食後、音楽、及び舞踏ありて、実に愉快を極む。


ガーベル ビドリ(Vidly)のドイツ名。現在ではブルブノ・ポド・プラデデムの一部となっている。
ブレスラウ 当時はドイツ領シレジアの都市ブロツワフのことだと思われる。侯爵僧領地とあることからこの辺りにブロツワフ大司教の領地が存在したか。
小父山 マリー・デット(Malý D?d)山のこと。標高1368m。前出のプラデット山の近くには、標高1408mのベルキー・デット(Velký D?d)山もあって、祖父と名のつく山が三つ集っている。




 午後三時半出立。撰伐林を通じ、午後六時、海抜千〇十一米突のロート山(Rothe Berg)に達し、シユーデツラン山合(Sudeten-gebirgsvereiu)の山小舎にて宿泊す。


ロート山 チェルベノホルスケー・セドロ(?ervenohorské sedlo)のことか。標高1013m。セドロは峠を意味するチェコ語で全体を直訳すると「赤山峠」となる。シュンペルクからイェセニークに抜ける国道が山越する交通の要所で、宿泊施設なども整っている。
シユーデツラン山合 いわゆるズデーテン山地のことであろうか。チェコ語では諸戸博士が滞在中のこの辺りの山地はフルビー・イェセニークと呼ばれている。



 午後八時より晩餐会あり。例の通り唱歌会あり。余は川中島の歴史を話し、最後に詩吟を為せしが、日本の詩は意味深遠にして、到底我々の詩に及ぶ処にあらずとて、大に賞賛を受けたり。午前一時就寝。学生は午前四時就寝せりと。





 この日の酒宴で、諸戸博士は、「川中島」について話したと記すのだが、このことと、諸戸という名字から、長野出身なのだろうと思い込んでいたら、三重の人だった。こいうときは、幕藩体制の記憶も新しい明治の人なら故郷の話をするんじゃないかと思ったのだけど、逆に日本という国家意識が強くて故郷にこだわらなかったのだろうか。諸戸が長野と結びつくのは、長野出身であることを売りにしていた小山田いくの漫画に登場したのを覚えているからである。あの人長野出身という設定じゃなかったかなあ。
 詩吟って、日本の詩だったっけか。漢詩の書下し文を節をつけて読むんじゃなかったっけ? 書下し文だから日本語の古文なのは確かではあるが、漢詩は日本の詩人の作品だろうか。いや和歌の朗詠を詩吟と呼んでいるのかもしれない。うちの父親が昔、詩吟教室に通っていたのは覚えているのだけど、その中身までは覚えていないのである。
2022年2月8日





2022年02月08日

諸戸博士のモラビア・シレジア紀行 五日目



 五日目は、カルロバ・ストゥダーンカからブルブノ・ポド・プラデデムを往復。鉄道の路線で結ばれているわけではないので、当然徒歩である。移動に時間がかかったためか、記事は非常に短い。



 六月九日、金曜日、晴天。午前八時、独逸マイステル森林事務所前に集合し施業按の説明あり。之れより林道を視察して、十一時ルードヴイヒタール村に達し、木材工業場を視察す。此の工場にては桶製造、曲木細工(椅子、玩具用車輪等)、木醋製鉋片製造あり。工場長の丁寧なる説明あり。ぶなの曲木は山林局目黒林学試験場の試験にては非常に困難なりしが、此の工場にては実に容易にして、余は其簡単なるに驚けり。ぶなの材質の異る為か、蒸煮の加減なるか、職工の熟練なるか、不明なれども、実に簡単なり。又佐藤林学士は曲木工場視察に非常に苦心せられ、半年も運動して漸く縦覧を許されたりとのことなるが、余は幸にして少しの故障なく縦覧を許され、且つ非常に歓迎せられて丁寧に説明を聞くを得たり。且つ所長曰く、貴下教授として曲木細工に趣味あれば、二三ケ月間滞在して研究せられよ。少しも秘密なし。唯だ熟練のみ唯一日や二日間の目撃にて出来るものにあらずと。余は所長の此の言の正当なるを信ず。午後一時半ヴルベンタール(Würben thal)小林区署附近の森林内にて午餐を喫す。


ルードヴイヒタール ルドビーコフ(Ludvíkov)のドイツ名。カルロバ・ストゥダーンカからブルブノ・ポド・プラデデムに続く道路沿いの村。
ヴルベンタール ブルブノ・ポド・プラデデム(Vrbno pod Prad?dem)のドイツ名。



 午後三時半出立。林道、及び鹿の害を視察して、午後七時カールスブルンに帰る。
此の夜八時、晩餐会あり。午後寄宿す(旅館へ)。





 短いけどこれでお仕舞い。
2022年2月7日





2022年02月04日

諸戸博士のモラビア・シレジア紀行 四日目



 この日から、鉄道だけではなく徒歩での移動も増える。



 六月八日、木曜日、曇天。午前八時、停車場に集り、独逸マイステル森林主任へルマン(Hermann)氏の案内にて、停車場附近に在る積木場を視察す。此の積木場は今回新設せられたるものにて、一万円を要せるが、此の場所に木繊維材を積置き、此処にて販売するを以て、従来林内にて販売せしよりも高価に販売するを得、且つ二三年間は此所に積み置き、相場の昇騰を待つを得べく、且つ引渡し明了なるの利益なり。故に此の建設費の利子は充分に廻ると云う。
 木繊維用トウヒ材の価格は直径五センチメートル、十センチメートル、及び十五センチメートルに区別し、一立方米突層積に付き三円二十銭、三円六十銭、及び四円八十銭なり。此れ以下の小材は鉱山用軌道枕木材とし、一立方米突層積に付き一円三十銭なり。又まつ其の他、太きものは鉱山用支柱となすと。タウヒ用材は一立方米突に付き凡そ八九円なり。又直径三寸を増す毎に、価格八十銭を騰貴すと云う。
 午前八時二十分発の列車に乗込み、同九時十二分ホーゲルサイフエン(Vogelseifen)駅に着し、之れより徒歩凡そ三十分にて、路傍の鉄鉱を見る。技師の説明あり。近来開始せるものにして小規模なり。


ホーゲルサイフエン ルドナー・ポット・プラデデム(Rudná pod Prad?dem)のドイツ名。但し駅(停車場)の存在を考えると隣のノバー・ルドナー(Nová Rudná)の可能性もある。ノバー・ルドナーの駅はブルンタールからマラー・モラーフカ(Malá Morávka)に向かう路線上にある。この路線の開業は、1901年。



 之れより森林地に入り、両側のトウヒ林を視察し、進むこと凡そ二里半、バイムビヤルド(Beim Bild)に達す。


バイムビヤルド 不明。



 之れより道路工事を視察し、午後一時半、林内にて午餐を喫す。林道は巾六米突にして、其の建設費は一米突に付き五円なりと。又暗溝はせめんと円筒にて一個所三十二円なりと。
 午後二時出立。老父山(Altvatar)の山腹に於けるチルベ松(Pinus Cembla)、及びはい松の造林地を視察し、山頂に在る高さ凡そ三十米突の見晴塔に上る。此の地は海抜千四百九十米突にして、尚窪地に残雪あり、風強く植物生育の限界なり。但し地層は深きを以て、造林は稍成効せるが、其の目的、土地保護にありて、決して経済上利益あるものにあらず。主任は森林限界を高むる目的にて、多額の費用に投じて植栽せりと言えり。


老父山 モラビア地方の最高峰プラデット(Prad?d)のこと。標高1491メートル。山頂には現在ではテレビの電波塔がそびえるが、20世紀初頭に建てられた石造の展望塔が1950年代末まで存在しており、その高さは34メートルだったという。諸戸博士はこの山に登った最初の日本人かもしれん。



 午後四時半、山を下りタウヒの根伐林内を通りて、午後七時半、カールスブルン(Karlsbrunn)村に着し、石堰堤、及び苗圃を視察す。


カールスブルン カルロバ・ストゥダーンカ(Karlova studánka)のドイツ名。温泉保養地として知られる。



 之れより別荘オイゲン(Eugen)に投宿す。此の地は温泉ありて、避暑、及び避寒地なり。独逸マイステルは博愛同仁的に、此の設備を為せりと。此の夜ホテルにて晩餐会あり。十一時半就寝。


別荘オイゲン 現在でも建物は残っており、シャールカ(Šárka)と名前が変わっているらしい。



 余はシユレジエン州野渓留監督署ハーニツシユ(Hanisch)氏と同宿す。余は、同氏より今を去る凡そ十年前に、我が東京大学林学科に野渓留講座新設あり、外人教師傭聘の際、応募者の一人なりしが、ヘーフエレー氏確定し、氏は不幸にして、其の撰に洩れ、実に残念なりしとの懐旧談を聞きたり。若し此の際ハーニツシユ氏、我国に来り、理水野渓留講座を担任せられしなば、我国の野渓留工事上、非常の進歩を見たる事なるべし。然るに、全く工学的智識のなきヘーフエレー氏の誤魔化し的海防工講義にて、三年間を失い、時機を失いたるは、我国林学の為め実に残念の事なり。今や我が林業界には野渓留工事の智識を有する人、非常に必要なるに、其の人乏しく、益々土木学者の浸入する処となる。之を思へば、十年前の此の撰定は、我が林学の盛衰に大関係を有する問題なりしなり。十年前の当時は深く之を考る者なかりしが、十年後の今日には、非常に不利益なる結果を持来せり。人の撰定、実に慎重ならざる可らず。


ヘーフエレー 明治期のお雇い外国人の一人カール・ヘーフェルのこと。ドイツ(バイエルン)出身の林学者で、1901年(明治34)に東京帝大農科大学の教師として招聘され、林学、森林砂防工学を講じた。1903年帰国し翌年に没した。


 諸戸博士の、このモラビア・シレジア紀行は、明治44年、1911年のことだから、日本が幕末に開国してからかれこれ半世紀ほどたった頃ということになる。日本の欧米化政策のことを考えると、諸戸博士以前に、プラハはともかくウィーンに留学した日本人はそれなりにいたに違いない。ならば、ウィーンと鉄道で結ばれたオロモウツにまで足をのばした人も、モラビアの中心都市だしいたのではないだろうか。ブルンタールもラビアとシレジアの境界地域の中心となる町だから、工場やら建築物やらの視察で日本人が訪れていても可笑しくはない。
 でも、徒歩でイェセニークの山中に分け入り、プラデットにまで登る必要のあった日本人がいたとは思えない。登山家が目標にするほど高い山でもないし、あるとすれば諸戸博士と同業の林学、林業関係者だろうけど、その場合にはこの旅行記録にも登場してしかるべきであろう。ということで、現時点では諸戸博士を、最初にプラデットに登った日本人だということにしておく。
 今後、チェコスロバキア関係の記事の整理が終ったら、明治期にウィーンに留学した人たちが残した文章から、モラビア関係の記事を探してみよう。何も出てこないかも知れないけど。
2022年2月3日




2022年02月02日

諸戸博士のモラビア・シレジア紀行 三日目



 三日目は、ブルンタールから鉄道で、ブルブノ・ポット・プラデデムに向かう路線に乗って、ノベー・ヘジュマノビとカルロビツェを訪問。カルロビツェは知っていたけど、ノベー・ヘジュマノビなんて、この旅行記を読むまで存在すら知らなかった。
 前夜学生たちは午前二時ごろに寝たというのに、この日は朝六時に駅に集合というなかなかハードなスケジュールである。諸戸博士は早めに寝ているから、そこまで大変ではなかっただろうけど。



 六月七日、水曜日、晴天。午前六時馬車にて停車場に集り、同六時二十六分発の列車に乗込み、同三十八分エルベルスドルフ(Erbersdorf)駅に着し、徒歩、苗圃を視察す。苗圃には、しきび、たうひ、かへで、からまつ(日本)等あり。しきび、及びからまつは晩霜の害を被ること甚し。之より新築の林道を視察す。林道は巾四米突あり。築造経費一米突に付き凡そ二円なりしと。


エルベルスドルフ チェコ名ヘジュマノビ。新旧二つあるが、鉄道駅があることを考えるとノベー・ヘジュマノビ(Nové He?manovy)であろう。ただし現在の路線図では、ノベー・ヘジュマノビへは、ブルンタールからではなく、隣駅のミロティツェ・ナッド・オパボウ(Milotice nad Opavou)からブルブノ・ポット・プラデデム(Vrbno pod Prad?dem)に向かう路線上になる。かつてはブルンタールから路線が分岐していたものか。この路線が開業したのは1880年のことという。



 午前八時五分発の列車に乗込み、同九時一分カールスタール(Karlsthal)駅に着し、駅前の料理店にてビール、及び豚肉の馳走を受け、施業按の説明あり。


カールスタール カルロビツェ(Karlovice)のドイツ名。この村も、ミロティツェ・ナッド・オパボウからブルブノ・ポット・プラデデムに向かう路線沿いにある。



 午前十時出発。馬車にて走り、苗圃間伐離伐を視察し、主任技師の説明あり。午後三時、料理店に帰り、午餐を喫す。途中公道に木鉄混用の径間二十六米突の懸乗橋あり。其の構造実に奇なるを以て、之に就て種々の批評、議論ありしが、要するにマルヘツト氏は木鉄混用せし愚を主張せられしも、之れには何か他に原因のあることならん。
 午後五時五十七分カールスタール駅発、午後六時五十分エルベスドルフ駅着、乗替。主任書記、及びチユーデルバウエル氏に分れて、午後七時一分発の列車にて午後七時二十七分、フロイデンタール駅に帰り、城に入る。


乗替 現在はこのエルベスドルフ駅こと、ノベー・ヘジュマノビ駅はローカル線で小さな駅の多いこの路線の中でも小さな駅で、乗換えなどする機会はなさそうである。これがミルケンドルフであれば、隣のミロティツェのことなので、現在の乗換駅と同じになるのだけど。



 午後八時晩餐。例に依り唱歌会、ビール会あり。席上余は演説を強請せられ、止むを得ず、不充分ながら施行所感を述べしが、幸に満場の喝采を博せり。余は午前一時就寝。他の学生は午前二時就寝。フロイデンタール町は海抜五百四十七米突の処にあり、人口七千六百を有し景色の良き小都会なり。





 この手の旅行に付きものの酒宴は、毎日のように行われ、この日は、外国人だからだろうけど演説を求められている。ドイツ語が専門というわけでもないのに、ドイツ語でしかも即興で、旅行について演説できるのだから、明治に知識人というのは侮れない。単に喋るだけでなく、論文を読み書きできるレベルでドイツ語ができたのだろう。
2022年2月1日








2022年01月28日

諸戸博士のモラビア・シレジア紀行 二日目



 二日目の行程は、オロモウツからシレジアに入ってすぐのブルンタールまで。
 この記事を読むまで、オロモウツ駅から出る路線の中で二番目にローカルな、ビストシツェ川に沿って走る路線を、20世紀初頭に利用した日本人がいたとは予想もしていなかった。しかもブルンタールでは、ドイツ騎士団所有の城館に宿泊しているのである。これは当時学生が優遇されていたことを表しているのだろうか。



 六月六日、火曜日、晴天。午前七時半より電車にて鉄道停車場に集り、同八時十九分発の列車に乗込み、同九時四十八分ヂツテルドルフ(Dittersdorf)駅に着す。此の間丘陵地にして唐檜林多し。


電車 当時のオロモウツは、既に駅と旧市街の間の地区の開発が進められており、トラムも走っていた。停留所はホルニー広場の市庁舎の前にあったから、ホテル・ラウエルからは目と鼻の先である。
ヂツテルドルフ ブルンタールの近くのデトシホフ・ナッド・ビストシツィー(D?t?ichov nad Byst?icí)のことか。オロモウツからブルンタール、クルノフを経てオパバに向かう路線の沿線に在る。この路線の開業は1872年。
唐檜 この木に関しては、トウヒ、タウヒなど表記がゆれているが、雑誌の表記のままにする。



 之より苗圃を視察す。苗圃には米国産の樹種多く、我国のしらべ、及びあかまつあり。又霜害にかかりたるたうひ、及びとねりこ多し。
 之より森林鉄道に乗り走ること凡そ二里、積木場に達し、電柱に丹礬注入の装置を視察す。注入は百本以上を同時に行う装置にて、木材の長短に依り、三日乃至八日間を要すと云う。気圧は二気圧なり。森林鉄道の軌条は九キログラム、機関車の重量は八噸にして、燃料は木材を用い、五キロメートルに付一立方米突層積の木材を要す。
 午後一時、料理店に入り午餐を喫す。午餐後施業按、及び林相図の説明あり。又受光材の効能を円盤を作りて明示せらる。特にぶなは非常に成長率を増加、五六倍に及ぶ。
 午後二時出発。鋸工場を視察す。此の工場には框鋸三台あり。森林鉄道にて森林を巡視し、離伐地、造林地、軽便鉄道敷設地等を視察し、林業主任の詳細なる説明あり。造林本数は一町歩に付き五六千本にして、たうひ七割五分、もみ一割二分五厘、からまつ一割二分五厘の割合に混合植栽す。之より狩猟城を縦覧し、再び鋸工場に帰り、ビール、葡萄酒、豚肉の馳走あり。森林鉄道にてヂツテルドルフ駅に帰り。午後四時四十分発の列車に乗込み、同八時十分フロイデンタール(Freudental)駅に着し、馬車にて走ること凡そ十分、ホツホ、及び独逸マイステル(Hoch u. Deutschmeister)所有の城に入る。此の夜、料理店に集り晩餐を喫し、余は午後十一時就寝、学生は午後(前カ)二時頃就寝せりと云う。


フロイデンタール ブルンタール(Bruntál)のドイツ名。歴史的なモラビアとシレジアの境界のシレジア側にある。かつては鉱山の町として栄えた。17世紀以降ドイツ騎士団領。デトシホフ・ナッド・ビストシツィーとブルンタールの距離を考えると、この三時間半かかった出発時間、到着時間は疑問。
ホツホ、及び独逸マイステル ドイツ騎士団の総長は、ホーフマイステル(Hochmeister)と呼ばれており、16世紀以降はホーフ・ウント・ドイチュマイスター(Hoch- und Deutschmeister)という称号も使われるようになった。


 初日よりははるかに短いのだけれども、二日目はこれでお仕舞い。
2022年1月27日






2022年01月27日

諸戸博士のモラビア・シレジア紀行 初日



 以下は、「大日本山林会報」第三百五十一号(明治44年)に掲載された諸戸北郎博士の「明治四十四年六月墺国メーレン(Mähren)州、及びシユレシエン(Schlesien)州修学旅行所感」である。筆者名の上に、「在墺国維納市」とある辺りが、時代を感じさせる。
 それはともかく、諸戸博士は、「維納高等地産学校」と書いているが、『 諸戸北郎博士 論文・写真集 』によれば、博士の留学先はウィーン農科大学ということになる。大学の学生を対象にした修学旅行は、修学旅行が修学の実質を失って、単なる観光旅行と化している現代の言葉を使えば、研修旅行とか実習旅行とでもいうべきもので、各地で林業関係の施設を訪問して見学している。
 旅行の開始は、6月5日なので、今回は初日の分を細切れにして紹介する。ウィーンを出て、ブジェツラフに立ち寄り、オロモウツに向かうのが初日の行程である。



 明治四十四年六月五日より同月十一日に至る八日間、維納高等地産学校に於てはグツテンベルグ教授(Hofat Guttenberg)、及びマルヘツト教授(Prof Marchet)指導の下に、メーレン州、及びシユレジエン州に林学科第四学年級生の修学旅行の催しありを以て、余は好機逸すべからずと、此の一行に加りて旅行せり。今、此の旅行の日記及び所感を述ぶれば、次の如し。


教授 本文中には同じ教授でも、「Hofat」と「Prof」と二つのドイツ語の称号が使われている。「Prof」が今の一般の教授を意味する言葉「profesor」につながると考えると、「Hofat」は特別な教授であろうか。



 明治四十四年六月五日、日曜日、晴天。午前七時三十分維納市北停車場に集合。一行はグツテンベルグ(Guttenberg)教授、実習主任「ドクトル」ハウスカ(Dr Hauska)氏、助手チツシエンドルフ(Tischendorf)氏、助手ヴイロミツツア(Willomitza)氏、講師「ドクトル」ヤンカー(Janka)、マリヤブルン林業試験所技師「ドクトル」ヂエーデルバウエル(Dr Zederbauer)氏、及び学生四十四名より。


「ドクトル」ハウスカ 『諸戸北郎博士 論文・写真集』によれば、後にウィーン農科大学砂防担当教授(在任1920-22)に就任している。また、このときから約20年後に諸戸博士がウィーンを再訪した際に再会を果たしている。



 午前七時五十分の急行列車に乗込み、維納市を出発し、午前九時十三分メーレン州のルンデンブルグ(Lundenburg)駅に着す。此の地は、維納市を距るる凡そ八十里、海面高百五十九米突の処に在り、此の間は平地にして、農地多く、赤松、黒松の平地林あるのみ。


ルンデンブルグ ブジェツラフ(B?eclav)のドイツ語名。ウィーンから鉄道でチェコに入る場合には、ほぼ必ずこの駅を通過する。因みにウィーン—ブジェツラフ間の鉄道が開業したのは、1839年のこと。ウィーンから、ブジェツラフ、プシェロフを経て、フラニツェ、オストラバ、ボフミーンを通ってポーランドに抜ける路線が幹線として計画され、さらにブルノやオロモウツに向かう支線も敷設された。
米突 メートル。念のため。



 ルンデンブルグ駅に着するや、リツヒテンスタイン侯爵(Fürst Liechtenstein)家所有山林の主任技師ヴイール(Wiehl)氏、技師ビツトマン(Bittman)氏、書記クービーチエ(Kubice)氏の出迎を受く。駅前の料理店に入りて、朝餐を喫し、小憩の後、侯爵家の苗圃を視察す。


リツヒテンスタイン リヒテンシュタイン。ブジェツラフ領をリヒテンシュタイン家が獲得したのは17世紀の三十年戦争のどさくさの際である。それ以前は、ジェロティーン家の所領であった。



 苗圃には米国産のやまなし、及び黒くるみ、及びならの苗木多し。やまならしは成長迅速にして材質軽軟なるを以て、張木細工の下地板として、近来需要多しと云う。又ビツトマン氏の害虫及害菌に競て説明あり。
 次に、にれの旧株に生ずる食料菌を観察す。此の菌は我国の椎茸に類す。之れに彼の故マイヤー氏の日本椎茸養成説を聞き、養成するものなれば香気なく、到底我国の椎茸に及ばず。


故マイヤー氏 明治期のお雇い外国人の一人、ハインリヒ・マイアー(Heinrich Mayr)のことか。ドイツ(バイエルン)出身の林学者。日本政府に招聘され、明治21年から24年にかけて東京帝国大学農学部の前身東京農林学校と帝国大学農科大学で造林学を講じた。亡くなったのは、明治44年1月。



 次に木材置場、及び鋸工場に於ける森林鉄道を視察す。
 次に鋸工場を視察す。鋸工場は面積凡そ十三町歩ありて、電信、電話柱、松、及びならの鉄道枕木、車輌を製造せり。
 之れより蒸気機関室、機械室、発電室、鍛冶場、鋳物場を視察す。
 次に曲木工場に入る。此の工場には、十二馬力の蒸気機械、蒸煮鑵四個、乾燥室三個、帯鋸鉋削機械、及び曲木機械ありて、なら材のワブチを製造せり。之より植物病理研究室に入る。此の室には野獣の属、虫害及菌害の標本非常に多く集ありて、ビツトマン技師は被害の原因経過を詳細に説明せらる。併し害虫黴菌に智識少く、従て趣味少なき余には効能少かりしが、森林保護学上必要の参考品なるべし。
 午後二時料理店ウイムメル(Wimmel)に入り休憩し、リツヒテンスタイン侯爵家所有山林の施業按、林相図を一覧し、午餐を喫す
 此の日、マルヒ(March)州、及びタヤ(Thaya)州の洪水予備地に於て、なら、とねりこ、にれ、やまならし、しで、かへで、しなのき、はんのき等の濶葉樹の喬林作業を視察する予定なりしが、前日の降雨の為め、視察するを得ざりしは、実に残念なりし。


マルヒ州 タヤ州 どちらもオーストリアとモラビアの境界のオーストリア側にある。



 午後三時五十分発の列車に乗込み、午後六時三十分プレラウ(Prerav)町に着し下車す
 プレラウ町は維納市を距る凡そ四十六里、海抜二百十二米突の処に在り。人口一万七千を有し、オルミツツ(Olmütz)市、及びブリン(Brünn)市に到る鉄道の分岐点にして、停車場の規模の大なること、墺国中第一と称す。余は僅々数分間の内に六列車の発するを目撃せり。以て停車場の規模の大なることを知るを得べし。


プレラウ プシェロフ(P?erov)のドイツ語名。モラビアの鉄道網の要衝。ブジェツラフ—プシェロフ間の開業は1841年、支線のプシェロフ—オロモウツ間も同年の開業だが一月半ほど遅れている。
オルミツツ オロモウツ
ブリン ブルノ



 午後七時十五分発の列車に乗込み、走ること凡そ六里、同八時オルミツツ(Olmütz)駅に着し、駅の近傍に在る外国産樹種の苗圃を視察す。米国産樹種多く、又我国産のけやき、きり、ひのき、からまつあり。リツヒテンスタイン侯爵家林業主任ヴイール氏、余を呼び寄せ、我が国産の樹木の種属名、科名、造林法、及び木材の利用法等を質問せらる。余は一々質問に答えたるが、植物学、造林学、利用学の口答試験を受けしが如し。幸にして植物の学名、及び利用方面には智識ある故、及第せしが、昆虫、及び黴菌の試験は答うる能わず、落第せり。之、林学の教育が日墺両国大学に於て異るを明示するものにして、我国に於ては森林植物、及び造林学授業時間多きが、墺国の地産学校に於ては、森林植物学よりも森林保護学の時間多く、且つ森林保護学の試験は非常に厳にして、学生は全力を昆虫学に尽すを以てなり。故に旅行中に於ても、学生は樹木よりも昆虫を捕うることを務めり。之れ我国の修学旅行に学生は樹葉の採集に務め、昆虫には全く気を置かざると実に好対照なり。維納高等地産学校唯一の欠点は、此の保護学の学生の力を費やさざること過多なるにあり。
 次に各種造林器具の陳列説明あり。之より馬車にて走ること凡そ十分、旅館ラウエル(Lauer)に投ず。此の夜リツヒテンスタイン侯爵家林務技師、及び同細君集り、晩餐を共にす。学生の唱歌舞踏あり。余は午前一時半就寝せしが、学生は之より珈琲店に行き、午前三時帰りたりと言う。


旅館ラウエル ホルニー広場にあったホテル。現在はモラフスカー・レスタウラツェが入っている建物は、このホテルの開業のために、それまであった二軒の建物を壊して建てられたものだという。



 オルミツツ市は、マルヒ河の右岸、海抜二百二十一米突の処に在り、メーレン州第二の都会にして、人口二万千九百を有す。此の市に在る重なるものは、市庁、図書館、博物館、記念碑、寺院、市公園にして、第十二世紀時代の伽藍あり。


マルヒ河 モラバ(Morava)川。オロモウツの市街は右岸にあるが駅は左岸にある。
市庁 ホルニー広場にあったホテル・ラウエルに宿泊したということは、市庁舎も天文時計も見たということであろう。そうすると「記念碑」もただの記念碑ではなく、聖三位一体の碑ということになる。
第十二世紀時代の伽藍 聖バーツラフ大聖堂のことであろう。


 以上が諸戸博士が残した初日の記録である。諸戸博士がオロモウツに来た最初の日本人だと断言するのはためらわれるが、オロモウツそのものや、市庁舎、聖三位一体の碑などに関する日本語で言及された最古の記録だぐらいのことは言いたくなる。
2022年1月26日



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