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2016年01月31日
クロムニェジーシュ(一月廿八日)
オロモウツが、丘の上に建ち教会が多いことからハナー地方のローマと呼ばれているように、このクロムニェジーシュは、ハナー地方のパリと呼ばれているらしい。その理由は、何だったんだろう。昔読むか聞くかした記憶はあるのだが、思い出すことができない。
クロムニェジーシュは、ハナー地方の四大都市(そんな大そうなもんでもないのだけれども)を結んで形作られた縦長のひし形の下の頂点に当たる町である。そのひし形の上の頂点はオロモウツで、左右にプロスチェヨフ、プシェロフが配される形になる。オロモウツからの連絡はあまりよくなく、電車でうまく時間が合えば、フリーンという町での乗り換え一回で一時間弱で着くのだが、合わないと二回乗り換えが必要になることもある。バスは直通のバスはあるが本数が少なく、時間も一時間半ぐらいかかってしまう。
この町は、オロモウツの大司教の離宮として建てられた城館と、その城下庭園、旧市街を挟んで反対側にある花の庭園が世界遺産に登録されたことで有名になり、観光客も増えているようだ。他にも大司教の造幣局、大司教のワイン醸造所とか、大司教座関係の歴史的記念物が多く、その数は大司教座の置かれているオロモウツをしのぐかもしれない。世界遺産に登録された記念物も、オロモウツの聖三位一体の碑のほうが明らかにしょぼいし。
世界遺産以前は、ミロシュ・フォルマンのアマデウスの撮影が、この町の城館で行われたことで有名だった。このアメリカに亡命したチェコ人であるフォルマンが、1980年代半ばにチェコ国内で映画の撮影をすることができたという事実は、大きな謎である。国内的には、1968年のプラハの春以後のいわゆる正常化の時代で、国際的にはソ連のアフガン侵攻、アメリカのグラナダ侵攻で東西陣営が相互にオリンピックをボイコットし合うという冷戦が比較的激化していた時代である。
チェコ語の師匠の話では、歌手や俳優などが亡命した場合には、出演したテレビ番組や映画などは封印され放送も上映もされなくなり、あたかも最初から存在しなかったかのように扱われていたと言う話なので、フォルマンもチェコで撮影した映画は封印されていたはずである。誰がなんと言おうとチェコ映画の最高傑作である「トルハーク」という映画は、知らない、見たことがないというチェコ人が多いのだが、これも重要な役を演じているバルデマール・マトゥシュカが亡命してしまい封印されていたからだと考えられるぐらいなのだ。
カメラマンが当時のことを回想して、撮影スタッフの一挙手一投足を秘密警察が監視していて、誰とどこで会うかなどに気を使う必要があって大変だったとかいうようなことを語っていたが、それ以前の、どのような事情でフォルマンがチェコでの撮影を選び、どのように交渉して実現したのかという部分が気になるのである。西ドイツのテレビ局のお金でチェコでドラマが撮影されたり、チェコでは発禁になるような本でもスロバキアでは発行できたり、この時代のチェコスロバキア共産党政権の政策と言うのは一筋縄ではいかないのである。
私が初めてクロムニェジーシュを訪れたのは、今から二十年以上も前、チェコとスロバキアが分離したばかりのころのことだった。チェコ国内を旅行中にオロモウツという町を発見して、荷物を抱えて移動してばかりという生活に疲れていたこともあって、オロモウツを拠点にあちこち足を延ばし、たまには一日中どこにも行かない日も作るという生活に切り替えていた時期がある。その時、ホテルの人などから、ここに行けと薦められて、行ったのがボウゾフ、ヤボジチコ、ヘルフシュティーンなどの観光地なのだが、中でも一番、強引ともいえる方法で薦められたのがクロムニェジーシュだった。
電車の乗り換えとかややこしいから、外国人が一人で行くのは大変だろうと言われて、たまたまクロムニェジーシュ在住で、夜勤明けで午前中に家に帰るアルバイトの大学生の女の子が連れて行ってくれることになった。途中でもあれこれクロムニェジーシュについて説明してくれたのを覚えているけれども、不思議なのは、あの頃はチェコ語は片言もできず、英語は片言以下だったのに、どうしてこんな話ができたのだろうかということだ。
恐らくこのような体験が、多くの人が考える、外国に行けば外国語ができるようになるという幻想の根拠になっているのだろう。しかし、確信を込めて断言しておく。この数か月間の旅行の間、何とかかんとか英語でしゃべれた私の英語力が向上した事実はどこにもない。そして、簡単な数字やあいさつなど多少覚えて帰ったチェコ語が、その後のチェコ語学習に格別に役に立ったということもない。せいぜい忌避感を感じずに済んだというぐらいで、覚えるべき文法や語彙は一から覚えなければならなかったのだから。
もちろん、クロムニェジーシュでは、大司教の城館の見学にでかけたが、ガイドがチェコ語で話す内容はもちろん、入り口で貸してもらえたガイドの話を英語に訳したファイルも、ほとんど何も理解できずに、あれを見てもこれを見ても、ただすげーと思うだけに終わった。その後、チェコ語をまじめに勉強していたころには、毎年のようにこの城館に出かけ、回数を重ねるごとに、少しずつ理解できることが増え、チェコ語もだいぶ上達したなあと一人悦に入っていたのである。これは単に繰り返し聞いたからというわけではなく、日々の学習の成果で、貧しかった語彙が豊かになり、使われる文法事項にもその場で気づけるようになったおかげだと確信している。日々の努力というものは、すべからく甲斐あるべきものである。
1月29日13時30分
この本で、モラバにも来たのだろうか。チェヒ(ボヘミア)より、モラバのほうがいいと思うんだけど。クロムニェジーシュは一見の価値はあるし。1月30日追記。
2016年01月30日
あだ名の罠(一月廿七日)
チェコの人は、もちろん本名はあるのだが、日常生活、つまり友人同士、家族内では、戸籍上の本名ではなくあだ名のようなものを使っていることが多い。チェコ人に言わせるとそのあだ名は、名前からある程度規則的に作られると言うのだが、その規則的と言うのは日本の場合の名前や名字の最初の二文字をとって、それにちゃんだの何だのをつけるという意味での規則性ではなく、それぞれの名前には、あだ名として使えるものがいくつかあって、その結びつきを無視してあだ名にすることはできないと言う意味での規則性なので、知らない人には想像もつかないあだ名になることがある。これに関しては特別な辞書もあるという話なので、一般的に使われるものを除けば、チェコ人にとってもすべてを把握できているものではないようだ。
例えば、アナからアニチカ、カミラからカムチャなどというのは、少なくとも最初の部分は同じなので、まだ想像がつくというか、言われれば納得するのだが、言われても納得できないものもあるのである。
昔まだ真面目にチェコ語の勉強をしていたころ、こんなことがあった。図書館で勉強という名目でチェコ語の新聞を読んでいると、知り合いの女の子に、「そういえば、イジーから聞いたんだけど」と言われたのだが、知り合いにはイジーなんて男はいなかったので、誰のことかまったく思い浮かばなかった。大して重要な人名ではないだろうからと、とりあえずそのままにして話を続けたのだが、その後も「イジーが、イジーが」と、さもこちらが知っているのは当然といわんばかりにその名前を連呼するので、たまりかねて質問した。
「ごめん、そのイジーって誰? まったくわからないんだけど」
彼女は一瞬驚いたような顔をして笑いながら説明をしてくれた。イジーというのは正式な名前で、もしかしたらあだ名で「イルカ」とか「ユラ」とか名乗っているかもしれないというのだ。どちらも正式な名前だと思っていたのと、日本語の感覚で考えていて「イ」と「ユ」が同じ子音だという意識も、「ル」と「ジ(?I)」が関連する子音だいう意識も持てなかったせいで、イジーとイルカ、イジーとユラはもちろん、イルカとユラにも関連があるとは想像もできなかったのだ。今から考えると元凶はあだ名をさも本名であるかのように伝えたイジー本人に他ならないのだが。
この手の厄介なあだ名で一番有名なのは、ヤンのあだ名がホンザになることだろうか。これは更に指小形となって、ホンジーク、ホンジーチェクと形を変えるのだが、どうしてホンザになるのかと聞くと、ドイツ語からきているのだと答えが返ってくる。ドイツ語のヤンに当たる名前は、ハンスでそのハンスからホンザが生まれたというのだが、それでは一体なぜ、わざわざドイツ語からあだ名を取り入れる必要があったのかという質問には答が返ってこない。それに、ドイツ語にはヨハネスという名前もあるけど、これはヤンと関係ないのだろうか。以前のローマ法王のヨハネ・パウロ二世は、チェコではヤン・パベル二世になったはずだから、関係はありそうである。
イタリア語を起源とすると言われるあだ名もある。ペパというのは、ヨゼフのあだ名のバリエーションの一つなのだが、これがなぜかイタリア語から来たものだと言うのである。ほかにも、ペピン、ペピーノ、ぺピークなどなど、すべてイタリア語起源らしいヨゼフのあだ名なのである。ちなみにアメリカ産のアニメ、ほうれん草を食べて力を出すポパイは、チェコ語ではぺピークになる。ということは、ポパイの本名は、ヨゼフ、いや英語読みのジョーゼフになるのだろうか。なんだかイメージに合わない。
以前、お酒を飲んでいるときに、突然「おい、カレル」と呼びかけられて、自分が呼ばれているとは思えなくて反応できなかったことがある。その前から酔っ払って呂律の怪しくなった連中が日本語の発音ができなくなって、カレルのあだ名である「カーヤ」と言いはじめていたのには気づいていた。しかしそこからさかのぼって「カレル」と呼ばれるとは……。本名は、ものすごく発音をしそこなえば、カーヤになることも万が一にはあるかもしれないねというものなのだが、「カレル」と呼ばれるのも、「カーヤ」と呼ばれるのも、辞退申し上げる。何が悲しくて、「神のカーヤ」と呼ばれる、おば様方の永遠のアイドル、カレル・ゴットと同じあだ名で呼ばれなければならないのだろうか。そんなのは恐れ多くて……。
最近は、私の前で使う名前を、あだ名でも本名でもどっちでもいいから、一つ決めろと周囲に要求しているのと、こちらがあだ名の状況を把握したのとで、問題は起こらなくなったが、こうして考えるとチェコ語というのは初心者にはつらい言葉なのかもしれない。人の名前一つでこれなのだから。壁を乗り越えると楽になるのだが、そこまで行くのが大変なのだ。
1月27日0時30分
この本には名前についての説明もあるかな? 1月29日追記。
2016年01月29日
すべての功績はピルスナー・ウルクエルに(一月廿六日)
もう何年か前の話だが、ピルスナー・ウルクエルが、とてつもないテレビのコマーシャルを流していたことがある。かくして歴史は作られたとかいうテーマで制作されたコマーシャルらしいが、簡単に言うと近代チェコにおける重要な出来事の裏側には、常にピルスナー・ウルクエルの存在があったという内容で、ものすごく完成度が高く、チェコだからそういうことがあったかもしれないねえと思わされるのである。歴史の読み替えと言う意味では、程度は違うが半村良の『産霊山秘録』を初めて読んだときのような、感動に身を震わせてしまった。
例えば、国民劇場であるが、全国的な募金活動で資金を集めて建設したものの、すぐに焼失し、再度募金活動を行って再建したと言う話を知っている人は多いだろう。それがいかになされたかと言うと、このコマーシャルによれば、次の通りである。
消火活動を終えて疲れきった男たちにピルスナー・ウルクエルがふるまわれる。せっかく建設した国民劇場の焼失に意気消沈した男の目にも、一杯目のビールを一気に飲み干して力が戻り、もう一杯と注文してしまう。それを聞いた消防士のリーダーが、手にしたジョッキを一気にあおって、「もう一杯」とつぶやく、その瞬間に彼は気づくのである。一回で駄目だったのならもう一度やればいいだけのだと。そして周囲に「みんな、もう一回だ。もう一回やるぞ」と声をかける。かくして二度目の募金活動が始まり、国民劇場は再建されるのである。チェコ語では、ビールを「もう一杯」と言うときと、何かを「もう一回」しようと言うときに使う表現が同じなため、こんな話が出来上がるのである。いや、でも何だかありえそうだと思ってしまうのは、私だけではあるまい。
また、難聴に苦しめられていたスメタナが、いかにして『我が祖国』を書き上げたのかというコマーシャルは、スメタナが作曲の依頼の手紙を受け取るところから始まる。最初はあまりいい顔をしないのだが、そのとき書斎に日が射して、机の上に置かれたビールに日が当たる。召使が気を利かせてカーテンを閉めようとするのをスメタナは止める。光りをうけたグラスについた水滴が、白い紙に影を落とし、その影を音符に見立ててたどっていき、五線譜に落とし込むことで、ブルタバ(モルダウ)の冒頭部の美しいメロディーが生まれ、作曲の楽しみを取り戻したスメタナは、『我が祖国』を書き上げることになるのである。ところで、スメタナはビール好きだったのだろうか。
他にも、今ではフォルクスワーゲンの傘下に入ってしまったシュコダ自動車の前身であるラウリン・クレメント社でエンジン付自転車、つまりオートバイの発想が生まれたのも、アルフォンス・ムハが「スラブ叙事詩」を描き上げたのも、ピルスナー・ウルクエルのおかげだと言うのである。手前味噌といえば手前味噌なのだが、非常に楽しい手前味噌で、チェコ人はビールが好きだから、こういうこともあったかもしれないと思えてしまうところが素晴らしい。
このシリーズは、私の知る限り五本のコマーシャルしか存在していないのだが、最後に最高傑作を、文章でどこまでそのすごさが伝わるかはわからないが、紹介しよう。
時は啓蒙主義の時代、民族の覚醒を訴え、チェコ語の復興を唱える人たちが、すべてチェコ語で書かれた新聞を発行する。チェコ語復興運動の中心人物であったユングマンが、新聞を片手に街を行く人々にチェコ語の新聞を買うように声をかけるのだが、誰も反応しない。当時の都市部においては、チェコ語よりもドイツ語のほうが幅をきかせており、チェコ系の人であってもドイツ語を使って生活していたため、チェコ語の新聞を購入する意味を見いだせなかったのである。
結局、一部も売れることなく終わり、失望と疲労にさいなまれたユングマンは、肩を落として仲間たちと近くの飲み屋に入る。出てくるのはもちろんジョッキになみなみと注がれたピルスナー・ウルクエルである。その黄金の輝き、泡の清らかなまでの白さに感動したユングマンは、ジョッキをつかむと、そのまま立ち上がり、とうとうとピルスナー・ウルクエルの美しさをたたえる演説を始めてしまう。それを聞いていた別の男が、負けじと自分の言葉でビール賛歌を唱え始め、次はまた別の男が、さらに別の男が、と次々にビール礼賛の言葉が飛び交うようになり、かくしてチェコ語のビールをほめたたえる表現は豊かになり、ひいてはそれがチェコ語の復興につながったのだというお話なのである。
そして、ユングマンが一杯目を飲み干し、二杯目が届けられた瞬間に、口から洩れたお礼の言葉は、チェコ語の「ジェクイ」ではなく、ドイツ語の「ダンケ」だった。それまでチェコ語のビール議論でやかましかった店内を、一瞬の静寂が覆い、やがて大爆笑が起こる。チェコ語の復興を主導したユングマンでさえ、名字からわかるようにドイツ系であり、日常的に使っていたのはドイツ語で、だからこそとっさにドイツ語の「ダンケ」が出てしまったということなのである。
初めて見たときには、「ダンケ」が聞き取れなくて、爆笑の理由がわからなかったのだが、それでもすごいと思ったし、「ダンケ」の意味を説明してもらって、さらなる感動に震えたのである。当時のチェコの都市部の言語状況については、知識としては知っていたが、実感をもって理解できたのはこのコマーシャルのおかげである。
ここしばらくこのシリーズの新作は出ていないだが、次は何がテーマになるのか楽しみにしながら首を長くして待ちたいと思う。
1月27日21時30分
この瓶は500mlだと思ったのだけど、330mlだった。回収できないからこっちで見かけるとのは瓶のタイプが違うのだろうか。1月28日追記。
2016年01月28日
チェコ、テレビ事情(一月廿五日)
チェコでも、数年前に地上波でのデジタル放送が始まり、テレビのチャンネルが増えた。現在は全部で35のチャンネルが無料で見られるようになっているのだが、大半はなくてもかまわないチャンネルで、無理してデジタル化してチャンネルを増やす必要があったのか甚だ疑問である。デジタル化は、最近調子に乗っているEUの命令であった可能性も無きにしも非ずなのであるが。
デジタル化される前、アナログ時代にオロモウツで見ることができたチャンネルは六つしかなかった。少ないけれども、日本の実家のある地域では四チャンネルしか見られなかったのだから、特に不満もなかった。
見られたチャンネルをあげておくと、日本のNHKに相当するチェコテレビが第一と第二の二チャンネルで、第一と第二の住み分けも日本のNHKに近かった。日本と違ったのは小学校中学校の科目と直接関連する番組がなかったことぐらいだ。民放はノバとプリマの二つしかなかった。アナログの時代には常にノバが優位に立っていたが、デジタル化以後はプリマのほうが元気があるような気がする。そして、モラビア地方がスロバキアに近いおかげか、スロバキアテレビの第一と第二も見られていたのである。スロバキアではたまに、いい意味でとんでもない番組が作られるので、たまにスロバキア語の練習もかねて見ることがあったのだが、デジタル化されてからは見られなくなってしまった。すこしだけ残念。
チェコテレビは、デジタル化されてから徐々にチャンネルを増やし、現在では五つになっている。最初に追加されたのが、ニュースを中心にしたチェコテレビ24である。24は、毎時0分からニュースを放送するので、24時間ニュースという意味なのだろう。ニュース以外も放送されることはあるが、大半は過去を振り返る歴史がテーマになった短い番組である。
つづいてスポーツ専門のチェコテレビ第四が誕生した。それまで第二で放送されることの多かったスポーツ中継が、ここで扱われることになり、中継そのものが増えたことは、スポーツ好きの私にはありがたかった。最近チェコテレビ・スポーツに名前を変えたのは、民放の真似のようで少し気に食わない。
一番新しく誕生したのが、午後八時までは子供向けのチェコテレビDで、八時からは演劇などの芸術関係を中心として放送するチェコテレビ・アートに変わるチャンネルである。Dはチェコ語で子供を表すdít?の頭文字をとったものであろう。ヨーロッパ内でももっとも成功した公共放送による子供向けチャンネルらしいのだが、それを声高に誇るには、外国産の子供番組の翻訳が多きに過ぎる印象である。アートのほうはコンサートや演劇、芸術映画などを積極的に放送しているようだが、あまり見たことがない。
デジタル化して迷走しているノバは、チャンネルの展開にもあまり見るものがない。本家のノバは、典型的な民放のチャンネルで、日本に比べれば独自制作のドラマが少なく、アメリカなどで人気のあったテレビドラマや映画の割合が高い。以前は民放ではほとんどなされていなかったドラマの制作に力を入れているのは評価できるのだが、見たいドラマがあるかと言われると、警察ドラマの「クリミナルカ・アンデル(アンデル署、もしくは犯罪捜査課アンデルとでも訳そうかなあ)」ぐらいしかないのだが。
ノバが最初に追加したチャンネルが映画専門のノバ・シネマで、ノバで放送したものを翌日に再放送するのにも使われている。ファンダ(ファンの俗語的表現)は、男性をターゲットにしたチャンネルで、スタートレックなどのドラマだけではなく、スポーツの放送も行われている。系列の有料チャンネルであるノバ・スポーツで生中継したものを、後日録画中継と言う形になることが多いのだが、ラグビーやハンドボールなどのマイナースポーツも放送してくれるのでありがたい。残りのスミーホフとテルカは、完全に再放送専用のチャンネルになっていて、古いドラマの再放送ならまだわかるのだが、十年以上も前のクイズ番組や、視聴者参加型のバラエティを再放送する意味はあるのだろうか。
プリマは現在全部で六つのチャンネルを展開しているが、本家プリマは、一時期プリマ・ファミリーと名前を変えていたことがあるように、家族全員で見られるようなチャンネルを目指しているようだ。プリマ・クールは、男性向けのチャンネルでドラマなども他と比べると過激な血が飛び散るようなものが多いし、自動車関係やサッカーの中継などもここで行われている。次のプリマ・ラブは、名前の通り恋愛要素の強いドラマが多く、推理ドラマでも主役が男女のペアになっているものが選ばれるようである。もちろん本家の再放送が翌日に流されることもある。
そして、デジタル化最大の収穫と言えるのがプリマ・ズームである。このチャンネルはドキュメンタリー専門のチャンネルで、チェコテレビならともかく、民放にこんなことができるとは全く思ってもいなかった。プリマ・ズームに触発されてチェコテレビの第二でもドキュメンタリーの放送が増えたのは、思わぬ収穫だったが、惜しむらくはチェコ人が大好きで頻繁に放送される戦争に関する、特に第二次世界大戦中の戦いやナチスに関する番組にはあまり興味が持てないことである。外国の番組の翻訳ばかりなのは残念だが、たまに日本のNHKの自然をテーマにした番組も放送されることがある。外国向けに発売されたものなので、日本語は聞けないのだけれども。
最近、加わったのが、プリマ・マックスと、プリマ・コメディセンターなのだが、前者は映画の放送が多く、後者はひたすらアメリカ産のアニメも含めたコメディドラマを放送しているようである。
デジタル化して地上波に参入したのがバランドフなのだが、かの有名なバランドフの映画撮影所の名前を冠しているので、結構期待していたのだが、現時点では期待外れである。チェコの映画が重点的に放映されるものだと思っていたのに、トルコ産のテレノベラなんて誰が見るのだろう。そして、バランドフ・シネマ、バランドフ・プルス、バランドフ・ムジカと次々にチャンネルを増やしたが、特に見るべきものはない。
それから衛星放送の有料音楽チャンネルであったオーチコが、三つのチャンネルで放送しているが、特に音楽好きというわけでもないので、チャンネルを合わせることはないし、それぞれどう違っているかもさっぱりわからない。また、民族音楽とポピュラー音楽の中間のような、キーボードなどの電子楽器も使って、演奏しながら歌を歌う人々が続々と登場するチャンネルもいくつかある。管楽器の楽団とか、弦楽器の楽団とかも出てくるのだが、一番印象に残っているのが、二台のキーボードを使っている、その名もヤマハ・ドゥオというグループなのでこんな書き方になってしまった。とにかくこんな番組を喜んで見ている人は、いるんだろうなあ。
残りのチャンネルの中で、多少なりとも意味を感じるのは、オロモウツ周辺のニュースを、延々と放送、再放送し続けているTVモラバと、チェコ各地の地元のミニ放送局が作ったニュースを、全国的に放送しているテレビ局だろうか。全国ニュースにはなりそうもない事故や事件があったときに、このチャンネルのニュースで確認するのだ。ただ、人員不足のためか、翌日回しになることが多いのが残念である。
それから、最近放送が始まったムニャムTVという料理番組をひたすら流しているチャンネルは、他に何も見るものがなくて、頼みの綱のプリマズームも戦争番組をやっているときに、このチャンネルに合わせて、放置しておくことが多い。テレビを頻繁にオンオフしたくないので、次に見たい番組へのつなぎとして貴重な存在なのである。このチャンネルに関係すると思われるのが、まだ放送の始まっていないムニャウTVで、予告編のように猫が三匹歩いている映像が流れているので、猫ばかり出てくるチャンネルになるのかもしれない。
最後に、キリスト教系のチャンネル、ノエにも触れておこう。ろくに見たことはないのだが、名前からして「ノアの箱舟」を意識しているようなので、現代社会の情報の洪水におぼれようとしている人を救おうとしているのかもしれない。ただ一応は公共の電波が一宗教の主催するチャンネルに提供されるのはどうなのだろうか。日本だと仏教とか神道関係のテレビ局が全国放送を始めたら、政教分離の原則に反すると言い出す人が出てくるに違いない。一体に、こういう原則は日本のほうが厳密に守っているような気がしてならない。
このテーマならすらっと書けて、すんなり終われると思ったのだが、思いのほか長くなってしまった。チャンネルの数が多すぎるのがいけないのだ。
1月26日18時
テレビの話だから、DVDでもと思ったら、意外に出てこなかった。シュバンクマイエルは、あんまりテレビでは放送されないのだけど、商品名についている解説に納得のいかなかった「ポペルカ」は使いたくなかったので。1月27日追記。
2016年01月27日
佐藤史生追想(一月廿四日)
生まれて初めて、少女マンガと言うものを、少女マンガだと認識して読んだのは高校生のころのことである。高校二年生だったか、三年生だったか、隣の席に座っていた女の子がマンガを読みながらケタケタ笑っているのに対して、「高校生にもなって教室でマンガ読みながら笑うなよ」と言ってしまったのだ。虫の居所が悪かったのか、試験勉強で自習だった時間だったから邪魔になると思ったのか、自分もマンガを読む身でありながらそんなことを口走ったのだった。
「マンガとか言って馬鹿にしないでよ、これほんとに面白いんだから。読んだら絶対に笑うって。そうだ、特別に貸してやるから、うちで読んで来て。最後まで読んで一度も笑わなかったら謝るから」
とか何とか言われて押し付けられたのが、後にシベリアンハスキーブームを巻き起こすことになる『動物のお医者さん』だった。単行本ではなく、雑誌と同じ版型紙質で連載をそのまままとめただけの総集編みたいなものだったと思う。マンガ自体は好きだったから、断りもせず受け取ったのだが、うちに帰って抱腹絶倒することになるとは思ってもみなかった。そして翌日返却するときには、こちらがごめんと頭を下げる羽目に陥ってしまった。
少女マンガを読んだとはいえ、すぐさま自分で買うように、買えるようになったわけではなかった。大学に入ってから本屋で『動物のお医者さん』のコミックスを発見して欲しいと思ったときにも、自分では買えないので、研究会の女性の先輩にお願いをして買ってきてもらったのだ。
佐藤史生の存在を教えてくれたのは、高校時代の先輩だった。同じ田舎から東京に出て、大学は違ったけれども、何かの機会に再会して本の貸し借りをするようになったのだ。この先輩には、面白い漫画を、漫画だけでなく小説もジャンルを問わず教えてもらった。その中で我が読書傾向を変えることになったのが、翻訳ファンタジーに目を向けるきっかけとなった『ベルガリアード物語』と、少女マンガ(もしくはそのレーベルから出ている作品)を読むことに対する抵抗を取り去ってくれた佐藤史生と萩尾望都の作品であった。
最初に借りた『夢見る惑星』は、題名からして魅力的な、ジャンルで言えばファンタジーと言うことになろうか。超古代文明、人類恐竜共存説、人類地球外起源説などというSFファンにはたまらない要素が詰め込まれているだけでなく、王権と神権の対立、神学と科学の対立など歴史、社会学的な視点、それに大陸移動説まで取り込んで、壮大な物語が展開する。冒頭の行方不明になっていた王女の遺児である主人公のイリスが登場するところから、神殿のある谷が爆発を起こして大地震が起こりその上をイリスたちを載せた竜が飛び去るところまで、綿密に組み立てられた物語は一度読み始めたら最後まで読み通すしかない。同時に、ぎりぎりのところで破綻を免れているような危うさがあって、その危うさがもたらす緊迫感が、物語を魅力的にしている。
次に読んだ作品は『ワン・ゼロ』で、こちらはいわゆるサイバーパンク物になるのだろうか。コンピューターとネットワークが重要な役割を果たすのだが、インターネット以前のパソコン通信の時代にこのような作品が生まれたことは特筆すべきであろう。コンピューターのような最新の電子機器に、インド神話、民俗学などの土俗的なものを組み合わせて展開する物語は結構難解で、件の先輩は雑誌連載中に読んだときにはよくわからないと思ったと言っていた。コンピューターで神を捜すなどという一見矛盾したプロジェクトが出てくるのは、冷戦終結前後のそれまでの世界が軋みを立てて揺らいでいた時代の反映なのかもしれない。『神と物理学』なんていう相容れないものを取り合わせた本も出ていたし。
大学の文学の授業で日本神話が取り上げられることが多かったため、神話学に関する本は、大量に読んでいたが、日本神話関係だけでなく、フレーザーの『金枝篇』やエリアーデの著作などにまで手を伸ばしたのは『ワン・ゼロ』以下の作品の影響である。あれこれ迷走することになったが、おかげで国史国文の人間にしては幅広い知識を得ることができたのだから、文句は言うまい。
いつどこで読んだものだったかは覚えていないがSF作家の高千穂遙が、日本のSFに圧倒的に欠けているのは、ファンタジーとサイバーパンクで、これらのジャンルはマンガによって補完されたのだというようなことを述べていた。ならば、この『夢見る惑星』『ワン・ゼロ』こそが、その極北だと言えるであろう。
その他の短編で、繰り返し世界背景として描写される宇宙進出後の人類の姿にも震撼させられた。各惑星に殖民した人類は共時性を喪失して、惑星単位で独自の発展をたどった結果、それぞれにどこかいびつな社会が誕生する。そしてそれぞれの世界をつなぐのが、複合船と呼ばれる巨大な宇宙船なのだが、その宇宙船内部にもまた、ときにおぞましさすら感じさせる社会が誕生しているという世界観は、一般のスペースオペラのワープなどの特別な方法で、強引に共時性を確保した宇宙観よりも、はるかに生々しく感じられた。スペースオペラはスペースオペラで大好きではあるのだが、佐藤史生的な未来の宇宙像のほうが、人類学的にありえそうな気がして、同時にそのおぞましさに寒気がしたのである。
惜しむらくは、作者が寡作であったため、全体像が明かされないままに終わってしまったことだ。断片的に書きつがれた短編から、どのようにして、その社会が形成されたのかを完全に読み取ることはできないが、想像しながら暗澹たる気分になることもあった。
佐藤史生の単行本は、カバーがそれほど少女マンガ少女マンガしていなかったので、書店で購入するのにもほとんど抵抗がなく、買いあさっているうちに、他の少女マンガも何の抵抗もなく買えるようになっているのに気が付いて愕然としたことがある。いや、愕然とすべきは、この文章の終わらせ方がわからないことだ。いやはや、思い入れのある作家についての文章というのはうまく行かないものだ。
1月25日21時30分
この作品にふれるのを忘れていたとは、われながら不覚である。死ぬほど探し回ってやっと見つけた記憶があるのだが、以前よりも過去の作品が手に入れやすくなっているのはいいことなのだろうが、日本にいないのが恨めしくなる。日本にいたら金欠になるのが関の山ではあるけど。1月26日追記。
2016年01月26日
反省其の二(一月廿三日)
この試みも二旬を越え、三旬目に突入した。これだけ毎日書き続けられるのは、日記も含めて過去最長かもしれない。小学校の夏休みの宿題の大して長く書く必要のなかった日記も、毎日書くなんてことはしなかったし、中学校のころの部活の練習レポートは結構真面目に毎日書いた記憶があるが、あれは文章ではなかった。これまでも、気まぐれに思いつきで文章を書き始めることは、ままあったが、大抵は続きはまたいずれで、一応のけりすらもつけずに放り出してしまい、存在を忘れてしまうことが多かった。それが、毎日新しい文章を書き始め、二十四時間以内に一応けりをつけられているのだから、文章の質はともかく、ブログさまさまである。
問題点としては、必要以上に時間をかけていることだろうか。実際に書いている時間はそれほど長くはなくても、毎日何を書くのか、どう書くのか考えている時間が長くて、ほかの事に振り向けるべき時間を費やしているような気がしていけない。先にテーマを書き出しておいて、ヨーイドンで書き始めるようなスタイルに持っていこうかと考えているのだが……。
文章が長くなるのは、原因の一端が見えてきた。A4一枚あたりの分量を把握していないのだ。ワード上で、書き始めてつらつら書いて、一ページ目の終わりが見えてきた辺りから、文章をとじにかかるので、何だかんだで二ページ目の半ばぐらいまでは行ってしまう。売り物じゃないし多少冗長でもいいことにしよう。
ブログの使い方は、結構上達した、と思いたい。前回書いたそこはかとない罪悪感も薄れてきて、真っ白すぎるページを何とかすべく、バナーとやらをはってみることができたのだ。最初は、ブログの申し込みのときに、いっしょに申し込んだらしい奴の中から、控えめなデザインのものを選んで記事にはってみた。それぞれ一回ずつは使ったので、義理は果たしたことになるだろう。
以前はいずれは写真もなどと書いたが、掲載するべき写真など存在せず(昔撮った写真はあるはずなのだがどこに保存したものやら。チェコ語のボルデラーシュ(=片付けのできない人間)なのである)、ブログのために写真を撮りに出かけるのも本末転倒なので、サイドバーという部分にバナーを貼り付けることにする。まずはブログを使わせてもらっているA8.netから、ファンブログの広告を。大きさとか位置とかいろいろ変えて、現在の位置に定着した。一番上には、こういう偽善は大好きなので、A8.netのチャリティーの広告を置く。なんか物足りないので、書籍関係のサイトの中から、可能なら使いたいと思っていたものをピックアップして、適当に配置。ネットオフだけ小さいのは、このデザインの適切な大きさのものがなかったからに過ぎない。ところで、ロゴからこれってブックオフ関係だと思ったのだが、どうなのだろうか。
そして、楽天で直接商品のバナーがはれるというのを試すために、「チェコ」のつく本を検索してみたら、思いのほかたくさん出てきて感激してしまった。昔はチェコ関係の本を買うためにものすごく苦労したのに……。とまれ、最近、とは言っても半年ほど前だが、読んだばかりの『チェコ語の隙間』にちょっとコメントをつけて載せてみる。やばい、なんか楽しい。
ビールの記事を書いたときには、チェコのビールを探した。ピルスナー・ウルクエルがあるのは当然として、スタロプラメンが出てきたのには驚いた。昔はなかったのだが、今では、ベルギーのステラアルトワを作っている会社の子会社になっているはずだから、その線だろうか。他にはブドバルはあったが、昔は日本で買えていたガンブリヌスが出てこなかった。輸入が停止されたのだろうか、それとも楽天にないだけだろうか。それからプラガとかいう見たことも聞いたこともないビールが出てきた。名前から考えるとプラハで輸出用に作っているものかもしれない。とするとスタロプラメンの製品と言うことになるのかな(スタロプラメンの製品リストには載っていないので違うようである。1月24日追記)。
楽天以外でも、商品の画像を直接載せられるみたいなので、復刊ドットコムで挑戦。佐藤史生の本が豪華版で復刊されていることを知って、『夢見る惑星』を復刊ドットコムのバナーの下に設置してみた。hontoの下にも、eBookJapanの下にも、何か本の画像を載せてみよう。選ぶのが大変で、時間がかかりそうなのが難点だけれども、こういうのが楽しくなってきたのは、ブログに慣れた証拠だと思って喜ぶことにする。
ただ、いまだにうまく行かないのが、ブログのデザインで、ヘッダーとかフッターに変更を加えることである。バナーか本の表紙の画像を載せて、ブログタイトルの横の白い空間にアクセントをつけたいのだけど、サイドバー以外のデザインの編集ができない。ヘルプにはできるようなことが書いてあるのに、どうやっても選択できないのだ。
とりあえず、ブログの型は大体出来上がったので、しばらくは毎日記事の下に本かビールの写真を載せて、短いコメントを書くことにする。なんだか本屋さんの店員になって、宣伝文句を書いているような気分で楽しい。問題は、チェコから離れるか、チェコにとどまるかである。
1月24日0時30分
このブログを選んでよかったという感謝の気持ちを込めて、改めて大きさの違う広告を。もっとブログがメインになっている広告バナーが欲しいなあ。1月25日追記。
2016年01月25日
寒かりし冬の記憶(一月廿二日)
年の初めにあんな文章を書いたからか、年明けから寒くなって気温が氷点下に下がるようになった。そして今朝は、オロモウツのホルニー広場に設置されたウェブカメラのページの表示によれば、マイナス十度以下まで下がったらしい。うわあ寒そうと思ったのだが、外に出てみたらそれほどでもなかった。
いや、寒いのは寒いのである。今年一番どころか、ここ二、三年では一番の冷え込みではあるので、いやになるぐらい寒くはあるのだ。でも、こちらに来たばかりの十五年ほど前のことを考えると、大したことないと言うか、普通なのである。あのころは毎年真冬にはずっと雪が積もっており、気温も最高気温がプラスにならないという日が続くのが普通だったのだ。最高と最低の差があまり大きくなく、マイナス十度を越えることは滅多になかったけれども。そんな日にはマイナス五度までなら日本で経験があるから何とか耐えられるけど、マイナス十度は耐えられないなどとわめいていたのだから。
考えるだにおぞましいのだが、そんな冬に鍛えられて、寒さへの耐性がついてしまったのだろうか。「自称南国」の地域で育った人間としては、最近の軟弱な冬を物足りなく思ったりしてしまったのだとしたら、慙愧の念に耐えない。寒さだの雪だのいうものは、須く敵たるべきであるのだ。
それはともかく、こちらに来たばかりのころに、当時オロモウツに住んでいた日本人の女性が、冬場にプールに行くと、上がった後にドライヤーでちゃんと乾かしたつもりでも水分が残っていて、外に出ると髪の毛がシャリシャリいって気持ちが悪いと言っていたのを思い出した。
それに真冬になるとレストランや、喫茶店の入り口を入ったところに、分厚いカーテンで三方を囲まれた小部屋みたいなのが作られることが多かった。ドアを開けても、寒気が直接中に入らないように、暖かい空気が外に逃げていかないように、工夫したものだと師匠は言っていたが、最近はトンと見かけなくなった。来たばかりのころは、冬場に買い物に行くと店内の熱気で汗をかき、外に出るとそれが冷え込んで風邪を引くなんてこともあった。クーラーがききすぎた日本の夏と同じで、内外の気温差に体が対応しきれなかったのだ。
私がこちらに来てからの十五年ほどで一番厳しかった冬は、十年ほど前の冬だった。あの年は絶望的なまでに冬が長かったし、気温もやめてくれと言いたくなるほど下がった。知り合いの日系企業の社長は、朝の出勤時に自動車の外気温の表示がマイナス二十五度になっているのを見て、思わず写真を撮って、知り合いに片っ端からメールで送りつけたと言っていたが、その気持ちはものすごくよくわかった。
寒さが痛いと言うのは、マイナス五度でも十度でも感じられることだが、トラムの停留所まで歩いただけで筋肉痛と言うのは、この年が初めてだった。恐ろしく気温が下がった日の翌日、朝起きると手足の筋肉が、運動をした翌日のように痛かったのだ。前日した運動と呼べるものは、自宅から職場まで往復する際に、トラムの停留所まで歩いただけだった。
気がめいったのが、部屋の中から太陽が出ているのを確認して、少し暖かくなるという期待と共に外に出ると、逆に恐ろしく寒い日が続いたことだ。太陽は黄色く見えるものの、その光に熱はなく、晴れているのに空は青いというよりは水色に近い白色で、何かの悪い夢を見ているような気がした。どこかの本で読んだ「エントロピーの消滅した世界」とか、1980年代に話題を集めた核戦争後の地球のいわゆる「核の冬」というのはこんな感じなのだろうかという怖れが、唐突に頭に浮かんだのを思い出す。
当時は毎週一度朝早くおきて、オストラバに通訳のアルバイトに出かけていたのだが、寒さのせいでものすごく遅刻したことがある。ちょうどいい時間に直通の電車がなく、プシェロフの駅で乗り換えのためにブルノから来てオストラバに行く電車を待っていたのだが、いつまでたっても来そうにない。アナウンスで電車が遅れている理由を説明していたのだが、最初は理解できなかった。何度も繰り返し聞いて内容はわかったのだが、やはり理解できなかった。寒さでレールが破裂したってどういうことなのだろう。チェコの道路や鉄道は、涼しい夏より、厳しい冬に耐えられるように設定されているはずである。いや、その前に、レールって寒さなんかで破裂するものなのだろうか。「昨日は線路が盗まれてオロモウツに来られなかった(実話)」という友人の言い訳を聞いた時と並ぶ衝撃の事実だった。
あの冬を乗り切って以来、認めたくはないのだが、寒さがそんなにこたえなくなったような気はする。それでもやはり寒さは敵である。そしてこちらが寒さに震えているのに、嫌がらせのように半袖のTシャツを着ているチェコ人、あまつさえ半ズボン、サンダルで闊歩しているチェコ人もまた敵なのである。
1月22日23時30分
『太陽の世界』発見。いくら古本屋を回っても発見できなかった18巻だけでも入手したいものだ。そのためにはkoboが必要なのだろうか。1月24日追記。
価格: 7,452円
(2016/1/25 06:41時点)
2016年01月24日
森雅裕の新刊が読みたい(一月廿一日)
2003年から2005年ぐらいにかけてだっただろうか、復刊ドットコムに、日参とは行かないが、頻繁に通っていた時期がある。国外からできるのかどうか不明だったので、会員登録も投票もしなかったのだが、ある作家の復刊リクエストページに復刊決定の文字が出るのを今か今かと待っていたのだ。しかしたまに交渉の進展が追加されることあっても、実際に復刊されることはなく、やがて復刊ドットコムの存在も忘れてしまっていた。
その作家が、表題の森雅裕である。1980年代の後半から90年代の初めにかけて、推理小説を熱心に読んでいた人以外は知らない名前であろう。今回ブログを始めて、復刊ドットコムがリストにあるのを見て、久しぶりに森雅裕のリクエストページを覗いてみたら、乱歩賞受賞作の『モーツァルトは子守唄を歌わない』と続編の短編集『ベートーベンな憂鬱症』の二冊が復刊されていた。
その瞬間、心の底から欲しいと思ったのだが、よくよく考えてみれば『モーツァルトは子守唄を歌わない』は、講談社から出たハードカバーの親本も、文庫本も、そして後にワニの本から出た森雅裕幻コレクションバージョンも持っているのだ。『ベートーベンな憂鬱症』だって最低でもハードカバーは持っているのだ(文庫があったかどうかは記憶が……)。無理して購入に踏み切る必要はない。こういうときに、国外に住んでいてよかったと思う。日本に住んでいたら衝動的に購入してしまっていたに違いない。
『モーツァルトは子守唄を歌わない』は、両親が乱歩賞や、直木賞などの受賞作品が面白そうだったら買うという人だったおかげで、高校生のころ出版直後に読むことができた。それまでは特にベートーベンに思い入れがあったわけではないが、以後ベートーベンは我が心のよりどころとなる。いや、クラシック音楽を聴き始めたこと自体がこの作品の影響なのである。しかし、高校生の小遣いでそうそう本が買えるわけもなく、田舎のことで本屋の品揃えも大したものはなく、せいぜいノベルズ版で安かった『感傷戦士』と『漂泊戦士』が買えたにとどまる。
本格的な森雅裕との出会いは大学に入って上京してからのことである。アルバイトも始めて多少自由に使えるお金ができて、高校時代よりもはるかに本が買いやすくなっていたところに、神保町の書泉グランテだったか、東京堂書店だったか、三省堂かもしれないけれども、で森雅裕のコーナーを発見してしまったのである。とまれ、『椿姫を見ませんか』『マン島物語』『歩くと星がこわれる』などの作品を買いあさって読み耽り、立派な森雅裕フリークになっていたのだった。それにしても当時はいい時代だった。何せ毎年一冊は新作が読めたのだから。
ただ、角川ノベルズから出ていた、乱歩賞受賞前のデビュー作『画狂人ラプソディ』と乱歩賞後に刊行された『サーキットメモリー』の二作だけは、絶版で入手することができず、それが我が悪癖の一つであった古本屋めぐりを始める一因となるのである。森雅裕関係のもう一つの悪癖は、誰彼かまわず森雅裕の作品を薦めて回ることで、三つ目は『歩くと星がこわれる』をプレゼントにすることだった。
森雅裕の作品のどこにあんなに惹かれたのだろうか。鮎村尋深や森泉音彦に代表される主人公たちの造形と言ってしまえば簡単なのだが、具体的にはなかなか言葉にしづらい。高い専門性を供えつつ、周囲に迎合することなく、孤立も孤独も恐れずに自らの意思(意地のほうがいいかな)を貫き通そうとする姿、そのために最後の最後まで諦めずにあがく姿に、理想の自分を投影していたのかもれない。周囲に、状況に押し流されそうになって、自分自身を見失いかけていた私にとって、森雅裕の作品を読むことは、一種の精神安定剤のようなもので、これがあったから周囲の人間関係を保っていられたのだ。森雅裕の新刊が読めなくなったから、全てを投げ打ってチェコに来たと言うわけではないのだが、ある意味で我が人生を変えてくれた作家なのである。
作風でいえば、音楽、美術、刀剣など専門知識の作品への生かし方は見事だった。クリムトの絵を最初に見たのもこの人の作品だったかもしれない。おかげでウィーンの分離派会館にベートーベン・フリーズを見に行くことになってしまった。
かなりあからさまに実在の歌手をモデルにした小説も書いているが、よく許可が出たなあと思ってしまう。私の場合にはモデルになった人物の名前ぐらいしか知らないので、他の小説と同じようにしか読めず、イメージが壊れるも何もないのだが、熱狂的なファンとか事務所とかからクレームとかありそうである。
これまでに二度、所有する本をすべて処分して、アパートを引き払って国外に出たことがあるけれども、森雅裕の本だけは、処分することができず、布教の結果森雅裕読者になっていた友人にあずけることにしたのである。今回チェコに来るに当たっても、当然事前に送りつけた書物の山の中に全冊いれてあったのだが、『平成兜割り』だけは、郵便事故なのか何なのか行方不明になってしまった。他のと同じように何冊か確保して送るべきだったと思っても後の祭りなのである。
数年前に、大学時代の友人と久しぶりに連絡が取れて、ソニーのリーダーを買ってもらったりしたときに、友人が日本からゆうパック一箱分本を送ってくれたのだが、その中にファン達の活動で予約出版されたという『トスカのキス』と『雙』が入っていたときには、本当に嬉しかった。あれからかなり時間も経つころだし、そろそろどこかの出版社が、出版社が駄目でもどこかの誰かが、新作を出版してくれないものだろうか。そんな贅沢が無理なら、私家版で出されたという鮎村尋深シリーズ第四弾の『愛の妙薬もう少し』と、どこぞの大学の推理研の掲示版でテキストで流されたといううわさの『雪の炎』の発売でもいいので、実現してほしいものだ。そうすればまた友人に連絡を取る理由ができるのだけれど。
1月22日0時30分
思い入れが強すぎて言葉がなかなか出てこなくて苦労した。苦労したわりには、森雅裕のことを知らない人にも読める文章にはなっていないような気がして残念。森作品の魅力は読んでみないとわからないし、今の時代に合っているかどうかもわからない。しかし私にとっては永遠の価値のあるものなのだ。なお文中敬称は省略した。お目にかかったこともないのに「森雅裕さん」と書くのも、なれなれしい気がして、できなかったのだ。1月23日追記。
価格: 1,620円
(2016/1/24 04:57時点)
こんな本が出版されているとは知らなかった。いや、どこかでこれについて記事を読んだことがあるような気もする。欲しくはあるけれども、小説ではないので友人の手を煩わす気にはなれなかったのかも。1月23日追記。
2016年01月23日
ブドヴァルの憂鬱(一月二十日)
ピルスナー・ウルクエルに対抗できるチェコのビールと言えば、やはりチェスケー・ブデヨヴィツェのブドヴァルをおいて、他にはないだろう。国内市場のシェアにおいてはベルギー企業の傘下に入ったプラハのスミーホフに本社のあるスタロプラメンのほうが大きいかもしれないが、ブランドイメージではブドヴァルのほうが上である。ブドヴァルは共産主義の時代には外貨獲得の貴重な手段として生産されたビールのほとんどが、すぐ近くのオーストリアなど西ヨーロッパに輸出されていたという経緯があるため、現在でも輸出の割合がかなり高くなっているはずである。
このブドヴァルはチェコのビール会社の中で唯一民営化の対象にならず、いまだに国営企業であり続けている。その理由としては、アメリカのバドワイザーとの間で延々と続いている商標争いが考えられる。民営化なんかしたら買収されてそれでおしまいである。
あれは高校時代のことだったので、1980年代の後半のことだが、新聞でバドワイザーの起源はチェコスロバキアにあったとかいう記事を読んだことがある。具体的にどんなことが書かれていたかは覚えていないのだが、今言えるのは、起源とは言っても、ビールのではなく、名称の起源に過ぎないということである。
チェスケー・ブデヨヴィツェのドイツ名は、ブドヴァイスである。プルゼニュのドイツ名、ピルゼンから、ピルズネル(=ピルスナー)というビールの名称が生まれたように、ブドヴァイスからも、ブドヴァイスで造られたビールと言う意味でブドヴァイゼルという名称が生まれた。このブドヴァイゼルを英語読みしたのがバドワイザーなのである。
ことの発端は、十九世紀半ばに、ブデヨヴィツェで生産されたブドヴァイゼルがヨーロッパで人気があることに目をつけたドイツ系のアメリカ人が、自社の製品にバドワイザーという名前をつけてしまったことである。それだけならアメリカ側がパクったという話で終わるのだが、問題は、この時点でブドヴァイゼルを生産していた醸造所は、現在のブドヴァルにつながるものではないという点にある。現在のブドヴァルの前身に当たる会社がブドヴァイゼルの名で生産を始めたのは、バドワイザーよりも遅いのである。そして本来ブドヴァイゼルを生産していた会社の後身は、共産主義の時代にブドヴァイゼルの名称で販売する権利を奪われており、現在はサムソンという名前のビールを生産している。
だから、ブドヴァルとバドワイザーの裁判では、簡単にまとめてしまうと、バドワイザー側は、バドワイザーのほうが古くからこの商標を使っていることを根拠として、ブドヴァル側はブドバイゼル=バドワイザーというのは、ブデヨヴィツェで生産されたビールを意味する地名起源商標だからという理由で、それぞれ自分たちに使用権があると主張しているのである。ブドバイゼル=バドワイザーや、Budという商標を巡って、世界中のあちこちで繰り広げられている裁判では、勝ったり負けたり引き分けたり、混沌とした状況が続いているのだが、一般にアメリカやアジアなどの地域ではバドワイザーが強く、ヨーロッパではブドヴァル側が強いという傾向にある。ただ十年ぐらい前に、イギリスでブドヴァル側に不利な判決が出たというニュースがあって、この記事は、そのときに読んだり見たりした記憶を基に書いているのである。
さて、ブドヴァル側のブドヴァイゼルが地名起源の商標であるという主張は、諸刃の剣であって、今度は国内でサムソン側から、自分たちにもブドヴァイゼルの名前を使わせろという訴えを起こされることになった。実際2000年代初頭の一時期、サムソンの会社が出した緑のブドヴァイゼルが販売されていたこともある(ブドヴァルは赤)。こちらに対しては、商標の権利の侵害だという主張をしていたはずである。
そして、昨年末にSABミラーと、バドワイザーを所有するインベブが合併するというニュースが流れたが、つまりはピルスナー・ウルクエルがバドワイザー側に立つということで、チェコに住むビール好きにとってはあまり楽しい話ではない。バドワイザーがサムソンを買収して、歴史的な経緯を蒸し返して……、などと考えてしまうのである。
ブデヨヴィツェのブドヴァルは、長らくチェコのアイスホッケー代表のスポンサーを務めており、それに絡めてボブとデイヴという二人のリヴァプールファンのイギリス人を起用した秀逸なCMシリーズでも楽しませてくれたので、がんばって欲しいのだけど。改めて考えると、テレビコマーシャルの素晴らしさでもブドヴァルとピルスナー・ウルクエルは、一頭地を抜けていたのだ。最近はどちらもかつてほどの傑作は出ていないけれども、またいい意味でとんでもないコマーシャルが見たいものである。
途中で着地点が見えなくなって迷走してこんな結末になってしまった。基本的にVの音は、「バブブベボ」で表記するのだが、この記事に関しては例外的に「ヴァヴィヴヴェヴォ」を採用した。
1月21日11時30分
あるかなと思ってさがしたら、やっぱりあった。でも「バドバー」という表記はやめてほしい。「ブデヨヴィツキー・ブドヴァル」と書いてくれるお店があれば、日本にいたら買うのに。1月22日追記。
2016年01月22日
クジム事件、あるいは不思議の国チェコ(一月十九日)
このブルノから少し北にある小さな町クジムで起こった驚愕の怪事件の全貌は解明されていないし、解明されたとしても被害者の人権に対する配慮から全てが公開されることはないだろう。しかし、現在までにニュースなどの報道から私が理解した範囲だけでも、とんでもない事件なのである。
発端は、よくある母親による子供の虐待に過ぎないように見えた。ニュースによれば、児童虐待の容疑で、母親が警察に逮捕され、十歳未満だった二人の息子と、なぜか一緒に住んでいた十代半ばの少女が、カンガルーと呼ばれる児童養護施設に保護されたということだった。
警察がその家に踏み込んだ理由は、隣家で使っていた子供監視用の装置——幼児を子供部屋で寝かせている間に仕事をするために、カメラやマイクなどがついた小さな機械を子供部屋に置き、仕事部屋の小さなモニターで監視できるといううものらしい——に、なぜか子供たちが虐待されているさまが映り、それを見た家人が警察に通報し、警察で調べたところたまたま両家で同じ装置を使っており、たまたま電波が混線して子供たちが虐待される様子が隣家のモニターに映し出されたものだろうと判断したからだと言うことだった。しかし、そんなに都合よくたまたまが重なるものだろうか。件の装置が一軒家で使われることを想定していることを考えると隣の家まで電波が飛んでいくと言うのもなんだか変である。
後から考えると、実際は後に出てくるこの母親がのめりこんでいた新興宗教的なセクトの内偵を進めていた警察が、児童虐待が行われていることを察知し、踏み込むための口実として隣家の人を利用したのではないかとも思わるのである。しかし、とにかくこの時点では、どこにでもいくらでも転がっている児童虐待事件がたまたまニュースに取り上げられたのだろうとしか思っていなかった。
子供たちと少女が保護された当日の夜だったか、翌日の夜だったか、施設から少女が姿を消したというニュースが飛び込んできた。この時点では、十代の少女はアニチカ(アナの指小形)と呼ばれており、子供たちの祖母がどこからか引き取って一緒に住んでいたのだが、祖母が亡くなった後、子供たちの家に一緒に住むようになったのだと説明されていた。
しかしである。その後、まず、このアニチカが実はアニチカではなくバルボラという名前で、十代の少女ではなく二十代半ばの女性であることが判明する。そして子供たちの母親の姉が、このバルボラの名前でブルノの大学に通っていたというニュースを聞いたときには、何かの冗談だろうと思った。身分証明書の携帯が義務付けられており、出生番号と訳せる日本でも始まったマイナンバーのような番号が使われているチェコで身分を偽るのはかなり難しい。他人の名前で国立の大学に入学できるだなんて、冗談でなければ、よほどの大物が黒幕として事件の裏側にいるに違いない。そもそも他人の名前で大学に通おうという発想がいかれているけれども。
そして、母親とその姉がある新興宗教のセクトに関わっていることがわかったときには、創設者だというかなり有名なブルノの俳優(名前はプライバシーの保護のためか報道されなかったはずである)が、出てきて説明をするのではないかともいわれたが、この人物は結局最後まで表に出てこなかった。しかし、母親とその姉を含めたセクトぐるみで子供たちを虐待していたのではないかという疑いは強まっていった。
アニチカ=バルボラが国外に逃走したのではないかという話はわりと早い段階から出ており、実際にデンマークでチェコ大使館に連絡を取って、すぐにまた行方をくらましたというニュースもあった。その後、逃走から半年ぐらいたったころだろうか、ノルウェーからとんでもないニュースが飛び込んできた。アニチカが小学校に通っていたというのだ。しかも男の子として通っていたというのだ。女は化けるとか何とか言うけれども、これはそんなレベルの話じゃない。
子供の意に反してでも、問題のあるとみなした親からは子供を引き離して保護する過激なノルウェーの社会保障制度だが、意外と間抜けなのかもしれない。いや、ここでも裏側にいる黒幕の持つ力を意識するべきなのだろうか。
チェコに戻ってきたアニチカ=バルボラは、最初の事件のときに公表された写真ではやせたはかなげな少女だったのに、ふっくらとした女性になっていた。これで小学生の男として学校に通うのは無理があると思ったのだが、着替えが必要な体育の授業などは病気と称して見学することでごまかしたのだという。うーん。
とまれ、彼女の証言で、児童虐待の実態が明るみに出、予想通りセクトぐるみの虐待であることが明らかになった。最初は単なる被害者だとみなされていたアニチカ=バルボラも、強制されてのことかもしれないが、虐待に加わっていたらしい。その虐待の実態は、口にするのもおぞましいものがあり(具体的に書きたくない)、普通なら母親が自ら生んだ子供たちにできるようなことではなかった。
セクトのメンバーで虐待の容疑で逮捕され裁判を受けた人たちはそれほど数が多かったわけではないが、母親姉妹以外は、みな見た目も立派でそれなりの地位についている男性だった。裁判では一様に容疑を否定していたため、セクトの実態も大して明らかにならないままに終わってしまった。
恐らく今後新たな事実が出てきたとしても、子供たちの人権を考えて、ニュースなどで報道されることはないだろう。人権に対する配慮と言えば、この事件の主役の一人のアニチカ=バルボラも、名前の最初の文字が、それぞれA、Bで始まることを考えると、最初から仮名での報道だったのかもしれない。そうだとすると、チェコの警察とメディアの仕事には侮れないものがあるということになる。
1月20日0時30分
記事には関係ないけど、この本には、オロモウツがちょっとだけ登場する。1月21日追記。
価格: 2,484円
(2016/1/22 05:25時点)
タグ: 犯罪