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2019年01月17日
読者?(正月十五日)
ブログ関係でちょっと新しい展開があった。ちょっと前のことなのだが、ブログの管理ページに入ったら「読者」のところに数字「1」がついていたのである。読者になるとかいう機能があるのは知っていたけれども、それが何を意味するのかよくわからず放置してあったし、これからも放置する予定なのだけど、せっかくなので、登録されていたブログを覗いてみた。
ブログを始められたばかりの方のようで、文書の書き方指南のような本が何冊か取り上げられていた。ブログの文章を書く参考にということなのかな。個人的には、所謂文章読本の類はほとんど読んだことがなく、三島由紀夫の文章読本について、栗本薫が「グイン・サーガ」のあとがきで言及していたのを覚えているくらいである。
このブログの文章も、行き当たりばったりで書いているので、時間があるときには全体の結構とか考えるけど、余裕がなくて細切れに書くことも多く、そうなると、最初と最後がなんだかずれているということも多い。同じようなことを繰り返すのはもちろん、同じ表現が頻出するのも問題である。推敲しろよというのは簡単だけど、締め切りに迫られて、自分が設定しているだけだけど、ついつい次を書くのを優先してしまう。
そういえば、どこかでこれまで書いた文章を全面的に推敲しなおして、最初の記事から間違いを修正したり、よくわからなくて放置した記事にタグをつけるというのをやってみたりしようかとも思ったのだが、開始から三年以上の月日を経て1000以上も積み重なった駄文の山に、ため息をつくしかない。せめて、チェコ語に関する記事だけでも何とかしようかなあ。参考にしてくれている人はいないわけではなさそうだし。
そんなでたらめな文章を書き散らしている人間が、唯一ちゃんと読んで、書かれていることを少しは意識しながら文章を書いているのが、黒田龍之助師の『大学生からの文章表現』(ちくま新書、2011)である。副題に「無難で退屈な日本語から卒業する」とあるように、型通りの文章を書かないことを考えさせてくれる本である。小学校から高校まで、作文が嫌いだったのは、型にはまった文章を書くことが期待されていたからかと、この本を読んで納得してしまった。
内容は、著者が大学で行なった文章を書くことをテーマにした授業の再現で、実際に学生たちが書いた文章の、修正前、修正後も上げられていて、文章を書く際の参考にならなくはないのだが、読むのが楽しくて、特に参考にしようなどと考えては読んでいないので、この本に書かれたことが、我が文章にどのぐらい反映されているかというと、心もとない。
一つだけ、意識していることがあるとすれば、日本人の書く文章は「思う」を使いすぎだという指摘(正確にどんな書き方がされていたかは覚えていない)だろうか。これは、あれこれ文章を書いていた大学時代は意識して、「思う」を使わないようにしていたのだが、チェコに来てからはすっかり忘れていて、本書を読んだあとに、自分が書いた文章を読み返して、「思う」の多さに頭を抱えたことがある。
読んだ直後、一時は、一つも使わずに文章を書こうと肩に力が入っていて、余計な時間がかかったり、不自然なわかりにくい文章が出来上がったりしていたが、最近は、そこまでこだわらずに、「思う」を使えるようになっているのではないかと思わなくもない。自分の文章を客観的に評価する能力はないから確信はないのだけどさ。
一般的な、文章の書き方指南を批判的に取り上げていたのも覚えている。その手の指南書で書かれるであろう、一つ一つの文を短くして簡潔に表現したほうがいいってのが不可能に近い人間としては、師の意見に大賛成だった。文章にはリズムというものがあって、短文ばかりを積み重ねていくのは単調になりがちである。だからといって我が文章のように長文が果てしなく続くというのも読みにくいことは重々わかってはいるのだけど、せっかく書くとなると、ついつい文を長くしてしまうのである。これはもう性としか言いようがない。
ということで、文章を書くための本の紹介だった、のかな。カテゴリーはブログではなく別のところにしよう。
2019年1月15日23時55分。
2018年06月27日
『ロシア語だけの青春』(六月廿六日)
知人が日本から送ってくれた本のうち、こちらについて記すのをすっかり忘れていた。『物語を忘れた外国語』にかまけすぎたというのが一番の原因だけれども、連載された部分についてすでにいくつか文章を書いているというのも、後回し後回しにしてしまった理由である。ここまで後回しにするつもりはなかったんだけどなあ。
それはともかく、『物語を忘れた外国語』についての文章でも書いたことだが、青春と呼ばれる時期に正面から外国語に取り組んだ著者による「青春小説」が、この『ロシア語だけの青春』である。「外国語に取り組む青春小説」がないから自分で書いてしまえという単純な話ではなかったのだろうけれども、この二冊が同時期に前後して刊行されたことには、偶然以上の何かを感じてしまう。
著者本人は、あとがきにあるように「学校の物語」として、ミールという語学学校の物語を描き出そうとしたのかもしれない。ただ、ミールという学校を知らず、そのため当然思い入れもなく、不肖の弟子を自認する人間にとって(面と向かって師匠と呼んでいる登場人物がうらやましい)、本書は黒田師の物語である。だからこそ、大きな思い入れを以て読めるのである。
最近の傾向として、語学に限らず、勉強の際に暗記、暗唱というものを軽視する傾向がある。子供たちの負担を減らすと言えば聞こえはいいけれども、いい大人がガキにおもねってどうするんだよとしか思えない。もしくは、愚民化政策の一環か。子供の頃に必要な知識を頭の中に詰め込んでおかないと苦労するのは、子供本人なのだが、そんなことは子供に理解できるわけがないのだから、ある程度強制的に覚えさせることになるのは仕方がない。覚えた知識の量が増えるにつれて、次を覚えるのが楽になることに気づくと、自分から覚えようという気になるはずなのだが、最近はそこまで行きつく前に、覚えなくていいよと甘やかされる子供が多いのが日本の学校教育の現状じゃないのか。
80年代のゆとり教育が何も残さなかったように、現在はやりらしいアクティブラーニングというのも、生徒、学生の側に前提となる知識が存在していなければ、最近は教師の知識すら怪しいかもしれないが、多くの場合絵に描いた餅に終わるのは目に見えている。もちろん子供の頃から、覚える訓練を受け、自ら考えるために必要な知識を持ち、考えることの苦労、苦しさを経験した生徒、学生のいる教室であれば、うまくいくこともあるだろうが、馬鹿の考え休むに似たりという結果になるところが多いはずである。もしくは、考える流れまで指導してしまって、かつての詰め込み教育と大差ない結末を迎えるか。
その点、黒田師の進める勉強のしかたは、基礎を固める時点では、細かいことは考えずにひたすら訓練を繰り返し、語彙を含めた必要な知識を覚えこむというのだから、時代には逆行している。逆行しているけれども、ごく一部の天才を除けば、外国語を身につけるというとてつもない目標を達成するには、それしかないのである。つまり、現在の何でも手軽に簡単に勉強しようという底の浅い風潮のほうが間違っているのである。
黒田師の語学の堪能さの裏側にこういう徹底的な基礎固めが存在したというのは、意外ではあったけれども、それを知って嬉しかった。自分自身がチェコ語の勉強の際には、基礎固めの時点では、暗記するためにひたすら書いていたのが、「間違っていなかった、それが唯一の正しい道だったのだ」と認めてもらえたような気がした。もちろん師のレベルとは天と地との開きがあるのは自認しているが、レベルの上下を問わず、共通するものはあるのである。
それから、最近の教育に対して、学校がすべてをお膳立てしてしまうのをやりすぎだと批判しているのも正しい。ボランティアなんて、どこに行くか何をするかを考え、あれこれ手配するところまで含めてボランティアであろうに、学校全体でまるで授業の一環のようにしてボランティアに出かけるというのは、本来体験できることの半分ぐらいしかできないのではないかと、他人事ながら心配になる。
また、大学が見返りを求めるところになっているという指摘には、今の大学はそこまで落ちてしまったのかと、それならかつての遊びに行く大学のほうがましだと思ってしまった。知人が最近の大学の専門学校化、高校化を嘆いていたのはこのことだろうか。文部省が進めているらしい大学教育の画一化もこの傾向に一役買っていそうである。
かつては遊びに行く大学でも、一定数のまじめに勉強する学生はいて、授業以外の場所で自ら勉強していたし、学内だけでなく学外で行われる学会出席したりもしていた。基本的に単位や卒業に関係なく学びたいことは学ぶという姿勢だったから、もぐりで登録していない授業に出ることもあったなあ。こういう高校までの教育とは違ってカリキュラムに縛られずに、自分の学びたいことが学べるというところが、大学で勉強する意味のはずなのだから、自分にとって勉強する意味のないことは勉強しなければいいのだ。
授業に真面目に出るのは単位のためではなく、その授業で学びたいことがあるからで、学びたいことがない授業は自主休講というか、出席にせずに単位だけかすめ取れる授業を選ぶものだった。そんなことをやりすぎて卒業の単位をそろえるのに苦労している人もいたけれども、制度と自分の希望の間でもがくという社会に出てからも直面するはずの現実にたいする訓練だと考えればよかった。
その点、ミールでの勉強には見返りはなかったと師は書かれているが、見返りはあったはずである。それは「ロシア語ができるようになる」ことで、本人以外には価値のないものであることが素晴らしいのである。勉強の見返りというものは、勉強そのもの、もしくは勉強が直接もたらす結果でしかない。だからこそ、人は一生学び続けていけるし、学び続けていくべきなのだ。ということで、今年は久しぶりにサマースクールでチェコ語の勉強をすることにした。
2018年6月26日23時55分
2018年06月20日
『物語を忘れた外国語』後7(六月十九日)
十五章以降は苦手なものが続く。第十五章と十六章は、アジアがテーマなのだが、アジア諸国の言葉は、ピジンとかクレオールの存在を知ったときには、インドネシアの言葉に一瞬だけ興味を持ったけど、勉強したことはないし、アジア諸国の文学作品もほとんど読んだことはない。子供向けの昔話なんかの中には、アジアのものもあったかもしれないけど、『スーホの白い馬』って翻訳だったっけ? 日本人の作品だったっけ?
例外は中国だが、言葉は中国語ができるのではなく、古典を漢文として読めるに過ぎないし、文学は読んだことがあるのは、せいぜい『三国志演技』『水滸伝』ぐらいのものである。現代中国の言葉や文学に興味があるかと問われたら、ないと答えるしかない。朝鮮半島に関しても、言葉はもちろんできないし、文学は日本語で書かれた作品も含めて読んだことはない。日本名で執筆活動をしている人については、読んだことがあるかもしれないけれども、確認するつもりはない。日本語で書かれ、日本が舞台で、登場人物の大半が日本人であれば、読むのに何の問題もない。
話を中国を除いたアジア諸国を舞台にした物語に拡大しても、文学であれば、竹山道雄の『ビルマの竪琴』ぐらいしか読んだことがないし、映像作品となると、アメリカ映画の「プラトーン」「キリング・フィールド」ぐらいしか見たことがない。第二次世界大戦に関するノンフィクションは結構読んだけど、物語とは言いづらい。
だから、自分はアジアを軽視しているんだなんて反省をするつもりはない。もともと外国文学の翻訳は苦手で、推理小説とSF系の作品を除けば、外国文学なんてろくに読んじゃいないのだ。映画にしても、日本映画ですらろくに見ておらず、チェコに来てからチェコ語の勉強をかねて見たチェコ映画の方が多いくらいである。つまり、自分にとって文学、物語というものは、日本語で書かれたものであって、映画というものはチェコで制作されたものなのである。
第十七章では、外国語を学ぶための書かれた物語と映像作品のいいとこ取りをしたものとして、戯曲が紹介される。この戯曲という形式がまた個人的には非常に苦手で、ちゃんと読了したのは、国語の教科書に出てきた民話劇の「木龍うるし」ぐらいしかない。考えてみれば、チェコ語を世界的にした「ロボット」という言葉を生んだチャペクの『R.U.R.』も、戯曲形式で書かれている。この作品は、義務的に読んだ。多分最後まで読んだと思うけれども、『クラカチット』や『山椒魚戦争』なんかの小説形式で書かれた作品ほど楽しめなかったのは紛れもない事実である。『蟲の生活』とか戦前の何とか全集に収録された古いのを神田の古本市で発見して、大喜びで買ったはいいものの、戯曲故に読みきれなかったし。
以上、つらつらと、『物語を忘れた外国語』の各章を読んで思いついたことを、直接の関係あるなしにかかわらず、書き散らしてきたのだけど、言語学をテーマにした本に比べて、はるかに思いつくことが多く、連想があちこちに広がっていって収拾がつかなくなりそうなこともあった。久しぶりに幸せな読書のひと時を味わうことができたのである。
その一方で、自分の不肖の弟子っぷりも今まで以上に明らかになった。外国語を学ぶために物語、読書を役に立てようという主張からして、大賛成ではあるものの実践はできないと来ている。外国語学習と読書、映画の視聴の間に密接な関係を作り出せればよかったのだろうけれども、我が人生では読書だけが孤立してしまっている。だからと言って、何かのために本を読むというのはあまりやりたくない。何かの一環として本を読むだったらまだ許せるのだけど、やはり読書そのものが目的であって、手段というふうには考えられないのが、活字中毒者の性なのである。
『物語を忘れた外国語』に関する文章全体をしめるには、どうにも中途半端な感じだけれども、長く続いたこの件に関してはこれでお仕舞。
2018年6月19日23時55分。
2018年06月19日
『物語を忘れた外国語』後6(六月十八日)
第十二章は、文法用語がテーマで、文法用語が題名になっている小説がいくつか紹介される。この章の一番の読みどころは、日本語には人称代名詞は存在しないと喝破するところである。その説の当否はともかく、日本語の一般には人称代名詞として片付けられるものが、実はものすごく厄介なものであるのは間違いない。
無駄に公的な感じと、逆に非常に私的な印象があって、普通の会話の中では使いにくい二人称とされる「あなた」は、中高の英語の授業で日本に翻訳する際に使用するのを強要されるのが苦痛でならなかったのだが、本来は人間ではなく場所を表す代名詞である。かつては、同じ場所を示す代名詞の「そなた」「こなた」も、二人称の代名詞のように使われていたことがあるわけで、日本語では直接人を指すのを嫌い、その代わりに人がいる場所を使うのだなんて解釈も可能かもしれない。指す場所が違うはずの「こ」でも「そ」でも「あ」でも二人称になってしまうところが不思議だけど。
この場所で人を指すというのは、現在の日本語でもよくあることで、丁寧に表現するときには、自分のことを「こちら」、相手のことを「そちら」で示すことが多いし、「どちらさま」なんて、自分でも使うけど、使いながらこれでいいのかなんて考えてしまう表現も存在している。
そもそも、日本語は受身表現や、いわゆるやりもらい動詞の発達で、「あなた」に限らず、あえて人称代名詞を使う必要のない場合が多いのである。それなのに英語に出てくる人称代名詞をすべて日本語の文でも使うように強要されたのが、一時期日本語で文章が書けなくなった理由の一つだった。
最近は普通に使う人も増えているのかもしれないが、三人称の「彼」「彼女」も自然な日本語なら、特に男女を区別しないで「あの人」というよなあ。その「かれ」だって、本来は人を指す言葉ではなく物をさす言葉だったわけだから、日本語には、本来の意味での人称代名詞がないといわれると、納得できてしまう。
第十三章に登場するのは、ソ連の文学なのだけど、筋金入りではない、単なる心情左翼に過ぎなかった人間には、何となく小難しそうな印象の強かったソ連の文学を読むというのは敷居が高かった。田舎では、ロシア文学はともかくソ連文学の本なんて手に入りにくかったという地理的な事情もあるし、東京に出た頃にはソ連が崩壊してしまっていたという時間的な事情も存在する。かくて、ソ連の物語で自分が見たり読んだりしたものというと、映画「誓いの休暇」だけということになる。これは、高校のときの世界史の先生が、特に左翼がかった人ではなかったのだけど、傑作だといって、授業中だったか放課後だったかに見せてくれたものである。覚えているということは、それなりに面白かったということだと思うけど。
第十四章で取り上げられるのは作家の干刈あがたの『ウホッホ探検隊』なのだが、この作家の登場が『物語を忘れた外国語』を通じて最大の驚きだった。他は全部知っていて、この作家だけ知らなかったという意味ではなく、かつて熱心に読んでいながら半ば忘れていた小説家とその作品が、黒田龍之助師の外国語をテーマとした本に出てくるとは予想もしなかったという意味においてである。自分の知らない作家や作品が登場すること自体は驚きではない。本を読むのは新しいことを知るためでもあるわけだから。
干刈あがたは、80年代の終わりから90年代の初めにかけて大量に読み漁った所謂純文学に属する小説家の中でも、個人的には最も高く評価していた作家の一人である。いつの間にか存在を忘れてしまっていたのは、寡作だったからである。hontoで確認したら、現時点で購入できるのは、『ウホッホ探検隊』だけだった。『黄色い髪』は読んだと思うのだけど、何かの事情で最後までは読めなかったような気もする。
それはともかく、『ウホッホ探検隊』の母親と子供たちの会話、特に子供たちの言葉遣いを、当時の80年代の東京の子供たちの自然なしゃべりかただという指摘には、目からうろこが落ちる思いがした。実はこの子供たちのしゃべり方を、あえて気取ったしゃべり方をして、親の離婚というショックを振り払おうとしているのだと解釈していた。けなげな子供たちだと思っていたのだけど、九州の田舎者には理解できないこともあるということだな。
2018年6月18日23時40分。
2018年06月18日
『物語を忘れた外国語』後5(六月十七日)
第十一章はウサギの話である。チェコではウサギを飼っていて食べるとかそんな話ではなく、古今東西の物語の中に登場するウサギがテーマになっている。それなのに、不思議なことにソ連のウサギが出てこないのである。チェコのウサギとしてはチャペクがちょっとだけ出てくるけど。
チェコには、共産党員をはじめ、ソ連時代にノスタルジーを感じ、そこからロシアを支持する一定数のグループは存在するが、多くの人はソ連に対してはもちろん、ロシアに対する反感も隠さない。ただそんな人たちがみな、ソ連に支配された共産党政権の時代のものをすべて嫌っているかというとそんなことはなく、共産党の時代にソ連から入ってきたものに対しても愛着を感じていることがあるようである。
その例として挙げられるのが、ソ連がクリスマスの象徴イェジーシェクを駆逐するために導入したデダ・ムラースのプロパガンダ映画「ムラジーク」である(いや、ソ連では多分娯楽映画だったのだろうけど、チェコでは単なる娯楽ではなくちょっと違った役割を果たしていた)。題名を聞くのも嫌だという人がいる一方で、毎年クリスマスが近づくと民放で放映され、一定以上の視聴者を獲得している。これは、共産党のシンパ以外にも、「ムラジーク」にノスタルジーを感じる人たちがいる証拠だと言ってもいい。
同様にソ連時代に制作されたテレビ番組で、たまに放映されているのを見かけるのが、子供向けのアニメ「イェン・ポチケイ・ザイーツィ」である。これは我が日本語が堪能な友人の言葉を借りれば、ソ連版の「トムとジェリー」らしい。アメリカのアニメに出てくるのがネコとネズミなのに対して、ソ連版に登場するのはオオカミとウサギである。
ちゃんと見たことがないのだけれども、オオカミが逃げるウサギを追いかけまわすというのがパターンになっているようである。ただ、番組の予告などで目に入ってきた限りでは、このアニメ、ウサギが全然目立たない。オオカミが前脚を振り回しながら、二本足で走っている様子は、思い浮かべられるけど、その前で逃げているはずのウサギの印象がほとんどないのである。
だから、チェコ語の題名「イェン・ポチケイ・ザイーツィ」を見るたびに、ウサギなんて出てかねと首をひねることになる。「ザイーツィ」は、ノウサギを意味する「ザイーツ」の五格だから、題名をあえて訳せば、「ウサギめ、待ちやがれ」とか、「今に見てろよ、ウサギめ」なんてことになるから、ウサギは主要な登場動物であるはずなのだけど。
このアニメをちゃんと見ていないのは、ソ連時代の物だからという理由ではなくて、絵柄が何となく合わないからである。チェコの子供番組ベチェルニーチェクで放送されるアニメの中にも、絵柄が気に入らなくて見ていないものはいくつもあるけれども、「イェン・ポチケイ・ザイーツィ」も同じである。「ムラジーク」を見ないのも、予告編で目にした男性も含めた登場人物たちの化粧の微妙さが許せないというのが一番の理由である。それがなければ、内容がどうであれ、後学のためと称して一回ぐらいは最後まで見たはずである。
ちなみにチェコのウサギ料理は、正直な話、口に合わなかった。七面鳥とか、イノシシとか、シカなんかと同じで、一度試せば十分である。ちょっと普通ではない肉の中では、カモが一番口に合ったのだけど、カモを食べるとお腹を壊すことが判明して食べられなくなってしまった。食べることにこだわって生きているわけではないけど、美味しいと思ったものが食べられないのはちょっと悲しい。夕食に美味しいものを食べてちょっと幸せな気分になったその夜に、トイレに籠って食べたものを吐き出さなければならなかったときの悲しみに比べればましだけど。
2018年6月17日23時30分。
2018年06月17日
『物語を忘れた外国語』後4(六月十六日)
第八章のテーマはエストニア語。でも最初は、ドラマや小説などに現れる大学、特に教授という人種について語られる。大学教授が出てくる物語として、ドラマ化もされた宮本輝の『青が散る』が取り上げられるのだけど、個人的には大学を舞台にした物語といえば、『動物のお医者さん』に尽きる。そして「教授」と呼ばれる人物となると、漆原教授以外には思い浮かばない。あれを読んだときに、舞台となっている北大の獣医学部では、大学の教授のことは、「教授」と呼ぶことになっているのだろうと思ったのだけど、実際はどうなんだろうか。日本の大学では、「教授」と呼びかけるのを聞いたことはない。
日本以上に学歴にうるさいチェコでは、普段から教授には「教授」とよびかけ、准教授には「准教授」と呼びかけ、公式の場では博士号や修士号を持っている人にも、学位を使って呼びかけることになっている。それだけでなく、高校の先生に対しても、正確には教授ではないのに、「先生」ではなく、「教授」と呼びかけることになっているらしい。肩書きにうるさい人の中には、呼びかけ方が違うとへそを曲げる人がいるというし、無頼派を気取って肩書きなんぞくそ食らえと考えている人間には、ちょっと生きにくいとことがあるのである。
その点、日本の学校は、幼稚園から大学まで、どこでも誰でも教えてくれる人に対しては、「先生」で済ませられるから楽である。ただ、日本語の「先生」の使い方には、大きな不満がある。何が悲しくて、国会議員やら、小説家やらを、先生と呼ばにゃならんのか。議員同士が「先生、先生」と呼び合っているのには、猿芝居でも見ているような暗澹たる気分になってしまう。
この章では、エストニア語が出てくるソ連の青春小説(これってドイツ系の文学で言うとことの「ビルドゥングスロマン」と同じものだろうか)が取り上げられるのだけど、その直前に、外国語に取り組む青春小説が日本にあるのだろうかという問いかけがなされる。もしかしたら、この問いかけに対する師の答えが、『ロシア語だけの青春』の執筆だったのではないかと考えてしまった。
第九章では、物語に登場する言語学者が取り上げられる。言語学者には偏屈な人が多いというのだけど、言語学者に限らないんじゃないかなあ。本当に優秀な学者というのは、どこか正確に偏りがあるからこそ、学者として優秀なのだろうし、変人というものはどの分野にだって一定数いるものである。もう一つ、この章に出てくる映画「マイ・フェア・レディ」に関しては、チェコ語の字幕つきで見たのだが、字幕を読みきれずに途中で見るのをやめてしまったことは書いておかねばなるまい。英語は耳に入ってこなかった。
第十章ではSFから星の話になるのだけど、『へびつかい座ホットライン』という作品名も、ジョン・ヴァーリイという作者の名前も知らなかった。翻訳もののSFは結構読んだつもりなのだけど、ハインラインとかアシモフとか、超有名どころを読むに留まったからなあ。翻訳ものに関しては、ハヤカワ文庫のSFに行く前に、先輩の影響でFTに進んだから、それもSFの名作をあまり読んでいない理由の一つとなっている。
さて、『へびつかい座ホットライン』が取り上げられている理由のひとつが、未来の言葉として太陽系共通語というものなのだが、未来の宇宙を舞台にした日本のSFで言葉が強烈な存在感を放っているのが、森岡浩之の「星界の紋章」シリーズである。最初に読んだときに、作中にルビとして氾濫している作者が作り出した未来の言語について、言語学者はどんな評価を与えるのだろうかと考えた。個人的には、日本語があんな言葉になってしまうのは、納得がいかないけど、専門家の目から見たらまた違った意見が出てくるかもしれない。現代の言語学者は小説なんて読まないらしいから、「星界の紋章」の人工言語のついてコメントした言語学者はいないのかな。師の感想を聞いてみたい気もするけど、表紙があれだから、これ読んでくださいとは、ちょっと言いづらいものがある。
「星界の紋章」のような作品を読むと、すべてのルビを丁寧に読んだわけではないけれども、日本語の表記にルビというシステムが存在するのは幸せなことだと思う。語学の教科書で、外国語の単語の上に、読み仮名をつけて、発音する際の助けにするなんてことができる言葉は、日本語以外にあるのだろうか。その分、印刷所の仕事が大変で、著者も校正で大変な目を見ることになるのだけど、ルビの有用性を考えたら、そのぐらい安いものである。
2018年6月16日22時30分。
2018年06月16日
『物語を忘れた外国語』後3
第六章のテーマはスウェーデン。スウェーデンにまつわることがあれこれ書かれているのだけど、ひとつだけ欠けているものがある。この章を読んで不思議だったのが、どうして『ニルスのふしぎな旅』が出てこないんだろうということだった。作者のラーゲルレーブの名前は出てきているだけに意外である。
NHKのアニメというと、確か再放送か再々放送で見た「未来少年コナン」か、この「ニルスのふしぎな旅」だったのだけど、世代が少しずれていると認識も変わるのだろうか。毎回欠かさず見ていたというわけではないが、印象は強烈に残っていて、東京に出てから本屋で原作の『ニルスのふしぎな旅』を発見したときには、我が読書が児童文学の時代に入っていたこともあって、思わず全四冊購入してしまった。
この作品、子供たちにスウェーデンの地理を理解してもらうという目的もあって書かれたらしく、主人公のニルスを渡り鳥の群の中に放り込んだのは、南北に長いスウェーデンの各地を南から北まで登場させるためだったのだろうか。ラプランドなんて地名を知ったのは、この作品、アニメのほうね、だったなあ。それが北欧への憧れにつながって、『エッダ』だの『サガ』だのにまで手を出すことにもなったのである。
実は、チェコで自分でお金を出して手に入れた唯一のDVDが、この『ニルスのふしぎな旅』なのである。本屋かどこかで見つけたときには、あまりの懐かしさに声を上げそうになり、迷わず購入した。NHKで放送されたものそのままではなく、総集編というか、映画版というか90分ぐらいにまとめられたものだった。驚いたのは、音楽の担当がチェコのカレル・スボボダという作曲家だったことで、日本のアニメにチェコの人が音楽を提供したなんて聞いたことがないよなあと首をひねってしまった。
ウィキペディアの情報によると、日本でテレビ版をもとに劇場版が制作され、それがヨーロッパに出されたときに、音楽がスボボダのものに差し替えられたのだという。チェコでは映画館で公開されたという話は聞かないし、テレビで放送されたのも確認できていないから、チェコ語でニルスを見ようと思ったらDVDしかないのである。見かけたときに買っておいてよかった。
第七章に出てくるのは「モルバニア国」。聞いたことがあるような、ないような不思議な国名だと思って読んでいたら、ガイドブックまで出ている架空の国名なのだそうだ。モルダビアとアルバニアをくっつけたような名称だから、存在すると言われれば信じてしまいそうである。現実のどこかの国をモデルにしていても、直接その国名を使ってあまりに悪辣な存在として描き出すと問題が起こるのか、明らかにあの国だろうとわかるのに架空の名称が使用されることはままある。冷戦中は、ソ連に関してはどんな悪いことを書いても問題なかったのか、そこまで配慮されていなかったような気もするけど。
モルバニア国はガイドブックが出ているというから、それとは毛色が違って、架空の国そのものが本の主要なテーマになっているのだろう。架空の国が物語の中核をなす作品ということで思い出すのが、高野史緒の『架空の王国』である。ボーバルだったか、ボーヴァルだったか、ドイツとフランスに挟まれた内陸部の国を舞台にした物語は、現実の国であってもおかしくないぐらいの歴史的な設定がなされていて、本編となる物語よりもその歴史的な部分に熱狂した記憶がある。
その結果、中公ノベルズから出されていた「ウィーン薔薇の騎士物語」のシリーズにまで手を出してしまうことになる。森雅裕のオペラ物とは毛色は違っていたけれども、オペラをより密接に作品のモチーフにしていて、これはこれで楽しめた。架空の王国ボーヴァルもちょっとだけ登場したような気がする。
このシリーズにも、作家本人にも、ものすごく期待していたのだけど、こちらの好みが一般の読書傾向と合っていないのか、「薔薇の騎士物語」は5巻で終わってしまい、hontoで確認すると、「薔薇の騎士」以後、著書はそれほど増えていないようだ。ファンとしては外国を舞台に時代考証みたいなことをやりながら物語を紡ぎあげていくというのは大変な作業なのだろうなあと想像するしかない。
著者名で検索して一番上に出てくる作品が『カラマーゾフの妹』で、高野史緒はこの作品で乱歩賞をとったらしい。森雅裕の後輩になるのか。うーん、森雅裕的に寡作で終わるなんてことがないように祈っておこう。題名からしてロシア的なものを強く感じさせる『カラマーゾフの妹』は、ドストエフスキーやトルストイに何度も手を出しながら、そのたびに挫折した人間にはちょっとハードルが高すぎる。高校のとき、国語の先生がドストエフスキーの『悪霊』を言葉を尽くしてほめていたから、読み始めてはみたのだけどね。最初に『悪霊』に手を出したのが間違いだったのかな。
高野史緒には、フランス、ドイツの国境地帯からウィーンを経て、ロシアに行く前に、チェコスロバキアあたりで止まってくれるとよかったのにと思ってしまう。プラハはウィーンより西にあるから、ハンガリー支配下のスロバキアを舞台にした物語とかどうだろうか。テーマがマイナーすぎて出版してもらえそうもないか。
そう言えば、日本語訳が刊行されたチェコの作家アイバスの『黄金時代』を高く評価したというのが高野史緒だっただろうか。それをチェコ関係者から聞いて、高野史緒の本を引っ張り出して再読したのだった。今回も『物語を忘れた外国語』をきっかけに読み返すことになるはずである。
2018年6月15日23時45分。
2018年06月15日
『物語を忘れた外国語』後2(六月十四日)
こんなに長くなるはずではなかったのだけど、せっかくだから続ける。第二章で出てくるのは懐かしの星新一の「ボッコちゃん」である。匿名性の高い星作品は、いや星新一のSFショートショートは、日本文学の作品の中でも、普遍性が高く外国でも評価されやすいのかもしれない。同じSFでも、仏教的無常観を主題にするとも言われる光瀬龍とか、日本の土俗的な伝説をもとに伝奇小説を仕立て上げる半村良なんかは、翻訳するだけでも大変そうだし。
それはともかく、星新一のチェコ語訳の短編集が出ているのは知っていた。知ってはいたが、わざわざチェコ語で日本の作品を読むのもなあと手を出しかねていたのである。でも星新一のショートショートなら、ちょっとした新聞雑誌の記事と大差のない長さで、一篇ごとに読んでいけば、通読できるかもしれない。夏休みにちょっと試してみようかな。
星新一と言えば、ショートショートしか書いていないイメージがあるが、父親の星製薬の創業者星一の人生を描いた『人民は弱し官吏は強し』も感動的だった。日本の官僚と政治家の腐り具合というのは、今も昔も大差ないのである。共産党の時代から官僚の横暴に悩まされ続けているチェコ人には受けるかもしれない。自分がチェコ語に訳せる自信も、チェコ語訳を読めるという自信もないので、手は出さないけど。
三章で取り上げられる作家は吉田修一。この人知らんぞ。調べてみると1997年に「文学界」でデビューしたらしい。知らないわけだ。90年代に入って、いわゆる純文学系の作品には背を向けるようになっていたから、直木賞の作品はともかく芥川賞の作品は全く読んでいないのである。2000年代に入ってからの小説なんて、大学時代の友人が一箱送ってくれた本や漫画の中に入っていたものか、2009年に一時帰国したときに購入した二箱分ぐらいしか読んでいないしなあ。友人が贈ってくれた本の目玉は森雅裕の自費出版もの二冊だったから、他は何が入っていたのかさえ覚えていない。サラリーマンをやめて旅行記を書いている人の本もあったなあ。自分で日本で買ったのは、推理小説が多かったかな。
第四章は大谷崎の『細雪』である。チェコ語で『セストリ・マキヨコビ』という翻訳の題名を聞いてもどの本なのかわからなかった。発音上の要請なのだろうけど、日本語の「マキオカ」が「マキヨコ」になるのがよくわからなかったし、最初聞いたときは女性の名前かと思ったぐらいである。
この章で、師は『細雪』の中にウクライナを発見する。こういう本の読みかた大好きである。チェコ語を勉強し始めて以来、何でもかんでもチェコに結びつけてしまうのだけど、こんなことをやっているのが自分だけではないことを知って嬉しく思ってしまう。独立前のチェコ、ボヘミアやモラビアの痕跡を探して、青空文庫の古い小説を読んでみようかしらん。ヨーロッパに留学した鴎外や漱石の作品に出ているかもしれない。
それから、三島由紀夫を読んで、日本語がまだまだとのたまうロシアの人と、三島の日本語は美しいという大学生が登場する。前者はチャペクが読めなければチェコ語ができるとは言えないと言っているようなものだろうか。いやフラバルのほうがいいだろうか。チャペクはチェコ語の教科書で意味不明のエッセイを読まされて以来、手を付けていないし、フラバルに至ってはチェコ語の師匠に脅されたので、本は読まずに専らフラバル原作の映画を楽しむにとどめている。
三島の日本語が美しいというのはどうなのだろう。心情左翼だった我が読書における純文学の時代には、忌避すべき存在として読むのを避けていたのだけど、心情左翼の呪縛を逃れてから、何作か読んだ。『潮騒』とか『豊饒の海』とか、過去の名作に想を得て現代の物語を作り出した奴は、結構好きだったなあ。発想のもとになった作品があるだなんて、言われなきゃ気づかなかったし、そういう作品があるといわれれば、読みたくなるのが活字中毒人間の性というものである。かくして読書の幅が広がっていく。日本語については、読みやすい文章であったとは思うけれども、美しかったかどうかは何ともいえない。そもそも、自分に、好き嫌いならともかく、日本語の美醜を評価できるのかというのも怪しいのだけどさ。
以前、知り合いのチェコ人が三島の短編を訳していたときに、会話の発話者がわからないといって相談されたことがある。その場面には登場人物が数人いて、三つ、四つ、誰が言ったという説明もなしに鉤括弧に入った会話文が並んでいた。日本語の小説ではいちいち誰の発言かを書く必要がないのは素晴らしいのだけど、ときどき、作家によってはひんぱんに、よく考えないと、場合によってはよく考えても、誰の発言かわからないことがある。翻訳者泣かせと言ってもいいのかな。
この本についての話はもう少し続きそうである。本について書かれているから、どうしても書きたいことが出てきてしまうのである。
2018年6月14日23時50分。
2018年06月14日
『物語を忘れた外国語』後1(六月十三日)
外国語の勉強に物語を読むことを薦める本だけに、さまざまな外国語から、もしくは外国語に翻訳された作品が紹介される。冒頭の「はじめに」からして、「ライ麦畑の語学教師」という副題がついているし、これって『ライ麦畑でつかまえて』が元ねただよなあと思っていたら本文には出てこなかったような気がする。サリンジャーは……、読んでないなあ。そもそもアメリカ文学で読んだのはハヤカワのSFにファンタジー、それに一部のミステリーを除けば、ヘミングウェイぐらいなのだ。『トム・ソーヤ』は読んだけど、あれは子供向けにリライトされたものだったと思う。カポーティの『冷血』とか、題名には引かれたのだけど……。
第一章では意外なことに横溝正史が取り上げられている。映画を見てストーリーをよく知っている『犬神家の一族』を英語で読むというのである。横溝作品の英語訳はこれ一冊だけで、フランス語への翻訳の方が多いというのにはちょっと驚いた。あのおどろおどろしさはフランスのほうが受けるのだろうか。さらに驚きなのは、じゃあフランス語で読むかと書けてしまう師の語学力なのだけど。
翻訳について触れられる前に、英語字幕付きのDVDがあればいいのにということも書かれれているが、日本の映画を外国語の字幕つきで見るのは結構辛い。見るだけなら辛くはないけど、それで勉強しようなんて考えると大変である。チェコテレビが日本の映画を放送するときは、子供向けのアニメ以外はチェコ語の字幕付きである。それで何度かチェコ語の勉強のために、日本語のせりふを聞きながら字幕を読んでみるかと挑戦したことがある。あるんだけどうまくいかなかった。
原因はいくつかあって、一つは字幕を読むのに時間がかかりすぎて、読んで理解する前に次の字幕が出てしまうこと。次は字幕を読むのに集中していると、役者の台詞が耳を通り抜けてしまうこと、これは同時通訳ができない理由の一つでもある。それに字幕しか見なくなるので画面で何が起こっているのかわからなくなるなんてこともあったなあ。
チェコテレビで放送されるのは古いモノクロの映画で音質が悪かったり、最近のでも藤沢周平原作で方言が使われていたりで、集中して聞いていないと日本語でも何を言っているのかわからないことも多いので、字幕なんか読んでいる余裕がないと言うのもある。短い台詞だけならいいけど、長くなってくると対応しきれなくなる。
だから、字幕付きの映画を語学の勉強の役に立てようとしたら、目と耳でそれぞれ別のことに集中するような訓練が必要なのかもしれない。同時通訳ともなるとそれに口まで必要になるから、事前に原稿があって準備が完璧にできていない限り自分にやれるとは思えない。昔は勉強のときには、時代の例に漏れず「ながら勉強」で、音楽やラジオを聞きながら勉強していたのだけど、本当に集中して勉強できたときには、音楽やラジオの番組は耳には入ってこず、勉強が一息ついたら聞いていたはずのCDやラジオ番組が終わっていたなんてことが多かった。そんな一点集中しかできない人間には、同時に二つ三つのことに集中するなんて難しすぎる。日本語を聞きながらチェコ語の字幕を読んでいるだけでも、すぐに頭が痛くなってしまうのである。
語学を勉強するに当たって、外国語のニュースを見るのが最高の勉強になると主張する人がたまにいるが、あまり信じないほうがいい。特に語彙もたりず、周辺情報も足りない初学の頃には、一時間のニュースを見て一本もまともに理解できないなんてこともよくあった。ニュースは近くにわからない言葉を説明してくれる人がいる状態で見ないと、あまり役に立たないのである。わからなかったらつまらないから見る気もなくなるし。
その点、師の勧める映画やドラマを見るというのは、字幕が付いていなくても、ストーリーがぜんぜんわからなくても、こんな状況でこんな表現を使うのかという発見はあるし、わからないなりに見ていればそれなりに楽しめる。それに同じ映画を時間を置いて繰り返し見れば、理解できる部分が増えて自分の語学能力が上がったことを確認することもできる。
本来ならば、師の言うように日本語で見た映画をチェコ語で見るというのが、ストーリーもわかっていて近道なのだろうけど、映画好き、ドラマ好きというわけではないので、日本の作品であれ外国の作品であれ、日本語で見たものをチェコ語でも見たという作品は残念ながら存在しない。イギリスのグラナダTV制作の「シャーロック・ホームズ」のシリーズは日本でも見たけど、日本で見たのは短編ばかりで、チェコでは長編しか放送されなかったから、同じものを見たとは言えないし。モグラのシリーズはしゃべらないからさ。
そうか、チェコ映画の日本語字幕付きというのもあるのか。と思いついたはいいものの、吹き替えや字幕付きでみたチェコ映画があったかとなると、うーんである。日本のチェコ大使館で行われていたチェコ映画の上映会には、何度も通ったけれども、日本語の字幕付きなんてあったかなあ。英語の字幕付きが多くて、字幕は無視してわからないチェコ語を必死で聞いていたような記憶しかない。「シャカリー・レータ」とか「パスティ・パスティ・パスティチキ」とか、こちらに来てからはほとんど見ていない映画を見たのは覚えているのだけど……。
2018年6月13日23時40分。
2018年06月13日
『物語を忘れた外国語』中〈六月〉十二日
語学の学習の仕方について、さまざまな提言というか、ヒントになるようなことをあちこちで書かれている師であるけれども、この『物語を忘れた外国語』では、語学の勉強の一環として本、特に小説を読むことを推奨している。この考えには、心の底から賛成するし、自分でも外国語を学ぶモチベーションの一つにしていたことがある。
語学の授業で、文法的な正しさと、文法事項が現れるというだけの理由で選ばれた無味乾燥の文章を読まされるのには辟易していたし、小説好き、物語好きとしては、多少難しくてもいいし、習っていない文法事項が出てきてもいいから、読んで楽しめる文章を読ませてもらえないかと思ってもいた。
以前血迷って個人的に英語の復習をしようと考えたときに、好きな小説を読もうと丸善まで出かけたことがある。そこで見つけた当時熱心に翻訳を読みふけっていたとある小説を購入した。引き返せなくなるように、続き物だったこともあって全巻取り寄せるなんてことまでしてしまった。
それなのに、それなのに、読めなかったのである。読めなかったのは自分の英語力のなさが一番の問題だったのかもしれないけれども、ストーリーは頭の中に入っているし、何度も読み返した本なので、細部まで思い起こすこともできた。英語の文章を読みながら、これはあれのことかな、日本語では確かこうなっていたかななんてことを思い返すことはできていたのだが、読み続けることができなかった。
これは何も英語だけの話ではなくて、今現在、当時の英語よりもはるかにできるようになっているチェコ語でも同じなのである。チェコ語で書かれた文章を読むこと自体に問題はない。新聞や週刊誌の記事なんかは、わからない言葉がいくつかあっても読み通して大体理解できていると思うし、わからない言葉が全体の理解に重要だと感じたときには、辞書を引いたりうちのに質問したりしている。
だけど、一番読みたいはずの小説が読めないのである。これまで、あれこれチェコ語で小説を読むのに挑戦してきたけれども、読み通せたのは子供向けの『メリハルという名の靴』一冊きりである。もちろん、幼児向けのクルテクあたりは読めたけど、あれを読書とは言いたくない。同じ子供向けでも『俺たち五人組』は早々に挫折したし、テレビドラマの「チェトニツェー・フモレスキ」の原作みたいなのも、ノベライズも読み通せなかった。
これでは、浪漫主義言語学に続いて、師の弟子を名乗るわけにはいけないではないか。名乗れはしても、不肖の弟子にしかなれない。何年先になるかはわからないけど、次に日本に帰る機会があったら、本を贈ってくれた知人にお願いをして師に会わせてもらって、師匠とかお師匠様と呼ぶ許可をもらおうと思っていたのに、このままでは不肖すぎて師匠と呼べない。
では何がいけないのだろうと、あれこれ考えて思い至ったのが、自分の読書のしかたである。速読のやり方を学んだわけではないが、特に小説、面白い小説を読むときにはスピードが大切なのである。一回目の読書では細かいところはあまり気にせず、どんどん先に読んでいく。やめられない止まらない状態になるのが小説の醍醐味なのである。その結果、面白いとなれば、即座に二回目の読書に入り、今度はあまり気にせずに読んでいた細部を意識しながら読み進める。二回目なので細かいところまで意識してもスピードは落ちない。
外国語の読書で問題なのがこのスピード感、やめられない感で、わからない単語を無視するにしてもスピードが上がらないのである。2、3ページ読んだぐらいで、あまりの話の進まなさに本を放り出してしまう。そして、次に途中から読み始めるということもできない。日本語だと文字を一字一字追いかけていくのではなく、目の中に入ってくる塊を一度に理解できるけれども、チェコ語の場合でもそれは不可能で一語一語、場合によっては一文字一文字読んでいかないと理解できない。これが、チェコでの読書がスピードが上がらず、まどろっこしく感じてしまう理由である。
そう言えば以前、外国語からの翻訳小説が苦手だったのも、人名が覚えられなくて、いちいち前に戻って確認する必要があったからだったなあ。ロシア文学なんていまだにそれで読む気になれないし。トルストイもドストエフスキーも途中で挫折してしまって、ロシア文学で最後まで読み通せたのは、レルモントフの『現代の英雄』しかない。うーん、やっぱり不肖の弟子である。不肖を返上するためにも、チェコ語の小説、できれば歴史小説を読み上げるのを目標にしようか。一生の目標になりそうである。
2018年6月12日22時55分。