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2020年11月16日
森雅裕『北斎あやし絵帖』(十一月十三日)
森雅裕が集英社から1998年に刊行した時代小説である。前年の1997年は、作家デビューした1985年以来、初めて一冊も新作が刊行されなかった年だっただけに、前作の『会津斬鉄風』からほぼ一年半の間をおいての刊行を喜んだ、いや、ホッとしたのを覚えている。この頃は、すでに森雅裕が出版業界で置かれていた状況を知っていたから、作家として継続していけるのか心配していたのである。97年には、幻コレクションが出ているから、もちろん買ったけど、新作は読めなかったし。
この作品は、実質的なデビュー作の『画狂人ラプソディ』と同様、葛飾北斎と写楽の謎がテーマとなっているが、現在から写楽の謎を解くのではなく、北斎自身が登場して写楽の謎に取り組む、というよりは取り組まされるお話。謎解きの過程で、幕閣の勢力争いに巻き込まれていったりもするのだけどさ。
主人公である北斎のところを、あざみという名の若い娘が尋ねてくるところから話は始まる。歌舞伎の道具方で働いていて、幼い頃の記憶にあるピアノを(本文中ではピアノではなくて洋禁と書かれることが多いけど、ピアノ、もしくはその前身だと理解した)、作ろうとしているのだが、北斎が持っている図譜か絵帖にピアノの絵があるという話を聞いて見せてもらいにきたのである。
この二人に、千葉周作を加えた三人が、謎解きに取り組まされることになる。それに加えて歌舞伎の市川団十郎、戯作者の滝沢馬琴、文筆を捨てた大田南畝、老中を解任されてなお幕閣に影響力を有する松平定信、権勢欲の塊の水野忠邦などが次々に登場し、定信の前の権力者である田沼意次の残党と定信派の権力争いとか、田沼時代に起こった阿波藩のお家騒動だとか、平賀源内の謎だとか、話をややこしくする要素には欠かない。しかも登場人物たちがそれぞれの都合で北斎たちに、誤った情報や、不完全な情報をあたえて、行動を制御しようとするから、さらにややこしくなる。文章は、一部の気になる点を除けば、森雅裕なので、読みやすく、さらっと読めてしまうのだが、最初に読んだときには、自分が本当に理解できているのか不安になったのを覚えている。
上に書いた一部の気になる点というのは、主役の一人のあざみの台詞の中に、ところどころ不自然にカタカナが使われているところがあって、著者本人には特徴的な喋り方をそれで表現する意図があったのだろうが、その特徴的な喋り方がうまく想定できなくて、むしろ読みにくさを感じさせた。この小説に関してはあまり言い読者ではなかったのだ。江戸期の版本の会話の書き方に準拠したなんて可能性もあるけど、江戸期の文章は平安時代の古文以上に読みにくいものである。
それはともかく、作品としてはよく出来ていると思う。江戸時代を舞台にした時代小説で、これよりもはるかに出来の悪い作品はいくらでもある。そんなのを出版するぐらいなら森雅裕の作品をと思ってしまうのはファンとしては仕方がない。ただ、作品の出来と商業的な成功、つまり売れ行きとは直接の関係はないのはわかってはいるけど。
ちょっと邪推をしておけば、『推理小説常習犯』で、時代小説を書いて見せたときの編集者の対応を恨み言混じりに書いているところがあったが、集英社の編集者のことだったのかもしれない。講談社のほうが可能性は高いか。まあ、森雅裕最後の商業出版としての小説を出してくれたのだから、集英社には感謝の言葉しかないのだけど、もう二、三作付き合ってくれてもよかったのにとは思う。熱心なファンが居て、森雅裕の本だというだけで、ある程度の売り上げは確保できたのだから、よほど欲かいて発行部数を増やしすぎない限り赤字にはなっていないと思うんだけどなあ。
写楽の正体は、『画狂人ラプソディ』とは違っているのだが、巻末に研究者の説を採用したものであることが記される。先に刊行された『推理小説常習犯』で、作品を書くに当たって最も都合のいい説だから採用するのであって、特にその説を信じているわけではないというようなことが記されていたのが、この本の写楽に関する説だったと記憶する。そんなこと広言するなよとは思ったけど。
とまれ、この作品は、やはり、デビュー作でも重要な役割を果たした北斎を主人公にして作品を書くことが目的だったのだろうなあ。森雅裕も北斎のように新たな作品を書き続けていてくれれば読者としては幸せだったのだけど、出してくれる出版社がないのが一番の問題である。
2020年11月14日16時30分。
2020年01月08日
森雅裕『会津斬鉄風』(正月五日)
ほぼ半年振りの森雅裕である。残りは少ないのだけど、なかなか書き進められない。集英社刊行の本が本書を含めて三冊、私家版が二冊に、最高傑作にして失敗作でもあると評価している『歩くと星がこわれる』だから、六冊か。思い入れがありすぎだったり、足りなかったりで書きづらいのが残ってしまったという印象だけど、一冊を除いて古いほうから順番に書いてきたわけだから当然か。若いころに読んだ本の方が、読んだときの衝撃も大きかったし、読んだ回数も多く、当然、思い入れも大きいのである。
集英社は、森雅裕が小説を出版した最後の出版社ということになる。前から数えると、角川、講談社、中公、新潮、KKベストセラーズについで6社目だと思っていたら、本書の刊行の方が、KKベストセラーズの幻コレクションよりも早かった。あっちは古い本の再刊だったから、刊行も早かったイメージがあるのか。最後の『いつまでも折にふれて』も、私家版で一度出したものだったというし。
とまれ集英社から出版された最初の本である『会津斬鉄風』は、1996年に刊行された短編集である。短編でありながら前作の登場人物が、次の作品では主人公になるという形で連環している。森雅裕らしく凝った構成の作品である。ジャンルは、時代小説というべきなのかな、舞台は幕末の日本である。会津から始まる物語は、新撰組の活躍する京都を経て、最後の新撰組土方歳三の亡くなる函館で終わる。
一読しての感想は、好きなものを詰め込んだのねというもので、恐らく一番の目的は『マンハッタン英雄未満』で登場した土方歳三を描くことだったのだろうと思われる。序盤の二作に登場する刀工の兼定も、流星刀の作者として『マンハッタン英雄未満』に登場していた。『鐡のある風景』で、土方が形見として実家に送ったものと制作年紀の同じ兼定の刀を手に入れて、歳三のものと同じ拵えを作ったときのことが記されている。どちらも森雅裕にとっては思い入れのある人物なのだろう。
一体に、幕末好きの日本人の大半は、坂本龍馬ファンか、新撰組ファンということになるのだが、森雅裕は後者であるらしい。『蝶々夫人に赤い靴』でも龍馬と龍馬ファンの悪口を書いていたしなあ。個人的には中学時代の歴史の先生が龍馬ファンでうんざりさせられたことがあるし、新撰組ファンの同級生にも困らされたことがあるから、どっちも避けたいのだけど。
ただなあこの手のファンの信仰の出発点って大抵は司馬遼太郎の小説なんだよなあ。いいことなのか悪いことなのか。文学としての評価は知らないが、日本人の歴史観に影響を与えたという点では、司馬遼太郎は空前絶後の存在だったのだ。作品の終わらせ方があまり成功していなくて後味のよくないのが多いので、一番いいところで読むのをやめるようにしているのだけど、その見極めが難しい。
閑話休題。本書は森雅裕の作品としては、文庫化された最後の作品でもある。その文庫版に解説を書いていたのが、森雅裕の刀関係の師匠に当たる刀匠の大野義光氏。登場人物の名前の由来について楽屋落ち的な話まで披露されていて、なかなかいい解説だったと記憶する。音楽の世界を舞台にした作品では音楽家が解説を書いたのもあったからなあ、森雅裕が書評家というものを信用していなかった証拠なのかもしれない。書評に対するうらみつらみは『推理小説常習犯』にも書かれていたし。
推理小説やSFなどでデビューした作家が、時代小説や歴史小説に転向した事例は、たくさんある。光瀬龍のように時代小説の中にSFを持ち込んだり、半村良のように伝奇的な時代小説を書いたり、独特の世界を切り開いた作家もいれば、あまり特徴のない作品に終わった作家もいる。森雅裕はどうだろうと読み始める前は心配だった。
それは杞憂で、最後の作品の土方も含めて、森雅裕らしい主人公の設定で、森雅裕らしいややこしい話だとはいえる。どれも何らかの謎を解く話だから推理小説的でもある。ただ、いい意味での森雅裕らしさが弱いというか、森雅裕にしては穏当というか、『マンハッタン英雄未満』に比べるとあちこちに気を使って書いているような印象を受けてしまう。面白いという意味では十分に面白いのだけどね。下手に森雅裕らしさが前面に出すぎると、その出版社からの刊行が止まってしまうから、ファンとしても悩ましい限りである。
本書は森雅裕の作品としては久しぶりに文庫化もされたし、さらに二冊単行本を出版できているから、商業的にもある程度成功したのだろう。文庫本が出たときには集英社との関係は続いて行くと信じていたのだが……。
2020年1月5日24時。
2019年06月24日
森雅裕『鐵のある風景』(六月廿二日)
昨日の記事で森雅裕の名前を挙げたので、忘れないうちに次の記事を書いておく。前回は四月の初めに書いているから、それほど時間がたったわけでもないのか。
順番から言うと、集英社三部作、もしくは時代小説三部作の第一作『会津斬鉄風』を取り上げることになるのだが、うまくまとまらないので、先に最後のメジャーな出版社から刊行された商業出版である『鐵のある風景』について書くことにする。出版社は百科事典で有名な平凡社、刊行は2000年の6月だから、この本を読んでから最初のチェコ語のサマースクールに参加したということになる。
副題に「日本刀をいつくしむ男たち」とあるように、小説ではなく、日本刀にかかわる人たちについて書かれた人物伝のようなものである。第一部は「金巧たち」と題して、親交のある刀工を初めとする日本刀の製作にかかわる職人たちを紹介している。最初に登場して分量も一番多いのが刀工の大野義光氏で、この人は確か『会津斬鉄風』の文庫版に解説を書いていたはずである。『鉄の花を挿すもの』の主人公のモデルになった人でもあったかな。森雅裕が金を借りて返してない相手という話もあったか。
第二部は「鐵のある風景」と題されているのだが、帯では「鐵」が「鉄」になっている。森雅裕、クレームつけただろうなあ。それはともかく、あとがきによれば、「取材日記」は、図書館流通センターの「週刊新刊案内」に連載していた「続々 小説家にはフタをしろ!」から収録したものだという。「続々」があるということは、何もつかない「小説家にはフタをしろ!」と「続」もあったということで、かなりの長期連載になったことが予想されるのだが、「週刊新刊案内」なんてものの存在は全く知らなかった。
本書に収録されていない分を読みたいと思っても、インターネットの栄える現在ならともかく、2000年当時では「週刊新刊案内」がどこに蔵書されているのか調べようもなく、泣く泣く諦めることになった。国会図書館まで行けば読めたのかもしれないけど、小説ではないもののためにそこまでする気にはならなかったのである。「週刊新刊案内」という署名からして、パンフレットみたいなもので直ぐに捨てられるもののような印象があって、保存はされいないんじゃないかという疑いもあったし。
他にも版元の平凡社のPR誌「月刊百科」に掲載されたものも収録されている。森雅裕は「道草宝物館」と題して連載を持っていたらしいのである。あとがきではもともとはその連載をまとめて一書にするはずだったということも記されている。編集の意向で刀剣関係に限った内容になったというけれども、著者の意向の方が強かったんじゃないかとも思われる。連載ではバイクなんかの話も書いたけれども、収録しなかったらしい。
これも平凡社から「月刊百科」のバックナンバーを取り寄せようかと悩んだのを覚えている。悩んでいるうちにサマースクールのためにチェコに来る準備を始めなければならなくなって、うやむやになってしまったのだった。
残念なのは、現在の平凡社が原則として小説の刊行はしていないことで、小説出版に力を入れていたら、森雅裕の小説を出してくれていたかもしれないということなんだけど、ファンの妄想である。とまれ、この2000年までは、平均すれば毎年一冊は本が出ていたので、これが最後の森雅裕の著作になるとは思っていなかった。
その後、ファン達による自費出版で小説が二冊、あまり名の知られていない出版社からエッセイ集のようなものが一冊刊行されたのは知っているけれども、個人的にはこの『鐵のある風景』を森雅裕最後の著作ととらえている。ファンとしては最後の作品が小説ではなかったことが残念でならないのである。
2019年6月23日24時。
2019年04月10日
森雅裕『自由なれど孤独に』(四月八日)
久しぶりの森雅裕で、久しぶりに昨日の分の記事を今日の夜になって書き始めている。自転車操業の復活である。テーマだけは午前中に決めていたけれども、書き始める時間が残されていなかった。ということで、手早く書き上げよう。目標は一時間で書き上げることである。余計なことをしなければ、30分ぐらいで書きあがるのだろうけど、PCで書いていてネットにつながっていると、あれこれやっているうちに時間が消えてしまうのである。
さて、本題のこの『自由なれど孤独に』には、森雅裕が講談社から出版した最後の小説である。刊行の日付は1996年4月3日。乱歩賞を取って講談社から最初の単行本『モーツァルトは子守唄を歌わない』が刊行されたのが、1985年のことだったから、11年で講談社との縁が切れたということになる。その間の刊行書籍は9作、文庫版を数えなかったら平均で年一冊にならないことになる。それでもファンとしては、関係が拗れていたのに、ここまでよく付き合ってくれたと感謝するしかない。
本書が講談社から刊行された事情については、本書と前後して刊行された『推理小説常習犯』の「ミステリー作家風俗事典」の「あてつけ」のところに記されている。「ワーグナーを書いた原稿なら採用してやる」とのたまう編集者もあれだけど、注文されたワーグナーを悪役にして、これでもかというぐらいいやな人物として描き出してしまう森雅裕も森雅裕である。結果として悪役ワーグナーの方が、主人公のブラームスよりも存在感を発揮している部分があるから、編集者としては満足だったのかね。
とまれ、単行本の帯には、文庫版は出ていないからわざわざ断るまでもないのだけど、「音楽ミステリー」という言葉があり、ブラームス、ワーグナー、ロスチャイルド何かの名前が並んでいる。これを見た時点で、森雅裕ファンは、森雅裕が出世作の『モーツァルトは子守唄を歌わない』の路線に戻って書いた作品ではないかと期待したはずである。過去の出来事の謎を解明するために、作曲家が探偵役としてあれこれ動き回るという筋立ては、『モーツァルトは子守唄を歌わない』の路線に近いが、主人公のタイプは傍若無人な印象も残したベートーベンよりも、『椿姫を見ませんか』の森泉音彦に近い気がする。ヒロインの強き女性に引きずり回されるところも似ている。
不満はその貴族の娘で軍人でもあるヒロインと主人公のブラームスの関係。もう一人、直接登場はしないけれども、ブラームスに思い人がいるというのは、史実どおりではあるのだろう。ただ、、昔の森雅裕だったら、また別の処理の仕方をしたのではないかと思ってしまった。作家にとっては年季の入ったファンというのは厄介なものでもあるのだろう。過去の作品と比較して、あのころのあの作品の方がよかったとかいう感想を漏らしてしまうのだから。
本書の前の作品の『鉄の花を挿すもの』もそうだけど、読んでいて作者の迷いというか、優柔不断さというかが感じられたのは確かである。いや正確には優柔不断なのは主人公のなのだが、その主人公の優柔不断さに作者の迷いが現れているように思われたのだ。視点人物がほとんど主人公のブラームスで固定されているのに、三人称で書いているのもなんだか落ち着かなかった。「ヨハネスは」というのが、ブラームスとなかなか結びつかなくて、違和感が消えなかった。ブラームスの主観の形でワーグナーの悪口を書いているわけだから、一人称の方が感情移入もしやすくて面白く読めたんじゃないかなあ。もしくは、いっそのことワーグナーの一人称で傍若無人に暴れさせるって手もあるか。
ともかく森雅裕の後期の作品には、初期の書きたいことを書きたいように書いているという爽快感が消えて、編集者や読者の顔色を伺っているような気配が感じられるものが多い。それが古手のファンにしてみればもどかしいというか残念というか。作家として成長するための試行錯誤をそのように誤解したという可能性もないとは言わないけどさ。
最後にもう一言しておけば、この作品で描かれたワーグナーだけではなく、実は森雅裕も作品の質の高さと作者の人間性が必ず一致するわけではないという実例になってしまっているのが皮肉である。ファンだからと言って森雅裕の主張をすべて信じ込むほど狂信者ではないのだ。書かれていない事実もかなりありそうだしね。本人と会いたいとは思わないけど、作品はまた読みたいなあ。うまく落とせなくてずるずる引きずったら、目標の時間を越えてしまった。
2019年4月9日23時50分。
タグ: 推理小説
2019年02月19日
森雅裕『推理小説常習犯』(二月十七日)
自転車操業の影響か、最近文章が荒い。昨日のなんか書き出しに工夫したつもりで、意味不明な書き出しになっている。うぎゃっである。あえて恥はさらし続けるが、久しぶりに書きやすいねたで書いて、文章の立て直しを図りたい。ということで久しぶりの森雅裕である。ただ思い入れも読んだ回数も少ない新しい本に関しては、あまり書けることがなく、書くのに時間がかかり、結果として文章がぐちゃぐちゃになってしまうし、『歩くと星がこわれる』については、最後の最後に書きたいということで、小説ではないという理由で、これも後回しにしてきた『推理小説常習犯』である。
ネット上で森雅裕について書いている奇特な方々が、しばしば本書が理由となって森雅裕は出版業界からつまはじきに遭ったというようなことを書かれているが、それはちょっと違う。1996年8月に本書が刊行された時点で、すでに森雅裕はほぼ干されていた。角川、中公、新潮との関係が切れ、乱歩賞の縁で講談社との関係が細々と続いていた時期に出されたのが本書なのである。講談社とのつながり具合については、本書のあちこちに示唆されるわけだけど。
そして、この『推理小説常習犯』を機に、KKベストセラーズが、「森雅裕幻コレクション」の刊行に踏み切ってくれ、代表作三冊と私家版一冊を刊行してくれたのだから、森雅裕にとっては復活ののろしとなり得る一冊だったと言ってもいい。同年の12月には、新たに集英社から新境地を開く時代小説を刊行しているし、その時代小説の売れ行きが悪くて3冊でおしまいになって以後小説を刊行してくれる出版社が現れなかったのが悲しすぎる。
本書が森雅裕が干された原因だと誤解された理由は、その内容にある。前半は「オーパス」という雑誌に1991年から92年にかけて連載された「推理作家への道」をまとめたという体裁で、本文と変わらない、回によっては本文より長い後補がつけられている。後半は「ミステリー作家風俗事典」と称してミステリー作家業界のあれこれを紹介している。とこう書くとどこに問題があるのかということになるのだが、特に連載の後半部分に、雑誌、出版社、編集者などに対する抗議の文章、実態暴露、怨みつらみの文章が続出するのである。事典の中にも、こんなこと書いていいのかと思ってしまうようなものがいくつもある。
時期的に言うと、デビュー直後に発表したという文章の再録もあるから、森雅裕はデビュー直後から、出版業界にたてついて干されかねない原因を生産し続けていたことがわかる。こういう発言は本が売れている間は、あまり問題にされないのだろうが、売れなくなると仕事を与えない理由にされてしまう。だから、本書は干された原因そのものではなく、干された結果、その原因となった文章をまとめて刊行することのなったものと言った方がいい。KKベストセラーズも思い切ったものである。いや、一番思い切ったのは森雅裕か。これで干されている状況に、ある意味止めを刺したのだから。
理解しづらいのは、講談社、講談社の編集者の悪口万歳の本書が、後に講談社文庫、とはいっても普通の文庫ではなく講談社+α文庫に入ったことである。推理小説を管轄する文芸部門と、+α文庫を担当する部署の間の勢力争いでもあったのかなと想像してしまう。勢力争いの結果でもいいから、森雅裕の小説を刊行してくれんもんかね。復刊でもいいけど、ほとんどすべて所持している人間には変えないから新刊がいいなあ。いろいろな出版社の、森雅裕と悪しき因縁のあった偉い人たちも、そろそろいなくなっているはずだから、若手の編集者が怖いもの知らずで森雅裕に声をかけるとか、ないだろうな。森雅裕が強く批判していた頃に比してさえ、花形職業の一つに成り下がった編集者の能力は落ちているというし。
森雅裕の小説は大好きだし、一生ファンであり続けるとは思う。ただ、事典の「折句」の最後に、「うそつきの やすうけあいを まにうけて しごと失い ねがう復習」なんて歌を詠んでしまう森雅裕も、どこか人間として間違っていると思う。同時にそんな森雅裕の書いた小説だからこそ、ファンをやめられないという面があるのも確かなんだけど。
うーん、もう少しましなことが書けると思ったのだが。本書に関しては、機を見て折を見て改めて何か書くことになるかもしれない。
2019年2月18日23時55分。
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2018年11月29日
森雅裕『鉄の花を挿す者』(十一月廿四日)
1995年に久しぶりの講談社から出版された本書は、講談社での前作『流星刀の女たち』に続く刀剣小説、というよりは刀匠小説である。でも人が死んで、その謎を追う主人公も殺されかけるから推理小説として理解したほうがいいのか。森雅裕の作品は、推理小説ではあっても推理以外の部分に魅力を感じるべきものだから、刀鍛冶の世界を描いた小説として理解しても問題あるまい。『流星刀の女たち』でも人は死ななかったけど、推理的な要素は遭ったわけだから。
この作品は主人公が男性であるぶんだけ、森雅裕中毒者にとっては、『流星刀の女たち』よりとっつきやすいのだが、こちらもテーマがマニアックに流れすぎていて、読者を選びそうな作品である。刀の刃文の焼き方なんてどれだけの読者が理解して読めたのだろうか。自分のことを思い返しても、目次の前に刀の刃文を説明するための挿絵があるのだけど、実際に刀を見てこういう刃文を読み取れるとは思えなかったし、作品中文章で説明されても、刀自体を刃文が読み取れるほど見たことがないこともあって、どんなものなのかいまいち想像がつかなかった。
同じ刀鍛冶を描いた作品でも『流星刀の女たち』の主人公は、刀剣の世界の外側にいる存在だったが、こちらの主人公は、完全に受け入れられてはいないとはいえ刀鍛冶の世界の中にいる。その刀鍛冶の世界のよしなしごとが事件の原因となり、主人公が巻き込まれていくことになる。主人公の性格は、いつもの森雅裕の男主人公でちょっと世を拗ねているのだけど、いつもより世捨て人的傾向が強いのは、刀剣の世界の闇とかかわるせいだろうか。
刀鍛冶の師匠の死を、人づてに聞くところから、師匠が死の直前まで取り組んでいたプロジェクトに関して発生した事件に巻き込まれていくのだけど、プロジェクトの謎と弟弟子の死の謎が絡み合っていく展開も、悪役が、悪役臭が強すぎるのはあれだけど、話のつくりとしては悪くない。悪くないし面白いことも面白いのだけど、森雅裕の作品だと考えると、読後に圧倒的な不満が残る。
それは、ヒロイン役の女性の存在感のなさである。おしとやかで、多分美人で、性格的なしんの強さもないわけではなく、ヒロインとしての魅力がないわけではないと思う。ただ、森雅裕の小説の女性主人公としてみると、どうにもこうにも存在感が足りない。三人称小説とはいえ、ほぼ主人公の視点から語られるから、出番が少ないというのはある。でも森雅裕の生んだ最高の女性キャラクターである鮎村尋深なら、一瞬の出番であってもはるかに強い印象を残したことだろう。
こちらのヒロインの方が一般受けはいいのかもしれないが、森雅裕ファンには物足りない。主人公がいて、ヒロインがいて、その婚約者がいるというパターンは、『蝶々夫人に赤い靴』の鮎村尋深の場合と同じだけど……。森雅裕の小説のヒロインにしては、主人公を受け止めきれていないので、主人公の煮え切らなさもまた気になってしまう。この作品の主人公の刀鍛冶と、オペラシリーズの音彦とで大きな違いはないのだけど、受ける印象が大きく違うのは、相手役の存在感によるのである。
正直、この作品を読んだときに、森雅裕の女性観が変わったのかなんて馬鹿なことを考え、周囲の森雅裕読者と話したりもした。女性観だけでなく作風も変わるのかなと思っていたら、版元を集英社に移して、時代小説というか歴史小説と言うか、日本を舞台にして歴史上の出来事、人物をテーマににした作品を刊行し始めたのだった。
『さよならは2Bの鉛筆』について中島渉が書いたように、この作品で森雅裕は変わったなんてことを言いきることはできないのだけど、これまで、好きなように書いてきたのを、この辺から『モーツアルトは子守唄を歌わない』『椿姫を見ませんか』以来の古いファン以外の読者を獲得することを意識し始めたのではないかと邪推する。その結果、古いファンとしては何とも評価しにくい作品が登場したのだから皮肉である。
森雅裕の作品の場合、森雅裕の作品だから読んだし、面白いと思ったし、高く評価してきた。ただ、この作品『鉄の花を挿す者』に限っては、森雅裕の作品というレッテルを外したほうが高く評価できるのかもしれない。森雅裕なんだけど、いつもの森雅裕じゃないというジレンマは、この作品以後しばしば発生したと記憶している。森雅裕が読めて幸せなんだけど、その幸せ度が十分ではないというかなんというか、森雅裕に関しては登場人物だけでなくファンもひねくれているから、満足させるのは大変なのである。
2018年11月25日23時50分。
ちょっと高い。
中古価格 |
画像もないのにさらに高い。
価格: 6,480円
(2018/11/29 07:23時点)
2018年11月09日
森雅裕『いつまでも折にふれて/さらば6弦の天使』(十一月四日)
久しぶりの森雅裕である。どの作品まで書いたか覚えていなかったので、確認してみたら前回は三月だから半年以上間が開いてしまった。なかなか書けなかった理由は、忘れていたというのもあるけれど、後期の作品については、初期の作品ほどには思い入れがないということに尽きるのだろう。読めば面白かったし、刊行されたことを感謝しもしたが、学生時代に読んだ本の方が印象に強く残るものなのだろうか。作風が多少変わったというのもあるのかな。
とまれ、本書は1995年に私家版として刊行され、1999年に「森雅裕幻コレクション」の最終巻として、続編の『さらば6弦の天使』とともにKKベストセラーズから刊行された。『いつまでも折にふれて』の存在は『推理小説常習犯』で触れられていたから知っていたし、読んでみたいと切望していたから、出版社には感謝の言葉もないのだが、不満を言うなら二作合わせて一冊になっていたため、通常のノベルズの倍近い厚さになっていたこと。二冊に分けて刊行してくれれば、森雅裕の本が出たという喜びを二回味わえたのにと思うと残念である。当然、二作品を一度に読んでしまって、新作を読めた喜びも一回しか味わえなかった。
分冊にしてほしかった理由はもう一つある。『推理小説常習犯』によれば、私家版の『いつまでも折にふれて』はCDケースのサイズで製本されたらしい。分冊だったらそれを復刻する形で出版することも可能だったんじゃないだろうか。CDについているブックレットと同じサイズの版型で活字も同じだとすると読みづらいことこの上なさそうだから、ノベルズ版を購入した人を対象に予約限定復刻出版をしてくれていれば、両方買ったのに。一冊5000円だった1000部ぐらいは捌けたんじゃないかなあ。5000円で200部限定だったファンの有志たちの手による自費出版も、手に入らなかったと嘆く声がネット上に上がっているわけだし。
あとがきによれば、1994年と1998年に書かれた二作を、刊行年に合わせて1995年と1999年が舞台になるように書き改めたのだという。正直何でこんなことをしたのか、熱心な森雅裕読者にも理解できなかった。特に『いつまでも折にふれて』は私家版とはいえ、すでに刊行されたもので、KKベストセラーズ版が刊行された時点では、94年も95年も過去になっていたのだから。また、作品の内容的にも、小説内の時間設定が1年ぐらいずれていても問題があるようには見えなかった。
この辺の妙なこだわりが森雅裕だと言ってしまえばそれまでなのだが、同じあとがきにある「陽の目を見ない作品ゆえに」続編を書いたというのは、まだわかる気がする。ただ単に刊行年に合わせるためだけに書き直すってのは、何か他に事情があって書きなおさなければならなかったんじゃないかと疑ってしまう。芸能界もので、例によって露骨なモデルが存在する小説だから、露骨さが出版社の許容する範囲を超えていたとかさ。現代小説で、執筆年と刊行年が違うから、作品の時代背景を刊行年に合わせるなんてことしてたら、年をまたく出版なんてできなくなるし、5年も10年も違うってんなら、テクノロジーの進歩に合わせて書きかえる意味もありそうだけど1年じゃなあ。
どこがどう変わったのかわからない読者としては、改稿前のバージョンも読みたくなってしまうのは当然である。だからこそ、CDサイズのものを改稿しないまま復刻すれば、全体的な読者数に比べれば多い森雅裕中毒者たちはこぞって購入したはずなんだけどなあ。あの頃は、まだ今ほど出版業界も苦しくなっていなかったから、1000部やそこらの限定出版でちまちま稼いでられるかなんてところもあったのかなあ。
それにしてもと思わずにはいられない。どうして『いつまでも折にふれて』だったのだろうか。「幻コレクション」の1でその存在を明らかにした『愛の妙薬もう少し……』を出版する手はなかったのだろうか。原稿を関係者に一枚ずつ配っておしまいにしたとか書かれていたけど、それから数年しか時間が経っていなかったはずだから、返してもらって印刷所に放り込むこともできただろうし、記憶をもとに書き直すことだってできたはずだ。森雅裕のことだから入念な取材の結果が残されていたはずだし。『椿姫』シリーズの続編を出してから、『推理小説常習犯』で私家版として紹介した『いつまでも折にふれて』を出すという順番で刊行されていたら、もう少し売れて、KKベストセラーズから新作が刊行されるという未来もあったんじゃないかと夢想してしまう。
森雅裕の陽の目を見なかった作品は他にもあって、「復刊ドットコム」の 森雅裕のページ には、『雪の炎』と『微笑みの記憶』という作品も上がっている。前者の存在は「復刊ドットコム」に出会う前から知っていたけど、後者は全く知らなかった。何とか出版されないものかなあ。著者との交渉について前向きな返事とか書かれていても、ぜんぜん進展していないようだし。
さて、表題となっている『いつまでも折にふれて/さらば6弦の天使』にの内容ついても簡単に触れておかねばなるまい。森雅裕の作品の中では『ビタミンCブルース』に続く芸能界物というかアイドル小説。苦手なジャンルなので評価もしにくいのだけど、心ないファンの問題とか、芸能界の暗い部分を描き出そうとしたのかなあ。これも森雅裕の作品でなかったら絶対に手を出していなかっただろう。
最大の不満は、主人公の女性も、その相手役の男性も、いい人過ぎて、森雅裕の主人公を魅力的にしているひねくれた部分があまり感じられないところだろうか。話がつまらないとも登場人物に魅力がないとも言わないけれども、どこか主人公達二人の存在感が希薄なのである。もう少しあくの強い人物設定にしてくれた方が、森雅裕ファンには受けたんじゃないだろうか。ファンではない一般の読者がいたのかどうかはわからないが、なれていない人向けにはこのぐらいでちょうどよかったのかもしれないけど。
とまれ、陽の目を見ていなかった森雅裕作品が刊行された最初の例になるのだから、ファンにとっては大きな意味を持つのである。
2018年11月6日23時25分。
今朝処理するのを忘れていた……。
2018年03月16日
森雅裕『マンハッタン英雄未満』(三月十三日)
あれこれ問題というか突っ込みどころは満載であるけれども、森雅裕の新潮社三部作の最後の作品で、面白さでは頭一つ抜けている作品である。刊行されたのは『ビタミンCブルース』の翌年の1994年5月で、すでにこの頃には4月5日付けの出版にこだわらなくなっているのが見て取れる。
内容は何でもありの伝奇小説で、新しい救世主、つまりはイエス・キリストの再来として日本人女性を母としてニューヨークで生まれた子供を悪魔の攻撃から守るために、過去の偉人を現在に召還するのだけど、選ばれたのが作曲家のベートーベンと、新撰組の土方歳三という組み合わせ。救世主の母親が音楽好きの日本人という設定からの選択だとしても、キリスト教会が異教徒の土方を呼ぶかなんてことは考えてはいけない。著者が自分の好きなものを登場させるために設定したに決まっているのだから。
講談社から出た『流星刀の女たち』でテーマになっていた隕石に含まれる鉄を使って造ったという流星刀まで登場して、その刀を打ったのが、次の作品『会津斬鉄風』の主役の一人兼定である。カバー画を描いているのは魔夜峰央だし、デビュー以来の森雅裕の作品を構成する重要な要素の中で、本書に登場しないのはバイクぐらいのものか。
前作の『ビタミンCブルース』とは違って、この作品には、出版社の意向とか売れ行きとか、そんなものは全て無視して、好きなものを好きなように書こうという開き直りのようなものが感じられる気がした。だからこそ、荒唐無稽きわまる設定にストリーであるのに、十分以上に楽しく読めてしまうのである。読者の勘違いかもしれないけれども。
編集者の立場になって考えると、新潮社第一作の『平成兜割り』はともかく、次の二作はどちらも問題含みの作品で、特に本書は、よくぞ刊行してくれたと思う。しばらくこの伝奇小説路線で行くのも悪くないのではないかと考えていたのだが、売行きが悪かったのか、新潮社から森雅裕の四冊目の本が刊行されることはなかった。森雅裕ファンですらついて行きかねるようなジャンルの振幅に、編集と営業がさじを投げたのかなあ。
作品について言えば、ベートーベンと土方の辛辣な言葉の投げ合いが、昔の『モーツァルトは子守唄を歌わない』や『ベートーベンな憂鬱症』を思い出させて嬉しかった。辛辣な言葉を投げ合いながら殺伐とした印象を残さないのは、登場人物の設定がうまくいっているからだろうけれども、森雅裕の作品にとっては、やはり男性の登場人物が魅力的であることが重要で、それがあって初めて女性のキャラクターの魅力が引き立つのである。その意味でベートーベンと土方のコンビは、森雅裕の作品の中でも一、二を争う存在感を発揮している。
本書に描き出された90年代前半のニューヨーク、アメリカのショービジネスの世界がどこまで事実に即しているのかは評価できないし、するつもりもない。ただ、ブロードウェーのミュージカルから、野球チームに野球場、悪名高き地下鉄などなど、登場する小物の使い方のうまさはさすが森雅裕といいたくなる。荒唐無稽でご都合主義的なストーリに説得力を持たせるには、こういう小道具の使い方が大切なのである。
その意味では、ベートーベンと土方と現代文化の間に生じるカルチャーギャップと、それに対するそれぞれの対応の仕方なども、特にベートーベンは『モーツァルトは子守唄を歌わない』のベートーベンならこんな対応をしそうだというのも、古くからの読者には嬉しい。土方の場合には次の作品『会津斬鉄風』につながっていく。後に集英社から歴史小説、時代小説を刊行することになる芽はここに生じていたのである。『モーツァルトは子守唄を歌わない』も、ヨーロッパを舞台にした時代小説だと言えば言えなくもないけど。
2018年3月14日24時。
2018年03月12日
森雅裕『ビタミンCブルース』(三月九日)
森雅裕が新潮社から刊行した二冊目の著作にして、『歩くと星がこわれる』とは違う意味で問題作である。出版されたのは1993年8月のことで、この時期、生まれて始めて日本を離れており、帰国直後に森雅裕読者の友人からそのことを知らされて自分で購入したのだったか、友人が買ってくれたのだったか。とまれすでに読んでいた友人があまり期待しないほうがいいと言っていたのを思い出す。
一読しての感想は、『サーキット・メモリー』以上にこんな本よく出版できたなというもので、同時に妙に筆が荒れているような印象を受けた。森雅裕らしからぬ文章の粗さが目立ち、投げやりに感じられる部分があって読みにくかった。森雅裕の文章というのは、一文が長かったり、妙に凝った比喩や表現が出てきて、一般的な意味では読みやすいとは言えないのかもしれないが、その呼吸に一度なれてしまえば、非常に読みやすいものに変わる。それが、本書は森雅裕の読者にとっても妙な読みづらさを感じさせたのである。何か事情があったのかなと考えはしたけれども、そんな情報の入ってくるような時代ではなく、森雅裕の作品の中では一番低い評価を与えて本棚に並べたのだった。森雅裕読者としては後輩だったけれども、友人の言葉は正しかったのである。
内容は、アイドル歌手本人を主人公にした音楽ミステリーというのが正しいのかな。主人公の名前はしばしば「——千里」と表記されるのだけど、ここまであからさまにして名字だけ伏せる意味があったのだろうか。『推理小説常習犯』の記述によれば、カバーにアイドル本人が鏡か何かに小さく映っている写真を使うという計画もあったらしい。それは肖像権の問題を心配した新潮社によって禁止されたというのだけど、内容は問題なかったのか。主人公で好人物として描かれているから問題ないというわけでもあるまい。
こういう小説を書けた、いや書いて出版できたということは、森雅裕とアイドル歌手との間に何らかの関係があったということだろうか。ゴーストライターの仕事をしたこともあるという森雅裕のことだから、この女性アイドルのためのゴーストライターでも務めたのだろうか。アイドル本人がOKを出しても所属事務所がクレームをつけそうなものだけど、出版できたのは版元が売れっ子作家にも媚びないと言われているらしい新潮社だったからかもしれない。
苦手なアイドル小説で、文章もいまいち読みにくかったために、『モーツァルトは子守唄を歌わない』では気にならなかった楽譜を利用した暗号のわかりにくさが、この作品ではものすごく気になった。それから、登場人物たちの辛らつなやり取りが、いつもの作品とは違って殺伐として感じられたのも読むのが辛い理由だった。森雅裕の作品の魅力というのは、微妙なバランスの上に成り立っているのである。
どんなに熱心なファンであっても、受け入れにくい作品の一つや二つはあるものである。個人的にはこの作品がそれで、つまらないというつもりはないが、いろいろな要素が絡みあって趣味に合わなかったのである。こういう作品が好きだという人もいそうだとは思うけど、そういう人が森雅裕ファンの中にどの程度いるのかは不明である。
アイドル好き、特に「——千里」のファンが読んだらどんな反応をするのだろうというのは、最初に読んだときから気になっているのだが、その答えは未だ得られていない。絶賛と酷評に二分されるような気はするけどさ。
2018年3月10日23時。
2018年03月04日
森雅裕『平成兜割り』(三月一日)
森雅裕にとって四つ目の出版社となる新潮社から1991年にハードカバーで出版された作品である。純文学系の印象の強い新潮社から森雅裕の本が出ることに驚いた記憶がある。新潮社もノベルズのレーベルを持っていなかっただけで、実際には推理小説に力を入れていなかったわけではないのだけど、講談社や光文社のようなノベルズで推理小説を積極的に刊行していた出版社に比べると地味な印象を与えてしまうところがある。いや、新潮文庫ってSFやファンタジーの分野でも意外な作家の意外な作品を刊行していたりするのだけど、レーベルのカラーとまったく合っていなかったせいか、話題に上がることも少なかったのである。本作は文庫化されなかったけどさ。
森雅裕が新潮社と縁を持つにいたったのは、若手推理作家たちのグループ「雨の会」のアンソロジーを出版したのが新潮社だったからだったろうか。どこかの図書館でこのアンソロジーを発見したのが先だったか、本書の刊行が先だったか覚えていないが、あの森雅裕が同業の作家たちとこんな形で交流を持っていてアンソロジーまで出してしまったという事実に、失礼ながら驚いてしまった。
『平成兜割り』が手元にないため、あやふやな記憶になってしまうのだが、雨の会のアンソロジーに寄せた「虎徹という名の剣」の設定を基に書いたいくつかの短編をまとめたのが本書だっただろうか。そうすると、森雅裕が最初に刀剣について描いた作品は「虎徹という名の剣」ということになるかもしれない。さすがに雨の会のアンソロジーまでは買わなかったし、何年に刊行されたかなんてことも知らない。
たしか横浜の駅近くで骨董屋を営む六鹿(これでムジカと読ませるのもあれなんだけど)という人物が主人公で、店に現れるお客さんから骨董、時に刀剣にまつわる相談を受けてそれを解決するというのが基本的なパターンだった。最初の事件に登場した依頼主の女子大生が、押しかけ助手のような役割に納まって狂言回しを務めるんだったかなあ。短編集とはいえ、久しぶりの推理色の強い作品で結構嬉しかった。一番記憶に残っているのが、東郷平八郎の人形の貯金箱が出てきて、穴あき人形、アナーキー人形なんて言葉遊びの話が出てきたシーンだというのが我が記憶力の衰退振りを反映している。そのやり取りが妙に面白く感じられたのである。
著者がファンであることを公言していた(と思う)80年代の女性アイドル歌手をモデルにして、その恋愛問題を絡めた話もあったなあ。この辺は、ファンとしても評価の分かれる悪癖である。アイドルとかその恋愛話とかには興味のない人間には、示唆だのあてこすりだのがあっても理解できかかったから、あの人のことらしいということしかわからなかったけど。ここでも覚えているのは、件のアイドル歌手についてこき下ろしていた押しかけ助手の女の子が、当のアイドルが店に現れたら和やかに談笑して、主人公の店主をあきれさせるという本筋とはあまり関係ない部分である。アイドル歌手の恋人の男が店主から買い取った刀を登録もせずに自動車に持ち込んでレースレースに出場して警察に捕まるって落ちだったかな。その刀はアイドル歌手の家に伝わる呪いの刀でという裏があったような気もする。
カバー画も装丁も時代小説とも見まがうような地味なもので、表紙の左上に小さくあしらわれたカバー画は著者が手がけたものだったか。新潮社から出版された三冊の中では、装丁だけでなく内容の面でも一番地味で穏当なものだった。前年に中央公論社から出た『100℃クリスマス』の主人公の女剣客が最後の作品に登場したのには、驚かされたけど、それが作品の題名につながるのは出版社としてはどうなのだろう。女剣客に頼まれた兜割り用の刀を探す店主が、行方不明になった剣客の友人を探す手伝いをするんだったか、女剣客も誘拐されたんだったか。だめだなあ20年近くも読んでいないから思い出せなくなっている。
本書は森雅裕の本の中でも、古本屋で手に入れるのが難しい一冊である。新潮社は比較的絶版にするのが早いという話もあるし、ファンが二冊目三冊目を確保する前に絶版裁断になって古本屋に出回るものが少ないのかもしれない。日本の再販制度では本は金券に近い価値を持っているため、在庫が資産として課税の対象になるのが問題なのである。
それはともかく、もう一度手に入れて読み直したいのだけど、チェコから古本を手に入れるのは無理だろう。かといって復刊ドットコムで復刊の要望がそんなに集まるとも思えない。森雅裕の名を高めた乱歩賞受賞作の『モーツァルトは子守唄を歌わない』を刊行当時に読んだ最初期のファンのうち、どのぐらいの人がこの『平成兜割り』まで読み続けたのだろうか。
中断期間のある人間は、最初期のファンとは言えないよなあ。森雅裕のファンだと自認するに至ったのは『歩くと星がこわれる』を読んで以来のことだし、パソコン通信の時代に存在したらしい鮎村尋深親衛隊という名のファンクラブにも、ちょしゃがしばしば出現していたらしいどこぞの大学の推理研究会の掲示板にも関係したことはないしさ。
それでも、森雅裕の作品にこだわってしまうのは、他の作家にはない言葉にするのが難しい魅力を感じ続けていたからである。そんな魅力的な作品が売れず出版されなくなってしまった現実には文句を付けたくもなるけれども、一介の読者にはいかんともしがたいのである。
2018年3月2日21時。